Sunday, November 17, 2013

シリーズ 愛と法 第六章 幸福という価値の呪縛から解き放たれて②

 幸福とは何か最初からこれこれこういうことであると決められたことではなく、その都度何かを行うことで得られる喜びの中から自ら主体的に掴みとっていくことである、とはまず言い得ることである。そして幸福感自体も、一人の人間の中でも徐々に変化していく。自分自身が変われば幸福の在り方も変わる。
 しかし人と人との繋がりでは、どうも人は孤独であることを孤立していると捉えがちである。しかし愛自体もそこに大きな責任を伴えば孤独である筈である。寧ろ本質的には寂寥感や孤独感は積極的に幸福感と姻戚関係にある。共謀関係にあると言ってもよい。
 愛は何時か愛する他者と死別することを必ず意味する。幸福も必ず何時かそれが終わることをも意味する。
 又、幸福感という観念がなければ孤独も寂寥もあり得ない。孤独や寂寥とは人間が幸福を求めるからこそ、そこで生み出されている。他者からの無理解、幸福であると実感し辛さこそが孤独や寂寥を生み出している。従って幸福を殊更求めない生き方では孤独こそが普通である。孤独でないことなどそこではあり得ない。一人ぼっちでしかあり得ない生き方では一人ぼっちでは孤独だという想念へは向かわない。
 幸福であるとは往々にして他者と共謀して生活することで得られる一人ぼっちではないという観念に拠って多く裏打ちされがちであればこそ、そうでないことが孤独となってしまうのだ。寧ろその観念こそ打ち捨てて然るべきであろう。
 つまり孤独も寂寥も悪いことではないのだ。と言うより其処からしか幸福さえ実在し得ないと考えるべきである。
 愛がもし責任に拠って維持されるものであるなら、愛とは孤独である。それを維持しようとすること自体が孤独である。と言うより愛を持続させようと決意すること自体に孤独以外のものがそうそうあり得ない。
 だから幸福は孤独ではない、ということではない。そして幸福の価値や観念、或いは実在の仕方も全て定型も法則もあるのではない。法則化され得ないもののみを我々は幸福と呼びたがってきた。そしてかつて幸福だと思っていたことは自由と責任に於いて得ている自主的主体的なものではないと気づいた瞬間、幸福には値しないと実感されるし認識される。つまり幸福とはその幸福を得ようとする者の意志と努力と習慣的に行われること、行われるべきことの現実的変化やそれらへの認識の変化に拠って絶えず変化していくものなのだ。
 これは愛とそれを支える法も幸福の在り方への認識の変化と実在的な変化とに拠って大きくその在り方を変えていく、ということをも意味する。
 心の幸福は恐らく本質的には誰にとっても与えられるものでも、与えられる様に待っているものでもない。常に何かへ向かって挑み、その挑みに対して一切の贖罪の心理がないということが、幸福へ向けて歩んでいるか否かの里程標である。
 否そこ迄宗教的に捉えるべきでさえないかも知れない。要するに行動することの中で行動して良かったと後で思えるとか、行動しながら、それでいいと思えるということの中に幸福へと向けて歩む意志がある。愛と法もその歩みの中で絶えず定義を変更させていくべきものとして認識すべきではないだろうか?
 次回はその愛と法の変更可能性に就いて、幸福への歩みと問いかけから実際的な例に沿って考えていこう。(つづき)

Friday, November 15, 2013

シリーズ 愛と法 第五章 幸福という価値の呪縛から解き放たれて①

 我々が意外と多くの日常生活でのお仕着せ的観念を植えつけられているものとは幸福感であろう。
 しかし今この幸福という観念をもう一度再考してみると、意外とよくその意味を多くの人達が考えていないということにも気づかされる。
 つまり寧ろこの幸福感それ自体が多くの思考の可能性を塞いで来たとも言い得るのだ。そこで今回は愛と法を考える上で制限するモラル的力ともなっている(それはいい意味でも悪い意味でも)幸福感に就いて考えてみよう。
 幸福感は愛情の注ぎ方から受け取り方、家族観とも一体化されて我々は幼少時から訓育されてきている。要するにある正業へ就き安定した収入と家庭を持ち、地域社会でも一定の安心を得て、自分自身も社会へ貢献するという形で定型的な価値規範として君臨している。
 しかし現代社会ではかつての良識とかモラルに準じたそういう模範的生活を全ての人達が得られる訳ではないと多くの人達が知っている。要するにある定型へと嵌め込み巧みに社会へ反社会性を身に着けぬ様にする為の訓育的観念であるところの幸福感自体への懐疑を多くの市民が自然と持つことが当然となっている現代社会では、幸福という考え方自体が一つの盲腸的な観念のポジションであると認識することすらそれ程不自然ではなくなってきている。
 良い子として育ち、きちんと社会へ順応して税金を収めて生活していくということそれ自体は決して悪いことではないが、その定型が何か特別個々人に役立つメッセージとか強烈な感動を誘う訳でもない。
 寧ろ勤労観自体が凄く激変している今日では、これこれこういう風に真っ当に生きていれば幸福とも言い切れない状況に支配されている。
 既に性も婚姻制度の在り方さえ多様化している現代社会では、どう生きていくべきかから、どういう生活スタイルと人生の充実感をどう得るかそれ自体さえ、まず個人の選択に委ねられていて、何に対して満足するかということさえ価値的に多様化されていて、幸福という観念自体が干からびたものとなっていると言ってさえ言い過ぎではない。
 寧ろ不幸、それは病に罹ることもだし、精神的に大きな苦悩を抱え込むこともそうであるが、そういう状況だけに支配されていないということの方が、幸福という定型へ準じて実現されているか否かより重要だと言える。
 つまり明らかに不幸ではない限り、後は何れ程幸福かとかの判断はその都度個人が下していけばそれでよく、こうでなければいけないということ自体がないと言っていい。だから愛の在り方も何かこうでなければいけないということはないのだ。何か著しく反社会的に法的に社会生活が他の市民に迷惑をかけることさえなければ、どう過ごそうが人生は個人の選択に委ねられている。
 お金儲けを本論とするか、趣味の実践を本論とするか、恋愛を重ねることを本論とするかも自由であるなら、出来るだけ勤勉ではないある部分法的に罰せられぬ範囲で怠惰な生活を送りたいとさえ望んでも、それが他人に迷惑さえかけなければ、それさえ自由である、ということの方がこうでなければ幸福とは言えないと言うよりも自然である。
 この自由選択の自然さこそが、寧ろ幸福という観念の有効性を著しく弱化させてきている。幸福であるか否かを判断する暇があるなら、何か具体的に実行していった方がいいという判断の方がずっと現代社会では自然である。
 そして何が自然であると思えるかということさえその都度の恣意的な判断でしかない。ある部分どういう仕事を人生でその都度選択していくかということの方が予め価値的に幸福という観念に当て嵌めて仕事を選ぶことより自然である。つまり仕事内容に拠ってそれぞれ異なったやり甲斐というものが存在して、ある仕事とかあるコミュニティで一定の社会的地位を得ることが、何か社会全体のグローバルな価値規範に於いてどうであるという評定を無意味なものにしているのが現代社会を生きるということなのである。
 従って幸福感(観)ということ自体が既に抽象的な形而上的価値なのであり、具体的にイメージング為難いのだ。それは既に分析哲学とか倫理学の哲学用語的な抽象性の語彙なのである。そして何に基準を設定するかに拠って幸福であるか否かも、或いは幸福という観念を態々持ち出すことも自然で適切であるかも変わってくるとしか言い様がないのだ。
 だから初回の今回は著しく苦しくないこと、つまり身体健康的にも精神的充実感としても凄く不幸ではないことだけがある程度いいことなのだ、とユニヴァーサルに言い得て、それ以外はその都度何に基準を設定するかによって異なった回答がその都度用意されていて、予め幸福とはこういうことであるとは言えないということだけが取り敢えず真理である、とは言い得よう。(つづき)

Thursday, July 25, 2013

シリーズ 愛と法 第四章 愛と法の関係

 感謝するという事が、感謝される側にとって然程苦ではない力添えであっても、感謝する側が凄く苦境にあった場合、そうでない時に力添えされても嬉しいけれど、苦境で他の誰も手助けしてくれない状況下ではそれだけで言い尽くせいない気持ちになるという意味で、自己本位なものであるという考えは、しかし感謝する側とされる側の関係を冷徹に観察する処から出されるが故に、達観者の冷酷、そんな事知っているのなら、何故お前が助けないという倫理を我々に齎す。しかし当然の事ながら全ての他者を救う事の出来る神の様な人間は我々の世界では居ない。
 感謝の持つ自己本位とはしかし恐らく平静な状況で齎される私利私欲とも少し違うだろう。苦境に陥らねば我々は通常他者存在を有り難く、得難く感じる事は出来ない、という意味では苦境で手を差し伸べてくれる他者とは感謝の念を通してそういった苦境に陥らぬ平静な状況でも他者存在を慈しめと命じる何かがある。
 それはそれだけ我々が自己中心主義的に自己愛に耽溺する傾向があると我々自身が密かに誰しも知っているからである。我々が日々行う思考実験で最も頻繁に登場するのが反事実的条件法(counterfactuals)である。要するにここには論理的理詰めではないある飛躍があるからだ。そしてその飛躍とは端的に自己を悪の要素があると知っている我々に拠る日々の述懐の中で自己行為としての過去事実への後悔の念がその論理的飛躍を齎している。つまり「あの時もう少し彼(女)の立場に立ってあげられていさえすれば」という風にである。
 この様に自責の念を生じさせる様に論理思考的な意味でも飛躍を齎す様に我々の思考=脳の作用が出来ている。
 その反事実的条件法を構築するのに最も貢献している事こそ、自己に於いて誰しもが知っている処のナルシシズムである。
 端的にナルシシズムとは良心と定言命法的な判断のナルコティズム(昏睡状態、嗜眠性)なのである。それは判断の正当性とか適切性を著しく見え難くしてしまう一種の夢幻性なのである。
 それはほんの小さな事であるなら思考上ではアイロニーとして済まされるし、会話上などでは山葵の様なものとしてウィットに奉仕するだろう。しかしそれが実行する処迄膨らんでいくとジョークの域を超えて悪意となる。その事を我々の定言命法的理性と良心は知っている。
 しかし時として我々は狭量な心持ちとなる事もある。これはマルセル流で、感謝の気持ちに拠る慈しみや有り難み、忝なさ(辱さ)を我々が持つ事に拠って信仰的感情が芽生える事の反面教師として我々自身が知っている。それは他者の非、他者の失態への寛容の無さそれ自体である。
 我々は我々自身の非力を知っていればこそ感謝を捧ぐべき存在へ畏まる。それはそうする事に拠って自己悪を抑制し、狭量な心持ちがしばしば意外と気楽に悪意へ走っていく事を我々が知っていて小悪を鎮静化している、大悪になる前にそうしているのである。
 そういった意味では我々の言語活動自体が一種の倫理的自己悪発生への鎮静化作用の為の行為だとさえ言える。
 となると法とはそれ自体それに拠って愛を縛るものではあり得なくなろう。つまり法とは愛だと錯覚しているものの正体が他者の小悪への寛容さを失いつつある人間がいよいよ知らず知らずの内に自らのその他者への大悪を育ててしまう非情なるアポリアへの解毒剤として定言命法的理性と良心が用意したものである。従ってそれはこういう一つの最初の結論を導き出す。
 法とは愛と対立するものではなく、愛それ自体が作っていくものである。そして愛がそれを作るのは我々が他者の失態と小さな悪意を大きな悪へと育てていってしまう、妬み、嫉み等の全てを我々が大悪として育てぬ限り、それを大悪として育ててはならぬと知る為に持っている、と自ら実は既に我々全てが人生の初期に知っていたからである。 法とはその法に拠って裁かれぬ状況を自ら維持する為に、寧ろ他者への寛容さを保持し続ける為に我々が用意した戒めとして存在する、と言っていいのだ。
 そして上記の事実は次の様に言い換えてもよい。
 愛とは寧ろ知への愛たる哲学のパレーシア(パルーシア)が時として陥りがちな自虐的ナルシシズム(後悔の念はその最小のものである。それを大きく育てていかぬ様にすべきだと我々は知っている。)に対して、考え抜く事には、ある潤いある憩いが思索には必要であり、それを獲得する為に我々は労働をするのだ。そしてその潤いを確保し続けよという囁きこそが愛である、と言えないだろうか?そしてそれは当然分け与えるべきものであるし、専有するものではなく(そうであるなら価値が半減すると我々は知っている)、そうであればこそ、休息と多少の相互のエゴイズムへの寛容と、それでいて自己閉塞へと持ち込む心の専有に拠るナルシシズムからの超脱という理想ではないだろうか?(つづく)

Tuesday, May 28, 2013

シリーズ 愛と法 第三章 愛と甘え

 懐疑的眼差しで正しいと思える愛をも反省へと追い込む事こそが愛の倫理と言えるのではないか、という事が前回の論旨であった。知らず知らず我々が日常的に陥る「愛は言葉化出来ない」という捉え方は、愛と甘えの関係を彷彿さずにはおかない。
 今回は愛と甘えに就いて、その密接な関係にある事から考えてみよう。
 愛と甘えとは多分に相性のいいセクシュアリティである。モラル的、倫理的、正義論的に間違っていると思えてもそうだし、正義論的に倫理規約にもモラル規範的にも適っているとそう思えても、実はその甘え的性格に拠って愛が支えられているという意味では変わりない。
 何故なら相手が唯単に直観的に相性がよいと思えて好きである場合、相手が間違っていると倫理規範的に薄々知っていてさえ、それを許せてしまう事がある。我が子が謝って人を殺してしまっても、その子が自分にとっていい子であれば母親は子を庇い警察へ突き出されぬ様に画策するかも知れない。
 要するに相手に拠っては自然に倫理的規約以前的に許せてしまうという事はあり得る事である。そういう甚だ身勝手でその許せてしまう感性を容認し得ぬ他者を差別排斥する雰囲気を自然に作ってしまう様な馴れ合い的関係を愛と錯覚する、或いはそもそも愛とは規約通りに行く法と違うのだから、愛を過大視して理性論的に雁字搦めにしてしまえば、それは愛ではない(従ってカントの誠実性やニーチェの畜群といった観念も愛とは別個の形而上的価値であると心では批難さえ出来る)と言い得る事を何処か自然なものとさせてしまうのが我々ではないだろうか?
 贔屓感情自体が極めて不合理な事である。それは惹かれる異性に対してセクシュアリティとして相手の存在を出会いの感性的に認知している場合、それはエロス的存在として相手を認可している事である。セクシュアリティとして相手(他者)存在を認可する事はその時点で理性より出会いの感性を優先させている証拠である。セクシュアリティ的な魅力を察知するという事は、既にそういった非理性性を全てに優先させる感知促進的、相性察知的感性の夢魔に他ならない。痘痕も笑窪とはそういう事であり、好きである事は不合理な感情である。
 そしてそれは対異性、対同性、対自分より年配者、対自分より年少者全てに対して言える事である。それを一々合理的に解釈していなさこそが慰安であり、生活上の潤いとなっている事は否定し得ない。要するに惹かれるという事は好きなタイプの話し方、顔、表情の示し方、身体付き、感情的なパッションとして受け入れられるタイプである事等様々であるが、それは殆ど直観的な出会いの感性で決まる。相性は理屈で判断されていない。
 性格的な好き嫌いさえ声の発し方とか微細なレヴェルでの他者への嗜好が大きく作用している。映画監督が自分の映画に主演で起用したくなる役者は同性であれ異性であれそういった様々な要素の複合的な様相で一瞬で決定されているのと同じである。
 ヘテロセクシュアルな嗜好の人格(ストレート)でもバイセクシュアルな判断を精神的にしている事は間違いない事実である。ゲイ、同性愛者が特別な存在であるのではない。又ゲイも同性愛者も様々なヴァリエーションがあり得るのであり、全く個々では異なった唯一のタイプである筈だ。従って同性愛であると規定し得ないストレートとされる人格の中でも無意識に惹かれ合う同性同士は一瞬で出会いの感性に拠って決定されている事が多い。好きなタイプの同性、性的にさえ惹かれていく同性があるからこそ、ヘッセは『デミアン』をエドガー・アラン・ポーは『ウィリアム・ウィルソン』を書いたのだった。
 そういった事実の前では甘えとは理性的に許容し合える他者への見方にさえ潜んでいる。それが理性的に相手の非にも関わらず許せるという判断は検事や判事さえしていると思われる。それは出会いの感性を理性へと無意識に置き換えている、摩り替えているとさえ言えるかも知れない。
 そこには多分にエロス的感受性、セクシュアリティ的判断も手伝っているだろう。
 現代の大半の作家はセクシュアリティ的感性を迸らせる事を出来なくなっている。それは現代社会へそういった出会いの感性を直観的にしている事実を何処かで隠蔽させようと未然に対世界へと身構えさせるストレスを我々が保持する事を社会や国家や字義通りの世界が暗黙に強制しているからだ、とも言える。ウェブサイトの情報摂取的猛威がそうであるし、マスメディアと政治や経済が結託して我々の日常的判断をメディア論的な観念性で彩ってしまっている事も否めない。
 クリエイター自身がエロス的感性を摩滅させているから必然的に彼等の作る世界も無味乾燥であり、セクシュアリティを素直に描けなくなっている。これは顕著な事である。
 その意味では現代はエロスとセクシュアリティ喪失の時代であり、数値化された認識至上主義的時代だ、と言ってよい。
 美と倫理は理性的に考えても対立する要素はある。しかし多くの現代人は倫理的に正しいものを優先させては居ない。と言うより倫理的な正しさとは何なのかを自主的に判断為難い時代に現代社会自体がなっているとも言える。法的な事は常識、通念、前例主義的判断では従っていると自分自身では大勢の人が思っている。しかしそこに深い思索はない。そもそも思索する事を阻むビジーネスを正しいもので従うべきだと現代社会の機構自体が我々の日常へと強いている。忙しさの中に埋没せよ、とウェブサイト、日々のルティン的な規約が命じている。だから逆にマスメディアで一旦好感度を視聴率と共に獲得したタレント達は繰り返し登場させられる。しかし飽きられる速さも凄まじい。その意味では現代マスメディアが人員の顔ぶれを新陳代謝させるスピードに於いてのみ我々は現代社会を公平であると実感させられている。
 あっ、いいなと瞬時に思える他者への判断の感性は熟慮された判断ではない。そういったじっくりと考える心の余裕を専門家の世界でも学術的世界でも現代社会の情報化のスピード自体は心の余裕として与えない。だから却って好感度とは出会いの感性の先程も述べた排他的で差別主義的な感性にも支えられ、何処か格好とか雰囲気とかが鈍腐い他者を排斥し、格好良さとか見てくれを重視していってしまう。だから益々美と倫理は乖離していってしまう。
 美で(しかも長期的に保たれ得る美でなく瞬時で、あっ、いいなって思える美で)全てを判断している。それでいてその美の陳腐な瞬時の判断こそを理性と倫理であると似非的な正義論で正当化している。正義論とは強烈なエゴイズムでしかないとは真理であるのに。
 エロスやセクシュアリティは美と重なる部分も大きい。逆に美それ自体はエロスやセクシュアリティと重ならぬ場合もある(数値的美、認識的美等にはそう言える部分もある)。
 現代社会が現代人を構成しているという部分があるけれど、現代人が現代社会を今様にしているとも決定的に言える。何故なら愛の在り方や規定そのものが時代を反映するとは言えるのだし、その時代性が法全般を斯くあるべしと心へ規定させている。
 愛を持続させたいと欲するのは愛する相手(他者)へのブランド化でもある。この者と共に時間を過ごす事を価値化させる眼差しは他者のブランド化以外ではない。
 そこでは見栄とか虚栄心も往々にして在る。美的な異性と共に歩く事は見てくれもいいし、イケメンの同性の友人と共に居る事は見てくれも聞こえもいいと判断している。そしてその自らの直観的な美的判断を倫理とか理性へと置き換えている(摩り替えている)とも言える。
 物事を価値化させる視点とはこういった摩り替えが行わていない筈がないのだ。だから時として相手から相手にされなくても、相手への日常的同伴を望めばストーカー的な振る舞いへと移行していってしまう。日常的な時間をある特定の出会いの直観で素敵であると判断してしまった他者を自らのエゴで巻き込み同伴させたいと願う心理が歪である事を中々現代人は気付き難い社会環境に住んでいると言える。
 他者所有の未練が生を支配している。実は年配者が年少者へ年配者を敬えとする態度も年配者に拠る人生がやがて終える時期の到来が近づけば近づく程未練が人生へ募ってくる事への懸念が生み出した欺瞞的態度でしかない。何故なら死者とは必ず徐々に忘却されていく運命にある、と全生者は知っているからである。
 結婚して同居してとっくに覚めた愛に対しても未練を抱く。相手へとっくに幻滅していても尚運命的な出会いであったとそう思いたい未練もある。だからこそ往々にして一般に人々は離婚には踏み切らないのだ。しかし既に述べた様にそもそも愛は言葉化出来ぬと神格化してきた程愛とは崇高なものなのだろうか?そう懐疑的に問う事も可能ではないだろうか?
 そもそももっと現実的に言って愛とはそんなに純粋なものであり続けてきたのだろうか?
 或いはそんなに純粋なもので愛があったなら、愛とはそう実現し得る事であったろうか?
 例えば相手から一切見返りのない愛を我々は期待するだろうか?つまり相手から一切愛され返されぬと知っていて尚相手をずっと永遠に我々は愛せるものだろうか?最初に出会いの直観で価値ある出会いだとしたその出会われた他者への愛をずっとそういった一切の見返りのない状態を維持された侭持続し得るものだろうか?
 それがし得る、いやすると断言し得るなら、そう断言する者を仮に我々が、そんな愛はマゾヒスティックだと言った時、その愛の純粋性に対して批判する現実的態度を批判する事が出来るだろうか?或いはその批判された者の方が正当だと明確に言い切れる(欺瞞的な純粋神話への信仰でなく素直に)ものだろうか?
 或いはこうも言える。そういったマゾヒスティックな見返りを求める事の出来ぬ相手への献身が唯単に自虐的なナルシシズムでしかないと言った時、その言及に対して明確に論理的にも倫理的にも我々は責める(攻める)事が可能だろうか?
 自虐的ナルシシズムも又一種のエゴイズムでしかないと言えないだろうか?自虐とはそれ自体一つの特殊なエゴイズムの変形でしかないとは決定的に言える事である。
 してみれば、相手からの見返りを求めるという事も愛の一つの権利であり、それはたとえ自分の親であっても、認知症を伴って自分を息子とも娘とも判別が付かない状態であり、尚且つ自分に対して只管暴力を振るうとしたなら、それでも尚その親を愛せと我々は命じられるだろうか?
 相手から感謝されるという見返りもあればこそ我々はその最も本来なら愛すべき他者(親族とか肉親)であっても愛せるという事は権利的に言えるのではないだろうか?
 だから却って相手から一切無視され虐待さえされているのに相手へ献身を続け愛し続けるとしたなら、それはもう自虐的な意味で歪なナルシスの命じる侭愛を持続させようと欲する歪な美学的なエゴイズムではないだろうか?
 だから愛を純粋なる献身へと置き換えてしまうとどうしてもこういった極度の歪な自虐的美学のエゴイズムに愛を置換させねばならなくなる、とは言い得る事である。
 そこでこうも言える。愛は即ちどんなタイプのものであれ多かれ少なかれエゴイズム以外ではない。つまり愛とはニヒリスティッシュに言えば所詮、特殊なエゴイズムのパターンでしかないとも言えてしまう。
 もっと簡単な例で考えてみよう。
 それは愛を慰安とか生活の寛ぎを得る権利的な幸福感情の一端だとして考えてみることである。そう考えてみよう。
 そもそも他者への思い遣りの善とは、正義、公平、責任とは次元が異なるのではないだろうか?
 他者への思い遣りとは他者が自分へ甘えて来た時にそれを受け止めてあげる事ではないだろうか?
 となると理性論的には愛は甘えと馴れ合いと区別がつかなくなっていってしまうけれど、その区別そのものを既に直観的な出会いの感性とか肉親とか親族であるなら運命的に背負わされている。何故なら他者を愛しいと思える瞬間とは、自分自身が正しい時に賛同してくれる事よりも、もっと自分自身に否がある時に、それでも尚味方をしてくれる事であるからである。
 要するに完全に自分の方が誰か第三者と対立して悪い場合でさえ、自分の方に味方してくれる相手、自己の四面楚歌を少しでも軽減させてくれる様に献身してくれる相手(他者)へ我々は自己が正しく周囲から文句なくその正しさが認識されるであろう状況よりも、よりその「それでも尚味方してくれる他者」としてその者を我々は愛そう。
 自分の我儘という悪さえも容認してくれる他者を我々は愛す。これは決定的な事実だ。自分自身で自己の悪を自覚すればするほど、それでも尚味方してくれる相手への感謝程大きいものはない。と言う事は感謝それ自体も又極めてエゴイズムに拠って支えられているものである、否感謝それ自体が一種の強烈なエゴイズムであるとさえ言える事になる。
 自己の悪さえ受け入れてくれる相手(他者)への感謝の大きさとは、実は他者と共に居る事の慰安と寛ぎの中に、決定的に自己本位でエゴイスティックでしかない心情と愛とが密接に結びついていると言えるのである(菊池直子と高橋克也もそうだったかも知れないし、菊池直子を匿っていた男もそうだったかも知れない)。
 自らの苦戦、自らの不利、自らの怠慢という悪にも関わらず味方してくれる相手(他者)への無償の愛としての認識こそが感謝であるなら、感謝に拠って支持されている愛とは相互の功利主義的な甘えだけでなく(それは契約する他者同士でも国家間の外交的な判断でもあり得るのだから)、純粋な他者への感謝(それは相互の権利的主張を越え得る心の在り方である)とは、自己本位である事を免れ得ないと言えるのだ。
 感謝という心情のエゴイズム的性格は、愛がそれ自体自己本位な生存欲求に拠る甘え以外ではない相互の存在容認と密接である事を証明するのではないだろうか?(つづく)

Monday, April 22, 2013

シリーズ 愛と法 第二章 愛の倫理とは何か?

 前回愛が法を逸脱する事が許される唯一の事はそれが許され得るエゴイズムであると考えられる、と言う事はそう感じられるという事だという事が一つの結論であった。
 では許され得るエゴイズムとそうでなく許されざるエゴイズムとは何かという事がそこで問題となろう。
 我々の前には取り敢えずこの許され得るか許されざるかを判定する基準それ自体を倫理だとする道が開かれている。
 その時エゴイズムとは通常それ自体許されざる事であると考えられがちであるが、実は自己信念に忠実に行為へ赴く事、履行する事それ自体は如何にそれが責任の名に於いてでも正義として容認されている事でも、それは既にエゴイズムでしかあり得ないのだという観念にも幾分の説得力がある筈だという視点でこの事を論じている事を明記しておきたい(この事は詳しく後述する)。
 すると倫理として許され得るエゴイズムとは他者全般の愛の権利を妨げぬ範囲内であれば、それは取り敢えずそうであると言えないだろうか?
 要するに他者愛であれ自己愛であれ、それは究極ではそれを履行する事で他者全般が有する愛の権利を妨害するものでなければ許され得ると我々は取り敢えず言える気がする。
 つまり我々は直観的に他者全般の愛の権利の侵害者として許されざるエゴイズムを認めているのではないだろうか?それが他者愛であれ自己愛であれそうであると我々は直観する。
 してみると、そうでなく他者全般の愛の権利を促進していく可能性を見出し得るエゴイズムがもし仮にこれ迄の社会的な意味での法を逸脱するという形で容認されていなくても、これ迄の、そして通常通念的に我々がそうではないかと思えてしまう愛の倫理、愛の法(この二つを取り敢えず重なるものとして容認しておいてみよう)に沿っていると思えなかったものの、内実的にそうではなく履行してみれば今迄考えられていた愛の法そのものを旧態依然化するある発見があったとしたら、つまり真理的な愛の法に沿っていると思える発見をそこに見出し得るのなら、それはこれ迄の法(法それ自体は愛の為だけではないが、愛それ自体にも法があるし、それをここで一緒にして考えても取り敢えず差し支えないだろう)に背いていても、その背きの方が説得力を持ち得ると我々が容認し得たなら、法を書き換える事を示唆する力としてその愛のエゴイズム(取り敢えず法に背く事は如何なる事でも<それが愛に殉じる事でも>エゴ的であると言えるから)は許され得ると判定されて然るべきではないだろうか?
 つまり許され得るエゴイズムとは愛の倫理の下では法を書き換えこそ示唆しても、それに拠って我々が直観的に正しくないとは決して思えない説得力を行為そのものが有しているという事ではないだろうか?
 それは常に在ると言える事とは言えず、極めて例外的な事だと言えるだろう。例外的に我々が生の生存と維持とに於いて直観し得る真のヒューマニティを見出し得る、そういうものが先験的に備わっていると感じられる愛すべきエゴイズムだと言えるだろう。
 ところで我々は愛とは言葉化し得ない、言葉化する事が出来ないという真理の様に思える事に拠って実はかなり多くの事を問う事を等閑にしてきたとも言える。つまり「愛とは言葉化出来ない」という謂いが知らず知らずの内に陳腐なエゴイズム(それはある程度許容し得るも、決して倫理的にも愛の法にも準じているとは言い難いという意味でのエゴイズムである)に陥りやすく生活してきている、とは言えないだろうか?
 その点では我々は我々自身の行為を厳密に分析していく必要性もある。それがもし哲学的認識だとするなら、愛が滅私的でそれ自体エゴイズムではないと感じ(られ)る(と言う事はそう決め付ける)感性と、そうではなく自然とそう身構えてしまっても、実はそういう他者愛とか自己犠牲も又一種固有のエゴイズムでしかあり得ないとそう感じ(られ)る感性とがあり得る、とは言える。
 さて前者は幾分先程述べた「愛は言葉化出来ない」という真理(と思われている事)を鵜呑みにしている感性に拠って得られる決意であるとは言えないだろうか?
 その点では哲学的認識と言える後者の感性は、デカルト批判として登場しているニーチェ的流儀を一定の現代哲学的相貌で認めつつも、それをも含めデカルト的出発点を誤りではないと言い切れる感性ではあろう。
 一見確かに愛は言葉化し得ない様に滅私的愛はエゴイズムではないと言い切れる様にも思えるのは、前者的感性がある程度我々の社会へ蔓延しているからであろう。だから後者的に、否その様に滅私的で自己犠牲的である事そのものも又一種固有のエゴイズムでしかないのだと断じる感性は、前者の特殊な変形であり、所詮この二つは同じ事実の二つのちょっとした認識の仕方の違いでしかないのだ、と社会的俗を受け入れれば言えない事もない。
 しかしである。この二つの感性の違いは哲学的には決して小さな事ではないと言える。何故なら前者的感性は自己の対他的愛を疑うという事を知らず、信じ切っているからである。信じ切るとは行為そのものの履行には絶対的に必要である。しかしそれは我々が日常的に反省的に行為そのものを考える事の前では潔く取り除く必要もある事なのだ。
 つまり後者的感性では滅私や自己犠牲も又所詮一つの固有の私利私欲でしかないと判定を下す事で信じ切る事で得てしまいやすい誤謬を避けようとしている。
 それは信じ切ってしまいやすい事へさえ疑う事を導入する事を憚らぬ事実全体を如何に当然と思われる事に於いても当然ではないと思われる事と等価に行動の採り方に内在するドグマ的な事をメタ認知していこうと欲する態度であろう。つまり「それをしている自分」というハイデガー、サルトル的に言えば対自的視点での反省である。
 自己に拠ってほぼ無反省的に行われる行為に迄懐疑の目を差し向けるという意味ではデカルト主義批判者であっても、デカルト的出発を否定している訳ではないのである(例えばメルロ・ポンティはその極端な懐疑への移行を経験主義と同一の誤りを犯す主知主義として批判したのだったが、これはデカルト主義批判であると同時にその正当なる修正主義の宣言でもあった訳だ)。(つづく)

Friday, April 19, 2013

シリーズ 愛と法 第一章 語義、或いは愛とエゴイズム

 ミシェル・アンリの研究者に拠るとアンリとは「愛は法に優先する」「愛の法への優位は決定的だ」と考えていて、そういう論説で彼は哲学していたと言う。
 これは我々に対して極めて共感を誘う主張である。何処かアンリは文学者でもあった事から、共感試験的に、つまりそう主張する事で、それに反意を抱く者とはどういう人であるかという事を知りたいが為にそういう主張をしたと捉える事も間違いではないだろう。
 事実アンリの文章は哲学書であっても何故を問うている訳ではなかったし、因果律的にある事の根拠を問い詰める事が彼の哲学の目的ではなかった。その部分ではアンリを哲学を通した表現者であったと捉える事も可能である。
 だが当然の事ながら本シリーズはアンリ研究が目的なのではない。あくまでこのアンリ的態度は入口にしか過ぎない。
 推論、論証といった理由とか根拠とかを探る事が哲学の目的ではない(通常の哲学はそうではない)のなら、アンリは愛そのものを表現したのだ、と言い得るのではないか?
 アンリの論文分析とか考察は専門の徒に任せるとして(とは言え必要とあれば、部分的には本シリーズでも取り上げるつもりだが)、取り敢えず要点を把握すれば、愛の法への優位とは次の論理で示し得るものと思われる。
☆価値が倫理を生む(倫理が価値を生むのではない)。
☆愛が法を生む(法が愛を生むのではない)。
☆愛こそが最高の価値である。
☆従って我々は愛を優先し、法をその配下に付けるべきである。法によって愛を歪曲してはならない。
 よく分かる。それはヒューマニティとしても当然の事である、と我々は直観的に知っている。
 しかしである。これでは余りにも曖昧過ぎて、愛自体とはどういう事なのかという事が見えてこない。勿論愛とは問う事でないとアンリなら考えただろう。しかしそれを問いたい自由を封殺する必要もないし、そうしなければいけないとアンリが言っていた訳ではないだろう。
 愛を問うなと言うその態度はややもすると、それを分からぬ者は価値に就いてなど語る資格等ないと言わんばかりの上から目線的な権威主義的態度も透けて見えるという意見も極自然に見えてくる。
 そこで本シリーズでは愛とは何かを情感、エロス、制度としての言語、モラルや倫理を通して考え、法全般(言語も含む)との関係から考えていきたい。
 要するに愛の精神構造分析と、その価値論的論説を試みたいのである。  
 では最初にもし法自体が誤っているのなら、その時愛の方を優先し、愛に沿って法を変えていくべきだという考えが浮かぶ。しかしそういう風に法をその都度変えていくべきであるという愛に準じた価値を最重要視するなら、それは既に愛自体が一つの絶対的法である、と言っているのと同じではないだろうか?
 言葉を換えれば愛に拠って打倒されるくらいのものを安易に法と呼んで良いのかという倫理的、或いは価値的認識も自然に迎えられる。
 要するに制度的な意味で法を重たいものとするなら、法が愛を搾取する様な悪法を法と呼んで良いものかという価値評定とか倫理問題を誘発する。
 確かにアンリはレジスタンスをしていた人なので、法それ自体が悪法である状況下で哲学的基礎を積んだ。従って法の悪性を知る者として愛を優先する事は自由を法より優先する様に理解出来ると言えば出来る。
 しかしもっとその論議をユニヴァーサルなものとするには、愛自体も分析する必要がある。
 もし法そのものが極めて愛に従っているものなら、その法を背く事は愛と呼べるだろうか?それは唯単に愛の名を語るエゴイズムではないのか?そう問える。
 そこで愛とはエゴイズムとは無縁のものであるべきだ、という愛自体の価値評定、あるいは倫理命題がここに与えられる事となろう。
 そうである。愛がもし法より優先されるべきであるなら、まず愛がエゴイズムとは無縁でなければならないと倫理的には言い得る。
 しかし実在生活者の我々は神ではない。従って脆弱な存在者である我々はその脆さを認めつつ歩んでいかなくてはならない。そういう観点に立てば一切のエゴイズムを容認せぬ愛とは実在的に不可能ではないのか?
 そう問えば当然幾分のエゴイズムも権利として愛に認めてもよいのではないかという視点も誤りではないと言い得るのではないか?
 エゴイズムを悪と決め付ける視点からはそれを介入させるものは愛の名に値しないこととなろう。しかし一切の自己本位を無化させた愛を実在生活者たる我々には不可能だとするなら、法がエゴイズムの無化を絶対条件とするなら、その様な法が曰く観念的過ぎて悪法という事になるだろう。
 我々は現実社会に自己を適合させてしか生活出来ない実在生活者であればこそ、適度の愛の義務と、価値倫理的な 愛の法を遵守しながらも、同時に幾分の自己本位なエゴイスティックな逸脱を寛容的に認められるべきではないのか?
 つまり純粋自己犠牲的、レヴィナス的な愛を観念上では認めつつも、それは価値論としてのみ受け取っていくべき余地もあるのではないかと問う事も可能であろう。
 法が「正しく」絶対であるなら、法を背く愛とはエゴイズムと不可分であるという事に少なくとも論理的にはなり得よう。しかし正しいという事はしばしば法の遵守という観点からのみ言える事でもある。その論点を採用すれば、当然正しい事とは愛に沿っているとは限らないという事となる。カントやニーチェには確かにその正しさ、つまり遵守する事の誠実性(自主道徳的な遵守、道徳的法則の遵守)という事がベースとしては語られている。
 しかしそれはやはり価値観念論としての「哲学」に収めておくべきではないかという論議も呼び起こされよう。
 アンリはある意味ではそれを言いたかったのかも知れない。してみれば正しい事、法の正当性とは愛に拠っているとしても、それが経験則として得られた結論であるなら、その経験則から零れ落ちる愛の形態とか様相もあり得るという事になろう。
 と言うことなら、逆に愛にその都度従っているのなら、その都度法が書き換えられていって然るべきだという事になる。それは相対的な法の在り方と、愛のその都度の遵守という意味では杓子定規的な正しさではなく、極自然に正しいと言えるのではないか?しかしその正しさは権威化されるべきものではないという思想が必要なのである。
 するとこうも言えるかも知れない。
 この世界では事後的に許され得るエゴイズムと許されざるエゴイズムとがあり、前者に沿っているのなら法からの逸脱も許され、後者に沿っているのなら、それは許されないという事となろう。
 してみれば語義として法がそんなに容易に愛からであっても覆されるべきではないという倫理からも抵触され得ない。では倫理は常に絶対であろうか?倫理もそれ自体、自主道徳や道徳的法則を蔑ろにさせぬ為の訓戒として便宜上設けられたものではなかったのかというその絶対化への懐疑が持ち出されても良い。
 次回は倫理という法を愛の権利に就いて考える。(つづく)
付記 本シリーズでは法をそれ程容易に覆されざる至高価値として敢えて愛と対峙させる事で、ある程度厳密に語義規定性を重く用い、しかし最終的には語義も相対的である事を逃れ得ず、愛を至高価値とさせたいが、愛と錯覚する多くの似非的、欺瞞的な実在の行為をよく検証していくべきだと捉えているのだ。(Michael Kawaguchi)