Monday, October 27, 2014

シリーズ 愛と法 第十三章 種と愛の在り方

 重要な事とは、私達は普遍という事を念頭に生きていく訳ではないという事だ。普遍とは私達一個一個の個にとって具体的であらゆる固有の条件を背負って生きていく上で人生の途上の何時か何等かの瞬間に悟る様なもので(と言ってそれは何かそういう価値あるものとして見出さなければいけない様なものでなく)、悟る事に拠って生きていく上での自信とか安心を得るだけの事であり、例えば私なら日本のある場所に生まれ其処に何年か居て別の場所へ引っ越しという様な極めて具体的な私自身が幼い頃には私自身の力ではどうにもならない外部からの強制に拠って、その限定的条件の下で成長していかざるを得ず、その固有の条件自体へ好き嫌いとか不平不満等言い様もないものである。
 つまりそういう風に誰しもが付与された(付与する者が神であれカミであれ仏であれ何であれ)固有の条件下で我々は生きていくとは何かを自分なりに見出していく他あり得ず、普遍が最初から与えられている訳ではないという事だ。
 日本では前世、来世を論う仏教は奈良時代に定着していった訳だが、遣唐使等の施策以前的に国家規模の統一を図るものは神道だった訳だが、神道は現世的宗教であり、死者を穢れとして捉える。従って天皇等の古墳(墳墓)は須らく生者の近寄っていくべき場所でなく、死の穢れを鎮める意味合いがあり、神社でお祓い等の祈祷をするのも、当然の事ながら死への穢れを祓う意図のものである。死者の鎮魂や供養は仏教が担ってきた。それでも日本では神仏混淆であったが、明治政府に拠り神仏が分離される運びとなって現在へ至っている。
 対し台湾では明治政府的な神仏分離的意図が政府に拠って為された事がなかった為に江戸期以前の日本同様、神仏は今も混淆的である。しかも中国では毛沢東の文化大革命に拠り仏教寺社等を破壊して無宗教的国家へ再生されたので、今ではそれ以前の中国の宗教伝統的文化の名残は却って台湾か香港に残存するという訳だ。
 中国大陸では長江(揚子江)を境にそれより北では仏教が、それより南では道教が一般的に文化的に強く、道教では神仙思想と老荘思想とで役割分担され、前者では大極という中心(渦巻き的システム。此処等辺は極めてワトソンとクリックの二重螺旋を彷彿させる)を持つ陰陽五行等(日本では安倍晴明に拠る陰陽師として継承されてきている。神戸に唯一道教の寺がある)の風水等の方位学的知見等を生んできた訳だが、日本の神社でも大きな建物を神宮と称し、それ以外を神社としている様に台湾では、大きなものを宮、小さな一般的な神社的役割のものは廟と称している。
 仏教はそれ以外でも台湾でも存在し、その点では明治政府神仏分離以前的な日本と今の台湾は酷似している。
 宗教伝統的格式とか風習とかは好き嫌いを問わずどの国でもどの地域でも誰しもが幼い頃から自然と身に付けており、それは個人の選択以前の問題である。個人の自由意志とか選択とかは、あくまでそういった強制的などの自己にも課せられる運命的な条件(生まれてくる時に男女とかトランスとかの条件がある様に)を付与され、誰しもがそれを背負う形で成長していく過程で理性とか道義とか正義とか倫理とかを学ぶ内に自ら掴み取っていくものとして後発的に意識されるものであり、その理性的な判断とは、あくまで誰しもが逃れられない個に背負わされた、付与された固有の条件というものの上で成立するものなのだ。
 田辺元はその事に就いて師の西田幾多郎からの教えや訓示以外でも懊悩し、『種の原理』を著したが、それが戦争を正当化する軍部に利用され、その事実への贖罪心理から戦後直ぐに『懺悔道の哲学』を著した。だが彼の内部での信念は理論的な意味で種という発想自体を否定するものではなく、あくまでそれへ軍部利用されていったプロセスに内在する自分自身のどうする事も出来なかった運命へ必死に懺悔に拠って抵抗を試みたと言う事が出来る。
 田辺が大きく後年啓発されたハイデガーは既に田辺的な観念には若い頃に到達していた。田辺はそれを発見する事で、ハイデガーと自分とを比較検討したりして、最終的にはハイデガー批判をも兼ね備えた理論と論理へ到達した。
 ハイデガーは『存在と時間』で既に今日の分析哲学が現象性として考える個の他者との間のどうしようもない孤絶性を死というものの主体にとっての逃れられなさと、他者から介入される事の無い事を、唯主体的な責任付与的運命の下に描出していた。
 その後の著作である『現象学の根本問題』ではその主体の運命を実在論として存在論として、本質存在(エッセンティア)と事実存在(エクシステンティア)という風に二分させ概念設定する事でその主体の運命的な条件と生きるという事の真理を見出そうとした。ハイデガーは愛という様な語彙は使用しない。哲学として存在論としてそういう判断を哲学では保留するという事が一つの哲学者固有の自己判断であり倫理である。科学者も今度は倫理それ自体を論じないという倫理がある。それは科学者の領分ではないという自覚に拠ってである。
 つまりそれこそが主体のどうしようもなく背負わされた運命であり、固有の個としての条件であり、普遍は或いはその逃れられなさに於いてのみ誰しもに拠って実感され得るものかも知れない。愛もそうである。それはキリスト教の様にそれ自体としてダイレクトにイエスやヨハネに拠って言及される場合でも、哲学の様にそれ自体として論われる事を保留される場合でも、誰しもが固有の条件からは逃れられないという運命的な個の他者からの隔絶、孤絶その事を言うのかも知れない。
 つまり主体の運命、命運的な固有条件、絶対的に一回性的な出来事や背負わされたものの孤絶性、隔絶的孤独の持つ本質的には他者に委ねる事の絶対不可能性に於いて、真理とか普遍というものが考えられるなら、愛も又公的な道徳として如何に説得力を持って説かれても尚、最終的には主体の自己判断、自己決裁に拠って履行していかざるを得ない一つの他者への手の差出、与えるという事の行為実践である。自分の心の中のどういう状態を他者へ何かを差し出す、与えるという事を意味するかは、終ぞ誰から教わるものでも、教えて貰い納得するものでもない。
 それは率直に自己で何かを為して精神的に充足しているか否かの自己判断にのみ委ねられている。他者の愛が自己の愛と相同であるかとか、自己の愛が他者への差出とか与えに値するかを他者に判断して貰う様なものではあり得ない。つまりその判断の主体へ全面的に委託されたという意味こそ、愛の本質である。愛の本質は従って法それ自体の目の行き届くものではない。何故なら法は目の行き届く範囲に常に留まるからだ。しかし如何に他者から感謝されようが、如何に法的にその行為は愛に値すると迄判断されようが、その事と自己内の精神の充足とか悔いが無いのかそうでないのかとは別個の事である。
 キリスト教で説く愛が他者への与えであるとしたら、それは他者が自己に拠って与えたものをどうするか、どう受け取るか自体が他者へ委ねられ、その部分での決裁に関し与えた者もどうする事も出来ない、それを踏み越える事の互いでの出来なさこそ一つの主張であり、キリスト教的悟りと言える。キリスト教は一般社会的な法を説いているのではない。しかしキリスト教的愛の法があるとしても尚(それを一つの愛の与えとして受け取ったとしても尚)、それはその与えに対する受け取りに関して、何人たりとも越権する事が出来ない、それは神でもである(その事は永井均が『私、今そして神』で述べていた事である)という一種のどうしようもない我々全体への突っ放し以外ではない。
 このある種の主体という事、現象的な私という事の内でしか個の精神的充足感を認める事の出来なさの神さえもの踏み越えられなさに対して現代哲学は提言しているのだし、宗教伝統文化慣習もその事を恐らく太古より習熟していた筈であり、民主主義とか社会倫理とか言っても、それは外在的法でしかなく、内在的な法以前的な主体の自己判断性は誰しもが誰からも踏み越えられ得ず、踏み越え得ず、その突っ放しそれ自体の中でしか全ての愛への論議は為され得ず、それを認める処からだけ、この様に論述している言語自体も運用され得るのだという事以外ではない。(つづき)

Wednesday, October 15, 2014

シリーズ 愛と法 第十二章 宗教のアヘン性と聖書/科学の時代の逆行不可能性

重要な事は、愛が意外と制度、我々が誠実だと思ったり、正義だと思ったりといった外的強制と無縁には成立していない、何故なら我々が社会で生活しているからだと納得しても尚、それだけでないもっと絶対的純粋な信念はあり得るだろうかと問う誠実性が哲学者的立場の人達だけのものであり得るかと問えば、そうでないし、哲学者とは只単にそういうロールとして社会で(好かれているとかそうでないとかとは関わりなく)認定されているに過ぎず、哲学的思念、思索は誰しもが持てる筈だし、それを「哲学」としてでなく人生上での対自的訓戒として生きていく場合、愛が慣例的慣習的な儀礼性としてだけでなく、もっと自己信念とダイレクトに絆を持ち得るある種の信仰にもなり得るものと捉えれば、そう捉える仕方も決して特権的な思索ではないと分かる事である。
そもそもキリスト教の場合は愛の在り方そのものを社会儀礼性や慣例性、慣習性から切り離して、それ自体の価値を問う試みとしての宗教でもあった。キリスト教自体(イエスもヨハネも含めて)、従ってパリサイ人、律法学者達にとって危険思想そのものであった。イエスやヨハネの行っていた事は、パリサイ人や律法学者達が考えている様な職業とか社会、つまり閉じたコミュニティで承認されている地位としての行為ではない愛の在り方を説く、哲学者風に言えば誠実性の問いだったからである。
しかし実際実利的な方向に宗教文化とは裏腹に人類は歩んできた。社会機能維持インフラの全ては科学的知に支えられて進化してきたと言える。交通機関がそうであるし、貨幣経済の合理主義的経済秩序がそうであるし、教育をはじめとする全ての社会文化インフラがそうである。寧ろ愛の誠実性的在り方を説く宗教とは、そういったインフラ整備へと人類が邁進する事になる基盤としてはどの国家民族でも必要であったものの、それが確定的に文化様相として不動点、つまりふらふらとどっちつかずでいるより、何処かに定める(例えば此処は祈る神聖な場所であるとか、此処は糞尿を排泄する不浄の場所であるとかの)地点に到達すれば、既にそれは儀礼化されてしまい、後は具体的なインフラ整備へと人類の視点は移行していった。つまり科学がそういうインフラ整備の為の方便を得て具体的に始動してしまえば、既に儀礼的なああでもないこうでもないという試行錯誤は停止され、具体的行動へと意識のアスペクトが移行するのだ。
従ってそうなってしまった後に、否キリスト教の教えの誠実性は可笑しい、本当はこうであるべきだと言っても、それは全て危険思想と見做される。それは日本の様に仏教的思想文化の移植、儒教文化の移植を執り行って来た民族でも神道的な清めや不浄さへの忌避等の想念は変わらず規定し続けるのと同じだ。 現代社会で生活する我々は宗教が世界を引率するには、余りにも科学の恩恵を得過ぎた。科学への日常的な安穏な肯定こそが我々の宗教儀礼性さえ文化として認識する自然な信仰だと言ってさえいい。
科学への信仰の正当性への疑いなさこそが宗教戦争に明け暮れた中世以降は、試行錯誤の時代ではないと警鐘を鳴らす信仰であり続け、それが少なくとも世界大戦の時代以降は定番となってきている。宗教で人類史を打開させる事を少なくともキリスト教文化圏と日中韓、北・東南アジアでは(イスラム教文化圏以外では)忌避されている。其処では民主主義が一応体裁上では北朝鮮、中国を除き宗教で駆動させる国家機能、社会機能ではない(そう考える点では北も中国もそうである)事を証明する為の方便となっている。
キリスト教のユニヴァーサリティと我々が勝手に受け取っている事は、そういった国家社会集団の不文律的な慣例性慣習性から解放されて尚価値を容認されるものとして愛の在り方を個人の選択として受け取ろうという事が、勿論其処には民族伝統的思考回路もあるのだが、主題としては唱えられていたという認識なのだ。従ってマルクスが宗教とはアヘンであると言った時、それは暗にキリスト教さえ懐疑的俎板に載せてよいのだとしているが、それはそういう思考が発生し得る地点にやはりキリスト教の唱える個人の選択(儀礼的規約外的な個人主義宗教説諭)を前提していた、と言える。聖書は旧約の段階では通史観的ユダヤ民族選択物語であり、その歴史的事実の持つ人間実像への解釈が主題であるが、新約聖書ではそれを通した愛の在り方の理性論的規定、つまり定言命法示唆としての問答が中心なのだ。
その意味では今日我々が社会正義として受け取っている民主主義、自由平等友愛とは全てキリスト教新約聖書中心主義的、つまり聖書問答の弁証法を基本としたものである。其処に疑いを持つ事は基督教的には異教者という事となるのだ。従ってもしキリスト教さえも一つの選択肢でしかないと受け取ればゾロアスター教、マニ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、道教、儒教、神道といった全ては対等となる。すると当然イスラム国の思想そのものも、イスラム教から派生した一つの思想ともなってしまい、それ自体完全存在否定は出来なくなる。それをも哲学的誠実性やキリスト教の個人選択、愛の在り方への問いは思考する自由は与える。
勿論イスラム国的仕方は決して正しいとは言えない。そう我々は直観する。だがそう言い切る為の根拠は自由でも愛でも、それ自体を誠実に個人に問えという形での問題提起に尽きる。自由や愛の在り方自体を問う事の自由迄我々は規定してしまっているのだ。問う事の自由をアナーキーに保証し得るとしたら、しかし何でも思想としては在りとなってしまう(哲学では何でも在りなのだが)。それは可笑しいとしか思えない。しかしそれが可笑しいと言い切る根拠を問わずして何になろう、と自由が規定(?)する自由に自由や愛をさえ考える事を保証する理性がそう囁く。しかし本当にそうなのだろうか?そういうある種の経済や国家に関して思想実践したマルクス主義的な思考実験の愛版、自由版が今も尚有効だろうか?それは当然科学こそ正義であるという観念に対してさえ差し向けられ得るだろう。
次回はその問いに対して、まずキリスト教以外の宗教の死生観から考えていってみよう。

Thursday, October 9, 2014

シリーズ 愛と法 第十一章 定言命法は誠実性を超える(前回の補足的意味合いから)

 ニーチェが言った誠実性とは、自分が思っているのに思って等いないと言い切ってしまういい子ぶり批判でもあった。それはイエスが息子二人に何かを頼んだ時快諾する息子を誹り、一度は断った息子を肯定する時にも適用されていたし、イエスは<リア王>のコーディリアスの様な誠実さを認めたのだった。
 しかしそれは前回の結論としてはイスラム国に参加する事だって自分で正しいと思えば正しいのだという決心へも繋がるし、それを否定出来ない。誠実性とはそういう危険性も実際にはある。
 にも関わらず我々はイスラム国に参加する事は良くない事である、とは哲学書や思想書に書きはしないだろう。何故なら今の所そういう活動に身を投じる事は危険分子として見做されるが、やがてそうでなくなる時期も来るからそう書いてはいけないのではない。
 どんな時代や状況が到来しようとそういう風には書けないのだ。つまりそれこそが文章化する事での誠実性と言えよう。 つまり生まれてきた国が日本だったから、それは如何様な理由があろうと処罰され得るから避けておこうと皆思う様な場合、それをいけないという風に書けないのだし、もし自分の身内にイスラム国の参加者が居て、しかもそれが民族的にもイスラム教徒であった様な場合、それをいけないとも言い切れない。イスラム国自体に問題があろうと、それを生み出したイスラム教圏自体にはそういったテロ集団を生み出す土壌自体が存在したという事だけは間違いない。
 前回の重要な議題でもあった<与える>とはつまりそういう事である。与える事の本質とは受け取る側(者)の主体と自発を促し、責任を相手へ委ねる事、つまり相手の意志(自由意志)と主体を信用する事が基本としてある、という事だ。それは愛の基本である。
 だからその愛の仕方、方法、つまり法はそれ自体その都度それを考える主体に拠っても変わり得る。イスラム国をいけないとか否定する論理自体は(そういう風に判断する自分が日本人だから)というそれ以上の是非を論じる暇は誰にもない。だが自分自身の国際正義や社会正義や人倫的正義としてはそうでない、だから敢えてその活動に身を投じるという意志自体は否定出来ないが、そうしなければいけないという何か外部からの圧が無意識に発動されているなら、それは考え直した方がいいとしか言い様がない。それらその都度の判断こそ法である。
 従ってカントの言った定言命法とは、ニーチェの言った誠実性より上位にある。何故なら誠実性とはあくまである選択肢を取る時、その選択肢が正しいと自分自身で思うからと根拠づけるだけだからだ。だが人は理性自体さえ常に正しいと言い切れないとカントを通しても知っている。つまり正しいと思えないから正しくないとか、正しいと思うから正しいのなら、自分自身が健全な判断を下せない時に、その下せなさ自体に誠実であるなら、それはそれが正しいと思っているのだから(健全な判断を下せる様になったら、それは正しくなかったのだ、と後で振り返りそう思えてしまう様な事であっても)正しくないとは思えない、それが本性だからだ。
 だからこそ誠実性とは自分自身の刹那的な誠実も含むが故に、且つ定言命法の様に一歩引き下がって、デカルトの様に自分自身のものだと思っている様な当たり前の事さえ、自分自身の判断ではないかも知れない、と疑う様なコギトを巡る真理さえ見据えているが故に、誠実性とは刹那的な自分自身への正直さという意味で、定言命法には劣ると言える。 誠実性は定言命法へ適用されて初めて意味があるのであり、定言命法なき誠実性は、イスラム国は正しいと思えば正しいという判断も正当化してしまう。
 イスラム教圏自体には恐らく問題がある。それは日本社会にも韓国社会にも問題があるのと同じ様にである。しかしそれだからと言ってイスラム国の仕方は正しいと言い切れば、当然連合赤軍もオウム真理教も正しいという事になってしまう。
 しかしイスラム国内部で生まれ育った者はそういう事さえ聞かされる事なく生き方を決めなければいけないだろう、しかし少なくとも哲学の言っている誠実性とは、その事迄語られてはいない、否聖書にさえも。
 そして定言命法はイスラム国内部で生まれ育った未来の青年の様な立場でも、日本人として生まれた未来の青年の様な立場でも、それぞれ自分自身にとってその都度一番正しいと信じられる事を、理性的に格率に従って考えて判断せよ、という定言命法だけは等し並に(与えられる)だろう。
 何故なら与えるとはあくまで真理だけを述べ、その真理にどう従うかは責任として(与えられる)者に委ねられているからである。

Wednesday, October 8, 2014

シリーズ 愛と法 第十章 根源悪(根本悪)とキリスト教

 聖書で<貧しい人は幸いである>と言う時、得ようとだけする人を悪の入り口に立ち、偽る人もそうであり、逆にそうでなく偽らず、真っ正直な気持ちで居る人(つまり与え様とする人)は神と対話し得るとそう考えている。ピーター・ミルワード神父は日本在住者で日本語に翻訳された多くの著作もあるし、原文でも本を出している。其処(<イエスとその弟子>講談社新書、別宮貞徳訳)から読み解いてみよう。
 二人の息子の父からの頼みに対する返答で<イエス>と返答した息子が前者で<ノー>と返答した息子が後者としている。シェークスピアの<リア王>の娘コーディリアこそ前者であり、ゴネリルは言葉巧みにリアを惑わしその実裏切るので後者である。シェークスピアは聖書を踏まえて書いているとも取れる。
 <貧しい人は幸いである>は甘言を弄す事もなければ、得ようと貪る事もなく、従って実直であればこそ甘言に拠って得る事は少ないかも知れないが、明らかにその実直さで他者に与え得るものがある。つまり聖書は基本的に得ようと思い欺瞞的で偽善的な取り繕いを弄す事なく、自己利益から言えば失わせてしまう誤解も恐れず、勇気を持って自らの悪を噛み締めて生きていくという事に外ならない。
 しかし我々は真っ正直に嘘偽りなく与えようとする者に現代社会で直面すると臆してしまう。怖くなってきてしまう。つまり其処に我々の生来の功利主義が控えている。カントが根源悪(或は根本悪)と呼んだものとは、功利主義的な安泰だけを願う勇気の無さが素直な他者の行為をさえ悪辣な甘言と受け取ってしまう事、それは結局自らが悪辣で功利主義であるが故に他者全体に対してその本当に素直な心もあるのだ、という事(勿論そうでない真に偽善的欺瞞的な事もある訳だが、それ等の違いを見抜けず)から、一律に他者全般へ不必要に懐疑的になり、甘言的取り繕いの応酬だけに依存して、それが心地良くなっていってしまう惰性的行状を言っているのだ。
 愛なんて信用しないという事、つまり惰性的打算的繋がりに安心を得てしまう事、それは勇気を持たず真理を見つめる事なく、曇った悪こそ救われる的な(それは親鸞に拠ると<歎異抄>では真理なのだが)悪しき開き直りで社会機能維持に貢献し得ていると錯覚する事を言っているのだ。
 愛は信用出来なくなればなる程観念性を帯びる。何故なら愛を信用しなくなった者とは素直な他者の好意を受け取れなくなるからだ。
 大人的な態度という観念程曖昧なものはない。儀礼的に失礼のない様にだけ振る舞い、一切の他者への感謝の念もなければ、協力もし合わないという選択肢が一番気楽でいいと考え生活出来るくらいに日本もそうだし、一定程度の先進諸国は社会秩序的には安定している(勿論時折凄く凄惨で残酷な犯罪も起きるが、それはかなり件数的には稀であればこそ大きく報道される。又自然災害的な悲惨さとは現代社会にだけ特徴的な事ではない。勿論地球温暖化に拠る悲惨な状況、或いは地殻変動的な地震や火山の噴火等もあるが、それさえ固有の現代の自然的傾向はあるものの、古来同じ様に勃発してきた事でもある)。
 愛が儀礼的な取り繕いへの安穏とした安心だけとなってしまった時、それはたとえセックスをしても、抱きしめ合っても或いは心は虚ろであり、素直な他者への信用、信頼、憩いはない。それは義務感であり善意であり、形式的秩序だけを維持したいエゴイズムである。これはハイデガーの言う頽落の中でも最低であるにも関わらず、経済生活的な安定からは意外とそういう悪しき現実主義だけが形として残って、その安定性の上で真理探求への向上心を失っていく。
 聖書の思弁性とは旧約聖書の<神の選択と葡萄畑>でも書かれている事で(旅に出た葡萄畑の主人は収穫をしたいが、農夫達がその収穫の報告者である召使を酷い目に合わせ、主人が息子を今度は派遣すると彼を農夫は殺してしまい、自分達で支配してしまう時)イエスは貴方達ならどうすると問うと、他の農夫に葡萄畑を与え、その悪辣な農夫達を罰すべきだと返答する者へ、神の国は貴方達から取り上げられ、もっとそれを与えられるに相応しい別の良い実りを結ぶだろう人達へ与えられると諭すのだ。
 此処には通り一遍の返答をする者への激しい侮蔑が込められていて、旅に出た主人を批判する論理が展開する。つまり此処でイエスの言っている事はマルクス主義的な観念とも共通するメッセージが発せられている。しかし重要なのは、イエスの返答とは、安易に即断をするイエスとの問答者への批判となっているという事だ。
 此処にイエスの聖書全体のメッセージでもある思弁的理性とでも呼ぶべき対話術と思弁性が漲っている。イエスの言葉は語り過ぎず、後はそれを聴く者(聖書を読む者)が自分で考えよとある部分では突っ放している。つまり与えているのだ。
 かつてのフランス映画の様な不条理な終わり方をする際に後は鑑賞者達が各々自分の心で考えて欲しいというメソッドに近い。
 イエスの言葉は確かに淡々としていて、自己責任の無い者が読めば突っ放して冷たい様にさえ思える。だがそれは自分の心に問い詰めて考えよと与えていると考えれば、愛の法なるものは存在し得るのなら、それはきっと生温い世辞や美辞麗句、或いは社交辞令的な取り繕いとは全く別種のもので、突っ放しているかも知れないが、自分自身の頭と心で考えよ、と与えてくれていると読む者、聖書の説教を聴く者は考えざるを得ない。それはある意味では法自体が重要なのではなく(法自体が重要だとする形式主義こそハイデガーの頽落であり、イエスがパリサイ人・律法学者を通して批判している処の事である)、愛を自分の頭と心でその法則を考えよと言っているという意味では哲学者、中島義道が著している<悪への自由―カント倫理学の深層文法>で言っている処のカントの定言命法とは即ち形式的に設定されている法なのでなく、その都度自分の頭と心とで考えよ、というカントなりの与えである事と極めて隣接している。
 その点では新約聖書でのイエスの言葉とカント(の定言命法と根源悪<根本悪>)とハイデガー(の頽落)とは一直線で結び付く要素を秘めている。
 それは法とはその都度自ら最も正しいと考え得る処の信念を持って設定せよ、という事以外でない。
 しかしそれではイスラム国が真に正しいと思うなら、其処に参加せよ、してもそれは罪悪ではない、という解釈も成立させてしまうだろうか?実はそうである。そしてそう解釈させてしまえる剰余を残して書かれている処に宗教書も哲学書もある種の危険性がある。そして、それはしかしウィトゲンシュタインが<論理哲学論考>で述べている様に、この書の読者は此処迄読んできて、その際に使った梯子を上り切った後で捨てよ、と命じる、つまり哲学(彼の書いたテクストの事を指して)なんかに頼るな、と言い放っている事と同じなのであるが、その同じ事、やはり此処に書かれてある事を信じても、その都度イエスの言っている事、カント、ハイデガーの言っている事は、全てではないと思って読み切る事、或いは読み進む事こそ正論である、とイエスもカントもハイデガーも言っていると受け取る事も(つまりイスラム国へ参加する事さえ自由なのであるなら)全く可能な様にそれ等のテクストが我々に与えられている、とも言えるのだ。
 つまりキリスト教で言う処の得ようとだけ思うな、与えよとは、それ自体罪な事、悪への唆しさえも含有した与える者も与えられる者も命を賭けた行為に外ならない、という一つの(やはり物静かに語り過ぎないイエスの口調の様な)語り、或いは囁きなのである。(つづき)