Tuesday, May 28, 2013

シリーズ 愛と法 第三章 愛と甘え

 懐疑的眼差しで正しいと思える愛をも反省へと追い込む事こそが愛の倫理と言えるのではないか、という事が前回の論旨であった。知らず知らず我々が日常的に陥る「愛は言葉化出来ない」という捉え方は、愛と甘えの関係を彷彿さずにはおかない。
 今回は愛と甘えに就いて、その密接な関係にある事から考えてみよう。
 愛と甘えとは多分に相性のいいセクシュアリティである。モラル的、倫理的、正義論的に間違っていると思えてもそうだし、正義論的に倫理規約にもモラル規範的にも適っているとそう思えても、実はその甘え的性格に拠って愛が支えられているという意味では変わりない。
 何故なら相手が唯単に直観的に相性がよいと思えて好きである場合、相手が間違っていると倫理規範的に薄々知っていてさえ、それを許せてしまう事がある。我が子が謝って人を殺してしまっても、その子が自分にとっていい子であれば母親は子を庇い警察へ突き出されぬ様に画策するかも知れない。
 要するに相手に拠っては自然に倫理的規約以前的に許せてしまうという事はあり得る事である。そういう甚だ身勝手でその許せてしまう感性を容認し得ぬ他者を差別排斥する雰囲気を自然に作ってしまう様な馴れ合い的関係を愛と錯覚する、或いはそもそも愛とは規約通りに行く法と違うのだから、愛を過大視して理性論的に雁字搦めにしてしまえば、それは愛ではない(従ってカントの誠実性やニーチェの畜群といった観念も愛とは別個の形而上的価値であると心では批難さえ出来る)と言い得る事を何処か自然なものとさせてしまうのが我々ではないだろうか?
 贔屓感情自体が極めて不合理な事である。それは惹かれる異性に対してセクシュアリティとして相手の存在を出会いの感性的に認知している場合、それはエロス的存在として相手を認可している事である。セクシュアリティとして相手(他者)存在を認可する事はその時点で理性より出会いの感性を優先させている証拠である。セクシュアリティ的な魅力を察知するという事は、既にそういった非理性性を全てに優先させる感知促進的、相性察知的感性の夢魔に他ならない。痘痕も笑窪とはそういう事であり、好きである事は不合理な感情である。
 そしてそれは対異性、対同性、対自分より年配者、対自分より年少者全てに対して言える事である。それを一々合理的に解釈していなさこそが慰安であり、生活上の潤いとなっている事は否定し得ない。要するに惹かれるという事は好きなタイプの話し方、顔、表情の示し方、身体付き、感情的なパッションとして受け入れられるタイプである事等様々であるが、それは殆ど直観的な出会いの感性で決まる。相性は理屈で判断されていない。
 性格的な好き嫌いさえ声の発し方とか微細なレヴェルでの他者への嗜好が大きく作用している。映画監督が自分の映画に主演で起用したくなる役者は同性であれ異性であれそういった様々な要素の複合的な様相で一瞬で決定されているのと同じである。
 ヘテロセクシュアルな嗜好の人格(ストレート)でもバイセクシュアルな判断を精神的にしている事は間違いない事実である。ゲイ、同性愛者が特別な存在であるのではない。又ゲイも同性愛者も様々なヴァリエーションがあり得るのであり、全く個々では異なった唯一のタイプである筈だ。従って同性愛であると規定し得ないストレートとされる人格の中でも無意識に惹かれ合う同性同士は一瞬で出会いの感性に拠って決定されている事が多い。好きなタイプの同性、性的にさえ惹かれていく同性があるからこそ、ヘッセは『デミアン』をエドガー・アラン・ポーは『ウィリアム・ウィルソン』を書いたのだった。
 そういった事実の前では甘えとは理性的に許容し合える他者への見方にさえ潜んでいる。それが理性的に相手の非にも関わらず許せるという判断は検事や判事さえしていると思われる。それは出会いの感性を理性へと無意識に置き換えている、摩り替えているとさえ言えるかも知れない。
 そこには多分にエロス的感受性、セクシュアリティ的判断も手伝っているだろう。
 現代の大半の作家はセクシュアリティ的感性を迸らせる事を出来なくなっている。それは現代社会へそういった出会いの感性を直観的にしている事実を何処かで隠蔽させようと未然に対世界へと身構えさせるストレスを我々が保持する事を社会や国家や字義通りの世界が暗黙に強制しているからだ、とも言える。ウェブサイトの情報摂取的猛威がそうであるし、マスメディアと政治や経済が結託して我々の日常的判断をメディア論的な観念性で彩ってしまっている事も否めない。
 クリエイター自身がエロス的感性を摩滅させているから必然的に彼等の作る世界も無味乾燥であり、セクシュアリティを素直に描けなくなっている。これは顕著な事である。
 その意味では現代はエロスとセクシュアリティ喪失の時代であり、数値化された認識至上主義的時代だ、と言ってよい。
 美と倫理は理性的に考えても対立する要素はある。しかし多くの現代人は倫理的に正しいものを優先させては居ない。と言うより倫理的な正しさとは何なのかを自主的に判断為難い時代に現代社会自体がなっているとも言える。法的な事は常識、通念、前例主義的判断では従っていると自分自身では大勢の人が思っている。しかしそこに深い思索はない。そもそも思索する事を阻むビジーネスを正しいもので従うべきだと現代社会の機構自体が我々の日常へと強いている。忙しさの中に埋没せよ、とウェブサイト、日々のルティン的な規約が命じている。だから逆にマスメディアで一旦好感度を視聴率と共に獲得したタレント達は繰り返し登場させられる。しかし飽きられる速さも凄まじい。その意味では現代マスメディアが人員の顔ぶれを新陳代謝させるスピードに於いてのみ我々は現代社会を公平であると実感させられている。
 あっ、いいなと瞬時に思える他者への判断の感性は熟慮された判断ではない。そういったじっくりと考える心の余裕を専門家の世界でも学術的世界でも現代社会の情報化のスピード自体は心の余裕として与えない。だから却って好感度とは出会いの感性の先程も述べた排他的で差別主義的な感性にも支えられ、何処か格好とか雰囲気とかが鈍腐い他者を排斥し、格好良さとか見てくれを重視していってしまう。だから益々美と倫理は乖離していってしまう。
 美で(しかも長期的に保たれ得る美でなく瞬時で、あっ、いいなって思える美で)全てを判断している。それでいてその美の陳腐な瞬時の判断こそを理性と倫理であると似非的な正義論で正当化している。正義論とは強烈なエゴイズムでしかないとは真理であるのに。
 エロスやセクシュアリティは美と重なる部分も大きい。逆に美それ自体はエロスやセクシュアリティと重ならぬ場合もある(数値的美、認識的美等にはそう言える部分もある)。
 現代社会が現代人を構成しているという部分があるけれど、現代人が現代社会を今様にしているとも決定的に言える。何故なら愛の在り方や規定そのものが時代を反映するとは言えるのだし、その時代性が法全般を斯くあるべしと心へ規定させている。
 愛を持続させたいと欲するのは愛する相手(他者)へのブランド化でもある。この者と共に時間を過ごす事を価値化させる眼差しは他者のブランド化以外ではない。
 そこでは見栄とか虚栄心も往々にして在る。美的な異性と共に歩く事は見てくれもいいし、イケメンの同性の友人と共に居る事は見てくれも聞こえもいいと判断している。そしてその自らの直観的な美的判断を倫理とか理性へと置き換えている(摩り替えている)とも言える。
 物事を価値化させる視点とはこういった摩り替えが行わていない筈がないのだ。だから時として相手から相手にされなくても、相手への日常的同伴を望めばストーカー的な振る舞いへと移行していってしまう。日常的な時間をある特定の出会いの直観で素敵であると判断してしまった他者を自らのエゴで巻き込み同伴させたいと願う心理が歪である事を中々現代人は気付き難い社会環境に住んでいると言える。
 他者所有の未練が生を支配している。実は年配者が年少者へ年配者を敬えとする態度も年配者に拠る人生がやがて終える時期の到来が近づけば近づく程未練が人生へ募ってくる事への懸念が生み出した欺瞞的態度でしかない。何故なら死者とは必ず徐々に忘却されていく運命にある、と全生者は知っているからである。
 結婚して同居してとっくに覚めた愛に対しても未練を抱く。相手へとっくに幻滅していても尚運命的な出会いであったとそう思いたい未練もある。だからこそ往々にして一般に人々は離婚には踏み切らないのだ。しかし既に述べた様にそもそも愛は言葉化出来ぬと神格化してきた程愛とは崇高なものなのだろうか?そう懐疑的に問う事も可能ではないだろうか?
 そもそももっと現実的に言って愛とはそんなに純粋なものであり続けてきたのだろうか?
 或いはそんなに純粋なもので愛があったなら、愛とはそう実現し得る事であったろうか?
 例えば相手から一切見返りのない愛を我々は期待するだろうか?つまり相手から一切愛され返されぬと知っていて尚相手をずっと永遠に我々は愛せるものだろうか?最初に出会いの直観で価値ある出会いだとしたその出会われた他者への愛をずっとそういった一切の見返りのない状態を維持された侭持続し得るものだろうか?
 それがし得る、いやすると断言し得るなら、そう断言する者を仮に我々が、そんな愛はマゾヒスティックだと言った時、その愛の純粋性に対して批判する現実的態度を批判する事が出来るだろうか?或いはその批判された者の方が正当だと明確に言い切れる(欺瞞的な純粋神話への信仰でなく素直に)ものだろうか?
 或いはこうも言える。そういったマゾヒスティックな見返りを求める事の出来ぬ相手への献身が唯単に自虐的なナルシシズムでしかないと言った時、その言及に対して明確に論理的にも倫理的にも我々は責める(攻める)事が可能だろうか?
 自虐的ナルシシズムも又一種のエゴイズムでしかないと言えないだろうか?自虐とはそれ自体一つの特殊なエゴイズムの変形でしかないとは決定的に言える事である。
 してみれば、相手からの見返りを求めるという事も愛の一つの権利であり、それはたとえ自分の親であっても、認知症を伴って自分を息子とも娘とも判別が付かない状態であり、尚且つ自分に対して只管暴力を振るうとしたなら、それでも尚その親を愛せと我々は命じられるだろうか?
 相手から感謝されるという見返りもあればこそ我々はその最も本来なら愛すべき他者(親族とか肉親)であっても愛せるという事は権利的に言えるのではないだろうか?
 だから却って相手から一切無視され虐待さえされているのに相手へ献身を続け愛し続けるとしたなら、それはもう自虐的な意味で歪なナルシスの命じる侭愛を持続させようと欲する歪な美学的なエゴイズムではないだろうか?
 だから愛を純粋なる献身へと置き換えてしまうとどうしてもこういった極度の歪な自虐的美学のエゴイズムに愛を置換させねばならなくなる、とは言い得る事である。
 そこでこうも言える。愛は即ちどんなタイプのものであれ多かれ少なかれエゴイズム以外ではない。つまり愛とはニヒリスティッシュに言えば所詮、特殊なエゴイズムのパターンでしかないとも言えてしまう。
 もっと簡単な例で考えてみよう。
 それは愛を慰安とか生活の寛ぎを得る権利的な幸福感情の一端だとして考えてみることである。そう考えてみよう。
 そもそも他者への思い遣りの善とは、正義、公平、責任とは次元が異なるのではないだろうか?
 他者への思い遣りとは他者が自分へ甘えて来た時にそれを受け止めてあげる事ではないだろうか?
 となると理性論的には愛は甘えと馴れ合いと区別がつかなくなっていってしまうけれど、その区別そのものを既に直観的な出会いの感性とか肉親とか親族であるなら運命的に背負わされている。何故なら他者を愛しいと思える瞬間とは、自分自身が正しい時に賛同してくれる事よりも、もっと自分自身に否がある時に、それでも尚味方をしてくれる事であるからである。
 要するに完全に自分の方が誰か第三者と対立して悪い場合でさえ、自分の方に味方してくれる相手、自己の四面楚歌を少しでも軽減させてくれる様に献身してくれる相手(他者)へ我々は自己が正しく周囲から文句なくその正しさが認識されるであろう状況よりも、よりその「それでも尚味方してくれる他者」としてその者を我々は愛そう。
 自分の我儘という悪さえも容認してくれる他者を我々は愛す。これは決定的な事実だ。自分自身で自己の悪を自覚すればするほど、それでも尚味方してくれる相手への感謝程大きいものはない。と言う事は感謝それ自体も又極めてエゴイズムに拠って支えられているものである、否感謝それ自体が一種の強烈なエゴイズムであるとさえ言える事になる。
 自己の悪さえ受け入れてくれる相手(他者)への感謝の大きさとは、実は他者と共に居る事の慰安と寛ぎの中に、決定的に自己本位でエゴイスティックでしかない心情と愛とが密接に結びついていると言えるのである(菊池直子と高橋克也もそうだったかも知れないし、菊池直子を匿っていた男もそうだったかも知れない)。
 自らの苦戦、自らの不利、自らの怠慢という悪にも関わらず味方してくれる相手(他者)への無償の愛としての認識こそが感謝であるなら、感謝に拠って支持されている愛とは相互の功利主義的な甘えだけでなく(それは契約する他者同士でも国家間の外交的な判断でもあり得るのだから)、純粋な他者への感謝(それは相互の権利的主張を越え得る心の在り方である)とは、自己本位である事を免れ得ないと言えるのだ。
 感謝という心情のエゴイズム的性格は、愛がそれ自体自己本位な生存欲求に拠る甘え以外ではない相互の存在容認と密接である事を証明するのではないだろうか?(つづく)