Sunday, October 4, 2009

第四章 形容詞の述定的様相考察における展望

 人間は他の動物と違って、恐らく全ての生命に宿っているように思われる原羞恥という他性認識と、集団同化意識を生じさせる協調的行動の素地となる原音楽というものを交差させることが出来たからこそ言語獲得し得た、と私は考える。その際に前言語状態として、つまり発声行為と意味伝達行為を交差させる前に他者の感情を慮り、自己を他者に置き換えたり、あるいは自己と他者の感情を同一のものとしたり、要するに色々と複合的な思惟を巡らすことが出来る、そういう能力が備わっていたからこそ、言語獲得がスムーズになされた、と考えた方が自然であるし、そのようなことは既に述べた。とすると、逆にそのように感情さえも複合的に思惟して心的に表象し得るのなら、感情自体の総合力というものも可能となる。その時実用性としての名詞とか、あるいは名詞獲得よりは遅く出発したと私が考える動詞使用と同時に、述語としての形容詞の発達というものは考慮に値するであろう。私は形容詞の発達を三つの段階に分けて考えている。まず客観的事物形容段階、そして次に主観的事物形容段階、そして主観的感情形容段階である。
 客観的事物形容段階というのは、要するに誰が見ても明確な、つまり成員間で普遍的な形容である。例えば山は大きいし、チーターは早いし、海は広いし、空は広いし、晴れた日には青い。それは普遍的なことである。そこには主観によって変更され得る何ものもない。そして次の主観的事物形容段階とは主観というものが入って初めて形容し得るものである。例えば自分の背丈が低ければ自分より高い人は高いが、その人よりも更に高い人に比べれば、その人は低い。それは絶対的ではない。相対的である。そしてそれを語る成員にとっては、勿論主観と言っても、感情的な主観ではないが、それを別の言葉で置き換えると相対的となるが、相対的と言うとまた別の事柄を連想させることもあるのだ、自分の立場を主観とここでは全てそう表示することとしよう。最後の主観的感情形容段階とは、ある成員の死が自分にとっては極めて悲しい出来事である、という際に「悲しい」と捉えることである。あるいはある異性に接して「美しい」と感じることもまた主観的感情段階である。だから例えば早いとか遅いというようなこともまた、チーターよりも早く走れる人間はいないし、鳥よりも高く飛ぶことが出来る人間はいないから、そういう場合、チーターが早い、とか鳥は高く飛ぶ(こういう場合の副詞は形容詞と捉える)と言うような場合とは違って、AよりもBは足が早い、と言うような場合は主観的事物形容段階と考えてよい。だから暗い、明るいとか白い、黒いとか太い、短いとかも全て客観的事物形容段階というア・プリオリから主観的事物形容段階というア・ポステリオリなア・プリオリに至るまで同じ語彙を別段段階として使用可能である。しかし第三の主観的感情形容段階は、それを感じるのが自分であれ、皆であれ、物理的な事物に対しての形容ではなく、事物、他者、自己内面全てに対して抱く主観であり、主観という言葉の意味ではこれは全くの主観である。例えば悲しいとか美しいといった形容はそれを感じる人にとっての心理的な表現である。第二段階の主観性はあくまで相対的であるだけでAよりもBの方が足が速いというのはCと比べればBは遅くても、その二者間では誰から見ても自明である。よって第一段階の中での特殊なケース、あるいは第一段階の中での個別的事例と考えればよいだろう(以後客観的事物形容段階を第一段階、主観的事物形容段階を第二段階、主観的感情形容段階を第三段階と呼ぶことにする)。
 美しいと悲しいの場合は、前者は確かに外部に対する形容で、悲しいは内面の吐露である。しかし少なくとも誰それを美しいとか何か花とか景色が美しいというのは確かに誰が見ても感じる場合もあるが、大きいとか小さいというような物理的形容とは異なって、形容基準そのものに主観が入る。そこでこれらを一括りにすることにしたのだ。だからこの第三段階は対対象と自己内面のものと二つに分けることは可能であろう。
 私がここで第一段階とか第二段階とか分けたのは習得時間順序のことではない。だからフロイトの口唇期とか肛門期とかそういう時代的区分ではない。比較的容易に習得出来るものならば、恐らく私の区分する全てのものを同時に習得してゆくということは幼児言語習得を見ても最も自然であろう。ただ私は形容詞に内在する性質を分かりやすくするために便宜上この三つの段階を心理区分として設定したに過ぎない。
 ここで我々が銘記しておかねばならないことというのは形容叙述における心的様相はそれが第一段階のように人間集団全成員にとって同一の価値であろうとも、それが個別ケースにおける相対的価値であろうとも、個人内面の主観的価値であろうとも、それら一切に一貫した事態とは、形容される対象とそれを叙述する存在者間との相関関係によるもの、つまり対象‐対対象性質叙述者との関係に形容叙述者、つまり「大きい」とか「美しい」といった陳述をなす存在者を置くということを基本としているということだ。そして実はそれは全ての品詞に言えることである。名詞はその対象に対して話者が関心を抱いていることの表明性の中で主語となるか、あるいは述語内に登場する。動詞もまた話者が主語とした存在者に関する叙述を話者が主語設定しつつ、その中で説明するということである。しかし形容詞にはそれらともまた異なった性質がある。それは全て客観的であれ主観的であれ、説明叙述に供せられる動詞とは異なってそういう説明を前提として、その説明された対象の性質、様相、状態、そのいずれかが表されているということである。動詞もまた実は動作の性質、様相、状態であるとも言える。しかし動詞はその殆どが使用者にとって主観が入り込む余地が極めて少ない。その意味では主観が入り込んでいく小から大への段階では次のような順序が考えられる。

①おおまかな動作叙述の動詞<最小>
②細かい動作の動詞(複合動詞)
③第一段階の形容詞(④と同じ形容詞を使用することが可)
④第二段階の形容詞
⑤第三段階の形容詞・対対象
⑥第三段階の形容詞・自己内面(対事態、事実)<最大>

 しかし重要なことというのは主語が名詞になることは鉄則であっても(最も「動くこと」という抽象内容表現は除くが、これもまた形式的には動名詞であるから鉄則を破っているわけではない)述語が動詞に纏められるにせよ、形容詞だけを叙述することが出来る場合もある。例えば「大きい。」と言うことが出来る。しかしこれは深層構造としては「うわあ、大きな山だな。」ということであり、主語+動詞という鉄則の範囲内にあると考えてよいだろう。だが話者にとって目的論から言えば、形容詞を使用した文こそ最も自分の立場、即ち主観が表現された文ということになる。そしてそれは親密度が増すにつれ、使用頻度も大きくなる。つまり意思伝達の内容面から言えば主語+動詞の文が基本としてあるとは言えるが、それはただ単に報告文である。その報告内容に関して自分はどういう考えを持つか、どういう感想を持つか、どういう認識を持つかという、要するに聴者に対して話者の立場という主観を表明することになるわけだから、それは話者と聴者の親密度に比例して使用頻度が上昇することは言うまでもないだろう(これは言語心理学的な認識である)。
 尤も形容詞を使用する場合日本語の場合には形容詞と助詞で終了する文も、英語ではbe動詞を使用するので動詞のない文章は考えられない。しかし少なくとも深層意識に忠実な英語を基本とすれば日本語は表層構造に忠実であり、要するに英語‐無意識、日本語‐意識という忠実である対象の差があるとすれば、日本語もまた形容詞+助詞で終了する文であっても、それは潜在的にはbe動詞並びに「~のように思えた。」と言うような基本構造が隠れているだけであるから、親密度が増した話者同士の会話でなされる「大きい。」という感嘆表現においてさえ、実は主語+動詞の鉄則は破綻をきたしてはいない、ということになる。
 ここで一つの結論としては形容叙述オンリーの文(述語がそのまま表面的に主語のように見える文、例えば「大きい。」と言うような)というのは主観を表現することにおいて聴者に対して警戒心を解除している表明であるということである。そして主語+述語の、深層構造としては主語+動詞の文を表層構造として全部叙述する文は話者から聴者へと説明報告する建前と形式を遵守していることになる。
 ただ人類学的視点から言えば、形容詞の使用があらゆる自己内面の心理表現を、更に抽象的概念の産出を促進したであろうということは容易に推察出来る。その抽象概念には形容詞だけでなく名詞も動詞も含まれる。例えば「親しい」、「余所余所しい」、「水臭い」、「嘲笑<する>」、「惑溺<する>」、「愛」、「友情」、「疎遠」、「遠慮」、「軽蔑」、「見つめ合う」、「抱擁する<抱き合う>」、「避ける」、「控える」、「侮る」といったものたちのことである。これらはいきなり出現したと言うよりは、別のもっと単純な形容詞あるいは名詞、動詞を基本として複合させて基本語出現以後に出現したものと思われる。
 しかし抽象語彙とは総合化、体系化であるので、形容詞の場合のみクオリア表現というものが考えられるが、名詞、動詞は出現当時、恐らく単純な概念に留まり、やがてクオリア表現が増して行ったと察せられる。今挙げたばかりの惑溺とか惑溺するといったものや翻弄とか翻弄されるとか翻弄するのようなものには明らかにクオリア表現が潜んでいる。
 しかし人類史的に考えれば、恐らく単純報告は仕事分担と階層性出現後に社会的に常套化したとは言えるが、形容叙述表現こそ形式的報告から開放された人間間の信頼性、友好的接触、交際を基本とした自由時間により多く自主的になされるわけだから(上司に対する報告においては部下が上司に対して主観を向こうから尋ねられるまでは自主的に報告することはないだろうから)人間の生活にある彩りを添えるという意味合いでは、事実報告の範疇に収まりきれないような形容叙述、主観的言辞の登場こそ、人類にある文明論的な精神的発展がなされ、要するに哲学的思考の定着がなされていったと考えるのが自然である。
 つまり形式論的な意味合いで、例えば統語連結的な秩序とか文章構造という観点からすれば明らかに名詞と動詞の組み合わせは基本である。それはあらゆる言語に共通して言える。しかし実際発話の、発語の最も重要な感情伝達において形容詞の果たす役割は甚大である。そこで私は人間の言語獲得において意味論的には最も形容詞が重要であると考える。そして形容詞の発展こそが統語秩序そのものさえも完成へと導いたのではないか、と考える。また意味の進化を招聘したとも考えられる。
 それには訳がある。人間の存在は、他の動物内での社会での個体の存在同様、存在感のあるものが社会的上位に位置することという意味では何ら変わらない。「善の研究」で西田幾多郎は強烈なる主観の持ち主こそが強烈なる個性と偉大な仕事をする、というようなことを述べている。それは善をなすことは同時に悪をなすことであるということである。つまり小さい善しかなさぬ者は大きい悪もなさない、しかし大きい善をなす者は大きい悪もなす。要するに善は悪と隣接しているということだ。(マックス・ヴェーバーも言っているが)これは感情でも共通して言える。強烈に悲しい感情があるから強烈に嬉しい感情があるということだ。そしてそのことに関して小さき善をなす者も、偉大な善をなす者にも変わりはない。外部出力的な行為の意味論的な質と量と、その人間の内面は全く無関係である。だから薄情な者が偉大な行為をなすこともあるし、情に厚い者がみすぼらしい行為をなすこともある。勿論その逆もあるだろう。しかし他者の死、それは家族であろうとも友人や同僚といった他人であれ、その悲しみの正体とは何かと突き詰めれば、それは他者の死の経験が、その他者しか知らない自己(その他者の死を経験する私)との別れということである。母親にとっての息子という関係での自己というものに、私は私の母と死別することで永遠に別れを告げねばならない。又私は父とは死別したが、その時同時に父から見た息子としての私には私は別れを告げた。つまりこういうことである。茂木健一郎も指摘している(「意識とはなにか」より)が、私たちは私を基準に考えれば、AとBとCという他者(それは家族でも他人でもよい)に接する時異なった自分で接しており、その時全てその都度異なった他者に対して向けられる表情は微妙に異なっている。つまりそのいずれの私をも通底した私があるとすれば、それは私しか知らない私の顔、つまり内面でしかない。しかし外面的には全ての他者たちによってしか私は存在せず私は私以外の全ての人と対話する時の表情を知らない。つまり人生の大半の時間における私の実像とは、私が一番無知なのだ。だからこそ私にとっての私の大切な他者の死とは、明らかに私の日常的な実像を知る、ある意味ではその瞬間(その他者と私が接している時の)の私を知る唯一の他者(目撃者)の死は、言ってみれば一つの私の死でもあるのである。
 それは他者の死を自覚出来る全ての動物、チンパンジー、オランウータン、イルカ、ゾウといった動物たちも、感覚的には経験しているのではないだろうか?
 しかし問題はそこからである。ネアンデルタレンシスたちは、人間ほど喉頭が発達していなかったということが発声意志伝達をなさしめるのに十分ではなかったことが言語活動へと至らしめず、そのことが原因で絶滅したという説はどうなのだろうか?何故ならその一つにおいて仮に不利であったとしても尚、彼等は別の方法で生存を継続する可能性がなかったとは言えない気がする。事実彼等には埋葬の習慣もあったという。つまり彼等の絶滅はそのようなことではなく、もっと別の身体条件と環境といった事例が決定的に作用した、と考えた方が自然である。ホモ・サピエンス以外の高等知性を持った種が絶滅したことの理由の全てを人間に備わって彼等には備わっていなかったことを論う因果論には、どこか創造説的な教説を暗黙の内に認可する安易な必然性支持説を彷彿させる。
 話を元に戻そう。人間は絶滅することなく言語獲得することが出来た。それは喉頭の発達という偶然も重なって幸運に作用したということは言えるだろう。しかしもっと重要なことは、他者の死への自覚をこそ、他者と分かち合うこと、それも発声を通して、あるいは共同作業を通して、なすことが出来たということ(しかしそれはネアンデルタレンシスも可能だっただろう)、そして何よりも、これこそが人間にしか出来なかったことではないかと私は推察するのだが、人間は他者に対して自己の鏡として認識することが出来たということである。それは私が先述した他者の死を、一個の私の死と自覚出来たということである。それは原羞恥としての他性認識と、集団内における自己という意識を原音楽に重ね合わせることが出来た(他の動物ではそれは分離しているのではないか?)という一事に尽きるのではないだろうか?
 だから言語獲得の際において、その言語活動進化過程においては、統語秩序としては名詞と動詞の組み合わせが常に内在していただろうが、それはあくまで文という体裁、形式的文化の発達なのであるが、そういう型通りの「文」という意味合いからではなく、意志、つまり感情によって支えられる心情の告白という面から、表情筋をも駆使した友好的真意の吐露という意思疎通の面から捉えれば、名詞と動詞を、主語+述語という連関において繋辞し連結することを促進したものとしては詠嘆的で感嘆的な意志伝達とその際にそれを促進した形容詞という存在が大きく作用していたのではないか、と私は仮説するものである。
 確かに他者に自分と同じ行為様相を発見する動物は多数いるだろう。それを証明したこととして近年のミラー・ニューロン(イタリアの研究所のガレーゼとリゾラッティーによる)の発見も挙げられる。しかしそのことは同時に彼等の全てによる彼等と同一性を発見することが、その他個体が自個体に対する独自の認識を持っていることの認知を意味しない。
 人間にとって幸運だったのは、他性認識、集団同化、喉頭の発達と複雑な音声の発声能力、他者の死、他者から見た自己の固有性、その全てが偶然的に交差した、ということではないだろうか?
 私たちは脳科学の驚異的な進歩によって多くの事実を知るところとなった。しかし同時に現在の脳科学が人間の実像の全てをそこから知り得るということには未だ数々の障害があることをも認識しなけれなばらない。というのは人間の感情は複雑であり、それは他者の死という引き裂かれんばかりの悲しい出来事の際にどう脳内のニューロンが作用するかということは重要だがそれを実験することは倫理的にもなかなか難しい面があるからである。人間の感情は幸福の獲得という事態を他者に対する優越性からなら比較的容易に考察可能だが、喪失感の果てにそれと引き換えに得る幸福という感情は複雑で実験的数値によってそうたやすく証明し得ないように私には思われるからである。
 それを知るためにも我々の前に差し出された形容詞の心的様相の考察は今始まったばかりである。そこで次章は結論として、喪の感情と死と瞑想(私はそこに死する他者だけが知る自分ということを考えている)ということをテーマに、人間が言語獲得と、文字使用=エクリチュールの発明によって更なる発展を遂げたことを考えていこうと思う。

No comments:

Post a Comment