Tuesday, October 27, 2009

〔責任論〕第八章 良心と責任の葛藤と調和

 文学をも含めてあらゆる芸術表現とは希望である。希望の表現である。それはあらゆるシニシズムも、スケプティシズムも含めてそうである。しかし科学は時としてそのような楽観的な人間の希望を打ち砕く。例えば愛する者の家族は彼(女)の生存を願う。しかしそれに対して戦場に赴いた者の戦死を告げる広報と同様無残に病魔に蝕まれた者の近い死を医師によって宣告される。科学は説明責任を負ったものなので、希望に押し流されてはならない。しかし同時に科学に携わる者は皆家族の選択、例えば病人当人に身近に迫った死の現実を告知しないという家族の選択を尊重する。医師はこういった局面では明らかに良心に従って言動を選択している。
 だからこそ芸術は現実はこうであるが、「こうあって欲しい。」と叫ぶし、またその権利がある。しかし責任というものは希望を叫ぶことは許されない。自分には出来ないことを正直に出来ないと告白し、報告すること、あるいは自分が知らないことは正直に知らないと告白し、報告することが業務上では求められる。それを怠ると罪に問われることさえある。だから責任と良心とは多分に重複し合うが、同時に時として遊離することもある。そしてその現実を知る人間はこの二つを時と場合に応じて巧みに使い分けることが出来る。またその能力こそが人間の社会において言語活動を齎した、あるいは言語活動それ自体が必然的に社会を齎したと言えるかも知れない。
 少なくとも人間が認識レヴェルの数多くのパターンを獲得するという事実、例えば大勢の人間を別々の人であると認識することも含めて、そういう能力の獲得は、ただ単に生活上の必要性からだけではなく、勿論それも大いにあるのだが、責任と良心の重複と遊離というような複雑な相関関係を理解する能力に発しているとも考えられる。例えば前章において私は人間には言語的な説明の可能な事項と、そうではなく説明不可の事項があると言った。そして恐らく初期言語獲得期の人類は既にそのような弁別能力が認識レヴェルであったと思われるのだ。つまり言語説明可能事項と不可能事項の弁別、そしてその双方に対する認識能力が人間を他の動物以上の文明化を齎したと考えられる。そしてここが重要なのであるが、言語的説明可能事項も、不可能事項も、共に内的理解という観点からすれば明快である、ということである。例えば私たちの日常から考えても論理外的に正しいことというのは理屈ではないし、美しいことというのも説明不可である。人間の魅力もまたそうである。だがそれは決して不明快ではないのだ。
 例えば愛情というものは言語による説明が不可能な事項であることは誰しも認めるところであろう。だから逆に完全犯罪をして家族を殺したりする犯罪者は知性的レヴェルでは誰よりも研ぎ澄まされているのであろうが、実際彼等の知性を育んできたものこそ彼等が放棄した理性だったのである。
 愛情が説明不可であるという事実は、愛情というものが論理と倫理双方の出発点であることを示している。論理と倫理が唯一一致する地点が愛情であると言えるだろう。と言うより愛情のない地点からは論理も倫理も生じるということはない。
 しかし同時に言語的説明不可であるということの確たる認識、つまり説明不可の根拠の明示の不可能性に対する認識は、責任倫理とそれを内的に生じさせる良心をも言語化しようという欲求なしにはあり得ない。結局言語的説明不可性とは概念、つまり感情への認識という事態が先験的に存在していなければならない。何故ならもし感情それ自体を認識することがなければそもそも意味という概念は存在し得ないと思われるからである。
 意味とは事物や対象に接する知的存在者が抱く心的な作用である。ある事物が自分にとって身近なものなのか、それともそうではないのか、あるいは我々人間にとってそうなのか、そうではないのか、あるいは自分にとって大切であるのか、そうではないのか、あるいは生物にとってそうなのか、そうではないのか、という認識レヴェルでの把握能力こそが意味を産出するからだ。
 動物にも感情はある。しかし彼等には恐らく人間ほど明確に感情それ自体を認識することは不可能であろう。もし彼等にそれが可能であるなら彼等にも彼等なりの文学や芸術というものが存在し得るであろう。そしてそれは明らかにビーヴァーのダムとかそういうレヴェルの事物‐環境的な表現型ではない。もし仮にあるとしたら、作品ではないだろうが、音楽的な喜びというものならあるかも知れない。(リズムだけの認識だろうが。)
 もし犯罪者というものを病理的な根拠から定義付けるとしたら、私は言語的説明不可事項の存在に対する認識が内的理解という面から不明確であること、明快ではない、という一事に尽きるのではないだろうか?
 
 暫く観点を変えて考えてみよう。
 もし今私が私たちが意識を有しているようにひょっとしたら空間とか時間それ自体にも意識があるのではないか、と言ったら恐らく大半の科学者は私を発狂したと捉えるだろう。勿論人間と同じような意識というものを空間や時間に付与して考えることには無理がある。しかしもしかしたら我々が意識と呼んでいるものの起源となり得るような何らかの原始的なエネルギーがあるかも知れないと仮定することはそれほど突飛な発想であるとも思えないし、またそういうことを可能性の一つとして残しておくこともまた全く無意味であるとも思えないのである。
 本来自然科学は二次元であれ、三次元であれ、それ以外のことであれ、視覚的に確認し得るデータ的な確証のないものは認められないというスタンスを取り続けてきたし、またそれだからこそ信頼に足るものであり続けてきたのだ。しかしそもそもその視覚的なデータというものさえも人間が拵えた機械や認識的方法に頼っているのだ。例えば数値を考えてみよう。数値というものそのものは自然界には記号としても自然自体の認識にもない。勿論向日葵の花の種に介在する数学的なシステムとかそういうことというのはあるだろうがそれを数字として表現することそれ自体は人間によるものである。そもそも数学自体はただ単に視覚的に確認出来るデータというものとも違う。尤も数学は自然科学ともまた違うという意見もあるが、それでは数学的な認識を使用している自然科学は全て虚妄ということになる。また20世紀以降の化学や分子生物学、生化学といった分野では視覚的に求められるデータ解析が重要になってきたことは確かだが、同時にガリレイやニュートン、マッハ、マックスウェル、アインシュタインといった物理学の偉人たちはただ単に実験的なデータだけではなく、大胆な推測と予想に基づいて仮説をしたからこそ偉大な業績を築き上げたとも言える。そもそも理論物理学は視覚的な確証といったレヴェルからは存在することすらあり得なかったであろう。
 つまりこういうことである。必ずしも自然科学的な方法による立証だけが正しいとは限らないということはあると私は思うのだ。例えばただ単に空間に意識があると言うと、どこか霊魂の存在を認可するような気配を多くの科学者は感じ取ってしまうからこそ彼等はそういう言辞を極度に警戒するのだろう。しかしプリーストリのような化学者は同時に極めて神学的な認識の優れた哲学者であったし、また理論物理学者であり、同時に生物物理学者でもあったエルヴィン・シュレーディンガーは極めて示唆的な哲学的テスクトも残している。そこにはどちらかと言うと外見的には神秘主義的傾向すら認められる思念が渦巻いている。少々長いが、彼が残した文章から引用してみることにしよう。
「アルプスの山岳地帯における、とある道端のベンチに君が座っているとしよう。君のまわりに一面に草の茂った斜面があり、あちらこちらに突き出た岩がいくつも見えている。(中略)そして君と向かいあって、深遠の幽谷からそそり立っているのは年雪をいただいた高く力強い山頂である。(中略)
 君が見とれているものはすべて_われわれの通常のものの見方によれば_君が存在する以前から、少しの変化があったものの、数千年もの間ずっと変わることなくそこにあった。しばらくのうちに_それはそう長い間ではない_君はいなくなったのちも、数千年も変わることなくそこに存在し続けることであろう。
 かくも突然に無から君を呼び覚まし、君になんの関係もないこの光景を、ほんのしばらくの間に楽しむようにさせたものは、いったいなんなのであろうか。考えてみれば、君の存在にかかわる状況はすべて、およそ君の存在ほどに古いものである。数千年もの間君たちは奮闘し、傷つき、子どもをもうけ、はぐくんできた。そして女たちは苦痛に耐えて子を産んできた。おそらく百年まえに誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちに心を秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。君と同様に彼もまた父から生まれ、母から産まれた。彼もまた君と同じ苦痛と束の間の喜びとを感じた。はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのだろうか。彼は君自身、すなわち誰か他の者ではなかったのか。君のその自我とはいったいなんなのだろうか。君が、すなわち誰か他の者ではなくまさに君が、この世に生を享けるために、いったいどんな条件を課す必要があったというのか。はたしてこの「誰か他の者」とは、明瞭な科学的意味をもったものなのであろうか。いまの君の母親である彼女が、父ではない誰か他の者と夫婦生活をし、彼によって息子を得、君の父親が同様のことをもししていたとしたら、いったい君は生まれていたろうか。それとも君は、君の父親のなかで、あるいは父親のそのまた父親のなかで生きていたとしたということになるのか.....すでに数千年もの昔から。たとえそうであったとしても、なぜ君は君の兄ではなく、君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い_君と誰かの違い_をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。
 このように観察し、また考察した結果、君は、かのヴェーダーンタ哲学の根本的確信には十分な妥当性があるということを、即座に理解することになろう。つまり、君が君自身のものと言っている認識や感覚や意志からなるこの統一体〔=君自身〕が、さして遠い過去ではない特定のある瞬間に、無から降って湧いたなどということはありえないのである。この認識や感覚や意志は本質的に永遠かつ不変であり、すべての人間に、否感覚をもつすべての存在〔=生命体〕において、数量的にはたった一つのものなのである。しかしそれは、君が永遠にして無限の存在〔=最高神若しくは創造神〕の一部分であるとか、スピノーザの汎神論が説いているような、この存在のある局面、あるいはその様態的変容であるとかという、そのような意味あいにおいてではない。というのは、そこでまた同様の不可解な問題が残されるからである。すなわち、君はその存在のいったいどの部分であり、またどんな局面であるのか。さらにまた、これを他の部分や局面と客観的に区別するものはいったいなんなのであるのか、といった問題である。私の言わんとすることは、このような汎神論などではなく、通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君_そして意識をもつ他のすべての存在_は、万有のなかの万有だということなのである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味あいをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。ただこの全体だけは[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat twam asi=其は汝なり)という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。_それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは金世界なり」という言葉としても表現された。
 かくして君は、大地とともにあり、大地は君とともにあるという確かな信念をもち、その身を大地に投げ出し、母なる大地に五体当地する。君は大地のように、否それにもまして幾千倍も金剛不壊である。確かにあした大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を産み出すことであろう。それはいつの日かということなのではなく、いま、今日、日々に大地は君を産み出すのである。それも一度のみならず幾千回となく、まさに日々君を呑み込むように、大地は君を産み出す。なぜなら、永遠にそして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、現在とは終わりのない唯一のいまなのであるから。
 この永遠のいまという(人々が、自らの行いのなかでめったに自覚することのない)真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなのである。それは気高い人に、彼自らが善きものと認め、あるいは信じている目標のために、ただ命をかけさせるのみならず、_これはきわめてまれな場合だが_たとえ彼自身の救われる見込みがまったくなくとも、自若としてその命を捨てさせることさえある。そしてこの真理が_おそらくこれはさらにまれな場合だろうが_善行者の手をとり導いてゆくこともある。すなわち彼は、見知らぬ人の苦しみを救済するために、来世における報酬を期待することもなく、自分の苦しみをもってしか分け与えられないものを、その人に捧げるのである。(「わが世界観」ちくま学芸文庫97~101ページより)
 このシュレーディンガーの最後の一節は私が提示したあのC集団首領の、部下の言うB集団首領のことを信じきっていいのかという進言に対する「いや騙されてもいいのだ。信じないで後悔するよりは信じて後悔する方がよい。」という良心の発動と、「自分で決心して失敗する方が人から薦められて決心を曲げて失敗するよりもましだ。」という価値判断にも相通じる。自己犠牲は合理的判断からすれば、不合理で説明は尽かないことなのにもかかわらず、それをしなかった時には後悔するという咄嗟の判断で行う行為である。それは生を存在させるためだけではなく、時には生をも省みないという行為が、生を意味あるものにするという決心の所在を示している。しかし我々もまた岸壁の岩や、海岸の砂浜のような存在なのかも知れないという思念はこのシュレーディンガーの言述によって容易に誰しもが一度はそういう思念に囚われたことがあるという事実を想起させる。
 その想起事実は逆に砂浜の一部や、岩石中の粒子の一部にもまたある種私のこの思念を生じさせる身体を育む起源的なエネルギーを産み出す素地が鍛え上げられているのだ、という先述の私の仮定を正当化する。
 我々は数値的事実をあらゆる自然から読み取ってきた。にもかかわらず私たちはその数値を与えてくれた自然そのものの崇高さをややもすると忘れ、逆にそれを発見した者の知性に感服する。しかしこれは考えてみれば極めて卑小な現実に甘んじる人間の傾向性のなせる技でしかないのかも知れないのだ。自然は私たちをも含み、その自然のシステムの一部であり、自然全体のメカニズム自体を内包した我々の身体それ自体が、驚異であり、その数値的な発見を私たちの誰かに付与させた自然こそ偉大なのである。その時後述することになる自然に対する我々の態度がどうあるべきか、という私たちの基本的な哲学に自然が実は常に一撃を与えてきてくれているのだ、ということを私たちは知るのである。
 我々には良心がある。しかしそれは私たちが言語を獲得し、それを通して考えたからそれがあるのではない。言語を通して我々の中にア・プリオリにあった能力が言語を通して我々によって確認されているだけのことなのだ。そして数値的事実によって知らされた我々自身をも含む自然のシステムの法則は、私たちによって発見させられるように自然によって予め仕組まれた技である。それはどのような優れた名匠、名工によってもなし得ない技ならぬ技である。
 しかしもしC集団の首領が自分の判断でB集団の首領に裏切られたとしたら、彼は即座に退官し、あるいは命を集団全体の犠牲のために供せねばならないかも知れない。実は極めて人生はこのような良心内での葛藤が我々の決心を鈍らせ、我々の決心を後押しするのだ。責任をとることとは良心を貫くことでそれが功を奏してなされることもあるし、今の例のように良心が仇となり「部下の言う通りにしておけばよかった。」と言うような先見の明のなさによって失敗の責任を取らなくてはならないこともある。しかしいずれにせよ自己判断で成功しても失敗しても、他者の誘導によって成功したことよりは後悔はないのではないか、と私は思う。もし仮に他者の誘導によって成功したとしても終生その他者に対する負い目は残るだろう。しかし自己判断で失敗したのなら、少なくとも負い目だけは残らない。シュレーディンガーが言う最終節の自己犠牲の例は明らかに、負い目のない未来という不確実に対する拮抗という行為選択が主張されている。実際あらゆる事物でさえ、事物としての充足には何らかの負い目のない未来不確実性に対する拮抗という目的をそれなりに達していると考えることさえ出来るのではないだろうか?

No comments:

Post a Comment