Tuesday, October 13, 2009

〔責任論〕第一章 記憶と忘却に支えられた責任論

 責任という考え方は、他者に対してだけではなく、事物に対してどれほどの配慮を払われるかということにおける価値規範として立ちはだかる。例えば自分にとって大切なものというものは、所有の概念によって命脈を保っているから、それは同時に自分にとっては大切ではないものというものの存在をも指し示す。しかし仮に自分にとってはそれほど大切ではないものの存在を、何かに対して規定しても尚、誰か同一社会の成員にとっては大切なものというものはあり得る。またそういう認識を持つことで、それがたとえ自分のものではなくても尚誰かにとっては大切なものであり得るという観念を持つ能力そのものが社会意識であり、責任という考え方の基礎として存在している。それは他者という存在の延長形として、ある意味では他者の存在そのものであり、他者の世界そのものであり、要するに他者の表現型の一部である。そしてそれは人間固有の考え方であるかも知れない。
 要するに責任は他者の存在に対する認可に対して他者に纏わる事項の認識を付与しつつ、それを他者に対する配慮として顕現させる。それは他者が大切に思うものを尊重することによって、あるいはそういう理解の下で他者にとっての大切なものを自己の所有にも勝るとも劣らないものとして認可することを通して、他者にとっての心の志向性を尊重することであり、他者の認識を自己の認識と勝るとも劣らない、ある時にはそれ以上の配慮を払うことで社会の成員として誠意を全うするという意識を生じさせる。そこに責任という考え方の基礎がある。他者の所有物に対する配慮のない成員とは従って他者存在の社会における位置づけそのものを認可していることにはならないということの意思表示として我々は他者の存在を他者の所有という観念にはまで拡張することで他者と自己の関係性を維持しているのである。それは他者の住居、他者の使用物、他者の行動範囲、他者の持つ自由時間その全てに適用されるものである。
 これは一面では公的な機関、公的なあらゆる幻想、例えば民族、国家といったあらゆる事項において、そこで採用される法的な執行力のあるラングにさえつき従っておれば、後は何をしてもよい、という個的な自由の承認が集団全体によって認可されているとも言え、このような事態は、プライヴァシーというものを人間がかなり早い時期(つまり言語獲得しだした初期状態)から定着していた、と言うよりも、プライヴァシー尊重という利他的な観念の定着こそが言語行為を人間に齎したのだ、とさえ考えることが可能である。そしてそのように人間の個的な所有(事物、時間に関する)を認可する人間同士のプロセスにおいては、人間の記憶力の留まるところを知らない進化と共に、共進化してきた忘却のシステムの存在を抜きには語れない。簡単に言えば、人間は自分にとって必要なことはいつまでも忘れないのに、自分にとって不必要と思われることに関しては簡単に忘却してしまう、ということなのだ。そしてこのことに関して私たちが問わなければならないこととは、個人にとって必要なことと、集団全体にとって必要なことというのが必ずしも一致してはいない、という事態である。そしてその真理が本章最初述べた自分にとって大切ではないものであっても他者にとっては大切なものであるなら尊重すべしという観念へと結びつくのである。
 責任とは成員相互の記憶能力に対する信頼を基本として成立している。記憶しているということが前提で責任とは問われる。しかし時として「覚えていない。」と白を切られるという経験は誰しも持っている。つまり社会とは記憶喪失とか記憶喪失偽装する者に対する処方を有していなければならない。そこで記録という観念が生じるのだ。記録さえしておけば、責任の所在が問えるし、それ自体が確たる証拠となる。しかし同時にそのことは記録者が誠実であることが要求されてもいるのだ。そのことはさておき、エクリチュールの発明とは記録されたものを各成員が個別に確認出来るという利便性をモットーとしている。しかも記述者も、その記述読解者も、その記述されたものを見た後、その細かい内容を忘れていたとしても尚、そういった各個人の記憶の不確かさを補うように記述を見ればよい、という便利さだ。少なくとも記述自体の改ざんさえ行われていなければ。しかしパロールにおいては今日のようにテープレコーダーのない時代にはその確かさを確認することが出来なかったので、エクリチュールは厳正なる手続きによって衆目の一致した状況でなされていたと考えるのが自然である。このパロールによるだけでの記憶の不確かさと、記録のないことによる証拠隠滅性こそがエクリチュールに発展を促した内的な要因であると考えられる。だからいつでも閲覧出来るというエクリチュールのシステム(その閲覧システムを保証するための社会制度が必要とされるけれど)とは、人間社会の記憶力の不確かさと、正式、公式と私的なことの弁別性において発明された、と捉えることも出来る。それは個人のレヴェルでもそうであるし、集団のレヴェルでもそうなのだ。
 つまり仮にある個人の記憶力に頼っていたのなら、その個人の記憶事項の優先順位とは常に個人毎に異なるし、個人性格の傾向性に依拠しやすい。しかし集団全体が一つの確たる記憶を有して、それを後日衆目の一致を見ることは、そういった機会そのものを作ることにおける困難さがある。そこである個人が記憶していなかったり、思い違いをしていたりすることを前提にして、あるいはある個人が確固として記憶をしていてさえ、嘘をつくこと、記憶事項の偽証をすることの可能性を考慮に入れて、エクリチュールは法的な秩序としてなされた、と考えることが出来る。だからエクリチュールとは閲覧されることの自由と、その閲覧時期のなるべく常時であることが求められ、閲覧事項の保存を社会全体が保証するシステムと同時的に発展したと考えることもまた自然である。つまり閲覧の平等という観念こそが逆に特権階級的な閲覧をも可能にする。閲覧の利便性そのものが人間社会にエクリチュールを発展させたと考えてよいであろう。そして記述者にはそれ相応の正しい記載を行うべく責任が常に記述に際して求められたと言うことも出来よう。
 責任には幾つかの重責と軽責との段階があったであろう。記述者、記載事項保存者にはある程度の重責が課せられたであろうし、責任の所在に関する記載事項においてはその記載された者に重責が課せられていたと考えることもまた自然である。そして一般的には全ての閲覧者において、その被閲覧事項の内容に関する記憶力こそが責任となって存在したとも言える。それを記憶していなかった者には懲罰が課せられたと考えることまた自然である。
 ここで記憶には脳科学的に二通りあることを確認しておこう。一つが第一記憶(短期記憶)であり、もう一つが第二記憶(長期記憶)である。そしてこの二つはいささか性格が異なる。人間にとって大切で常に必要な知識は第二記憶であるし、ある時期が過ぎれば必要なくなる幾多の事項は標準的に言えば第一記憶として処理されると考えてもよいだろう。
 そして責任というものの所在もまたこの第一記憶と第二記憶の使い分けそのものから派生すると考えてもよい。つまり社会では常に個人的、私的レヴェルとは異なって、覚えていなくてはならない事項と、そうではないことがある。そして人間は親しい者同士では非公的な事項をこそ忘れてはならないが、逆に親しくはない者同士では公的な事項をこそ忘れてはならないとされるのだ。私的、個人的レヴェルでの忘れてはならない事項とは得てして公的には大したことではないが、家族内では最重要事項である。家族の誕生日とか命日とかそういうことである。しかし公的なこととは家族内、親しい者同士では持ち込まないということが常識であるが、逆に公的にはそれだけが必要とされるのだ。そして第二記憶として長期に渡って忘れられないことというのも私的であり、かつ絶対忘れてはならないことと、公的常識として社会通念、生活手段として絶対忘れてはならないこととが共存している。そして第一記憶においても約束という事項の全てはそれが親しい者同士でも、そうではない場合でも適用されるし、公的、私的の双方にやはり跨っている。そして重責そのものもまた公的、私的にかかわらず、第一記憶においても第二記憶においても要求されるのだ。その細かい事例について少し考えてみよう。
 まず公的なこと、つまり法的なことを遵守しないと社会では制裁を受ける。しかし公的なことさえ遵守すれば後は何をしてもよいかと言うと、社会では私的なことの充実こそが個人的な信頼獲得に繋がるのだ。他人にばかり親切で、家族内では目茶目茶であればそれこそ信頼というものは失墜する。しかし私的なことを最優先し過ぎると今度は社会的にやはり信頼を失う。つまり私的な充実と公的な義務の履行の両立こそが社会的成員としての自覚となって立ち会われると同時に、社会的責任履行という現実ともなっているのである。
 つまり公的な義務の履行によって初めて成員は私的な充実を享受することが可能となるし、私的な充実があったればこそ公的な義務履行にも身が入るというフィードバックこそが社会全体の暗黙の了解事項となっているのだ。だから時と場合によって私的な事項は忘却すべきであるも、同時に義務さえ履行しておれば適当に公的な事項を忘却する権利もまた全ての成員は与えられているのだ。つまり全て公的な義務に雁字搦めになることを未然に防止することが出来るような義務を社会は前提するように常に全成員たちによって求められているのだし、それこそが政治を要求するのだ。そして政治参加という題目が義務履行と共に成就することで逆に私的な充実を図る機会が全成員に与えられるという寸法である。
 だから社会では絶対忘れてはならない事項という義務と同時に適度に忘れていてもよい権利が全成員に与えられ、個人的生活の充実においては適度の公的義務履行の怠慢を十二分に使用することが求められ、それは公的な要求とは両立しない。つまり公的に絶対忘れはならない事項は同時に私的なことで適度に忘れてもよいことの両立において成立し、逆に私的なことにおける絶対忘れてはならないことというのは今度は逆に公的なことで適度に忘れてもよいという権利の使用によってのみ成立しているのだ。そのことは記憶と忘却のバランスそのものが脳判断レヴェルから義務と権利のバランスによって成立していることのよい証拠である。
 例えばアメリカ社会ではあらゆるビジネスシーンにおいて、それが経済界であろうが学界であろうが、普遍的に私的生活の充実こそが義務と両立すべき事項であり、人間間の信頼醸成に不可欠である。そこで私的充実を図れないが義務履行の全てを完遂する人間には適度の冷ややかな評定が下される。そういう成員は逆に小さい出世はするかも知れないが、大きな出世はしない。逆に私的充実をそれこそルソーの言う特殊意志を完遂することで公的義務履行を怠慢していると法的制裁を受けることとなる。つまり社会が下す成員の価値評定という人間学は義務の完遂が私的充実を伴い、同時にそのことによる幸福感が社会的な義務と同時に義務的なレヴェルでは推し量れない(だからそれは儲かるとか会社や法人、集団を儲けさせるというレヴェルだけではない、ある時には儲からないこと、例えばボランティアなども含まれるのだが)価値論的な行為をこそ成員個人の存在理由として価値論的に評定するものなのだ、という判断が社会全体にあるのである。つまり義務履行と同時に人間性の所在が求められているのだ。
 恐らくそのような適度の義務と絶対履行事項と同時に価値論的な人生の充実こそが倫理的にも行動論的にも人間社会の曙においても存在し、その事実が言語活動の進化と、意味内容の充実、概念規定の細分化を促したと見ることもまた理に適っている。だからこそケースバイケースで忘れてはならないことと忘れてもよいこと、あるいは忘れた方がよいことというのは自然と決定され、その全ての配分こそが人間の生活や行動を決定し、また逆に忘れてならないこととそうではないことの決定は、人間の生活内容や行動(その都度採るべき)によっても決定されている、と言うことが出来る。そして責任は責任遂行という義務と同時にその責任は何のためになされるのか、という判断をも伴っているのである。つまり責任さえ果たせば後は何をしてもよいというのかというレヴェルにおいて人間性とか個人的な成員に付与される存在価値というものの評定が決定されるのだ。つまり倫理とは責任遂行と同時に責任外行動とか義務的行動外の私的生活(権利としての)と、その社会責任が何のためになされるのかという面における評定によって構成された価値評定のことなのだ。だからたとえ社会的責任を果たしていても、悪辣な目的によってその責任遂行を履行しているのならその成員に対する倫理評定においては即座に義務完遂に対する評定は反故にされる可能性もあるのだ。だから社会とは公的、私的を問わず常に記憶必須の事項と忘却権利事項バランスをその都度求められる場であると考えてもよい。

No comments:

Post a Comment