Thursday, December 3, 2009

〔言語の進化と責任〕第一章 言語活動を成立させる基盤①

動物の世界においてはある意思表示があり、その意思表示が自分の知らない成員であることを承知で、その意志を受け取るという事実がない。例えば本を読む時、我々はその著者と面識のない方が普通である。そういう意味では動物同士の意思表示、コミュニケーションは完全に先述したように危機的状況以外では現前する同一種個体、つまり同一環境内における成員同士に限られる。
 その事実をまず踏まえて考えていってみよう。しかしいきなり言語行為の発生に行くのではなしに、前言語状態というものを考えてみよう。そしてその際に重要となってくるのが感情という事態である。 
 通常哲学において感情を身体と心のデカルト的人間論から解放したとされる潮流として現象学が考えられる。しかしそれ以前にウィリアム・ジェームスが精神と肉体の不可分性について触れていた。彼は心理学者でもあった故に精神医学にも関心があったので、そういう一元論的な認識に辿り着きやすかったと言える。
 ジェームスの文章的癖として「それは程度の問題である。」というのがあるが、これなどは明らかに西田幾多郎に影響を与えている。デカルト的二元論の克服意図がこのような物言いを可能にした、と言うことが出来る。しかしやはり体系的に感情というものを位置付けたという意味では現象学が最も貢献したと言えるだろう。その意味では現象学には当初から精神医学や生理学と同列の性質が備わっていた。
 それともう一つ重要な事実とは、現象学においてはあまり表象という考え方が重要視されていないということである。フッサールも初期(「論理学研究」期)はこの語彙を積極的に使用していた。しかし少なくとも「イデーン」期には殆どこの語彙は使用されていない。その考えはハイデッガーと彼の影響を大きく受けたミシェル・アンリに特に引き継がれている。
 その事実に対する言及に入る前にまずそもそも表象とは何なのかということについて考えてみよう。表象はコンディヤックという十八世紀のフランス哲学者も積極的に使用していたし、それ以前にも遡る。しかし哲学史自体に深く入ることは本論では差し控えたいので、取り敢えず表象を一般的な使用され方から考えてみよう。
 表象とはある事物、事象、概念に対する脳内での理解である。そしてそれは現前するものに対しても、不在のものに対しても等価に得られる脳内の理解である。しかし現象学においては基本的に感情というものと表象というものが切り離されて考えられてきたことに対するアンチ・テーゼが横たわっているのである。故に表象という考え方にある種の抵抗を彼等は持っていたのだ。表象とは端的に言えば認識領域の主導による考え方である。
 脳科学者の茂木健一郎氏は「脳と創造性」において感情というものは認識と対立するものなのではなくそれを支えるものであると現代の脳科学では理解されてきていると述べているのだが、実際現象学は早くからそのことを考えていた。端的に言えば表象とは常に感情を伴っているのだ。ただそれは激烈な感情ではないというだけのことである。そして表象を主観から出来るだけ切り離して考える時、概念というものが派生する。このことは市川浩氏も触れている。(「現代哲学辞典」より)すると表象とは自己内で感じる客観ということになる。そして意味とはこの一連の作用全体を指すと言ってよいだろう。つまり意味とは概念とか表象の一切を含む綜合的な感情であると言ってよい。綜合的認識であるからにはそれは反省的意識によって生じるものである筈だ。
 しかし何故現象学の哲学者に表象を概念的な使用として避けようという考えがあったのだろうか?それは認識が感情を産むという考えを否定したいがためだったのである。そしてその主張は長く西欧では感情を理性で制御すべしという観念がキリスト教的に根付いていたという事実を我々に知らせる。しかし現象学ではまず基本的に感情というものが底流として存在し、然る後に認識とか判断が成立すると考えている。そしてその考え方は現代の脳科学の基本的理念と合致するものである。
 ミシェル・アンリは代表作「現出の本質」で、極めてハイデッガー的な解釈を多く使用しているが、それ以外に彼独自の基本的な理念として感情以外に、情感(性)、感覚、感性を区別して使用している。感情は綜合的あるいは統合的な理念であり、それ以前にまず基本として情感というものがあり、これは簡単に捉えれば、現代脳科学の旗手の一人であるアントニオ・R・ダマシオの考える情動に近い。これは要するに身体的な反応や感覚全てを含むものである。それは要するに生きている実感、それは身体と精神の一体化した実存的感受である。我々が意識を持つことの前提条件である。しかしアンリが言う感性とは原初的な身体感覚のことではなく、知覚や痛みといった感覚的授受の自然傾向性のことなのだ。あるいは感覚それ自体の認識、つまり個人的な実存のことである。感覚とは彼にとっては情動的な知覚を含む瞬時の作用によって得られるものである。そして感性とは感覚の記憶化(身体的な記憶。しかしこれは三木成夫流の生命記憶とは違う。)によって得られるものである。要するに日常において我々の内部で「またあの感じか。」というように一般化されたものを彼は感覚と呼んでいる。
 ところでハイデッガーは存在と存在者とを区分して論説し、その二つを結び付けるものとして現存在という認識を措定した。アンリはしかしそしてそのことの重要性を主張するためにもう一人の巨人であるシェーラーを、超越と啓示を区分しきれず、混同したとして批判している。そして現象学全般に言えることとは、カントの哲学を敢えて表象内容に対する理解とすることによって乗り越えようとしているのだ。サルトルはそういった現象学の理念を基本として持ちながら、同時により社会状況というものの中にそれらの理念を位置付けようとした。
 アンリとエマニュエル・レヴィナス(仏哲学者)に共通することとは、ハイデッガーの現存在の理念をよりハイデッガー的な示唆のレヴェルから一歩前進させ、様相的な理解にまで至らしめようとしたというところにある。そしてアンリ哲学に最も重要な指針として情感が挙げられるのは何故か?それは彼にとっては身体的実存であり、同時に感覚や感性を作用させる場としても捉えられていて、その事実が彼の考える現象学に相応しいからなのだ。そしてシェーラーがなし得なかったとアンリが捉える区別とは超越と啓示能力のことなのだが、その際彼は啓示というものをある種の閃きとして捉えているようだ。これは現代脳科学ではセレンディピティーと言われている。つまり偶然の発見のことである。この観点はサルトルには希薄なことである。サルトルはある状況の中で他者の気配を感じ取るということにおいて、より知覚行為の実像を捉えているため、アンリのような閃き、つまりそれ自体が認識に応用出来るようなものとして考えられてはいないのだ。そこにある種のニヒリズムがサルトルには感じられる。つまり「生とは無益な受難」であるとする(「存在と無」より)サルトルにおいては、生そのものが「そうではあらぬものとしてそうである」ようなものなのだから、死の瞬間まで常に未完了態そのものなのだから(実はここら辺では戦後アメリカ哲学の旗手であるソール・アーロン・クリプキとも共通する哲学スタンスである。)死が全てを完成させる(ここら辺りは寺山修司的でもあるのだけれど、尤も寺山は「人間は不完全な死体として生まれ死んで完全な死体となるのだ。」と言っているためにより肉体的なフェティッシュを強調しているのだが。)、つまり真に反省を必要とする事態とは死だけであると「存在と無」では主張している。しかしその時反省し得るのは死んだ当人ではない。そこにサルトルの存在論的投企をモットーとする独自の認識に対するニヒリズムがある。では一体反省するのは誰なのか?それは他者である。ここからレヴィナスの哲学は出発する。
 アンリに戻ろう。彼は「感情に働きかけることの原理的不可能性」と言っている(同書、924ページより)が、この定義は重要である。つまり感情とはそこから認識や判断、つまり意志や行動が司られているのだから必然的に感情自体へ我々が働きかけることとは背理であることになる。我々は一見自己の感情に働きかけているように見えるのはあくまで過去の自分に対してである。今現在過去の自分の意志や行動を司る感情を客観的に見つめることは可能だが、今現在の感情を客観視することは不可能である。
 この考え方はマッハ以降の相対論と共通するものを持っている。我々がマイクロスコピックな(顕微鏡でしか確認出来ない世界での)物質を観察する時、注意しなくてはならないこととは、自分がその観察対象を観察する身体的な位置とか相対的な位置である。しかしもし宇宙全体というような広大無縁な領域に対して観察しようと試みるのなら、そのような微視的な位置といったものは意味をなさなくなる。そのことは生理学者のジェラルド・エーデルマンも「脳から心へ」で指摘している。要するにアンリの言う感情に働きかける不可能性とは客観的対自ということの不可能性のことであり、マイクロスコピックな物質を観察する我々の立ち位置というものの絶対的不動性の不可能性を主張することと相同の主張メカニズムがあると思われる。
 そしてそのことは記憶作用の七つのエラーを指摘しているダニエル・シャクター(米心理学者)の記憶の不確実性とも関係してくるのだ。自分では正しいと思っている記憶内容とは様々な外的な要因によってエラーを生じさせる。期せずしてシャクターは記憶について考えてきた哲学者の思念と殆ど等しいような事実を指摘している。その一つは現在の自分に当て嵌めて過去の自分を理解しようとするということである。人間は考え方や感じ方の全てを過去から現在に至るまでに変遷させてきている。しかし現在というものを常に中心に位置する意識とは過去と今では変わってしまった自分の考えをも、「あの頃から本当は今のような考え方であった。」と歪曲して捉え、事実その記憶内容まで過去を現在の自分に都合のよい形で変形させてしまうのだ。つまりそのような変形を非意図的に遂行してしまう人間の脳の判断こそがアンリをして情感、感覚、感性、感情(感情は前者全ての統合されてある今の状態である。そして情感が非意図的であり、不随意的なものをも含むのに対して、今の感情とは常に意識的であり、覚醒的であり、自覚的である。)と幾つもに区別することを強いたものなのである。しかしアンリのこの厳密に区別しているようでいて彼自身が懊悩するかの如く超越と啓示を別物として認識させるものとは、端的に言えばデネットが必死に考えた記憶の先後関係の曖昧さ、シャクターが考えた記憶のエラーシステムそのものなのだ。
 感性は感覚の統合により事後的に認識されるカテゴリーであるが、同時にそれはその感性を基準に感覚を授受するように我々を仕向ける。何らかの感覚とか触覚を嫌うというような拒否反応もそのことを表している。つまりある現出によってそれを統合したり、陶冶したりする時、その成果としての現出が過去の感覚的現出を覆い尽くしてしまい果てはそれが原因のように覚知されることそれ自体が哲学者を翻弄し続けてきているとも言えるのだ。しかしその時認識的な様相の区別を無効にするものこそ行動である。
 行動はフランス哲学者のポール・リクールによれば可能性の断念、ためらいの払拭以外の何物でもないのだ。あらゆる可能性を無効にして可能性認識を破壊することこそ何らかの行動の選択である。その行動選択として自己内の思念を語ることをテレンス・W・ディーコン(言語学者、心理学者)はただ単なる情動の表示とレファレンスとに区別している。そして後者こそが人間固有のコミュニケーションの起原であると考えている。
 レファレンスの獲得とはしかし実は他の動物であるなら必要のない行為を敢えて生活上の必須として獲得したわけだから心理学者のニコラス・ハンフリー的に捉えれば、明らかに何らかの能力の喪失(彼はその中でもとりわけ記憶力と考えている。(「獲得と喪失」紀伊国屋書店刊)によって喚起された獲得であるということになる。
 人間がもし個体毎に判断して全ての行動を採ることを本論として生活する他種動物とは異なるレファレンスをモットーとして意思表示をすること(それはハンフリーが主張する抽象的思考能力と相同のものである。)でその逐一の忘却的な傾向を克服しようとしたのなら、我々は何かを最低限伝達することで、つまりそれだけは忘れずにいることで、他の一切は忘却してもよいという規約を得た人類が、その伝達という責任を設定することで、逆に内的な自由を個人毎に保障するような考えに無意識の内に赴いたのではないかというのが本論の仮説である。それはある意味では人類のサヴァイヴァルを賭けた選択だったのではないだろうか?
 ところでアンリは行動や志向性を目的論的に捉える我々の無為無策を告発しながら、ある意味では選択された行動を採ることにおいて我々を誘引する根拠の前では無力であると捉えている。価値と現実世界における相互依存を唱えているのがリチャード・ローティーであるが、それが正しいとすると、実際アンリが言う根拠は脳内血流の検査からは立証されえ得ない(脳科学者マイケル・ガザニガが「脳の中の倫理」で述べている。)責任同様幻想的認識であるだろうが、それと行動にはある相互依存性が介在しているということになる。そしてアンリの言う根拠は別の角度から言えば情感そのものである。そして感情が行動を生むのであり、行動や志向性によって感情を左右することは出来ないと彼は考える。しかしだからこそ責任が我々には共同幻想の如く課せられるのだ。
 感情をコントロールする当のものさえも感情以外のものではない。つまり感情を何とかするという考え自体が感情から我々は自由ではないということを指し示すのだ。例えば感情によって記憶はエラーを起こすし、記憶の不確かさこそが感情を左右する。それは現在の唯一的意識こそが至上の命令者であることから発するのだ。我々は感情から自由ではないという事態において初めて記憶からも自由ではないと言い得るのだ。
 しかし一方自由ではないという観念はニヒリズムを生む。我々の祖先は感情と記憶から自由ではないという事態を薄々知っていたのだ。(認識論的にではなく、直感的に。)そこで記録という観念を発生させる、あるいはそういう観念を発生させながら記録していった。そして記録行為それ自体の公共性の確保という意識が我々に責任を発生させたのだ。
 記録行為が文字であった時代には既に言語は獲得されていた。しかし記録が無意識的な行為にせよ、何らかの目的的行為であったにせよ、絵であった内は前言語状態と言ってもよい状態であったかも知れないので、記録を記録として認識していたかどうかは怪しい。しかし少なくとも絵を描く行為が心に見える姿というレファレンスを他者に告げ知らせることであるという認識は描かれた絵を見た成員によって得られていたであろう。絵の制作者は必然的に自分の目撃したシーンの説明を求められていっただろう。その時言語行為、意志伝達行為の萌芽が認められたのではないだろうか?
 勿論それ以前から我々の祖先は発声的行為をしていたろう。しかし説明がそこでなされていたわけではないのだろう。しかし絵の作者は絵を説明する必要性が絵を見た成員の要望によって発生した。そこで説明するという責任において統語的秩序が要請された、と考えると全ての辻褄が合うのだ。
 言語的認識は一般化された概念に対する理解と言ってよい。それはこういうことである。テレンス・W・ディーコンも指摘しているが、彼の例に倣えばスカンクを知っている者(それは人間でも犬でもよい。)がスカンクの匂いを嗅ぐという事態は、その匂いがスカンクであるということを知らない、つまり初めてその匂いを嗅いだ者とは異なった反応になるだろう。つまりスカンクの固有の匂いを経験して然る後、その匂いは他の多くの匂いと対比せられるカテゴリー的ディレクトリにストックする場合、その匂いを再び嗅いだ時に、以前の記憶を想起させるから、その匂いが初めての時より嫌悪感というものは倍増されている。例えば次のような例を考えてみよう。ある時あなたが街角を歩いている時いきなり暴漢に襲われ、足をカッターナイフで切られたとしよう。切られたという事実をあなたは咄嗟に判断し、周囲に誰も救助を求めるべき人が見当たらないので、全速力で逃げるとしよう。その時あなたは足が切られたことに対する痛みよりも、咄嗟の緊急事態に対処し、生存を確保することの本能的な行動へと向けられる意識が強烈で、逃亡している時には然程痛みという感覚には鋭敏ではないだろう。しかし思い切り走って後ろに暴漢が追手として確認出来ないほど引き離した時、我に返って自分の切られた足を見ると血が滲んでいる。その時初めてあなたは逃げている時には感じなかった痛みを痛烈に味わうこととなる。この時あなたは要するに過去に何らかの怪我をして血が出た時のことなどを想起せざるを得ない。その想起が痛みの感覚をよりクローズアップさせることとなるのだ。つまり経験的な痛みのカテゴリーがあるからこそ、想起によってその時の痛みの記憶を喚起し、よりそれを不快と感じるわけである。
 言語はある意味ではその痛みの記憶の想起による喚起、痛み全般に対する綜合的な認識を生じさせるような想像力によってより自覚的となることに助力する。記憶内容に検索項目を設けているような言語的認識が、実際の身体的な記憶を喚起することに助力するのだ。
 それは情動を感情へと転化させることと相同である。情動は不随意な身体的な反応であるが、それを「あっ、あの時の痛みだ。」とラヴェルを張り、より感覚的に意識させるものこそ身体的な痛みの記憶であり、それは言語的な検索項目として「針に刺さったような痛み」とか、「皮が擦り剥けた時の痛み」というような痛みの種類の分類を可能にして記憶させやすくするあなたの脳の作用なのである。
 しかし言語の認識はそのうような具体的な知覚体験に根差した事実に対するレファレンス以外の多くの、つまりそのような具体性の欠如してはいるが、意志伝達の際により理解しやすい語彙間の連鎖というものもある。それは同じ言語のレファレンスであっても、より抽象化された相互了解事項であると言ってよいだろう。
 しかしそのことと、人類の言語獲得の発生論的な意味での言語の役割としてそれが極初期に既に用意されていたかということになると、実は極めて謎が多いとしか言いようがないのだ。その具体的な知覚体験に根差した心像という事実と、そのような具体性の欠如した意志伝達行為それ自体を支える抽象的な心像の差を、発生論的に少し考えていってみよう。
 人間社会が単独の行動者から社会的行動者へと移行する過程というものを考えてみると、恐らくそこには単独の個体の利害を巡る攻撃と防御から、徐々に数個体同士の利害の対立へと移行するという様子が垣間見られるに違いない。それは要するに攻撃と防御から競争意識の共有という事態への移行であろう。勿論その数個体同士の集団は他の集団を攻撃する。そしてその敵対する集団も同様である。しかしその数個体内での人間関係は統率者を決定することを巡っての競争があるだろう。ただ単なる協力体制だけではない筈だ。その集団内でチームリーダーを決定するための競争ではウィナーテークスオール式の報奨(例えば負けた者の配偶者を横取りするとかの)もあったかも知れない。そしてリーダーが決定した集団は他の集団と争いを持ったであろう。その争いが狩猟の縄張りを巡るものなのか、採集生活の拠点を巡るものなのかは様々であっただろう。そして最初の内は勝った集団は負けた集団成員全員を殺したりしていただろうが、じきにその負けたチームにも頭のよい者がいて、それを捕虜として徴用することもあるようになっただろう。
 世界の学問を見渡してみると、多くの意見の対立、学派の争いがある。もしどの学者からも一定の評価を得、敵が一人もいないような学者がいるとしたら、その学者は一流ではない。一流というレヴェルがどの辺にあるかはともかく少なくとも歴史に残るような学者ではないことだけは確かだ。デュルケム対タルド、サピア対イエスペルセン、クワイン対ストローソン、ドーキンス対グールド、クリプキ対マッギンという風に昔から学者間の論争はずっと続いてきた。そのような意味で人間社会の曙からそのような争いはずっと続いてきただろう。例えば勝った集団は負けた集団の成員を全員殺していた頃は、ある意味ではリスクも大きかっただろう。と言うのも常に勝った集団だけで争うのなら人員にも限りがあるし、疲労もする。そこで負けた集団の中の威勢のよい部下を捕虜として利用することで戦争に費やされる労働力は軽減されたという経験を持ってからは、集団間の争いでは負けた側は少なくとも首領だけは殺されただろうが、部下たちは威勢のいい者から勝った集団の戦争要員として利用されて、その中でも秀でた者は重用されたであろう。二つの集団内での勝敗は首領が殺されるという事態が相互にない限り、残った成員の数に応じて戦う意欲に差が出て、結局最後まで戦い続ける意志と意欲から自然に決定していったのだろう。
 学者の世界で競争があるということは逆に言えば、どの競争者もライヴァルを必要としているということである。それと全く同じ心理的なメカニズムが人類の曙でもあったとすれば、同一集団内でのライヴァル意識から、次第に他集団をも含めた広い領域内でのライヴァル意識が生じていったということも考えられる。例えば捕虜にした者でも働き次第では元々その集団に属していた者以上に出世する道が開けていくに連れて、今の野球の世界のように他チームからの移籍というような事態と相同の人員交換のようなこともあったかも知れない。そして最初他の集団を皆殺しにすることが勝者側の当然の仕事であった時期から次第に勝敗を建前的なものにして戦争責任者以外は全て優劣で別集団へのトレードが可能になってゆくに連れて言語的な秩序も徐々に複雑化していったということは考えられる。そのことを最も原始的な状態からかなり複雑化していった社会の変遷と共に考察していってみよう。
 
 まず我々が考えなくてはならないこととは、当初攻撃することで自集団の領域拡大だけを狙っていた集団が、敵側の成員を生かして利用することを思いついた時、色々なパターンが可能性としては考えられるということである。例えば先述のように敵側の首領のみ敗戦集団側の戦争責任として処刑され、その他の部下たちは捕虜として利用されるということがもし最初に常習化したら、逆に敵側の首領が有能であるということに着眼し、部下たち全員は処刑するが、首領だけを捕虜として利用するという考えがあるいはメリタブルに作用したかも知れない。そしてその遣り方が徐々に拡張されていくと、今度は常套的な方法、つまり敵側首領のみを処刑し、他の成員は捕虜として活用するという遣り方が再びメリタブルに作用するようになるだろう。これは行動生物学においてとみに主張されてきていることである。そのことの証明になるかどうかは分からないが「古代ユダヤ教」においてマックス・ヴェーバーは次のように記している。
「(前略)軍隊の神聖化の手段とならんで、聖戦において、掠奪品に関する儀礼的タブーがあらわれた。その分捕品を連合戦争に対して聖別すること、すなわちへーレムがそれである。このへーレムは、一つの平和にされた宗派的教団へと移り変わった捕囚後の時代には、教団の団体員が厳正に生活しないばあい、これを破門することを存続した。私的なタブー化のいろいろな名残りはイスラエルにおいても発見されるようにおもわれる。ところが生きた分捕物もしくは死んだ分捕物の全部あるいは一部を神に対してタブーとなし犠牲となすことは、すこぶる普遍的に普及していたし、ことにエジプトにおいて知られていた。げんにエジプトでは王が儀礼的義務によって捕虜を惨殺したのである。敵はエジプトでもイスラエルでも神なきものとみなされた。つまり例えば騎士的感情については、エジプトでもイスラエルでもその痕跡はぜんぜん発見されないのである。へーレムは戦時には相当いろいろのことをすることができた。そしていずれにせよ分捕物分配に関する通常のやり方から知りうることは、分捕物_男、女、子供、家畜、家屋、家具_の全部が通常タブー化されたわけではなかったかということである。一部は成人した戦士_「壁に向って放尿するすべての者」_だけか、あるいはおそらくまた、君主や名望家たちだけが犠牲として殺された。聖戦以外においては、イスラームと同様古代イスラエルの軍法でも、自発的に服属した敵を、敵対し続けた敵と区別し、前者を殺さなかった(申命記20の11)。カナンの地域の内外を問わずこの軍法によって処置された。神に約束されたこの土地〔カナン〕を特別に神聖であるとみなす、予言者に影響された理論_この理論はエリヤ時代に最初にあらわれる_がはじめて、偶像崇拝者のみちたこの土地の徹底的純化を要求したのである(申命記7の2・3)。そして戦争予言者の理論やさらに捕囚の理論や、そしてまたユダヤ教の宗派的発展だけが、カナンの敵は徹底的に撲滅されるべきである、という熱狂的命題へと傾斜したのであった。すべての戦争だけが聖戦とみられたのであって、しかもそれさえも、もしかするとつねにそうであったとはかぎらなかった、という事実を別とするならば、へーレムの最後的諸帰結が比較的後代のものであるということを示すのは次の事実である。すなわち伝承がサムエルの口で言わせた諸要求に対してサウルが反対の態度をとった、という事実がそれである。さてしかしこのへーレムの最後的諸帰結は、考慮する所なき峻厳さをもって、伝承の形成過程についてのほとんど肉欲的とも言えるような空想と、弱者や寄留者に対する寛大な諸命令との、あの聖書のいたるところに特徴をしるしつづけている独特な結合をうみだしたのであった。」(同書上、238~240ページ)
 マックス・ヴェーバーのこの論文のより注目すべき箇所とは、実は歴史的な民族の行動史が、予言や霊的な戦争祈祷によって集団としての民族が統合されてゆく過程と、そこに内在する性的な統御力こそが民族を結束させたと捉えていることである。しかし今はそのことに深く触れる機会ではない。本書の結論においてそのことは詳述されることとなる。
 さて問題なのは、言語的な進化がもし社会の行動的な目的性においてより単純なものからより複雑なものに移行する過程において統語秩序とか意思表示的な体裁が進化し、内的な意味論の世界における認識をも進化させてゆくものであるなら、言語の進化は集団内での、個的な意味(集団内秩序同化意識)でも、集団選択的な意味でも責任倫理という意識が共同幻想として大きく作用していったであろうということを証明出来るか、ということである。
 「解明される意識」において哲学者のダニエル・デネットはベンジャミン・リベットの実験結果等から意識における過去の記憶の先後関係がしばしば逆転し得ることを指摘している。それは例えば未だ起きていない事態をも想定して意識の上ではある「構え」を作るので、それが起きたという事実が実際よりも早く起きたように錯覚することは記憶の仕業としては常習的なことなのだ。あるいは極めて印象的な出来事に対する記憶が他の些細な記憶を押し退け先後関係を撹乱させることがある。
 例えばI’ve got to go(行かなくちゃ。)という英語は発音上はaiv gala gouとなる。二番目にくる語彙がgot toと癒着し、しかも通常これは母音の発音は閉音であるのに、次のgouがgot to以上に開音であるために、それを話者が見越して先の音まで既に開音として構えてしまう事態を表している。それは話者が脳内では既に伝達する内容を把握しており、それを発音において置換しているために、無意識の内にその意志が発音に影響を与えるからである。意識では未決定な意志も、行動する前に脳では自動的に、我々が「あの時決心した。」と我々が思う以前既に決定しているということが脳科学や心理学で既に証明されている(準備電位)。例えばそれが今例に挙げたような発話であるとしよう。その時話者が明らかに発語行為として対話者に対して責任を遂行していると言える。
 一つ一つの発語においてそうなのだから、逆にその一つ一つの発語を可能にする社会的規約の前では我々は話者がある陳述を意味内容的にも意味作用的にも伝達可能な事実とするために同一言語通用区域におけるラングとして陳述形式においても陳述内容においても何らかの共同幻想的な意味での責任意識を生じさせながら発語していると考えることは理に適っている。
 そのことをまずただ闇雲に他集団との抗争において他集団を打ち負かした時、生き残り全員処刑することをモットーとしている集団内の規約における言語行為というものを考えてみよう。そこで集団内での規約という事実を自我という側面から考えていってみよう。
 アンリは「現出の本質」において最後にヘーゲルと自己との対比で「啓示の根源的な本質をヘーゲルの現出(manifestation,Erscheinung)概念との対比において明らかにすること」と銘打った補論で締め括っている。そしてその第一声「ヘーゲル哲学の中心的な主張、それは、実在は<精神>であるということである。」と主張する。
 自我を概念として多用したヘーゲルはどのような心積もりだったのだろうか?
 自我とはインド哲学にも既に見られる概念だ。自我は恐らく現在意識からも自己反省意識からも認識可能な自己として捉え得るものではない。デカルト、スピノザ、カント等はそれぞれ主観と客観、原因と結果、分析と綜合という二元論から自我の本質に肉迫した。しかしそれ以後の哲学は徐々に社会を構成する当のものという認識から自我を考え始める。その予兆は既にホッブスにも見られたし、ルソーにも見られた。カント以降はベンサム、フィヒテ、そしてヘーゲル等によって問われ続けてきている。
 自我は超越的であり、例えば脳科学において前頭葉のここら辺が自我を構成していると特定し難い。尤も扁桃体あたりに感情を構成する機能が認識されているということから、何らかの古脳(大脳辺縁系)と大脳皮質とりわけ前頭葉、側等葉等とのネットワークから考えられる可能性があるかも知れないが。要するに自我は社会自体が生物存在によって内的に作動されるエネルギーの集積と捉える認識における内的エネルギーそのものと言ってもよく、その意味では生物学者のユクスキュル等が環世界と呼ぶものとそう遠くはないだろう。(そのことについては結論で詳述する機会を持とうと思う。)
 ヘーゲルの自我論は基本的にはフロイトにも引き継がれていると思われる。アンリはヘーゲルについて次のように言っている。(「現出の本質」下、今までの引用は全て北村晋、阿部文彦訳、法政大学出版局刊による)
「主観性というひとつの本質の現実的かつ自律的な現実存在を予想させる諸概念に対してヘーゲルが向けた重大な批判の意味は、ひとり自らを現出させるものだけが実在的であるということを喚起し、ただひとつの根本的な現出様態しか、つまり、対象性[客観性]という様態しか現実に存在しないと主張することにある。とはいえ、「ひとり自らを現出させるものだけが実在的である」という主張は、哲学の課題が、自らを現出させるかぎりにおいて現実存在するいっさいのものの単なる目録作りにあるのでなければならない、などということを意味しているのでは毛頭ない。ヘーゲルは、自然的意識や哲学的次元における自然的意識の反復である<啓蒙主義(Aufklarung)のように、客観的限定態にただ単に信頼を寄せる思考からは、はるかに遠ざかったところに身を持している。彼は厳密には、「われわれがわれわれの周りに見るものが、そして現出しているという性格を伴ってわれわれが見出すものが、実在的である」と言っているのではない。ヘーゲルの思想は、もっと正確には、次のような定式において表現されよう。すなわち、「いっさいの実在的であるのものは、自らを現出させることができるのでなければならない」。現出の実在性よりも前に、もっと正確にいえば、現出化した実在性よりも前に、それに先立つ要求のごときものがある。この要求はある成就への要求である。成就されなければならないもの、それが実在性である。実在性の成就とは、実在性がひとつの現象に成るということである。たとえばキリスト教が閉じこもるような「成就されていない生」とは反対に、「成就された生」はすでに、若きヘーゲルからみると、自らを現出させる生なのであった。それにしても、成就された生は自らを現出させる生であるかぎりにおいて、それは、いまだ自らを現出させない「成就されていない生」へとわれわれを差し向ける。いっさいの成就は単に、それによって成就されるであろうものへの差し向けをもつだけではない。いっさいの成就はまた、いまだ存在しない何ものかへの成就でもある。ヘーゲル流に語るとすれば、展開された一性(Unite)は「展開されていない一性」への<遡行的‐差し向け>を含意しているのだ。しかるに、成就されていない生、展開されていない一性とは、まさに<内面的なもの>という名で理解すべきものではないだろうか?<内面的なもの>は、単にわれわれの成就していない可能性の偽りの表象を指し示しているのではない。それはむしろ、客観的限定態というかたちでいかなる成就にも、いかなる実現にも、ある仕方で現実に先立つところのものなのである。」(同書下、1006~1007ページより)
 ここでアンリによって述べられている言述は実は、ヘーゲルという存在を借りた彼自身の時間感覚に対する覚醒の告白でもある。未完了態に対する思慕は、実は完了された実相において我々は体感するのだ。つまり何かを成し遂げた後の空しさとか、空虚感、虚脱感といったものは、ラヴェルの名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」で示されていたが、つまりその虚脱感こそが次の行為への、次の目標を定め行動するための指針となるのだ。だからポール・リクールの言うような意味での可能性の剥奪としての行動には、前段階として虚脱感と、空虚感とが伴うある終局、ある滅亡が必要であり、それは端的に言えば極めて反省的な思念に裏打ちされたものなのだ。しかしヘーゲル自身にはアンリが指摘するような意味での深い反省的思念(それをアンリは内面的と評しているが)が付き纏っていたであろう。だからこそヘーゲルは自我の本性を顕現させるものとして言葉を考えている。(「精神現象学」より)ヘーゲルはフッサールが前言語状態という概念で語る言語的基盤、モティヴェーションの所在を示したとも言えるのである。そしてそれは自我に対する覚醒である。(その自我を日常的なレヴェルから考えたのがジェームスだった。しかしジェームス当人は我々が現代から見て受ける印象以上にそれ以前までの哲学者の考えと著しく隔たっていたというわけではない。彼は端的に心理学と生理学の壁を取り除き、一体化を図ったと言ってよい。)
 ヘーゲルが提唱した二つの概念、疎外と承認は相補的である。何故なら自我作用それ自体を我々が携えるものとして認めつつ、分析するヘーゲルのスタンスが一方で自然に対する不可知領域から疎外されていると感じつつ、その事実が他者と自己とのどうしようもない壁をも意識させる時、まさに現代心理学の言葉で言えば「心の理論」の解明の突破口として承認という概念を流用することが彼にとって最適である、と思われたからである。
 ヘーゲルの言う承認は他者の承認であり、それ以前に存在の承認である。それは期せずしてウィリアム・ジェームスが無意識の内に提唱した自我の超越へと意識が連なってゆくことになる。西欧哲学をこのように系譜学的に見てくると、そこにはテクスト間の応報という哲学者間の思索の旅が見えてくる。例えば自我一つ考えてみても、よりその命題がクローズアップされるということは、ヘーゲル以前のテクストでは明示されていなかったという事実を如実に浮かび上がらせる。要するにテクストの意味作用の記憶がもう一つのテクストを産出する過程の中から自ずとテクスト創造者たちの記憶の意味内容が現出する。
 私たちの記憶はテクスト創造者たちのように必要な事項を注視することで、よりそれ以外の多くの事項を無視するように作用する。人類史的に見れば、あるいは我々の祖先は記憶事項の飛躍的増大(例えば同一集団内での全成員の固有名を覚えなくてはならないというような)によって逆に他の些細な事項に対する記憶を一挙に忘却する能力を進化させてきた可能性はある(そのことはニコラス・ハンフリーが「喪失と獲得」で述べている)。そして段階論的な忘却進化が、逆に限定された事項の記憶を確かなものにするように作用するよう進化したというわけである。
 つまり私的に記憶することだけで全てが消化されていた時期の人類が、ある一定の秩序を持った社会的動物へと進化する過程において、我々の祖先はきっと公的な事項、つまり集団としての秩序を維持するために必要な事項に対する責務的な記憶必須事項と、そうではない私的な事項とを弁別するようになっていった、ということが想定出来るのである。それは端的に言えば公的にこれだけは記憶しておけば後は自由であるという自由と権利の獲得をも意味する。そしてその時期には当然発話行為それ自体もかなり進化していたと考えた方がよい。発話行為それ自体はあくまで私的であることの思念と、集団内での隣人との間で交わされる個人的思念同士の突合せという現実からスタートしたと考えられる。同一集団内での私的会話というものの進化は当然述語的世界の進化を促したであろう。端的に言えば形容詞と副詞の進化である。勿論それ以前から既に名詞(実詞)と動詞は発明されていたろう。しかしその基本的な叙述構成要素に対して個人的な思念、世界や事物に対する感情を表しつつ、同時にその感情表出行為自体が意味伝達を構築したと考えることは理に適っている。つまり私的感情の伝達という公的集団内におけるプライヴァシーの獲得という成員間の同意という事実が、同僚とか友人という観念を生じさせることとなったのだ。
 そして友情的感情の進化は当然のことながら、真意の表出という「賛成したいのですが。」型の発言を通り一遍の「誓います。」型の発言以外に多用することを促す。叙述内容の意味的世界、つまり私的感情と公的事実との間の連関によって生じるある種の齟齬自体が新たな意味を産出することを相互に発見し合うことの定着とはまず基本的に公的約束事としての言語定着の後になされたと仮定してみよう。するとそれは概略的に説明すると、予め決められた事項を伝え合うという行為(義務的発話を中心とした)から、伝え合うことによって新たな意味世界を発見していくという行為へと変質することそのものが、友情を育み、友情の進化が真意の表出と、建前的な会話の差を生じさせ、公的、私的の使い分けが各成員間に定着し、暗黙の了解となる。これは社会進化上極めて重要な出来事である。
 そしてそれらは叙述内容の詳細に伝達することの進化それ自体が、私的な会話と公的な会話の弁別、そしてこれが重要であるのだが、記憶すべきことと記憶したいこと、つまり個人的感情のレヴェルで記憶しやすく関心のあることと、そうではなくても集団生活としての秩序を維持するために必要最低限としての義務として記憶しなくてはならないことの両方使い分けることを通して各成員に定着していったという事実が想定され得るということである。
 しかし叙述内容の進化そのものは決して個人的、私的会話から発展したとも言い切れない。恐らく公的会話、私的会話の双方が相補的に発展させていった、つまり私的会話での発見が公的会話に応用され、公的会話での新たな秩序が私的会話にも適用されていったと考えた方が自然である。ともあれ言語はある意味内容的構成秩序として伝達されるように配慮されていったのだから、当然テーブルならテーブルという日常的事物とか道具に対して私的、公的を問わず発話する相手に対して相互了解伝達対象として選択されていただろうから、叙述することの伝達意味内容の詳細さへの希求が形容叙述を進化させていったと考えられる。しかしテーブルならテーブルと述べた時、そのテーブルに対する修飾事項によって我々は何らかの注釈をつけることによって状況論的にも、あるいは語順によっても指示対象を限定してゆくことが出来る。英語でmodifyと言えば修飾することと限定することを同時に意味する。例えばそれはただ単に話者同士が意思疎通するための方便であると考えることも可能だが、実はその事実が社会的認識としての言語を段階論的に進化させてきた可能性がある。つまり修飾して限定してゆく段階に応じて説明責任の詳細が決定されてゆくわけだから、我々の祖先が比較的緩い修飾行為から厳密な修飾行為へと転換してゆくプロセスそのものが言語行為における統語秩序や、意思疎通の状況判断的な進化の過程であると考えてもよいものと思われる。それは私がやや冗長的に述べてきた自我と哲学者の関わりに見られるある事項の注視と共に他の幾多の些細な事項の忘却という認識論史に見られる関心事項の焦点化という哲学者集団内での記憶と忘却という作用の連鎖にも顕著に示されているのではないだろうか?そして記憶と忘却という二つの作用は、責任の所在を限定することにどのように繋がっているかという面から考えることの意味を我々に示すのだ。
 次にその責任の明示(責任は限定されることで明確化する。)の段階論的な進化を二つの顕著な構文例によって考えてみよう。
 アメリカの大統領は就任式において必ず牧師によって「あなたはこの国とこの国の国民に対して誠心誠意尽くすと神に対して誓いますか?」というような質問を受け、それに対して「誓います。」と返答するのが慣わしとなっている。そのような際の返礼は儀礼的で、つまりア・プリオリに決定された慣習的なコードに随順するスタンスを明示する返答であり、責任倫理としては最も初歩的な段階にあるものである。
 しかし例えば殆ど全ての成員がある決定事項に対して賛意を示し、その中にあってその決定事項に対して異論を抱く成員が、最終的に「あなただけですよ、未だ賛意を示しておられないのは。」と他の成員全員に詰め寄られてその返答の際に他の成員の期待に沿うように言う積もりであったのに、自分でも無意識の内に
「賛成したいのですが。」
 と言うことを想像してみよう。この場合我々は通常自分でも自分の言った発言が予想外のものであると感じることはあるだろう。つまり発声された陳述内容そのものが自分が他の成員の強圧的な集団の論理に押し潰されながらも、それに従おうと保守的な自己防衛心では規約的に脳内で囁いているにも関わらず、理性の内奥の叫びがそれを拒否し、まるで言葉を口から発するレールが自分が行きたいと願っている方向を無視して勝手に列車を暴走されているかのようの思われる瞬間とは、この例のように自分でも予想していなかった大胆な言辞を発声している時である。だがそれはフロイトの言い間違いほど無意識的言辞でない。もっと自然な欲求に随順したものである。
 この二つを今後この論文で重要な概念としても使用したいので、前者を「誓います」型とし、後者を「賛成したいのですが」型と呼ぶことにしよう。まずここで言っておかなくてはならないこととは、前者の型はJ・L・オースティンの主張するような行為遂行的な発語行為ではないということである。(オースティンは「結婚式における<誓います>」を例証していた。)これは積極的な賛同であるよりは、集団依拠的な常套的な責任遂行の意思表示であり、建前的な言辞であり、儀礼的であるよりは挨拶的なものである。挨拶の責任というものは内発的な責任ではない。それは大統領就任の式典においてさえそうである。またそのようなものでなく個人的なものであるのなら、その政治家は逆に大統領に就任すべきではない。それはいい意味での通り一遍の責任であるべき性質のものである。
 しかし後者は本質的にそれとは対立する。と言うのも、この言辞には周囲の異なった意見を持つ大勢の成員に対する拒否の意見陳述であり、その拒否感情やら拒否意見賛同者に対して暗に共感が示されているのである。勿論表面的には自分の周囲にそのような賛同者はいない。しかしそのような真意を抱く成員の出現を暗に期待してもいるのだ。これはあの米映画の名作シドニー・ルメット監督作品「12人の怒れる男たち」のヘンリー・フォンダ演じる少年殺人犯に対する陪審員の心境のものである。孤独な表明である。
 しかし一見前者の「誓います」型の発言の方が責任を大きく負うように見える(特に大統領就任式の宣誓の場合など)が、それは建前上の儀礼的な措置であり、このような儀礼的措置自体を無視することは大人気ないので通常の遣り方に従うというだけのことであり、本来後者の「賛成したいのですが。」型の発言の方により主観的判断故の個人的責任を負うという姿勢は表されていると言えるのだ。しかしこの言辞には自分でも予想のつかない真意の表出なので、ある意味では素直に真意を告げることに纏わる不安が付き纏っているものである。それが最後の「が。」に表されている。 
 しかしこのように無意識の内に自分の真意を表出しているような言辞自体に驚くという経験は他にも何か思い当たることはないだろうか?

Wednesday, December 2, 2009

〔言語の進化と責任〕序

 私たち人類が進化して他の動物にはない高度の思考能力を携えるようになったという事実は、我々自身にとっては自明のことのように思えるが、実は極めてそのこと自体を冷静に考えると奇蹟的なことでもある。しかし自然科学が奇蹟ということを認めないことがまず前提条件であるとしたら、例えばノヴァーリスという詩人が近代にいたが、彼のことをディルタイが「体験と創作」において「ノヴァーリスにとっても、一切は奇蹟である。あるいは別な言い方をすれば、われわれの情感とわれわれの人格との最高の機能たる真の信念は、神を告知する唯一の真の奇蹟である。似かよった言い方をすれば、奇蹟の中の最高の奇蹟は、自由決定の行為としての有徳の行動である。いかなる死も贖罪の死である。つまりキリスト教の歴史的要素は偏在である。」(「体験と創作」(下)小牧健夫、柴田治三郎訳、岩波文庫、60ページより)と語った部分の主張は重要な意味を生じる。
 確かに自然科学は端的に言えば、奇蹟の否定から始まる。というのもそもそも自然科学は全ての事象を因果系列で判断することで、ある事象を発生させることに纏わる解釈を必然の名の下に、理解しようという意志のものであるからだ。しかし逆を言えばその事実とは、そのように自然科学自体を純化させてきた人類が、一方ではそのように冷静に判断することが出来ない数々の出会いと、その出会いに翻弄された事実を多く持ったということを物語ってもいるのである。本来奇蹟というものの考え方には、その事象に関して何の関心もない者にとっては意味を持たないことでも、その事象に関心のある者にとっては肯定的にも否定的(この場合青天の霹靂ということになるのだが)にも重大な意味を生じるものである。
 例えば人間社会にとって奇蹟である事態とは端的に言えば動物にとっては然程の意味がない場合も多い。(こうやって文を読まれる読者の姿を見る愛犬や愛猫たちにとってあなたの行為は全く意味のある行為ではない。)あるいはある者の死はその家族や友人にとっては重大な意味があったとしても、他人から見たら大した意味はないだろう。要するに奇蹟というものとは、その事象が発生することそのものが、ある者にとって自然全体に対して、自然との関わり合いにおいて、その事象を生んだ状況の全てが何らかのグッドタイミングのものであり、そのタイミング自体がセレンディップな出会い以外の何物でもないと感じられるということそのものなのだ。バッドタイミングな場合には我々はそれを古代人のように今でも天の呪いと感じるかも知れない。
 だからある出会いが偉大な意味を人類全体にとって生じさせるものであるのなら、それは確かに人類にとっては奇蹟と呼んでいいだろう。そして我々が今こうして生きて、他者の意見に耳を澄ますことが出来るように他者の意見を文章という形で知ることが出来ることそのものが奇蹟であると言ってよい。
 例えば私という人間のことを知らない大勢の読者が、今私がこのように書いているこの文章を目にすることが出来るという事実そのものは、人間がその事実を奇蹟と呼ぼうが、ただ単なる当たり前の日常であると捉えようが、人間固有のもの以外の事実ではなさそうだ、とは言える。
 というのもそもそも人間にとってのコミュニケーションというものは動物と全く異なった様相のものであると言えることの第一は、意思表示とか意思疎通というものを全く実際には会うことのない人々とも可能であるということ以外の事実にはない。
 動物でもゾウが危機的状況を遠くにいる仲間に超音波を使って知らせるという事実は確認されている。しかし彼等の意思疎通はそういう危機的状況の時に限られている。それに対して人間は四六時中自分の知らない仲間の考えを念頭に入れて思考し、行動する。ブログやバーチャルマネーゲームでは自分が男なのに女性を装うことすら自由である。しかしそういう意思疎通ということは例えばインターネットが当たり前になっている今日に限ったことではない。太古の昔から人間は他人の書いたものを読んできた。そしてその際人類は自分の知らない人、一度も逢ったことのない人が大半であった。例えば流行作家がいて、その人の講演会があって、その人に質問をして話しを交わすという事態は、実は今日的でもあるが、そういう事態が仮に太古にあったとしても尚、ある「書かれたもの」が自分の知らない人、つまり知人ではない人であることが通常である人類のコミュニケーションの採り方からすれば、寧ろ例外的な事態であったであろう。それは幸運以外の何物でもないということなのだ。
 実はこの当たり前の事実、書物に書かれた言葉から我々が意味を受け取るという行為を当たり前にしている日常そのものが最も人類にとって特異な現象なのだ。そしてそのことを成り立たせる前哨戦としてまず我々には次の認識が必要である。
「我々は我々が個人的に知ることが出来る成員以外の多くの成員の考えを知ることが出来る。そしてそのことに意味があるということを知る。」(この認識をDとしよう。)
 しかしこの認識には更にそれ以前に次の認識が必要である。
「我々はどのような成員でも個人的な知り合い以外にも大勢の成員が生活して意思疎通していることを知る。」(この認識をCとしよう。)
 しかしこの認識も更にそれ以前に次の認識が必要である。
「私はどのような成員でも個人的知り合い以外にも大勢の成員が生活して意思疎通していることを知る。」(この認識をBとしよう。)
 しかし賢明なる読者諸氏は次のように反論なさるであろう。「私は」という意識を得るためにはまず他者が必要である、だから他者と意思疎通する機会に恵まれない者には「私は」という意識は持てないし、また私以外の成員を意識しようがないだろう、と。それでは次のように最後の認識を言い換えてみよう。
「<私>は<私>以外の<私>のような生き物がどこかにはいる筈だと思う。」(この認識をAとしよう。)
 このような思惟が成立するのは生まれて間もない赤ん坊が自分以外の例えば母親の姿が確認出来ない時に持つことがあり得る、そういう認識である。敢えて私が<>で私を括ったのは、私とあなたという明確な意識のない状態での、ある種の身体的実存を引き受ける生活者としての人間が初歩的な認識として、肉体的な情動あるいは情感を持って他者を希求するという状態を示してみたかったからである。
 人間には脳内にミラーニューロンと呼ばれる部位が存在し、その部位は人間が他人の行動に対して、あるいは他種の生物に関しても歩いていたり、ものを食べていたりする場面を目撃する時に、反応する仕組みになっているということは現代脳科学では解明されているし、また親愛の情を示す時脳内にプロラクチンという物質が放出されることも解明されている。例えばその最も顕著な例とは、母親が自分の子供に対して愛情を注ぐ時に、放出されると言われる。それは生物としての人間がそのような状況で無意識の内に判断しているという事実から我々がやがて一般化し得る自然科学的事実である。
 私は恐らく人間以外のどの動物も、決して「自分たち以外の自分たちと同様の生き物が自分の知らないところでも生活している。」という認識を明確には持てないのではないか、と考えている。勿論イルカはイルカ固有の生活環境で生活し、他個体と接触するわけだから、ある個体が自分の知らない個体と相対した時には「知らない」と認識するだろう。しかしそれはあくまでその個体が自分の前に出現したから得た認識である。その個体が登場する以前に、そのような出会いがあるかも知れないとまでは恐らく彼等は認識出来るだろう。しかしではそのような事態を総括して、「つまりだから自分の預かり知らぬ場所にも自分同様の生物(つまり仲間)がいるのだ。」と明確に認識出来るか、と言うとそこまで認識することはかなり困難なのではないかと私は思っている。
 人間に話しを戻そう。例えば私が考えた認識モデルのBは、私が想定した読者からの批判を真摯に受け止めて、認識Cを得た後に当たり前の事実として受け止めることの出来る認識であるという可能性は多いにある。例えば幼児が母親と一緒に歩いている時、それまで食べていたチョコレートを包んだ銀紙を幼児が捨てようとした時、母親が
「いけませんよ。こんなところにものを捨てては。ちゃんと拾いなさい。」 
 と多少威嚇的な表情で子供を教え諭すという行為が、じきに子供の心の内部で、
「自分や自分と親しい人以外の人<その人とは抽象的な人であるから、当然自分にとっては知らない人、要するに他人である。勿論そんなことまでは彼等は考えないが。>が生活しているのだ。」
 という認識が育っていく。そしてその認識が生じた時、公衆道徳という観念とほぼ同時的に子供は悟るのだ。
「生きているのは自分たちだけではない。」
 ということを。つまりこの時点で彼等は自己及び自己にとってかけがえのない他者(家族と家族にとって大切な親族や知人)、つまり見知らぬ人たちの存在を知る。
 勿論両親は兄弟姉妹との関係から人間は「私」という観念を得ることは出来る。しかしその際には未だ「然程親しくはない人」というものは含まれてはいない。つまり親しい間柄以外にこの社会で生活する全ての人たちの存在をも考慮に入れた人間関係という観念の中で知る「私」という自覚こそ、真に責任ある社会成員としての自覚を伴った「私」という観念の獲得と言ってもよいのだ。そしてこの認識は認識Cの後にすぐさま認識Dを得るという認識の成長を必然のものとなすのである。
 ここで本論の主旨を説明しよう。つまり人間が言語を進化させてきた背景には、寧ろ言語を必要とした事実があることはずっと考えられてきたのだが、その多くの論証において一番不足していた領域とは、端的に言えば責任倫理という脳内では確認されることの未だにない共同幻想に他ならない。責任倫理のない地点では決して言語的進化というものは成立し得ない。だから逆に言えば公衆道徳を守らない若者や中年、老人がいたとすれば、それは彼等が公衆道徳から発生した言語を使用しながら、その事実に対して目を見開かせないような何らかの事態が発生し、サルトル流に言えば、要するに無知を決込んでいるということ以外の何物でもない。
 ここで少しくだけた話題から考えてみよう。
 先日某国営放送局において先月亡くなった(2007年6月19日現在)シンガーソングライターであるZARDの坂井泉水氏の追悼ドキュメントが放送された。その番組に漫画家の倉田由美子氏が出演し、「彼女の音楽は<彼女が殆どテレビに出演しなかったためにその私人としての実像がミステリアスであるために>聴くファンが自由にその実像を付け加える、つまり自分にとっての坂井泉水、ZARD像を想像することが出来る。」というようなことを述べられていた。
 昨今お笑いタレントを初め、流行作家たちが挙ってテレビのヴァラエティー番組に出演し、作品世界とは無縁の私人としてのパーソナリティーを披露する。芸能人の私生活に興味のある視聴者向けの内容なのだろう。しかしその際に生じるのは、あまりにもテレビで地名度のある文化人にせよ、芸能人にせよ、その本業以外での活動でのイメージが付帯してしまい、その人が書いた本を読む時にも、その人の本業の仕事を見る時にも、その本や芸の内容以上にその著者のパーソナリティーの方が前面に出てしまい、そのように付帯したイメージで作品世界の意味内容を解釈するようになる。だがこのような事態は純粋に本や芸の内容を解釈する際の難点となる。
 例えば私たちが古典的作品に接する時、我々はテレビに出演する文化人や有名人に対するような意味では、その著者のイメージというものは知らない。勿論その著者を研究している人は別であるが、それでもテレビのない時代の著者に関してはいつまでも人格的なパーソナリティーは謎のままだ。しかしこの事実は実はその著書の意味内容、意味作用の両面から言えば、健全な事態である。余計な先入見が入り込む隙がないからである。
 本来作品というものは、その作者の個人的な性格とか人間性とは無縁の世界である筈である。つまり作品によって示された内容やニュアンスが全てであり、その作品がどのような個人のどのような私生活から生み出されたかという事実は、その作品世界の意味に比べれば、然程重要ではない。
 つまり意味の連鎖とか、生物学者として最も影響力を持つ一人リチャード・ドーキンス流に言って、ミーム的な価値から言えば余分なことである。しかし映画を観に行く時、我々は贔屓の役者が出演するという事実が見るべき映画選択のキーワードとなっている。しかしそのことはその映画自体の価値と関わりはない。そしてこの贔屓感情というものは端的に言えばそのパーソナリティーに対する共感作用によるものである。共感という感情は心理学者のサイモン・バロン・コーエンによると、女性の方がより優れているという。それは平均的な統計的事実である。それに対して男性はシステム化能力に秀でているという。これは要するに全体的な秩序をもって理解する能力、事象の全てを解釈する能力である。
 この事実を踏まえて考えると、責任とは明らかに左脳的判断であり、要するにシステム化能力と関係がある。それに対して、共感という感情は明らかに良心と関係があり、友愛的な感情を起点とする。右脳的判断であると言えよう。そして記憶作用において我々は暗示にもかかりやすく(心理学者のダニエル・シャクターの「なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか」<原題はSeven Sins Of Memory2001年>日経ビジネス人文庫刊に記憶の書き換え、暗示等のことは詳しい。この著者は記憶を「物忘れ」「不注意」「妨害」「混乱」「暗示」「書き換え」「つきまとい」の七つのエラーから捉えている。この本に書かれた内容に関しても本論では大きく取り上げる積もりである。)要は、我々はそういう脳記憶の作用において、先入見を持って全ての判断をしがちである。すると多くのテレビのヴァラエティー番組でレギュラーになっている人は、その人の本業の仕事に対する評価を多く映像的に視聴者に受け取られたイメージによって解釈されがちであるということになる。しかしこの事実はその人の仕事に対する評価としては決して公平な見方ではないだろう。人間的な私人としてのイメージに対する贔屓感情からのみ理解されるという事実は、実は俳優にせよ、歌手にせよ、他の芸能人にせよ、学者や芸術家同様その仕事(作品とか論文)によって解釈されるべきであるという観点に立てば、例えばお笑い芸人であれば、そのコントとか漫才とか落語とかの専門分野の力量に対する評価という面から言えば損な事実である。しかしその二つの境界そのものがあやふやになっているという事態もまた極めて現代的なことである。
 責任は良心と常に共存して進化(つまり共進化)してきたと私は考え、以前別の論文「責任論」(本ブログにおいて掲載)でも取り上げた。そしてこの責任と良心の脳内での判断こそが言語を進化に導いてきたと私は考えるのだ。今挙げた<くだけた内容の事実>とは実は、要するに私人としての性格に対する評価が仕事の純粋な力量に対する評価以上に重要となっているというマスコミ誘導型の価値判断というものが、現代を支配しているとすれば由々しき事態であるという判断が、責任によって言語活動そのものを、あるいは言語の体系そのものを進化させることに貢献してきたと考える私の本論における主張と相同のメカニズムを持っていると言える。例えばカントという人間がどういう存在だったかということは、少なくとも彼の哲学の内容を理解した後においてのみある程度の意味を持ち、その哲学テクストを読んだこともない者にとっては害悪となるだけである、と言いたいのである。
 そしてそれは言語自体の存在理由にも当て嵌まる。つまりある内容の文章とは、その書かれた内容に関する判断からのみ評価するべきであるし、その記述者の性格とか人間性は、そのテクスト内容から逆流して考えられるのでなければ公平ではないということなのだ。その意味では古典というものはおしなべて我々による公平な内容解釈に基づいていると言える。(少なくとも贔屓の役者が出ている映画を見ようという動機に纏わる不公平感はない。いい映画と売れる映画の違いもここにある。例えば北野武監督の映画はテレビで知る我々のビートたけし像をどれくらい監督である彼が裏切ってくれるかという期待感によって我々は満たされていると言ってもよいだろう。)
 そして責任という考え方は今挙げた例から言えば、明らかに公平な判断というものを欲しているのだ。それは端的に言えば親しい者とそうではない者との間に差別をつけないという倫理に支えられ、寧ろ親しくはない者に対してより配慮するという考えが基本にある。そしてそのことと、自分にとっては親しくはない人の書く文章を読むという行為には認識Dに近い心理があるのである。だから私はまず基本的に言語活動というものは、親しくはない者同士を結び付ける作用が出発点であったしたら、知らない者、地球上の裏側にも自分のような人は生活し、自分よりも偉大な素晴らしい人がこの世にはいると知りながら、そういった人の全てと知り合うことは不可能であるというもう一つの認識を持つこととは「世界」というものを想定することが出来る能力、あるいは言語的な意思疎通のおける責任倫理的な遣り取り(思い遣りもまた責任理理的遣り取りである。)と共に発達したと考える。
 つまり言語、とりわけエクリチュールに依拠した言語的思考というものは、地球の裏側という認識を持てなかった時代においても世界という認識によって育まれてきたと捉えることが出来、言語の進化を「自分の知らない世界市民の存在」に対する意識が促進してきたのだ、という本論の支柱となる理念を今私に宣言させずにはおかないのである。そして世界認識とは、私にとって大事なことと、私の知らない者にとって大事なこととを等価な価値として認識すること、即ち責任という考えを起点とするということである。そしてこの自己に対する認識をB以降の全ての認識をもって明確化するという事態こそ、私が考える言語の進化の謎を解くものである、ということなのである。
 序なりに本論の内容を先に結論的に言っておくと、言語の進化は責任倫理と良心の発動が極めて重要な役割、いや寧ろそれこそが言語獲得以後の全ての言語進化史に関わってきたであろう、ということなのだ。しかしそのことをもっとたやすく言うと、人間もまた本来はただの動物である。他の動物と同様本能がある。しかし人間は言語を持ったがために他の動物とどうしても同じ穴の狢であると自分のことを考えたくはない。そこで社会倫理として責任という観念を自己の肝に銘じたのだ、とも言える。
 本論では第一章を現象学という哲学の一分野の流れを一人のフランス哲学者ミシェル・アンリによるテクストの現代的な意義について考えながら、テクストを創造する人間の行為から言語というものの果たす役割を考えた。そして結論として第九章では人間の愛と性に対して、その営み自体を言語行為、言語活動であると捉える視点から考えてみた。そして現代の日本が抱える性意識を日常からジェンダー的な意識と絡めて考えてみたので、あまり観念的な論述が苦手という向きの読者はそこだけを集中して読んで頂いても一向に構わない。その二つの間に介在する諸問題をその間の章で書いてみた。どの章から読んでもよいようには一応心掛けたが、通して何らかの主張が読み取られるようにも心掛けた。後はどのような順序で読み進められるかは読者諸氏次第である。