Wednesday, July 4, 2012

〔言語の進化と責任〕第九章 あるいは結論 愛と性の言語(「触れ合い」の哲学について)

 私は言語と言いながらあまり言語学者のような体裁を一切無視してここまで書いてきたのだが、実はそれには訳がある。それは言語学そのものが未だ発展途上の学問で、確たる方法論が確立してはいない、ということと、言語というものを考える時、ただ記述された文字表現とか対話とかだけに限定することもまた不自然なくらいに言語という観念自体が多様化してきている、ということも言えると思うからだ。だが言語はヒトが歩き始め、食料を確保する方法として採集とか狩猟とかを始めた頃から何らかの形で、その必要性を漠然とは意識していて、その内発的な意思疎通への熱情が、いつしか現在のような形での意思疎通へと直結する方法の獲得に繋がり今日の様になったということは言えるだろう。
 しかし言語活動が日常的な言語行為へと位置付けられてゆくために最も貢献したのは、意味や指示対象だけではなかった筈だ。そしてあまり本論では触れられなかった最も重要な人間の感情、愛と、最も人間生活において恐らく他の全ての生命と同じく切実な性ということから言語の進化を考えていってみよう。そしてそこで何らかの言語進化の問題の結論としてみよう、と思う。
 通常我々の社会的倫理観として人間のように一夫一婦制を採用している生物は稀であることを承知でか、承知しないでかはともかく人間は愛を一定の持続期間、少なくとも子供を儲け、育て一人前にして独立させるまでは結婚という形態で同居契約を結び、それを全うするという行為の倫理性に比べれば、一時の快楽を通じて瞬間的な喜びに打ち興じるということを劣った行為であるとするのが今までは通常だったし、つまり愛とは責任を伴うものである、という意識が我々の社会には暗黙のルールとしてあった、ということは言えるだろう。
 しかし同時に現代ではインターネットで誰でも容易にポルノ動画に接することが出来るし、大人であるならそういうネット・サーフィンをすることが児童ポルノとか特殊な例外を除き、倫理的に罪悪であるとする社会人はそれほど多くはないだろう。例えば子供がそのような動画に接することがないように工夫すべきであるとか、法的な規制をするべきであると言いながら、一人で退屈凌ぎにそういう動画を検索している人は多い筈である。
 人間の愛という活動には本音と建前があって、それを混同することは差し控えたいが、巧く峻別しておれば、社会の潤滑油であると考えている大人は多い。
 また今の若者は、その全てではないだろうが、保守的傾向の青年も多いだろうが、昔のような意味でセックスに対する知識が皆無であるようなタイプの青年はあまり多くはいないだろう。勿論そういう好奇心は知識の希少な若者でも、かなり以前から誰しも経験があっただろう。しかし時代が現在に近づくつれ、ネットその他による溢れんばかりの情報の授受という行為それ自体は自然なものになりつつある。
 そして一体言語とは発話とか記述だけであったのか、例えば性行為に関するマナーといったこともまた立派な言語だったのではないだろうか、という考えが私にはある。
 現代の性科学は少なからず過去のそれとは曲がり角に来ていることは確からしい。例えば性を人間以外の全ての動物において(と言うことは人間も例外ではなく)オスによるメスの選択(性選択と生物学では言う)やメスによるオスの選択という認識だけではなく、寧ろ性行為を獲得したいと望む側と、それを避けたいと願う側の駆け引き、あるいは攻撃と防御という熾烈な葛藤であると見る見方が大勢を占めてきている。そしてその事実は性というものがただ繁殖と子孫繁栄のためにだけ供せられる行為ではない、という認識を拡大させつつある。そして重要なこととは、そのようようにオスとメスが葛藤し合いながら性行為に到達するということは人間社会でも我々は具に観察出来るのだが、実際オスとメスの違いよりも、たまたまオスに生まれたか、たまたまメスに生まれたかというような個人(動物では個体)の違いという様な意識の在り方から考えられる要素の方が性ということの実体を把握するには相応しいのではないかという思念さえ浮上するのである。
 人間を含め全ての生物、そこまで言うと少々説明が困難になるので全ての動物としておくが、彼等(我々も含む)が性行為を行うことに纏わる種毎の方法とは、それ自体で種の身体に記憶された言語であるとは言えないだろうか?
 ある米国の有名ポルノ女優は「マスターベーションをした経験のない人は恋人と交際する資格はないわ。」と言っていたが、私はその意見に対しては賛成である。
 日本人は性的なモラルに関しては色々最近の若者は昔とは違うように言われているが、未だ欧米先進国のようには自由でも解放されてもいない。また彼等と同じような性的なモラルを持つべきとも言い切れない。正高信夫氏の著作「ケータイをもったサル」の主張のように、昨今の若者を「ひきこもり系」と「ルーズソックス系」(今はすっかり居なくなったが、その代わりに外を歩く時さえ携帯画面釘付け系とでもしてもよい)と名付けて考察してみると、日米の若者像の違いが鮮明になるが、日米での違い、特に周囲の人間と協調するように、溶け込むように母親が赤ん坊の頃からそれとなく強いていく姿(統計的にも日本人の母親はスキンシップを赤ん坊に話しかけること以上に大切にするが、アメリカの母親は赤ん坊が未だ言語習得する以前から赤ん坊に語りかけることをスキンシップ以上に大切にする、と言う)が、アメリカの母親は最初から子供を独立精神旺盛な少年に育てようとする、という面での相違は、アメリカはただ独立心という建国精神からだけではなく、キリスト教倫理的なモラルの面からも日本人の宗教観の希薄さと関係があるように私には思われる。それは第一章のフランス哲学者のミシェル・アンリのテクストを読み込む為に彼のテクストとヘーゲルのテクストを平行して読んだ時に、特に感じたことだった。彼等は両方ともアメリカ人ではないが、日本人よりは一段と個人の独立心は旺盛である。アメリカ人は西欧型の独立心に加えてアメリカ独自の独立心が備わっているのである。ブログに投稿する時にも日本人は無記名(匿名)で書くことが多いのに、アメリカ人は記名することが常識であるという事実にもその個人的な独立精神の旺盛さが伺える。
 日本人は要するに本音をずばりと言い切ることに抵抗を感じる国民性の民族なのである。例えばフランス人にとってワインと対話というものは生活上不可欠な要素である。そして対話も時として論争にまで発展する。しかし日本人は大分政治の舞台などで論争することが定着してきている様に思われるが、依然それほど欧米人のように論争することを精神的なモラルとしては潔しとはしていない。不言実行とか黙して語らずとか、要するに黙って寡黙に作業する姿に対して凛々しいと感じることが性質として定着している民族である。だから性意識に関しても保守的な感情と、それでいて現代のように性情報が氾濫した状況において何らかの分裂を精神的に感じ取っているということは考えられる。つまり急に生活もモラルも欧米化した、ということに対して内心では戸惑っているのに、それを他者には悟られまいとして取り澄ましているというのが実情ではないだろうか?
 話は元に戻るがマスターベーションその他の教則本さえ80年代以降は盛んに出版されるようになった。一頃に比べあまりにも過激なものは大分少なくなったが、それでも今でも時折見かけられるそのような内容の記事は、最早昔(例えば私の幼少時代の昭和三十年代)に比べればタブーでは決してない。つまりそれらは影でこそこそ読むような性質の本ではなしに、若い会社員たちが喜んで買うようなタイプの雑誌に堂々とそういう記事が掲載されているのだ。このような状況下現代の若者の性知識は、実質的なものであるかどうかはともかく、トレンディードラマやテレビタレントや文化人までもが自身の性体験等についてあけすけに語る対談番組等で見られる様に極めて詳細なものになっている、という意味では昔以上であろう。だがそんな彼等とてそれ以前の日本人の資質も引き摺っているのだから、内心では「日米、あるいは日本とヨーロッパどちらが正しいか」ということに関して悩んでいる者も少なくないのではないだろうか?
 しかしそれはそうおいそれとは他人に公言することが憚られる内容の事実なので、例えば愛情(恋人同士のことでも、夫婦間のことでも)とか性について語るのは、例えばフラメンコなど恋の情熱と炎の民族スペイン人のようにはいかないだろう。日本人にとって恋とは未だに彼等に比べれば秘められた思いの、公言することを控える感情である。
 そこで最後の章である本章では、これまでの難解な観念論を一切差し控え、性愛のことについて日本人である私の実体験と、それによって培われた性愛についての考えを述べてみたい。そして男性が女性に言ってはならない言葉、女性が男性に言ってはならない言葉を中心に男女の日常生活上でのトラブル回避術に関して考えていってみよう。この考察はある意味では日本人固有の問題かも知れないが、ある意味ではそれほどどこの国でも変わりないことでもあるように私には思えるのである。
 例えばこれは日本に特有の現象なのか、スポーツ選手や芸能人の結婚話がワイドショーの話題として取り上げられ、盛大な披露宴をすることもまた復活しだした。以前は地味婚というのが流行ったが、再び派手婚時代らしい。またそういうカップルでもずっと仲睦まじい夫婦もいるのだろうが、結構大勢のカップルは数年以内に離婚したり、別の相手と再びあまり間をおかずに再婚したりすることも多くなった。そしてこれは言えることだが、離婚や再婚が自由になったということは、精神衛生上現代人とはストレスフルな生き物なので、いい傾向ではないだろうか?戦前には出戻りなどという嫌な言葉があったが、今そういう言葉を誰か特定の女性に対して使用すると差別用語であると即座に訴えられるだろう。本来生物学的には一夫一婦制というものはある特殊な例外と言ってよく、また人間のようにあるパートナーと添い遂げたら、一生一緒に暮らすというようなタイプの婚姻形式は生物の中での異例中の異例であるらしく、そういう意味では人間はかなり社会秩序を全うする為に精神的には無理をしている生き物なようだ。だから華やかな話題の割には大勢のカップルが離婚しているということは本来の人間の動物としての精神安定にとっては自然なことなのかも知れない。
 そして私的なことになるが、私の父は十六年前に肝臓癌で死去し、私の母と三十年以上添い遂げたが、それでも何度かは離婚を考えたこともある、と私の母は父の十七回忌に実家で私に語った。どんなに仲のよい夫婦でも一度や二度は離婚を考えたことがあるというのは未だ微笑ましいことであり、倦怠期(これも又嫌な言葉だ)というものもどのような熟年カップルでも経験していることであろう。もしそういう気持ちに一度もなったことがなかったとしたら、そういうカップルは希少な例外ではないだろうか?熟年離婚は今年(2007年現在)民法の改正によって離婚後の年金が授受出来るようになったことで、増加しているというデータもある。
 つまり男女の仲というものはある一線を越えた発言をすることによって一挙に崩壊へと雪崩れ込んでいくというケースが最も多いような気が私はする。勿論浮気とかそういう理由のケースもそれなりにあるのだろうが、それ以上に「最早この異性と一緒に同じ家で句暮らすのは懲り懲りだ。」と思うことの第一の理由はほんの些細な心無い一言に対する執念深い恨みに起因することが意外と多いのではないか、と私は思っている。と言うのも人間は動物と違って言語行為を主とした意思疎通を行うので、恋人や配偶者に対する攻撃もまた言葉による応報ということが一番多い気がするのである。そこで異性同士で男が女に決して言ってはいけないこととは何なのか?あるいは女が男に言ってはいけないことは何なのか、ということについて同居したり、長く交際しようと思っているカップルに対して多少の参考になりはしまいかと思い、それをここに挙げてみようと思う。
 まず私は男性なので、男性の側から女性に最も言って欲しくない一言を幾つか挙げてみよう。(この中には私が言われて酷く気分を害したことのある言葉もある。) ① 「あなたには何か夢はないの?」   ② 「あなたは子供なのよ。」 ③ 「他の人<男性のこと>を見てみなさいよ。」   
 私は実はこの一言の内最初のと、二つ目の言葉を若い頃それぞれ別の女性から言われたことがあるのだ。そして最後の言葉は死んだ父親に言われた一言である。
 特に最初の奴は、最近ある事件で兄に殺された妹が兄に対して放った言葉でもある。
 本来そう自分の日常において親しくしてはなくても、いいと思えるようなタイプの知人から似たようなことを言われた場合(そのような不用意な一言を言うからこそそういう人に対しては親しい人に対する様には接したくはないと思う様になるのだが)、むかっときても尚我慢すればよい(そう始終顔を合わす人ではない限り)のだが、その同じ一言を普段一番親しくしている恋人とか配偶者から言われると「可愛さ余って憎さ百倍」になる場合もあるのだ。つまりそういう一言を浴びせかけられて、それに対して「もう我慢出来ない」と思うのは、そう思って別れた方が自分の人生にとってはメリットがある、と思えるからであり、そのような不用意な一言を聞いてさえ我慢するだけの価値がその言葉を吐いた人にあるかどうかという自分の中での価値基準によって自ずとその言葉を吐いた人に対する固定的な感情が定まってくるのである。
 本来男性は夢を一生追い続けるという傾向の感情の生き物であるという意味では女性のような現実主義者以上のものがある場合が多い。そこで特にそのような典型である様な私には①の一言は極めてきつい侮辱に受け取れたのだ。それを言われて私はある女性とはそれ以上親しくはなれないと思ったのだった。②もかなり男性にとってはきつい一言ではないだろうか?男性は社会的な動物であると言ってもよいからだ。そしてその極めつけが③の一言であろう。これは尤も私は父と多少心の行き違いのあった時に言われたので、売り言葉に買い言葉であるようなニュアンスもあって、女性から言われたほどには傷つかずに済んだ記憶がある。しかし①にはそれにかなり近いニュアンスが私には感じられたのである。
 つまり同じ一言をある特定の人から言われることというのは、ある意味では特別の意味を持つ。それは特に親しい人、信頼している人から言われるとずきんとくるということがあることからも読者も了解されるだろう。だから同じ一言を誰から言われるかに応じて人間はその都度異なった対応的な感情を抱くものなのだ。そしてそれは人によって(それは同じ一言を父親から言われた方が頭がくるか、母親から言われた方が頭がくるか、とか、同じ一言を家族から言われた方が傷つくか、逆に他人から言われた方が傷つくかということである)違うだろう。しかし少なくとも同じ一言でも信頼しきっている人から言われるとショックであるという面の方が、それが家族であれ、他人であれ変わりはないのではないだろうか?
 ここ数年日本では親が子供を、子供が親を、あるいは生徒が先生を、先生が生徒を殺すというような事件が類発している。しかしそれらのケースの幾つかはいつの時代にもある親子や、異性同士の生徒と先生の関係に端を発し、その殺し方とか幾つかの事例において現代固有の問題が潜んでいるのではないか?例えば男女の諍い事というのは昔からあった。しかし昔はマスコミ包囲網それ自体が現在のような形でネット化されていなかった。現代という時代の特殊性を一言で言い表すと、実際は大して無関係な事件同士をマスコミが現代固有の問題として扱い、各界の文化人や精神分析医とか弁護士や元警察庁勤務の監察医とかを挙って出演させ、彼等に全ての猟奇的殺人事件を何らかの現代社会固有のものとして各ケースは本来何の関係もない筈なのに巧みに現代的現象として関連付けることでワイドショーの視聴率を稼ごうとしているマスメディア全体の姿勢に象徴されていると言ってもよい。つまり一個一個のケースはかなりそれぞれ固有の事件であり、その中にはよくあるケースも多々あるということだ。しかし殺し方とかの異常さ、遺体の処理の仕方の異常さとかはある程度現代の情報化社会による連鎖反応という様なこともあるかも知れない。
 男女の恋愛関係の縺れ(痴情の縺れ)という様な事態それ自体はかなり古典的な犯罪ケースである。親子や親族間の愛憎という事態も特に現代的なことの様にも思われない。だから殺し方とかその後の異常な行動といったことを取り上げ、それをもって現代に固有の現象であると考えることはある意味では危険である。ただマスメディア自体が加熱報道することで犯罪者の心理を逆上させるということはある程度あるかも知れない。しかし仮にマスメディアの報道の仕方それ自体が加熱していなくても尚、犯罪者、とりわけ殺人犯という存在は、それ自体で精神的に異常な状態にあることは間違いないのだから、私たちが現代を異常な時代であると感じるとすれば、政治家の不用意な発言が失言として受け取られ、即日退任を迫られるようなことと同じように情報化社会という現実が、些細な好奇心を掻き立てる特異な事実がよりクローズアップされ、その方が一番重要なその事件の本質よりも我々の印象に残り、記憶内容と化してしまうという現実の方に寧ろ現代社会の特異な状況が垣間見られると言ってよい。
 だがそういう犯罪を犯罪者をして駆り立てる状況というものはある程度想像はつく。それは言語的な鬱憤を行動で埋め合わせているということである。例の兄妹間の殺人事件では妹の兄に対する説教的な言辞に対して兄が腹を立てたということであるが、これなどは制度的な男性に対するこれも嫌な言葉であるが、勝ち組と負け組のはっきり分かれた世間的な人物に対する評定そのものが、あのケースでは妹の発言には見られた。その様に負け組的なレッテルを貼られた兄は妹に対して一線を越えた発言と受け取り(と言うことはそういう発言を身内からだけは言って欲しくはなかったということになる)、だったら体力だけはお前には負けないのだ、という主張が彼女に対して兄の側からなされたのだ。
 これは言語的な行為、発言自体がその気軽に慣用しやすさの割には意外とそう言われた側のトラウマを容易には解消させてはくれないという恐らく古代から人間にあったとも思われる言語行為の恐ろしさを物語っている。
 男が女に対して言ってはいけないことというのもあるだろう。しかし男性が女性に言葉で侮辱することは意外と少ないということは言えるかも知れない。もしあったとしたら愛情の欠けた発言ということになるだろう。愛情の示し方も、示されたい仕方も男女では微妙に異なる。例えば女性に対してブスと言うのは確かに禁句であるが、それで本当に愛し合っている男女間ではそういう揶揄を言っても許されるということもあるかも知れない。
 例えば妻が突然中年以降に年齢になってから美人コンテストに出ようとした時、「この街には君より美人は大勢いるのだから止めておいたら」とか夫が忠告するということはあり得ることである。だからそれも小さな侮辱ではあるが、そういうことよりも恐らく女性は、相手に対する配慮、例えば新しい服を着たり、化粧の仕方を変えたりすることに無頓着な男性とか、何らか日常おける努力に対してきちんと理解してあげられるだけの「心のゆとり」のない男性の心遣いに対して、我慢がならないということはあるかも知れない。男性の場合社会的な評定自体をパートナーに下されるような発言に対しては憤りを持つことが多いが、女性が男性に対して揶揄的な発言、例えば「父さんも腹が出てきたね。」とか娘と一緒に言われても、それほど腹は立たないだろう。ある意味では長く一緒に暮らす夫婦の間柄では寧ろ歯の浮く様なお世辞とか美辞麗句は他人に対してなされる社交辞令と違って、逆効果である。彼等の間では親しい友人間でもそうなのだが、その言葉を聞く側にとって発する本人の本音を理解しやすい発言の方がずっと愛情が篭っており、また責任ある発言だと見做されるし、彼等もそのことに関しては了解し合っていることが多い。だから配慮的な意味でもあまり他人の前で夫を見下すような言葉を発言する様なことでもない限り直接揶揄されるようなことはあったとしても尚男性が女性に対してそのことで極度に恨みを抱くということはあまりないだろう。
 或いは食事の際のマナーや裸で室内を歩き回る様なことは特に伴侶である女性や娘から見たら耐えられないということもあるかも知れない。しかしそれも恐らく個人差のあることである。しかし男性にはいつまでも子供のままでいるという様なところがある。それに対して女性は男性よりも早く大人になろうとするところもある。そこで勢い余って女性は男性のことを母親でもないのに、母親が息子とか姉が弟に対して接するようになる。それは妹が兄に対して採ることもよくある態度である。だから女性は社会が男性に対して好むと好まざるとにかかわらず規定してくるようなジェンダーロールに対する自分なりの意識に対して「何もしていないじゃないの」的な発言だけは控えるようにしなければならない、と私は思う。せめてそれくらいなら男性に対して採ることの出来る配慮ではないだろうか?今度は女性から見た男性の我慢のならない一言に関して考えてみよう。しかし私は男性なのでここは一つ私の知る女性から発言して貰おうと思う。
 私の知人のある壮年女性は、やはり身体的なことや顔のことで文句を言われるのと女性は一番嫌がるのではないかと彼女はそう言ったが、やはり女性も「あなた<君>は何か夢でもないのか」と言われることもかなりきつい一言であると言っていた。
 ある意味では私は彼女から仕入れたことを基準に言えば、案外男性が女性に対して思う以上に女性が男性から言われて傷つく一言とはそう変わらないということであった。
 だが最も難しいこととは、人間は婚姻関係にある者同士をただ単に人生のパートナーとして理解し合えるということであるなら(つまり生物学的に言って繁殖目的だけではないのなら)そういうレヴェルではそのような発言を差し控えるという意志的な努力が、もしキリスト教的倫理に基づいて「死が二人を分かつまで」生涯添い遂げようとしているのなら、円満な夫婦関係によく作用するということはあるだろうが、そのような言語行為的な倫理と、性をもっと単純に繁殖目的の行為と見做す(尤も生物学者たちは性を繁殖だけのためのものとはとっくに見做していないのだが)なら寧ろ言語行為を発話と捉えるなら邪魔なものとして作用するという場合もあるのだ。愛を性愛として捉えるなら確かに言葉は要らない。しかし夫婦とか男女間の人生のパートナーシップの前では性愛だけが愛情ではない。互いに病気になった時には助け合い、あるいは社会生活それ自体を維持するために協力し合うという意志的努力の方がずっと重要な場合もある。とりわけ子供を育て終えた中年以降の夫婦にとってはそうだろう。だから言語行為において「心に残る言葉」も、先にくどくどと説明してきた「許せない言葉」も、共に社会生活上での最も重要なパートナーでもある性的パートナーとの間では人間の場合非言語的な相性の問題だけでは済まされない(勿論非言語的な相性が、性愛行為の際の身体的な言語に直結するから、それはそれで重要だけれども)、要するに社会人同士の相互理解が重要になってくる。それはある意味ではジェンダー的な男女の差を相互に理解し合い、その前提に立ってそれを克服することが理想であるような心と心の交流である。
 本論では「心に残る言葉」と「思い遣りのある言葉」について最後に考えていってみようと思う。
 私は本論において第一章で哲学者の考えを現象学の歴史的要請、時代的使命に関してアンリを中心に考えてみたのは、フランス人という民族性が現象学発祥の本場ドイツ人とも日本人とも全く異なった言語行為に対する文化的伝統があるということに関して関心があったからでもある。現代では現象学はアメリカの哲学者であるヒューバート・ドレイファス等によってもまた引き継がれているが、発祥当時はドイツとフランスが中心だった。そしてフランスは現象学以外にも実存主義(現象学とも密接な歴史がある)もあったし、構造主義もあったし、ポスト構造主義という思潮も輩出した。要するにフランス人はアメリカ人が得意とするようなタイプの民主主義的ディベートの好きな国民性とも、また微妙に異なったタイプの詩的修辞性の濃厚なタイプの、シャンソンの国民性の語り好きである。論争も、芸術論も好きな彼等にとって語ることは人生であり、書く行為も民族的資質としては他の国民ともまた異なった信仰性がある。
 それに対して日本人は論議そのものを元来得意とする民族ではない。だからと言って日本人にはロジックがないというとそれは間違いだと私は思うが、少なくとも一般的な日常生活において論議とか議論とかが定着しているとは民族資質的には言い難い。そこに私たち日本人にとっての(実はドイツ人もまたフランス人の議論好きとは全く異なった資質があり、それは日本人とも共通したところがあると言われている)言語に対する独自の美学とか、言語観とか言語生活観とかが潜んでいる様な気がする。そしてそれは日本人の作茶道とか華道とかの文化的な伝統とも関係があるよう思われる。
 それは文化的な問題である。言語行為に対する民族的な認識の傾向のことである。しかしそのような認識が生じるということは、逆に言えばそういう認識を成り立たせる生活世界というものが一方にあり、その生活があるとい事実は日本人であれ、フランス人であれ、イギリス人であれ、アメリカ人であれ、ドイツ人であれ、韓国人であれ変わりはない。ただ各自の祖国という異なった土地に根付いた歴史があるだけである。つまり文化とは、文化を成立させる生活があり、その生活は人間が生物学的な種として当然のことながら営む環境適応の行動である。
 現代の生物学者たちの多くは動物の行動の殆ど全てを自らの遺伝子を拡張するために最適な行動とは何かということを本能的に選択していると考えている。勿論この考えに対して異論を唱えるタイプの学者もいる(2012年の現在ではその数は増えてきている)のだが、取り敢えずそのことに関してはそれだけに留めておくとして、大勢の現代生物学者の性と遺伝子拡張のために最適な行動とは何かということで選択された婚姻形態とか性行動に関する理論を人間にまで適用することに対して、恐らく殆どの宗教思想家や一部の哲学者たちは極度の警戒感を持って臨むだろう。
 しかし本論の序で私が始めの部分で科学とは奇蹟という考え方の否定であると言ったが、その真理に従えば、我々自身が人間であるからと言って人間だけを特殊な存在として見る見方は少なくとも科学的見地から言えば正しいとは言えない。そして私は性は繁殖を目的とした性行為のことだけで性科学の生物学者たちは考えてはいないと言ったが、実はそれは例えばチンパンジーによく似た、あるいはチンパンジーの一種とも考えられているボノボたちが繁殖のためだけのセックス一辺倒ではないという現実、つまりグルーミング(毛づくろい)とかと同じような友愛的な、親愛の情を示す社交辞令的な、儀礼的な性行為を行うという意味で、人間もまた妊娠だけを目的とした性行為を行うのではない(そのことに関してキリスト教原理主義は反対するだろうけれども)ということから見れば同じであるということだけのことを言っているのではない。人間にとっての性は、実は性行為を中心とした行動以外の身体のホメオスタシス(恒常性)や内分泌作用とか様々な重要な身体的機能と密接に関わっているという意味で生物学者たちは注目しているのだ。自然はそれ自体に関して特定の目的を我々の種人間に与えているわけではない。しかし人間はまさにナイルズ・エルドリッジ(考古学者)の言の如く「生きる」目的のためにそういった身体的機能をも司る性というものに対して感謝しているのかも知れない。
 生物学的には人間と他の霊長類を厳密に異なった生物であるとする様な境界はない。寧ろそのような境界は人間が人間のために設けたものでしかない。しかしそのような生物学的な事実は、逆に我々に対して「だからこそ社会倫理としての夫婦の愛情は相互に対する思い遣りと責任に端を発している」という考えを持つことを積極的に支えているとも言えるのだ。端的に言えば人間もまたただの動物である。だからこそただ単に性行為を繁殖や性的快楽だけに任せることを潔しとしない、つまり永続的な人間観の感情の交流という価値に転化させることを人間は考え、そこに社会的な共同幻想である責任という概念を基軸にしながら、言語行為、言語諸活動を進化させてきた、ということなのだ。そして言語の進化とは恐らく長く共に暮らす夫婦の間でも各自異なった形ではあれ、必ずあるのだろう。それは恋人たちにもあるし、同性同士の友情にも、あるいは異性間での友情にもあるのかも知れない。  そういう意味では生物学という科学は、現象学が直接倫理に触れることなく、倫理を取り巻く身体的実存を具に観察することで記述する学問である、という観点とも大いに共通する倫理誘発的な学問である、と言えないだろうか?
 そこで我々が日本人であるという現実の前で日本人に固有の「心に残る言葉」とか「思い遣りのある言葉」とは、実は他の多くの民族にとってもそうなのだ、という観点に立って、宗教の言葉、文学の言葉、科学の言葉、政治の言葉、哲学の言葉、あるいは日常の言葉等に求めていってみようと思う。
 私たちが他人から言われて「心に残る」とか「思い遣りがある」と思える言葉とは、その言葉を吐く人の中でその言葉を聞く人に対する何らかの気遣いに端を発する言葉である。 その気遣いの本質を考えてみよう。まず考えられることとは、第六章において示した発話する者の心的動機の次の部分が合わさったものと考えられる。 ④ 自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する(これも又対話者に対する信頼を必要とする)。   ⑤ 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読むこと)も、そうしないこと も発話される側の自由だが、発話すること(記述すること)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。
 ④の心の動機を自分に対してではなく、対話する相手に対して向けると次のようになる。
 対話する相手の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻させ、対話の相手を激励する、あるいは鼓舞する為に発語する(これもまた対話者に対する信頼を必要とする)。
 そして⑤の心的動機を、他者に対して適用するわけだが、「ほっといてあげる」型の選択をしながら、「ほっといてあげる」ことも出来るが、こういうことを「してあげる」ことも出来るよ、と語りかけるのだ。だからそう言われて、その言われたことを気にしなくてもいいんだけれど、関心があるのなら参考にしてみたら、という発言である。
 つまりこの二つを兼ね備えた発言のみ、我々は親切な一言、つまり「心の残る言葉」であり、「思い遣りのある言葉」であると認識するのではないだろうか?認識という言葉がどこか左脳的なニュアンスに響くという向きには感得する、と言い換えてもよい。
 そこで心に残る、思い遣りのある言葉をもう一度定義しなおそう。 ① 対話する相手の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻させ、対話の相手を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これも又対話者に対する信頼を必要とする。) ② 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読むこと)も、そうしないことも発話される側の自由だが、発話されること(記述を読むこと)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。だが同時にそれを参考にすることも出来るよ、と語る。
「心に残る言葉」は、それを語る人の語り口、語調、他者への気遣いということなのだろう。ここで結論として、幾つかの例を挙げて、そこに漲る自己‐他者における本質論的なことについて考えてみることにしよう。そしてその際に責任を軸に考えてみよう。何故ならこれから挙げる宗教の言葉、文学の言葉、科学の言葉、政治の言葉、哲学の言葉、あるいは日常の言葉等には、明らかに思い遣りというものの中の責任、心に残る箴言というものがあるからである。
 思い遣りがあるとか、激励の言葉は変にウェットになり過ぎない方が心が安らぐという人もいることだろう。そういう意味では私は言語行為というものは、メタ認知的なことも必要であると考える。しかしまたそのメタ認知にも程度はあるだろう。あまりにも相手の心を深読みし過ぎることも考え物だからだ。心に残る一言も、その場その時には反感を買うものでさえ、時間がたってみると意外に心に染み入る場合もあるし、その逆もあるだろう。あるいはやはり通り一遍であるが故に心に染み入るということもある。変に気取ったり、変に工夫しないでいたりする方がずっと思い遣りがある場合もある。
 やはり私たち日本人が心掛けておかなくてはならないこととは、「ほっといてあげる」型の発言は、どこまでほっといてあげるのか、どこまで相手の心を斟酌しておく必要があるのか、ということが問われるということだろう。
 でもそれはある意味では文化的状況とか、個々人のその時々の感情の様相と密接だろう。あるいはシニシズムそのものが効力を発揮するのは、そのシニシズムを冷静に受け止める心の余裕が齎すものである。だからこそその時「むかっときた。」と感じた一言が将来意外と「いい一言だった。」ということにもなり得るわけである。
 そういう意味では哲学者の中でもニーチェとか文学者の中でもオスカー・ワイルドはどこか虚飾を取り払ったことから生まれるシニシズムがあると思われる。例えばワイルドの次の言説は明らかに彼がニーチェ流を愛していたのではないかと思わせる。
 「人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは魅力があるか、さもなければ退屈か、そのいずれかですよ。<ヴィンダミア夫人の扇>」
 しかし前半はニーチェ的な要素が濃厚だが、後半の言説はやや違って、やはりワイルド流ではないか、と感じさせはしないだろうか?例えばニーチェなら魅力などという粋な言葉を考え付かないだろうと思うからだ。例えばニーチェなら次のように言うのではないか?  
「人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは善いと思うか、悪いと思うかその時々の立場とそれによって生じる欲望に応じて使い分けるのです。」
 しかしニーチェは恐らくそんなに直接その様に語ることを選択しはしない。そこにニーチェ流があり、文学者ワイルドとの違いも横たわっている。ワイルドはニーチェより十年後に生まれ、二人は同じ年、1900年に死去している。ワイルドもニーチェもお互いの存在を知っていただろう。ワイルドは1854年に生まれ、ニーチェは1844に生まれている。その二人よりは少し若い世代にワルター・ベンヤミンがいるが、彼は1892年に生まれているから、ワイルドが38歳、ニーチェが48歳の時に生まれたことになる。この年、ワイルドは1888年に「幸福の王子」を発表、人気作家として絶頂にあり、その三年後に逮捕、有罪判決を受け、服役することとなる前の状態であった。一方ニーチェは診断の状況から鑑みて、梅毒とも脳腫瘍とも説があるが、兎に角精神的な異常を来たし、その三年前には「偶像の黄昏」を出版に漕ぎ着けているが、翌年に夫が自殺したために舞い戻ってくる妹エリザーベトが出版権やら、身の回りの世話をすることになる以前の、ぼろぼろの状態だったようである。
 さてベンヤミンにとって死後公表された草稿群である「パサージュ論」は現代社会の様相から見た時、その先見の明には驚かされる。そういう風に生涯公表することなく携えていたというところなどレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を彷彿とさせるが、この論の中から幾つか秀逸と思われる記述、しかもベンヤミンが他の著作者からの引用として記していたものの合間に自分の意見をしたためていたものの中からピックアップして記載しよう。
「新しいものがどういったものであるか、そのことをもっともよく教えてくれるものは、おそらく遊歩者であろう。独自の運動をし、独自の魂を宿した群集という仮象こそは、遊歩者の新しいものへの渇望を癒すものである。実際のところ、この集団は仮象以外のなにものでもない。遊歩者が享受するこの「群集」は、70年後に民族共同体〔ナチズムを示唆している〕が流し込まれる鋳型なのである。自分が目覚めていること、そして一匹狼であることを自負している遊歩者は、その後に何百万人もの目を眩ませた虚像の最初の犠牲者であったという点でも、同時代者に先んじていた。[J66、1]」
「結婚の社会的価値は、決定的にその犠牲者による。というのも、この犠牲のうちには、配偶者相互の最終的で決定的な、しかし生涯のあいだ先送りされる「対決」の観念が潜んでいるからである。配偶者は、結婚が続いているかぎりは、この対決を免れるのである。つまり基本的には生涯にわたって免れるのである。[J67、1]」
 前者は遊歩者という存在が、都市生活上、各個人は自分のことを自分自身による主体的な行動であると考えていても(事実誰しもそう思うものなのだが)、統計上全ての市民、各個人は、一定の水準で割り当てられる全体の中のある層であるということが誰しも了解出来る。例えばある社会において、ある特定の時代に於いて、その時代状況に於いて、多く犯罪者が出現する時期というのもあるだろが、ある程度の振幅が認められるにせよ、概ねそれは変わりないし、天才とか、個人主義的傾向の人とか、要するに色々なカテゴリーに属する人の割合というものはそう変わりないし、しかも各個人が、例えば私自身がどのカテゴリーに属するかということは偶然的でしかないが、それが一定の纏まりになると、途端に何らかの必然的な法則性が見えてくるという意味で、真に集団から解放された自由な個人というものはあり得ないと自然科学的現実からは言える。その意味でベンヤミンの前者の言説は科学の言葉でもあるし、後者の言説は社会学的であると同時に哲学的な言葉であり、政治の言葉でもあると言える。そしてワイルドの言葉は政治の言葉にもなり得るし、科学の言葉として認識することすら可能である。そして総体として見た時、哲学の言葉とも言えるかも知れない。
 そして後者は明らかに結婚幻想を抱いている人向けの、シニシズムである。要するに結婚とは社会的対立を避けるために自然が我々に付与した妥協策であり、知恵である、という意味では生涯一人の伴侶に愛の忠誠を誓うことすらも、実は我慢の連続であり、それはそれ以上のいがみ合いを回避するためにのみさなれる人生のルティンワークにしか過ぎないとしたら、若い世代の人々は幻滅するかも知れないが、そもそも人生とはあらゆる仄かな幻想に対して幻滅することから、その醍醐味がスタートする、という意味ではこの言説は極めて説得力を持っていると言える。
 前者はユダヤ・アイデンティティーとしての言説として、後者は結婚に失敗した男の言説として銘記しておくべきベンヤミンの名句であろう。
 制度は性悪説的な処方箋として完備されてきたものである。その制度によって生まれた慣習に対してロマンを感じる向きに対しては、痛烈な皮肉としてこういった文学、修辞学、哲学の鬼才たちは言説として時代の安易な風潮に対して楔を打ち込んできたのだった。そういう意味では論語の次の言葉は現代に生活する我々にも心にぐさりと突き刺さる。
「子白、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁、 子曰わく、徳ある者は必らず言あり。言ある者は必らずしも徳あらず。仁者は必らず勇あり。勇者は必らずしも仁あらず。
 先生がいわれた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばのある人には徳があるとは限らない。仁の人にはきっと勇気があるが、勇敢な人には仁があるとは限らない。」(金谷治訳注、岩波文庫)
 つまり孔子の考えでは形式としての表現内容というものはまさにテクストとか、要するにその発言をした人の実像を知らなくても、普遍的な真理として読み取れるものだが、その発言が真意でなされたのかとか、人生の真実の経験から発せられたのかということに関しては定かではない。しかしだからと言ってその言葉そのものは美があり、真実を突いているのなら、そのこと自体は価値であり、また仁義を尽くす人の行動とか精神は勇気に溢れていると言えるが、勇気のある人全般に仁義があるとは限らない、つまり悪党には悪党の勇気というものもあるし、潔い人間が穏やかで優しい場合もあれば、冷淡な場合もあるように、必ずしもその精神の価値がその人間の価値には結びつかないという不条理は社会そのものと言うよりは自然の傾向として受けとめるべき事実であろう、と私はこの言説を読み取る。つまりもし仁義のない人によって発せられた言説であっても、その言説自体の価値はそれはそれとして認めるべきである、というのは、幾ら素晴らしい人格の人が洩らした一言が、その素晴らしい人によって齎されたとは言え、仮に下らない一言の内容であれば、価値として受けとめる必要など何らないし、それは何らかのアイデアでも提案でもそうだし、権威礼賛型行為選択志向の人間には耳の痛い話であるが、そういう真理として私は受け取っている。逆にただ言葉だけが美しい人、勇気だけがある人が、その事実をもってして、称賛に値するかと言えば、そうは問屋が卸さないという意味で受け取る人もおられるだろうし、それは自由であるが、それは形式より内容を取る人、あるいは情による人間関係を重んじるタイプの人の解釈かも知れない。私はそこら辺は都会派的にシビヤに、ドライに割り切って、寧ろ真意や心根が美しい人でも、形式主義的な、つまりその人間性の表現方法とか、儀礼的な技能によって随分損をすることもあるし、逆にそれほど慎ましやかで称賛に値する心根や人格ではない人でも、そのパフォーマンス次第では何とか社会を生き抜いていけるという責任論に近いものを私は受け取り、社会の現実、つまり競争社会のシビヤな事実を記述している、と受け留めている。又そう解釈する方が実力はあったが生涯高官位を得ることなく果てた孔子の言説としては身に染みるという気がするのである。これは明らかに政治の言葉であると同時に哲学の言葉でもあるし、科学の言葉(科学的態度とはこうあるべきであるという提言として)でさえあると言えよう。
 要するに、どのような言葉が責任ある言葉、本音の出る言葉、思い遣りのある言葉、心に残る言葉、許せない言葉かという判断基準は、ある程度個人的な受け取り方に依存する。しかしそのような判断基準は各個人の成長過程で起きた出来事とか、遺伝的性格とか色々あって、なかなか一般的判断には結びつかない、従ってそのような個々の受け取り方に関する論述は後日の私の宿題にすることとして、本論ではは何らかの結論めいたことを提出しなくてはならない。愛と性の言語と言いながら、前半ではその種の考えを述べたものの、殆ど性愛とは別個の倫理的問題とか言語的メッセージの問題に終始してきたが、実は私の狙いはそこにあったのである。愛や性に関して生物学的、社会学的、人類学的テクストは沢山出版されている。しかしもっと私たちにとって重要なこととは、そのような曖昧な概念が私たちを社会的には支配している、ということと、その曖昧さが存在する意味を、個人的な価値判断と、公的な価値判断を峻別する癖が我々についている、ということを読み取る為のツールとして考えるべきかも知れないし、それが最も重要なこととして浮かび上がってくるのである。
 例えば本音の出る言葉というのは通常親しい人の間柄同士でのみ心に残る言葉になり得るが、よく知らない人同士だと非常識というレッテルを貼られかねない。或いは行動に関してもそのことが言える。行動というのは常に責任を伴う、それだけで社会的な概念として考える必要が人間社会には求められる。すると日頃どんなにいい人であると信望が厚くても、一旦挙動不審な行動を採れば、それだけで非常識というレッテルを貼られる。常識というものは要するに責任倫理的な法的価値規範である。それ自体は確かに法的に裁かれ得ないこともあるだろうが、概してどんなにその人間の真意や、心根が美しいものであっても、この最低限の常識を遵守しない者は、それで罪を課せられ裁かれるということはないにせよ、何らかの形で社会的な信用をなくすとかの制裁を受ける。「親しき仲にも礼儀あり」と言うような使い古されたような諺にもちゃんと真理はあるのである。責任的行動倫理とは、実は情とか義理とかそういうレヴェルで判断してはならないものなのだ。もし法というものが全て明文化されている以上のその都度の人治主義的判断で執行されたとしたら、それはただの丼感情でしかない。それはある種の閉鎖的共同体に顕著な価値判断、法的性格とも言える。だからこそ六法全書的テクスト言語というものは、どこか突っ放した冷たい印象を我々に与えるが、まさにそうであってこそ、その法に従う市民層のどのクラスの人に対しても平等に適用される、という法の精神が活かされ得るのである。それはあらゆる人情的、贔屓筋的な丼感情を排斥するために寧ろ積極的に必要な措置=体裁なのである。それこそが責任倫理の真理主義と言えるだろう。 
 そして実は言ってはならないことというのはどんなに親しい間柄でも存在する。その一つが本章で最初部で述べた男と女の会話術的な言説によって私はある程度示し得たと思う。私は昔から人情味溢れる言説よりも、常に冷厳な現実をよく言い表した名句の方により惹かれるタイプの人間だった。そういう意味では偽善的人情句というものが大嫌いである。
 と言うのも本質的に家族とか、親族とか、配偶者間の結婚とか、そういう諸々の人間関係的な社会制度というものは、実は人情主義によって命脈を保っているのではなく、相互の行動論的な責任倫理によってこそ結ばれている、と言えるからである。そしてそれは例えばどんなに親しい者同士でも庇い合うという精神は必要であろうが、一定のラインを超えたら、親しい者同士で裁くことは法的にも社会倫理的にも許されまい。
 つまり愛や性といった一見生理的レヴェルの問題でさえ、言説的側面から判断すれば、明らかに社会秩序と、ある二つの行動間に横たわる二者択一の問題にしても、論理的筋道とか、倫理学的決裁方法とか、要するに責任倫理の真理主義が求められるのだ(もしセックスまでそういう言説であるとする考えに反感を感じられる向きには言いたいのだが、性行為をよりエクスタシー獲得や、非倫理的動物的欲求に還元しようとすればするほど、性交渉の相手に対する配慮とか約束事<遊びにしたって遊びのルールが厳然と存在する。>が浮上するという意味においては、私たち人間の行動は悪には悪なりの勇気があるというレヴェルにおいて称賛される場合においてさえ、その行動の形式的責任倫理の真理主義が求められるのだ)。
 いや人間にとって愛や性は、契約であり、規約であり、理性的行動規範によって善悪が判断される言説的、言語行為的、言語空間依拠的な行動であると言ってよい。
 人間が相手に対して憤りの感情を抱くことは日常茶飯事だ。しかしその時向こうの立場やら、相互に相手の弱点に対する配慮を持てば衝突は避けられる。そういう意味では愛や性といった個人的な感情のレヴェルから相手の立場を尊重した責任倫理の真理主義が採用されれば、昨今のような猟奇的殺人にまで至る様な悲惨な現実を招くことなどないだろうに、と常に私は思っている。そしてある程度の冷厳な法的精神と、形式主義的正当性を優先するような理性主義を持ち、つまり人情主義加担的なヒロイズムを捨て去り、ロマンよりもリアルな面からの判断を優先することによって、この過密スケジュール的な現代情報化社会のシステム内で、何とか潤いのある生活を手中に収めることが出来るのではないか、と提言したこの論を閉じようと思う。  最後に一言だけ述べさせて貰おう。 「触れ合い」とは「馴れ合い」ではない。  「触れ合い」は責任という行為と精神によって成立する。(了)
 本シリーズは加筆修正をしているが、基本的に五年前のものを基本としている。敢えて引用文献は記さないが、各章毎に引用する度には示しておいた。昨年の大震災でかなり日本人の未来への考え方は変わったが、ここで触れられていいることは概ね外れていないとも思っている。次回からはその都度自由に書き込み更新していこうと考えている。格別シリーズ化する予定もない。但しより哲学的考察と人類学的考察のクロスする部分は意識し、単発的なシリーズをその都度恣意的に更新させるつもりである。(Michael Kawaguchi)

Thursday, June 21, 2012

〔言語の進化と責任〕第八章 信仰と言語

 理性は責任を勇気付けるが、理性があるからこそ我々は信仰を持つことが出来るのだ。それは有神論者も無神論者も、合理的実利主義者も観念論者も唯物論者も等しく作用させている現実ではないだろうか?恐らくその事実を自ら納得するために我々は言語を利用してきたのだ。だから信仰と言語の関係を論じる時、我々は責任と理性の連携プレーに注目する必要がある。
 キルケゴールは「不安の概念」において原罪、罪といった事実に対して真摯に向き合っているが、その際にヘーゲル流の弁証法では推し量れないと考えていた。しかし何故彼はヘーゲルを批判する必要があったのだろうか?
 ヘーゲルにとって理性は問うべきものではなく、既に前提されていた。しかしそれは彼の主張する他性と承認を限定付ける必要性のための方便だった。しかし理性はカントが問うよりも遥か以前から問うより先に認めるべき対象だった。そして二十世紀においてある時期積極的に理性は問うことから遠ざけられた。しかし今再び我々は理性に向き合う時期に来ていると私は考えている。そしてその際に責任が行動を理性の俎板で料理することを招聘しているのだ、と考えているのだ。行動のない現実においては理性はその存在理由を失うからだ。ヘーゲルは敢えて社会哲学的視野に徹底することによってあるいは彼の後の時代のキルケゴールを待ち望んでいたという風にも捉えられる。それは恐らくカントがヘーゲルのような存在を待ち望んでいたようにである。
 哲学の場合宗教的信仰と異なり、同一の心的志向性に対して結束することを潔しとしない。寧ろ共鳴することが批判することによって初めて意味を生じるような出会いを彼等はモットーとしている。この点では哲学は科学と相同のメカニズムを持つ。勿論宗教においても恐らく宗派毎の思想の差異主張が、それ自体他の宗派に対する批判として作用しているという現実は極めて大きいと言えるだろう。しかし宗教は信仰心の多大なエネルギーの解放が、ややもすると統一を宗派間の相違にもかかわらず求めるということを潔しとしてこなかった。もしそのような作用がなされたとすればそれは寧ろ政治レヴェルでの解決だったに過ぎない。(例えばカルケゴン公会議)
 政治は確かに哲学においても科学においても大きな作用を思想全体に波及させてきた。しかし政治自体が哲学や科学に対しディタッチメント的な存在理由を与えてきたとも言える。私が言っている政治とはただ職業政治家による政治のことを指すのではない。それをも含み、哲学者たち自身、科学者自身の立場の主張といった事実を寧ろ主体としたものである。
 キルケゴールがヘーゲルを批判したのは、統一することが可能であるような理想郷を彼がどこかで想念していたのではないか、ということに対する懐疑に他ならない。懐疑的主張もまたある意味では政治的発言である。
 ところで私は最近歯科医にかかり治療して貰っているのだが、治療のために麻酔を効かせることを私のかかりつけの歯科医が試みるのだが、私は他の人よりも麻酔にかかり難いタイプだと歯科医は私に告げた。私のような思索家はある意味で懐疑主義者である。そういうタイプの性格では麻酔に対して従順に対応するということが神経レヴェルでも困難なのかも知れない。それはそうだろうと私は思った。神経と精神は密接な関係にあるからである。
 さて生とは何かという問いをいざ提出されると誰しも「無意味ではないのか。」とそう容易には返答出来ない。しかしサルトル的に「人生とは無益な受難である。」と言う風に押し切れば、意外と後はすっきりする。つまり生そのものに意味を見出さずには生きられない動物として我々は人間を規定することが出来る。生とは意味的世界の拡充を目的とすることで無意味を克服しているのだ、と捉えた方がずっとよい。そして哲学はそこに付け入って存在してきたのだ。だから私が言う信仰とはある意味では哲学に対する恩返しという側面もあることは否めない。しかし信仰と位置付けることが宗教的信仰心と乖離した地点でなされ得るというところに意味があるのだ。何故ならウィリアム・ジェームスの説話している禁欲という心的様相は、実は無宗教者にも全く当て嵌まる経験だからだ。いや寧ろ無宗教、無神論であるが故に禁欲的な道徳律が必要になる、という事態も稀ではないだろう。
 それは心の平衡を保つためにある意味では無謀な心理に陥らないようにするには、自己内の欲求を必要以上に発動させないように心掛けるしか手がないからだ。そしてそうするためには自己内の欲望を禁止することが最も手っ取り早いというわけである。そのように心掛けることはキリスト教徒的な道徳律で原罪を理解するということではなくても、例えば身体論的に欲望を控えめに、という心得であっても同じことである。この姿を見てキリスト者たちは「それ見たことか。彼もまた原罪を認めたのだ。」とそう言うかも知れない。しかしアンチ・キリスト者はこう言うだろう。「そもそもキリスト教が原罪なる観念を提出したのは、身体論的なメカニズムに端を発しているのだ。」と。
 それは発言における責任の在り方にまで関係してくる。例えばある法案に賛成の者が殆どであと残り一人になったあなたが
「賛成します。」
と言うのが最も他の成員全員にとっては好都合である筈だ。しかしあなたはそうすることが内心では出来ない。だから「反対です。」と真っ向から言えないような状況下でも尚、無意識にプロテスト精神が浮上し、
「賛成したいのですが。」
と発語の方が勝手にあなたの優柔不断を払拭しようと試みる。しかしその次の句が問題だ。
「賛成することは出来ません。」か「賛成しかねます。」
と言うという選択もある。しかし他方
「もっと最適な法案には出来ないものでしょうか?」
と言う選択肢もあるのだ。あるいは
「もっと何とかならないものでしょうか?」
と言うことも出来る。これはある意味では否定するだけではなく建設的であり、改善意欲を促進する言い方である。
 人間は誤りを犯す動物である。それを認めることをしながら、それでも改良することでその傾向性を克服することが可能だという希望の光が後者の発言には感じられはしないだろうか?そして付和雷同しようとしていた心的逡巡を吹っ切るような一言を発するという事態は、身体論的なメカニズムであり、ストレスを溜め込んで精神的に落ち込むことを未然に防止しつつ発散するように側頭葉のブローカ野が発動したのかも知れない。  ウィトゲンシュタインの哲学を通して理解出来ることとは、言語使用とは言語表現領域に自ずと限界を設ける行為であるということである。しかしそのように限界を設けるまでは私たちの存在はテレンス・W・ディーコンの言う設定された閉鎖系ではなく、開放系である、ということである。開かれつつ閉ざしていくことで言語を通してコミュニケーションしているわけである。そういう意味では言語行為とは一面では他者に対して開かれていて、共鳴することだが、一面では他者に対して決然とした態度を採ることでもある。その二面性が言語行為の本質であり、そこに責任が関わってくる。
 例えば言語学では内部否定と外部否定というのがある。前者は
You must not do it.
であり、後者は You may not do it.
である。この二つの場合最初のものは
「あなたはそれをしてはいけない<ということを肝に銘じておかなくてはなりません>。」
というニュアンスの意味で、後者は
「あなたがそれをすることは許されません。」
というニュアンスの意味である。
 前者は明らかに説得型に近い説諭型である。それは対話手としての他者の自発性を尊重している発言である。それは自発的禁止の勧告である。要するに~をしないように心掛けなくてはならないということである。しかし後者は自発的であれ、外部強制的であれ、それをしたら駄目だということは有無を言わさぬということであり、禁止条例的、禁止事項無条件的である。前者にはそうしないと重大な結果を招くという警告のニュアンスがあるのに対して、後者は明らかに命令である。そこには他者に対する責任を見守るという尊重性は皆無なのだ。
 私たちの日常では「賛成したいのですが。」型の発言を言い残し立ち去るということもある。それは議会のような場所では特殊なケースであるが、日常では頻繁に起り得ることである。しかしこれは責任というレヴェルから考えると責任放棄であり、無責任である。説明能力があってそうするのなら良心はない。しかし説明能力がなくてそうするのなら、それは大勢に対するささやかな抵抗ということになる。
 ここで責任とはある意味で自己能力に対する自己査定と無縁ではないということにもなる。つまり責任放棄は一番手っ取り早い大勢に対する抵抗であり、責任を負うということは自己能力を他者から求められていることに対する自覚であると同時に、それを請け負うという意識の発動だ、ということになる。そしてここでもう一つ重要なこととは、他者に対して責任を負わせることに内在する信頼性を他者に託するか託さないかということ(そのどちらが良心的であり、思い遣りがあるかどうかは難しい問題であるが)がある発言に対してどのようなスタイルを選択することに直結するかということである。この問題は例えば経済社会でM&Aを徹底的に防御するか、ある程度自由にさせるかという選択、あるいは政治家はどこまで国民や市民に対する責任を負うべきかある一定以上は負うべきではないかという選択をも、決することとなる重要な問題である。
 つまり他者に対して信頼することに主眼を置くか、それとも他者とはすべからく信頼すべきものではなく懐疑的対象なのだから、それを念頭に入れて他者に接するということを選ぶことの自由も含めた選択肢の問題へと繋がってゆく。もっと簡単に言えばあまりに他者に対して自主性に任せるということは放任という事態にもなるし、そうかと言ってあまりにも他者に対して規制をかけるということは自由の原則にも反することになるが、ある一定の力量や能力のある者に対して他者の能力とその責任に対して委ねるという行為は、そこまでの実力のない者には負担となるということは社会ではよくあることだからである。
 つまり我々は常に自己の能力に対する自信の度合いで他者に対してどのように接するべきかという行為の際における判断をしているのだ。実はこの問題は人類は延々と繰り返してきたのだが、未だに決着はついていないのだ。そして恐らくこれからも決して解決するということはないだろう。しかしこれだけは言える。アンリのような哲学者たちが書く行為自体が信仰であったように、これからも問うこと自体が信仰であるような思念を私たち人類は捨て去ることは出来ないだろう、ということである。

Saturday, June 9, 2012

〔言語の進化と責任〕第七章 責任と真意

 人間は嘘をつくこともあるし、真意を隠蔽し、偽装もする。しかし少なくとも意思疎通するということそのものに対して同意することにおいては、そのような不遜な輩でさえ真意を隠蔽することは出来ない。「今ちょっと話したい気分じゃないんだ。」ときちんと明示することで意思疎通を避けることは出来る。そしてこれが重要であるのだが、言語行為上での意思疎通の進化とは、必ず真意を表出することで遂げられてきた、ということである。何故ならば真意を隠蔽したり、偽装したり、嘘をつくことはそういう言語行為全体の進化過程における利己的成員による特殊な例外であり、彼等ですら全成員による言語行為の進化過程に対して些細ながらも貢献しているからである。(注、最近私はとどのつまり、それも表情を伴い、言葉尻だけではないと考えている。)
 事実責任の消極的取り方として本論で取り沙汰されてきた「誓います。」型言辞が、メッセージとしては最も消極的であっても、そう誓うことで、他成員に対してある規約に於いてつき従う意志を表明することによって規約に則った生活レヴェルでのある共同体への同意が示されているからである。
 私は「責任論」においてある時には人間は責任を良心に随順させ、ある時には良心を責任に随順させ、つまり責任と良心をある時には協力させ、ある時には敵対させつつ言語行為を進化させ意思疎通と全行動をしてきたと考えた。その考えに今でも変わりはない。しかし少なくとも良心と責任が百パーセント合致し得る地点の人間の感情と立場があり、それが愛であろう。しかしその愛を定言命法とカントのように規定する必要は我々にはあるまい。つまり愛とは概念化作用として我々に到来するものではないのだ。
 本来意思疎通の進歩も進化も全成員の内発的要求によってなし得るのであり、仮に嘘つき成員がいたとしても尚、彼等のメリットは遠からず減少していっただろうということは、ウィリアム・ハミルトンからロバート・トリヴァースの血縁利己主義から、非血縁協力的利他主義(戦略的利他主義)へと移行していった論争を見れば明らかであろう。端的に進化とはサヴァイヴァル的な意図によるものであり、決してそこには偽装性は介在しない。だから言語行為を通した意思疎通の意識レヴェルの進化過程には必ず全成員の内発的要求をベースとした真意表出を前提とした言語行為の意識レヴェルの推移が見られる筈なのである。
 しかし問題となるのは真意を一体誰に対して採るのか、ということなのだ。責任を負うべき対象とは通常他者である。しかし責任は山奥に一人で生活する者にも付き纏う。彼にとって自己管理すべき生活全体の調和が責任を採るべき対象として浮上するだろう。しかしまた別の採るべき責任の対象がある。それが神である。少なくとも人類は西欧社会に限らず、神という霊力を備えた観念を保持してから後は、そういう観念のなかった時代での状況下の思念とは別個の心的状態を保持してきた、と言えよう。しかしよく考えてみると、神という観念は未来に対する希望とか願望、あるいは過去に対する後悔と反省によって完全という観念、完璧に遂行する能力に対する憧れが人類に思念的に出現した時以来備わったと考えてよい。しかし神の観念はある程度の永続的な生活上での秩序を追い求め、その過程での人類全体の願望を打ち砕くような自然災害や人的災害が発生して後に出現するという事態が最も思惟上自然に感じられるので、恐らくそれ以前的には他性認識によって自己認識を得るような原始自我論的な思念に支配されていた人類は、原初的な我と汝という観念をまず抱いたということは考えられる。
 そしてやがてミニマルな共同体的幻想を手中に収めた人類は、希望や願望を打ち砕く現実の過酷さの前で初めての実存認識を得ることとなる。その時神は必然的に思惟に浮上してきた筈だ。そこで責任を採るべき対象とは成員としての自己の帰属する当の共同体に対してと、我と汝の汝に対してと、我自身に対してと、そして最後に神に対してというこの四つのパターンが考えられる。そして共同体に対して持つ責任は、やがて社会一般という形で通常我々が保持する責任感、例えば社会的義務に直結してゆく。
 人間は責任の所在によって自我を形成するとも言える。そして自我とは積極的な自己信念にも繋がるが、同時に極めて脆弱な付和雷同にも繋がる。付和雷同という事態にまで至らなくても、社会一般に対する責任の遂行とは自己信念という確固たる心的作用と違って、概ね世間一般の常識に対する抵抗心は無頓着であり、文化コードに対する盲目の追随心や社会的コードから逸脱することを忌避したいと願う羞恥によって支えられている。
 この責任を社会的に遂行することの原初的形態としての他性認識を支えるものを原羞恥と呼ぼう。そしてその実践においてなされる各行動を支えるものを原音楽と呼ぼう。
 原音楽は過去において適切に「合わせられなかった」経験において学習させられ、ワーキングメモリー(遣り方記憶)としてその時々で常習化されている。
 信仰とは責任が生む。信仰は対社会的には職業行為となって顕現し、対自己的には金銭的利益のためだけではない、よい仕事(自分<自己信念>にとって納得出来る)をしようという意志(的決意)となる。それは対他的にも対自的にもより真意を真摯に表出させる。
 責任は言語活動を支える。責任は言語行為を社会行為に、言語ゲームを社会ゲームにする。しかし人間は社会全体に対してそう安易にノーを突付けるということをすることはない。よくよくのこと(自己信念を揺るがすような事態に遭遇するとかの)がない限りはノーの発言は差し控えようとする。人間の原羞恥と原音楽を結び付け、社会行動という原羞恥を原音楽に連繋プレーさせようとする、この二つのタイアップを実現させようとするものこそ責任である。
 責任は採るべき対象に対して真摯であることにおいては真意である。しかし汝に対してにせよ、社会に対してにせよ、ただ「合わせる」ことで他に自己に対して降り懸かる災厄を回避する意味でなされるのなら真意であるよりは妥協である。しかし妥協は永続的には続かないだろう。そして嘘つきが活躍したりするのは、あるいは妥協的責任の取り方が効力を持つのは、あくまで真意の責任において社会が安定した後のことであり、そういった責任の取り方が社会形成に寄与するということはない、と言ってよい。
 私はアンリの記述が同一の主張から、徐々に横滑りするような主張の反復を「書くことが信仰である」として、その信仰に従順な徒として現象学の徒を示した。しかし現象学は本質的には論理実証主義者(論理的経験主義者)たちと真っ向から対立するべき要素に満ちている。と言うのも彼等は基本的に知覚、感覚を大きく取り上げ、それを言語に先行するものとして捉えているからだ。例えばウィリアム・ジェームスは少なくとも信仰心というものを真摯に捉えたが、感覚ということに関しては醒めた目も持っていた。感覚そのものよりも感覚的生活を選択する意志決定と行為の意味を彼は捉えたのだ。しかしフッサールをはじめ、メルロ・ポンティーもそうだったし、ハイデッガーは存在の気遣いという形で意識の感覚的な授受という現象を言語以上に重要な指針として捉えていた。この点において例えばウィトゲンシュタインの言語論にはそういうスタンスに真っ向から対立する要素があるのは、次の飯田隆の言述においても顕著であろう。
「形而上学的主張に対する両者のあいだ<シュリックとウィトゲンシュタインのショーペンハウアーに対する態度の採り方を巡る解釈の相違のこと。ウィトゲンシュタインはショーペンハウアーを批判するシュリックに反対して彼を擁護する姿勢を示した。管理人注加入>の態度の相違は、そうした主張を「無意味」とする理由の違いと密接に結び付いている。実証主義者にとって、そうした主張が無意味であるのは、その正誤を感覚的経験によって判定するすべがないからである。それに対して、感覚的経験は『論考』において何ら重要な役割を果たさない。形而上学的主張が無意味であるのは、それが、「思考の限界」を画する「言語の論理」に反するからである。」(「ウィトゲンシュタイン言語の限界」飯田隆著、44ページより、講談社刊)
 ウィトゲンシュタインは言語を知識、認識、理解の限界として考えていた。それは言語という理解するための手段を内側から捉えた考え方である。しかし現象学では言語行為それ自体を取り巻く生、そして生活世界の現実に中で言語を支える現象に主眼を置いた哲学的態度であったのだ。つまりウィトゲンシュタインは言語を語られた事実として意味内容的世界の現実を意味を形成する収束的な決定に重きを置き、フッサールと彼の後継者たちは特に収束する以前の前言語状態に重きを置いたと言える。この点である認識、ある理解ということに関してウィトゲンシュタインは主観主義的あるいは内在主義的であり、フッサール等は客観主義的、あるいは外在主義的であると言えよう。
 アンリの言う情感性という観念に対して私は情動と等価あるいは非常に近い認識だと言ったが、彼は情動という語彙も僅かながら使用していた。その意味では情感とは情動を感知する感覚主体の受動的な意識化作用のことを言っているのだ、と私は解釈しているが、このような論説を微塵も持たない論理実証主義者、あるいはその一派に信奉厚いウィトゲンシュタインの哲学には意味という概念の現象学の取り残した徹底追求のスタンスが伺える。現象学では意味は感情とア・プリオリに一体化されているからだ。
 そこでここでは感覚と責任、そして意味と責任という形での検討において言語行為とそれを取り巻く現実(実存と言ってもよい)から責任と言語の進化過程について考えていってみようと思う。
 有史以来哲学者たちは理性をア・プリオリなものとして論じてきた。しかし当初人類の祖先たちにとって理性とはほんの偶然的な日常的発見であったろう。その偶然を必然化する作業が言語の進化であり、思想の確立であり、哲学の歴史であった筈だ。人間には言語化され得ない感覚がある。しかしその言語化され得ないという事実認識には、言語を必要とするのだ。それがまずあるからこそ、それでは言い表せないという感覚が生じる。しかし責任にもまた言語化され得る責任と、そうではないもっと人間の生の原初的な責任というものもあると思う。例えば欲求に対する真意というものは、意味化された真意にはない生の基本的衝動がある。しかし我々はそれを他者に説明する時、非言語的欲求を、言語的に説明することで、その欲求を正当化しようとする。正当化されたものには意味が付帯する。意味は欲求の正当化と言ってもよい。意味が言語の存在理由を開示するのだ。
 だが我々は価値という観念も持っている。この価値というものと意味とはどのような関係にあるのだろうか?
 例えば感覚に対して欲求が「これこそがその感覚だ」と例えば職人とか芸術家とかがある作品を完成する瞬間を査定する時、「これでいいだろう。これで行こう。」と判断する時感覚に対する責任が持たれる。しかし意味はその感覚を他の感覚との相関の中で、正当な位置付け作用を施す。そのように峻別化作用をした時、感覚には意味が生じる。それはある得体の知れぬ感覚が必然化された瞬間である。そして言語それ自体にも言語そのものの感覚があり、その事実が言語行為と名の付く全て、言語活動として捉えられる全てが、実は言語外のものに取り囲まれているという事実が意味によって初めて明らかになるのだ。つまり意味とは非言語的な無意味に対する覚醒剤の役割はあるのである。
 意味が言語を言語から解放する。しかし価値は言語を再び意味に結び付けようとする。価値は意味、感覚それら全ての観念を総合化しようとするのだ。
 価値は相関性の中に全てを位置付ける。だからこそ価値は制度を生み出すのである。意味と言語の関係は言語と非言語の結び付きを見出し、価値と言語の関係は言語と非言語を峻別しようとする。境界を設けようとする。価値は意味を主張しようとするのだ。そしてそれは予め備わっていた真理であると意味に宣言するのだ(それは意味に対して存在の優位を宣言することである)。意味は価値によって正当化されるが、正当化された瞬間に再び感覚にその存在理由を委ねる。それは感覚が存在の証人だからである。意味は存在者の主体にとって対象化されたものへの感情に他ならない。故に意味の責任は欲求に対する真意であり、価値の責任は欲求に対する真理の優位を欲求に言い聞かせる。
 だから哲学者ウィトゲンシュタインは意味を呼びつつ、価値による意味の主張を必然化させながら、真理とは無意味であることを主張するのだ。つまり見出された瞬間意味は無意味化するという現実を見据えたのが彼だったのだ。だから理解や解釈、あるいは使用、慣用といった日常的現実をウィトゲンシュタインは言語の限界から考えたのだが、それは言語が非言語領域に取り囲まれて存在理由を持っているという事実に対して、だから感覚それ自体を問うことは無意味なのだ、と言語の側の意味的位置付け作用、つまり言語の正当化の立場から「問い得ることには限界があるのだ。それは生きること、つまり感じることの前では無力である。」という主張を感覚を論じることの無力さを感じつつ、感覚を論じることを回避することによって、つまり言語的に理解し得ることのみに着目することによって行った、と捉えることが出来る。
 欲求の一人歩きを鎮めるものとは責任以外にはない。責任は全生命体の生きる意志を司っている。生命を全うすることそれ自体が責任の遂行なのだ。そして人間は責任をある時以来(恐らく言語行為を定着させた瞬間から)責任に対して意味化と価値化の両方を施し、倫理という考えを生じさせた。その日(瞬間)から人類は生命の意味と価値を、そして生きる責任を意味化し、価値化することで「感覚と意味」の一体化を図ったのだ。「感覚と意味」の一体化こそが言語を責任という柱で進化させてきたものに他ならない。
 通常我々は感覚というものを意味とは対極のものと理解しがちである。しかし意味に感覚は不可避であるし、感覚は必ず経験化されることで意味化される。つまり意味における感覚の付帯という現実と、感覚の意味付けという現実が、言語活動を、言語行為を進化させながら、言語と非言語の二つの領域を密接な共存価値として見出してきたのだ。
 しかし意味と価値の双方を、つまり対象に対する感情(意味)と、そのように感情を抱くこと自体を対象化すること(価値認識)を統一させるものは人間の行為に他ならない。そしてその人間の行為を人間が人間に対して宣言するものこそ信仰に他ならず、これは恐らく他のどの動物にも不可能な認識であると私は考えている。次章では私はいよいよテクストに示された事例と私が再び考える対話事例に基づいて信仰と言語について取り掛かろうと思う。

Friday, June 1, 2012

〔言語の進化と責任〕第六章 現代固有の信仰と新たな責任

 抗うつ薬が開発されることによって薬物依存が増加し、うつ状態に対する意識が鮮明化し、逆にそのような認識のなかった時代には然程意識せずに済ませていた病理に対する自覚が寧ろ顕在化し、各個人で自覚されるようになるという事態それ自体は既に昔のような素朴さを取り戻すことの不可能性を多くの世界市民が感じ取っている時代のように思える現代であるが、それはマスメディアとマスコミとネット社会が助長しているし、その現実自体を変更したいという風に多くの世界市民は感じていない。
 病気は常に新たに発見され作られるものだし、病気にならなくても健康そのものであるような状態の方があり得ないという真理の方に安らぎを感じるというのが現代人固有の心理であろう。
 そういった状況下で我々は現代固有の信仰を語彙に対する捉え方に顕著に認識することが出来る。昨今のテレビの芸能人や芸能人化した小説家たちによる対談番組ではしきりに「そのことがトラウマになって」というフレーズが多用される。しかし本来トラウマという概念は心理学でも精神分析でもそう容易く人前でそれを抱え込む事実を紹介するようなタイプのものとは異なる深刻な状態のことを指す筈だった。しかしちょっとした事実に対して比較的安易に現代人は「トラウマになって」と言う。これは自分を病理状態にいる側の成員に同化させることによって健康さをアピールして自己顕示欲が旺盛であることをアピールすることへの羞恥が巧みに自己顕示欲を隠蔽する戦略のように思えてならない。本来「トラウマ」という言葉はその事態に切迫した張本人たちにとってはもっと深刻である筈のものであるが、我々それほど病理的状態にあることのない成員たちの些細な日常に関しても適用して使用するという事実は、明らかに病理と非病理(健康ではない)の状態の無意識の等質化作用に他ならない。あるいはこの事実は病理的状態を異常と捉えることで発生する差別意識の撤廃を暗黙の内に全ての成員が望んでいるという事実と符合するのかも知れない。
 リン・マーギュリスとドリオン・セーガン親子が著した「性とは何か」(石川統訳、青土社刊)で二人は古典的熱力学を時間の対称性に、そして非平衡熱力学を時間の非対称性に依拠した考えであることを明示して、その基礎において性の在り方を捉えているのだが、我々の経過してきた時間と我々の時代は徐々に原点に戻るということはなく、私は最早人間のコミュニケーションはネット社会で変質したとしても、仮にそれ以前からあった潜在的なコミュニケーションの在り方自体が顕在化しただけのことにせよ、そうおいそれとは以前の旧態依然のコミュニケーションには戻らないという考えの人間である。その意味では質的な意味で人間社会は過去の事例を繰り返すということはあり得ない。そして語彙の使用の仕方自体も、ますますある専門分野の言説が他の多くの分野からマスコミ用語にまで常套化され、再びある専門分野の語彙へと特化されるということは決して起らないであろう。その際に我々は言語自体の在り方に対して新たな責任の在り方を模索しなくてはならないだろう。しかし本当にこのような事態というのは現代固有の状況だったのだろうか?あるいはいつの時代においても、そのような専門語彙の一般化現象自体が、現代固有の問題と思われていたというのが事実だったのではなかったろうか?
 例えば既に述べたベンジャミン・リベット(脳科学者)の主張するように、脳は人間がある行動を採ろうと思った瞬間以前に既に全ての意志決定をなしていて、我々の自由意志と感じるものの方が実はその脳の決定に従っているという事実は、例えば我々が自分の意志で好きになった異性に対して交際しようと決定しているものは、実は自分の意志以前に、身体論的にも、脳神経学的見地からしても意思発動以前であり、既に脳自体に決定されているということは感覚とか感性とか、情感とか情動は脳の前発動的な「構え」に対する従順な反応であるだけのことになる。その意味では全ての語彙はそれを使用する成員の等質化作用を助長するためにのみ誕生してきているとさえ言えるのかも知れない。寧ろ自由意志とは脳の決定を円滑に進行させるための方便であるということが次第に現代科学では明らかになりつつある。そして現代人の信仰とはある専門分野に特化された語彙を一般化し、ある特殊な病理状態にある成員の状態を一般人の健康状態に等質化するような新しい形での自己真意隠蔽型の新マルキシズムであるとさえ言える。するとその現代人を根底で支える心的な根拠としての責任に対する認識は必然的に古典的な責任感とは変質せざるを得ない。つまり「他人の悩み事に対してはほっといてあげる」対友人、対同僚の配慮というものが前提されていることになる。だからたとえ抗精神的病理薬による新たな病理状態の特化に対して、その病理状態を一般化させることによって新たな等質化の層を暗黙の内に認可し合うという責任の取り方が現代人には求められているのである。と言うよりも言語獲得以降の人類の思考パターンとは意外と「他人のことはほっといてあげる」型の感情を平常なものとして考えることの上で成立してきた、とさえ言えるからである。
 例えば記述という形で示される人間の言語行為とは、実は予め記述者が心的に設定した未来に対する予感と、その予感を正当化し得る仮説を他者に披露することで成立しているのだし、発話行為もまた発話する瞬間以前的に脳内で思念された未来への予感を、あるいはこれは記述に関しても言えることであるが、未来を想定することで過去を想起することをだぶらせているような心的状態での仮説を明示し、その明示によって逡巡を払拭し、新たな行動へと誘引するためになされているのだ。その意味では全ての言説は、記述であれ、発話行為であれJ・L・オースティンの言ったような意味でパフォマティヴであることは間違いない。ただオースティンは全てがパフォマティヴであると言いたかったが言わなかっただけのことである。もう一度第四章で述べた発話と記述の心的動機について明示しておこう。 ① 発語することで、その「語られる文章」や意味内容を記憶しようとする。要するに記憶したいことを発語する。語ることはそれだけで印象深い事実として語った内容は記憶に残る。 ② 発語することは発話者にとって意志決定することを意味する。発語することで、決意しようとする。(これはJ・L・オースティンのperformativeという概念の出所である。) ③ 発語することで心的な不安を除去する。人に何か聞いて貰うことで、不安を取り除き安心を得ようとする。(しかしこれはある程度気心が知れた対話者を必要とする。) ④ 自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これもまた対話者に対する信頼を必要とする。)
 しかし今、この四つの項目にもう一項目付け加えねばなるまい。それはこうであろう。 ⑤ 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読む)ことも、そうしないことも発話される側の自由だが、発話すること(記述すること)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。
 私が考えている「他人のことはほっといてあげる」型の配慮とは、現代に固有の個人的な対人関係の図式ではなく、もっと言語獲得の末に記述行為が発生した地点での言語行為の発話と記述の双方向性秩序の完成(それ以前的には他者心的領域に対する侵犯的発話というものも多くあったと思われるから)以来、継続された秩序だったのだが、その意味内容は近代合理主義とその崩壊に至るまで隠蔽されており、やっと今日現在に至って意識的に認識されるようになった、と私は考えているのだ。つまり「他人のことはほっといてあげる」型の対他的配慮とは、他者の能力と他者の良心と、他者の自発性の尊重であり、承認なのだ。そしてとりわけ行動主義以降の内観法の除去が、現代に齎した福として、我々は行動も重要であるが、行動を起こすことはその行動を決する背景と、行動を起こす成員の脳内での意志決定以前の必然性を全ての成員が携えているという事実に対する相互の覚醒と、そのことに関する相互の内的領域に対する詮索を控えるという事実が社会秩序としては最優先されるという事態を招聘しているということを我々に思い至らしめるのだ。
 実は私が言った等質化作用という現実は既にディルタイ、ジェームス、ニーチェにおいても示されていた。しかし彼等に共通に見られることというのは社会成員の「個」性に対する着眼が近代的合理主義に対する攻撃要員として理解されていた、ということである。その点ではフロイトもまた同様の存在として理解することが出来る。
 しかし現代では言語獲得の起源的な言語行為のモティヴェーションを探ることが現代コミュニケーションの行く末を見据えることと等価なものとして意識されているという事実の前で、「個」性は何かの破壊のための方策であるよりは、新たな共同幻想を模索するための方策として浮上してきているのではないだろうか?
 例えば国家とか政府とか、あるいは巨大化しつつある企業、コングロマリット、常習化するM&A(あるいはバイアウト)といった社会的事実は、仮に政府要人が暗殺されても、世界的企業が買収されて元の形が微塵もなくなっても、テロによって革命が仮に起きたとしても尚、革命以前とそう変わらない現実をネット社会自体が保持し続けるであろう。つまり「またそういうことが起きたね」型の認識を世界市民に市民感情として催すだけの反復が我々をどんなに不測の事態になっても待ち構えているということだけは何故だか我々にも容易に想像がつくのだ。
 そういう意味では歴史が我々の個々の驚愕を日常化してしまった。そのことを揺るぎない事実にしているものが現代ではマスメディア、マスコミである。しかしふと冷静に考えるとそれらも全ては言語行為の連鎖による常習化した現実認識に端を発する。そこで言語行為による常習化した現実認識に至るまでの段階を次のように考えてみよう。   ① 情報伝達必要性に対する認識の開示<サヴァイヴァル的状況>(自然環境の激変あるいは捕食者対策)、人類の結束。 ② 情報伝達必要性を満たすような意味世界の内的構築<サヴァイヴァル的状況打破への欲求>、他者に対する信頼の定着。 ③ 内的構築された意味世界の伝達方法の模索(言語行為の手段の模索)<言語行為への前夜>、この頃既に絵を人類は描いていた。社会の進化。 ④ 内的構築された意味世界の伝達方法を既存のシステム(発声)によって充足することを発見<言語行為の黎明期>、やがて絵と発話内容の記録を合わせて文字表記を発明。 ⑤ 情報伝達行為による社会的意味世界の充実<それ以前からあった責任の自覚>「誓います。」型メッセージの定着。文字表記の定着。 ⑥ 情報伝達必要事項充足外的な伝達行為への要請<それ以前からあった良心の自覚>「賛成したいのですが。」型メッセージの出現。他者信頼(友情、同僚、同士愛の定着) ⑦ 情報伝達必要事項充足的な伝達行為としての他者承認と他者理解と対他的良心と対他者良心承認の定着<責任と良心の配分値の決定に対する要請>「賛成したいのですが。」型メッセージの定着。 ⑧ 情報伝達必要事項の意味内容の拡充<責任と良心の協調>、社会制度の飛躍的進化。 ⑨ 情報伝達必要事項の意味世界の再考(常習化した意味世界への反省)<責任と良心の分裂に対する覚醒> ⑩ 情報伝達必要事項と必要外事項の弁別と非伝達的以心伝心(東洋的な認識ではない)による他者に対する配慮<責任と良心の再統合>
 サイモン・バロン・コーエン(「共感する女脳、システム化する男脳」より)等心理学者等が主張しているような意味で男子と女子の脳には微妙にその得意とするところが異なっている。しかしそれは茂木健一郎も指摘している(「脳の中の人生」より)ように共通性の方がずっと大きいのだが、ともあれ共感能力とシステム化能力が相補的に人間の脳の進化の過程において作用してきた、ということだけは間違いないようである。そして共感作用は良心に、システム化作用は責任に直結しているように思われる。そして言語獲得を巡る人類の旅において、我々の祖先は恐らく共感作用とシステム化作用を良心と責任の要請に伴って進化させてきたと言えるのではないか?私は仮説においては一応責任の方を社会的事実としては⑤から⑥というステップにおいて先行させたが、実際心的作用そのものにおいてはどちらが先ということはないかも知れないし、ひょっとしたらミラーニューロン(側頭葉のブローカ野付近で認められている)等の発達という観点からすれば、責任という協同幻想よりも先行していた可能性すらある。
 ⑧は中世以前、そして⑨は近代以降なので、この二つの間には長い暗黒があるが、その事実と言語行為の実体論的なレヴェルとはまた別である。⑩はまさに今現在我々が立たされている地点である。⑤の「誓います。」型の責任の自覚が発語行為として定着していくという事態は、その誓いの対象としての行為が規約として設定され、その規約に対する遵守が社会で要請されているということが前提される。例えば近代以降徐々に考察されてきた言語学は、言語行為それ自体に対して、内容論的な進化とは別個の、つまり形式論的なことをも含めた精神的、身体的行為としての言語使用という全生活レヴェルでの、全歴史的視点レヴェルでの認識を深める必要性が浮上してきたということである。そして⑥の段階で初めて定着した友情や同士愛といった現実は、しかし行動論的にはそれ以前、とりわけ②から既に始まっていたのだが、その事実に対して感謝するという意識は、⑥をもって初めて成されただろうと考えられる。つまり⑨で初めて言語行為自体を全生活レヴェルから(それ以前にあった哲学の一分野としてではなく)認識するという要請があった時初めて言語使用に対する感謝が持たれたわけである。それは⑤において責任が、⑥において良心が、それを有しているという事実に対する感謝によって自覚されるということは、その事実に対する認識を持つことが出来たということであると同時に、その事実に向き合うことに関して責任を持つということをも意味した筈である。つまり何かを無意識に執り行っていたレヴェルでの生活と、その行為自体の意義を自覚した後の生活とでは、自ずと異なり後者ではその行為を全生活中の必須として位置付けるという意味で、責任を生じるのである。つまり⑤において責任に対する責任が(そして文字表記することで得られる利益において表記行為自体の責任も持たれ、その当時表記し得る成員が限られていたとしても尚、文字表記という行為が人類にとってかけがえのない社会的事実であるという意味での認識はイリテラルな成員にとっても了解事項であったことだろう)、⑥において良心に対する責任が、⑦において個人的な意見の発動に対して責任が、⑧において社会成員としての自覚に責任が、そして⑨において言語使用そのものに対する感謝の念に責任が、そして⑩において再び他者存在に対する責任が社会成員の意識論的レヴェルで前提されているということになる。②において初めて人類に他者存在が認可されたとすれば、それはサヴァイヴァル的な外的要因に起因するわけだが、地球環境の保全に関して再び危機的状況下の現在、またその意識レヴェルに立ち戻っているということも出来る。そして②において私は既に行動論的なレヴェルでは良心は発動されていた、と認識しているのだ。良心の行動論的な発動という事態は、恐らく言語行為がそれほど覚束ないレヴェルであったとしても尚、人類同士での理不尽な殺人に対しては相互同意での制裁が発動されていたであろう、ということをも意味する。それは共同幻想としての埋葬、個人的埋葬と集団墓地的発想の共存も考えられるということだ。個人的埋葬に関しても、その他者の埋葬事実に対して尊重するという意識は社会進化以前にもあり得たであろう。しかしにもかかわらず良心の発動という現実自体がより客観的に認識され得るのは、恐らく責任が客観的に認識され定着するより少し遅れてなされた、と私は考えているのだ。これは社会機能の進化過程における試行錯誤とある程度の進化段階以降での社会機能維持という人類の初期的な高度成長期においては致し方ない現実だったのではないだろうか?(それは日本の戦後史を振り返ってみても、同一の段階を踏んでいると思われる)そして私がアンリにおけるヘーゲル解釈を巡って書いた箇所で私が述べた「書く行為自体が信仰である。」という考えが人類の定着したのは、一部有識者間では⑤、世界市民レヴェルでは⑨をもって初めてであったと考えていいだろう。
 言語行為は発話にせよ、記述にせよ、責任、つまり概念使用を巡る対他的な説明責任、認識力保有の意思表示を旨とする意思疎通の責任において顕現されていたと考えられるが、⑤において責任概念が明示的に全成員に了解されるようになる遥か以前に既に行動論的に発動されており、それが故に言語行為は発展していったものと考えられる。しかし記述行為が特権的な成員によるものではなしに広く一般的になってゆく過程は⑨を待たねばならない。要するに責任は無自覚であるにせよ、行動論的には発話行為をなすプリミティヴな状態の頃既に発動されており、その発動された責任的行動が発語行為を秩序立て、文字表記を社会必須の行為として定着させ、やがて責任概念を全成員に明示させてゆく。だから言語活動と言語それ自体の進化の歴史はまさに責任的行動の発動と責任概念の獲得といった一連の言語活動の人類的な進化過程と不可分に構築されてきたと言えると思う。
 次章では言語活動の人類的進化過程に見られる言辞、陳述の責任論的な進化について例証しながら考えていってみよう。

Monday, May 28, 2012

〔言語の進化と責任〕第五章 自我の超越と宗教的行為、そして道徳的行為

 この社会には学問とされるもの、芸術とされるもの、あるいは宗教とされるもの等がある。哲学は学問であるが同時に極めて芸術的なニュアンスがあるものもある。美学などがそうである(現象学も文体に拘るところがある)。
 ところでくだけた話だが、自然科学者にはレオナルド・ダ・ヴィンチのように芸術と両立している天才もいるが(尤も彼は基本的には画家だ、と茂木健一郎は言っている)全く芸術的な素養のない人でも科学者として偉大な人は大勢いる。あるいは宗教家として名を馳せた人の中には偉大な科学者もいたが、科学に関しては無知でも偉大な宗教家はいた。そのように考えれば多芸多才な天才もいたが一つの道に朴訥に突き進む天才もいたし、その両方ともが偉かったと言っていいだろう。それは科学の知識に疎くても偉大な芸術家やスポーツ選手がいる(彼等は直観的にそういう真理を捉えている)ことと同じである。
 つまりそのような両立と独立という価値の錯綜が様々な学問の世界で散見される、と言うことなのだ。因みに心神喪失という言葉は法的な用語であり、精神分析とか心理学ではまた別の言い方をする。しかし今日のように社会が複雑化してきているような時代では他の専門用語でも専門家以外の多くの職業人が把握していなければ社会のニーズに対応しきれないという面もあるので、精神分析や心理学の用語はその専門家以外の職業人でも把握しておく必要がある。そしてそのように意識しなくても尚、今日ではネット・ユーザーの間では意識しなくても自然と視界に飛び込んできて、「さて、これはどういう意味だろう?」と首を捻れば即ネットで調べれば概略的なことくらいなら即座に知ることが出来る。
 しかしこのような職業的な領域の違いを超えた学者間の好奇心は今に始まったことではない。事実ウィリアム・ジェームスは当初生物学や医学を学び、解剖学等の素養を積んだ後、心理学にも挑んだのだ。つまり当初自然科学の領域に学んだ人がその後人間の心理について学ぶことになるという道筋は極めて多いケースである。そして医学や生理学といった要するに身体を客観的に、哲学の用語で言えば外在主義的に認識する学から、もっと人間の心理を主観的に捉える学へと関心が移行するという事態は、ある意味では医学や生理学の専門家でも、人間の身体が人間の心理と分かち難く結びついており、従って身体一辺倒では医療行為さえ困難であるという認識に至るからであろう。この事実は一面では現代の用語で言えば意識のハード・プロブレムに還元出来るように思われる。この考え方はオーストラリア哲学者であるディヴィッド・チャーマーズが初めて提唱した。(1994)しかしそのことについて触れる前に既にウィリアム・ジェームスがその考え方の萌芽を持っていたという事実から入って行くこととしよう。
 ジェームスはこの論文でも何回となく登場してきた「宗教的体験の諸相」で次のように言っている。
 「緊張、自責、心労が、平衡、忍従、平安へと移行するということは、私がこれまでしばしば分析してきた心の均衡のあらゆる転移、人格的エネルギーの中心の変化のなかで、最もふしぎなものである。しかもそのふしぎは、主として、この移行が積極的な活動によって生ずるのではなく、単に心をくつろがせて重荷を投げ出しただけで生ずる場合が多いという点である。この自己の責任の放棄ということは、道徳的行為とは違った、とくに宗教的行為の基本的な営みであるように思われる。それはあらゆる神学に先行し、またあらゆる哲学とも無関係である。(後略)」(岩波文庫、下、55~56ぺージより)
 私たちが今ここでジェームスから受け取るべきこととは、心を寛がせることというのは責務的に間違ってはいないということなのだ。つまり道徳的行為とは人間が社会内での倫理に照応させて価値と見做した行為であるが、宗教的行為とは、外見的な振る舞いとか対他的な振る舞いからよい結果を引き出すのとは異なった個人毎に異なった忘我に対する接近法を我々に自覚させてくれる。
 今日の社会はインターネットの普及によって自宅勤務も多くなり、昼日中街中でショッピングをする若者以外にも中高年も珍しくなくなってきたが、そういう現代のフレックスタイム制的生活は形式的振る舞いだけが責任ではないということを教えてくれる。
 ところで何もジェームスは宗教心と信仰心のみが社会を救うと無宗教を否定しているわけではない。無宗教であっても信仰心の一つなのだし、それは形を変えた宗教心以外の何物でもない(因みにデネットはジェームズを人類最初のミーム学者だとしている。「解明される宗教」阿部文彦訳、青土社刊)
 そして努力とか意識的な心得だけが好結果を得ることに繋がるのではないという主張としてもこの下りは拝聴に値する。
 社会的道徳はしばしば外見的所作とか形式随順的傾向の強いステレオタイプを招聘する。それは建前主義的な強制力以外の何物でもない。建前はそれが必要な最低限の許容範囲に留めてくおくべきであり、それ以上の強制力になった時本末転倒である。そしてここで最も重要なこととは重荷、つまり義務感、あるいは責務感から解放された時寧ろ初めて真に責任を遂行することが可能になるという事態がしばしばであるというジェームスの心理学者としての境地であり、それは哲学者としての彼の思想にも繋がっている。そしてジェームスは必要以上の媚び諂いとか言葉の安易な流行に対するアンチテーゼもきちんと述べている。(同書、下、61~64ページより)
 この考え方は特に「あらゆる神学の先行し」という下りからも明白であるが、よりカント的な神に対する必要以上の諂いに対する侮蔑感情(神も間違うことがある筈だという考え)をも読み取ることが可能である。そして極めつけは哲学でさえ生の時間での心の解放に比べれば何ほどのものでもないという考えである。この下りはウィトゲンシュタインの「このテクストを乗り越えねばならない。」という「論理哲学論考」の最終節の主張にも繋がる。
 NHKの紀行番組でも特集されたが、サルヴァドールのサンバのカーニヴァルでの熱狂を我々は道徳で推し量ったからと言ってその本質が把握出来るのだろうか?それは把握することすら意味を持つであろうか?それは感得の世界であり、子供から大人までが一斉に打楽器を演奏する様は陶酔と忘我の境地である。そして音楽教育云々というレヴェルで体得することが出来るものではない音楽のリズムと熱狂が幼少の頃から生理的にも、身体論的にも、心理的にもその根幹から沁み付いた彼等の生活は、親なし子たちや、そういう境遇の人々同士での隣人愛(キリスト教教義的な呪縛からのそれではない)、或いは人類愛のレヴェルでの大人と子供、老若男女の集いの中から生まれる。それは私が本論で言うところの真の信仰ではないか?神は一人一人の生活者の心の中に宿っているという思念が彼等には定着しているように思われた。そしてそのような大衆的な熱狂は実はどの民族も持っている文化であり、体質でもある。それらは自我というものとは一体どういうことなのかという反省へと我々を誘う。
 反省はヘッブが否定的に語った内観とは異なる。今日記憶の問題が大きくクローズアップされていることから、我々は環境と適応した行動とか遺伝子以外に、記憶作用というものを考慮する必要があり、それは内観主義と一線を分かつだろう。そして道徳という言葉をジェームスは先述の記述で否定的に扱っているが、では本質的に道徳的であるとはどういうことかという問いもまた彼の記述は産出しているのである。
 話をいったん言語学に移行させる。
 言語学者イエスペルセンは総じて文法規則において、その認識を主部(主語を含み、埋め込み文の場合にはその実詞を指す)と述部、そしてその関係性、そして実詞を目的語とする一次、二次、三次という等級を付け、端的に言えば階層性を設け、その階層性において支配と従属という観念で文法を理解しようとしている。これは英語のように目的語が見かけ上はっきりしている言語であれ、日本語のような膠着語と呼ばれる接続詞によって支配と従属とが了解される言語であれ変わりない真理である(膠着語では叙述で目的格に膠着する接続詞が状況説明と話者同士の情動的確認の意図がある。屈折語では状況即応的なことは統語全般に開放されていると考えてよい)。そして彼は主に形容詞や副詞といった品詞がその使用目的によって名詞化する動詞とか、副詞化する名詞といったような認識によって言語行為というものが極めて機能的にも、使用意図的にも恣意的なものであるという認識を示している。
 このことは言語が生き物であり、規則とか規約とか(その中には文法も含まれる)はあくまで言語学上の分類項目として設定された基準でしかないという思想が示されている。
 道徳というものもまたそういった社会通念とか時代毎の規約として作用しているという側面は否定出来ない。だからテクノロジーの進化によって社会常識や人間関係(特に組織での)がその認識すべき優先順位が変更されてゆくという事実に道徳もまた向き合う必要がありはしないだろうか?
 例えば性について少し考えてみよう。マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において示したプロテスタントの性生活上の規定として子孫繁栄以外の性的快楽追求を戒める言辞には、今日の家庭生活を営む人々も、恋人たちも懐疑的な思いを抱くのではないだろうか?つまりそれは端的に我々人間もまた動物であり、生物であり、社会的責務とか義務以外の時間のプライヴァシーもあっていい、ということになる筈である。
 確かに近代の殖産興業の時代にはそのような倫理規定にも一定の効力があったかも知れない。しかしそのような倫理が道徳的なコードとして今日通用すると考えている御仁は現代では希少ではないだろうか?巷には体位に関するハウツーものも飛ぶように売れたりする現代ではプライヴェートで一切強制力のないコード(米国のバイブルベルトではどうなのだろうか?)にしがみ付いているという事態にはあまり大きな意味を感じない人の方が多いだろう。
 再び言語に戻そう。言語は確かに支配と従属によって伝達事項を伝達内容として伝達対象に対して伝達者が意図的に示す信号である。しかしそれは言語自体が有している性格のように見えるのは表面的なことであり、文法とか一定の伝達習慣によって規約として存在する約束事に随順することで理解しやすくしているという事実として捉えるなら、説明的な理解というものの本質が個人的な能力とか個人的な性格的傾向性よりも大きい、つまり我々が考えるよりも個人間の差とは小さいものである、という事実へと我々を覚醒させる。つまり性と言語というものは、その行為(性行為、言語行為)において個人差よりも共通性の方が大きいということでは共通するという事実に我々を導くのだ。
 社会道徳が禁欲的になるとしたら、それは性的快楽への追求が果ては金銭的な悪辣な商法や詐欺まがいの利己的な行動が蔓延した状況下であろう(売春に纏わる退廃が禁欲を招くが故に)。 しかしことはそれほど単純ではない。何故なら禁欲的な道徳というものはただ社会という人間存在の一個人にとってみれば外部的な環境強制的なものを原因とするものではないからだ。個人的な懺悔心によってジェームスが示したような決意が個人内部でなされる時我々はその禁欲的な聖徳を対他的にもモラル上では適用してしまいがちだ。それはある意味では個人の間での共通性が差異よりも大きいという認識が仇となってしまう事態でもある。つまり自己内発的な宗教心はただ単に自己変革の道具として認識されている内はいいが、ある社会的強力を持ち始めると途端に様相を変化させる。
 しかしこう考えてみよう。もし生物が生殖という行動を採らずに、つまり異性同士の交配というものなしに、つまり雄(Y遺伝子の産物)なしに、雌一個体だけで子孫を形成出来るのなら、基本的に全ての個体はクローンとなる。しかしクローン同士は血族であるが、それ以外の他の個体群は全て他者(人間であるなら他人)である。そういう社会がもしこの地球上での進化の偶然で成し遂げられてしまったなら、少なくとも高等知性を持たない生物にはそういう繁殖の形態を選択したものも実際にはあるが、人間がそれに習ったとしたら、今頃とっくに人間の脳の進化の凄まじさの前で、他のクローン群に対する自己同一クローン群との戦いにおいて全ての個体は絶滅への道を辿ったかも知れない。
 つまり異性との交配という遺伝子のブレンドと適度の配列ミスによって人間という存在は多様性を持ち、豊かな隣人間での友愛と友情と、社会的協力を成し遂げてきたのであり、純粋同一遺伝子継承性を捨て去ったことが我々人類の繁栄を司ってきたのである。そういう意味では共通性を探ることが異性を前提している内は未だ平和であるということである。
 そこで人類は価値観の多様性への認識を持つことになった。勿論時として歴史はそれを踏み躙ってきた。しかしそのことに対する反省も常に繰り返してきたのだ。その際に漫才の「ぼけ」と「つっこみ」的なコンビネーションによる対話という性格論的、役割遵守的な対話によって辛うじて社会の崩壊を未然に防いできたとも言えるのだ。その時我々は宗教的行為というものの個人的なレヴェルでの救済と、道徳的行為の社会的レヴェルでの救済という事態を巧く並存させてきたのだ。
 一方で税金を払い、選挙に行き、社会的義務を行い、同時に家庭生活において個人的な幸福を築き上げていった。そしてその両者の中間に友情とか同僚同士の協力とかがある。自我は対他的な攻撃欲求を発現させることが要求される時には巧くゆくが、いったん防御の姿勢を解除した者同士では有効に作用しないことも多い。そこで一定の水準まで便利さが定着していった時、社会において共同幻想的な社会的事実に辟易した人類は、その度に「個」とは何なのかという問いを繰り返し提出してきたのだ。
 例えば日本では肉にしても魚にしても意図的に賞味期限を早めに設定しているが、それは食品業界自体が食中毒等の社会問題を引き起こすことを未然に防止し、責任を負うことを回避しようとしているからである。あるいは便利な商品、価値ある品目という題目は全て経済社会自体が捏造した欲望である。つまり消費欲求とか、アップグレード化された商品を消費するサイクルを作り上げるために社会全体が人間にそれに巧く対応出来るような欲望を作り出しているのだ。その欲望によって人は不安になる。つまりその欲望を充足出来ない成員は、立ち遅れているのではないかという不安を嫌が上にも掻き立てられるのである。その不安を除去するために現代社会では新たな任務が要請され、新たな責任が作られてゆく。その責任をつくるために不安は恣意的に作られ、ある時には意図的に作られるのだ。それは病気という事態に対してもそうである。
 病気は作られるのだ。つまり正常と異常の価値基準自体が、社会全体のムードによって作られてきたのだ。そのムードを煽るのがマスメディアでありマスコミである。
 ある報告(「抗うつ薬の功罪」デイヴィッド・ヒーリー著、田島治、谷垣暁美訳、みすず書房刊)によれば「抗うつ薬が導入されてからうつ病の頻度が1000倍にふえた」と言う。これは今までになかった形での要請、つまり新たに作られた新種の病気に対応するために処方される薬剤を投与し、その投与がまた新たな病気、つまり恣意的に捏造された異常(恣意的に作られた克服対象であるところの)を産出することとなって、薬事業界とか医療にとって恰好のターゲットを作り上げている。それは社会全体の経済サイクル的なニーズだけが優先された結果である。当然のことながらマスコミがその尻馬に乗っていることは言うまでもない。ではそういった現状をどのように改善したらよいのか、どのように切り抜けたらよいのかということになると、政治を正すのだとか、新たな数値目標をたてるべきであるとか色々な考えが捻出されるだろうが、それらも一聴に値するにしても、それ以上に重要なのは、我々一個一個の個人が意識的な変革、つまり当然過ぎる真理に向き合いつつ、社会全体が作り出す風潮というものに対して安易に迎合することなく、日々冷静に判断する(消費に関しても、マスコミや政治が題目を唱える今日的課題が真に正しいのかということに関して)ということに尽きる。
 宗教的行為が真に自己内の自覚によって執り行われるような素地を自ら築き上げるということが大切ではないだろうか?宗教的という言葉が嫌なら無心で取り組める充実した生における行為としてもよい。信仰という言葉が嫌なら信念を持って生きるということでよい。道徳さえもが社会全体のムードによって自然と形作られているという現実に対しては、「待てよ」と互いに声を掛け合う勇気を持とうということである。

Saturday, May 26, 2012

〔言語の進化と責任〕第三章 未来という事態に備える責任

 自己内で対話すること、ある自分がもう一人に自分に対して問いかけるという事実は、私たちにとって他者の存在への覚醒、つまり他性認識によって見出されている思念である。他者の存在しない世界では対話とは成立しない。ある心的作用や心的活動それ自体は他者との差異を認識していく中で自我を見出す活動の事実なのだ。キルケゴールが「哲学的断片」で考えていた師匠と生徒の関係は社会的な人間同士のそれであると同時に一人に人間の内部での対話をも意味していたのだ。彼は「不安の概念」で次のように言っている。
 「ソフィストたちをさして、彼らは弁舌はさわやかだが対話はできないとソクラテスが区別をつけて非難した真意は、ソフィストたちはあらゆる事柄について多くを語ることができても、身につけるという精神に欠けているためであった。この身につけるということこそ対話の秘密である。」(中央公論、世界の名著40、「不安の概念」枡田啓三郎訳、中212~213ページより)
 身につけるということは、ここで示されていることとしては、習慣化するということだけのことではない。身につけるということはその行為の意味を理解し、実生活を少しでもよりよいものとするために役立てることが出来る、つまり実践出来るということを意味している。しかし一見このキルケゴールの論述が正反対に見えるウィリアム・ジェームスの次の一節と同じ主張になるのだ。
 「「神の意志<みこころ>のままに成かれし」ということをただ口にするだけでなく、身をもって感じる者は誰でも、あらゆる弱さに対して防備されているのである。普通の人なら人心を動揺させたり苦しめたりするような事情にあっても、自己放棄が平静な心の状態を生み出すということは、歴史に名をつらねたすべての殉教者や伝道者や宗教改革者がこれを証明している。」(「宗教的体験の諸相」下、枡田啓三郎訳49ページより)
 ジェームスが言う最後の人たちは啓蒙に命をかけたわけだが、彼等の心的な活動は常に身に付けたものを実践するということでなされていたのかも知れない。
 ここで来場者諸氏は日本人にはそのようなキリスト教文化圏の国ではないので、関係ないのではないかと考えられる向きに対しては明示しておきたい。私が本論で信仰と呼ぶものはキリスト教とか無宗教者とかとは無縁な、あるいは彼等全成員の生活に沁み込む、心的決定要因、あるいは行動や意志の根拠の問題を言っているのだ。だからここでキルケゴールやジェームスが言う諸々の固有名詞や一般名詞は別の日本人にとって理解しやすい語彙に置換しても構わないのだ。要するに我々は内的にある「構え」を構成するのは他者の存在あってのことなのだ。そしてその事実から読み取れることこそが最大の命題なのである。
 本章では責任の在り方を巡ってなされる時間の問題について考えてみようと思う。
 茂木健一郎は「脳の中の人生」において自然科学とりわけ物理学では未来というもの、そのものの過去との区別とか、あるいは今というものが特別な事態であるということ自体は解明されていないということを述べている。さて時間の中で責任という概念は大きく立ちはだかってくるのだ。そして責任という共同幻想の内発化ということを考えることは自然科学の分野でも何らかのメリットはあるのではないだろうか?
 過去というものをまず現在の側から考えてみよう。過去の行為は現在に何らかの痕跡を残している。さて過去の行為の成果として現在があるのなら、その過去の行為は、その時にどのような評定がなされていたとしても尚重要なものとして現在からは認識されるのではないだろうか?
 小説家の石田衣良はテレビの対談番組において自分の小説家としての活動において過去の小説を書くことに直接関係のない普通の生活がいかに役立っているかを力説していた。つまり小説家を目指す人は出来るだけ普通の生活を送ることが小説をやがて書くことの肥やしになると彼は言っているのである。
 私は過去において最悪な事態ではなかったかも知れないが、多くの失敗をしてきたし、あまり芳しい青春を送ったとの言い難い人生だった。しかしそれらの失敗や挫折が今思い起こせばかなり役に立っているのである。つまり私は失敗もしたけれど最悪の過去の過失の損失を補填することが不可能なほどの失敗はしなかったということになる。
 つまり過去の行為は損失の補填が現在なり未来なりに残されているということと、そうではなく既に取り返しのつかないことの双方が存在するということである。勿論過去の行為それ自体は存在しない。要するに記録としてとか記憶として存在すると言っている。
 過去の補填出来ない行為において我々は対他的に賞賛したり、報奨を与えたり、逆に懲罰を与えたりしている。しかし過去の行為の補填が可能なことは、人生とは幾らでもやり直しが効くという意味に於いては、未来へ過去行為の代理行為を適用出来るのだ。そしてそれを対他的に認識すれば信頼したり、委任したり、任命したりすることになるのだ。
 それは責任を付与することである。責任を取ることとは現在の行為として位置付けられるのだが、それは賞賛したり、報奨を与えたり、懲罰を課したり、要するに一定の評定を与えることである。そして未来に対してはその賞罰においてなされた社会的意味に則った、その評定に相応しい責任を彼に与えるのである。そのことは対自的な意味においても変わりない。
 先述したキルケゴールの身につけるということ、そしてジェームスの自己放棄が平静な心の状態を生み出すということは双方にも信仰と私が本論で呼ぶものと一致する。
 身に付けるということは実践し、その行動の真理の意味を知るということであるし、自己放棄とジェームスが呼ぶ行為とは自我の超越のことに他ならない。そして自我を超越するということは自我をよく知るということだから、自我が他性認識と自己内の対自的対話という現実を知ることを前提する。平静な心の状態を生み出すこととは迷いない行動を採ることによって得られる。迷いとはポール・リクールも言っているように行動前的な逡巡とか思念とかのことであるが、要はそれを吹っ切って行動することとは迷いを消すことだし、迷いが消せるということは心の乱れを正すということであり、乱れないような安定を見出すということである。これは宮本武蔵の「五輪の書」の精神にも相通じる。
 そして揺るぎない信念、そして乱れのない心の安定というものの獲得こそ信仰という心の状態によって容易に得られるのではないだろうか?
 そして責任は信仰という心的活動を促進するものとして未来へ向けられた補填可能な過去の失敗例から学ぶ代理行為の権利と任務を我々に与える。責任の全うとは信仰によってなされ得るということである。そして責任ある行動という想念を得るには明らかに言語の助けを我々は借りている。仮定法とか条件節とかの論理的枠組みは言語的な論理によるものである。勿論非言語的な直観意識もここで総動員されるだろう。聴覚映像的な思念も心に立ち現われるからだろうからである。
 しかし責任を他者に委ねるという事実には、心的にはその他者の能力への信頼がある。そして責任を自己に帰することは心的に自己の能力に対して自信がある場合に限る。だから責任は自己や他者といったそれを帰すことの出来る成員に対する評定に左右される。そしてギャンブル的感性を他者に対しても自己に対しても適用する場合もある。少々危なっかしいのだが、一丁ある人間の能力に対して賭けてみる価値はありそうだ、という判断が責任をある成員に負わせることに繋がる。だから「やってみませんか?」という勧誘の言葉にはその成員に対する他者一般の信頼性を代弁した響きがあるものである。その成員の能力に対する期待値こそが勧誘の言葉の熱意の指標となっている。しかし未来そのものは不確実なので、どのように他の成員と比べてその成員が能力を発揮する可能性が過去データによって高いと示されていてさえ、本質的には賭け的要素は拭えない。
 記憶には書き換え作業があることが知られているし、特に過去のエピソードはどのように印象に残っていることでも現在の自分の状態に照応させ微妙に編集を行っていることも分かっている。心理学者のダニエル・L・シャクターは記憶の書き換えを「調和編集」、「変化編集」、「後知恵編集」、「利己的編集」、「ステレオタイプ編集」という風に心理学者らしく五つに分類して論じている。(「なぜ「あれ」が思い出せなくなるのか」春日井晶子訳、日経ビジネス人文庫)
 この様に記憶それ自体が現在の自分を中心とした都合で動くということを我々はどう捉えたらよいだろうか?
 恐らく我々はある部分では過去から現在迄継続されていることから今現在の不備を過去の例えば自分の行為での何らかの怠りに起因していると捉える時、我々は過去行為を反省するが、その過去行為が他者によってなされた場合、そのことによる実害を自分自身が蒙る場合、その他者へ社会的責任を問うということをするのだ。だから自分自身で反省しつつ今からはこうしようと思うことでも、他者に対して責任の所在を明らかにして弁済させる場合でも必ず現在どんな状態になっているかという査定から過去の行為の責任を問うのだ。
 ところで心理学者のニコラス・ハンフリーは「喪失と獲得」中のある論文で次のように言っている。
 「(前略)もはやヘーゲル的な法則が人類の歴史のコースを指図していると信じている人間は誰もいない。マルクス主義的な歴史原理を信じているものもほとんどいない。(もっとも、こちらのほうがおそらく多いに違いないが_エンゲルスの非凡な『自然弁証法』は、さまざまな形で、複雑性やカオスについての現代的な考え方を先取りしていた)。」
 ここでハンフリーは示すような意味では現代はとっくの昔からそうなのだが、絶対とか信仰という言葉が流行らない時代になっている。そして私はだからこそ敢えて普段それほどは取り上げないヘーゲルについて、その解釈を現代現象学者のアンリの視点を借りて大きく取り上げた。しかしある意味では絶対性という概念にとり憑かれていた時期が西欧哲学を中心として長かったという歴史的事実が、例えば男尊女卑的なジェンダーロール的観念が長く続いたことと同様に、逆に現代ではそのような誤りは二度と起こさない様な心がけを作ったのだ、と今私が勝手に歴史を解釈するとしたら、それは現代人としての「利己的編集」を私が採用しているのかも知れないし、また「調和編集」(予定調和編集と言い換えた方がより相応しいかも知れない)或いは「後知恵編集」を行っているとも言える。
 しかし歴史というものに対する捉え方とは常にそのような編集作業の反復であった。だからもしかしたらあと何十年かたった後、意外と絶対という観念がもう一度見直される時期が来ないとは決して断言は出来ない。
 そう捉えることも現在でも我々の判断なのだ。何故なら古典から触発される新しい考え方というものも常に存在してきた。その意味では案外相対論自体もそろそろ大きな曲がり角に来ていると言ってもよいかも知れない。
 しかし少なくとも、その時に示される絶対とはヘーゲル等が唱えた絶対とは明らかに異なった質のものであろうし、また相対というものもその頃には現在とは全く異なった質のものとなっているだろう。そういう意味ではヘーゲルの正否の無限進行は認識としては有効である。
 未来に対してある展望を持つ時我々はどこかに理想像を持つ。その理想像は現時点においては達成不可能な事態に対して処方することの可能な状態である。責任はその事態に一歩でも近づくことの出来る能力に対する信頼に受け応えるものでなくてはならないだろう。
 文章で身をたてている者の多くは昔自分が書いた文章をもう一度機会を作って目にする時、他人の書いた文章のように見える経験があるだろう。その時自分で自分の文章を他人の目から読むことが出来る。人はある文章を書いた人物の人間性によって文章を読むわけではない。読んだ文章に惹きつけられるからこそその文章の書き手の人間性に惹かれるというだけである。つまり文章書きというものはその文章だけで自立した主張を込めなければならない。それは文の持つ意味世界による。書く動機付けは後付的な解釈でしかない。それは書いた当人にとってもそうである。書くことが哲学者にとって信仰であると言ったのはそういう背景があったのだ。文章の意味世界を求めて旅する文章の書き手は、実はその旅に赴くために行く準備をしたりするのだが、それが書く動機である。
 しかし通常書き出したら、動機はどうでもよくなるし、また別に違った目的が生じることもある。その展開そのものに魅せられて文章書きは作業を続行するのだ。書き続けることが次第に彼の責任になってゆくが、それは書きながら彼が自己の能力を信頼しているからだ。それは書く行為の続行によって未来への展望が探り当てられる感触を彼が掴むからなのだ。未来への責任は今現在執り行っている行為を中断しないという意志によって形作られるのだ。
 未来へと責任を受け渡された者に共通したこととは、それが他者から要請された場合でも、自己内で責任を負った者でも、意志的に何らかの現状の難点に対する克服と打開の可能性に賭けた思いがある筈なのだ。それは未来の事態の不確実性と同時に、責任を負った者の資質と能力が今現在と変わりないと思われるある強烈な信頼に裏打ちされたものなのである。そしてそういった心理的な期待感が言語活動にも反映される。そのことは追々実例を通して考えていきたいが、本章では取り敢えずそれらの事実関係の所在だけを明らかにしておきたかった。

Thursday, May 24, 2012

〔言語の進化と責任〕第三章 視覚情報の意味と言語

 生命進化上での大実験場であったとされるカンブリア紀において遊泳性のナメクジ状の動物ピカイアが我々人類を含む多くの動物の祖先とされ、彼等が生存を継続したからこそ、我々の今日があるということになる。何故彼等が絶滅しなかったかというと、案外その形状が単純であり、何らかの環境の激変に対して特殊な環境に完璧に適応していなかった、という事実こそが最大の理由かも知れない。何故ならある環境条件に対する完璧な適応という事態は、その環境が激変した時には最も絶滅しやすくなるからだ。要するにいい加減に適応している者こそ、環境の変化に常に対応出来るというわけだ。
 尤もピカイアからイクチオステガやプルガトリウス等を経て我々の祖先に至るまで相当長い年月を要したのだから、そこには奇蹟的幸運の連続という偶然が大きく作用していると考えても間違いはないだろう。
 しかし前章で触れた自我という作用は生存を安定したものにするために必要な作用であるが、それは前頭前野によってなされていると考えられているから、その作用は意外と眼に近い部位で行われており、脳科学者たちが眼に近い部位において自我が活性化されているのなら、彼等が躍起になって追究しているクオリアが自我の作用によって生み出されていると考えられているのなら、一歩進めて言語が大脳辺縁系と即頭葉によってなされている、しかも即頭葉が記憶の格納にもかかわっているということを考えれば、言語活動の進化過程には視覚情報が極めて密接に関わっているということも容易に想定し得るのではないだろうか?
 男女の脳の特質は微妙に異なっていると考えられているし、事実ある程度証明されているのだが、空間把握能力において行動したりすることにおいては男性が、平面的な配置に関する記憶では女性がより平均的には秀でているとされるが、この二つは協力し合って、空間把握とか空間的な記憶を支えていると言えるだろう。
 さて言語活動に於いて敢えて強引に男性性と女性性というものをでっちあげてみると、支配と統制に秀でた男性性としての能力と、共感と友愛の女性性の能力が密接に協力して言語行為をなさしめる人間のコミュニケーション能力を進化させてきたのではないかとさえ考えられる。その進化には男性も女性もないというわけだ。そして空間的把握を可能にするのは紛れもなく脳の視覚情報処理である。
 眼が進化した時期もだいたいカンブリア紀に該当する。眼の動物における進化上の登場は画期的であったことだろう。何故なら空間移動において彼等の移動をスムーズにするためには障害物を認識する必要があったからだ。障害物以外のものに対する認識は寧ろ当初は副次的な効果でしかなかったであろう。しかし興味深いことには副次的な効果の有効利用ということがしばしば進化過程において多大な貢献をするということはどのようなタイプの歴史を見ても珍しいことではない。要するに瓢箪から出た駒的な発見というものは偉大な人間による自然科学的な発見に留まらず、自然全体のセレンディピティーにおいても効力を持っているものと見える。
 私は長い間空間把握能力を言語と結び付けて考えていた。実際言語獲得後の人類は、ちょうど言語習得後の幼児に見られるような世界を秩序付けて把握する能力に秀でるようになり、ある意味では言語が空間を説明する能力から理解するようになると考えていた。そしてそれはある程度事実だろうと思うが、言語というものを全く習得していなくても尚空間的な把握という能力は行使出来るのではないかと考えが変わった。事実数学の幾何学の感性とかも言語習得後の説明能力だけではそれこそ説明が尽かないと思われるし、また論理というものもまた必ずしも言語的能力、言語的思考のみが全てではないような気がしてきた。ここに私の言語支配観は変更を余儀なくされた。そして寧ろ逆な場合も十分あり得るのではないかとさえ思えてきたのだ。
 例えば遠近感という把握能力は言語的な秩序を理解する能力とは異なる。そしてAとBとCという実体が目前にあって、Aが一番自分の近くにあって、Cが最も遠くにあるから、Bはその中間であり、AよりBの方が遠くで、BよりCの方が遠くだから、従ってCはAより遠くにあるなどとは実際の空間においては考えたりしはしない。この場合には論理というものは言語的な制約に基づいているように思われ、従って実際の視覚情報による把握とは異なるという面が強調される(それは端的に記録するとか、記憶していることを語るという説明原理の問題に過ぎない)。
 しかし同時に遠近感そのものをそのように論理に置き換える時に、必ずしも我々は言語的な思念に全てを委ねていると言い切れるだろうか?寧ろ言語は後付的な理解の仕方として採用されているに過ぎないとも言える気がするのである。
 ただ我々はたまたま言語を持っているので、それを利用して空間における遠近感とか、順序とかの秩序を言語で説明出来る(それは内心で自分に対してでもそうであるし、他人に対してもそうであるが)という副次的な効果に身を委ねているだけであり、全てを言語のお陰と考えるのは少々行き過ぎた認識であり、我々は眼が本来有していた筈の目的(こういう言い方は自然科学上では特に物理学的には許されないだろうが、生物学的には許されるかも知れない。)に適った眼に対する認識を取り戻すことが出来るような意味で、言語の持っていた存在理由とか、空間的な把握能力における遠近感とか、幾何学的図形理解とかの能力が、言語的な論理による説明ではなく、それ本来の能力として認識する必要があるような気がするのである。また論理自体も、言語的な説明というレヴェルの前段階として、論理的思考回路自体の非言語的な感性(言語には言語の感性があるのだが)から見届けてゆく必要があるような気がするのである。
 そう言いながら言語に関してとりわけ記述行為に関して再び触れておこうと思う。
 ミシェル・アンリのテクスト「現出の本質」を本論で大きく取り上げたからなのだが、彼以外にもカント、ヘーゲル、ハイデッガーやメルロ・ポンティー、サルトル等には共通して何回も同じ主張が全く同じ文面であれ、あるいは少々変更しながらであれ、繰り返し登場するという事態が決して珍しくないという事実に対して我々はどのように向き合えばよいのだろうか?そのことについて少しだけ考えてみよう。  彼等がそのようなテクストの記述を選んだのは、読者に対するある種の啓蒙的な説得という意図がまず考えられる。そして哲学者は通常の人々よりは少しだけ人間の陥りやすい傾向というものに対して敏感だから、人間が極めて忘れっぽいということを熟知しており、そのために読者に対して著者が重要であると思われる事実を何回も繰り返し述べることを通して十分な理解を促進するという意図がある、ということがまず考えられる。
 人間とは本来全てを逐一記憶していたら、寧ろ生活することは出来ない。ある程度全てに対して重要なポイントだけを記憶し、後はあっさり忘れることを無意識に選んで生活している。もし全てを克明に記憶していたのなら、彼は行動するということが覚束なくなるだろう。そのような真理を熟知しているからこそ、彼等は重要なことを意図的に何回も反復して記述する、という理由がまず考えられる。
 しかしそれだけではないと私は思う。もっと極めて実際的なこととしては、彼等自身が自分で書いていたことを忘れるという事実があったと思う。長い論文となると、大分前に記述したことを忘れてしまい、何回も同じことを繰り返し記述してしまう、ということもあるだろう。しかし同時に自分で自分が書いていて重要であると書きながら感じることというのは何回登場させてもおかしくはないと考えている、ということと、それが重要だから次々と登場する色々な記述の前に、自分でも何回も思い出しながら、忘れたくはないと考えていた(それは意図的にも、無意識的にも)ということがあるのではないだろうか?
 ということは記述するという行為はかつてのように原稿用紙に向っている時でも、今日の多くの人々のようにパソコンに向っている時でも、記述することで何回も同じ文字が登場することで視覚的な文字知覚残像(形状的にも意味内容的にも)にも印象的に鮮やかに記憶され、そのように蘇らせやすい記憶を形作る意味合いをも込めて何回も同じか似たような記述を繰り返すということがあるということが了解される。  しかしそのことは視覚的なことからは少し離れるが、発語行為に関しても言えることだろう。発語には発話者にとって欲求充足的観点から次のような効用があると考えられる。
 ①発語することで、その「語られる文章」や意味内容を記憶しようとする。要するに記憶したいことを発語する。語ることはそれだけで印象深い事実として語った内容は記憶に残る。
 ②発語することは発話者にとって意志決定することを意味する。発語することで、決意しようとする。(これはJ・L・オースティンのperformativeという概念の出所である。)
 ③発語することで心的な不安を除去する。人に何か聞いて貰うことで、不安を取り除き安心を得ようとする。(しかしこれはある程度気心が知れた対話者を必要とする。)
 ④自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これもまた対話者に対する信頼を必要とする。)
 このような効果が得られることを殆ど自動的に身体や精神状態自体が判断して、我々は発語行為、発話を行うのだ。そしてそのような身体や精神の側の目的が達せられることで、「あの時あんなことを言った。」と自分で過去を振り返る時、我々はエピソード記憶としてその会話のシーンを想起するわけであり、そのエピソードにはその時対話者がどのように反応したかということまで記憶に残り、同時に想起されるだろう。そしてその発言の際の視覚的な記憶も連動して想起されるだろう。そして発語行為の場合には、音声的な記憶、聴覚的な記憶として意味内容とそのニュアンスとして記憶に残るだろう。
 しかしこれはよく記憶について言われることであるが、記憶は編集される。よって必ずしも正確にいつまでも記憶しているわけではない。
 トーマス・ネーゲルは「主観に現われる自我は、外的な分析の下では消滅するように思われる。」と述べている(「コウモリであるとはどのようなことか」永井均訳、313ページ、勁草書房刊)し、P・F・ストローソンは「(前略)我々は自然で強力な仮象のために、意識の必然的統一を(中略)単一的主体についての認識と取り違えるのである。」(「意味の限界」熊谷直男、鈴木恒夫、横田栄一訳、勁草書房刊)と述べている。
 主観に現われる自我とは端的に言えば、ある過去の行為の際に考えていたことである。それは時間と共に、その時とは異なった精神状態の現在によって都合のいいように作り変えられるのだ。だから外的な分析とは、この場合過去に対する現在からの意味内容の把握、つまり思い出である。そして強力な仮象とはまさに現在を常に中心とした記憶内容全般に対する書き換えのことである。そして単一的主体とは、いつも変わらない自分というある幻想(像)のことである。意識の必然的統一とは現在によって過去全体を常に作り変えているということである。つまり過去事実の作り変えとは必然なことなのである。
 しかし我々はだからこそこう考えるのだ。相対的な受け答えしか我々はしていないし、してこなかったし、これからもしはしないのだ、と割り切ることは一抹の不安を抱かせるものなのだ。そこでヘーゲルが絶対知とか絶対の自由とか言い、それを受け継ぎ絶対性と言ったアンリの心的な目論見に対して、その根拠が読み取れるのだ。
 言語を生み出すものは直観であるし、論理を生み出すものもまた直観である。だから論理を説明する時に言語が必要とされるのであって、言語が論理を形作っているわけではない。言語によって説明するということは、それが当の言語であれ、論理であれ、責任の領域に属する行為である。
 我々は室内にいる時も、ある風景の前にいる時も、テレビや映画を見ている時も、常に自分にとって見たいと思っているものを見ている。記憶したいと思って見ているわけではなく、時間がたってみて、自然と記憶に残っていることと、そうではなくすっかり忘れてしまったこととがあるということである。何かに関心を今現時点で注ぐが、その時の全てを常に思い出せるものではなく、ある時偶然的にある事を目撃したり、聞いたりして、あの時そう言えばこんなものを見たり聞いたりしたと思い出すのだ。
 だからこのように忘れる能力があるということが逆に覚えていることを特化するわけであり、要するに忘れる能力があるからこそそれを補填しようという感情が生まれ、その感情に答えようとするところに責任が発生するのだ。
 「賛成したいのですが。」という一言は決して言いたいと意図して言う台詞ではない。寧ろ気がついた時に勝手に口から出ている言葉である。そして説明するという行為は説明者が説明したいと思えるものがあるからするのであり、それは感動したり、感激したり、あるいは驚愕したりしたその経験を一人で誰とも声を交わし伝えることをしないということが出来ないと思うからである。発見というものは一人で抱え込むことより、他者と共有したいと願うことは自然な心理である(脳科学でも感動した時それを他者に伝えたいと思うということが証明されている)。
 それは何か文章を書くことにも言える。何かを書いて発表するということも、素晴らしい思いつき、素晴らしい内的な発見事実を記述することを通して我々は他者に自分の感じたこと、理解したこと、気がついたことを別の誰かに知って貰いたいと願うから自動的に何かを書いているのだ。それはそういう風に目的を持ってしているというのもとも違う(哲学の因果論的認識には自然な流れを認識し損なうという要素がある)。
 そして何かを書くという行為は必ず何か経験したことが関わっているものであり、経験を意味に変えるものが記憶であり、記憶の編集である。そしてその経験を記憶したいから話したり、書いたりするのだ。だから何も記憶が編集されてそれが実際あった通りではないということは憂えるべきことばかりではないのだ。
 風景に感動するとしよう。それは風景の意味をそこから感じ取っているからだ。そして風景を意味に変えるのも記憶である。素晴らしい風景を見たことを誰か親しい人間に語ることとは、言語行為によって感動を説明することで、内的な感動を共有することを欲しているからなのだが、それは風景を見て、身体全体で感じて得た体験的なクオリアを伝達することで思い出を記憶が意味に変えているということなのだ。その意味とは端的に生きる活力というものなのだろう。(茂木健一郎によれば感動すると脳はその感動を人に伝えようとするものらしい。)
 視覚情報を意味に変えているのは記憶作用であり、記憶作用を促進するものとして言語というものが役立つということを、言語発生の第一目的ではなかっただろう人類にとって、副次的な効果の発見として、その作用事実が応用されていったのだろうと私は思う。
 言語は人類史的に見れば恐らく内的な欲求充足以前的にはもっとサヴァイヴァルな信号としての役割だったのだろう。しかしそれだけに押し留めておくにはあまりにも言語行為というものは魅力に満ちていたのであろう(大脳の発達がサヴァイヴァル的自然選択によって齎されたからだ)。そしてそれは視覚情報によって得られる感動は決して言葉では伝えられないという事実が、逆に言葉を発するという行為を視覚情報確保と独立した意味を持たせたのだ。つまりその発せられた言葉を通してある風景を見る、あるいは世界に存在する事物を見るとその時、そのように言葉とは無縁に見ていた時と全く異なった意味を生じることを我々の祖先たちはある時知ったのだ(感情の誕生)。しかし言葉の存在理由に関してはもっと慎重にならなければならない。それは後述しよう。
 視覚情報によって得られる感情は言語を誘発し、その言語が視覚情報に影響を与えているのだ。その「見ることと語ることの対話」が我々に感情が意味そのものであること、つまり見てあるいは語ってある感情を抱くことから意味が発生することを知るのだ。
 そしてその時我々は視覚情報を意味の世界として受け取る。しかし意味は恐らく言語以前に内的には感得されている。しかしその感得を認識するために言語を利用しているのだ。感情に意味があることを言語は教えてくれるが、これもまた言語以前的にも感情の意味があるということを言語が教えてくれるのだ。あるいはそれを教わるために我々は言語を利用するのだ。だから言語がなければ感情は感情のままである。あるいは意味は意味のままである。しかし言語は人と人を繋ぐ作用があるから、あるいはもともとはそれが目的のようになっていったからこそ我々は言語を使用するのだが、感情と意味を接合し、一体化させるものこそ言語なのだ。そして視覚情報と内的な想像、あるいは思念を接合し、一体化させるものこそ言語なのだ。
 人類が絵画を描いてきたのはまさにこのことに起因する。絵画は人類が発見した唯一の実際に見えるもの(視覚情報)と、内的な想像が一体化したものなのだ。画家が描く絵画は、彼が見たものと見たいものとが一体化した世界なのだ。その点では文字とは内的な想像が写像されたものである。その事実をシンボルと呼んでもいいだろう。しかし絵画はシンボル的な要素があっても尚アイコン(イコン)的なものである。
 画家は外部世界を視覚情報として見るし、認識もする。しかしその外部世界に対する内的な感情とか認識とかを絵画という外部世界の中に閉じ込めるのだ。そして作品世界とすることで音声的、聴覚的ではないもう一つの次元の言語として絵画を提示するのだ。
 勿論文字世界もまた外部世界に対する感情を意味として内的な想像と一体化させられているものなのだが、絵画に比べるとただ間接的であるというだけである。
 間接、直接を問わず我々の祖先が言語表現を獲得するに至ったという事実の重みはそれだけで特筆すべきことかも知れない。しかし先述したが、言語を特定の言葉の配列を通して利用するという事実についてはもっと慎重にならなければならない。
 視覚情報を知覚映像として顕現させているものは後頭葉の大脳皮質視覚領である。右の眼球から得た情報は左に、左の眼球から得た情報は右にという具合にである。しかし視覚情報を意味付けているものは前頭前野であるし、それを感情的に判断させているものは大脳辺縁系である。前頭前野は眼球に近い。意味とは自己にとっては視覚情報を対象化した時の特定の関心事項に対する感情の説明である。そしてこの時既に責任という心的活動は発動されている。そして我々は唯一感情を意味付けし、意味と感情を一体化することが出来るものと思われる。この一体化の欲求は脳内で自動的に発動する。そしてこの一体化こそ発語、記述へと我々を誘う。感情は欲求をも産出するが、それと意味の一体化の脳内での衝動こそが言語を一体化促進の道具あるいは武器として利用しようとするのだ。
 養老孟司は「唯脳論」の中で近づいたり、遠ざかったりする対象物を同一のものと認識させるものとは比例に関する認知であるとしている。そして感情と意味を一体化させても尚対象そのものには知覚映像的に何の変化もないように(例えば嫌いなものが歪んで見えるということがないように)認知出来ることは養老氏のご指摘によって理解されよう。
 しかし我々が最もここで注目しなければならないのは、端的に言えば自己内で視覚情報を関心的志向の意味内容に沿って焦点化する時に、既に責任という心的活動が発動されているという事実を誘引するものこそ他者であるということである。他者存在が既に側頭葉のミラーニューロン以外にも前頭葉全体から、あるいは他性認識の根源としての扁桃体その他との連動でなされていながら、同時に自己内では他者とは直接関係のないものであっても他者存在を想定するかのように、あるいは自己そのものを他者のように扱いながら、自己という他者に向って説明するような心的様相性は、明らかに他者に対する説明を滞りなく遂行することで得られる理解を自己に適用しているということである。それは言語的説明認識に纏わる責任倫理(自己内での対自己説明というかたちでの)は他者が前提されている、もっと分かりやすく言えば、言語と責任とは共に他者存在の原初的認知こそが誘引している、ということである。つまり他者に対して説明するような「構え」を一人でいる時にも心的に持つということは他者存在を前提して思念しているのが人間だということになる。
 また論理とは言語的な思考外のもの、前言語的なものもあると言ったが、それは要するに論理にはその出発点に直観があると言いたかったからである。論理の出発が直観であるということは、数学者が直観を立て、そこで得られる予想に向って数論理的に証明しようとするところからも間違いない。そしてその直観力には他者に対して証明してやろうという意気込みがあるわけだから、当然のことながら報酬への期待、つまりドーパミン放出レヴェルでの意図が介在していていないとは言えないだろう。そしてそのようなある種利己的な欲求の中にこそ責任は発動されるのかも知れない。
 つまり他性認識という心的様相が論理を招聘するのだ。つまり他性認識はすぐさま他者に対してどのように接するかとか、そのように他者に対して接するように自己に向き合うわけだから、当然のことながら責任という心的活動が発動されている。論理に責任がつき物なのは、要は他者と自己の関係に置換して物事に真理や順序、序列、階層を認識するからである。しかしそれは論理に他者が必要であるという事実が自己内で何かを理解する時にも応用出来るということであって、責任を遂行するために論理が必要というわけではないだろう。要するに責任は目的意識のための道具ではなく、既に論理を直観する時に心的作用として発動される、心的活動として活性化させられるということであって、責任を目的遂行に供することをするのは反省意識だけである。それは社会的認識を持つ様に事後的に判断しているだけであり、責任それ自体は社会法的意識以前的に心的に活動させられるのだ(人類が唯一協力し合う遺伝子を保有しているということでも説明出来る)。
 しかし視覚に関して盲目の人はどうなるのかという問題が残されるが、生まれた時には目が見え、その後視力を失ったという場合には、その眼の見えた期間の長短も関係してくるだろうが、生まれつき眼が見えない人の場合、盲視という事実も報告されているが、脳の可塑性が何らかの代理的措置をとっているのだろう。聴覚には並列という意識は生じ難いし、数量認識も数えられることに関しては限界がある。そこで彼等は恐らく空間的なことを時間に置換して考えているか、もしくは皮膚感覚とか触覚あるいは聴覚の連動によって遠近感を察知し、それを手掛かりに論理的直観を得ているのかも知れない。

Tuesday, May 22, 2012

〔言語の進化と責任〕第二章 意識の冒険

 神経学者のマイケル・ガザニガは「脳の中の倫理」において責任という脳活動は実体論的にはfMRIでは確認出来ないと述べている。それはそうだろう。脳検査というもの自体、今現在の全ての自然科学的なテクノロジーを駆使しても責任という脳活動は確認出来ないであろう。だからこうも言えるのだ。脳活動を現代のテクノロジーを駆使して解明したとして、その事実にどう向き合うかという時、初めて「ここから哲学が始まる。」と言い得るのだ、と。
 しかし脳内の活動を還元主義的に、あるいは機能主義的に理解する努力を怠るべきではないと全ての哲学者は肝に銘じなければならない時代に生きているとも言える。それは現代の哲学者の責任である。
 端的に言えば責任とは共同幻想としての観念であると言える。何かに対して配慮する時、それが私的な感情によるものであれ、公的な義務感情であれ、感情を前面に押し出したような判断であれ、極力控えめに感情を押し殺したような判断であれ、その行動の向う先に、責任は立ちはだかるのだ、と言える、と言うより責任は内的な行動以前の思念において言語的な思念に介在するエネルギーである。統語を、言語行為を、言語的思考を支えるのだ。
 前章で本章において考えようと言った宗教的なプラシーボ効果とはテクストを書く行為において自己宗教的出自の教義を敢えて批判対象として認識することで自己責任を現出させようとする意図に見られる。テクスト創造者としてのアンリがヘーゲルに習って行ったキリスト教信者としての立場からアンチ・キリスト教教団教義的現実というスタンスの取り方自体がある種の社会ゲーム上での責任という幻想にテクスト作者が立ち向かっているということを表しているのだ。そしてそういうスタンスを敢えて自己テクストで明示することで、何らかの教義に依拠することを通して読者をその教義に誘引しているような発言をしていることを否定することで、逆に読者の共感回路を刺戟することの快楽を共有するように仕向けるのだ。それはテクスト創造者としても、西欧キリスト教文化圏市民としての責任を負うという意識(まさに脳映像からは何らかの熱中とかにおいて確認出来る血流の活性化作用こそが責任に立ち向かっているという事態である。)が、信仰の本質をキリスト教への批判を通して顕現させようと試みているかのようである。つまりその主張は、信仰とはウィリアム・ジェームスも主張しているように、キリスト教であれ、その他の宗教であれ、無宗教であれ成立するユニヴァーサルな人間的行為であるということだ。しかしそれはそう主張することでプラシーボ効果を得ようとするテクスト創造者の不安と平衡感覚の喪失という現実とは別の事実である。自己批判しつつ共感を得ようとすることは、読者もまた似たような体験を所有していることを想起させるようなシステムにテクスト自体が構成されているということである。そしてそのように構成すること自体が著者のプラシーボ効果であると私は言いたいのである。もっと端的に言えば書くこととはそれ自体で信仰である、ということである。その事実に洋の東西は関係ない。
 例えば肯定してから否定する方が、最初から否定するよりも効果的であるという意味で「賛成したいのですが。」型の言辞(第一章以降解説している。)にはある説得力がある。その手法はあらゆる哲学で試みられている。インマニュエル・カント、ギルバート・ライル、トーマス・ネーゲルetc。この中にミシェル・アンリが付け加わることに読者も異論がないであろう。
 ある法案に関してある一人の成員を除いて全ての成員の意見は一致しており、その一人の意見を聞いて早くその法案を通したいと考えている場合、この場合の成員は政治家でもよいし、地域の野球チームの後援会のメンバーでもよいのだが、その残りの一人に対して向けられる質問は、最初から得られるべき返答は二つに絞られている。つまり予め限定された返答をしか与えられないように配慮されているということである。
 心理学者のテレンス・W・ディーコンはチャールズ・サンダース・パースに大きく影響を受けている。彼はトークン(もともとパース用語)間の連携を一つの閉じた系として捉え、その閉鎖系であるが故に全てのレファレンスをインデキシカルになし得るのであり、それが閉じていなければ混乱し、各レファレンスは相互に関連し合わず、ランダムで気まぐれなその場限りの命名と呼称だけに終始するだろうと考えている。もしそのウィトゲンシュタインの「言語に限界が世界の限界である」流の世界観が特定の話題に関する質疑に関する言語使用に関しても当て嵌まるのなら、規約主義的な思念は発語行為のその時その時の異なった質問や応答にも見られるだろう。  「あなたはその意見に賛成しますか?」 と、一人未だ聞いていなかった成員に法案賛成の是非を聞く時、自ずと二つの返答だけが残されている。しかし「賛成します。」あるいは「賛成したいと思います。」以外のもう一つの選択肢である「賛成しかねます。」あるいは「反対です。」という場合の責任は、その双方が真意である場合責任の重さは等価である。しかし本当は反対したいのに他の成員全員が賛成しているので賛成に回るというのであれば、最も責任の重さは小さいだろう。そしてそれならば「反対します。」の方がかなり重いと言える。しかしもっと重い責任の発言があり、それこそが「賛成したいのですが。」なのである。
 これが何故一番責任が重いかと言うと、それは説得という行為が含まれているからである。と言うのも、最初から否定する意志を伝えることなく、最初は賛意を示しながら(当然のことながら賛意を示すことは他の成員を一瞬安心させる)次の瞬間、「が。」と締め括り否定的言辞に落着させることはそれだけで失望を買う。しかし心理的にはその言辞を聞く者に対して「何故ですか?」と問う余裕を与える。もし最初から否定する意志をストレートに伝えればその瞬間に「あなただけなのですよ。」と言う猶予さえ与えず、反発を買う。この法案を通したい他の成員は全員早くその会議を終わらせたいのだ。
 しかし一回は賛意を示すことに吝かではない旨を伝えている場合、それでも尚そうではない意見の可能性を示唆することは「どうしてですか?」あるいは「どうなさりたいのですか?」という質問を他の成員がする余裕を他の成員に与えることであるから、当然その質問の返答として自己真意を他の成員全員に伝えることを可能にする。そして論理的にその法案に賛成出来ない理由を説明する機会が得られ、もっとよい意見を述べ、その意見の正当性を主張する可能性も得られる。つまり説得的説明責任を得る可能性の開示であることから、この言辞が最も行動責任に関して重いということになるのである。
 例えばこの本論の主軸になる例証がキリスト教文化圏に生活する西欧哲学者たちによるキリスト教批判に介在しているということが言えると私は思うわけである。
 哲学者のテクスト創造に纏わる信仰心的なプラシーボ効果のことに立ち入る前に、断っておかなくてはならないことがある。それは真意の隠蔽、あるいは偽装のことである。
 ある種の鳥類は自分が発見した餌を独り占めするために、他の仲間に対して「餌はあっちだよ。」と餌の場所を偽って教えると言う。しかしその泣き声の選び方そのものは彼等の本能的なコードによって学習した通りの仕方で、本来餌があるべき場所以外の方向を指示するわけだから当然その個体は自分では嘘をついていることを知っていることになる。しかしその行為それ自体を逸脱した行為として、つまり人間が感じる良心に対する疚しさという心理を持って臨むかと言えば即断することは禁物である。と言うのも生存戦略的な意味合いで、予め遺伝子レヴェルからそのような偽りを報告することが書き込まれているかも知れないからである。例えばもしそのような偽りの報告をした後に何らかの内分泌物質、とりわけ緊張した時に放出されるコルチゾール等の物質が、偽りではない報告をした場合よりも高い数値が確認されたのなら、嘘をつくことによって発生するストレスを彼等も感じていることになり、彼等にもまた人間が持つ良心のようなものがあるという可能性が出てくることになるだろう。しかしそのような偽装とか隠蔽というような行為がもし遺伝子レヴェルで生存戦略的に書き込まれている本能ではない、もっと高次の意図的な行為であるのなら、あるいは逸脱的な、つまり意識の冒険的なレヴェルの判断に基づくものであるならそう頻繁にはそういう行為をすることはないだろう、ということは言える。
 かつて私が見た落語にこんなものがあった。人間はあることに対する知識について無知であるということを隠蔽したいという心理がある。例えばその無知を知られたくはない者に対して必死にその無知を隠蔽しようとすることは人間に羞恥感情があるという事実からは極めて自然な感情でさえあると言える。そこである者が本当は知らないのに知っている振りをするという悪辣さが人間にはある。しかしもっと悪辣なこととは、知らないのに知らない振りをするである、とその落語家は言った。知っている振りをする者は言ってみれば初歩的な小さな犯罪者であるとすれば、知らないのに知らない振りをする者とは、知本当は知っているのに知らない振りをする狡猾な無垢さを装う演技者であるが、知らないのに知らない振りをする者はそれより更に上をいっており、要するに無知なのに狡猾な演技者を装うということを言いたかったのだろうと私は思う。長く生きている智慧者にはそういう芸当が出来るものだという信念がその落語のエピソードの落ちとなっているのだが、実際には私はそのような偽装というものは不可能であると思う。それはあくまで笑い話のねたとしてのみ成立する世界ではないだろうか?
 哲学には無限後退という考え方があるが、何らかの事実が直接言及されることに対してその言及自体を語ることをメタ報告とすると、その報告それ自体を報告することをメタ・メタ報告とするというような無限に連続してゆく事態を、無限後退と哲学では呼ぶ。これに近いものが今挙げた笑い話にはある。つまり人間というものはどんなに嘘つきで、その嘘が巧妙な者でも、人生に一回くらいならそういった巧妙な嘘が功を奏することもあるが、四六時中は無理なようになっているのだ。端的に言えば、嘘をつく時の人間の表情とか口調とか語調といったものは、本当のことを告げている時と必ず微妙に異なるものなのだ。そこで私は全ての哲学者というものは真意をテクストに示していると確信している。もしあるとすれば「賛成したいのですが。」型の捻った説得術だけである。これは真意伝達に関する技巧であり、カントも多用しているが、嘘をついているのでも、隠蔽しているのではない。またシャイネスな表現というものもまた偽装や隠蔽ともまた異なっている。オブラートに包むような表現は、心ある者に対しては婉曲と受け取られることを承知で行う明示行為であるに過ぎない。そこで私は明言する。哲学者は嘘をつかない。もし嘘をつく者がいたとしたら、あるいはテクストで示されていることが嘘であると思っているのなら、その者は哲学者ではないし、またそのテクストもまた哲学ではない、ということである
 話を元に戻そう。「賛成したいのですが。」型の返答を一人だけ意見を求められていなかった成員が他の成員に告げるという行為の持つ意味は実は極めて重要である。何故ならそのように言えば、その賛意を滞りなく報告出来ない理由を説明することを必然的に求められるからである。そしてそう切り返すということ自体が、賛意を翻した理由を説明し、それが正当な意見であるということを説得することを自ら選んでいる事だ言えるからだ。それはある意味では自分の能力の可能性を信じているからこそ言える発言形態である。もしそのような自信のない者は、丁度あの「十二人の怒れる男」でヘンリー・フォンダに次いで少年を無罪だと言った壮年紳士のように取り敢えず賛意を示すという選択を無意識の内に採る(あの映画では他の陪審員同様有罪に賛成した。)であろう。仮にそれほど賛成的な意見を内心は持っていなかったとしてもである。つまり賛意を翻すという選択にはそれだけの勇気というものが要るし、余程自分の能力に対する可能性に対する信頼がなければならないのである(だからこそ勇気を持って付和雷同をしない者は尊敬を集める様になる)。
 人間は元来弱い生き物である。そこでネガティヴなケースとしては進化心理学者にして動物行動学者であるニコラス・ハンフリーが、「喪失と獲得」中の<武器と人間>で述べているように憎悪とか嫌悪といった感情がまさにその憎悪対象から何かを仕掛けられたからではなく、こちらから仕掛けたという経験則によって逆に向こうに対する軽蔑心を生み、やがて憎悪し、嫌悪してゆくようになる、と述べている。だからポジティヴな場合でも自分だけが彼を救うことが出来るのだ、と思い込み、そして彼を助けるという自発的行為が彼に対する慈愛を育むようになる(このことは一面ではニーチェが批判した同情とか憐憫的な感情を育むのだが)、と述べているのだが、もし最初本当は間違った選択であると承知しているのに他の成員全員がそれに付き従っているので彼等に対して説得し、自分の意見の正当性を主張する自信がないものだから、つい他の成員に迎合するような行為を常に繰り返していたようなタイプの成員はベトナム戦争で米兵士が味わった自ら仕掛けた攻撃対象を自己正当化のために次第に憎悪をエスカレートさせて戦争を続行させるような行為を反復してゆく可能性は高いと言えるだろう(現在でも米国にはそういう傾向はなくなっていない)。人間は自己によって決意した行為を正当化するためにたとえそれが誤った考えであろうとも辻褄合わせをするのである。
 しかし通常我々は小さなことなら一々向こうに対して抵抗しないで済ますという選択もする。例えば本当は向こうの方が悪い場合でも、小さな例えば街角で誰かとぶつかってしまった場合など、向こうが完全に悪いのに向こうは自分に落ち度がないと思っている場合などでは、すれ違っただけの間柄である。向こうに対して咄嗟に「失礼。」と声をかけて済ますという選択を無意識の内に採るということは日常ではあることである。勿論それが痴漢と間違われたというような場合には別であるが。
 しかし哲学者は同一のテクスト内で、相反する意味の陳述をすることも珍しくない。例えば「真理は不変である。」と言ったかと思えば、同時に別の箇所では「真理とは恣意的なものである。」と言うという事態も決して珍しいものではない。そのような陳述はある部分では自然科学とか心理学では許されない(多少の比喩的表現は許されていたとしても)。
 例えばアンリは現出の本質を主張するのに、何種類もの陳述で表現(まさに表現と言うに相応しい)を畳み掛けるようにしている。例えば本質ということの規定として次のようにヴァリエーションを持たせている。 「このように、いっさいの現前の地平ならびにその条件として了解されるなら、<概念>は本質である。」(1037~1038ページより) 「経験は本質の経験である。本質は経験の本質である。」(1039ページより) 「疎外とは本質が自らを結集し、それが在るがままに自ら自己自身を再発見することを可能にする過程であり、疎外は本質自身である。」(1046ページより)
 しかし何故このように哲学では同一の言葉を何通りもの定義に置換することを頻繁に行うのだろうか?
 例えば私はこの論文を実はかなり意識的にある部分では哲学者風のもってまわった文体で、ある部分では逆に自然科学者風に常識的な言葉使いを行ってきたが、そのことにはわけがある。
 茂木健一郎は「「脳」整理法」で哲学者と科学者の使用する言葉使いの差について論じている。そして前者の言葉使いをパフォマティヴ(元来は哲学者J・L・オースティンの提唱した言語行為における概念なのだが、彼はそれを自説に応用していている。)とし、後者の言葉使いをディタッチメントとして規定している。その理由を彼は哲学者が通常彼自身の哲学的思想を語るために、主観的なスタンスを前面に押し出し、行動スタンスを明示しなくてはならないからとしているのだが、私が思うに彼等は勢い一個の概念を二律背反に追い込むような形で矛盾を矛盾のままに晒すことを厭わない。しかし同じことを自然科学者が行うと、その論文は少なくとも実用的に応用可能なデータ的価値を失う。つまり自然科学ではその論述の持つ真理が誰によって語られたかという事実は、真理自体の一般化可能な価値に比べれば大したことではないという考えがあるので、主観的な定義づけを拒否する必要があるのだ。このような態度とか、受け取られ方をディタッチメントと言う(茂木氏の「「脳」整理法」に詳細が記述されている)。
 私は哲学者にとっては書くこと自体が信仰であると言った。それはある意味では哲学者という職業にのみ客観的にも許された事実ではないだろうか?文学者もまたそのような一面があるが、文学作品とはそれ自体が作品世界という虚構であるために、主人公の行動とか小説自体に表現された時代背景とか主題自体に作者の思想を投影させることは出来るが、それは間接的なものに留まる。しかし哲学はその主張それ自体が直接的なメッセージである。そのような意味では文学者という職業的メッセージの位置は科学者と哲学者の中間に位置すると考えてもよいだろう。尤もそれらは文章という形で示された位置づけであって、例えば音楽とか美術とか芸術表現を含めればまた異なった位置づけが必要とされるだろう。
 例えば前章で示したアンリの言述には多く絶対者というような言葉が登場する。絶対という言葉自体、相対性理論以降、相対という観念にとり憑かれた感のある現代人に対するアンチメッセージのように響くし、事実アンリにはそういう意図もあったのだろう。しかしその出自は明らかにヘーゲルの絶対知やそれ以外にも多用される絶対という観念であるし、それ以前にはカントも多用していたし、絶対という観念が影を潜めたのは寧ろ比較的最近のことであると考えた方がよい。しかしアンリの言いたい絶対という観念は科学のディタッチメントとも明らかに違う。科学という学問はあくまでそれまで通用していた常識が覆された時には素直に新しく見直された観念に従うという面があるが、彼の言いたいそれはそういう意味での相対性とは対極のものである。そして勿論前章でも触れたようにその考えの起源には明らかにカントやヘーゲルの存在がある。彼等が絶対と呼ぶものは彼等が超越と呼ぶものとも微妙に異なっている。例えば超越と言うと、何かを論じている時に、それではそれもそうなのかと敷衍しようとする時、そうではないそれは「超越的だからだ。」ということになることが多いが、それは例外的だというニュアンスと、別個の事例として考えるべきだという特化された認識を適用するべきであるという倫理的ニュアンスがある。
 例えば責任で言えば責任とは個人に対して適用される時、昨日のあなたと今日のあなたは自己同一的に同一人物だという事実に着目して述べられる。つまり過去事例が現在へと連綿と連続しているという事実に着目している。だからある閣僚が責任を問われるのは彼が任期中の事案に対してだけであり、それ以外の時期に関しては通常彼への閣僚としての責任(閣僚としての資質問題に関する言及はなされても)追及はなされ得ない。責任を適用されるという事態は、つまり過去と現在が連続して同一の状態であるという認識に基づいている。それは因果論的な見方とも少し違っている。と言うより因果論的認識もまた過去が現在の起源であるという認識に依拠していると言うべきである。
 しかし絶対と通常哲学者たちが言う時、そこには「信じる」という行為への依拠が感じられる。例えば通常哲学から別れていった歴史的経緯のある心理学では絶対という観念は滅多に使用しない。それは心理学者たちが通常自然科学の一分野として心の学問を位置付けたいという考えを持っているからである。だから絶対という概念を哲学者たちが使用する時、哲学者固有の主観に裏打ちされている。それは信仰という行為自体を客観的に認識したものともまた微妙に異なっている。絶対とは信仰という対自的な認識ではなく、即自的に「これが正しい。」と彼等が直観している場合のことである(即自は対自と異なって相対的ではない)。
 だから愛を論じる時、通常他者哲学から考えている時に、親子の事例を出す時、血縁関係は超越的な命題であると規定した次の瞬間、しかし愛の存在は絶対だ、と哲学者が言ったとしよう。その場合それは客観的に血縁関係による愛を例外であり、別個に考えるべきであるとする超越的議論に対する要請とは更に別個の心的要求があると見てよい。それは確信であり、揺るぎない信念であり、その信念に同意しない者にはそれ以上そのテクストを読み進めて貰いたくはないという真意の表明なのである。つまり哲学者の語る絶対という概念は概念ではないのだ。それは彼の全主観を支える揺るぎのない信念の起源なのである。
 しかしそのようにあるテクストに自己の意志を表明するという行為自体は、それ自体がテクスト創造者にとってのプラシーボ効果であると私は言った。つまり書く行為自体が信仰の姿なのだ、と。それは彼等にとって実は心の平衡を保つと同時に意識の冒険でもあるのである。世界全体に対して、あるいは社会全体に対して、「私も賛成したいのですが。」と意思表明することは「ではあなたはどういう形態に対して賛成したいのですか?」という問いを必ず返される。その問いを一身に受け止める覚悟が彼をテクスト記述に向かわせるのだ。それを意識の冒険と言わずして何と言おう。意識を意識として受け止めることをメタ認知と言うが、メタ認知の仕方を通常の仕方とは別個のものとして認識し直すことを意識の冒険であるとしてみよう。すると次第に何か光のようなものが見えてくる。
 それは信念の体系に対してそれが通常は閉じている筈なのに、閉じてはいない、つまりもう一度編み直す必要性に対する覚醒である。それは通常ア・プリオリであると思われていたことがそうではなかったという事実に対して覚醒することでもある。その心的状態が所謂本論で言うところの「賛成したいのですが。」型の言辞を生むのである。「反対します。」とその真意が微妙に異なるということは既に述べた。「反対します。」には説得はない。そこにはあるものは多数決には従うということの表明でしかない。しかし「賛成したいのですが。」型の発言には建設に対する願望の表明と、他者誘導に対する意志が感じられる。
 20世紀の哲学潮流に多大に影響を及ぼしたものに精神分析があることはよく知られたことであろう。その起源を遡ればカント辺りまで遡ることが出来る。カントはパトローギッシュ(病理的)という形容をよく使用している。そして時代がヘーゲルを必要とすると、自我ということの問題が極めてクローズアップされてくる。カントにとって自我とは哲学者のパトスとして超越的であったが、その観念をヘーゲルが客体化したのだ。そしてフロイトが登場し、それ以後の多くの哲学者たちは心理学と精神分析を哲学的概念規定のための資料として盛んに利用するようになる。サルトルはワトソンやジャネについて触れていたし、メルロ・ポンティーもフロイトに関して触れている。ポール・リクールは新行動主義のトールマンについて触れている。彼等に共通して最も大きく取り上げられてきたのがゲシュタルト心理学である。それらは概ね批判対象としてであるが、哲学者たちは通常例えば現代の信原幸弘等を見れば分かるように、私たちが通常抱きがちな心の内容が、脳の作用の写像であると教え諭されても尚、それを信用することが出来ないという心的傾向を超越的な命題であるとする。心脳一致説を早く提唱したウィトゲンシュタインと同世代のファイグルのような存在も、基本的には心‐脳一致を説明するために哲学者の伝統に則っている。そしてこの心の内容が脳作用の写像であるという観念を比較的初期におぼろげながら提出していたのがゲシュタルト心理学であると言ってよいだろう。
 しかし精神分析は脳作用としては前頭葉によって司られている自我を基本的な命題として分析し続けてきた。しかし今日脳科学では感情がそれら一切の底流として作用しているからこそ前頭葉の思考回路が活性化しているのだと考えている。その感情を司るのは古脳と呼ばれる扁桃体を中心とする大脳辺縁系である。精神分析が哲学においては超越的であると考えられてきた自我に対して客体化して分析してきたのは精神分析が元々、臨床医学の一分野である精神病理学とか精神医学を基本として発展してきたからである。精神分析の背景には自然科学の認識がある。そこで今日精神分析と脳神経学や脳生理学が協同して考えるという流れも実現しつつある。これに更に哲学や言語学、心理学、あるいは動物行動学等が合流すれば、あるいは言語の起源も、人間の脳の進化の謎も、人類の社会生活の起源も次第に解明されてゆくことになるかも知れない。
 そこで本章では残りの紙面を主に意識の冒険を自我というレヴェルで考えていってみようと思う。
 自我という概念は心理学や精神分析では最早最も頻繁に登場するものだが、哲学においては有名なところではドイツ観念論哲学のフィヒテが考えた。しかしその後シェリングやヘーゲルによって批判を受け、哲学者毎に異なった考えが持ち出されることとなる。しかし哲学においては倫理への問いということはあまりにも当然過ぎるので、倫理自体とはどういうことかと問うということはしない。もし倫理自体を問うとしたらそれは哲学ではなく、脳科学とか心理学とかになるだろう。だが倫理への問いということは一見容易なようでいて、実は極めて論理的な進め方が困難なのだ。例えば宗教なら愛せよと一言言えばそれでよい。しかしその事実を煎じ詰めると誰かを「愛すること」というのは他の世界中で生活する大勢の人のことを無視すること等しいのではないかということになる。
 また例えば文学賞でもそうだし、ピアノコンクールでもそうなのだが受賞して成功する人がいるということは、その影で数多くの受賞することなく、またそのために世の中に出ることなく終わる人がいるということである。もっと端的に言えば誰かが幸福になるということは誰かが不幸になることだ、と言い切ってもよい。あるいはある国が平和であることは別のどこかの国が平和ではなくなることであるし、また裕福な国があるということは貧困な国があるということなのだ。しかしそれを直接言えば政治的な発言にはなるかも知れないが、心の問題を扱う哲学では、裕福であるとか幸福であるとかいうことは一律にこういう状態であるとは規定し得ないという立脚点にあるので、問うことで誰彼差別するということはない。真に幸福な人も一見幸福な人も、不幸な人も均なみに問う自由がある(自由とはかなりきついことであるとはこのことでも了解され得るだろう)。
 宗教の場合ある一つの真理に対して共感する同一の波長の人々が集まり共感し合うという事態が基本としてある。だからカントという哲学者に惚れた者同士の学会があるとしたらそれも宗教と言ってもよいし、フッサールやウィトゲンシュタインに対して格別の思いを抱いている者同士の集まりは宗教のある宗派の集いと同じである。
 しかし本来哲学とは共感し合うばかりではないし、共感するとは一体どういうことであるかと問うことでもあるので、愛することが愛する必要のない大勢を無視することであるために倫理を問うことそれ自体の仕方が問題に取り組む人々によって多様化し、こういうものが哲学であると一言で言い表せないという事態に特に19世紀後半くらいからなってきた。だから論理実証主義(本当は論理的経験主義と言う)、現象学といった様々なタイプの潮流が登場したが、どこを見れば倫理という観念が論じられているのかと一見すると思われるが、実際は倫理を問うということは倫理を取り巻く世界の状況や世界成立の構造を問うことと等しいために倫理という観念自体は殆ど登場しないということとなるのだ。しかし現象学であれ、論理的経験主義であれ、日常言語学派哲学であれ、分析哲学であれ、言語哲学であれ哲学と名のつくものは全て倫理への問いであることは間違いない。
 例えば戦争という事態を考えてみると、私は勤勉とか禁欲が齎していると考えている。
 禁欲はともかく勤勉という観念はいいことであると特に日本人は思っている。しかし私は今までの人生の大半を何らかの表現をすることに費やしてきた人間なのだが、表現するという行為は勤勉さだけではなし得ないと考えている。それは端的に言えば勤勉さも必要な要素の一つであるが、最も大切な心得とは心の余裕、もっと直接的に言えば遊び心である。
 科学とはそこで示されたデータの正確さと一般化されて応用されることが目的なので、世界中のどこの国のどういう考え方の人間同士でも共通の真理によって結ばれているので、定義付けがきちんと統一されていなくてはならない。しかし昔から偉大な科学者は同時に偉大な哲学者であるか、そうでなければ偉大な哲学的思念の持ち主であった。そして科学者が同時に偉大な宗教家であるということも昔から珍しいことではなかった。
 だから一人の科学者の書く本には科学者としての使命と同時にその人の哲学や宗教観が反映されているということもまた珍しいことではないし、それは哲学者たちが科学や宗教に関して触れているということと何ら変わりない。
 自我を考える時、哲学的にはフィヒテ流とかヘーゲル流とか言えるが、もっと大切なこととは、そのような自分の立場を自分で理解するということと、他者もまたそのようなものを持っていると認識することである。恐らく動物行動学的な見地から言うと、自我もまた進化的な観点での適応ということになるのだろう。茂木健一郎は生物学分野の進化論者たちが利他的行動として位置付けるものの一つ、「人に注意する」という行為が脳科学的に言えば脳内の快楽中枢が活性化していると指摘している(「脳の中の人生」中公ラクレより)が、利他的と利己的ということの境界というものは設定することが不可能なように思われるのは、あのリチャード・ドーキンスの考えが最も端的に表された「利己的遺伝子」を見れば理解出来るだろう。しかし彼はどちらかと言うと適応という生物学的な概念、つまり生存戦略上のメリットを利己的に追い求めることから利他的な行動が定着したと考えている。それは要するに他個体から不意の攻撃を受けたのなら咄嗟の判断でその個体を避けることを躊躇わずに行動選択する身体的、条件反射的な動作や所作を遂行する意志を育む自己防衛と他者との協調の能力を司る脳内活動なのであろう。だから自我を心理学的なパーソナリティーという概念で考えると、あるいは自己の立場を鮮明にすることで社会生活において自己内の本来は無目的な行為や行動をする際の快楽享受を一定の社会的目的に照応させて、行為や行動に一定の意味を自己の側からも他者一般からも理解しやすいように仕向ける当のものとして考えられるかも知れない。
 それは脳内での生活実体の無目的性を目的性(例えば社会に貢献するとか、社会全体の幸福と個人的幸福のためにとかの)へと転換するための意志と呼んでもいいかも知れない。
 だから裏を返せば自我の在り方を変換するということはそれだけで意識の冒険をしようとしていると言っても過言ではないだろう。しかし意識の冒険はそうしていると意識するには危ういものなのだ。つまり意識的に冒険しているということはそうしながら一瞬反省的な意識になった時のみ覚醒することなのだ。だから逆に意識的に冒険しようと思う時、それは功を奏する冒険になるとは限らないのだ。
 自我に戻ろう。何かに関心がある時とか、何かに熱中している時に、そういう自分にふと気付くということがある。そういう時に初めて自我は意識される。それが意識の冒険だったのだ、と気付く自分が自我である。自我には自他の認識を司る作用がある。自己の生存の持続を望む欲望は自我によるものである。
 音楽という行為にはある忘我がある。一如である。またスポーツもそうである。この二つには熱狂的な精神状態へと誘う作用がある。ある意味では戦争もまた極度に遊びのないゆとりのない勤勉さ一本槍が招来するのだ(だが一旦それをし始めると途端に敵を倒す喜びに満たされてしまうそういった麻薬に近いものも戦争にはある)。遊びのない勤勉さは社会全体の利潤だけを追求する。戦争はそういう意識から発生する。ウィリアム・ジェームスは言語を生存と競争の原理を体現したもの、つまり道具と考えた。その意味ではプラグマティズムとは自我の確立過程に存する競争原理に依拠した考え方である。自我の確立過程はそのまま言語行為の進化過程となって立ち現われる。
 何故そのように進化過程において競争原理が示されるのか?それは人間がコンピューターと違って強制されると一挙に嫌気が差す動物だからだ。実は他の動物でも意識的にもし強制されていると考えればその命令を拒否するだろう。しかし幸いなことには彼等にはそのように強制を強制と認識する知性は備わっていなかった。人間はしかし強制されたくはないと同時に自ら進んで自分より強者の軍門に下るような部分もあるのだ。つまり相手からの支配を進んで受け入れ、相手への服従に素直に屈するところさえある。そして強制されたくはないという心理とその服従心は常に共存しているのだ。そしてその二つのいずれかが立ち現われるかということに関しても全く不確実なのだ。しかし更に同時にその不確実だけではなく一生変わらずに持ち続けるような一面も持っているのだ。そしてその不確実と確実の二つの領域は全ての成員において異なった領域なのだ。だから私は人間が人間の力によって人間と同等の能力を有するコンピューターを創造することは不可能なのではないか、と考えている。しかしにもかかわらずそれを挑戦するというところに意識の冒険を気が付かぬ内に実践している人間の実像が垣間見られる。
 意識の冒険を反省的に捉える時、我々は認識上で超越的な視点を要する。つまりメタ認知レヴェルの認識を持つということは、「もう一人の自分」を客観的自分(身体、世界に存在する世界の構成要素としての自分)に対峙させる必要に迫られる。そして我々の祖先は恐らくこの「もう一人の自分」(つまり客観的自分を観察するところの)のことを自我と呼んだのかも知れない。

Thursday, May 17, 2012

〔言語の進化と責任〕第一章 言語活動を成立させる基盤②

 例えば哲学者のダニエル・デネットはリベットの実験以外にも主観的な意志決定の瞬間が、自分であの時だと思うよりも先に脳内では決定されていることの好例としてグレイ・ウォルターの実験について言及している。
 つまり我々がこのデネットの論述から学ばなくてはならないことというのは、我々は我々の脳から決して自由にはなれないということと、自由の領域とは物理的な時間的事実ではなく、我々がそれを決心した瞬間であると脳から言い渡された(この表現が酷く宗教的であると言って気に入らないのなら、脳がそのように我々にある閃きとか考えをセットしてそれ自体を確固たる認識として理解させるように仕向けた<この表現は脳を一個の意志決定のコンピューターとして見做している。>と言ってもよい。)瞬間をこそ自分で決めた瞬間であり、また記憶上ではその瞬間は徐々にずれてゆくこともあり得る、それこそが現在を特殊な位置として認識する脳の、いい意味での自由な解釈を許す生存戦略であると言えるだろう。しかしこのような自由と非自由との認識論的な闘争、我々の思考内部での葛藤は果たして現代に固有の事態であるかと言えば、それはノーである。
 へーゲルの考えでは純粋洞察とは、カントの言う如く悟性に近く(尤も、カント哲学はこと道徳という倫理的主題に関してはへーゲルのような超越的な神の視点を採用してはいない。永井均の主張するように、ソール・クリプキは明らかにデカルト主義的な自己、自我、我の考えを基準に他者性を考える哲学者永井からすれば、超越的視点の採用によって自己哲学を構成していると言える。「私という存在の比類なさ」中、他者より。その点ではクリプキはヘーゲルと同一の志向性を有していると言える。)、それは啓蒙思想の中の合理主義と合致し、明らかに彼の言うもう一つの人間の思惟、つまり信仰と対立する。信仰とは一つの決定である。それは要するに逡巡の撤回であり、迷いの死への誘いである。しかしポール・リクールやそれ以前にもサルトルが主張していたような意味で、迷いとか考えあぐねることというのが可能性の承認であるような意味で奥深いものでありながら、同時にそれをいつまでたっても行動に移さないということにはある種の停滞以外の何物もないと言わねばならない。確かに行動は他のあらゆる可能性の放棄である。しかし行動しないことはもっと多くの可能性の放棄である。事実19世紀以降の多くの哲学では明らかに行動という投企あるいは企投によって問題を(ただ単に社会哲学的視点からではなく)見据えることをモットーとしてきているし、その事実に対して私は歓迎すべきことであると考えるからである。(因みにヘーゲルが言う純粋洞察と真理希求の傾向性<彼は一方でそれを認め、他方でそれを批判しているのだが>とは、彼によれば人間の考える理想的な在り方への便利な接近方法である。これは否定という論理を主張したヘーゲルの「実在は常にある程度理想からは隔たっている<これは平均的な今日の自然科学の認識である。著者注加入>。」が、それを常に否定しながら、それ以上の在り方の可能性を探る人間の傾向性を示したという意味合いでは、サルトルが「存在と無」で考えていた「そうではあらぬかたちでそうであること」という思惟の理想希求型の実存に対する未完了恒常性という観念を誘発したと言えると思う。)
 ともあれヘーゲルはその二つを二項対立的に捉えたのだ。彼は「信仰は偶然を否定しない。」と言った。(「精神現象学」長谷川宏訳、388ページより、作品社刊)しかしそれは偶然というものを今日流に言えばセレンディピティーとか、あるいは古風に言えば啓示(アンリの好む語彙である。)とかお告げであると捉えてのことである。その中でも至上のものとは要するに奇蹟である。しかし同時にもしこの世に生起する全てが偶然であるとするなら、自然科学的な因果論認識の必然的な生起に対する理解と容易に共存し得るのではないか?  ヘーゲルもヘーゲルを分析するアンリもそうだが、悟性とそれを支える理性と信仰を彼等は敢えて極度に分離させてみせる。そして信仰それ自体も決して否定しない。その意味では進化心理学あるいは社会生物学の学者としてその徹底振りで知られるリチャード・ドーキンス、ダニエル・デネットあるいはニコラス・ハンフリーと彼等は対立する位置にいると言える。しかしことはそう単純でもない。
 哲学者の信原幸弘は指摘している(「考える脳、考えない脳」講談社現代文庫)が、我々は因果論的認識つまり合理的思考を常に、そうは割り切れないような思考と共存させてもいるからだ。彼は前者を至上のものとする哲学や脳科学の考え方を古典的計算主義であると言い、後者を含めた脳の傾向の捉え方をコネクショニズムであるとする。そして習慣的行動を誘発する脳の活動はコネクショニズムの考え方を採用すると理解しやすく、それは古典的計算主義では捉えきれない活動をも指示するとする。そして暗算とは視覚的に計算式を書くことを想像することだから、知覚皮質が実際に紙に計算式を書く時のような活動を脳がすることを指摘し、外部環境からの入力を糧に脳内で思考することだから、純粋脳内活動ではないと考えておられる。しかもそれらの脳活動をニューラルネットワークという枠組みで捉えることの方がより有効であり、無意識という意識で解明出来ないことの全てをそこに収めるやり方が既に無効となっていることを主張する。結局氏は結論として心と脳は一致せず、心は脳活動よりも広範であると考えておられる。それは最終章の次の記述によって結論される。
 「(前略)脳と身体と環境はひとつの大きなシステムを形成していると考えることができるでしょう。構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この大きなシステム全体によって産み出されるのです。すなわち、脳の働きが身体を動かし、それによって環境のなかに構文論的構造をもつ表象が作り出され、それを脳が知覚して新たな身体を動かし、等々というふうにして、表象の操作がなされるのです。構文論的構造にもとづく思考は、脳と身体と環境からなる大きなシステムによって、そのサブシステムである環境のなかに産み出されるのです。
 心の動きのなかには、脳の働きのみによって脳の内部に生じるものもありますが、そうではなく脳の働きによって身体をつうじて環境のなかに生じるものもあります。したがって、心の働きのすべてが脳の働きだというわけにはいきません。心は脳を超え出て、身体をつうじて環境にまで及びます。身体や環境がなければ、心は完全な形では成り立ちません。脳と身体と環境からなる大きなシステムが心なのです。  心の動きは、この大きなシステムの脳のところで起こったり、あるいは環境のところで起こったりします。脳のところで起こる心の動きは、構文論的構造をもたない表象の操作としての働きにかぎられます。それにたいして、環境のところでは、構文論的構造をもつ表象の操作としての心の働きも生じます。発話による意識的な思考は、そのような心の働きの代表的なものです。
 心は脳に尽きるものではありません。脳がなければ、心がありえないのはたしかですが、脳だけで、心が成り立つわけではありません。心には、身体と環境も必要です。心は脳と身体と環境からなる一大システムなのです。」(207~208ページより)
 信原氏が自著で指摘されているように、無意識のレヴェルで選択しているようでも、実際にはその脳活動にはそれなりの根拠がニューラルネットワークを通じた神経的記憶に刻み込まれている。してみると「信仰」とは本来古典的計算主義的な論理、つまり論理構造を文章に置換可能な形で考える仕方では収まりきれないと言うことが出来る。それは論理的納得以前の、もっと感得的な理解、あるいは「そうとしか思えない」という信憑性のクオリアに起因するものと考えられる。そういった信念とは幼児期における体験に依拠した感動のクオリアということが根深く作用しているのかも知れない。(有神論者においても無神論者においても変わりなくその体験は刻み込まれている。)体験もまた一個の環境であると考えることが出来るからである。そして体験は身体的な情動をも含むからだ。
 ニコラス・ハンフリーの「喪失と獲得」中の<子供に何を語ればいいのか?>で彼は散々偏った宗教的(キリスト教も含む。)ドグマに対して子供を大人の子供に対する(とりわけ両親の子供に対する)特権的なエゴから子供を守りつつ、合理的科学的認識(彼はそれを自己参加の可能な理想的な選択であると考えている。それに対して宗教的教義は子供の側から自発的に選択するような種類のものではなく、明らかに外部からしかもその子供の属する国家や民族からではなしに、他国のしかも現代のものではない考え方のみ正しいとし、それ以外の全ての選択肢を排除するように仕向けるものであるとしている。要するにそれらは参加型ではないのだ。そしてその中にはキリスト教の聖書原理主義も含まれるのだ。他者からの押し付け型の信念は、決して両親でさえ特権的に行使出来るものではないと彼は考えている。)を自由にしかも子供の内発的要求に従って選択させるような環境を提示すべきであると提唱しながら、最後の最後で「申命記」(旧約聖書中の一つ)の記述を教訓として使用しているのだ。このようなテクスト民族的伝統依拠的な方法論はリチャード・ドーキンスにも見られる。しかしそのような方法的な潔癖さをいつまでも主張していたら、具体的な主張はいつまでたってもなされ得ないとも言えるのだ。我々日本人が哲学を理解する時我々の民族的な理解しやすさから、我々の文化を唯一のものとして理解してはないにしても尚、我々自身の理解しやすさから日本文化に通底するコードを理解促進のために語彙使用するということは間違った手法ではない。要するにそれが行動するということである。
 サルトルはそのことに関して真理への希求が大切であると主張しながらも、こうも言っている。
 「結局すべてを知ることは、何もしないことである(伝説と神話)。それはなぜか。それは全体的知が与えられた知であり、それゆえ、もはや構築の可能性がないからである。」 (「真理と実存」澤田直訳、179~180ページより、人文書院刊)
 つまり可能性の封印とはある意味では可能性の開示でもあるのである。だからこそ必死にハンフリーは子供に対してある種の偏った教義を教え込むことを、そのような選択は最終的には子供本人が自主的に選び取るものであるという観念を教え込むためにだけ例外的に認められするが、それは子供の性格にもよるものだし、決して積極的に彼は推奨してはいないのだ。
 キリスト教文化圏にいて生活しながら、それを文化的基盤としては受容しながらも、同時にその事実を冷徹に見ることというのは、ある意味ではヘーゲルの否定しつつ受容するようなスタンスからしか為し得ないのかも知れない。つまりハンフリーやドーキンスのテクストに見られる一方で宗教的ドグマを批判しつつ、その文化的な方法論を採用することに関しては決してタブーを設けないというスタンスは実はヘーゲルやアンリにも如実に示されているのだ。彼等のテクストに関する叙述に戻るとすると、彼等のテクストでは明らかにキリスト教的な信仰を否定してはいないが、キリスト教の自己犠牲的精神の奨励に関しては痛烈に批判しているのだ。まずヘーゲル、そして続いてアンリの叙述に示された批判をここに引用し、続いて彼等が無条件の信仰の批判を加えつつ、同時にハンフリーやドーキンス、デネットとはまた少々異なった第三の立場を模索していることを示し、再びハンフリーが示したプラシーボ効果というものとどんなに無神論者でさえも共存して生活しているということについて考えてみよう。そしてそれが言語的な進化の上でどのように責任倫理と密接に繋がっているかを次章では考えることにしよう。
 まずヘーゲルの「精神現象学」で示されたキリスト教批判から見てみよう。 「信仰は偶然の知を否定はしない。偶然のできごとと関係するのが信仰というものだし、絶対の神も日常の現実的なイメージの形をとってあらわれてくる。だから、信仰者の意識は、真理とはいえない確信をもつこともあるし、自分がありきたりの意識であって、おのれを確認し確証していく精霊とは離れた位置にあることも隠しはしない。が、絶対神を精神的に直接に知る、という段になると、そのことを忘れてしまっている。一方、そのことを信仰に思い出させる啓蒙思想は、ここでもまた、偶然の知のことだけを考えて、永遠の知のことは忘れてしまう。見知らぬ第三者によって生じる媒介の働きだけを考えて、直接目に見えるものが第三者であり、それを通じてそれとは区別される自己自身との媒介が生じる、という媒介の働きについては考えないのだ。
 最後に啓蒙思想は、信仰者の行為を論評して、快楽や所有を放棄することは正しくなく、目的にかなわないと考える。正しくないと考えるのは、財産を所有し、確保し、そこに満足を見いだす現実を承認するという点で、信仰者の意識と啓蒙思想とは考えが一致しているからである。が、信仰者は財産の所有についてはあくまでそれを守りぬこうとし、快楽についても乱暴にそれに身をまかすのであって、それというのも、所有と快楽を放棄する行為は、この世の現実の彼岸にあって、彼岸での自由を約束するものだからである。自然の欲望や犠牲にするという行為は、彼岸と此岸の対立をふくむがゆえに、真の宗教的行為ではない。犠牲の行為と並んで保有の行為が生じるので、犠牲の行為といっても象徴的な意味合いが濃く、実際に犠牲に供せられるのは所有物のごく一部で、犠牲は実際に思いうかべられたものにすぎないのである。」(同書、長谷川宏訳、388ページより、作品者刊)
 続いてアンリの叙述を引用し、その後で二人に共通したアンチ・キリスト教教義随順主義の見解について考えてみよう。少々長いがお付き合い願いたい。
 「ヘーゲルは、すでにその青年期から、生について、そして生の本質との関係においてキリスト教について、反省をめぐらせている。キリスト教は、ヘーゲルにとってただちに、「生の制限」であるように思われた。<キリスト>は多くのものを放棄する。たとえば個人が自分の生きる社会とのあいだにもつさまざまな関係を、一般的にいえば、生のすべての外在的形式を放棄する。「たくさんの活動的結びつきや生き生きした関係が失われた」。キリスト教を定義づけるもの、それは生の豊かさの対比における、ある種の「貧しさ」であり、この「貧しさ」の本質的性格を了解することが重要である。というのは、あたかも、特定の事物が拒絶されたり禁じられたりする一方で、少なくともそれ以外の事物は許されているかのように、たとえばある道徳的教えとの関連における相対的な貧しさが問題となっているのではないからである。本当のところ、キリスト教はどんなものも存続させはしない。なぜならキリスト教は、ヘーゲルからみると、事物の本質そのものを審問に付すからである。事物の本質、それが<精神>であり、現出しているというその性質における具体的で現実的な存在であり、客観性そのものなのだ。だが客観性は<キリスト>にとって「最大の敵」であった。このために<キリスト>は彼に従う者たちとともに、いっさいの事物を奪われた絶対的な貧窮の内で本質的に貧しくありつづけなければならなかった。たしかに、この貧窮は、弟子たちからみると、見かけ上のことにすぎない。この貧窮がもついわば面は、ある豊かさの世界の方に、つまり内面的であろうと欲しそのようなものとして無限でもあるような豊かさの世界の方に向けられている。<キリスト>が教えているもの、それは心の純粋さであり、内面的で限りのない愛である。だが、これらの語が意味をもっているとするなら、そのような愛に支えとして役立ちそれに実在性を付与することができるのはいかなる本質なのかを、存在論的次元において指示できるのでなければならない。キリスト教が原理上身に捧げている貧窮は、存在論的観点からすれば、否定性という本質から切り離され、唯一具体的である<全体性>から孤立させられるならば、もはや一個の空虚なカテゴリーにすぎなくなり、その意味は失われてしまう。自己自身では一個の抽象物でしかないものを「その絶対性において保持しよう」と欲すること、それは「狂信」に落ち込むことである。キリスト教の宿命は、本質ではないもののうえに自らを根拠づけようとする試みから帰結するのであるが、そこには、真の本質を、すなわち客観性そのものを拒絶しようとする空しい意図が付け加わっている。」(同書下、999~1000ページより)
 アンリはイエスその人を批判しているわけではない。寧ろそのイエスを奉るその後の教義的な教えそのものを批判している。そしてそこで我々が着目しなくてはならないこととは、アンリ自身が熱心なキリスト教徒であった筈であるその内部の側の人間から発せられた発言であるだけに最後の一節は極めて辛辣な、キリスト<教>批判となっているということである。それは内部的事情を知る者のみが遂行し得る勇気ある提言であるということだ。アンリは続ける。  
 「ところでこうした二重の企図の内には、破壊的な矛盾が存している。というのも、本質に対立させられようとしているものは、当の本質の一契機、つまり、当の本質の実体と共にし、実際には同じ存在論的意味をもつ本質の一契機にすぎないのだから。事実、存在がそこにおいて限定態という特徴を伴って自らを現出させることのできるような現象学的地平の開けの内に、客観的な本質が存しているかぎりにおいて、否定性は、この客観的な本質とひとつのものである。否定性とは限定態のカテゴリーなのだ。主観的な本質を欲し、それと同時に、客観的な限定態を拒否する、などということはできない。<絶対者>が自らを主観性たらしめようとすることと、<絶対者>が客観的限定態というかたちで自ら自分自身に現われ出ようと欲することとは、ただひとつの同じ欲すること、つまり、<絶対者>が自分自身にとって現前的であろうと欲することなのである。限定態の拒否はキリスト教をまったく空虚な一種の「無定形さ」(amorphisme)へと引きずり込む。なぜならその信徒は、世界から顔を背けることによって、生の豊かで具体的な諸形式を失ってしまうばかりでなく、実際には、否定性の主観的な本質もまた彼から逃れ去ってしまうからであり、それというのも否定性の主観的な本質は、彼が顔を背けようとしている現実性の構造そのものに属しているからである。そうなると、存続するものは厳密に何ものでもない。すなわちそれは否定性の無でさえもない。キリスト教が新たな王国をそのうえに築こうと試みているこの「何ものでもないもの」について、われわれがともかくも語ることができるのは、実際には、この実存性を表象しているから、つまり、光が支配する原初的な領野へとこの実存性を投影しているからなのだ。しかるに、キリスト教が最終的に到達しようとする想像上の最終項である<天国>は、いっさいの超越的な表象そのものに属している程度の現象学的実在性をもっている。この現象学的実在性を、キリスト教はあきらかに現出の本質に、いいかえれば、客観性の本質に負っているのである。他方、周知のように、キリスト教において神の愛は、何よりもまず現実に与えられた次いで記憶の内に保存された具体的な人物のかたちをとって人間に提示された。キリスト教的実在性は、世界の中に介入することによってしか、自らを現出させることができない。「神的なものが現われるためには、見えない精神が見えるものとひとつに結ばれなければならない」とヘーゲルは言う。神的な存在それ自身は、人間のそばに居ようと欲すると同時に、いっさいの現前の本質を見誤っていることなどできない。諸々の奇跡、預言、秘跡そのもの、あらゆるかたちのもとでの信仰、いたるところで愛と結びつき愛がそれなしにでは生を欠いたものになってしまうような歴史的境位、これらのものがそこ存在するのは、キリスト教は自らが断罪するものなしで済ますことができなかった、と証言するためなのである。」(同書下、1000~1002ページより)  
 「賛成したいのですが。」型発言に見られるような心的状態での言辞とは、実はそれ自体で一つの責任の在り方を巡る論争に一石を投じる。と言うのも本来責任とはその負い方においてより客観的判断よりも主観的判断において重大なものとなるものだからだ。それは罪を犯した者の法的な処遇等を見れば明白であろう。しかし困ったもので人間は不確実な未来の可能性に一か八か賭けてみるという傾向もあるのだ。それをギャンブル的感性と呼ぶこととしよう。つまり主観的な判断、つまり個人的感情による直感で判断した場合に成功した時の報酬に対する欲求による内分泌、言わばドーパミンの放出量は通常よりも絶大であるということも脳科学では知られている。つまり報酬への欲求とは責任の重さ(つまり行為の成果に対する不確実性)に比例して増大するというわけである。この真理は宗教的感情においても変わりない。つまりアンリが真に言いたいこととは、宗教が客観を回避しようと欲するのは教団そのものがその信奉者たち共通の主観(的幻想)がもし功を奏した時の快楽が絶大であるということにおいて成立した集団的ヒステリーの結果である以上必然的であるということなのだ。それは苦しい時の神頼みであることの本質的な空しさに対する自己言及(キリスト教徒自身による告悔)なのである。しかもこのアンリによる欧米人懺悔型のキリスト教批判の背後にはカントが「道徳形而上学原論」において述べた神でさえも誤っている場合にはそれに従う必要なしという人間の神からの独立という観念も控えていると見ることが出来る。   提言的、苦言的言辞である「賛成したいのですが。」型言辞とは実は、四面楚歌状態では極めて反社会的意思表示以外の何物でもないと言えるのだ。それはそう言い放つことで、自分と相同の胸中の者の出現を暗に期待するというかたちをとったプロテストである。そしてアンリがヘーゲルに習って示したこのキリスト教批判は、サルトルが「本質は実存に先立つ」とのたまわった「実存主義とはヒューマニズムである」以来の本質的反逆である。 それは次の一節にもよく示されている。
 「(前略)神的なものが初期キリスト教の共同体に自らを現出させ続けることができたのは、自らの有限な形式を保持するという条件のもとでだけであったのと同様に、ヘーゲル的な<概念>が有限な限定態の定在から身を引くことができるのは、本当のところ、自己への帰還というこの運動が、実際には、自己の外部へと赴き外在性の光の中で自らを自己自身に対して現出させるという作用以外の何ものでもない場合だけなのである。(中略)ヘーゲルが了解しているようなキリスト教の宿命、つまり、客観的限定態なしでは済ますことができないという宿命は、ほかならぬヘーゲル主義の宿命そのもの以外の何ものでもない。」
 ここには明らかにヘーゲルの考えるキリスト教と、実態とはかけ離れているという考えがアンリによって示されている。そしてそこには特に前半部でだが、ヘーゲルに対する楽観主義的な考え方に対する批判が交えられてもいる。端的に言えばヘーゲルの時代には精神とか神経とかの作用それ自体もそうだし、その綜合作用自体に対する認識は科学的にも哲学的にもなされていなかった。しかしその現代へとやがて到達する時代の中でヘーゲルが現出という概念に光を見出していたという事実に対してアンリは敬意を表明してもいるのである。それは「<概念>が有限な限定態の定在から身を引くことができる」という可能性をヘーゲルに見出しているところから了解出来る。
 概念とは本来ある決まった社会でだけ通用するような符号ではない。尤もそのような符号と概念を識別することが可能でない限り逆に概念だと思って符合を使用するとしたら、その成員は単に言語使用に関する規約を知らないというだけのことである。しかし概念もまた人類の曙においてはある集団内だけで流用される符号からスタートしたのだろう。そのことは限定態という概念でしばしばアンリが述べる言述において、特にキリスト教批判の箇所において了解しやすく示されている。彼が言おうとしている限定態とは固定観念に発展しやすいある思い込みとか、確固たる信念を形成する人間の傾向性のことではないだろうか、と私は考える。(賢明なる読者諸氏のご意見を拝聴したい。)
 アンリはヘーゲルが考えただろうキリスト教のあるべき姿に対する着眼に対して敬意を払いつつも、その限界を指摘し、かつキリスト教教団的教義世界の限界も指摘することを通した彼固有の「賛成したいのですが。」型の西欧人による西欧人のための(あるいはそれ以外の文化圏の全ての固有宗教文化保持者のための)哲学を構成しようと目論見たのだろう。そして彼の批判するキリスト教文化圏の最も象徴的な日常的所作とは「神に誓います。」という言辞に見られる無頓着なのである。哲学者は宗教的発言に対しては、幾分形式主義的なニュアンスに関して懐疑的である。もっと直裁な言葉を求めている節があるが、実際言葉が直裁であることはいたく他者を傷つけてしまうということもあるのだ。(第九章あるいは結論において詳しく論じる。)
 「神に誓います。」という言辞には本来、神に逆らわないから、神の思し召しであるのなら、たとえそれが誤った選択であったさえそれに付き従いますという意図の表明なので、その言辞に纏わる責任とは一種の責任転嫁、もっと積極的に批判すれば責任放棄である。人間が内発的に主体的に、自らの意志で動こうとする時、その宣言は従属からの解放を欲求することの意思表示である筈だ。それはある種の言語の進化と言えるのではないか?つまり言語の進化とは統語秩序の完成というような形式的事実以上にある意味では「神に誓いたいのですが。」と言うような自らの主観を信じることから発せられる非従属的な判断の宣言への進化そのものである筈であり、それは形式的には無宗教的色合いを濃くする筈なのだ。それは全ての責任を自己の判断に負い、真実の正義への直観に対する覚醒の宣言なのである。神とはいかようの性質のものであっても、責任転嫁を相互に認可し合う暗黙の同意以外のものではない。 
 日本人は元来無宗教民族と言われる。しかしそういう性質の民族にも無宗教なりの宗教がある。それが世間体であり世間様であり、世間一般の常識であり、有職故実であり、天皇制であり、あるいはそれら全てを巧みに利用するマスメディア(これは新聞、ラジオ。テレビ出現以前から瓦版、その他でずっと日本民族にあったことである。)という得体の知れぬ暗黙の世間的協定である。故にそういうものをも宗教と言うのなら、宗教の責任とは極めて限定された成員間での閉じた村意識の賜物であり、小さな運命共同体意識の発露以外の何物でもない。イエス・キリストが村の鎮守の神様に代わっても、あるいはテレビのニュースに代わってもその正体は実は同一のものである。確かにイエス・キリストは偉大だったのだろうし、神武天皇もそうだった筈だ。そしてそれら一切の宗教的信仰者間のコードはあってよいものであるし、文化的な遺産であろう。しかし同時にそれが現在生きる全ての人の個人的責任と選択的自由を狭めるような性質のものであるのならどのような世界遺産と言えども弊害以外の何物でもなくなるだろう。
 本章の結論めいたことを言わせて頂くと、言語成立の基盤の成否とは意味論的世界としての感情表出という観点に立てば、要するに自己責任の所在に対する不明瞭な明示の仕方から、確固とした明示の仕方まで、つまり「誓います。」型から「賛成したいのですが。」型までの推移(その他の中間例は次章以下で示そう。)に見られる責任の度合いに応じた意思疎通自体の規定の仕方にかかっているということである。
 哲学者の永井均は他者性というものの可能性を「私」以外の全ての他者が意識を持ち、その意識がゾンビではないということを必ずしも立証出来ないという不可避的現実への直視からしか獲得し得ないと考えている。その考え方はディヴッド・チャーマーズも信原幸弘も同一のベクトルで表明している。それは責任というものの在り方そのものに対して我々が「私」というものの構成され方、つまり<私の責任>を意識するのはどんな時か、という問題へと我々を必然的に誘うのである。そこにはある種の運命共同体的な考えが助けになるものと思われる。次章ではそういった観点から考えてみたい。