Sunday, October 11, 2009

責任論 序

 責任という考え方は社会の基本である。しかしこの当然過ぎるような観念を人類が抱いたのはいつ頃なのだろうか?私は古生物学者でも、脳科学者でもないので、ある意味では類推的にしか考えることが出来ない。しかしそういうデータ解析ではない遣り方で考えた方が真実味に近い何らかの真理に到達することが出来る場合もあるだろう。その意味では人類学的思考実験の体裁を取ったこのテクストは哲学の一つの実験でもある。
 しかし前作「死者と瞑想」(今のところ未発表だが、ある文学公募に応募した)で語りきれなかった面をここでもう一度掘り下げてみようという試みなので、私はここで責任を前作と同様の観点を基本にし、前提にしながら論を進めたい。しかし前作をもう一度ここで説明することは大変なので、前作で述べたこともまた多少繰り返されることもあるだろうが、更に前作で述べ切れなかったことを中心に論を掘り下げてゆきたい。
 まず基本的に人類がどこら辺から社会意識を持ったかと言うと、年代論的には断言出来ないので、思考推論的に言えば、統語秩序形成期と期を一にしていた、と考えるのが理に適っている。何故なら言語使用という問題はそれ自体で社会意識と不可欠な意思疎通という面から考えることが順当だ、と思われるからである。
 どのような動物でも自分の血族とか近親者同士のコミュニティーは持っている。しかしそれ以外の他人のコミュニティーにどれだけ配慮し得るかというと、人間ほど他者一般に対する意識が発達してはいないだろう、ということで仮に他の言語使用可能性所有種さえ人間ほどの言語能力を獲得出来なかった、と考えることもまた理に適っている。
 ここで言語能力‐社会意識という面から責任の意味合いが出てくる。 
 例えば近親者、血族の間でなされる配慮、生活上の思い遣りはどのような動物にも見られるが、人間にはそれプラス他人に対してもそれなりの配慮をする。自然界、とりわけここで例証しやすい動物界を見てみると、他個体を殺害してもそのことで報復を他集団から受けない限り彼等の社会で生存を危うくされるということはない。しかし人間社会では法的な制裁を受ける。そのこと一つを取ってみても、人間社会では基本としてある観念が定着していることが了解される。それは親しい者同士以外の者に対する意識と、親しい者同士の意識を等価に見る見方である。
 その見方を正当化し、実践すべき徳とすることが出来るのは、恐らく親しい者同士での連帯では自分たちだけの都合で、勝手にそれ以外の成員たちに対して横暴なことをすることが心情的には連帯感から生じやすくても、それは「倫理的に正しくはない。」と抑制することで社会全体の正義的、道義的な倫理を構成しようとすることであり、それは親しい者同士の関係を利己的な感情からではなく、理性的な観点から認識し得るような価値規範に照準を合わせるということを求めるということである。親しい者やその者との関係を客観視することというのは、要するにえこ贔屓をすることを抑制することであり、親しい者をも親しくはない者と同等の権利を持つ者として認識することである。この親しい者の客観視という認識については今後も重要になってくるのでよく念頭に入れておいて欲しい。
 社会とは成員の集合である。社会人としてのメンバーの集合体である。この集合という考え方には基本として異なった性格、人格の成員たちを、その個性とか異質性に依拠させずに、同じ人間同士であるという観点から結び付ける。これはそれ自体で平等と公平の論理の起源である。人間は身体的バイオリズムから先天的に他の動物同様、数えるという行為を難なく行える。この数える行為を目的意識に結び付けたものが集合という考え方である。一人の成員はよって社会の構成要素であり、単位である。単位という考え方は数えるための目的物であるということと、集合要素であるということの認識から派生している。つまり二つの認識の組み合わせである。
 この親しい者同士において思い遣りを持つことは難なく行えるのだが、ある時には親しい者の肩を持つということが正しくはない、つまり他人の方に理がある、部があるという考え方こそが公平という考え方、平等という考え方の基本であると思われる。そして成員の集合には二つの行為がこれまた組み合わされている。それは数えるという行為と異なった性格、人格の成員を敢えて等価に見る(社会権利上)という行為というこの二つの組み合わせである。
 あるビジネスマンはこう言った。「人間誰しも無から有を作ることは出来ない。皆誰かがやったことの上に何かを積み重ねてゆくことしか出来ない。」まさにその通りである。しかしそのようなことが出来るのは人間が前にやったこととこれからやらなくてはならないことの二つを弁別し、そしてそれを組み合わせることが出来るからであり、それが出来るということはその二つを組み合わせるまで、その二つが別個に存在し得るということを記憶することが出来る、組み合わせる行為へと赴くまで(それは準備が必要だから)、その構成要素を念頭に入れて、記憶し続けていなくてならないのだ。そしてそれを人間は難なく出来た。この前にしたことに対する記憶が人間に能力として確たるものとして存在しているからこそ、我々は次の行為を前の行為の上の積み重ねとして理解するとが出来るし、その累積的な結果こそが我々の文明なのだ。この記憶という事態についてP・F・ストローソンは的確に述べている。
「(前略)綜合的統一の最高原則は、「与えられた直観における私の表象はすべて、そのもとでのみ私がそれらの表象を私の表象として同一的自我に帰属させることができる条件に従わなければならないということしか意味していない」(B138)。<著者注、カントの純粋理性批判に対する論文である故ストローソンはカントテクストの番号を記している。>この思想はそれ自体十分明晰である。多様な表象が一つの意識において結合させると言える条件は、どのようなものであるにせよ、まさに、経験主体がさまざまな経験を自己自身に帰属させることができる条件にほかならず、この主体はこれらの経験が異なる時間にありながら等しく属しているものの同一性を意識しているのである。ところでこうした条件の充足は心の綜合する働きに依拠すると言われるが、こうした綜合の活動は、結局、通常の経験的自己意識が与える以外の如何なる自己認識ないし自己意識も産み出さないのであるから、我々は、経験の自己帰属の可能性の説明を、綜合の活動そのものに関する、あるいはその活動の遂行のために使用させる能力に関する特別な意識のうちにでなく、むしろ綜合の活動の結果のうちに求めなければならないと思われる。おそらく、綜合によって産出させると考えられる、かの客観的なものの概念のもとでの諸経験の結合それ自身が、そのもとでのみ経験の自己帰属が可能となる条件、ないしはその基本的条件である。(後略)」(「意味の限界」勁草書房刊、104~105ページより)
 ストローソンの言う綜合とか同一性とは、自己を統一的な主体として捉える仕方である。例えば現在の私にとって私の過去の行為とは無縁に生活しているが、仮に私が犯罪的事実と判定され得る行為を過去を行った場合、法的には私は過去の行為と無縁な今現在の私という哲学的な認識は無効とされる。つまり過去の私の行為も、今現在の私の行為も共に、私という一個の成員の責任に帰属され得るのだ。そしてその事実はもう一つの私という綜合に対する認識を生じさせる。それはこういうことである。私にとっての私の行為に対する記憶は外部的に私に対して判定され得るものとは異なった様相で立ち現れることの方が多く、またその事実は私にとっての私の行為に対する責任という面を私に顕現させるが、それは私の行為に対する外部からの評定基準とは何のかかわりもない、ということである。
 例えば記憶とは経験そのものではない、とフランソワ・アンセルメとピエール・マジストレッティーは語っている。(「脳と無意識」青土社刊、第二章‐トラジメーノ湖のほとりの制止より)そのことをこの二人の著者は「経験の刻印を許すメカニズムが、経験を分離してしまうメカニズムであるという、一つのパラドックスに出会うことになる。」と言う。「ある痕跡が再発見されたとしても、それはもはや経験の再発見ではない_痕跡は精神生活に特有の法則に従ってべつの痕跡と組み合わされ直すだけに、なおさらのことである。フロイトのいうように、はじめは知覚があってそれが刻印されるとしても、この知覚は神経器官にたいするまたべつのレベルの刺激となり、シナプスの可塑性というメカニズムを介して転写に転写をかさねた末に、それが永続する痕跡を生じたとしても、経験そのものとしては失われている」(先述同書、同ページより)のだ。ここでこの二人の著者は人間の記憶作用に関して、事実に対する記憶と、その事実に関する認識、願望、別の事実に対する連想といった様々な関わりによって事実記憶自体が変形してゆく可能性において、幻想を記憶と並置されるもう一つの現実として捉えている。この事実記憶と幻想との並存という現実こそが、私たちが私性と公共性との齟齬を常に創造しながら、同時に、責任の所在という現実に対しては如何なる私性も認めないという判断を法的に下すことの根拠にしているというわけである。
 例えば自然科学上での如何なる法則も、それを発見した科学者たちの個人的な発見にまで至る事情とか経緯がある。しかしそれらの発見者に纏わる如何なる個人性とも、発見された法則は独立に存在価値があり、それは普遍的に我々にとっての真理である。そのことをディタッチメントと言う。(茂木健一郎著「「脳」整理法」にそのことに関する叙述が詳しいので参照されたし。)ディタッチメントは如何なる法則的価値も、その法則を発見した者の個人的な経緯とか背景に左右されないとする考え方であるが、これは法学においてもまた主張されているところの真理である。このことは法哲学者の大屋雄裕も指摘している。「ある判断がいかなる人間によって・いかなる状況において為されたかはその正当性とは無縁の問題であるとするのが尾高の主張であり、この立場に立てば判断の正当性はすべてあらかじめ・人間の行為とは無関係に決定されていることになろう。」(著者注、尾高とは尾高朝雄のこと。尾高朝雄(おだかともお)(1899年 - 1956年)は、法哲学学者。 日本統治下にあった朝鮮の漢城生まれ。第3期日本学術会議副会長。初め、外交官を志すも、親の反対により諦め、東京帝国大学法学部卒業後、京都帝国大学大学院にて哲学を研究する。その後、法哲学研究者として、京城帝国大学教授や東京大学教授を歴任。1947年(昭和24年)に、『国民主権と天皇制』(1947年)に掲載された論文「国民主権と天皇制」において、ノモス主権論を提唱し、宮沢俊義と論争した(尾高・宮沢論争)。結局、宮沢との論争でノモス主権論は幅広い支持を得ることなく、1956年(昭和33年)に、歯の治療中にペニシリンショックで死亡した。ノモス主権論は、学術領域では歴史上の学説として研究対象となっているに過ぎないが、非学術領域では保守系の論壇誌を中心に再考する意見もないわけではない。<Wikipedia尾高朝雄2007、3/7より>)
 この法律学的なディタッチメントは、私たちにある真理を教えてくれる。それは行為自体の価値と行為を行った遂行者の評定、あるいは人物的な性格とか、日頃の行動とか、その他一切の人間的な評定とは何の関わりもないということである。だからどのような偉大な業績のある者に対しても法はそうではない人々に対してと同様公平に適用されなければならない(偉大な業績者の犯罪事実を見逃すようなことがあってはならない)し、また日頃どのような言動をしている者の意見であろうとも正論であれば、それが偉大な業績の人物の意見(ここではそれが間違っているとしよう)と食い違っていようとも、そちらの意見を採用すべきなのである。勿論その逆も真なりである。しかしそれがそう容易に遂行され得ない(偉大な者の意見が間違っていても罷り通ったり、逆に偉大な業績者に対する嫉妬が、偉大ではない者同士の連帯を生み、偉大な業績者の正当な意見を封じることもある。)ところに社会的な問題点があるのだが。
 大まかに言えばこれまで記してきたような思想的な概略を通して本論は構成されている。そして第一章ではまず責任という倫理が人間社会において人間が記憶能力を極度に他の動物以上に進化させてきたことに起因するということをやや生物、生理学、神経学的な考察から探りつつ社会学的認識を採用して考えてゆくことにしよう。

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