Thursday, June 21, 2012

〔言語の進化と責任〕第八章 信仰と言語

 理性は責任を勇気付けるが、理性があるからこそ我々は信仰を持つことが出来るのだ。それは有神論者も無神論者も、合理的実利主義者も観念論者も唯物論者も等しく作用させている現実ではないだろうか?恐らくその事実を自ら納得するために我々は言語を利用してきたのだ。だから信仰と言語の関係を論じる時、我々は責任と理性の連携プレーに注目する必要がある。
 キルケゴールは「不安の概念」において原罪、罪といった事実に対して真摯に向き合っているが、その際にヘーゲル流の弁証法では推し量れないと考えていた。しかし何故彼はヘーゲルを批判する必要があったのだろうか?
 ヘーゲルにとって理性は問うべきものではなく、既に前提されていた。しかしそれは彼の主張する他性と承認を限定付ける必要性のための方便だった。しかし理性はカントが問うよりも遥か以前から問うより先に認めるべき対象だった。そして二十世紀においてある時期積極的に理性は問うことから遠ざけられた。しかし今再び我々は理性に向き合う時期に来ていると私は考えている。そしてその際に責任が行動を理性の俎板で料理することを招聘しているのだ、と考えているのだ。行動のない現実においては理性はその存在理由を失うからだ。ヘーゲルは敢えて社会哲学的視野に徹底することによってあるいは彼の後の時代のキルケゴールを待ち望んでいたという風にも捉えられる。それは恐らくカントがヘーゲルのような存在を待ち望んでいたようにである。
 哲学の場合宗教的信仰と異なり、同一の心的志向性に対して結束することを潔しとしない。寧ろ共鳴することが批判することによって初めて意味を生じるような出会いを彼等はモットーとしている。この点では哲学は科学と相同のメカニズムを持つ。勿論宗教においても恐らく宗派毎の思想の差異主張が、それ自体他の宗派に対する批判として作用しているという現実は極めて大きいと言えるだろう。しかし宗教は信仰心の多大なエネルギーの解放が、ややもすると統一を宗派間の相違にもかかわらず求めるということを潔しとしてこなかった。もしそのような作用がなされたとすればそれは寧ろ政治レヴェルでの解決だったに過ぎない。(例えばカルケゴン公会議)
 政治は確かに哲学においても科学においても大きな作用を思想全体に波及させてきた。しかし政治自体が哲学や科学に対しディタッチメント的な存在理由を与えてきたとも言える。私が言っている政治とはただ職業政治家による政治のことを指すのではない。それをも含み、哲学者たち自身、科学者自身の立場の主張といった事実を寧ろ主体としたものである。
 キルケゴールがヘーゲルを批判したのは、統一することが可能であるような理想郷を彼がどこかで想念していたのではないか、ということに対する懐疑に他ならない。懐疑的主張もまたある意味では政治的発言である。
 ところで私は最近歯科医にかかり治療して貰っているのだが、治療のために麻酔を効かせることを私のかかりつけの歯科医が試みるのだが、私は他の人よりも麻酔にかかり難いタイプだと歯科医は私に告げた。私のような思索家はある意味で懐疑主義者である。そういうタイプの性格では麻酔に対して従順に対応するということが神経レヴェルでも困難なのかも知れない。それはそうだろうと私は思った。神経と精神は密接な関係にあるからである。
 さて生とは何かという問いをいざ提出されると誰しも「無意味ではないのか。」とそう容易には返答出来ない。しかしサルトル的に「人生とは無益な受難である。」と言う風に押し切れば、意外と後はすっきりする。つまり生そのものに意味を見出さずには生きられない動物として我々は人間を規定することが出来る。生とは意味的世界の拡充を目的とすることで無意味を克服しているのだ、と捉えた方がずっとよい。そして哲学はそこに付け入って存在してきたのだ。だから私が言う信仰とはある意味では哲学に対する恩返しという側面もあることは否めない。しかし信仰と位置付けることが宗教的信仰心と乖離した地点でなされ得るというところに意味があるのだ。何故ならウィリアム・ジェームスの説話している禁欲という心的様相は、実は無宗教者にも全く当て嵌まる経験だからだ。いや寧ろ無宗教、無神論であるが故に禁欲的な道徳律が必要になる、という事態も稀ではないだろう。
 それは心の平衡を保つためにある意味では無謀な心理に陥らないようにするには、自己内の欲求を必要以上に発動させないように心掛けるしか手がないからだ。そしてそうするためには自己内の欲望を禁止することが最も手っ取り早いというわけである。そのように心掛けることはキリスト教徒的な道徳律で原罪を理解するということではなくても、例えば身体論的に欲望を控えめに、という心得であっても同じことである。この姿を見てキリスト者たちは「それ見たことか。彼もまた原罪を認めたのだ。」とそう言うかも知れない。しかしアンチ・キリスト者はこう言うだろう。「そもそもキリスト教が原罪なる観念を提出したのは、身体論的なメカニズムに端を発しているのだ。」と。
 それは発言における責任の在り方にまで関係してくる。例えばある法案に賛成の者が殆どであと残り一人になったあなたが
「賛成します。」
と言うのが最も他の成員全員にとっては好都合である筈だ。しかしあなたはそうすることが内心では出来ない。だから「反対です。」と真っ向から言えないような状況下でも尚、無意識にプロテスト精神が浮上し、
「賛成したいのですが。」
と発語の方が勝手にあなたの優柔不断を払拭しようと試みる。しかしその次の句が問題だ。
「賛成することは出来ません。」か「賛成しかねます。」
と言うという選択もある。しかし他方
「もっと最適な法案には出来ないものでしょうか?」
と言う選択肢もあるのだ。あるいは
「もっと何とかならないものでしょうか?」
と言うことも出来る。これはある意味では否定するだけではなく建設的であり、改善意欲を促進する言い方である。
 人間は誤りを犯す動物である。それを認めることをしながら、それでも改良することでその傾向性を克服することが可能だという希望の光が後者の発言には感じられはしないだろうか?そして付和雷同しようとしていた心的逡巡を吹っ切るような一言を発するという事態は、身体論的なメカニズムであり、ストレスを溜め込んで精神的に落ち込むことを未然に防止しつつ発散するように側頭葉のブローカ野が発動したのかも知れない。  ウィトゲンシュタインの哲学を通して理解出来ることとは、言語使用とは言語表現領域に自ずと限界を設ける行為であるということである。しかしそのように限界を設けるまでは私たちの存在はテレンス・W・ディーコンの言う設定された閉鎖系ではなく、開放系である、ということである。開かれつつ閉ざしていくことで言語を通してコミュニケーションしているわけである。そういう意味では言語行為とは一面では他者に対して開かれていて、共鳴することだが、一面では他者に対して決然とした態度を採ることでもある。その二面性が言語行為の本質であり、そこに責任が関わってくる。
 例えば言語学では内部否定と外部否定というのがある。前者は
You must not do it.
であり、後者は You may not do it.
である。この二つの場合最初のものは
「あなたはそれをしてはいけない<ということを肝に銘じておかなくてはなりません>。」
というニュアンスの意味で、後者は
「あなたがそれをすることは許されません。」
というニュアンスの意味である。
 前者は明らかに説得型に近い説諭型である。それは対話手としての他者の自発性を尊重している発言である。それは自発的禁止の勧告である。要するに~をしないように心掛けなくてはならないということである。しかし後者は自発的であれ、外部強制的であれ、それをしたら駄目だということは有無を言わさぬということであり、禁止条例的、禁止事項無条件的である。前者にはそうしないと重大な結果を招くという警告のニュアンスがあるのに対して、後者は明らかに命令である。そこには他者に対する責任を見守るという尊重性は皆無なのだ。
 私たちの日常では「賛成したいのですが。」型の発言を言い残し立ち去るということもある。それは議会のような場所では特殊なケースであるが、日常では頻繁に起り得ることである。しかしこれは責任というレヴェルから考えると責任放棄であり、無責任である。説明能力があってそうするのなら良心はない。しかし説明能力がなくてそうするのなら、それは大勢に対するささやかな抵抗ということになる。
 ここで責任とはある意味で自己能力に対する自己査定と無縁ではないということにもなる。つまり責任放棄は一番手っ取り早い大勢に対する抵抗であり、責任を負うということは自己能力を他者から求められていることに対する自覚であると同時に、それを請け負うという意識の発動だ、ということになる。そしてここでもう一つ重要なこととは、他者に対して責任を負わせることに内在する信頼性を他者に託するか託さないかということ(そのどちらが良心的であり、思い遣りがあるかどうかは難しい問題であるが)がある発言に対してどのようなスタイルを選択することに直結するかということである。この問題は例えば経済社会でM&Aを徹底的に防御するか、ある程度自由にさせるかという選択、あるいは政治家はどこまで国民や市民に対する責任を負うべきかある一定以上は負うべきではないかという選択をも、決することとなる重要な問題である。
 つまり他者に対して信頼することに主眼を置くか、それとも他者とはすべからく信頼すべきものではなく懐疑的対象なのだから、それを念頭に入れて他者に接するということを選ぶことの自由も含めた選択肢の問題へと繋がってゆく。もっと簡単に言えばあまりに他者に対して自主性に任せるということは放任という事態にもなるし、そうかと言ってあまりにも他者に対して規制をかけるということは自由の原則にも反することになるが、ある一定の力量や能力のある者に対して他者の能力とその責任に対して委ねるという行為は、そこまでの実力のない者には負担となるということは社会ではよくあることだからである。
 つまり我々は常に自己の能力に対する自信の度合いで他者に対してどのように接するべきかという行為の際における判断をしているのだ。実はこの問題は人類は延々と繰り返してきたのだが、未だに決着はついていないのだ。そして恐らくこれからも決して解決するということはないだろう。しかしこれだけは言える。アンリのような哲学者たちが書く行為自体が信仰であったように、これからも問うこと自体が信仰であるような思念を私たち人類は捨て去ることは出来ないだろう、ということである。

Saturday, June 9, 2012

〔言語の進化と責任〕第七章 責任と真意

 人間は嘘をつくこともあるし、真意を隠蔽し、偽装もする。しかし少なくとも意思疎通するということそのものに対して同意することにおいては、そのような不遜な輩でさえ真意を隠蔽することは出来ない。「今ちょっと話したい気分じゃないんだ。」ときちんと明示することで意思疎通を避けることは出来る。そしてこれが重要であるのだが、言語行為上での意思疎通の進化とは、必ず真意を表出することで遂げられてきた、ということである。何故ならば真意を隠蔽したり、偽装したり、嘘をつくことはそういう言語行為全体の進化過程における利己的成員による特殊な例外であり、彼等ですら全成員による言語行為の進化過程に対して些細ながらも貢献しているからである。(注、最近私はとどのつまり、それも表情を伴い、言葉尻だけではないと考えている。)
 事実責任の消極的取り方として本論で取り沙汰されてきた「誓います。」型言辞が、メッセージとしては最も消極的であっても、そう誓うことで、他成員に対してある規約に於いてつき従う意志を表明することによって規約に則った生活レヴェルでのある共同体への同意が示されているからである。
 私は「責任論」においてある時には人間は責任を良心に随順させ、ある時には良心を責任に随順させ、つまり責任と良心をある時には協力させ、ある時には敵対させつつ言語行為を進化させ意思疎通と全行動をしてきたと考えた。その考えに今でも変わりはない。しかし少なくとも良心と責任が百パーセント合致し得る地点の人間の感情と立場があり、それが愛であろう。しかしその愛を定言命法とカントのように規定する必要は我々にはあるまい。つまり愛とは概念化作用として我々に到来するものではないのだ。
 本来意思疎通の進歩も進化も全成員の内発的要求によってなし得るのであり、仮に嘘つき成員がいたとしても尚、彼等のメリットは遠からず減少していっただろうということは、ウィリアム・ハミルトンからロバート・トリヴァースの血縁利己主義から、非血縁協力的利他主義(戦略的利他主義)へと移行していった論争を見れば明らかであろう。端的に進化とはサヴァイヴァル的な意図によるものであり、決してそこには偽装性は介在しない。だから言語行為を通した意思疎通の意識レヴェルの進化過程には必ず全成員の内発的要求をベースとした真意表出を前提とした言語行為の意識レヴェルの推移が見られる筈なのである。
 しかし問題となるのは真意を一体誰に対して採るのか、ということなのだ。責任を負うべき対象とは通常他者である。しかし責任は山奥に一人で生活する者にも付き纏う。彼にとって自己管理すべき生活全体の調和が責任を採るべき対象として浮上するだろう。しかしまた別の採るべき責任の対象がある。それが神である。少なくとも人類は西欧社会に限らず、神という霊力を備えた観念を保持してから後は、そういう観念のなかった時代での状況下の思念とは別個の心的状態を保持してきた、と言えよう。しかしよく考えてみると、神という観念は未来に対する希望とか願望、あるいは過去に対する後悔と反省によって完全という観念、完璧に遂行する能力に対する憧れが人類に思念的に出現した時以来備わったと考えてよい。しかし神の観念はある程度の永続的な生活上での秩序を追い求め、その過程での人類全体の願望を打ち砕くような自然災害や人的災害が発生して後に出現するという事態が最も思惟上自然に感じられるので、恐らくそれ以前的には他性認識によって自己認識を得るような原始自我論的な思念に支配されていた人類は、原初的な我と汝という観念をまず抱いたということは考えられる。
 そしてやがてミニマルな共同体的幻想を手中に収めた人類は、希望や願望を打ち砕く現実の過酷さの前で初めての実存認識を得ることとなる。その時神は必然的に思惟に浮上してきた筈だ。そこで責任を採るべき対象とは成員としての自己の帰属する当の共同体に対してと、我と汝の汝に対してと、我自身に対してと、そして最後に神に対してというこの四つのパターンが考えられる。そして共同体に対して持つ責任は、やがて社会一般という形で通常我々が保持する責任感、例えば社会的義務に直結してゆく。
 人間は責任の所在によって自我を形成するとも言える。そして自我とは積極的な自己信念にも繋がるが、同時に極めて脆弱な付和雷同にも繋がる。付和雷同という事態にまで至らなくても、社会一般に対する責任の遂行とは自己信念という確固たる心的作用と違って、概ね世間一般の常識に対する抵抗心は無頓着であり、文化コードに対する盲目の追随心や社会的コードから逸脱することを忌避したいと願う羞恥によって支えられている。
 この責任を社会的に遂行することの原初的形態としての他性認識を支えるものを原羞恥と呼ぼう。そしてその実践においてなされる各行動を支えるものを原音楽と呼ぼう。
 原音楽は過去において適切に「合わせられなかった」経験において学習させられ、ワーキングメモリー(遣り方記憶)としてその時々で常習化されている。
 信仰とは責任が生む。信仰は対社会的には職業行為となって顕現し、対自己的には金銭的利益のためだけではない、よい仕事(自分<自己信念>にとって納得出来る)をしようという意志(的決意)となる。それは対他的にも対自的にもより真意を真摯に表出させる。
 責任は言語活動を支える。責任は言語行為を社会行為に、言語ゲームを社会ゲームにする。しかし人間は社会全体に対してそう安易にノーを突付けるということをすることはない。よくよくのこと(自己信念を揺るがすような事態に遭遇するとかの)がない限りはノーの発言は差し控えようとする。人間の原羞恥と原音楽を結び付け、社会行動という原羞恥を原音楽に連繋プレーさせようとする、この二つのタイアップを実現させようとするものこそ責任である。
 責任は採るべき対象に対して真摯であることにおいては真意である。しかし汝に対してにせよ、社会に対してにせよ、ただ「合わせる」ことで他に自己に対して降り懸かる災厄を回避する意味でなされるのなら真意であるよりは妥協である。しかし妥協は永続的には続かないだろう。そして嘘つきが活躍したりするのは、あるいは妥協的責任の取り方が効力を持つのは、あくまで真意の責任において社会が安定した後のことであり、そういった責任の取り方が社会形成に寄与するということはない、と言ってよい。
 私はアンリの記述が同一の主張から、徐々に横滑りするような主張の反復を「書くことが信仰である」として、その信仰に従順な徒として現象学の徒を示した。しかし現象学は本質的には論理実証主義者(論理的経験主義者)たちと真っ向から対立するべき要素に満ちている。と言うのも彼等は基本的に知覚、感覚を大きく取り上げ、それを言語に先行するものとして捉えているからだ。例えばウィリアム・ジェームスは少なくとも信仰心というものを真摯に捉えたが、感覚ということに関しては醒めた目も持っていた。感覚そのものよりも感覚的生活を選択する意志決定と行為の意味を彼は捉えたのだ。しかしフッサールをはじめ、メルロ・ポンティーもそうだったし、ハイデッガーは存在の気遣いという形で意識の感覚的な授受という現象を言語以上に重要な指針として捉えていた。この点において例えばウィトゲンシュタインの言語論にはそういうスタンスに真っ向から対立する要素があるのは、次の飯田隆の言述においても顕著であろう。
「形而上学的主張に対する両者のあいだ<シュリックとウィトゲンシュタインのショーペンハウアーに対する態度の採り方を巡る解釈の相違のこと。ウィトゲンシュタインはショーペンハウアーを批判するシュリックに反対して彼を擁護する姿勢を示した。管理人注加入>の態度の相違は、そうした主張を「無意味」とする理由の違いと密接に結び付いている。実証主義者にとって、そうした主張が無意味であるのは、その正誤を感覚的経験によって判定するすべがないからである。それに対して、感覚的経験は『論考』において何ら重要な役割を果たさない。形而上学的主張が無意味であるのは、それが、「思考の限界」を画する「言語の論理」に反するからである。」(「ウィトゲンシュタイン言語の限界」飯田隆著、44ページより、講談社刊)
 ウィトゲンシュタインは言語を知識、認識、理解の限界として考えていた。それは言語という理解するための手段を内側から捉えた考え方である。しかし現象学では言語行為それ自体を取り巻く生、そして生活世界の現実に中で言語を支える現象に主眼を置いた哲学的態度であったのだ。つまりウィトゲンシュタインは言語を語られた事実として意味内容的世界の現実を意味を形成する収束的な決定に重きを置き、フッサールと彼の後継者たちは特に収束する以前の前言語状態に重きを置いたと言える。この点である認識、ある理解ということに関してウィトゲンシュタインは主観主義的あるいは内在主義的であり、フッサール等は客観主義的、あるいは外在主義的であると言えよう。
 アンリの言う情感性という観念に対して私は情動と等価あるいは非常に近い認識だと言ったが、彼は情動という語彙も僅かながら使用していた。その意味では情感とは情動を感知する感覚主体の受動的な意識化作用のことを言っているのだ、と私は解釈しているが、このような論説を微塵も持たない論理実証主義者、あるいはその一派に信奉厚いウィトゲンシュタインの哲学には意味という概念の現象学の取り残した徹底追求のスタンスが伺える。現象学では意味は感情とア・プリオリに一体化されているからだ。
 そこでここでは感覚と責任、そして意味と責任という形での検討において言語行為とそれを取り巻く現実(実存と言ってもよい)から責任と言語の進化過程について考えていってみようと思う。
 有史以来哲学者たちは理性をア・プリオリなものとして論じてきた。しかし当初人類の祖先たちにとって理性とはほんの偶然的な日常的発見であったろう。その偶然を必然化する作業が言語の進化であり、思想の確立であり、哲学の歴史であった筈だ。人間には言語化され得ない感覚がある。しかしその言語化され得ないという事実認識には、言語を必要とするのだ。それがまずあるからこそ、それでは言い表せないという感覚が生じる。しかし責任にもまた言語化され得る責任と、そうではないもっと人間の生の原初的な責任というものもあると思う。例えば欲求に対する真意というものは、意味化された真意にはない生の基本的衝動がある。しかし我々はそれを他者に説明する時、非言語的欲求を、言語的に説明することで、その欲求を正当化しようとする。正当化されたものには意味が付帯する。意味は欲求の正当化と言ってもよい。意味が言語の存在理由を開示するのだ。
 だが我々は価値という観念も持っている。この価値というものと意味とはどのような関係にあるのだろうか?
 例えば感覚に対して欲求が「これこそがその感覚だ」と例えば職人とか芸術家とかがある作品を完成する瞬間を査定する時、「これでいいだろう。これで行こう。」と判断する時感覚に対する責任が持たれる。しかし意味はその感覚を他の感覚との相関の中で、正当な位置付け作用を施す。そのように峻別化作用をした時、感覚には意味が生じる。それはある得体の知れぬ感覚が必然化された瞬間である。そして言語それ自体にも言語そのものの感覚があり、その事実が言語行為と名の付く全て、言語活動として捉えられる全てが、実は言語外のものに取り囲まれているという事実が意味によって初めて明らかになるのだ。つまり意味とは非言語的な無意味に対する覚醒剤の役割はあるのである。
 意味が言語を言語から解放する。しかし価値は言語を再び意味に結び付けようとする。価値は意味、感覚それら全ての観念を総合化しようとするのだ。
 価値は相関性の中に全てを位置付ける。だからこそ価値は制度を生み出すのである。意味と言語の関係は言語と非言語の結び付きを見出し、価値と言語の関係は言語と非言語を峻別しようとする。境界を設けようとする。価値は意味を主張しようとするのだ。そしてそれは予め備わっていた真理であると意味に宣言するのだ(それは意味に対して存在の優位を宣言することである)。意味は価値によって正当化されるが、正当化された瞬間に再び感覚にその存在理由を委ねる。それは感覚が存在の証人だからである。意味は存在者の主体にとって対象化されたものへの感情に他ならない。故に意味の責任は欲求に対する真意であり、価値の責任は欲求に対する真理の優位を欲求に言い聞かせる。
 だから哲学者ウィトゲンシュタインは意味を呼びつつ、価値による意味の主張を必然化させながら、真理とは無意味であることを主張するのだ。つまり見出された瞬間意味は無意味化するという現実を見据えたのが彼だったのだ。だから理解や解釈、あるいは使用、慣用といった日常的現実をウィトゲンシュタインは言語の限界から考えたのだが、それは言語が非言語領域に取り囲まれて存在理由を持っているという事実に対して、だから感覚それ自体を問うことは無意味なのだ、と言語の側の意味的位置付け作用、つまり言語の正当化の立場から「問い得ることには限界があるのだ。それは生きること、つまり感じることの前では無力である。」という主張を感覚を論じることの無力さを感じつつ、感覚を論じることを回避することによって、つまり言語的に理解し得ることのみに着目することによって行った、と捉えることが出来る。
 欲求の一人歩きを鎮めるものとは責任以外にはない。責任は全生命体の生きる意志を司っている。生命を全うすることそれ自体が責任の遂行なのだ。そして人間は責任をある時以来(恐らく言語行為を定着させた瞬間から)責任に対して意味化と価値化の両方を施し、倫理という考えを生じさせた。その日(瞬間)から人類は生命の意味と価値を、そして生きる責任を意味化し、価値化することで「感覚と意味」の一体化を図ったのだ。「感覚と意味」の一体化こそが言語を責任という柱で進化させてきたものに他ならない。
 通常我々は感覚というものを意味とは対極のものと理解しがちである。しかし意味に感覚は不可避であるし、感覚は必ず経験化されることで意味化される。つまり意味における感覚の付帯という現実と、感覚の意味付けという現実が、言語活動を、言語行為を進化させながら、言語と非言語の二つの領域を密接な共存価値として見出してきたのだ。
 しかし意味と価値の双方を、つまり対象に対する感情(意味)と、そのように感情を抱くこと自体を対象化すること(価値認識)を統一させるものは人間の行為に他ならない。そしてその人間の行為を人間が人間に対して宣言するものこそ信仰に他ならず、これは恐らく他のどの動物にも不可能な認識であると私は考えている。次章では私はいよいよテクストに示された事例と私が再び考える対話事例に基づいて信仰と言語について取り掛かろうと思う。

Friday, June 1, 2012

〔言語の進化と責任〕第六章 現代固有の信仰と新たな責任

 抗うつ薬が開発されることによって薬物依存が増加し、うつ状態に対する意識が鮮明化し、逆にそのような認識のなかった時代には然程意識せずに済ませていた病理に対する自覚が寧ろ顕在化し、各個人で自覚されるようになるという事態それ自体は既に昔のような素朴さを取り戻すことの不可能性を多くの世界市民が感じ取っている時代のように思える現代であるが、それはマスメディアとマスコミとネット社会が助長しているし、その現実自体を変更したいという風に多くの世界市民は感じていない。
 病気は常に新たに発見され作られるものだし、病気にならなくても健康そのものであるような状態の方があり得ないという真理の方に安らぎを感じるというのが現代人固有の心理であろう。
 そういった状況下で我々は現代固有の信仰を語彙に対する捉え方に顕著に認識することが出来る。昨今のテレビの芸能人や芸能人化した小説家たちによる対談番組ではしきりに「そのことがトラウマになって」というフレーズが多用される。しかし本来トラウマという概念は心理学でも精神分析でもそう容易く人前でそれを抱え込む事実を紹介するようなタイプのものとは異なる深刻な状態のことを指す筈だった。しかしちょっとした事実に対して比較的安易に現代人は「トラウマになって」と言う。これは自分を病理状態にいる側の成員に同化させることによって健康さをアピールして自己顕示欲が旺盛であることをアピールすることへの羞恥が巧みに自己顕示欲を隠蔽する戦略のように思えてならない。本来「トラウマ」という言葉はその事態に切迫した張本人たちにとってはもっと深刻である筈のものであるが、我々それほど病理的状態にあることのない成員たちの些細な日常に関しても適用して使用するという事実は、明らかに病理と非病理(健康ではない)の状態の無意識の等質化作用に他ならない。あるいはこの事実は病理的状態を異常と捉えることで発生する差別意識の撤廃を暗黙の内に全ての成員が望んでいるという事実と符合するのかも知れない。
 リン・マーギュリスとドリオン・セーガン親子が著した「性とは何か」(石川統訳、青土社刊)で二人は古典的熱力学を時間の対称性に、そして非平衡熱力学を時間の非対称性に依拠した考えであることを明示して、その基礎において性の在り方を捉えているのだが、我々の経過してきた時間と我々の時代は徐々に原点に戻るということはなく、私は最早人間のコミュニケーションはネット社会で変質したとしても、仮にそれ以前からあった潜在的なコミュニケーションの在り方自体が顕在化しただけのことにせよ、そうおいそれとは以前の旧態依然のコミュニケーションには戻らないという考えの人間である。その意味では質的な意味で人間社会は過去の事例を繰り返すということはあり得ない。そして語彙の使用の仕方自体も、ますますある専門分野の言説が他の多くの分野からマスコミ用語にまで常套化され、再びある専門分野の語彙へと特化されるということは決して起らないであろう。その際に我々は言語自体の在り方に対して新たな責任の在り方を模索しなくてはならないだろう。しかし本当にこのような事態というのは現代固有の状況だったのだろうか?あるいはいつの時代においても、そのような専門語彙の一般化現象自体が、現代固有の問題と思われていたというのが事実だったのではなかったろうか?
 例えば既に述べたベンジャミン・リベット(脳科学者)の主張するように、脳は人間がある行動を採ろうと思った瞬間以前に既に全ての意志決定をなしていて、我々の自由意志と感じるものの方が実はその脳の決定に従っているという事実は、例えば我々が自分の意志で好きになった異性に対して交際しようと決定しているものは、実は自分の意志以前に、身体論的にも、脳神経学的見地からしても意思発動以前であり、既に脳自体に決定されているということは感覚とか感性とか、情感とか情動は脳の前発動的な「構え」に対する従順な反応であるだけのことになる。その意味では全ての語彙はそれを使用する成員の等質化作用を助長するためにのみ誕生してきているとさえ言えるのかも知れない。寧ろ自由意志とは脳の決定を円滑に進行させるための方便であるということが次第に現代科学では明らかになりつつある。そして現代人の信仰とはある専門分野に特化された語彙を一般化し、ある特殊な病理状態にある成員の状態を一般人の健康状態に等質化するような新しい形での自己真意隠蔽型の新マルキシズムであるとさえ言える。するとその現代人を根底で支える心的な根拠としての責任に対する認識は必然的に古典的な責任感とは変質せざるを得ない。つまり「他人の悩み事に対してはほっといてあげる」対友人、対同僚の配慮というものが前提されていることになる。だからたとえ抗精神的病理薬による新たな病理状態の特化に対して、その病理状態を一般化させることによって新たな等質化の層を暗黙の内に認可し合うという責任の取り方が現代人には求められているのである。と言うよりも言語獲得以降の人類の思考パターンとは意外と「他人のことはほっといてあげる」型の感情を平常なものとして考えることの上で成立してきた、とさえ言えるからである。
 例えば記述という形で示される人間の言語行為とは、実は予め記述者が心的に設定した未来に対する予感と、その予感を正当化し得る仮説を他者に披露することで成立しているのだし、発話行為もまた発話する瞬間以前的に脳内で思念された未来への予感を、あるいはこれは記述に関しても言えることであるが、未来を想定することで過去を想起することをだぶらせているような心的状態での仮説を明示し、その明示によって逡巡を払拭し、新たな行動へと誘引するためになされているのだ。その意味では全ての言説は、記述であれ、発話行為であれJ・L・オースティンの言ったような意味でパフォマティヴであることは間違いない。ただオースティンは全てがパフォマティヴであると言いたかったが言わなかっただけのことである。もう一度第四章で述べた発話と記述の心的動機について明示しておこう。 ① 発語することで、その「語られる文章」や意味内容を記憶しようとする。要するに記憶したいことを発語する。語ることはそれだけで印象深い事実として語った内容は記憶に残る。 ② 発語することは発話者にとって意志決定することを意味する。発語することで、決意しようとする。(これはJ・L・オースティンのperformativeという概念の出所である。) ③ 発語することで心的な不安を除去する。人に何か聞いて貰うことで、不安を取り除き安心を得ようとする。(しかしこれはある程度気心が知れた対話者を必要とする。) ④ 自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これもまた対話者に対する信頼を必要とする。)
 しかし今、この四つの項目にもう一項目付け加えねばなるまい。それはこうであろう。 ⑤ 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読む)ことも、そうしないことも発話される側の自由だが、発話すること(記述すること)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。
 私が考えている「他人のことはほっといてあげる」型の配慮とは、現代に固有の個人的な対人関係の図式ではなく、もっと言語獲得の末に記述行為が発生した地点での言語行為の発話と記述の双方向性秩序の完成(それ以前的には他者心的領域に対する侵犯的発話というものも多くあったと思われるから)以来、継続された秩序だったのだが、その意味内容は近代合理主義とその崩壊に至るまで隠蔽されており、やっと今日現在に至って意識的に認識されるようになった、と私は考えているのだ。つまり「他人のことはほっといてあげる」型の対他的配慮とは、他者の能力と他者の良心と、他者の自発性の尊重であり、承認なのだ。そしてとりわけ行動主義以降の内観法の除去が、現代に齎した福として、我々は行動も重要であるが、行動を起こすことはその行動を決する背景と、行動を起こす成員の脳内での意志決定以前の必然性を全ての成員が携えているという事実に対する相互の覚醒と、そのことに関する相互の内的領域に対する詮索を控えるという事実が社会秩序としては最優先されるという事態を招聘しているということを我々に思い至らしめるのだ。
 実は私が言った等質化作用という現実は既にディルタイ、ジェームス、ニーチェにおいても示されていた。しかし彼等に共通に見られることというのは社会成員の「個」性に対する着眼が近代的合理主義に対する攻撃要員として理解されていた、ということである。その点ではフロイトもまた同様の存在として理解することが出来る。
 しかし現代では言語獲得の起源的な言語行為のモティヴェーションを探ることが現代コミュニケーションの行く末を見据えることと等価なものとして意識されているという事実の前で、「個」性は何かの破壊のための方策であるよりは、新たな共同幻想を模索するための方策として浮上してきているのではないだろうか?
 例えば国家とか政府とか、あるいは巨大化しつつある企業、コングロマリット、常習化するM&A(あるいはバイアウト)といった社会的事実は、仮に政府要人が暗殺されても、世界的企業が買収されて元の形が微塵もなくなっても、テロによって革命が仮に起きたとしても尚、革命以前とそう変わらない現実をネット社会自体が保持し続けるであろう。つまり「またそういうことが起きたね」型の認識を世界市民に市民感情として催すだけの反復が我々をどんなに不測の事態になっても待ち構えているということだけは何故だか我々にも容易に想像がつくのだ。
 そういう意味では歴史が我々の個々の驚愕を日常化してしまった。そのことを揺るぎない事実にしているものが現代ではマスメディア、マスコミである。しかしふと冷静に考えるとそれらも全ては言語行為の連鎖による常習化した現実認識に端を発する。そこで言語行為による常習化した現実認識に至るまでの段階を次のように考えてみよう。   ① 情報伝達必要性に対する認識の開示<サヴァイヴァル的状況>(自然環境の激変あるいは捕食者対策)、人類の結束。 ② 情報伝達必要性を満たすような意味世界の内的構築<サヴァイヴァル的状況打破への欲求>、他者に対する信頼の定着。 ③ 内的構築された意味世界の伝達方法の模索(言語行為の手段の模索)<言語行為への前夜>、この頃既に絵を人類は描いていた。社会の進化。 ④ 内的構築された意味世界の伝達方法を既存のシステム(発声)によって充足することを発見<言語行為の黎明期>、やがて絵と発話内容の記録を合わせて文字表記を発明。 ⑤ 情報伝達行為による社会的意味世界の充実<それ以前からあった責任の自覚>「誓います。」型メッセージの定着。文字表記の定着。 ⑥ 情報伝達必要事項充足外的な伝達行為への要請<それ以前からあった良心の自覚>「賛成したいのですが。」型メッセージの出現。他者信頼(友情、同僚、同士愛の定着) ⑦ 情報伝達必要事項充足的な伝達行為としての他者承認と他者理解と対他的良心と対他者良心承認の定着<責任と良心の配分値の決定に対する要請>「賛成したいのですが。」型メッセージの定着。 ⑧ 情報伝達必要事項の意味内容の拡充<責任と良心の協調>、社会制度の飛躍的進化。 ⑨ 情報伝達必要事項の意味世界の再考(常習化した意味世界への反省)<責任と良心の分裂に対する覚醒> ⑩ 情報伝達必要事項と必要外事項の弁別と非伝達的以心伝心(東洋的な認識ではない)による他者に対する配慮<責任と良心の再統合>
 サイモン・バロン・コーエン(「共感する女脳、システム化する男脳」より)等心理学者等が主張しているような意味で男子と女子の脳には微妙にその得意とするところが異なっている。しかしそれは茂木健一郎も指摘している(「脳の中の人生」より)ように共通性の方がずっと大きいのだが、ともあれ共感能力とシステム化能力が相補的に人間の脳の進化の過程において作用してきた、ということだけは間違いないようである。そして共感作用は良心に、システム化作用は責任に直結しているように思われる。そして言語獲得を巡る人類の旅において、我々の祖先は恐らく共感作用とシステム化作用を良心と責任の要請に伴って進化させてきたと言えるのではないか?私は仮説においては一応責任の方を社会的事実としては⑤から⑥というステップにおいて先行させたが、実際心的作用そのものにおいてはどちらが先ということはないかも知れないし、ひょっとしたらミラーニューロン(側頭葉のブローカ野付近で認められている)等の発達という観点からすれば、責任という協同幻想よりも先行していた可能性すらある。
 ⑧は中世以前、そして⑨は近代以降なので、この二つの間には長い暗黒があるが、その事実と言語行為の実体論的なレヴェルとはまた別である。⑩はまさに今現在我々が立たされている地点である。⑤の「誓います。」型の責任の自覚が発語行為として定着していくという事態は、その誓いの対象としての行為が規約として設定され、その規約に対する遵守が社会で要請されているということが前提される。例えば近代以降徐々に考察されてきた言語学は、言語行為それ自体に対して、内容論的な進化とは別個の、つまり形式論的なことをも含めた精神的、身体的行為としての言語使用という全生活レヴェルでの、全歴史的視点レヴェルでの認識を深める必要性が浮上してきたということである。そして⑥の段階で初めて定着した友情や同士愛といった現実は、しかし行動論的にはそれ以前、とりわけ②から既に始まっていたのだが、その事実に対して感謝するという意識は、⑥をもって初めて成されただろうと考えられる。つまり⑨で初めて言語行為自体を全生活レヴェルから(それ以前にあった哲学の一分野としてではなく)認識するという要請があった時初めて言語使用に対する感謝が持たれたわけである。それは⑤において責任が、⑥において良心が、それを有しているという事実に対する感謝によって自覚されるということは、その事実に対する認識を持つことが出来たということであると同時に、その事実に向き合うことに関して責任を持つということをも意味した筈である。つまり何かを無意識に執り行っていたレヴェルでの生活と、その行為自体の意義を自覚した後の生活とでは、自ずと異なり後者ではその行為を全生活中の必須として位置付けるという意味で、責任を生じるのである。つまり⑤において責任に対する責任が(そして文字表記することで得られる利益において表記行為自体の責任も持たれ、その当時表記し得る成員が限られていたとしても尚、文字表記という行為が人類にとってかけがえのない社会的事実であるという意味での認識はイリテラルな成員にとっても了解事項であったことだろう)、⑥において良心に対する責任が、⑦において個人的な意見の発動に対して責任が、⑧において社会成員としての自覚に責任が、そして⑨において言語使用そのものに対する感謝の念に責任が、そして⑩において再び他者存在に対する責任が社会成員の意識論的レヴェルで前提されているということになる。②において初めて人類に他者存在が認可されたとすれば、それはサヴァイヴァル的な外的要因に起因するわけだが、地球環境の保全に関して再び危機的状況下の現在、またその意識レヴェルに立ち戻っているということも出来る。そして②において私は既に行動論的なレヴェルでは良心は発動されていた、と認識しているのだ。良心の行動論的な発動という事態は、恐らく言語行為がそれほど覚束ないレヴェルであったとしても尚、人類同士での理不尽な殺人に対しては相互同意での制裁が発動されていたであろう、ということをも意味する。それは共同幻想としての埋葬、個人的埋葬と集団墓地的発想の共存も考えられるということだ。個人的埋葬に関しても、その他者の埋葬事実に対して尊重するという意識は社会進化以前にもあり得たであろう。しかしにもかかわらず良心の発動という現実自体がより客観的に認識され得るのは、恐らく責任が客観的に認識され定着するより少し遅れてなされた、と私は考えているのだ。これは社会機能の進化過程における試行錯誤とある程度の進化段階以降での社会機能維持という人類の初期的な高度成長期においては致し方ない現実だったのではないだろうか?(それは日本の戦後史を振り返ってみても、同一の段階を踏んでいると思われる)そして私がアンリにおけるヘーゲル解釈を巡って書いた箇所で私が述べた「書く行為自体が信仰である。」という考えが人類の定着したのは、一部有識者間では⑤、世界市民レヴェルでは⑨をもって初めてであったと考えていいだろう。
 言語行為は発話にせよ、記述にせよ、責任、つまり概念使用を巡る対他的な説明責任、認識力保有の意思表示を旨とする意思疎通の責任において顕現されていたと考えられるが、⑤において責任概念が明示的に全成員に了解されるようになる遥か以前に既に行動論的に発動されており、それが故に言語行為は発展していったものと考えられる。しかし記述行為が特権的な成員によるものではなしに広く一般的になってゆく過程は⑨を待たねばならない。要するに責任は無自覚であるにせよ、行動論的には発話行為をなすプリミティヴな状態の頃既に発動されており、その発動された責任的行動が発語行為を秩序立て、文字表記を社会必須の行為として定着させ、やがて責任概念を全成員に明示させてゆく。だから言語活動と言語それ自体の進化の歴史はまさに責任的行動の発動と責任概念の獲得といった一連の言語活動の人類的な進化過程と不可分に構築されてきたと言えると思う。
 次章では言語活動の人類的進化過程に見られる言辞、陳述の責任論的な進化について例証しながら考えていってみよう。