Friday, February 6, 2015

シリーズ 愛と法 第十八章 哲学的愛は感性から会得出来る①

 哲学者が言う種とは民族的なことであるけれど、ダーウィンの『種の起原』等から種とは一般的に人間ということ、ホモ・サピエンスだと受け取る感性の方が我々には強い。霊長類の種からそう考える訳だ。哲学者はそれを類と呼ぶ。
 でも哲学的と言うとどうしても難解であると感じ取ってしまう感性は哲学者の仕事の責任でもあるが、実は人類愛とは即ち哲学的愛のことなのだ。だがそれは哲学が左脳的な理屈で全てを理解しようとするタイプのマナーであることから堅苦しく感じてしまうが、私はこの部分は右脳的な感性で理解する部分があってもいいと思うし、その方がより伝わると考えている。感性から理解しようとする部分では哲学者よりずっと科学者の方が優れているし、それを哲学者がそれは倫理的に正当な手続きではないと批判するなら、そう批判する哲学者の方が自分達だけのマナーに拘っている。其処で今回はもっと日常的に実際的なことから感性的に哲学的愛を理解して貰おうと思って、哲学史的な解釈と違った角度から考えてみよう。
 我々は音楽を愛する。だが音楽にも色々あって、例えばクラシックの欧米の基礎である楽理に基づいた交響曲とか協奏曲とか所謂オーケストラで演奏される様なタイプの音楽以外にも大衆的な音楽、民俗的音楽は沢山世界に存在する。でも此処でもクラシックファンはクラシックは楽譜も世界共通だしユニヴァーサルだと言いたい部分もあるけれど、実際我々は日本語とか、地元であるなら方言がよく分かる者同士なら阿吽の呼吸で理解出来る民謡等を愛するという気持ちは誰しも持っているだろうが、それは郷土愛的な感性であり、違う地方の違う方言を話す人達にとってはやはり我が郷里の歌が優先されるという感性は確かに誰しもあるけれど、同時に異郷に旅して自分の故郷の様に其処を感じたり、其処で歌われてきた民謡、長唄とか地唄とかに感銘を受けたりするということも珍しくない。そればかりか世界中のどんな行った事のない国の行った事のない地方の民謡にでも感銘を受けたりする。何も自分の住むおらが村のおらが歌だけが素晴らしいという訳ではないし、それだけを誇りにする訳でもない。言葉が直ぐに理解出来なくても、いい歌であれば、感情の様なものは伝わり、外国語の歌でもいいと思えるし、感動もする。要するに演奏はユニヴァーサルであり、言葉が通じなくても理解出来るけれど、歌はそうではないということはない、歌でもいい歌かそうでないかくらいは直ぐにその歌われている外国語を理解出来ない我々でも感じ取れる。
 つまりそういう部分で我々は哲学的愛というものを考えたっていいのではないか、と私は考えているのだ。哲学的という言葉がそれに相応しくないのなら人類愛と言い換えてもいい。つまりそういう部分で我々は同じ霊長類の仲間である他民族をも理解出来るということである。
 歌は直接空間に響き渡る言葉の、詩の、歌詞の伴った音楽であるが、音楽という以前に歌である。それは楽器演奏、器楽自体の持つ道具への愛とは少し違った(勿論クラシックの声楽では声というより、人間の発する喉と口を使った音を音楽の要素、楽器の音と同質に扱うという意味で、一般的に民俗音楽的な民謡とは歌い方が違うので、それを一先ず違うと捉えておいて)ものである、つまりそれは歌い人の歌そのものの精神の披露、言ってみれば詩的な歌という芸、パフォーマンスである。楽器演奏にも我々は楽器自体がよく歌っていると捉えることもあるが、それは要するに楽器の演奏自体が歌の様な詩情や哀愁があると捉えることであるが、歌にはそういう作曲家の書いた楽譜という完成された思想図式を実現するということではない、歌う人の感情や感性を込めているメロディとリズムのついた朗読という要素がある。それは朗唱であり、詩精神、詩内容の解釈的な披露なのである。
 アーティストは集団的熱狂として合唱したり合奏したりすることはないから、一人で自室に籠って制作するので、アートのモードが広まるのは個人対他者全員という図式である(間接的伝染)が、音楽の場合には演奏は少なくとも集団的熱狂に拠って横の伝染、横の遺伝が行われる。歌手や声楽家は一人で通常歌う作業なので、アーティストと似たタイプの伝染、遺伝の仕方を横に持つと言えるが、音楽の空気的伝染とは集団的熱狂が根幹には横たわっている(直接的伝染)。それはそもそも音楽自体が発祥的に集団の作業としてのものであるからである。しかしだからこそ歌は一人で歌われる時、その主役を他の全員がバックコーラスであれ演奏であれ支えるという集団的なカリスマ願望の実現となる。
 そしてその歌い手の歌とコーラスとか演奏との一体感の中で我々はたとえ語彙を理解出来なくても、どんな感じの感情を歌い切ろうとしているかということを瞬時に感性的には理解する。哀しい感情なのか、切ない感情なのか、空しい感情なのか、喜ばしい感情なのか、良かったほっとしているという感情なのか、他者や集団や組織を称える感情なのかを瞬時に理解することが出来る。要するにそういった言葉の一つ一つの意味への理解無しにも成立する感性的な、感情把握的な理解こそが人類愛的なものではないだろうか?或いはそういう他民族の集団的熱狂とか、共感作用、共同注意自体を理解し得る、その行為の連鎖全体をいいものであるとか感動的であるとかを理解し得ることこそ、人類愛、つまり哲学的愛と言っていいと思うのである。
 そして我々は外国の歌を聴いて、その時に凄くいいと思ったから歌詞を翻訳して理解してみようと思ったりする訳である。そういう気持ちになるということ、なれるということはその侭、人類にとって共通する愛や悲しさや嬉しさ、怒り等を相互に理解し合えると信じているということを意味するし、まさにそういう風に思える時、ユニヴァーサルな感性とユニヴァーサルなヒューマニズムと正義や公平等の理念的な事とが一体化していると感じられるのではないだろうか?
 だから愛と言うとかなり堅苦しく形式的な語彙だと思う部分も我々にはあるし、法となれば尚更である。しかし法は先程述べた様に各地方に異なった習俗や風習があり、そのこと、つまり日常習慣と密接な民謡があるけれど、それはそういう一つの各地方に拠って異った独自の法であるけれど、異郷でも異郷の民謡からある固有の懐かしさを感じ取ることは我々には出来る。それはデ・ジャ・ヴュかも知れないし、他の何かかも知れないが、懐かしさとかほのぼのとした気持ちになれるとか、要するにそういう心を鷲掴みにされる感動というものが限定的な地方とか、その当事者にしか理解されたり良いと感銘を与えたりするのではなく、異郷者、外国人にも理解出来て、素晴らしかったり、郷愁とか懐かしさを与えたりすることが出来るということの内にユニヴァーサルな人類愛的理解を我々は相互にし合っているのであり(事実私はドナウ川にもシシリー島にも行ったことがないけれど、スメタナの『我が祖国から~モルダウ』を聴く時も、フォーレの『シシリアーノ』を聴く時もある固有の懐かしさを感じ取ることが出来るのだ)、それを哲学的愛、人類相互に理解し合えるヒューマニズムの様なものだ、と考えていいのではないだろうか?
 それは時として主義主張、イデオロギー等さえ超え得る暖かいパワーを秘めていると言える気がするのである。そして古い民謡、伝統的所作や歌い方に則ったものでも、現代のポップスでも、そういう伝統であれ今のモードであれ、それを知識的に知っている訳ではない人に対しても、素晴らしいとかぐっと心を締め付けられるという良質の感動を与えることが出来るし、その感動を理解出来るという部分こそ、我々はユニヴァーサルな全人類に備わった感性、哲学的愛、或いは人類的愛と呼んでいいのではないだろうか?

Monday, January 19, 2015

シリーズ 愛と法 第十七章 種と愛の在り方⑤ 情と愛はどう違うか?Part3 愛と想像力

 何度か私は国家民族毎に固有の宗教伝統的文化と密接な社会倫理感から派生するドメスティックな感性に就いて考えた。それはある意味ではユニヴァーサルな哲学的認識から言えば退屈なことである。しかしそれはやはり愛と法やその関係を語る上で欠かせない。まずどの民族にとっても愛とは心のゆとりと寛ぎと癒しに於いて成立する、という点から考えても当然ドメスティシティ自体が極めて愛の成立条件として必要なのである。ブータン人がアメリカ合衆国カリフォルニア州のビヴァリーヒルズに豪邸を建てて住む事を理想とか夢だと思うとは思えない。又其処に住むアメリカのセレブリティ達が香港の集合住宅に住んでみたいと思うとも思えない。つまり誰しもが自国の文化と習慣と伝統的な生活習慣に則った生活を理想としているし、そういった条件を自己の生活に満たす事と、愛を成就することとは不可分である。
 しかし現代社会は同時に常に世界全体の動向と無縁に運営されている国家も民族も居ない。ウェブサイト自体は既に世界を共時的な認識で世界市民性へと全人類を誘っている。昨今で言えばフランスで今月起こったシャルリ・エブド襲撃テロ事件以降の一連のテロ事件に対する全世界の余波は具に世界中に情報が報道として配信される。それを全く意識の外にして生活する生活者は世界には居ない。少なくともブロードバンドが整備されている都市空間やエリアを持つ国ならそうである(当然過疎エリアはあり得るし、しかしその過疎地を持つ国家全体がそうである訳ではない)。
 すると我々はドメスティックな愛の成就の慰安を個人的に必須のものとして認識しつつも、ユニヴァーサルな愛の在り方をも考えざるを得ない。それは法というものが国家の歴史・文化等と関わりなく成立していないのとは別個に愛自体は人類的視野で語られ得ると言える。
 其処で我々は異民族や外国人にとっての愛をその国にもし自分が生まれていたのなら、という形で想像することが出来る。そしてそうすることで相手の立場を考慮してそれなりに他者、他民族の愛をも考えることが出来る。つまりその想像力こそが愛である、と言える。想像力とは自分には実感としては理解出来ない他者や他民族のことを自分の立場に置き換えて考えることであるが、他者の心自体がそういった意味では他民族等全般に共通する愛の普遍への想念の基礎にある。他者の心それ自体は決して読み取れる訳ではない。それは想像というより類推し得るのみである。
 他者の心の様に自分の帰属する文化伝統と無縁の国家や民族の愛を考えることは想像力という一つの他者論に於ける理念上での思考であり、それこそがヒューマニズムである。テロの犠牲となった人達の生前の行動とはどんなものだったのだろうか、と9.11の時にも他国の世界市民は考えていただろう。その点で今年に入ってフランスで起きたことも同じである。
 表現の自由自体は無限に認められるものだとも私には思えないが、と言ってジャーナリズムの表現の自由が侵害されていいものではない。只イスラム教文化圏の国家が例えば今回の犠牲者であるフランス自体を批判し、揶揄するマンガをジャーナリズムで公表しても世界的規模では影響力を持たないということをイスラム教過激派は熟知していて、それが故に敢えてテロへ及ぶことで世界へ不満を発信しようという意図であったのではないか、とだけは想像される。
 自国民以外の市民同士の愛を考える時は想像力だけが縁である。だがそういう風にもし自分がアメリカ人であるなら、シリア人であるならと想像することこそがヒューマニズムなのであり、それは意外と限りなく多くの市民が世界でもそう容易くし得ないことである。殆どが自国民同士のことしか考えられない。にも関わらずリアルとしてはウェブサイトが世界を繋いでいて、頻繁に情報だけは送信されてくる。そのギャップででは世界に於いて自国や他国の生活市民のことを考えるということが、愛が理念である、それは寛ぎとか癒しという個人の感性にとっては極めて不可欠の要素で満たされた実際の愛とはもう一つ別のレヴェルの人類愛ということになるであろう。
 只その想像力が適切であるな否かで観念的であるだけで実態とかけ離れた論議になるのではない、つまり実質的な普遍的人類にとっての愛という想念が齎されるであろう。それはきっと哲学的愛というものでもあるのではないだろうか?
 次回は哲学的愛というものをもう少し踏み込んで考えていってみよう。(つづき)

Thursday, November 27, 2014

シリーズ 愛と法 第十六章 種と愛の在り方④ 情と愛はどう違うか?Part2 理と法(1)

韓流ドラマでは情を重んじると言った。それは宮廷がより両班の利権と権威を重んじる余り平民以下(奴婢も含めて)への差別意識が強かったが為に、それにも関わらず心医(ドラマ<ホ・ジュン>)は宮廷の御医(王族の為のかかりつけの医師)をテーマとしたものであり、しかし医師とはそういう権威や権力の為の道具であってはならず、あくまで人民の為に誠心誠意尽せという主張となっている)が金銭を取らずに一般平民や奴婢迄診療したという事で一度は徹底的に宮廷の体罰を受ける設定となっている。しかしホ・ジュンは一切金銭を取らずに診療したので、地位や名声を求めての行動ではなかったという事で体罰に耐えた事で却って人望を得る物語となっている。其処で重要なメッセージは法に逆らってでも理さえあればそれはヒューマニズムであり理性的判断であるという事だ。それはホ・ジュンが理を通し、賄賂を使って診療する順番を早くして貰う等の一切の誘惑に打ち勝っているという描写で示されている。
つまり理とは法より重いという主張が其処にある。事実法はそれ自体権力者や権威的な腐敗に拠って捻じ曲げられ、必ずしも正義的なものでない場合も多々あり得るからだ。
しかしそれでも我々は情と理が結び付けば、それはかなり説得力のある行為であると認識し得るも、アメリカ合衆国ミズーリ州ファーガソンで起きた白人警官の黒人18歳青年射殺事件での公判で警官が不起訴となった事でロンドンでも同じ様な人種差別的射殺事件があったので五千人の市民が不起訴処分を不当と訴えるデモ迄起こしているが、日本では其処迄するという事はない。それは日本では(勿論在日韓国人への差別等が有り、それなりに民族問題はあるものの)黒人が多く居住して白人から差別を受けるという様な歴史自体がなく(日本人は格段黒人を差別する意識が多く在る訳ではない)敢えて外国の事例に対して抗議をするモティヴェーションが無いと考えている人達の方が多い、という事を意味する。
しかしイギリスは確かにアメリカと使用言語も同じだし、歴史的にも血脈的な繋がりもあるし、事実黒人奴隷を輸入したりしてきた(リヴァプールがそうであり、ビートルズの曲で有名なペニー・レーンがその地だった)ので、ロンドンで抗議デモをする事には意味があるのだと思われる。
だが面白いのは、その様に自分達とは関係ない事にはいらん口を差し挟むまいという日本人の判断は、では理性的であるかと言うとそうとも言えず、それは只単にエゴイスティックにドメスティックであるだけであり、功利主義的な判断であるに過ぎないだろう。又その様に日本人の存在自体が欧米では観られるだろうという事も想像される。だがそれなら同じ様にロンドンでは行われるデモが北京やソウルでは行われない事も論うべきかも知れないが、当の欧米人が中国や韓国は又別の文化圏だと勝手に思っている可能性も在る。
情と理が結び付いたら確かに法のいい加減さをも克服する、超越すると仮に結論づけたとしても尚、情と理の接合のさせ方もだし、情自体の在り方、理自体の在り方がやはり民族間では差異もあるし、国民性も反映する。その点では日本人には日本人の情と理、韓国人には韓国人の情と理、アメリカ人やイギリス人には彼等なりの情と理というものがあるのだろう。
だがそういう風に言えば何となく納得してしまえるとしたなら、やはりユニヴァーサルな情と理というものも存在し得るという事になる。
それは前回示した地震や津波で赤ん坊を背負う母親は子供をまず守るべきであるが、それが出来て尚余力があるなら(津波が目前に迫ってきている様な場合以外では)隣人や見知らぬ通りすがりの他人でも危険を察知したら教えるとか互いに協力し合うべきであろう。そういった意味では倫理的には韓流ドラマ<ホ・ジュン>の描写の様に診療して貰う順番は賄賂や顔で何とかすべきでなく、あくまで来た順に並んで待つものだという公的なマナーが理性論的には正しく、それを逸脱する事は如何に私的には我が子を優先させたいという情があっても許されるべきではない、という意味では理と法がもし接合され得るなら、それが常に順当な判断だという事になるだろう。
その点では国民性とか民族性というものとは別個に成立し得る正義論が在り得るだろう。宗教的伝統の差異はどの民族や国家にも在り得るが、そういった極基本的な事ではどの宗教でも同じ事を言っている筈である。
日本人がロンドン市民がイギリスでも起きた似た事件の被害者である青年の両親も立ち上がり、アメリカ人の被害者の青年の両親と協力し合う等の事は自然な成り行きであるが、日本人にとってはそうではないと日本人が思っているという事が、文化差、歴史差というものを我々に実感させる。
でも日本人も又射殺されたのが黒人であり、白人は黒人程は射殺されないのではないかと問い、事実がそうであるとしたら、其処にある種の理不尽を発見し得るという意味では日本人なりに何となく情というもののユニヴァーサリティだってあり得るのではないか、と思考するだろう。それは欧米人が色々な可笑しい文化伝統的であっても日本にも隣の韓国にもマナー遵守とそれに伴う差別や生活レヴェルの格差があるなら、それは可笑しいとか理不尽だとか思うだろう様な意味では、確かにユニヴァーサルな倫理論は成立し得ると言える。
私的である事は常に許されない訳ではない。勿論自らの家族が危機的状況では全てにそれを優先すべきである。しかし職場に居て給料を貰っているなら、それは全うすべきであり、私的な事をその場では捨てるべきである。だからどうしても私的な事を優先すべき時は職を辞して、そちらを優先すべきである。そうでなければ社会全体へ迷惑をかけるし、社会に損失を与えるからだ(此処等辺は哲学者中島義道も多くの著書で展開させている)。
責任倫理とはそういう事である。
だが人種差別自体がイギリスやアメリカの様なタイプのものとしては存在しない歴史の国々で同じ様にミズーリ州ファーガソンで起きた事件に対して抗議デモをする事は確かにヒューマニズム以前的に法的以前的に、既に内政干渉という事になってしまうという判断が無意識に日本人にも働いているとしたら、それはそれで全く無根拠でもない。やはり成り行きを見守っていくしかない。しかし全くアメリカともイギリスとも日本は無関係ではない以上、そういう風に注目していき、それなりに自分なりの意見を各自持つ事は必要であろう、と言い切れるなら、それこそが倫理的なユニヴァーサリティであり、そのユニヴァーサリティが理であり、その理を我々がイギリス人やアメリカ人とは違う立場から情的に結びつけるとしたら、それは彼等とも意見交換し得るものの見方であろう。しかしそういう機会を持てるのなら、逆に英米人とは全く無縁の日本固有の問題に就いて彼等が意見する時は真摯に耳を傾ける必要だけはあろう。
それを見失ってしまえば現今の対中国や対韓国の日本外交の遅滞・停滞と同じ事態をそれ以外の国々(今挙げた例で言えば英米の国々)との間でも齎してしまうだろう、という事だ。

シリーズ 愛と法 第十五章 種と愛の在り方③ 情と愛はどう違うか?Part1

 韓国哲学研究者の小倉紀蔵に拠れば韓国人は法より情を重んじる、という事だが、それは韓流ドラマを観れば主人公の行動が必ず情で法に背き、其処で制裁を受け、しかし観ている鑑賞者は皆情を捨てられない生き方を是とする様に作られている事からも、彼等韓国人の深層心理には法にだけ縛られる事を潔しとしない世界観が大きく支配している事だけは分かる(その顕著な例は今放映中で佳境にある『ホ・ジュン』であろう。其処では心医という語彙が使われている)。
 しかし人は確かに人事(ひとごと)であれば、責任やその履行を最優先に主張し、それを果たさぬ者を揶揄するけれど、それが自分に課せられた責務であるなら、その履行が如何に大変かを悟り、同じ立場に立たされた他者へ同情も禁じ得ない。そういう意味では当事者にしか分からない相互の情というものは存在し得る。
 そしてそれでも尚責任を履行しない事へは自ら戒めを抱くだろうし、同じ様に戒めを持ち自己を律する他者のみを情で観よう。しかし仮に責任を履行し得ない他者に対して情で見ないで責任倫理だけで判断しても、相手にもそれなりの事情もあったのかも知れない、という意味では人間はかなり自らの主観で許せる相手とそうでない相手を恣意的に選別しているという事も分かる。
 所詮人へ厳しいのも、情で接するのも主観であり恣意的なその都度の判断でしかないと知れる。其処でそれなら、寧ろ相手の立場を自分で理解し得る・し得ないで判断するのでなく、全て一緒くたで判断して、法を守る者は如何なる他者でも等し並に正しく、そうでない者も等し並に正しくないとして接する以外にない、という判断が一番正当であると思えてくるのだし、それは確かに理性論的に正しい。
 情は法より重要であるとは確かに責任倫理的には言えないし、それは端的に謝りである。しかしにも関わらず時と場合に拠っては法だけが全てであるとは言い切れず、一切の情を注がない事の方が悪であると判断せざるを得ない事もある。
 民族とか国家もその一つであり、同胞という意識自体も全く常にそれだけを最重要命題にする事も現代グローバル社会、世界的視野からは正しくはない。にも関わらず誰しも特定の国家に属し、民族を有している以上、同胞同士協力し合わないでいるだけなら、非難されて然るべきだという判断も、それはそれで正しい。
 結局相手が外国人だから何があっても知らん振りという事も許されないが、同胞だからと言って一切手加減もしないという事は客観的に正義や法の前では正しくても、人は確かに法にのみ従順で、法順守だけしていれば、後はどうでもいいという事もない、という視点からは決定的に言い得るし、正しい。
 相手が外国人であれ民族的な同胞であれ、妻であったり夫であったり、要するに家族としてパートナーであるなら、やはり身内同士で助け合うべきだし、そういう時に公的客観的基準を持ち出すのはやはり可笑しい。と言って一切私的な関係でだけ助け合い、それ以外何も他人とは協力し合わないという生活態度や姿勢では社会的態度として適切であるとはやはり言えない。
 結局どういう場合に私的な事を優先し、どういう場合にはそうであってもいけないのか、という事に帰着する。それは結局国民の義務を果たしているのかとか、社会成員としての義務を物理的精神的に果たしているのかという判定から、それをしているなら、それ以外の事では私的な事、身内、親族も含めた血縁的関係、要するに家族を優先してもいいという事になる。とりわけ親子関係に於いてそうである。
 だがその親子とか血縁関係でも同僚とか同業者とか、要するに他人であっても、何処迄私的な事を優先すべきか、何処迄公的な事を優先すべきか、という事も実際民族毎にそのケース判定は微妙に異なるだろう。集団や組織を優先すべき場面が民族や各国民に拠って異なる、という事は大いにあり得る。それは社会行動とか社会判断でどういう風にするべきかが民族や国民毎に大幅に異なるという事がある以上当然である。そして其処では大いに民族史、国家史、要するに宗教的不文律から、日々の生活感情と不可分な文化的感性が其処に大きく立ちはだかっている以上、文化差、民俗学的差異は決定的にリアルには大きい、と言える。それを前回、前々回に私はそれなりに整理して考えてみたのである。
 だが民族や国家帰属性を離れても判断し得る部分も当然あり得る。しかし豚肉をイスラム教徒に強制する事も出来なければ牛肉をヒンドゥー教徒に強制する事も出来ない。或いは日本の様に法的に拳銃等の銃器を所持する事を許さない国の市民にアメリカの全米ライフル協会の理念を理解せよと強制する事も同じ様に出来はしない。
 だからそうなると結局ユニヴァーサルに相互に理解し合える範囲とはかなり狭まってしまうとも言えるだろう。しかしだからと言ってユニヴァーサルな愛と法の倫理が狭く矮小化された観念しか生み出さないともやはり言えない。
 それは考えていく必要がある。そして今回韓流ドラマで情が法より観念的民族思考的な正義論では優先されるという事を例証したが、では情は韓国人の特権なのだろうか?やはりそれも違うと言える。
 ドラマで頻繁に描かれるか否かより、そういう内容のドラマでも凄くいいものであるなら、どの国民でも理解し合える(例えば『おしん』は日本ドラマだが、かなり広範囲に世界中で親しまれ理解された)とも言える。
 其処で危機的状況(地震や津波等)に陥った時他人も家族も助ける事が出来ない場合には、やはり家族を優先してもいいのではないかという想念も沸き起こる。しかしそれを優先しても尚、他人とも協力し合うべきだし、同一の運命で共有し合わねばならぬ状況では家族同士だけで結束していればいいのではなく、やはり他人とも協働すべきだし、情報交換し合うべきだという点ではユニヴァーサルに一致する見解が持てる様に思える。少なくとも赤ん坊を抱いた母親が津波を目前にした時赤ん坊をまず助ける事を優先する様な場合以外では、極力他人も同じ臨場に居合わせたなら相互に助け合うべきであろう。
 この点では許されるべき私的な咄嗟の行動と、そうでなく咄嗟でないなら極力他人とも協力し合い、助け合うべきだ、とは言えるだろう。
 次回は今回最後に述べた私的であっても許され得る状況とそうではない状況をもう少し踏み込んで考えてみよう。

Sunday, November 2, 2014

シリーズ 愛と法 第十四章 種と愛の在り方②

聖書では「はじめにロゴスありき」と記されている。キリスト教は多分の言語唯一理性ツール主義と言える。事実アメリカ人の母親は世界でも最も赤ん坊をハグしないと言われる。赤ん坊へスキンシップで愛情を示すのは東南アジアやオセアニア等では多いかも知れないが、欧米で同じ様にそうであるとは言えない。この事一つ取っても欧米社会が言語理性的正義を命題化させている事が分かる。
アメリカ軍が終戦後日本に駐留していた時代ミステリアススマイルと日本人の笑みを称したのは有名である。それから約七十年が経った。しかし確かに表面的には日本は欧米型の社会に移行したかの如き様相である(マスメディアや資本主義自体はそうである)けれど、赤ん坊へのあやし方等では異なっているだろうか?それはあくまで地方部の事で都市部ではそうとも言えないと言えるだろうか?
実際には赤ん坊をハグする風習自体もかつて程ではないかも知れない。しかし身体感覚的には日本人はやはり決定的に欧米人とは違う。
神道のお清め、お祓い等は死を穢れとして捉える思想が根源にある。それは道教でも同じであると前回述べた。その発想自体が日本民族の感性が言葉正義論ではない事を示している。空気を読む等の感性は言葉化され得ないものの方を重視する感性と言える。日本人はロゴス主義的ではないが故に弁解とは見苦しいものと社会的通念としてはされる。
つまり日本人はこれだけビジネス優先的社会へ移行しても尚、言葉的ではないもの、つまりロゴス的な言語自体の普遍性とは別個の感性を重視する民族だと言える。
他方キリスト教ではあくまで人間主体の正義論が展開される。キリスト教徒は自分を進化論的な生物種、動物と同祖を持つ生命体とは捉えない。それは生物学者だけである。
キリスト教は人間が特別である。人間中心主義自体が神をも支える。従ってもし仮に此処で全ての生物も使命を全うする事を目指し、そのユニヴァーサルな価値としては対等だと言ってなら、 その者は進化論者ではあるけれど、人倫主義者ではないと見做される。これは宗教だけでなく哲学の徒も同様である。思想哲学宗教は全面的に人間中心主義である。その点ではルネッサンスの文藝復興運動自体も同様である。そして自然科学はその礎の上に成立する。
又キリスト教は一方では愛を隣人や敵へも注ぐが、イエスとその弟子達とは別格扱いとなっている。要するに聖書とはイエスとその弟子を家族愛的に結び付けられたものとして別扱いにしているのだ。この点では日本にキリスト教を移植した明治期の新島襄とその同志社大学の熊本バンドを中心とする人達にも受け継がれている発想である。 異教徒infidel、misbelieverとは異教徒でしかない。従ってユダヤ教の選民思想はキリスト教では階級制的家族主義へ移行している。
しかし仏教では修行に拠る悟りのレヴェルに於いて当然階級は成立する。解脱も涅槃も一つの悟りの境地であり、それは体得者同士にしか分からない事である。その点では仏教も又当然の如く階級制的である。
と言うより宗教とは必然的に階級制的にならざるを得ない部分がある。表向きの平等主義とは相反して宗教活動実践者同士では厳然とそうである。 その意味では他民族、異民族、異教徒を差別しない純粋にグローバルな宗教等世界に一つもない。しかしその事実は裏を返せば、その閉じた仲間内でのドメスティシティ自体はある程度どの宗教にもある訳だから、その点でのみユニヴァーサルである。
愛は確かに一方では宗教的な慣習性とは別個の理性論に拠って習俗文化を超越する。しかし私自身は日本人であり、死ねば土に還るという発想も色濃く持っている。これは日本での仏教風土的感性と言ってよい。恐らく欧米人にはないものである。日本人には逆に弁証法にせよ論理思考にせよ、所謂欧米人的な哲学論理思考自体が文化的にはない。
従って愛の在り方とか愛を論じる仕方も欧米人と日本人一般とでユニヴァーサルに理解し合えるとは限らない。
宗教的死生観が異なれば当然社会倫理的な色々な意味での通念や不文律も異なってくる。当然その不文律自体の考察や分析はユニヴァーサルに行えるだろう。しかしそれはあくまで学者や研究者間の中でのみである。つまり愛はそれ自体ハグし合う習慣がある欧米とそうでない日本(欧米では赤ん坊をハグする事は少なくても、大人同士は逆にハグし合うし、その点では五輪等に出場する海外経験の豊富なアスリート達以外は日本では今でも他人とハグし合う習慣はない)とでは当然セックスの感性も異なってくる。性愛自体が文化習俗的な感性に彩られていると言える。
それでも国際結婚もあり得るし、ビジネス上ではあらゆる異なった文化圏と交流しなければいけない現代人は常にドメスティシティとユニヴァーサリティというダブルスタンダードを理性論的に携えていかなければならない。
国際政治では愛はマララ・ユスフザイさんの様な人倫的演説でしか把握出来ない。しかしユスフザイさんが女性へ教育を訴えても、尚イスラム教の文化習俗自体は消滅しない。アメリカでも南アでも黒人は白人とは異なった文化ルーツも持っている。ヒスパニックも又白人とも黒人とも異なった文化背景がある。そういった異民族同士が共存し合うという事実は、我々に愛の普遍性を考えずに済ます事を許さない。だから逆に愛を文化習俗的異性から法それ自体が民族毎に多様であると捉える処から論議を進めていくしかないとも言える。
此処で一つの結論に達した。愛の普遍性を論じるには、法の個別性と個がどう向き合うべきかという事に尽きる、という事である。
次回からは法の個別性が愛の普遍性へ抵触し得るか、もしそうだとしたら、どう考えたらよいか、を考えていこう。

Monday, October 27, 2014

シリーズ 愛と法 第十三章 種と愛の在り方

 重要な事とは、私達は普遍という事を念頭に生きていく訳ではないという事だ。普遍とは私達一個一個の個にとって具体的であらゆる固有の条件を背負って生きていく上で人生の途上の何時か何等かの瞬間に悟る様なもので(と言ってそれは何かそういう価値あるものとして見出さなければいけない様なものでなく)、悟る事に拠って生きていく上での自信とか安心を得るだけの事であり、例えば私なら日本のある場所に生まれ其処に何年か居て別の場所へ引っ越しという様な極めて具体的な私自身が幼い頃には私自身の力ではどうにもならない外部からの強制に拠って、その限定的条件の下で成長していかざるを得ず、その固有の条件自体へ好き嫌いとか不平不満等言い様もないものである。
 つまりそういう風に誰しもが付与された(付与する者が神であれカミであれ仏であれ何であれ)固有の条件下で我々は生きていくとは何かを自分なりに見出していく他あり得ず、普遍が最初から与えられている訳ではないという事だ。
 日本では前世、来世を論う仏教は奈良時代に定着していった訳だが、遣唐使等の施策以前的に国家規模の統一を図るものは神道だった訳だが、神道は現世的宗教であり、死者を穢れとして捉える。従って天皇等の古墳(墳墓)は須らく生者の近寄っていくべき場所でなく、死の穢れを鎮める意味合いがあり、神社でお祓い等の祈祷をするのも、当然の事ながら死への穢れを祓う意図のものである。死者の鎮魂や供養は仏教が担ってきた。それでも日本では神仏混淆であったが、明治政府に拠り神仏が分離される運びとなって現在へ至っている。
 対し台湾では明治政府的な神仏分離的意図が政府に拠って為された事がなかった為に江戸期以前の日本同様、神仏は今も混淆的である。しかも中国では毛沢東の文化大革命に拠り仏教寺社等を破壊して無宗教的国家へ再生されたので、今ではそれ以前の中国の宗教伝統的文化の名残は却って台湾か香港に残存するという訳だ。
 中国大陸では長江(揚子江)を境にそれより北では仏教が、それより南では道教が一般的に文化的に強く、道教では神仙思想と老荘思想とで役割分担され、前者では大極という中心(渦巻き的システム。此処等辺は極めてワトソンとクリックの二重螺旋を彷彿させる)を持つ陰陽五行等(日本では安倍晴明に拠る陰陽師として継承されてきている。神戸に唯一道教の寺がある)の風水等の方位学的知見等を生んできた訳だが、日本の神社でも大きな建物を神宮と称し、それ以外を神社としている様に台湾では、大きなものを宮、小さな一般的な神社的役割のものは廟と称している。
 仏教はそれ以外でも台湾でも存在し、その点では明治政府神仏分離以前的な日本と今の台湾は酷似している。
 宗教伝統的格式とか風習とかは好き嫌いを問わずどの国でもどの地域でも誰しもが幼い頃から自然と身に付けており、それは個人の選択以前の問題である。個人の自由意志とか選択とかは、あくまでそういった強制的などの自己にも課せられる運命的な条件(生まれてくる時に男女とかトランスとかの条件がある様に)を付与され、誰しもがそれを背負う形で成長していく過程で理性とか道義とか正義とか倫理とかを学ぶ内に自ら掴み取っていくものとして後発的に意識されるものであり、その理性的な判断とは、あくまで誰しもが逃れられない個に背負わされた、付与された固有の条件というものの上で成立するものなのだ。
 田辺元はその事に就いて師の西田幾多郎からの教えや訓示以外でも懊悩し、『種の原理』を著したが、それが戦争を正当化する軍部に利用され、その事実への贖罪心理から戦後直ぐに『懺悔道の哲学』を著した。だが彼の内部での信念は理論的な意味で種という発想自体を否定するものではなく、あくまでそれへ軍部利用されていったプロセスに内在する自分自身のどうする事も出来なかった運命へ必死に懺悔に拠って抵抗を試みたと言う事が出来る。
 田辺が大きく後年啓発されたハイデガーは既に田辺的な観念には若い頃に到達していた。田辺はそれを発見する事で、ハイデガーと自分とを比較検討したりして、最終的にはハイデガー批判をも兼ね備えた理論と論理へ到達した。
 ハイデガーは『存在と時間』で既に今日の分析哲学が現象性として考える個の他者との間のどうしようもない孤絶性を死というものの主体にとっての逃れられなさと、他者から介入される事の無い事を、唯主体的な責任付与的運命の下に描出していた。
 その後の著作である『現象学の根本問題』ではその主体の運命を実在論として存在論として、本質存在(エッセンティア)と事実存在(エクシステンティア)という風に二分させ概念設定する事でその主体の運命的な条件と生きるという事の真理を見出そうとした。ハイデガーは愛という様な語彙は使用しない。哲学として存在論としてそういう判断を哲学では保留するという事が一つの哲学者固有の自己判断であり倫理である。科学者も今度は倫理それ自体を論じないという倫理がある。それは科学者の領分ではないという自覚に拠ってである。
 つまりそれこそが主体のどうしようもなく背負わされた運命であり、固有の個としての条件であり、普遍は或いはその逃れられなさに於いてのみ誰しもに拠って実感され得るものかも知れない。愛もそうである。それはキリスト教の様にそれ自体としてダイレクトにイエスやヨハネに拠って言及される場合でも、哲学の様にそれ自体として論われる事を保留される場合でも、誰しもが固有の条件からは逃れられないという運命的な個の他者からの隔絶、孤絶その事を言うのかも知れない。
 つまり主体の運命、命運的な固有条件、絶対的に一回性的な出来事や背負わされたものの孤絶性、隔絶的孤独の持つ本質的には他者に委ねる事の絶対不可能性に於いて、真理とか普遍というものが考えられるなら、愛も又公的な道徳として如何に説得力を持って説かれても尚、最終的には主体の自己判断、自己決裁に拠って履行していかざるを得ない一つの他者への手の差出、与えるという事の行為実践である。自分の心の中のどういう状態を他者へ何かを差し出す、与えるという事を意味するかは、終ぞ誰から教わるものでも、教えて貰い納得するものでもない。
 それは率直に自己で何かを為して精神的に充足しているか否かの自己判断にのみ委ねられている。他者の愛が自己の愛と相同であるかとか、自己の愛が他者への差出とか与えに値するかを他者に判断して貰う様なものではあり得ない。つまりその判断の主体へ全面的に委託されたという意味こそ、愛の本質である。愛の本質は従って法それ自体の目の行き届くものではない。何故なら法は目の行き届く範囲に常に留まるからだ。しかし如何に他者から感謝されようが、如何に法的にその行為は愛に値すると迄判断されようが、その事と自己内の精神の充足とか悔いが無いのかそうでないのかとは別個の事である。
 キリスト教で説く愛が他者への与えであるとしたら、それは他者が自己に拠って与えたものをどうするか、どう受け取るか自体が他者へ委ねられ、その部分での決裁に関し与えた者もどうする事も出来ない、それを踏み越える事の互いでの出来なさこそ一つの主張であり、キリスト教的悟りと言える。キリスト教は一般社会的な法を説いているのではない。しかしキリスト教的愛の法があるとしても尚(それを一つの愛の与えとして受け取ったとしても尚)、それはその与えに対する受け取りに関して、何人たりとも越権する事が出来ない、それは神でもである(その事は永井均が『私、今そして神』で述べていた事である)という一種のどうしようもない我々全体への突っ放し以外ではない。
 このある種の主体という事、現象的な私という事の内でしか個の精神的充足感を認める事の出来なさの神さえもの踏み越えられなさに対して現代哲学は提言しているのだし、宗教伝統文化慣習もその事を恐らく太古より習熟していた筈であり、民主主義とか社会倫理とか言っても、それは外在的法でしかなく、内在的な法以前的な主体の自己判断性は誰しもが誰からも踏み越えられ得ず、踏み越え得ず、その突っ放しそれ自体の中でしか全ての愛への論議は為され得ず、それを認める処からだけ、この様に論述している言語自体も運用され得るのだという事以外ではない。(つづき)

Wednesday, October 15, 2014

シリーズ 愛と法 第十二章 宗教のアヘン性と聖書/科学の時代の逆行不可能性

重要な事は、愛が意外と制度、我々が誠実だと思ったり、正義だと思ったりといった外的強制と無縁には成立していない、何故なら我々が社会で生活しているからだと納得しても尚、それだけでないもっと絶対的純粋な信念はあり得るだろうかと問う誠実性が哲学者的立場の人達だけのものであり得るかと問えば、そうでないし、哲学者とは只単にそういうロールとして社会で(好かれているとかそうでないとかとは関わりなく)認定されているに過ぎず、哲学的思念、思索は誰しもが持てる筈だし、それを「哲学」としてでなく人生上での対自的訓戒として生きていく場合、愛が慣例的慣習的な儀礼性としてだけでなく、もっと自己信念とダイレクトに絆を持ち得るある種の信仰にもなり得るものと捉えれば、そう捉える仕方も決して特権的な思索ではないと分かる事である。
そもそもキリスト教の場合は愛の在り方そのものを社会儀礼性や慣例性、慣習性から切り離して、それ自体の価値を問う試みとしての宗教でもあった。キリスト教自体(イエスもヨハネも含めて)、従ってパリサイ人、律法学者達にとって危険思想そのものであった。イエスやヨハネの行っていた事は、パリサイ人や律法学者達が考えている様な職業とか社会、つまり閉じたコミュニティで承認されている地位としての行為ではない愛の在り方を説く、哲学者風に言えば誠実性の問いだったからである。
しかし実際実利的な方向に宗教文化とは裏腹に人類は歩んできた。社会機能維持インフラの全ては科学的知に支えられて進化してきたと言える。交通機関がそうであるし、貨幣経済の合理主義的経済秩序がそうであるし、教育をはじめとする全ての社会文化インフラがそうである。寧ろ愛の誠実性的在り方を説く宗教とは、そういったインフラ整備へと人類が邁進する事になる基盤としてはどの国家民族でも必要であったものの、それが確定的に文化様相として不動点、つまりふらふらとどっちつかずでいるより、何処かに定める(例えば此処は祈る神聖な場所であるとか、此処は糞尿を排泄する不浄の場所であるとかの)地点に到達すれば、既にそれは儀礼化されてしまい、後は具体的なインフラ整備へと人類の視点は移行していった。つまり科学がそういうインフラ整備の為の方便を得て具体的に始動してしまえば、既に儀礼的なああでもないこうでもないという試行錯誤は停止され、具体的行動へと意識のアスペクトが移行するのだ。
従ってそうなってしまった後に、否キリスト教の教えの誠実性は可笑しい、本当はこうであるべきだと言っても、それは全て危険思想と見做される。それは日本の様に仏教的思想文化の移植、儒教文化の移植を執り行って来た民族でも神道的な清めや不浄さへの忌避等の想念は変わらず規定し続けるのと同じだ。 現代社会で生活する我々は宗教が世界を引率するには、余りにも科学の恩恵を得過ぎた。科学への日常的な安穏な肯定こそが我々の宗教儀礼性さえ文化として認識する自然な信仰だと言ってさえいい。
科学への信仰の正当性への疑いなさこそが宗教戦争に明け暮れた中世以降は、試行錯誤の時代ではないと警鐘を鳴らす信仰であり続け、それが少なくとも世界大戦の時代以降は定番となってきている。宗教で人類史を打開させる事を少なくともキリスト教文化圏と日中韓、北・東南アジアでは(イスラム教文化圏以外では)忌避されている。其処では民主主義が一応体裁上では北朝鮮、中国を除き宗教で駆動させる国家機能、社会機能ではない(そう考える点では北も中国もそうである)事を証明する為の方便となっている。
キリスト教のユニヴァーサリティと我々が勝手に受け取っている事は、そういった国家社会集団の不文律的な慣例性慣習性から解放されて尚価値を容認されるものとして愛の在り方を個人の選択として受け取ろうという事が、勿論其処には民族伝統的思考回路もあるのだが、主題としては唱えられていたという認識なのだ。従ってマルクスが宗教とはアヘンであると言った時、それは暗にキリスト教さえ懐疑的俎板に載せてよいのだとしているが、それはそういう思考が発生し得る地点にやはりキリスト教の唱える個人の選択(儀礼的規約外的な個人主義宗教説諭)を前提していた、と言える。聖書は旧約の段階では通史観的ユダヤ民族選択物語であり、その歴史的事実の持つ人間実像への解釈が主題であるが、新約聖書ではそれを通した愛の在り方の理性論的規定、つまり定言命法示唆としての問答が中心なのだ。
その意味では今日我々が社会正義として受け取っている民主主義、自由平等友愛とは全てキリスト教新約聖書中心主義的、つまり聖書問答の弁証法を基本としたものである。其処に疑いを持つ事は基督教的には異教者という事となるのだ。従ってもしキリスト教さえも一つの選択肢でしかないと受け取ればゾロアスター教、マニ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、道教、儒教、神道といった全ては対等となる。すると当然イスラム国の思想そのものも、イスラム教から派生した一つの思想ともなってしまい、それ自体完全存在否定は出来なくなる。それをも哲学的誠実性やキリスト教の個人選択、愛の在り方への問いは思考する自由は与える。
勿論イスラム国的仕方は決して正しいとは言えない。そう我々は直観する。だがそう言い切る為の根拠は自由でも愛でも、それ自体を誠実に個人に問えという形での問題提起に尽きる。自由や愛の在り方自体を問う事の自由迄我々は規定してしまっているのだ。問う事の自由をアナーキーに保証し得るとしたら、しかし何でも思想としては在りとなってしまう(哲学では何でも在りなのだが)。それは可笑しいとしか思えない。しかしそれが可笑しいと言い切る根拠を問わずして何になろう、と自由が規定(?)する自由に自由や愛をさえ考える事を保証する理性がそう囁く。しかし本当にそうなのだろうか?そういうある種の経済や国家に関して思想実践したマルクス主義的な思考実験の愛版、自由版が今も尚有効だろうか?それは当然科学こそ正義であるという観念に対してさえ差し向けられ得るだろう。
次回はその問いに対して、まずキリスト教以外の宗教の死生観から考えていってみよう。