Friday, February 6, 2015

シリーズ 愛と法 第十八章 哲学的愛は感性から会得出来る①

 哲学者が言う種とは民族的なことであるけれど、ダーウィンの『種の起原』等から種とは一般的に人間ということ、ホモ・サピエンスだと受け取る感性の方が我々には強い。霊長類の種からそう考える訳だ。哲学者はそれを類と呼ぶ。
 でも哲学的と言うとどうしても難解であると感じ取ってしまう感性は哲学者の仕事の責任でもあるが、実は人類愛とは即ち哲学的愛のことなのだ。だがそれは哲学が左脳的な理屈で全てを理解しようとするタイプのマナーであることから堅苦しく感じてしまうが、私はこの部分は右脳的な感性で理解する部分があってもいいと思うし、その方がより伝わると考えている。感性から理解しようとする部分では哲学者よりずっと科学者の方が優れているし、それを哲学者がそれは倫理的に正当な手続きではないと批判するなら、そう批判する哲学者の方が自分達だけのマナーに拘っている。其処で今回はもっと日常的に実際的なことから感性的に哲学的愛を理解して貰おうと思って、哲学史的な解釈と違った角度から考えてみよう。
 我々は音楽を愛する。だが音楽にも色々あって、例えばクラシックの欧米の基礎である楽理に基づいた交響曲とか協奏曲とか所謂オーケストラで演奏される様なタイプの音楽以外にも大衆的な音楽、民俗的音楽は沢山世界に存在する。でも此処でもクラシックファンはクラシックは楽譜も世界共通だしユニヴァーサルだと言いたい部分もあるけれど、実際我々は日本語とか、地元であるなら方言がよく分かる者同士なら阿吽の呼吸で理解出来る民謡等を愛するという気持ちは誰しも持っているだろうが、それは郷土愛的な感性であり、違う地方の違う方言を話す人達にとってはやはり我が郷里の歌が優先されるという感性は確かに誰しもあるけれど、同時に異郷に旅して自分の故郷の様に其処を感じたり、其処で歌われてきた民謡、長唄とか地唄とかに感銘を受けたりするということも珍しくない。そればかりか世界中のどんな行った事のない国の行った事のない地方の民謡にでも感銘を受けたりする。何も自分の住むおらが村のおらが歌だけが素晴らしいという訳ではないし、それだけを誇りにする訳でもない。言葉が直ぐに理解出来なくても、いい歌であれば、感情の様なものは伝わり、外国語の歌でもいいと思えるし、感動もする。要するに演奏はユニヴァーサルであり、言葉が通じなくても理解出来るけれど、歌はそうではないということはない、歌でもいい歌かそうでないかくらいは直ぐにその歌われている外国語を理解出来ない我々でも感じ取れる。
 つまりそういう部分で我々は哲学的愛というものを考えたっていいのではないか、と私は考えているのだ。哲学的という言葉がそれに相応しくないのなら人類愛と言い換えてもいい。つまりそういう部分で我々は同じ霊長類の仲間である他民族をも理解出来るということである。
 歌は直接空間に響き渡る言葉の、詩の、歌詞の伴った音楽であるが、音楽という以前に歌である。それは楽器演奏、器楽自体の持つ道具への愛とは少し違った(勿論クラシックの声楽では声というより、人間の発する喉と口を使った音を音楽の要素、楽器の音と同質に扱うという意味で、一般的に民俗音楽的な民謡とは歌い方が違うので、それを一先ず違うと捉えておいて)ものである、つまりそれは歌い人の歌そのものの精神の披露、言ってみれば詩的な歌という芸、パフォーマンスである。楽器演奏にも我々は楽器自体がよく歌っていると捉えることもあるが、それは要するに楽器の演奏自体が歌の様な詩情や哀愁があると捉えることであるが、歌にはそういう作曲家の書いた楽譜という完成された思想図式を実現するということではない、歌う人の感情や感性を込めているメロディとリズムのついた朗読という要素がある。それは朗唱であり、詩精神、詩内容の解釈的な披露なのである。
 アーティストは集団的熱狂として合唱したり合奏したりすることはないから、一人で自室に籠って制作するので、アートのモードが広まるのは個人対他者全員という図式である(間接的伝染)が、音楽の場合には演奏は少なくとも集団的熱狂に拠って横の伝染、横の遺伝が行われる。歌手や声楽家は一人で通常歌う作業なので、アーティストと似たタイプの伝染、遺伝の仕方を横に持つと言えるが、音楽の空気的伝染とは集団的熱狂が根幹には横たわっている(直接的伝染)。それはそもそも音楽自体が発祥的に集団の作業としてのものであるからである。しかしだからこそ歌は一人で歌われる時、その主役を他の全員がバックコーラスであれ演奏であれ支えるという集団的なカリスマ願望の実現となる。
 そしてその歌い手の歌とコーラスとか演奏との一体感の中で我々はたとえ語彙を理解出来なくても、どんな感じの感情を歌い切ろうとしているかということを瞬時に感性的には理解する。哀しい感情なのか、切ない感情なのか、空しい感情なのか、喜ばしい感情なのか、良かったほっとしているという感情なのか、他者や集団や組織を称える感情なのかを瞬時に理解することが出来る。要するにそういった言葉の一つ一つの意味への理解無しにも成立する感性的な、感情把握的な理解こそが人類愛的なものではないだろうか?或いはそういう他民族の集団的熱狂とか、共感作用、共同注意自体を理解し得る、その行為の連鎖全体をいいものであるとか感動的であるとかを理解し得ることこそ、人類愛、つまり哲学的愛と言っていいと思うのである。
 そして我々は外国の歌を聴いて、その時に凄くいいと思ったから歌詞を翻訳して理解してみようと思ったりする訳である。そういう気持ちになるということ、なれるということはその侭、人類にとって共通する愛や悲しさや嬉しさ、怒り等を相互に理解し合えると信じているということを意味するし、まさにそういう風に思える時、ユニヴァーサルな感性とユニヴァーサルなヒューマニズムと正義や公平等の理念的な事とが一体化していると感じられるのではないだろうか?
 だから愛と言うとかなり堅苦しく形式的な語彙だと思う部分も我々にはあるし、法となれば尚更である。しかし法は先程述べた様に各地方に異なった習俗や風習があり、そのこと、つまり日常習慣と密接な民謡があるけれど、それはそういう一つの各地方に拠って異った独自の法であるけれど、異郷でも異郷の民謡からある固有の懐かしさを感じ取ることは我々には出来る。それはデ・ジャ・ヴュかも知れないし、他の何かかも知れないが、懐かしさとかほのぼのとした気持ちになれるとか、要するにそういう心を鷲掴みにされる感動というものが限定的な地方とか、その当事者にしか理解されたり良いと感銘を与えたりするのではなく、異郷者、外国人にも理解出来て、素晴らしかったり、郷愁とか懐かしさを与えたりすることが出来るということの内にユニヴァーサルな人類愛的理解を我々は相互にし合っているのであり(事実私はドナウ川にもシシリー島にも行ったことがないけれど、スメタナの『我が祖国から~モルダウ』を聴く時も、フォーレの『シシリアーノ』を聴く時もある固有の懐かしさを感じ取ることが出来るのだ)、それを哲学的愛、人類相互に理解し合えるヒューマニズムの様なものだ、と考えていいのではないだろうか?
 それは時として主義主張、イデオロギー等さえ超え得る暖かいパワーを秘めていると言える気がするのである。そして古い民謡、伝統的所作や歌い方に則ったものでも、現代のポップスでも、そういう伝統であれ今のモードであれ、それを知識的に知っている訳ではない人に対しても、素晴らしいとかぐっと心を締め付けられるという良質の感動を与えることが出来るし、その感動を理解出来るという部分こそ、我々はユニヴァーサルな全人類に備わった感性、哲学的愛、或いは人類的愛と呼んでいいのではないだろうか?