Saturday, February 15, 2014

シリーズ 愛と法 第七章 愛と性は一致するか?①

 もし愛と性とが完全に常に調和を保ち一致している、その志向性も、その願望も、その理想も、要するに全てのそれらに付帯する価値に於いて完全に一体化し合致していたなら、恐らく世界中の全ての文学、思想、哲学は完全に覆されるであろう。
 我々にとって身体と心と言う時、かなりの比重で性と愛とも言い換えられる。
 第三章で既に述べてきたことと、前章で述べた幸福感ということは常に完全分離しているとも言い切れないが、完全一体化しているともやはり言い難い。言い切れないより少しこちらの方が強い。
 エロスは自分自身で理性だと思っていることに常に従順ではない。寧ろ理性とはエロスに耽溺するか、或いはエロスに翻弄されることの内に仄浮かぶ「心とはこうであるべきである」という理念である。それが理念であるからには、全ての我々の性行動が完全に理性に拠って制御されているとは言い難いということをも意味する。恐らくそれは結婚をしていてもしていなくても同じである。
 人間は自分自身の全行動を理性に拠って制御していると思っているのなら甚だしい幻想である。それは仮に法的に一切触れない様に日頃から行動していてもそうである。
 対人感情の全ては理性に拠る統制下にあるわけではない。寧ろ全ての対人感情がかなり感情的気分、それは決して理性的に判断していると言えない性質の判断に拠ってなされている(心に持たれている、と言い換えてもいいが)と言える。人間は全行動を統制することが容易な心のロボットではない。寧ろ心とは行動や習慣や記憶や様々なものに拠ってその都度右往左往させられている。勿論全ての行動や習慣を統制しようと心がけることは出来る。しかしその統制それ自体が既に過去の記憶にかなりの度合いで支配を受けている。心のデータベースは常に現在知覚へと総動員される。しかし既に忘却してしまっていることもかなり多く、記憶違いもあれば、知覚自体も錯覚に塗れている。
 エロスはリビドー的なことも含めれば常に揺れている。好きだと思っている相手へ一挙に幻滅することもあれば、理性的にこの相手は不適切だと思っている相手に対してさえ欲情する。勿論全てのエロス的情動も何等かの形でそれが喚起される根拠は詳細に分析すればあるのかも知れない。しかしその様に全記憶、全習慣を隅から隅迄探る心の余裕は我々にはない。今抱えている全問題に取り掛からねばならないからだ。かくしてエロス的な衝動は処理されて然るべき問題へと格下げされる。
 しかしこの格下げは処理しさえすればいいという形で決定されるので、非理性的なことである。我々の身体は理性的ではない。非理性的であればこそ病気にも罹るし、努力を怠りたいとも思う。要するに理性は身体にとって身体と心との乖離を自覚する我々に拠って設定された処方であり、ほんの部分的な解決法である。身体的な苦悩、病苦やエロス的衝動の全てを身体は処方しなければいけないので、その身体の処方を手助けする為に理性が動員され病院へ行くとか、ベッドで横になって安静にしていようと我々は意志決定する。
 しかし性衝動自体は意志決定とは違う。全人類史的な婚姻制度はこのことを人間が知っていたからこそ設定されてきている。しかしその性衝動の抑制方法や、性衝動自体を過剰に喚起させまいとすることに動員される理性はその具体的処方を提供しているわけではない。従って身体の病理的な判断、免疫その他のものを含む身体自体の判断こそが病気であり、そうなった時にそれを治癒させようと画策する時にも理性は動員されるし、倫理的な社会認識に於いて性衝動を抑制しようと画策する時にも理性は動員される。そしてこの事実こそ性衝動が理性とは別個に身体的に判断するということを意味する。
 しかしエロス的衝動を喚起するものは意外と多くは文化であり習俗でもある。そしてどういう状態の観察、どういう事態の到来に拠ってそれが喚起されるのかを我々はなかなか客観的に知ることが難しい。それは恋という衝動にも示されている。
 好きな相手、好きになってしまう相手とは理性的に判断されているわけではない。そして通常は異性への好感度は性的衝動と見做される。勿論同性に対しても憧れとか羨望の様なものは同性愛的傾向の全く希薄な者へも到来する。
 愛は性愛をも含み込もうとする。しかし性衝動は愛という理性的判断、或いは理性的衝動と言ってもいいものに拠って統制されているわけではない。エロス的衝動は愛という理性へ謀反を起こすことも稀ではない。勿論愛する相手へエロス的衝動を抱くということはあり得る。そしてそれは社会的責任に於いて全うされているのなら、非難されない。にも関わらず非難されることを承知で犯す性衝動の行動化はエロスが喚起しているとすれば、エロスは背徳的な美学をも含有していることとなる。そのことを考慮に入れると、寧ろ愛と性の一致は理想である。それが理想であるからには、恐らく我々は愛と性とが甚だしく一致していない状況を日頃から多く経験している証拠である。
 そしてエロスそれ自体が悪いことなのではない。何故ならエロスとは愛や性を巡る全ての感情的事態を並列化させて我々に認識させる文化であり習俗であるからだ。と言ってそれは何か国家や共同体や帰属組織や職業だけに拠って支配を受けているわけではなく、あくまで想像力の産物である。寧ろ性衝動を滞りなく実行させる為にストイシズムを一時的に除去する為に設けられている身体の側の処方でもある。
 エロスは極めて社会文化的側面があるとすれば、それは官能小説やノンフィクションを読む際に喚起される性的好奇心等を育む磁場であると言えるが、それは身体的な生殖生理学的衝動でもある。その複合化されたものをエロスと我々は呼ぶと言えよう。しかし文化的側面も個々の性格遺伝子的傾向に拠ってより個人的な感受性、個人的な感性、個人的な想像力が成立する。想像力の父は好奇心である。そしてそれに拠って随伴する性衝動は愛とは別個のものである。と言うよりそれをも愛に拠って統制させ発動させないとすると、愛それ自体の意味修飾的なこと、つまり愛の定義への理性的判断に拠って性は完全にストイックに統制されてしまうからである。(つづき)