Monday, April 22, 2013

シリーズ 愛と法 第二章 愛の倫理とは何か?

 前回愛が法を逸脱する事が許される唯一の事はそれが許され得るエゴイズムであると考えられる、と言う事はそう感じられるという事だという事が一つの結論であった。
 では許され得るエゴイズムとそうでなく許されざるエゴイズムとは何かという事がそこで問題となろう。
 我々の前には取り敢えずこの許され得るか許されざるかを判定する基準それ自体を倫理だとする道が開かれている。
 その時エゴイズムとは通常それ自体許されざる事であると考えられがちであるが、実は自己信念に忠実に行為へ赴く事、履行する事それ自体は如何にそれが責任の名に於いてでも正義として容認されている事でも、それは既にエゴイズムでしかあり得ないのだという観念にも幾分の説得力がある筈だという視点でこの事を論じている事を明記しておきたい(この事は詳しく後述する)。
 すると倫理として許され得るエゴイズムとは他者全般の愛の権利を妨げぬ範囲内であれば、それは取り敢えずそうであると言えないだろうか?
 要するに他者愛であれ自己愛であれ、それは究極ではそれを履行する事で他者全般が有する愛の権利を妨害するものでなければ許され得ると我々は取り敢えず言える気がする。
 つまり我々は直観的に他者全般の愛の権利の侵害者として許されざるエゴイズムを認めているのではないだろうか?それが他者愛であれ自己愛であれそうであると我々は直観する。
 してみると、そうでなく他者全般の愛の権利を促進していく可能性を見出し得るエゴイズムがもし仮にこれ迄の社会的な意味での法を逸脱するという形で容認されていなくても、これ迄の、そして通常通念的に我々がそうではないかと思えてしまう愛の倫理、愛の法(この二つを取り敢えず重なるものとして容認しておいてみよう)に沿っていると思えなかったものの、内実的にそうではなく履行してみれば今迄考えられていた愛の法そのものを旧態依然化するある発見があったとしたら、つまり真理的な愛の法に沿っていると思える発見をそこに見出し得るのなら、それはこれ迄の法(法それ自体は愛の為だけではないが、愛それ自体にも法があるし、それをここで一緒にして考えても取り敢えず差し支えないだろう)に背いていても、その背きの方が説得力を持ち得ると我々が容認し得たなら、法を書き換える事を示唆する力としてその愛のエゴイズム(取り敢えず法に背く事は如何なる事でも<それが愛に殉じる事でも>エゴ的であると言えるから)は許され得ると判定されて然るべきではないだろうか?
 つまり許され得るエゴイズムとは愛の倫理の下では法を書き換えこそ示唆しても、それに拠って我々が直観的に正しくないとは決して思えない説得力を行為そのものが有しているという事ではないだろうか?
 それは常に在ると言える事とは言えず、極めて例外的な事だと言えるだろう。例外的に我々が生の生存と維持とに於いて直観し得る真のヒューマニティを見出し得る、そういうものが先験的に備わっていると感じられる愛すべきエゴイズムだと言えるだろう。
 ところで我々は愛とは言葉化し得ない、言葉化する事が出来ないという真理の様に思える事に拠って実はかなり多くの事を問う事を等閑にしてきたとも言える。つまり「愛とは言葉化出来ない」という謂いが知らず知らずの内に陳腐なエゴイズム(それはある程度許容し得るも、決して倫理的にも愛の法にも準じているとは言い難いという意味でのエゴイズムである)に陥りやすく生活してきている、とは言えないだろうか?
 その点では我々は我々自身の行為を厳密に分析していく必要性もある。それがもし哲学的認識だとするなら、愛が滅私的でそれ自体エゴイズムではないと感じ(られ)る(と言う事はそう決め付ける)感性と、そうではなく自然とそう身構えてしまっても、実はそういう他者愛とか自己犠牲も又一種固有のエゴイズムでしかあり得ないとそう感じ(られ)る感性とがあり得る、とは言える。
 さて前者は幾分先程述べた「愛は言葉化出来ない」という真理(と思われている事)を鵜呑みにしている感性に拠って得られる決意であるとは言えないだろうか?
 その点では哲学的認識と言える後者の感性は、デカルト批判として登場しているニーチェ的流儀を一定の現代哲学的相貌で認めつつも、それをも含めデカルト的出発点を誤りではないと言い切れる感性ではあろう。
 一見確かに愛は言葉化し得ない様に滅私的愛はエゴイズムではないと言い切れる様にも思えるのは、前者的感性がある程度我々の社会へ蔓延しているからであろう。だから後者的に、否その様に滅私的で自己犠牲的である事そのものも又一種固有のエゴイズムでしかないのだと断じる感性は、前者の特殊な変形であり、所詮この二つは同じ事実の二つのちょっとした認識の仕方の違いでしかないのだ、と社会的俗を受け入れれば言えない事もない。
 しかしである。この二つの感性の違いは哲学的には決して小さな事ではないと言える。何故なら前者的感性は自己の対他的愛を疑うという事を知らず、信じ切っているからである。信じ切るとは行為そのものの履行には絶対的に必要である。しかしそれは我々が日常的に反省的に行為そのものを考える事の前では潔く取り除く必要もある事なのだ。
 つまり後者的感性では滅私や自己犠牲も又所詮一つの固有の私利私欲でしかないと判定を下す事で信じ切る事で得てしまいやすい誤謬を避けようとしている。
 それは信じ切ってしまいやすい事へさえ疑う事を導入する事を憚らぬ事実全体を如何に当然と思われる事に於いても当然ではないと思われる事と等価に行動の採り方に内在するドグマ的な事をメタ認知していこうと欲する態度であろう。つまり「それをしている自分」というハイデガー、サルトル的に言えば対自的視点での反省である。
 自己に拠ってほぼ無反省的に行われる行為に迄懐疑の目を差し向けるという意味ではデカルト主義批判者であっても、デカルト的出発を否定している訳ではないのである(例えばメルロ・ポンティはその極端な懐疑への移行を経験主義と同一の誤りを犯す主知主義として批判したのだったが、これはデカルト主義批判であると同時にその正当なる修正主義の宣言でもあった訳だ)。(つづく)

Friday, April 19, 2013

シリーズ 愛と法 第一章 語義、或いは愛とエゴイズム

 ミシェル・アンリの研究者に拠るとアンリとは「愛は法に優先する」「愛の法への優位は決定的だ」と考えていて、そういう論説で彼は哲学していたと言う。
 これは我々に対して極めて共感を誘う主張である。何処かアンリは文学者でもあった事から、共感試験的に、つまりそう主張する事で、それに反意を抱く者とはどういう人であるかという事を知りたいが為にそういう主張をしたと捉える事も間違いではないだろう。
 事実アンリの文章は哲学書であっても何故を問うている訳ではなかったし、因果律的にある事の根拠を問い詰める事が彼の哲学の目的ではなかった。その部分ではアンリを哲学を通した表現者であったと捉える事も可能である。
 だが当然の事ながら本シリーズはアンリ研究が目的なのではない。あくまでこのアンリ的態度は入口にしか過ぎない。
 推論、論証といった理由とか根拠とかを探る事が哲学の目的ではない(通常の哲学はそうではない)のなら、アンリは愛そのものを表現したのだ、と言い得るのではないか?
 アンリの論文分析とか考察は専門の徒に任せるとして(とは言え必要とあれば、部分的には本シリーズでも取り上げるつもりだが)、取り敢えず要点を把握すれば、愛の法への優位とは次の論理で示し得るものと思われる。
☆価値が倫理を生む(倫理が価値を生むのではない)。
☆愛が法を生む(法が愛を生むのではない)。
☆愛こそが最高の価値である。
☆従って我々は愛を優先し、法をその配下に付けるべきである。法によって愛を歪曲してはならない。
 よく分かる。それはヒューマニティとしても当然の事である、と我々は直観的に知っている。
 しかしである。これでは余りにも曖昧過ぎて、愛自体とはどういう事なのかという事が見えてこない。勿論愛とは問う事でないとアンリなら考えただろう。しかしそれを問いたい自由を封殺する必要もないし、そうしなければいけないとアンリが言っていた訳ではないだろう。
 愛を問うなと言うその態度はややもすると、それを分からぬ者は価値に就いてなど語る資格等ないと言わんばかりの上から目線的な権威主義的態度も透けて見えるという意見も極自然に見えてくる。
 そこで本シリーズでは愛とは何かを情感、エロス、制度としての言語、モラルや倫理を通して考え、法全般(言語も含む)との関係から考えていきたい。
 要するに愛の精神構造分析と、その価値論的論説を試みたいのである。  
 では最初にもし法自体が誤っているのなら、その時愛の方を優先し、愛に沿って法を変えていくべきだという考えが浮かぶ。しかしそういう風に法をその都度変えていくべきであるという愛に準じた価値を最重要視するなら、それは既に愛自体が一つの絶対的法である、と言っているのと同じではないだろうか?
 言葉を換えれば愛に拠って打倒されるくらいのものを安易に法と呼んで良いのかという倫理的、或いは価値的認識も自然に迎えられる。
 要するに制度的な意味で法を重たいものとするなら、法が愛を搾取する様な悪法を法と呼んで良いものかという価値評定とか倫理問題を誘発する。
 確かにアンリはレジスタンスをしていた人なので、法それ自体が悪法である状況下で哲学的基礎を積んだ。従って法の悪性を知る者として愛を優先する事は自由を法より優先する様に理解出来ると言えば出来る。
 しかしもっとその論議をユニヴァーサルなものとするには、愛自体も分析する必要がある。
 もし法そのものが極めて愛に従っているものなら、その法を背く事は愛と呼べるだろうか?それは唯単に愛の名を語るエゴイズムではないのか?そう問える。
 そこで愛とはエゴイズムとは無縁のものであるべきだ、という愛自体の価値評定、あるいは倫理命題がここに与えられる事となろう。
 そうである。愛がもし法より優先されるべきであるなら、まず愛がエゴイズムとは無縁でなければならないと倫理的には言い得る。
 しかし実在生活者の我々は神ではない。従って脆弱な存在者である我々はその脆さを認めつつ歩んでいかなくてはならない。そういう観点に立てば一切のエゴイズムを容認せぬ愛とは実在的に不可能ではないのか?
 そう問えば当然幾分のエゴイズムも権利として愛に認めてもよいのではないかという視点も誤りではないと言い得るのではないか?
 エゴイズムを悪と決め付ける視点からはそれを介入させるものは愛の名に値しないこととなろう。しかし一切の自己本位を無化させた愛を実在生活者たる我々には不可能だとするなら、法がエゴイズムの無化を絶対条件とするなら、その様な法が曰く観念的過ぎて悪法という事になるだろう。
 我々は現実社会に自己を適合させてしか生活出来ない実在生活者であればこそ、適度の愛の義務と、価値倫理的な 愛の法を遵守しながらも、同時に幾分の自己本位なエゴイスティックな逸脱を寛容的に認められるべきではないのか?
 つまり純粋自己犠牲的、レヴィナス的な愛を観念上では認めつつも、それは価値論としてのみ受け取っていくべき余地もあるのではないかと問う事も可能であろう。
 法が「正しく」絶対であるなら、法を背く愛とはエゴイズムと不可分であるという事に少なくとも論理的にはなり得よう。しかし正しいという事はしばしば法の遵守という観点からのみ言える事でもある。その論点を採用すれば、当然正しい事とは愛に沿っているとは限らないという事となる。カントやニーチェには確かにその正しさ、つまり遵守する事の誠実性(自主道徳的な遵守、道徳的法則の遵守)という事がベースとしては語られている。
 しかしそれはやはり価値観念論としての「哲学」に収めておくべきではないかという論議も呼び起こされよう。
 アンリはある意味ではそれを言いたかったのかも知れない。してみれば正しい事、法の正当性とは愛に拠っているとしても、それが経験則として得られた結論であるなら、その経験則から零れ落ちる愛の形態とか様相もあり得るという事になろう。
 と言うことなら、逆に愛にその都度従っているのなら、その都度法が書き換えられていって然るべきだという事になる。それは相対的な法の在り方と、愛のその都度の遵守という意味では杓子定規的な正しさではなく、極自然に正しいと言えるのではないか?しかしその正しさは権威化されるべきものではないという思想が必要なのである。
 するとこうも言えるかも知れない。
 この世界では事後的に許され得るエゴイズムと許されざるエゴイズムとがあり、前者に沿っているのなら法からの逸脱も許され、後者に沿っているのなら、それは許されないという事となろう。
 してみれば語義として法がそんなに容易に愛からであっても覆されるべきではないという倫理からも抵触され得ない。では倫理は常に絶対であろうか?倫理もそれ自体、自主道徳や道徳的法則を蔑ろにさせぬ為の訓戒として便宜上設けられたものではなかったのかというその絶対化への懐疑が持ち出されても良い。
 次回は倫理という法を愛の権利に就いて考える。(つづく)
付記 本シリーズでは法をそれ程容易に覆されざる至高価値として敢えて愛と対峙させる事で、ある程度厳密に語義規定性を重く用い、しかし最終的には語義も相対的である事を逃れ得ず、愛を至高価値とさせたいが、愛と錯覚する多くの似非的、欺瞞的な実在の行為をよく検証していくべきだと捉えているのだ。(Michael Kawaguchi)