Thursday, July 25, 2013

シリーズ 愛と法 第四章 愛と法の関係

 感謝するという事が、感謝される側にとって然程苦ではない力添えであっても、感謝する側が凄く苦境にあった場合、そうでない時に力添えされても嬉しいけれど、苦境で他の誰も手助けしてくれない状況下ではそれだけで言い尽くせいない気持ちになるという意味で、自己本位なものであるという考えは、しかし感謝する側とされる側の関係を冷徹に観察する処から出されるが故に、達観者の冷酷、そんな事知っているのなら、何故お前が助けないという倫理を我々に齎す。しかし当然の事ながら全ての他者を救う事の出来る神の様な人間は我々の世界では居ない。
 感謝の持つ自己本位とはしかし恐らく平静な状況で齎される私利私欲とも少し違うだろう。苦境に陥らねば我々は通常他者存在を有り難く、得難く感じる事は出来ない、という意味では苦境で手を差し伸べてくれる他者とは感謝の念を通してそういった苦境に陥らぬ平静な状況でも他者存在を慈しめと命じる何かがある。
 それはそれだけ我々が自己中心主義的に自己愛に耽溺する傾向があると我々自身が密かに誰しも知っているからである。我々が日々行う思考実験で最も頻繁に登場するのが反事実的条件法(counterfactuals)である。要するにここには論理的理詰めではないある飛躍があるからだ。そしてその飛躍とは端的に自己を悪の要素があると知っている我々に拠る日々の述懐の中で自己行為としての過去事実への後悔の念がその論理的飛躍を齎している。つまり「あの時もう少し彼(女)の立場に立ってあげられていさえすれば」という風にである。
 この様に自責の念を生じさせる様に論理思考的な意味でも飛躍を齎す様に我々の思考=脳の作用が出来ている。
 その反事実的条件法を構築するのに最も貢献している事こそ、自己に於いて誰しもが知っている処のナルシシズムである。
 端的にナルシシズムとは良心と定言命法的な判断のナルコティズム(昏睡状態、嗜眠性)なのである。それは判断の正当性とか適切性を著しく見え難くしてしまう一種の夢幻性なのである。
 それはほんの小さな事であるなら思考上ではアイロニーとして済まされるし、会話上などでは山葵の様なものとしてウィットに奉仕するだろう。しかしそれが実行する処迄膨らんでいくとジョークの域を超えて悪意となる。その事を我々の定言命法的理性と良心は知っている。
 しかし時として我々は狭量な心持ちとなる事もある。これはマルセル流で、感謝の気持ちに拠る慈しみや有り難み、忝なさ(辱さ)を我々が持つ事に拠って信仰的感情が芽生える事の反面教師として我々自身が知っている。それは他者の非、他者の失態への寛容の無さそれ自体である。
 我々は我々自身の非力を知っていればこそ感謝を捧ぐべき存在へ畏まる。それはそうする事に拠って自己悪を抑制し、狭量な心持ちがしばしば意外と気楽に悪意へ走っていく事を我々が知っていて小悪を鎮静化している、大悪になる前にそうしているのである。
 そういった意味では我々の言語活動自体が一種の倫理的自己悪発生への鎮静化作用の為の行為だとさえ言える。
 となると法とはそれ自体それに拠って愛を縛るものではあり得なくなろう。つまり法とは愛だと錯覚しているものの正体が他者の小悪への寛容さを失いつつある人間がいよいよ知らず知らずの内に自らのその他者への大悪を育ててしまう非情なるアポリアへの解毒剤として定言命法的理性と良心が用意したものである。従ってそれはこういう一つの最初の結論を導き出す。
 法とは愛と対立するものではなく、愛それ自体が作っていくものである。そして愛がそれを作るのは我々が他者の失態と小さな悪意を大きな悪へと育てていってしまう、妬み、嫉み等の全てを我々が大悪として育てぬ限り、それを大悪として育ててはならぬと知る為に持っている、と自ら実は既に我々全てが人生の初期に知っていたからである。 法とはその法に拠って裁かれぬ状況を自ら維持する為に、寧ろ他者への寛容さを保持し続ける為に我々が用意した戒めとして存在する、と言っていいのだ。
 そして上記の事実は次の様に言い換えてもよい。
 愛とは寧ろ知への愛たる哲学のパレーシア(パルーシア)が時として陥りがちな自虐的ナルシシズム(後悔の念はその最小のものである。それを大きく育てていかぬ様にすべきだと我々は知っている。)に対して、考え抜く事には、ある潤いある憩いが思索には必要であり、それを獲得する為に我々は労働をするのだ。そしてその潤いを確保し続けよという囁きこそが愛である、と言えないだろうか?そしてそれは当然分け与えるべきものであるし、専有するものではなく(そうであるなら価値が半減すると我々は知っている)、そうであればこそ、休息と多少の相互のエゴイズムへの寛容と、それでいて自己閉塞へと持ち込む心の専有に拠るナルシシズムからの超脱という理想ではないだろうか?(つづく)