Friday, October 9, 2009

責任論<梗概>

 責任という言葉は我々現代人固有の響きが感じられる。しかしそれは恐らく人類発祥の頃からあった。だが責任は知性の発達に伴って然る後に発生したと考える向きもあるが、私は責任が理性と抱き合わせとなって初めて知性が発達したと考える。というのも責任とは責任を負う者に対する能力の承認、とりわけ記憶能力の承認であるからだ。責任と常に共存してきたのが良心であり、我々は責任と良心を常にある時には協力させ、ある時には対立させてあらゆる判断をしてきたのだ、と思う。行動はそれ自体で一つの決心である。それは個人のレヴェルでも集団のレヴェルでもそうである。だから我々は意志決定の合理化において責任と良心を常に発動させている。何に対して責任を取り、何に対して良心を抱くかということが行動における選択を決するのだ。
 私は記憶と意識と情動の三角形構図を考えている。意識と情動の狭間に行動があるが、そのことは本論では特に扱わない。寧ろ記憶と意識の狭間に反省があり、記憶と情動の狭間に後悔があり、反省と後悔の狭間に責任がある。責任は理性に頼られ、理性を利用する。言語活動もまた責任においてなされる。勿論良心によって責任が活性化することもあるだろう。しかし良心の情による流されやすさに対して責任は冷厳に接する。責任と良心が一致して行動したり、発語することもあるだろうが、反発し合い行動したり、発語したりすることもあるだろう。そして個人の責任と良心は別の個人のそれや集団のそれとも一致しない場合もある。そういう時、何を優先するかで我々の行動や発語は流動的となる。
 本論ではカント、ヘーゲル、ニーチェ、マックス・ヴェーバー、ベンヤミン、シュレーディンガー、ライル、そしてウィリアム・カルヴィン(理論神経生理学)、フランソワ・アンセルメ(精神分析)+ピエール・マジストレッティー(神経学)、ジェームズ・L・マッガウ(脳科学)、大屋雄裕(法哲学)のテクストを大きく参照しつつ、あるいは孔子解釈、ネット社会といった現実をも交えて責任の在り方、あるいは責任を根幹とした人類の進化と現状を考えてみたいと思う。

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