Friday, October 23, 2009

〔責任論〕第六章 説明の条件、理解度ということ①

 他者の存在は自己を規定するような強制力を持っている。ティム・バークヘッド(行動進化学者)は、ゲオフ・パーカーとロバート・トリヴァースの性に対する考え方を継承してそれが葛藤であり、対話とか融和とか生易しいものではないということを述べている。寧ろ宥和こそその性的な関係の本質に近いというわけだ。(「乱交の生物学」新思索社刊より)
 だがそれは脅威としてばかりではない。自己の内部の知られざる一面を他者に共有させたい欲求を解消するための手段としても他者は有用なものとして自己に立ち現れる。だから他者が、配偶者とか同僚とかそれ以外の友として立ち現れる時、自己によって得られた真理を、あるいはその素晴らしさ、あるいは自己が納得し得る領域の意味を分かち合う可能性に賭けるということは自然なことである。勿論その自分が得た真理は思い違いである場合もあるだろう。しかしそれでも尚自己によって得られた発見を他者に披露することで、真理であるかどうかを査定することには意味がある。そして真理を他者に説得するには個的な経験の記憶やら個人的な思いを超えてある普遍的なレヴェルにまで自己が得た感動を昇華させる必要があり、そのような普遍的な真理として説明する能力は、他者に対して自己の発見の喜びを分かち合って貰いたいという意欲に応じて進化する可能性がある。つまり説明することは自己によって得られた発見を真理であると確信するプロセスと同時的であり、その真理性への可能性の発見が説明を説得力あるものにすることは間違いない。
 そして自分の中でだけ理解し得たある種のもやもやは、他者に説明した時、どのように解説したら他者は理解しやすいかという他者の立場を忖度するような配慮が要求されるだろう。それは他者の気持ちになって、自己の現在を他者の現在に置き換えて考えるということから始まる。前章での集団の首領同士の発案もまた、首領自身の決裁に全ての彼等につき従う成員の命運がかかっているのだが、どの首領もまた他の首領の立場に自分を置き換えて他者の心理を読み取るだろう。例えば友人との間では紳士的であっても、それ以外の他者に対して攻撃的であるなら、その成員はどこかで社会的には見放されてゆくだろう。だから全ての親類の成員は親しい者とそうではない者とを等価に見ることから、例えばゴミを捨てる場所を常にきちんと考え、ここにゴミを置きっ放しにしたら、この場所を通る、あるいはこの場所の近くの住民は迷惑するだろうという想像を働かすことで、そのような行為を慎むようにする、というようなことは要するに他者一般、他者全般を常に配慮に入れた公衆道徳であり、それこそが良心の起源であり、社会全体における自己の責任の意志ということになる。そしてそれは仮に親しい者同士であっても尚、その者の発する言辞が陳述内容の真理性(命題的な、つまり内容的な説得力)よりも、友愛的な接触を示すことの方に重点が置かれているにせよ、やはり発話内容の持つ真理性という説得力は説明の条件としては不可欠である。それがなければ「あの人はいい人なんだけれど、言うことは非論理的で説得力がないね。」という定評となるのだ。それは説明責任ということの第一義として考えることが可能である。
 要するに個人の思わぬ発見というセレンディピティーは個的で個人的であるが、その喜び、その発見の意義を他者に説明するのには、普遍的な真理へと命題内容を志向させることが要求される。その配慮こそが説明責任であると言えるだろう。自己にとって理解しやすいことを他者にも同様に理解しやすいように配慮することは、即ち理解しやすさという基準を自己のレヴェルから他者一般のレヴェルへと敷衍する必要があるのだ。だからもし仮に同僚であれ、配偶者であれ、地域住民同士であれ、その関係というものが激しい主客の応報であるような、つまり葛藤であり、融和というような生易しいものでないなら、寧ろ尚更説明の理解度の調節という行為は意味を生じると言っても過言ではない。だから理解とか理解させるように持っていく説明責任というものの発祥は寧ろ敵対する間柄でこそ進化したと考えることは理に適っている。寧ろ理解し合える間柄ではことほどさようには理解度の調節ということは必要ないとも言えるからだ。
 法哲学者の大屋雄裕は「ドゥウォーキンは芸術的意図について、それは複雑で構造化されているものであり、そして我々の解釈はその抽象的な目的を捉えるものでなくてはならないとしている。「シャイロックという人物についてシェイクスピア自身が抱いていた、より具体的な特定の見解だけに忠実に従い、人物の性格についてシェイクスピアが有していた観方が現代の聴衆に対して与える効果を無視することは、作者のより抽象的な芸術目的に対する裏切り行為とも言えるのである。」(中略、ドゥウォーキンのテクストの出自)。だがではここでいう「作者のより抽象的な芸術的目的」とは何なのか。単にそれは、対象を良いものにしようというほとんど無内容の概念ではないのか。だとすれば、それは「何が善であるか」という解釈主体の善の構想によって補充されざるを得ない。」(「法解釈の言語哲学」53ページより)」と述べているが、その主張はある意味ではある対象を陳述内容として選択した時点で、その対象に対する賛美であれ、批判であれ、それを選択した者がその対象に対してある関心を抱いていることの表明なのだから、その対象に対して一切触れもせず、何の関心も抱かないで、その無関心はだから当然のことながら話題にも上ることなどないであろうが、そういう事態に比べれば明らかに話題にすること自体その対象を話題構成上の必要不可欠要素として是認しているのだから、我々はその対象をよりよく利用しようとしているということになる。そしてシェイクスピアの言辞の引用は、誠に正鵠を得ている。シェイクスピアがハムレットやオフィーリア、ホーレイシオを登場させた時、彼の脳裏には誰か具体的なモデルがいたかも知れない。しかし彼内部でのその真実を突き止めたからと言って、彼等登場人物のドラマ上での抽象的役割とか象徴的な意味合いそのものはいささかの変更を齎されるものではないし、また作者であるシェイクスピア自身も決してそれを望みもしないであろう。つまり私たちは彼の戯曲で示された如何なる登場人物も私たち各個人なりの解釈を許容しこそすれ、限定するものではない。本来テクストとはそのようなものとして我々に公共的な意味合いで差し出されているものであり、またそういうものであるべきなのである。またそのことに非自覚的であるなら、それはテクスト創造者であるとは言えないだろう。しかも彼は作者の創造意図を良心が支えると主張する。
 するとテクストの意味そのものも解釈の数だけ存在する(そのことは大屋雄裕も先述の同書内にて述べている。)ということになるし、またそれでよいのだ。これは話者が聴者にある自己の発見したことの喜びと、その発見に内在する真理を説明することで、理解度を調節し、他者に自己内の私的な事柄を真理として共有させたいと願うこととも相通じることなのだ。よって一つここで定義しておいてもいいだろう。それは理解するとは個人毎に仕方は異なるが、理解され得る対象としての発見事実というものは説明されることによって普遍化された事例となるから、その時点で発見者独自の所有という観念から開放され広く公共的な意味合いを付与される。だからその発見者の発見に纏わるどのような事情や、その発見に纏わる発見者のどのような感慨とも無縁に発見事実の持つ普遍性は独立して存在し得る、ということである。故に説明された事項というものは、説明へと至る説明者の個的事情とは無縁に価値論的にそのものとして存在し得るし、認識し得るのだ。このことを脳科学者の茂木健一郎は「「脳」整理法」その他の著作で、自然科学のディタッチメントとして大きく取り上げているが、実は説明というようなニュアンスともまた異なる芸術にも同様の、描写的、表現的説明という普遍的なメカニズムが内在しているのであり、それは自然科学の陳述内容と同様に認識することが許されている、ということである。それは法体系とか言語にも適用し得る真理なのかも知れない。
 大屋は法学者のフィッシュを大きく取り上げ、テクストそれ自体に意味が固定化された価値として存在しているのではなく、意味とは寧ろ我々がテクストの存在自体に付与しているのだという考えを主張するため次のように言っている。
「フィッシュによれば意味はテクストそれ自体の性質や属性といった「所有物」(property)ではなく、むしろそのテクストが位置する文脈のものとして理解されなくてはならない。テクストそれ自体が意味を持つわけではないので、「複数の意味を持つテクスト」というものも想定され得ない。その一方、意味を供給するのがあくまで解釈戦略であることから、例えば「憲法の意味が尽きることはない、何故ならそれは意味の貯蔵庫ではないからである。むしろ意味は常に(.....)政治的。制度的な力によってそれに付与されているのだ」(後略、フィッシュの出自)。法の欠缺は、ドゥウォーキン同様フィッシュにおいても認められないだろう。」
 最後に大屋が述べる一節は法哲学者としての彼の立場上重要であろう。しかしだからこそ法は常にその不備を指摘しつつ、改変されてゆくことが望ましいということが言えるだろう。しかしそれ以上にここに重要なのは、テクストの存在理由を文脈的な解釈のためであるとしていることと、テクストそれ自体が解釈の数だけの意味を持っているのではなく、テクストを読む者の解釈の数だけテクストに対する意味が存在し、それを私たちが認め合っているということにこそ真理があるのであり、それはテクスト真理の相対論ではないということである。寧ろ意味付与と意味そのものの文脈的位置づけの相対論であると言った方がよいのだ。
 ここでテクスト創造者(それが個人であれ集団であれ)とその受け手との関係を整理しておこう。テクスト創造者にとってテクストを世に問うことは彼による何らかの発見的事実の披露である。そしてそれを自己流の感動のレヴェルから他者一般、他者全般にとっての理解度に合わせて公表するのだ。その際に彼にとって「見出される意味」とはテクスト堤示行為そのものである。彼にとってはそれを世に問うことには意味がある。しかしそれを受け取る読者にとってはその提示された状況、あるいは事態といったものはあくまで「引用された意味」である。だがそれを読み自らそこに内的なレヴェルであれ真理を付与し、意味付けることによって彼は「見出された意味」を発見するだろう。
 テクスト創造者にとってはある想定された読者層という観念があるのだろう。その読者層の認識力を想定して理解度を調節している。それは大衆的な読み物であれ、専門家内部での論文であれ変わりない。しかし一旦差し出された以上誰がそのテクストを読むことも自由である。少なくとも丸秘の資料とか機密文書でない限り。
 だが法律の文章はそれを享受する側と作成する側が分離してはいない。勿論法律は市民、国民から選ばれた代表者たちの専門的見識によって作成されているのだが、そのプロセスは民主主義的な手続きを踏襲している。だから送り手と受け手が一致していることこそそこに明文化された法執行の観点からも、法厳守の観点からも理想であることは言うまでもないだろう。勿論常にそういった理想とのギャップこそが政治を我々が要求する根拠ともなっているのだが。(定義しておこう。テクスト創造者にとってはテクスト自体が責任なのだ。)

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