Thursday, October 15, 2009

〔責任論〕第二章 責任と良心①

 人間には他者に対して「もしも彼(女)の立場に自分が置かれたたら」という思念を持つことが出来る。それは自己を他者に置き換えて考える仮定法の思念である。この能力が人間に言語活動(現在までのような)において多大な進化を齎してきた。
 人間が利他的な行動に出たり、利他的な価値観によって決心したりするのは、人間が集団内で利他的な行動をするべきであるという観念が定着しているからであり、その観念の出所とは一方で人間がややもすると利己的な特殊意志を知らず知らずの内に発動することがある、と全ての成員が了解し合っているからである。それはある意味では性悪的傾向を有していることを皆が了解し合っていることを意味する。
 利己的対他攻撃欲求を抑制する知性とは自主的なものであり、それを支えるものは良心である。人間は悪を悪であると認識することが出来る。この能力は悪事を働く者にある種の疚しさを感じさせるところのものである。疚しさを感じることが出来るということはそれだけで良心を抱くということであるから、どんな悪党でも疚しさを克服する仕方を知っているのだろう。責任は疚しさを感じるという事態にて疚しさを感じずに済む処方として捻出された観念であるとも言える。しかしもしそれを遂行しなければ疚しいと感じるから、それを避けたいという消極的な観念とは、寧ろ責任感のない者に向けられた最終的な防波堤であり、真実に責任を全うする者に対して責任とは善行に勤しむことを促進する里程標である。防波堤であるだけの責任に対する認識と、里程標としての認識に横たわるずれが、我々を自分に対する評定基準として作用させる時、出来得るなら自分をよい方において選択したいと望む心理を醸成する。
 カントが善意志と言った時、彼の中では明らかに性格論的な行動としてではなく、つまりその人間の傾向性としての選択ではなく、その選択が自分にとって好ましくはないものであっても尚、義務履行的に、あるいは責務遂行的に選択する意志の方をこそ積極的に評価に値するとしている。だから逆に性善的な性格、傾向性を有する者も尚、意志的に正しいと確信して(ただ贔屓心によってではなく)遂行する行為にこそ意味がある、とカントは捉える。それは感覚的行動に対する認識的行動の優位性の主張であると受け取ることも可能である。ここで責任と認識について少し考えてみよう。
 良心をただ単に悪いことをしたくはないということ、つまり悪いことをすると撥が当たるという観念からではなく、それが真に正しいと確信するから何らかの良心的行動を起こすという決意にはある積極的な信念が求められる。それはその信念を脅かす存在が立ち現れた時には敢然とそれに立ち向かい、攻撃することも辞さないという決意が必要である。よって良心に対する確信というものは一面ではただ優しく行動し、他者を傷つけずに済ますというような生易しさとは対極の性格が内在している。逆に責任に対する信念とは、それ自体が良好に世間的にも、結果論的にも作用している内は何の問題もないが、逆にそうではない場合ですら責任は責任なのだから、非良好であっても結果論的に良好ではなくても尚衆目の一致を見ることを強いるものでもあるのだ。それはある時には非情ですらある。例えば裁判官の息子や娘であれ、殺人を犯したら、それを裁くのが親であっても、親は自分の子供に死刑の判決を下さなければならない。勿論これは比喩である。要するにえこ贔屓を許さないという堅い信念が要求されるので、ある場合には窮屈な結果に終始することすらあるということなのだ。例えばそれは民主主義に関しても当て嵌まるのだ。全ての成員が間違った民主主義的選択をなした場合ですら、それは手続き上正しいことなのである。
 つまり悪法があったとして、あるいは誤った判断によって無実の被疑者を護送する公務員には職務上の命令につき従っているだけであり、自らの判断によって被疑者を取り逃がしたりすることは通常許されない。その法を遵守する役人の行為それ自体は責務に忠実なだけであり、何ら責められる筋合いのものではない。故に責任というものは個人にばかりではなく、社会全体にもまた課せられていると考えることの方が理はあるのだ。

No comments:

Post a Comment