Wednesday, October 21, 2009

〔責任論〕第五章 良心を介在させるシステム

 哲学的に言えば良心とは倫理の問題にかかわる。そして自然科学的には今までそういう哲学的命題性とは人間社会がある一定の水準に達した時初めて立ち現れたと考えられてきた。しかしそもそもそのような常識、あるいは理性以前にまず知性ありきという観念そのものに誤謬がなかったか、もう一度考えてみてもよい、と私には思われる。例えば知性とはそれ自体で進化してきたかのような考えが支配的であるが、理性こそが知性の発達を促したと考えた方がずっと私はすっきりする気がするのだ。そして原始理性とは意外と、我々がロゴスとかそれ以外の名前が考えるところの理性よりももっと素朴なものなのではなかったろうか?
 エマニュエル・レヴィナスが表象と労働を区分けし、その二つが分裂していくさまを人間の実存として捉えた時、彼は表象に神、イデア、理想を、そして労働に人間の人間としてあることと、そういう我々を内包する実存、実在として捉えていたと考えてもよいと思われる。この二つの分離は当初から人間は実在するものとその背後のものという形で、あるいは実在可能性、願望、祈念、想像というあらゆる幻想性に依拠したレヴェルで実在物に接してきたことを意味する。レヴィナスの持っている観念は確かに自然科学的に証明されていたものではないのだろうが、私には極めてシンプルで自然な思考のように思われる。例えばレヴィナスと同じ名前のカント哲学において、幸福欲というものはどこか性悪的なものであり、生活と幸福の享受と真の満足とは別個のものであるという観念が、少なくとも「道徳形而上学原論」においては示されている。それはレヴィナスが分離することの必然性として捉えた二つの事項の距離感とも関係がある。幸福の追求は実在可能性の範疇でなされれば、願望の域に留まるが、一旦その枷から外れるとどこまでも特殊意志的な暴走に歯止めが利かなくなり、その想像においてはあらゆる背徳も含まれるし、理性レヴェルでのカントが言うような意味での満足には必ず責任倫理が伴うべきであるし、そのように初期人類が考えたとしても何ら不自然ではない。
 人間は一方では表象の実現によってあらゆる文明を築いてきたが、他方その行き過ぎによって多数の死傷者を出しても来たし、それが人間の歴史である。表象は理想にもなれば、妄想にもなるものである。そのことに対する自覚そのものが初期人類にもあったればこそ、責任を軸とした良心の命題を言語化し、社会実践化し、生活していたのではないだろうか?
 だから良心というものを支えるシステムのようなものが仮にあったとしたら、それは恐らく願望の許される範囲と、許されざる範囲の設定基準を求めるような考え、つまり理想という表象と妄想という表象の峻別的な理性であり、自己抑制することなしには、我々は自己と自己を取り巻く親しい間柄においてのみ利益となるような行為選択をすることになるが、一旦心落ち着けて考えてみれば、自己や自己の取り巻き以外の多数の他者にとって自己や自己の取り巻きの考えが弊害にはならないような範囲での、まさにその範囲こそが権利なのであるが、その権利の範囲内で願望の意味内容を考えていたであろう。その時良心というものが芽生えるが、その良心を支える当のものとはだから、他者一般、他者全般に対する責任であると言うことが出来る。つまり良心という観念とは社会の維持そのものの基準でもあったわけである。社会の維持はある一定の全成員の幸福と理想の実現であり、それは要するに福祉的整備であり、福利厚生であり、治安の維持であり、安全と平和である。それは対捕食者対策としても、同一種内での闘争回避である。
 対自然の脅威において人間は利他的に結束することがたやすかったであろう。しかし対人間的な脅威となると結束は全人類の関係にはならなかったであろうから分裂の予兆があったと思われる。だから同じ安全と平和には二種類あったと考えることもまた理に適っている。そしてこの二つの観念は常に隣接し、共存していたのかも知れない。
 そして一番重要なことというのは、この二つの秩序はどちらの方が先験的に把握されるというようなものでは決してない、ということである。このような対極的な観念の理解とは同時的でなければ矛盾する。というのも概念とはそもそも対となって心的には立ち現れるからである。例えば極単純な概念について考えてみよう。「大きい」、「小さい」といったもの、あるいは「長い」、「短い」といったものはその組み合わせとして立ち現れる筈である。それは前者の場合大きさ、後者の場合は長さである。大きさとか長さというものはメジャーであるので、その概念規定として言辞されているが、そもそもこの二つのものは一つの概念の二極であるに過ぎない。だから言語習得期における幼児にとって親しい者(それは大概両親であるが)とそうではない者という二分はあくまで両親による愛情ある幼児に対する接し方から引き起こされる一個の意味論的な把握であり、親しさという概念の起源である。親しい者は信用出来るし、信頼出来る。そのように心的には把握される。よって疎遠な者、見知らぬ者、あるいは物的には自分の持ち物とそうではない物という二分は一個の概念によって認識される。勿論心的にそういう人物や事物に対する感情が親しさとか信じられるというような概念を言語的に把握することに繋がる。
 だから言語習得の起源として考えてみても、親しい者の間での心遣いというものは同時的に他人の存在と、そのことの認可を含んでいる。それらは要するに対であるというよりは相互依存的な概念形成の原子である。哲学者ホージランドは相互依存、相互作用こそ一個の要素、例えば遺伝子とかの存在の存在理由(存在する意味)であり又、一要素とは他の要素に対する存在理由であり、説明され得るという事態は、その相互作用とか相互依存の内的なメカニズムの機能論的な理解そのものであり、形態論であり、それこそが意味であると捉えている。この説明ということに関しては後で結論においてテクストとも絡めて詳述しようと思う。
 責任に話を戻そう。責任とはだからその責任という概念の把握そのものにおいて既に親しい者、家族と他人、他人の家族といった事態の理解を含んでいるのだ。だから国家の利害とか治安という観念には同時的に他国の利害とか治安を、自分の住む地域の平和には同時的に自分の住んではいない地域の平和という観念を含んでいる。これらはどちらが先であるというような理解ではない。つまり戦争と平和はセットになっているのだ。そしてその観点から行けば、人類の結束という対自然脅威としての認識は同時的に、対自然脅威への認識の手薄な時期に発生しやすい自国的なエゴとか自分の住む地域のエゴとか、自分の知っている親しい者同士の親密さとかの観念を優先するような心的な過程を認識論的に派生させることに等しいのだ。またその逆も可である。
 再び定義し直そう。責任とは自分とか自分の周囲に対してと同時に、価値論的には全くそれと等価に他人に、見ず知らずの人々に対して注がれる平等の、権利の平等の観念によって成立している。
 そして良心とは親しい者同士、身内同士、家族内では当然のことを他人にも適用することで成立する正義感であると言える。親しい者同士、家族同士で結束し愛情を注ぐことは動物にも可能な心理である。しかし全く自分とは本来縁のない他人に対してどれだけの責任を持つことを価値論的に認識し得るかという観点こそ責任という道徳的観念の起源である。だから仕事の出来る人間は自分がたとえその職場から離れることになっても、自分が離れた後にその職場に来る者(その人間のことを知らなくても)の立場になってその人間が仕事をしやすい環境を整備してから職場を離れることを考えるであろう。つまり自分の知っている人間に注がれる愛情と配慮と等価のエネルギーを他者一般、他者全般、見知らぬ他人にも注ぐということにおいて責任の所在と、良心の起源があると私は考えるのだ。
 そして意味を把握するという事態においてさえ実はこの責任と良心が介在していると考えられる。理解することというのは他者にも自己が納得したような形で理解した経緯を説明出来る(あるいは進んでそうする)ことを意味するのなら、概念の把握という一つの理解はそれ自体で責任倫理を内包している。あるいはその理解の共有という事態において他者への良心をも含んでいる。
 しかしそういった良心を生じさせる基盤として我々には記憶というシステムが介在していることを忘れてはならない。アンセルメ(精神分析家)とマジストレッティー(神経学者)の共著「脳と無意識ニューロンと可塑性」で触れられている知覚現像と共存する思念を彼等は幻想と呼んでいるが、それを理論神経生理学者のウィリアム・カルヴィンは記憶の仕業であると断言している。そのことに関して比喩として彼は「何かがかすかに聞こえてくると、その詳細を脳に書きこみながら、われわれはいつも推測している。風にあおられたスクリーン・ドアがきしむ音だけで、もうこの世にはいない、大好きだったイヌが食べものをくれと鼻を鳴らしている声だと思ってしまう。いったんこの記憶が呼び戻されたら、あなたが聞いた本当の音を思い出すのはかなり難しくなるかもしれない_そして、記憶から詳細に補充されたものが、知覚された現実となる。これは別に異常なことではない。ウィリアム・ジェームスが一世紀前に記したように、われわれはいつもそうしているのだ。」(「知性はいつ生まれたか」草思社刊、77ページより)と述べている。
 私のようにこうやって文章を書くことを仕事としていると、時々ある本を読みながら、その本に書かれたある文章の内容や述定を把握しながら、そのことに関連した思惟をすることがある。するとその文章自体に関する記憶よりも、その文章から得た私の内部でのインスピレーションの方が記憶に残り、そういうことが書いてあったと思い違いをしてしまう。そしてその読んだ本をもう一度開き、その内容をその本に探してもどこにも見当たらない。それはそうだろう。私が記憶していたのは、その本の文章なのではなく、その本のある文章を読んだ時に私が抱いた連想とか感想とか私個人の思念でしかないのだから。
 しかしこのようなずれというものは私たちが他者と接する時に特に実感する。私たちは友人に対してある体験について告白する。私たちはある感動を他者に伝えたいという欲求を持っているから、そういうことは日常茶飯であろう。しかしそういう場合私たちは他者に自分の体験を解説するわけだから、他者にとって理解しやすいようアレンジして話す。
 何か特定の新奇なアイデアが突然何かしている時とか、仕事の合間に別の場所に出掛けて風景を眺めていたりする時に思い浮かぶことがある。そういう体験を脳科学ではセレンディピティーと言う。(茂木健一郎著「「脳」整理法」、「脳と創造性」等を参照されたし。)こういったセレンディップな体験を他者に伝える時、私という人格の私固有の思考パターンとか私固有の経験則でそのまま語ると他者には理解し辛い。そこで私は他者にとっても私にとっても変わらないようなある普遍的な真理に当て嵌めて自己固有の体験を説明しようとするだろう。その操作は他者と自己の溝を埋めようと画策する意図であるし、意思疎通の際には極自然に行われることである。しかしこの時私たちは無意識の内に他者に対する配慮をしている。日本に来ている外国人観光客に知らず知らずの内に自分の知っている英語の単語を並べて会話しようとしている時と同じ心理である。そして友人とか外国人観光客に対してそういう時になす配慮とは良心を発動しているのだ。そしてそれは意思疎通の際に心理的には責任を履行してもいるのだ。他者にとっての理解しやすさという思い遣りはそれ自体で責任倫理の産物である。
 しかしそれだけでは発生論的な意味では何か物足りないと感じられる向きもあるだろう。理解しやすさを他者に対して付与するような配慮は本来的な思い遣りではないのではないか、つまりもっと本質的なことがあり、その本質の高次の顕現こそがそういう他者への思い遣りではないのか、という意見が聞こえてきそうである。そうなのだ。それはある意味では結果として立ち現れた高次の良心でしかないのかも知れない。そこで一つ思考実験をしてみよう。
 人類初期言語獲得期における人間の集団を幾つか考えてみよう。まずAという集団はBという集団に隣接して生活している。そしてそのA、B両集団ともにある大型の捕食動物に狙われている。二つの集団は普段は特に衝突することもなければ、協力することもなかったのだが、その捕食動物に対して脅威であるという意味では共通した運命を背負っている。そこである日二つの集団の首領同士が結束してその捕食動物を打ち倒すプロジェクトを立てることにする。そしてその目的を達するまでは二つの集団は協力的であり、相互に役割分担をしてその役割を担う成員たちは皆同一目的に供せられる責任を負っている。そして天敵である捕食動物を打ち倒すプロジェクトを実行する日がいよいよやってきて、計画通り成功し、その大型動物の脅威は一先ず静まった。しかしその捕食動物の脅威が退却すると今度は二つのグループが狩をしていたある小動物の狩猟範囲、狩猟量を巡る葛藤が生じるようになる。ある天敵からの脅威に対抗する意志が両グループ内に蔓延している内は結束していた協力体制が一気に崩れるのだ。そのように両グループが狩猟を巡る衝突が顕在化してきた時、もう一つの移動集団CがA、B両集団の領地を横切る。A集団はどうということなくC集団の移動をやり過すのだが、その次にB集団の近くを通りかかる時、B集団の首領が何の気なしにC集団の首領に言葉をかける。C集団の首領はB集団の首領がほくそ笑みながらこう言うのを聞く。
「俺たちに協力してA集団の首領とその取り巻きをやっつけるのを手伝わないか?もし協力してくれたら、君たちに僕たちの狩猟範囲の幾分かを配分してあげよう。そしてA集団の生き残りを奴隷にして連れてきた時、その半分を君たちに差し上げようじゃないか。考えたのはこの俺だから、後は君たちは俺の考えた通りに手をちょっと貸してくれさえすればいいのだ。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
 B集団の首領は天敵から平和になったばかりの人間集団間での葛藤が顕在化してきたこのシビヤな現実を克服したいがために以前の仲間を裏切ろうというわけなのだ。C集団の首領は少し考えてから決断した。そしてB集団の首領にこう返事をした。
「その話に乗ろうじゃないか。でもそういう風に俺たちを巻き込んで以前の仲間だったような奴らを嵌めるのだから、ことが済んだら俺たちもどんな風に裏切られるか知れたものじゃない。だから担保が欲しい。お前の女房をお前が俺たちにした約束を守ってくれるということを俺たちが確認出来るまで俺たちの集団内で人質にしておきたい。」
 そのC集団の首領の意見も尤もだ。そこでB集団の首領は承諾し、竪穴住居の中から首領の女房を部下に連れて来させる。
 このストーリーは私が勝手に想像ででっちあげたものである。しかしここには幾つかの責任履行というプロセスが凝縮されている。例えば最初捕食天敵に対抗する時責任は分担されている。A集団とB集団の間にはある信頼関係がある。しかし一旦その目的を達成すると、別の欲求が頭を擡げてくるのだ。それは平和時における競争の論理である。非常時には結束されていた絆はもろくも崩れ去る。最初の協力はあくまで純粋な良心に基づいているだろう。しかしB集団の首領がA集団そのものの存在を疎ましく思うようになるに至って、A集団を打ち滅ぼす計画を立てて、その陰謀をC集団の首領に持ちかけた時に見せる協力者(共犯者)に対する自分の女房を差し出すB集団の首領の心理は同じ責任でも良心には基づいてはいない。最も悪辣な首領であれば、愛する女房を差し出す振りをして、目的を達成した時に、実はその女房をさえ日頃から別れたく思っていて、C集団に対して何の分け前もやらずに人質を見殺しにすることを予め決めている者すらいるかも知れない。
 つまり人間集団における信頼関係はある意味では外部的な条件次第で如何様にも変化し得る、つまり利害ということにおいてのみ考えればそういうものである。つまり損得勘定で全てを割り切ればどこまでも悪辣な心理は発生する可能性がある。しかしだからこそ良心というものは人間には必要とされた、あるいは必然的に認識され得る場が与えられた、とは言えないだろうか?例えばここでC集団の首領が最初から気が進まないと断っておれば、彼はB集団の首領の陰謀に巻き込まれずに済む。しかしもしそういうことをすれば、C集団の首領を今度はB集団の首領がそのことを根に持ち、今度は最初やっつける積もりだったA集団の首領に逆に声をかけ、一緒にC集団を襲い、彼等の財産を根こそぎ奪おうとすらするかも知れない、そういう風に邪推する悪知恵を働かす部下にそう説明を受けるかも知れない。それでもうっちゃっておこうと決め込むか、その部下の言う通りにB集団の首領の言い分を一先ずは聞こうと決めるかは結局のところC集団の首領の性格、人格、意思決定の合理化をなす彼の裁量一つにかかっていると言えるだろう。そして彼は悩む。誰に対する責任を最も優先すべきであるか、と。
 例えばもしその部下の言う通りにB集団の首領がすればB集団から裏切られるだけかも知れない、要するに骨折損のくたびれ儲けなだけかも知れない。しかし逆に部下の言うことを無視して、どうもB集団の首領は信用がおけない、向こうがまさか自分の女房を差し出すなんて、どうかしている、そんな申し出に乗ってくるとは思わなかった、予想以上の悪党かも知れないではないか、と一切を断りそれまでしてきた移動を続行させるしかないと決断したら、今度はそのB集団首領の悪辣さからすれば、A、B集団双方から挟み撃ちされるかも知れない、それではあまりにもリスクが大き過ぎる。しかし逆に考えれば、実際A集団を裏切ろうということ一つを取ってみれば、A集団の首領やその部下たちが日頃B集団以上に悪辣かも知れないではないか、それなら寧ろそういう風に断っても尚、B集団の首領は陰謀を聞かされてその口止めとして自分たちが殺されるというようなこともないかも知れない。そんな心の余裕は彼にはないとも言える。しかしそれにしては一度は自分の女房さえ差し出すと言い出してきたB集団の首領はなかなかの太っ腹だ、人格者ではなかったのか、つまりA集団を襲うことにした決意へと至るプロセスにおいてもよくよくの事情があったかも知れないではないか、それならいっそ自分の集団の利害を守る責任感溢れるB首領の申し出を受けて立ち、逆にこちらから言い出した彼の女房を人質として確保するような姑息な申し出も辞退すべきじゃないのか、そうC集団の首領は考え出す。
 要するに利害関係だけで考えればどのような邪推さえ可能である。しかし人間は仮にそのような邪推によって最低限の損失を未然に防止することが出来たとしても、今のケースから言えば、B首領がもし仮になかなかの人物であるとして、それが正しい場合、寧ろセイフティーネットを予め設定しないで、彼の申し出をすんなり受けて信用することが最も偉大な友人を得る可能性(もし人質を確保して仮に後は全て巧くいったとしても、真実の信頼関係というものは最早C集団首領にとってB集団首領に対しては獲得出来はしないだろう。)が大きいということから、騙されて元々という決断こそが最も正しい場合だってあるのだ。つまり他者を信頼し、信用することで真実の友情を得るこが出来るのなら、それに賭けてみることには意味がある。そう考えることが出来る。そこにある意味では良心というものの自分にとっての幸福感というものがある。それは人から言われてその通りにして失敗するくらいなら自分の考えで決断して失敗する方がずっといいという決断である。それは他人を信用することで失敗する方が他人を疑って失敗するよりましだ、という価値観である。それはある意味では良心というものの本質、つまり自己内の充足感において後悔と自責の念に駆られたくはないという思いでありはしまいか?
 C集団首領がB集団首領から申し出を受けた瞬間最早彼はそれ以前のような彼等と無関係なただの通りがかりではなくなったのだ。しかし同時に彼はC集団全成員の利害と身の安全という面での責任も背負っている。しかし後は彼の人を見る目の確かさと決断力だけである。要するに全責任は彼の直観力にかかっていると言っても過言ではない。頭の切れる部下の言うことを聞いて、ここは一つ彼の言うようにB集団首領の妻を人質に取り協力するか、それとも彼の申し出を断り素通りすることにするか、そして自分が一旦言ってしまった彼の妻の人質の件を反故にして信頼して何の担保もなく協力するか、その三つの選択肢がC集団首領には与えられている。勿論彼の頭の切れる部下が強引に主張するようにB首領がかなり悪辣であるなら、やはりきちんと担保を取っておくべきかも知れない。あるいはもしもっと悪辣で最後には自分たちさえ殺されるのであれば、彼はB首領を信用し過ぎることで逆に部下たち一切を犠牲にしてしまうことになる。そうなった時には彼は頭の切れる部下がもし生き残っていたなら、責任を取って死ななければならないかも知れない。信頼がおける部下の言うことを聞くことの方が無難ではある。しかし同時にその部下の言う通りだった時には逆に今度はその部下が絶大な力を彼と部下以外の面子に齎してしまう。それはそれで統制の意味合いから極めてまずい。そんな結果を齎すのならいっそ、B首領を信じることに賭けてみる価値がありはしまいか。そう彼は考えるかも知れない。
 利害関係とかある社会全体の動向を左右する流れにはある必然性がある。しかし良心というものはそういった必然性に拮抗するような決意がある。それは流れとか傾向性とかをものともしない人間の自由への希求がある。つまりあらゆる外部条件によって左右されるような現実とか実質的な傾向というものがあるからこそ、逆にそういう利害を一切省みないような決断こそが最も適切であるという意志決定の合理化が成立し得るのだ。良心とか責任といった観念とは意外とここら辺に発生する場が与えられると考えてもよいのではないだろうか?ここで一つ定義事項が増えた。つまり良心とはあらゆる外部条件に左右されまいとする意志に他ならない、ということである。するとカント的な意味での自由とかエックハルト的な信じるということの意味と良心は密接であると言える。
 私はディノテーションとコノテーションのことについて考察した。その際に相手からコノテーションをされ、それを見抜きながらも、そのコノテーションに気が付かない振りをしたケースについて述べたが、これはやや屈折した良心かも知れないが、実際にはこういうケースは極めて少ない。人間というものは咄嗟の判断でそこまで用意周到な行為を選択することは通常は出来ないものである。しかしもしそういう判断がつくのなら、ここ一番というようなケースでは賢明な判断ということになるが、そういうことは始終であるなら人間は耐えられまい。また、もしかしたら相手を傷つけないように自分が騙された振りをするということそのものは結果論的には(つまりその真意がもし仮に騙された振りをされた側に知れた場合)最も相手に対して侮辱となるということも考えられるからだ。思い遣りとはしばしば侮辱に隣接している。そういう意味では悪い知らせを臨終の人には知らせないでおくというような非常時の場合以外では、仮に憤りの感情を示すことであれ、真意を表出することこそが最も人間にとっては結果的には良心としては正しい行為かも知れないのである。

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