Wednesday, July 4, 2012

〔言語の進化と責任〕第九章 あるいは結論 愛と性の言語(「触れ合い」の哲学について)

 私は言語と言いながらあまり言語学者のような体裁を一切無視してここまで書いてきたのだが、実はそれには訳がある。それは言語学そのものが未だ発展途上の学問で、確たる方法論が確立してはいない、ということと、言語というものを考える時、ただ記述された文字表現とか対話とかだけに限定することもまた不自然なくらいに言語という観念自体が多様化してきている、ということも言えると思うからだ。だが言語はヒトが歩き始め、食料を確保する方法として採集とか狩猟とかを始めた頃から何らかの形で、その必要性を漠然とは意識していて、その内発的な意思疎通への熱情が、いつしか現在のような形での意思疎通へと直結する方法の獲得に繋がり今日の様になったということは言えるだろう。
 しかし言語活動が日常的な言語行為へと位置付けられてゆくために最も貢献したのは、意味や指示対象だけではなかった筈だ。そしてあまり本論では触れられなかった最も重要な人間の感情、愛と、最も人間生活において恐らく他の全ての生命と同じく切実な性ということから言語の進化を考えていってみよう。そしてそこで何らかの言語進化の問題の結論としてみよう、と思う。
 通常我々の社会的倫理観として人間のように一夫一婦制を採用している生物は稀であることを承知でか、承知しないでかはともかく人間は愛を一定の持続期間、少なくとも子供を儲け、育て一人前にして独立させるまでは結婚という形態で同居契約を結び、それを全うするという行為の倫理性に比べれば、一時の快楽を通じて瞬間的な喜びに打ち興じるということを劣った行為であるとするのが今までは通常だったし、つまり愛とは責任を伴うものである、という意識が我々の社会には暗黙のルールとしてあった、ということは言えるだろう。
 しかし同時に現代ではインターネットで誰でも容易にポルノ動画に接することが出来るし、大人であるならそういうネット・サーフィンをすることが児童ポルノとか特殊な例外を除き、倫理的に罪悪であるとする社会人はそれほど多くはないだろう。例えば子供がそのような動画に接することがないように工夫すべきであるとか、法的な規制をするべきであると言いながら、一人で退屈凌ぎにそういう動画を検索している人は多い筈である。
 人間の愛という活動には本音と建前があって、それを混同することは差し控えたいが、巧く峻別しておれば、社会の潤滑油であると考えている大人は多い。
 また今の若者は、その全てではないだろうが、保守的傾向の青年も多いだろうが、昔のような意味でセックスに対する知識が皆無であるようなタイプの青年はあまり多くはいないだろう。勿論そういう好奇心は知識の希少な若者でも、かなり以前から誰しも経験があっただろう。しかし時代が現在に近づくつれ、ネットその他による溢れんばかりの情報の授受という行為それ自体は自然なものになりつつある。
 そして一体言語とは発話とか記述だけであったのか、例えば性行為に関するマナーといったこともまた立派な言語だったのではないだろうか、という考えが私にはある。
 現代の性科学は少なからず過去のそれとは曲がり角に来ていることは確からしい。例えば性を人間以外の全ての動物において(と言うことは人間も例外ではなく)オスによるメスの選択(性選択と生物学では言う)やメスによるオスの選択という認識だけではなく、寧ろ性行為を獲得したいと望む側と、それを避けたいと願う側の駆け引き、あるいは攻撃と防御という熾烈な葛藤であると見る見方が大勢を占めてきている。そしてその事実は性というものがただ繁殖と子孫繁栄のためにだけ供せられる行為ではない、という認識を拡大させつつある。そして重要なこととは、そのようようにオスとメスが葛藤し合いながら性行為に到達するということは人間社会でも我々は具に観察出来るのだが、実際オスとメスの違いよりも、たまたまオスに生まれたか、たまたまメスに生まれたかというような個人(動物では個体)の違いという様な意識の在り方から考えられる要素の方が性ということの実体を把握するには相応しいのではないかという思念さえ浮上するのである。
 人間を含め全ての生物、そこまで言うと少々説明が困難になるので全ての動物としておくが、彼等(我々も含む)が性行為を行うことに纏わる種毎の方法とは、それ自体で種の身体に記憶された言語であるとは言えないだろうか?
 ある米国の有名ポルノ女優は「マスターベーションをした経験のない人は恋人と交際する資格はないわ。」と言っていたが、私はその意見に対しては賛成である。
 日本人は性的なモラルに関しては色々最近の若者は昔とは違うように言われているが、未だ欧米先進国のようには自由でも解放されてもいない。また彼等と同じような性的なモラルを持つべきとも言い切れない。正高信夫氏の著作「ケータイをもったサル」の主張のように、昨今の若者を「ひきこもり系」と「ルーズソックス系」(今はすっかり居なくなったが、その代わりに外を歩く時さえ携帯画面釘付け系とでもしてもよい)と名付けて考察してみると、日米の若者像の違いが鮮明になるが、日米での違い、特に周囲の人間と協調するように、溶け込むように母親が赤ん坊の頃からそれとなく強いていく姿(統計的にも日本人の母親はスキンシップを赤ん坊に話しかけること以上に大切にするが、アメリカの母親は赤ん坊が未だ言語習得する以前から赤ん坊に語りかけることをスキンシップ以上に大切にする、と言う)が、アメリカの母親は最初から子供を独立精神旺盛な少年に育てようとする、という面での相違は、アメリカはただ独立心という建国精神からだけではなく、キリスト教倫理的なモラルの面からも日本人の宗教観の希薄さと関係があるように私には思われる。それは第一章のフランス哲学者のミシェル・アンリのテクストを読み込む為に彼のテクストとヘーゲルのテクストを平行して読んだ時に、特に感じたことだった。彼等は両方ともアメリカ人ではないが、日本人よりは一段と個人の独立心は旺盛である。アメリカ人は西欧型の独立心に加えてアメリカ独自の独立心が備わっているのである。ブログに投稿する時にも日本人は無記名(匿名)で書くことが多いのに、アメリカ人は記名することが常識であるという事実にもその個人的な独立精神の旺盛さが伺える。
 日本人は要するに本音をずばりと言い切ることに抵抗を感じる国民性の民族なのである。例えばフランス人にとってワインと対話というものは生活上不可欠な要素である。そして対話も時として論争にまで発展する。しかし日本人は大分政治の舞台などで論争することが定着してきている様に思われるが、依然それほど欧米人のように論争することを精神的なモラルとしては潔しとはしていない。不言実行とか黙して語らずとか、要するに黙って寡黙に作業する姿に対して凛々しいと感じることが性質として定着している民族である。だから性意識に関しても保守的な感情と、それでいて現代のように性情報が氾濫した状況において何らかの分裂を精神的に感じ取っているということは考えられる。つまり急に生活もモラルも欧米化した、ということに対して内心では戸惑っているのに、それを他者には悟られまいとして取り澄ましているというのが実情ではないだろうか?
 話は元に戻るがマスターベーションその他の教則本さえ80年代以降は盛んに出版されるようになった。一頃に比べあまりにも過激なものは大分少なくなったが、それでも今でも時折見かけられるそのような内容の記事は、最早昔(例えば私の幼少時代の昭和三十年代)に比べればタブーでは決してない。つまりそれらは影でこそこそ読むような性質の本ではなしに、若い会社員たちが喜んで買うようなタイプの雑誌に堂々とそういう記事が掲載されているのだ。このような状況下現代の若者の性知識は、実質的なものであるかどうかはともかく、トレンディードラマやテレビタレントや文化人までもが自身の性体験等についてあけすけに語る対談番組等で見られる様に極めて詳細なものになっている、という意味では昔以上であろう。だがそんな彼等とてそれ以前の日本人の資質も引き摺っているのだから、内心では「日米、あるいは日本とヨーロッパどちらが正しいか」ということに関して悩んでいる者も少なくないのではないだろうか?
 しかしそれはそうおいそれとは他人に公言することが憚られる内容の事実なので、例えば愛情(恋人同士のことでも、夫婦間のことでも)とか性について語るのは、例えばフラメンコなど恋の情熱と炎の民族スペイン人のようにはいかないだろう。日本人にとって恋とは未だに彼等に比べれば秘められた思いの、公言することを控える感情である。
 そこで最後の章である本章では、これまでの難解な観念論を一切差し控え、性愛のことについて日本人である私の実体験と、それによって培われた性愛についての考えを述べてみたい。そして男性が女性に言ってはならない言葉、女性が男性に言ってはならない言葉を中心に男女の日常生活上でのトラブル回避術に関して考えていってみよう。この考察はある意味では日本人固有の問題かも知れないが、ある意味ではそれほどどこの国でも変わりないことでもあるように私には思えるのである。
 例えばこれは日本に特有の現象なのか、スポーツ選手や芸能人の結婚話がワイドショーの話題として取り上げられ、盛大な披露宴をすることもまた復活しだした。以前は地味婚というのが流行ったが、再び派手婚時代らしい。またそういうカップルでもずっと仲睦まじい夫婦もいるのだろうが、結構大勢のカップルは数年以内に離婚したり、別の相手と再びあまり間をおかずに再婚したりすることも多くなった。そしてこれは言えることだが、離婚や再婚が自由になったということは、精神衛生上現代人とはストレスフルな生き物なので、いい傾向ではないだろうか?戦前には出戻りなどという嫌な言葉があったが、今そういう言葉を誰か特定の女性に対して使用すると差別用語であると即座に訴えられるだろう。本来生物学的には一夫一婦制というものはある特殊な例外と言ってよく、また人間のようにあるパートナーと添い遂げたら、一生一緒に暮らすというようなタイプの婚姻形式は生物の中での異例中の異例であるらしく、そういう意味では人間はかなり社会秩序を全うする為に精神的には無理をしている生き物なようだ。だから華やかな話題の割には大勢のカップルが離婚しているということは本来の人間の動物としての精神安定にとっては自然なことなのかも知れない。
 そして私的なことになるが、私の父は十六年前に肝臓癌で死去し、私の母と三十年以上添い遂げたが、それでも何度かは離婚を考えたこともある、と私の母は父の十七回忌に実家で私に語った。どんなに仲のよい夫婦でも一度や二度は離婚を考えたことがあるというのは未だ微笑ましいことであり、倦怠期(これも又嫌な言葉だ)というものもどのような熟年カップルでも経験していることであろう。もしそういう気持ちに一度もなったことがなかったとしたら、そういうカップルは希少な例外ではないだろうか?熟年離婚は今年(2007年現在)民法の改正によって離婚後の年金が授受出来るようになったことで、増加しているというデータもある。
 つまり男女の仲というものはある一線を越えた発言をすることによって一挙に崩壊へと雪崩れ込んでいくというケースが最も多いような気が私はする。勿論浮気とかそういう理由のケースもそれなりにあるのだろうが、それ以上に「最早この異性と一緒に同じ家で句暮らすのは懲り懲りだ。」と思うことの第一の理由はほんの些細な心無い一言に対する執念深い恨みに起因することが意外と多いのではないか、と私は思っている。と言うのも人間は動物と違って言語行為を主とした意思疎通を行うので、恋人や配偶者に対する攻撃もまた言葉による応報ということが一番多い気がするのである。そこで異性同士で男が女に決して言ってはいけないこととは何なのか?あるいは女が男に言ってはいけないことは何なのか、ということについて同居したり、長く交際しようと思っているカップルに対して多少の参考になりはしまいかと思い、それをここに挙げてみようと思う。
 まず私は男性なので、男性の側から女性に最も言って欲しくない一言を幾つか挙げてみよう。(この中には私が言われて酷く気分を害したことのある言葉もある。) ① 「あなたには何か夢はないの?」   ② 「あなたは子供なのよ。」 ③ 「他の人<男性のこと>を見てみなさいよ。」   
 私は実はこの一言の内最初のと、二つ目の言葉を若い頃それぞれ別の女性から言われたことがあるのだ。そして最後の言葉は死んだ父親に言われた一言である。
 特に最初の奴は、最近ある事件で兄に殺された妹が兄に対して放った言葉でもある。
 本来そう自分の日常において親しくしてはなくても、いいと思えるようなタイプの知人から似たようなことを言われた場合(そのような不用意な一言を言うからこそそういう人に対しては親しい人に対する様には接したくはないと思う様になるのだが)、むかっときても尚我慢すればよい(そう始終顔を合わす人ではない限り)のだが、その同じ一言を普段一番親しくしている恋人とか配偶者から言われると「可愛さ余って憎さ百倍」になる場合もあるのだ。つまりそういう一言を浴びせかけられて、それに対して「もう我慢出来ない」と思うのは、そう思って別れた方が自分の人生にとってはメリットがある、と思えるからであり、そのような不用意な一言を聞いてさえ我慢するだけの価値がその言葉を吐いた人にあるかどうかという自分の中での価値基準によって自ずとその言葉を吐いた人に対する固定的な感情が定まってくるのである。
 本来男性は夢を一生追い続けるという傾向の感情の生き物であるという意味では女性のような現実主義者以上のものがある場合が多い。そこで特にそのような典型である様な私には①の一言は極めてきつい侮辱に受け取れたのだ。それを言われて私はある女性とはそれ以上親しくはなれないと思ったのだった。②もかなり男性にとってはきつい一言ではないだろうか?男性は社会的な動物であると言ってもよいからだ。そしてその極めつけが③の一言であろう。これは尤も私は父と多少心の行き違いのあった時に言われたので、売り言葉に買い言葉であるようなニュアンスもあって、女性から言われたほどには傷つかずに済んだ記憶がある。しかし①にはそれにかなり近いニュアンスが私には感じられたのである。
 つまり同じ一言をある特定の人から言われることというのは、ある意味では特別の意味を持つ。それは特に親しい人、信頼している人から言われるとずきんとくるということがあることからも読者も了解されるだろう。だから同じ一言を誰から言われるかに応じて人間はその都度異なった対応的な感情を抱くものなのだ。そしてそれは人によって(それは同じ一言を父親から言われた方が頭がくるか、母親から言われた方が頭がくるか、とか、同じ一言を家族から言われた方が傷つくか、逆に他人から言われた方が傷つくかということである)違うだろう。しかし少なくとも同じ一言でも信頼しきっている人から言われるとショックであるという面の方が、それが家族であれ、他人であれ変わりはないのではないだろうか?
 ここ数年日本では親が子供を、子供が親を、あるいは生徒が先生を、先生が生徒を殺すというような事件が類発している。しかしそれらのケースの幾つかはいつの時代にもある親子や、異性同士の生徒と先生の関係に端を発し、その殺し方とか幾つかの事例において現代固有の問題が潜んでいるのではないか?例えば男女の諍い事というのは昔からあった。しかし昔はマスコミ包囲網それ自体が現在のような形でネット化されていなかった。現代という時代の特殊性を一言で言い表すと、実際は大して無関係な事件同士をマスコミが現代固有の問題として扱い、各界の文化人や精神分析医とか弁護士や元警察庁勤務の監察医とかを挙って出演させ、彼等に全ての猟奇的殺人事件を何らかの現代社会固有のものとして各ケースは本来何の関係もない筈なのに巧みに現代的現象として関連付けることでワイドショーの視聴率を稼ごうとしているマスメディア全体の姿勢に象徴されていると言ってもよい。つまり一個一個のケースはかなりそれぞれ固有の事件であり、その中にはよくあるケースも多々あるということだ。しかし殺し方とかの異常さ、遺体の処理の仕方の異常さとかはある程度現代の情報化社会による連鎖反応という様なこともあるかも知れない。
 男女の恋愛関係の縺れ(痴情の縺れ)という様な事態それ自体はかなり古典的な犯罪ケースである。親子や親族間の愛憎という事態も特に現代的なことの様にも思われない。だから殺し方とかその後の異常な行動といったことを取り上げ、それをもって現代に固有の現象であると考えることはある意味では危険である。ただマスメディア自体が加熱報道することで犯罪者の心理を逆上させるということはある程度あるかも知れない。しかし仮にマスメディアの報道の仕方それ自体が加熱していなくても尚、犯罪者、とりわけ殺人犯という存在は、それ自体で精神的に異常な状態にあることは間違いないのだから、私たちが現代を異常な時代であると感じるとすれば、政治家の不用意な発言が失言として受け取られ、即日退任を迫られるようなことと同じように情報化社会という現実が、些細な好奇心を掻き立てる特異な事実がよりクローズアップされ、その方が一番重要なその事件の本質よりも我々の印象に残り、記憶内容と化してしまうという現実の方に寧ろ現代社会の特異な状況が垣間見られると言ってよい。
 だがそういう犯罪を犯罪者をして駆り立てる状況というものはある程度想像はつく。それは言語的な鬱憤を行動で埋め合わせているということである。例の兄妹間の殺人事件では妹の兄に対する説教的な言辞に対して兄が腹を立てたということであるが、これなどは制度的な男性に対するこれも嫌な言葉であるが、勝ち組と負け組のはっきり分かれた世間的な人物に対する評定そのものが、あのケースでは妹の発言には見られた。その様に負け組的なレッテルを貼られた兄は妹に対して一線を越えた発言と受け取り(と言うことはそういう発言を身内からだけは言って欲しくはなかったということになる)、だったら体力だけはお前には負けないのだ、という主張が彼女に対して兄の側からなされたのだ。
 これは言語的な行為、発言自体がその気軽に慣用しやすさの割には意外とそう言われた側のトラウマを容易には解消させてはくれないという恐らく古代から人間にあったとも思われる言語行為の恐ろしさを物語っている。
 男が女に対して言ってはいけないことというのもあるだろう。しかし男性が女性に言葉で侮辱することは意外と少ないということは言えるかも知れない。もしあったとしたら愛情の欠けた発言ということになるだろう。愛情の示し方も、示されたい仕方も男女では微妙に異なる。例えば女性に対してブスと言うのは確かに禁句であるが、それで本当に愛し合っている男女間ではそういう揶揄を言っても許されるということもあるかも知れない。
 例えば妻が突然中年以降に年齢になってから美人コンテストに出ようとした時、「この街には君より美人は大勢いるのだから止めておいたら」とか夫が忠告するということはあり得ることである。だからそれも小さな侮辱ではあるが、そういうことよりも恐らく女性は、相手に対する配慮、例えば新しい服を着たり、化粧の仕方を変えたりすることに無頓着な男性とか、何らか日常おける努力に対してきちんと理解してあげられるだけの「心のゆとり」のない男性の心遣いに対して、我慢がならないということはあるかも知れない。男性の場合社会的な評定自体をパートナーに下されるような発言に対しては憤りを持つことが多いが、女性が男性に対して揶揄的な発言、例えば「父さんも腹が出てきたね。」とか娘と一緒に言われても、それほど腹は立たないだろう。ある意味では長く一緒に暮らす夫婦の間柄では寧ろ歯の浮く様なお世辞とか美辞麗句は他人に対してなされる社交辞令と違って、逆効果である。彼等の間では親しい友人間でもそうなのだが、その言葉を聞く側にとって発する本人の本音を理解しやすい発言の方がずっと愛情が篭っており、また責任ある発言だと見做されるし、彼等もそのことに関しては了解し合っていることが多い。だから配慮的な意味でもあまり他人の前で夫を見下すような言葉を発言する様なことでもない限り直接揶揄されるようなことはあったとしても尚男性が女性に対してそのことで極度に恨みを抱くということはあまりないだろう。
 或いは食事の際のマナーや裸で室内を歩き回る様なことは特に伴侶である女性や娘から見たら耐えられないということもあるかも知れない。しかしそれも恐らく個人差のあることである。しかし男性にはいつまでも子供のままでいるという様なところがある。それに対して女性は男性よりも早く大人になろうとするところもある。そこで勢い余って女性は男性のことを母親でもないのに、母親が息子とか姉が弟に対して接するようになる。それは妹が兄に対して採ることもよくある態度である。だから女性は社会が男性に対して好むと好まざるとにかかわらず規定してくるようなジェンダーロールに対する自分なりの意識に対して「何もしていないじゃないの」的な発言だけは控えるようにしなければならない、と私は思う。せめてそれくらいなら男性に対して採ることの出来る配慮ではないだろうか?今度は女性から見た男性の我慢のならない一言に関して考えてみよう。しかし私は男性なのでここは一つ私の知る女性から発言して貰おうと思う。
 私の知人のある壮年女性は、やはり身体的なことや顔のことで文句を言われるのと女性は一番嫌がるのではないかと彼女はそう言ったが、やはり女性も「あなた<君>は何か夢でもないのか」と言われることもかなりきつい一言であると言っていた。
 ある意味では私は彼女から仕入れたことを基準に言えば、案外男性が女性に対して思う以上に女性が男性から言われて傷つく一言とはそう変わらないということであった。
 だが最も難しいこととは、人間は婚姻関係にある者同士をただ単に人生のパートナーとして理解し合えるということであるなら(つまり生物学的に言って繁殖目的だけではないのなら)そういうレヴェルではそのような発言を差し控えるという意志的な努力が、もしキリスト教的倫理に基づいて「死が二人を分かつまで」生涯添い遂げようとしているのなら、円満な夫婦関係によく作用するということはあるだろうが、そのような言語行為的な倫理と、性をもっと単純に繁殖目的の行為と見做す(尤も生物学者たちは性を繁殖だけのためのものとはとっくに見做していないのだが)なら寧ろ言語行為を発話と捉えるなら邪魔なものとして作用するという場合もあるのだ。愛を性愛として捉えるなら確かに言葉は要らない。しかし夫婦とか男女間の人生のパートナーシップの前では性愛だけが愛情ではない。互いに病気になった時には助け合い、あるいは社会生活それ自体を維持するために協力し合うという意志的努力の方がずっと重要な場合もある。とりわけ子供を育て終えた中年以降の夫婦にとってはそうだろう。だから言語行為において「心に残る言葉」も、先にくどくどと説明してきた「許せない言葉」も、共に社会生活上での最も重要なパートナーでもある性的パートナーとの間では人間の場合非言語的な相性の問題だけでは済まされない(勿論非言語的な相性が、性愛行為の際の身体的な言語に直結するから、それはそれで重要だけれども)、要するに社会人同士の相互理解が重要になってくる。それはある意味ではジェンダー的な男女の差を相互に理解し合い、その前提に立ってそれを克服することが理想であるような心と心の交流である。
 本論では「心に残る言葉」と「思い遣りのある言葉」について最後に考えていってみようと思う。
 私は本論において第一章で哲学者の考えを現象学の歴史的要請、時代的使命に関してアンリを中心に考えてみたのは、フランス人という民族性が現象学発祥の本場ドイツ人とも日本人とも全く異なった言語行為に対する文化的伝統があるということに関して関心があったからでもある。現代では現象学はアメリカの哲学者であるヒューバート・ドレイファス等によってもまた引き継がれているが、発祥当時はドイツとフランスが中心だった。そしてフランスは現象学以外にも実存主義(現象学とも密接な歴史がある)もあったし、構造主義もあったし、ポスト構造主義という思潮も輩出した。要するにフランス人はアメリカ人が得意とするようなタイプの民主主義的ディベートの好きな国民性とも、また微妙に異なったタイプの詩的修辞性の濃厚なタイプの、シャンソンの国民性の語り好きである。論争も、芸術論も好きな彼等にとって語ることは人生であり、書く行為も民族的資質としては他の国民ともまた異なった信仰性がある。
 それに対して日本人は論議そのものを元来得意とする民族ではない。だからと言って日本人にはロジックがないというとそれは間違いだと私は思うが、少なくとも一般的な日常生活において論議とか議論とかが定着しているとは民族資質的には言い難い。そこに私たち日本人にとっての(実はドイツ人もまたフランス人の議論好きとは全く異なった資質があり、それは日本人とも共通したところがあると言われている)言語に対する独自の美学とか、言語観とか言語生活観とかが潜んでいる様な気がする。そしてそれは日本人の作茶道とか華道とかの文化的な伝統とも関係があるよう思われる。
 それは文化的な問題である。言語行為に対する民族的な認識の傾向のことである。しかしそのような認識が生じるということは、逆に言えばそういう認識を成り立たせる生活世界というものが一方にあり、その生活があるとい事実は日本人であれ、フランス人であれ、イギリス人であれ、アメリカ人であれ、ドイツ人であれ、韓国人であれ変わりはない。ただ各自の祖国という異なった土地に根付いた歴史があるだけである。つまり文化とは、文化を成立させる生活があり、その生活は人間が生物学的な種として当然のことながら営む環境適応の行動である。
 現代の生物学者たちの多くは動物の行動の殆ど全てを自らの遺伝子を拡張するために最適な行動とは何かということを本能的に選択していると考えている。勿論この考えに対して異論を唱えるタイプの学者もいる(2012年の現在ではその数は増えてきている)のだが、取り敢えずそのことに関してはそれだけに留めておくとして、大勢の現代生物学者の性と遺伝子拡張のために最適な行動とは何かということで選択された婚姻形態とか性行動に関する理論を人間にまで適用することに対して、恐らく殆どの宗教思想家や一部の哲学者たちは極度の警戒感を持って臨むだろう。
 しかし本論の序で私が始めの部分で科学とは奇蹟という考え方の否定であると言ったが、その真理に従えば、我々自身が人間であるからと言って人間だけを特殊な存在として見る見方は少なくとも科学的見地から言えば正しいとは言えない。そして私は性は繁殖を目的とした性行為のことだけで性科学の生物学者たちは考えてはいないと言ったが、実はそれは例えばチンパンジーによく似た、あるいはチンパンジーの一種とも考えられているボノボたちが繁殖のためだけのセックス一辺倒ではないという現実、つまりグルーミング(毛づくろい)とかと同じような友愛的な、親愛の情を示す社交辞令的な、儀礼的な性行為を行うという意味で、人間もまた妊娠だけを目的とした性行為を行うのではない(そのことに関してキリスト教原理主義は反対するだろうけれども)ということから見れば同じであるということだけのことを言っているのではない。人間にとっての性は、実は性行為を中心とした行動以外の身体のホメオスタシス(恒常性)や内分泌作用とか様々な重要な身体的機能と密接に関わっているという意味で生物学者たちは注目しているのだ。自然はそれ自体に関して特定の目的を我々の種人間に与えているわけではない。しかし人間はまさにナイルズ・エルドリッジ(考古学者)の言の如く「生きる」目的のためにそういった身体的機能をも司る性というものに対して感謝しているのかも知れない。
 生物学的には人間と他の霊長類を厳密に異なった生物であるとする様な境界はない。寧ろそのような境界は人間が人間のために設けたものでしかない。しかしそのような生物学的な事実は、逆に我々に対して「だからこそ社会倫理としての夫婦の愛情は相互に対する思い遣りと責任に端を発している」という考えを持つことを積極的に支えているとも言えるのだ。端的に言えば人間もまたただの動物である。だからこそただ単に性行為を繁殖や性的快楽だけに任せることを潔しとしない、つまり永続的な人間観の感情の交流という価値に転化させることを人間は考え、そこに社会的な共同幻想である責任という概念を基軸にしながら、言語行為、言語諸活動を進化させてきた、ということなのだ。そして言語の進化とは恐らく長く共に暮らす夫婦の間でも各自異なった形ではあれ、必ずあるのだろう。それは恋人たちにもあるし、同性同士の友情にも、あるいは異性間での友情にもあるのかも知れない。  そういう意味では生物学という科学は、現象学が直接倫理に触れることなく、倫理を取り巻く身体的実存を具に観察することで記述する学問である、という観点とも大いに共通する倫理誘発的な学問である、と言えないだろうか?
 そこで我々が日本人であるという現実の前で日本人に固有の「心に残る言葉」とか「思い遣りのある言葉」とは、実は他の多くの民族にとってもそうなのだ、という観点に立って、宗教の言葉、文学の言葉、科学の言葉、政治の言葉、哲学の言葉、あるいは日常の言葉等に求めていってみようと思う。
 私たちが他人から言われて「心に残る」とか「思い遣りがある」と思える言葉とは、その言葉を吐く人の中でその言葉を聞く人に対する何らかの気遣いに端を発する言葉である。 その気遣いの本質を考えてみよう。まず考えられることとは、第六章において示した発話する者の心的動機の次の部分が合わさったものと考えられる。 ④ 自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する(これも又対話者に対する信頼を必要とする)。   ⑤ 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読むこと)も、そうしないこと も発話される側の自由だが、発話すること(記述すること)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。
 ④の心の動機を自分に対してではなく、対話する相手に対して向けると次のようになる。
 対話する相手の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻させ、対話の相手を激励する、あるいは鼓舞する為に発語する(これもまた対話者に対する信頼を必要とする)。
 そして⑤の心的動機を、他者に対して適用するわけだが、「ほっといてあげる」型の選択をしながら、「ほっといてあげる」ことも出来るが、こういうことを「してあげる」ことも出来るよ、と語りかけるのだ。だからそう言われて、その言われたことを気にしなくてもいいんだけれど、関心があるのなら参考にしてみたら、という発言である。
 つまりこの二つを兼ね備えた発言のみ、我々は親切な一言、つまり「心の残る言葉」であり、「思い遣りのある言葉」であると認識するのではないだろうか?認識という言葉がどこか左脳的なニュアンスに響くという向きには感得する、と言い換えてもよい。
 そこで心に残る、思い遣りのある言葉をもう一度定義しなおそう。 ① 対話する相手の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻させ、対話の相手を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これも又対話者に対する信頼を必要とする。) ② 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読むこと)も、そうしないことも発話される側の自由だが、発話されること(記述を読むこと)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。だが同時にそれを参考にすることも出来るよ、と語る。
「心に残る言葉」は、それを語る人の語り口、語調、他者への気遣いということなのだろう。ここで結論として、幾つかの例を挙げて、そこに漲る自己‐他者における本質論的なことについて考えてみることにしよう。そしてその際に責任を軸に考えてみよう。何故ならこれから挙げる宗教の言葉、文学の言葉、科学の言葉、政治の言葉、哲学の言葉、あるいは日常の言葉等には、明らかに思い遣りというものの中の責任、心に残る箴言というものがあるからである。
 思い遣りがあるとか、激励の言葉は変にウェットになり過ぎない方が心が安らぐという人もいることだろう。そういう意味では私は言語行為というものは、メタ認知的なことも必要であると考える。しかしまたそのメタ認知にも程度はあるだろう。あまりにも相手の心を深読みし過ぎることも考え物だからだ。心に残る一言も、その場その時には反感を買うものでさえ、時間がたってみると意外に心に染み入る場合もあるし、その逆もあるだろう。あるいはやはり通り一遍であるが故に心に染み入るということもある。変に気取ったり、変に工夫しないでいたりする方がずっと思い遣りがある場合もある。
 やはり私たち日本人が心掛けておかなくてはならないこととは、「ほっといてあげる」型の発言は、どこまでほっといてあげるのか、どこまで相手の心を斟酌しておく必要があるのか、ということが問われるということだろう。
 でもそれはある意味では文化的状況とか、個々人のその時々の感情の様相と密接だろう。あるいはシニシズムそのものが効力を発揮するのは、そのシニシズムを冷静に受け止める心の余裕が齎すものである。だからこそその時「むかっときた。」と感じた一言が将来意外と「いい一言だった。」ということにもなり得るわけである。
 そういう意味では哲学者の中でもニーチェとか文学者の中でもオスカー・ワイルドはどこか虚飾を取り払ったことから生まれるシニシズムがあると思われる。例えばワイルドの次の言説は明らかに彼がニーチェ流を愛していたのではないかと思わせる。
 「人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは魅力があるか、さもなければ退屈か、そのいずれかですよ。<ヴィンダミア夫人の扇>」
 しかし前半はニーチェ的な要素が濃厚だが、後半の言説はやや違って、やはりワイルド流ではないか、と感じさせはしないだろうか?例えばニーチェなら魅力などという粋な言葉を考え付かないだろうと思うからだ。例えばニーチェなら次のように言うのではないか?  
「人間のことを善人だとか、悪人だとか、そんな風に区別するのはばかげたことですよ。人というのは善いと思うか、悪いと思うかその時々の立場とそれによって生じる欲望に応じて使い分けるのです。」
 しかしニーチェは恐らくそんなに直接その様に語ることを選択しはしない。そこにニーチェ流があり、文学者ワイルドとの違いも横たわっている。ワイルドはニーチェより十年後に生まれ、二人は同じ年、1900年に死去している。ワイルドもニーチェもお互いの存在を知っていただろう。ワイルドは1854年に生まれ、ニーチェは1844に生まれている。その二人よりは少し若い世代にワルター・ベンヤミンがいるが、彼は1892年に生まれているから、ワイルドが38歳、ニーチェが48歳の時に生まれたことになる。この年、ワイルドは1888年に「幸福の王子」を発表、人気作家として絶頂にあり、その三年後に逮捕、有罪判決を受け、服役することとなる前の状態であった。一方ニーチェは診断の状況から鑑みて、梅毒とも脳腫瘍とも説があるが、兎に角精神的な異常を来たし、その三年前には「偶像の黄昏」を出版に漕ぎ着けているが、翌年に夫が自殺したために舞い戻ってくる妹エリザーベトが出版権やら、身の回りの世話をすることになる以前の、ぼろぼろの状態だったようである。
 さてベンヤミンにとって死後公表された草稿群である「パサージュ論」は現代社会の様相から見た時、その先見の明には驚かされる。そういう風に生涯公表することなく携えていたというところなどレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を彷彿とさせるが、この論の中から幾つか秀逸と思われる記述、しかもベンヤミンが他の著作者からの引用として記していたものの合間に自分の意見をしたためていたものの中からピックアップして記載しよう。
「新しいものがどういったものであるか、そのことをもっともよく教えてくれるものは、おそらく遊歩者であろう。独自の運動をし、独自の魂を宿した群集という仮象こそは、遊歩者の新しいものへの渇望を癒すものである。実際のところ、この集団は仮象以外のなにものでもない。遊歩者が享受するこの「群集」は、70年後に民族共同体〔ナチズムを示唆している〕が流し込まれる鋳型なのである。自分が目覚めていること、そして一匹狼であることを自負している遊歩者は、その後に何百万人もの目を眩ませた虚像の最初の犠牲者であったという点でも、同時代者に先んじていた。[J66、1]」
「結婚の社会的価値は、決定的にその犠牲者による。というのも、この犠牲のうちには、配偶者相互の最終的で決定的な、しかし生涯のあいだ先送りされる「対決」の観念が潜んでいるからである。配偶者は、結婚が続いているかぎりは、この対決を免れるのである。つまり基本的には生涯にわたって免れるのである。[J67、1]」
 前者は遊歩者という存在が、都市生活上、各個人は自分のことを自分自身による主体的な行動であると考えていても(事実誰しもそう思うものなのだが)、統計上全ての市民、各個人は、一定の水準で割り当てられる全体の中のある層であるということが誰しも了解出来る。例えばある社会において、ある特定の時代に於いて、その時代状況に於いて、多く犯罪者が出現する時期というのもあるだろが、ある程度の振幅が認められるにせよ、概ねそれは変わりないし、天才とか、個人主義的傾向の人とか、要するに色々なカテゴリーに属する人の割合というものはそう変わりないし、しかも各個人が、例えば私自身がどのカテゴリーに属するかということは偶然的でしかないが、それが一定の纏まりになると、途端に何らかの必然的な法則性が見えてくるという意味で、真に集団から解放された自由な個人というものはあり得ないと自然科学的現実からは言える。その意味でベンヤミンの前者の言説は科学の言葉でもあるし、後者の言説は社会学的であると同時に哲学的な言葉であり、政治の言葉でもあると言える。そしてワイルドの言葉は政治の言葉にもなり得るし、科学の言葉として認識することすら可能である。そして総体として見た時、哲学の言葉とも言えるかも知れない。
 そして後者は明らかに結婚幻想を抱いている人向けの、シニシズムである。要するに結婚とは社会的対立を避けるために自然が我々に付与した妥協策であり、知恵である、という意味では生涯一人の伴侶に愛の忠誠を誓うことすらも、実は我慢の連続であり、それはそれ以上のいがみ合いを回避するためにのみさなれる人生のルティンワークにしか過ぎないとしたら、若い世代の人々は幻滅するかも知れないが、そもそも人生とはあらゆる仄かな幻想に対して幻滅することから、その醍醐味がスタートする、という意味ではこの言説は極めて説得力を持っていると言える。
 前者はユダヤ・アイデンティティーとしての言説として、後者は結婚に失敗した男の言説として銘記しておくべきベンヤミンの名句であろう。
 制度は性悪説的な処方箋として完備されてきたものである。その制度によって生まれた慣習に対してロマンを感じる向きに対しては、痛烈な皮肉としてこういった文学、修辞学、哲学の鬼才たちは言説として時代の安易な風潮に対して楔を打ち込んできたのだった。そういう意味では論語の次の言葉は現代に生活する我々にも心にぐさりと突き刺さる。
「子白、有徳者必有言、有言者不必有徳、仁者必有勇、勇者不必有仁、 子曰わく、徳ある者は必らず言あり。言ある者は必らずしも徳あらず。仁者は必らず勇あり。勇者は必らずしも仁あらず。
 先生がいわれた、「徳のある人にはきっとよいことばがあるが、よいことばのある人には徳があるとは限らない。仁の人にはきっと勇気があるが、勇敢な人には仁があるとは限らない。」(金谷治訳注、岩波文庫)
 つまり孔子の考えでは形式としての表現内容というものはまさにテクストとか、要するにその発言をした人の実像を知らなくても、普遍的な真理として読み取れるものだが、その発言が真意でなされたのかとか、人生の真実の経験から発せられたのかということに関しては定かではない。しかしだからと言ってその言葉そのものは美があり、真実を突いているのなら、そのこと自体は価値であり、また仁義を尽くす人の行動とか精神は勇気に溢れていると言えるが、勇気のある人全般に仁義があるとは限らない、つまり悪党には悪党の勇気というものもあるし、潔い人間が穏やかで優しい場合もあれば、冷淡な場合もあるように、必ずしもその精神の価値がその人間の価値には結びつかないという不条理は社会そのものと言うよりは自然の傾向として受けとめるべき事実であろう、と私はこの言説を読み取る。つまりもし仁義のない人によって発せられた言説であっても、その言説自体の価値はそれはそれとして認めるべきである、というのは、幾ら素晴らしい人格の人が洩らした一言が、その素晴らしい人によって齎されたとは言え、仮に下らない一言の内容であれば、価値として受けとめる必要など何らないし、それは何らかのアイデアでも提案でもそうだし、権威礼賛型行為選択志向の人間には耳の痛い話であるが、そういう真理として私は受け取っている。逆にただ言葉だけが美しい人、勇気だけがある人が、その事実をもってして、称賛に値するかと言えば、そうは問屋が卸さないという意味で受け取る人もおられるだろうし、それは自由であるが、それは形式より内容を取る人、あるいは情による人間関係を重んじるタイプの人の解釈かも知れない。私はそこら辺は都会派的にシビヤに、ドライに割り切って、寧ろ真意や心根が美しい人でも、形式主義的な、つまりその人間性の表現方法とか、儀礼的な技能によって随分損をすることもあるし、逆にそれほど慎ましやかで称賛に値する心根や人格ではない人でも、そのパフォーマンス次第では何とか社会を生き抜いていけるという責任論に近いものを私は受け取り、社会の現実、つまり競争社会のシビヤな事実を記述している、と受け留めている。又そう解釈する方が実力はあったが生涯高官位を得ることなく果てた孔子の言説としては身に染みるという気がするのである。これは明らかに政治の言葉であると同時に哲学の言葉でもあるし、科学の言葉(科学的態度とはこうあるべきであるという提言として)でさえあると言えよう。
 要するに、どのような言葉が責任ある言葉、本音の出る言葉、思い遣りのある言葉、心に残る言葉、許せない言葉かという判断基準は、ある程度個人的な受け取り方に依存する。しかしそのような判断基準は各個人の成長過程で起きた出来事とか、遺伝的性格とか色々あって、なかなか一般的判断には結びつかない、従ってそのような個々の受け取り方に関する論述は後日の私の宿題にすることとして、本論ではは何らかの結論めいたことを提出しなくてはならない。愛と性の言語と言いながら、前半ではその種の考えを述べたものの、殆ど性愛とは別個の倫理的問題とか言語的メッセージの問題に終始してきたが、実は私の狙いはそこにあったのである。愛や性に関して生物学的、社会学的、人類学的テクストは沢山出版されている。しかしもっと私たちにとって重要なこととは、そのような曖昧な概念が私たちを社会的には支配している、ということと、その曖昧さが存在する意味を、個人的な価値判断と、公的な価値判断を峻別する癖が我々についている、ということを読み取る為のツールとして考えるべきかも知れないし、それが最も重要なこととして浮かび上がってくるのである。
 例えば本音の出る言葉というのは通常親しい人の間柄同士でのみ心に残る言葉になり得るが、よく知らない人同士だと非常識というレッテルを貼られかねない。或いは行動に関してもそのことが言える。行動というのは常に責任を伴う、それだけで社会的な概念として考える必要が人間社会には求められる。すると日頃どんなにいい人であると信望が厚くても、一旦挙動不審な行動を採れば、それだけで非常識というレッテルを貼られる。常識というものは要するに責任倫理的な法的価値規範である。それ自体は確かに法的に裁かれ得ないこともあるだろうが、概してどんなにその人間の真意や、心根が美しいものであっても、この最低限の常識を遵守しない者は、それで罪を課せられ裁かれるということはないにせよ、何らかの形で社会的な信用をなくすとかの制裁を受ける。「親しき仲にも礼儀あり」と言うような使い古されたような諺にもちゃんと真理はあるのである。責任的行動倫理とは、実は情とか義理とかそういうレヴェルで判断してはならないものなのだ。もし法というものが全て明文化されている以上のその都度の人治主義的判断で執行されたとしたら、それはただの丼感情でしかない。それはある種の閉鎖的共同体に顕著な価値判断、法的性格とも言える。だからこそ六法全書的テクスト言語というものは、どこか突っ放した冷たい印象を我々に与えるが、まさにそうであってこそ、その法に従う市民層のどのクラスの人に対しても平等に適用される、という法の精神が活かされ得るのである。それはあらゆる人情的、贔屓筋的な丼感情を排斥するために寧ろ積極的に必要な措置=体裁なのである。それこそが責任倫理の真理主義と言えるだろう。 
 そして実は言ってはならないことというのはどんなに親しい間柄でも存在する。その一つが本章で最初部で述べた男と女の会話術的な言説によって私はある程度示し得たと思う。私は昔から人情味溢れる言説よりも、常に冷厳な現実をよく言い表した名句の方により惹かれるタイプの人間だった。そういう意味では偽善的人情句というものが大嫌いである。
 と言うのも本質的に家族とか、親族とか、配偶者間の結婚とか、そういう諸々の人間関係的な社会制度というものは、実は人情主義によって命脈を保っているのではなく、相互の行動論的な責任倫理によってこそ結ばれている、と言えるからである。そしてそれは例えばどんなに親しい者同士でも庇い合うという精神は必要であろうが、一定のラインを超えたら、親しい者同士で裁くことは法的にも社会倫理的にも許されまい。
 つまり愛や性といった一見生理的レヴェルの問題でさえ、言説的側面から判断すれば、明らかに社会秩序と、ある二つの行動間に横たわる二者択一の問題にしても、論理的筋道とか、倫理学的決裁方法とか、要するに責任倫理の真理主義が求められるのだ(もしセックスまでそういう言説であるとする考えに反感を感じられる向きには言いたいのだが、性行為をよりエクスタシー獲得や、非倫理的動物的欲求に還元しようとすればするほど、性交渉の相手に対する配慮とか約束事<遊びにしたって遊びのルールが厳然と存在する。>が浮上するという意味においては、私たち人間の行動は悪には悪なりの勇気があるというレヴェルにおいて称賛される場合においてさえ、その行動の形式的責任倫理の真理主義が求められるのだ)。
 いや人間にとって愛や性は、契約であり、規約であり、理性的行動規範によって善悪が判断される言説的、言語行為的、言語空間依拠的な行動であると言ってよい。
 人間が相手に対して憤りの感情を抱くことは日常茶飯事だ。しかしその時向こうの立場やら、相互に相手の弱点に対する配慮を持てば衝突は避けられる。そういう意味では愛や性といった個人的な感情のレヴェルから相手の立場を尊重した責任倫理の真理主義が採用されれば、昨今のような猟奇的殺人にまで至る様な悲惨な現実を招くことなどないだろうに、と常に私は思っている。そしてある程度の冷厳な法的精神と、形式主義的正当性を優先するような理性主義を持ち、つまり人情主義加担的なヒロイズムを捨て去り、ロマンよりもリアルな面からの判断を優先することによって、この過密スケジュール的な現代情報化社会のシステム内で、何とか潤いのある生活を手中に収めることが出来るのではないか、と提言したこの論を閉じようと思う。  最後に一言だけ述べさせて貰おう。 「触れ合い」とは「馴れ合い」ではない。  「触れ合い」は責任という行為と精神によって成立する。(了)
 本シリーズは加筆修正をしているが、基本的に五年前のものを基本としている。敢えて引用文献は記さないが、各章毎に引用する度には示しておいた。昨年の大震災でかなり日本人の未来への考え方は変わったが、ここで触れられていいることは概ね外れていないとも思っている。次回からはその都度自由に書き込み更新していこうと考えている。格別シリーズ化する予定もない。但しより哲学的考察と人類学的考察のクロスする部分は意識し、単発的なシリーズをその都度恣意的に更新させるつもりである。(Michael Kawaguchi)