Monday, October 19, 2009

〔責任論〕第四章 責任と良心②

 しかし人間は前章での低次な信頼性にではなく、あくまで高次の誠実性において言語行為を履行してきたからこそ、逆に偽証という事実が成立し得るし、不誠実という心的な様相が存在し得るのであり、その逆ではない。つまり我々は脳幹だけではなく、大脳皮質において思考能力を進化させてきたように、そしてその中でも前頭前野において細かい思考をしてきたように実はこの高次なレヴェルでの発話を旨としてきたからこそ、逆に意思疎通上での策略とか戦術さえもが成り立つのであり、決してその逆ではないのだ。
 だからその部分ではカントの捉えた善意志とか道徳的法則といったものは決して近代意識としての権利問題であるばかりではなかったのだ。カントが言う客観的原理であるとか命法といったものは近代意識によって自覚されるものではない。それは寧ろ人間という種においてなされた言語獲得の起源的な原理なのである。まずそのことを踏まえて我々は良心というものの起源について考えてみよう。
 そこに歩いている他者が自分と同一の言語を話すであろうという目測は全て起源的には良心に遡行出来る。何故なら我々はそもそもその他者を意思疎通の相手として選択する信頼性において認識している限りにおいて、被捕食者が捕食者を殺害するような目的ではその他者に接してはいないからである。それは紛れもなく他者を同一の種、同一の意思疎通能力保持者として認識し、そして何よりも話しかけようとしているからである。その行為選択はあくまで我々がその他者の共同体内での存在を認可しつつ、その存在認可を良心に従って宣言しているからである。あるいは敵対するテロリスト同士のテロ行為でさえ、我々は究極的には敵対する者という認識で他者を見ているわけであり、敵を絶滅させることが目的ではないのだ。敵はほどほど存在することで戦略的な自己の存在理由が我々には認識し得るのであり、それが全くいなくなった時我々は闘争を中断させるばかりか自己の存在をも消滅させなくてはならない。これは比喩で言っているのであり、闘争を正当化しているわけでは決してない。その敵対者同士の内的な心理の原理、必然性として言っているのである。
 先ほどの例から言えばもしその街角に歩く他者に対して被捕食者が捕食者に対して抱くような考えを持っているのならそもそも我々はその者に対して発話してこちらの存在を他者に知らしめるような馬鹿な真似は決してしはしない。そしてテロリストたちは彼等同士で闘争していたとしても尚、闘争することを宣言することを通して(発語内行為としても、発語媒介行為としても)相互の存在を認め合っているのである。このことはこちらの存在を他者に決して気付かれないようにする行為とは対極のものである。従って逃走に対する追跡ではなく、通常の歩行者に対する尾行ほど最も他者の人権を無視した行為はないのだ。よってストーカー行為というものは他者存在の認可過程とか宣言を完璧に抹消された他者存在否認であり、敵対的行為ですらないのだ。それは完全なる良心の不在である。
 結局責任とは他者一般あるいは他者全般に対してなされる意識であり、それは社会に対する意識であると言える。自分たちのファミリーさえ安泰であれば、後はどうでもよいというようなエゴイスティックな精神は寧ろそのような事態を輩出させた前段階として他者一般、他者全般に対する意識が想定され、その派生態として考えることの方が適切であると考えられる。
 生物学者のリチャード・ドーキンスは「利己的遺伝子」以来「延長された表現型」、「ブラインド・ウォッチメーカー」等次々と示唆的な大作を発表し続けてきているが、彼の視点のユニークさは遺伝子自体が身体(個体)というビークル(乗り物)を通して自らの利他的戦略を通して生存の意志を顕現させているという考えを基本に、言語、社会といったミームと彼が呼ぶ表現型の様々なタイプを通してその主張をしていると捉えている点にあるが、実際DNAそれ自体からRNAをメッセンジャーRNAを媒介して選択的スプライシングをさせながら発現させているわけなのだが、発生論的に言えば、RNAという存在がア・プリオリに存在したからこそ、その存続のためにDNAを派生させたと考える向きが大勢となってきている今日、やや遺伝子それ自体の目的性に全てを収斂させ過ぎた嫌いはある。例えば脳、それ自体が身体各位に対して指令しているその中央司令塔的なシステムは身体という存在を前提しているし、そのシステムを代表しているに過ぎず、脳が身体を構成しているわけではない。敢えて言えば遺伝子が脳を産出させてきている。しかし同時に遺伝子はそれ自体によって自身を構成しているというよりは、遺伝子によって発現させられるRNA、蛋白質、細胞といったセントラル・ドグマを誘引させる全工程を前提して存在しているとも言える。つまり仮に遺伝子が先験的に存在し得たとしても尚、その遺伝子の存在自体にはその後の全工程を発現すべく内在的資質を持って登場したと考える方がより自然だ。勿論その進化の過程そのものは限りなく多くの偶然の集積によって現在までのような全システムと工程を築き上げたのであろう。
 そして何でこのような持って回ったことを言ったのかと言うと、つまり責任というものの起源についての考えを整理するためなのである。私は良心を機軸とした理性こそが知性を総動員させ、進化させたと考えているが、それは要するにRNAがDNAを派生させたように一見知性(それはかなりの動物にも見られることである。)こそが理性を生んだように思われるが、実は人間の場合には偶然的に理性という能力を有していたがために、それに見合った形で独自の知性を派生させたと捉える方が我々の種の歴史を捉え直す時、全て自然な形で理解出来ると思われるのである。そして勿論だが理性は目的論的に持たれた能力なのではなく、それこそ偶然だった筈なのだ。そしてその偶然を必然化してゆく累積淘汰(選択)の過程で我々は高次の知性を獲得することになった。(後は「ブラインド・ウォッチメーカー」のドーキンスの主張の通りである。)
 ドーキンスの謂いを借りれば、社会は一個の人間の遺伝子並びに身体へと発現される全システム、全工程を予兆させるものの中では自身で構成する環境であり、ミームである。だからこそ逆に社会に同化するように自身を運命付ける。そしてその環境と遺伝子の双方向的なシステムを運命付ける一つの大きな指針として表徴として存在しているのが、責任という意識である。責任意識は前社会意識的に存在し得る。それは他者一般、他者全般に対する配慮を先験的に思惟し得る能力として運命付けられている。つまりこの責任というア・プリオリがあったればこそ言語獲得を例えばマウスも有しているところのFОXP2遺伝子を通して人間独自の言語獲得を自己複製子に対して継続させてゆくことが出来るのだ。言語活動とか言語能力が理性や責任を生んだのではない。理性と責任の対となる意識が言語を獲得させ、進化させ、社会を必然的に創造させることと相成ったと私は考えるのである。勿論理性の起源とはカントが統合したような近代的な理性ともまた少々事情が異なってはいただろう。しかし近代的理性へと累積淘汰(選択)することを促し続けた当の原動力としての原始的理性と責任の意識は言語獲得以前的に資質論的に内在していたと考えればもっと全てのミッシング・リンクも理解しやくすくなると私は考える。
 ここで理性‐責任‐良心ということの相関性をもっと理解しやすい形で整理しておく必要があるだろう。これら三つは決してどちらが先ということはなかったであろう。何故なら責任のない理性は考えられないし、良心が不在な理性というものも矛盾している。そして残り二つに関しても同様のことが言える。この三位一体は哺乳類が何らかの恐竜その他の捕食者たちから自分たちの身を守るような状況を強いられた時代から継続してその萌芽はあったかも知れない。そして人間の場合特に例えば犬とか猫たちがペットとして飼われていて、その際に飼い主からよく接して貰える時の状況の学習という能力を遥かに超え得る能力であったと考えられる。例えば犬や猫は近隣に自分と同一種が存在することを知っているが、地球の裏側(そういう知のない時代ならそれなりに「どこか」に、という意味で)にも自分と同様の生命は存在して、いつかは死ぬと知っている人間のような意味では無知であろう。またそういう想像をすることはないだろう。人間の想像力がそのような飛躍を可能にしたのなら言語獲得は言語を有した人間が哲学的思考を有することになるくらいに自然であり、必然的であったことだろう。
 犬や猫には無理でもイルカならそれに近い観念を有している可能性はあるかも知れない。ただ人間は少なくとも他者一般、他者全般を表象することが可能であったために社会を構成することが比較的楽だったとは言えるだろう。勿論我々のように眼に見える形で構成されてはいないものの確固たる社会を構成する動物群は沢山いる。しかし他者一般、他者全般を想定した上で責任を語ることが出来る動物は全く存在しないとは言い切れないものの、人間以外にそれを発見することは困難を極めるとは言えるだろう。
 そして敢えて理性‐責任においてそれらを特色付けることのたやすいものこそ良心であると考えることもまた理に適っている。次章では良心のシステムについて詳しく考えていってみよう。

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