Thursday, December 3, 2009

〔言語の進化と責任〕第一章 言語活動を成立させる基盤①

動物の世界においてはある意思表示があり、その意思表示が自分の知らない成員であることを承知で、その意志を受け取るという事実がない。例えば本を読む時、我々はその著者と面識のない方が普通である。そういう意味では動物同士の意思表示、コミュニケーションは完全に先述したように危機的状況以外では現前する同一種個体、つまり同一環境内における成員同士に限られる。
 その事実をまず踏まえて考えていってみよう。しかしいきなり言語行為の発生に行くのではなしに、前言語状態というものを考えてみよう。そしてその際に重要となってくるのが感情という事態である。 
 通常哲学において感情を身体と心のデカルト的人間論から解放したとされる潮流として現象学が考えられる。しかしそれ以前にウィリアム・ジェームスが精神と肉体の不可分性について触れていた。彼は心理学者でもあった故に精神医学にも関心があったので、そういう一元論的な認識に辿り着きやすかったと言える。
 ジェームスの文章的癖として「それは程度の問題である。」というのがあるが、これなどは明らかに西田幾多郎に影響を与えている。デカルト的二元論の克服意図がこのような物言いを可能にした、と言うことが出来る。しかしやはり体系的に感情というものを位置付けたという意味では現象学が最も貢献したと言えるだろう。その意味では現象学には当初から精神医学や生理学と同列の性質が備わっていた。
 それともう一つ重要な事実とは、現象学においてはあまり表象という考え方が重要視されていないということである。フッサールも初期(「論理学研究」期)はこの語彙を積極的に使用していた。しかし少なくとも「イデーン」期には殆どこの語彙は使用されていない。その考えはハイデッガーと彼の影響を大きく受けたミシェル・アンリに特に引き継がれている。
 その事実に対する言及に入る前にまずそもそも表象とは何なのかということについて考えてみよう。表象はコンディヤックという十八世紀のフランス哲学者も積極的に使用していたし、それ以前にも遡る。しかし哲学史自体に深く入ることは本論では差し控えたいので、取り敢えず表象を一般的な使用され方から考えてみよう。
 表象とはある事物、事象、概念に対する脳内での理解である。そしてそれは現前するものに対しても、不在のものに対しても等価に得られる脳内の理解である。しかし現象学においては基本的に感情というものと表象というものが切り離されて考えられてきたことに対するアンチ・テーゼが横たわっているのである。故に表象という考え方にある種の抵抗を彼等は持っていたのだ。表象とは端的に言えば認識領域の主導による考え方である。
 脳科学者の茂木健一郎氏は「脳と創造性」において感情というものは認識と対立するものなのではなくそれを支えるものであると現代の脳科学では理解されてきていると述べているのだが、実際現象学は早くからそのことを考えていた。端的に言えば表象とは常に感情を伴っているのだ。ただそれは激烈な感情ではないというだけのことである。そして表象を主観から出来るだけ切り離して考える時、概念というものが派生する。このことは市川浩氏も触れている。(「現代哲学辞典」より)すると表象とは自己内で感じる客観ということになる。そして意味とはこの一連の作用全体を指すと言ってよいだろう。つまり意味とは概念とか表象の一切を含む綜合的な感情であると言ってよい。綜合的認識であるからにはそれは反省的意識によって生じるものである筈だ。
 しかし何故現象学の哲学者に表象を概念的な使用として避けようという考えがあったのだろうか?それは認識が感情を産むという考えを否定したいがためだったのである。そしてその主張は長く西欧では感情を理性で制御すべしという観念がキリスト教的に根付いていたという事実を我々に知らせる。しかし現象学ではまず基本的に感情というものが底流として存在し、然る後に認識とか判断が成立すると考えている。そしてその考え方は現代の脳科学の基本的理念と合致するものである。
 ミシェル・アンリは代表作「現出の本質」で、極めてハイデッガー的な解釈を多く使用しているが、それ以外に彼独自の基本的な理念として感情以外に、情感(性)、感覚、感性を区別して使用している。感情は綜合的あるいは統合的な理念であり、それ以前にまず基本として情感というものがあり、これは簡単に捉えれば、現代脳科学の旗手の一人であるアントニオ・R・ダマシオの考える情動に近い。これは要するに身体的な反応や感覚全てを含むものである。それは要するに生きている実感、それは身体と精神の一体化した実存的感受である。我々が意識を持つことの前提条件である。しかしアンリが言う感性とは原初的な身体感覚のことではなく、知覚や痛みといった感覚的授受の自然傾向性のことなのだ。あるいは感覚それ自体の認識、つまり個人的な実存のことである。感覚とは彼にとっては情動的な知覚を含む瞬時の作用によって得られるものである。そして感性とは感覚の記憶化(身体的な記憶。しかしこれは三木成夫流の生命記憶とは違う。)によって得られるものである。要するに日常において我々の内部で「またあの感じか。」というように一般化されたものを彼は感覚と呼んでいる。
 ところでハイデッガーは存在と存在者とを区分して論説し、その二つを結び付けるものとして現存在という認識を措定した。アンリはしかしそしてそのことの重要性を主張するためにもう一人の巨人であるシェーラーを、超越と啓示を区分しきれず、混同したとして批判している。そして現象学全般に言えることとは、カントの哲学を敢えて表象内容に対する理解とすることによって乗り越えようとしているのだ。サルトルはそういった現象学の理念を基本として持ちながら、同時により社会状況というものの中にそれらの理念を位置付けようとした。
 アンリとエマニュエル・レヴィナス(仏哲学者)に共通することとは、ハイデッガーの現存在の理念をよりハイデッガー的な示唆のレヴェルから一歩前進させ、様相的な理解にまで至らしめようとしたというところにある。そしてアンリ哲学に最も重要な指針として情感が挙げられるのは何故か?それは彼にとっては身体的実存であり、同時に感覚や感性を作用させる場としても捉えられていて、その事実が彼の考える現象学に相応しいからなのだ。そしてシェーラーがなし得なかったとアンリが捉える区別とは超越と啓示能力のことなのだが、その際彼は啓示というものをある種の閃きとして捉えているようだ。これは現代脳科学ではセレンディピティーと言われている。つまり偶然の発見のことである。この観点はサルトルには希薄なことである。サルトルはある状況の中で他者の気配を感じ取るということにおいて、より知覚行為の実像を捉えているため、アンリのような閃き、つまりそれ自体が認識に応用出来るようなものとして考えられてはいないのだ。そこにある種のニヒリズムがサルトルには感じられる。つまり「生とは無益な受難」であるとする(「存在と無」より)サルトルにおいては、生そのものが「そうではあらぬものとしてそうである」ようなものなのだから、死の瞬間まで常に未完了態そのものなのだから(実はここら辺では戦後アメリカ哲学の旗手であるソール・アーロン・クリプキとも共通する哲学スタンスである。)死が全てを完成させる(ここら辺りは寺山修司的でもあるのだけれど、尤も寺山は「人間は不完全な死体として生まれ死んで完全な死体となるのだ。」と言っているためにより肉体的なフェティッシュを強調しているのだが。)、つまり真に反省を必要とする事態とは死だけであると「存在と無」では主張している。しかしその時反省し得るのは死んだ当人ではない。そこにサルトルの存在論的投企をモットーとする独自の認識に対するニヒリズムがある。では一体反省するのは誰なのか?それは他者である。ここからレヴィナスの哲学は出発する。
 アンリに戻ろう。彼は「感情に働きかけることの原理的不可能性」と言っている(同書、924ページより)が、この定義は重要である。つまり感情とはそこから認識や判断、つまり意志や行動が司られているのだから必然的に感情自体へ我々が働きかけることとは背理であることになる。我々は一見自己の感情に働きかけているように見えるのはあくまで過去の自分に対してである。今現在過去の自分の意志や行動を司る感情を客観的に見つめることは可能だが、今現在の感情を客観視することは不可能である。
 この考え方はマッハ以降の相対論と共通するものを持っている。我々がマイクロスコピックな(顕微鏡でしか確認出来ない世界での)物質を観察する時、注意しなくてはならないこととは、自分がその観察対象を観察する身体的な位置とか相対的な位置である。しかしもし宇宙全体というような広大無縁な領域に対して観察しようと試みるのなら、そのような微視的な位置といったものは意味をなさなくなる。そのことは生理学者のジェラルド・エーデルマンも「脳から心へ」で指摘している。要するにアンリの言う感情に働きかける不可能性とは客観的対自ということの不可能性のことであり、マイクロスコピックな物質を観察する我々の立ち位置というものの絶対的不動性の不可能性を主張することと相同の主張メカニズムがあると思われる。
 そしてそのことは記憶作用の七つのエラーを指摘しているダニエル・シャクター(米心理学者)の記憶の不確実性とも関係してくるのだ。自分では正しいと思っている記憶内容とは様々な外的な要因によってエラーを生じさせる。期せずしてシャクターは記憶について考えてきた哲学者の思念と殆ど等しいような事実を指摘している。その一つは現在の自分に当て嵌めて過去の自分を理解しようとするということである。人間は考え方や感じ方の全てを過去から現在に至るまでに変遷させてきている。しかし現在というものを常に中心に位置する意識とは過去と今では変わってしまった自分の考えをも、「あの頃から本当は今のような考え方であった。」と歪曲して捉え、事実その記憶内容まで過去を現在の自分に都合のよい形で変形させてしまうのだ。つまりそのような変形を非意図的に遂行してしまう人間の脳の判断こそがアンリをして情感、感覚、感性、感情(感情は前者全ての統合されてある今の状態である。そして情感が非意図的であり、不随意的なものをも含むのに対して、今の感情とは常に意識的であり、覚醒的であり、自覚的である。)と幾つもに区別することを強いたものなのである。しかしアンリのこの厳密に区別しているようでいて彼自身が懊悩するかの如く超越と啓示を別物として認識させるものとは、端的に言えばデネットが必死に考えた記憶の先後関係の曖昧さ、シャクターが考えた記憶のエラーシステムそのものなのだ。
 感性は感覚の統合により事後的に認識されるカテゴリーであるが、同時にそれはその感性を基準に感覚を授受するように我々を仕向ける。何らかの感覚とか触覚を嫌うというような拒否反応もそのことを表している。つまりある現出によってそれを統合したり、陶冶したりする時、その成果としての現出が過去の感覚的現出を覆い尽くしてしまい果てはそれが原因のように覚知されることそれ自体が哲学者を翻弄し続けてきているとも言えるのだ。しかしその時認識的な様相の区別を無効にするものこそ行動である。
 行動はフランス哲学者のポール・リクールによれば可能性の断念、ためらいの払拭以外の何物でもないのだ。あらゆる可能性を無効にして可能性認識を破壊することこそ何らかの行動の選択である。その行動選択として自己内の思念を語ることをテレンス・W・ディーコン(言語学者、心理学者)はただ単なる情動の表示とレファレンスとに区別している。そして後者こそが人間固有のコミュニケーションの起原であると考えている。
 レファレンスの獲得とはしかし実は他の動物であるなら必要のない行為を敢えて生活上の必須として獲得したわけだから心理学者のニコラス・ハンフリー的に捉えれば、明らかに何らかの能力の喪失(彼はその中でもとりわけ記憶力と考えている。(「獲得と喪失」紀伊国屋書店刊)によって喚起された獲得であるということになる。
 人間がもし個体毎に判断して全ての行動を採ることを本論として生活する他種動物とは異なるレファレンスをモットーとして意思表示をすること(それはハンフリーが主張する抽象的思考能力と相同のものである。)でその逐一の忘却的な傾向を克服しようとしたのなら、我々は何かを最低限伝達することで、つまりそれだけは忘れずにいることで、他の一切は忘却してもよいという規約を得た人類が、その伝達という責任を設定することで、逆に内的な自由を個人毎に保障するような考えに無意識の内に赴いたのではないかというのが本論の仮説である。それはある意味では人類のサヴァイヴァルを賭けた選択だったのではないだろうか?
 ところでアンリは行動や志向性を目的論的に捉える我々の無為無策を告発しながら、ある意味では選択された行動を採ることにおいて我々を誘引する根拠の前では無力であると捉えている。価値と現実世界における相互依存を唱えているのがリチャード・ローティーであるが、それが正しいとすると、実際アンリが言う根拠は脳内血流の検査からは立証されえ得ない(脳科学者マイケル・ガザニガが「脳の中の倫理」で述べている。)責任同様幻想的認識であるだろうが、それと行動にはある相互依存性が介在しているということになる。そしてアンリの言う根拠は別の角度から言えば情感そのものである。そして感情が行動を生むのであり、行動や志向性によって感情を左右することは出来ないと彼は考える。しかしだからこそ責任が我々には共同幻想の如く課せられるのだ。
 感情をコントロールする当のものさえも感情以外のものではない。つまり感情を何とかするという考え自体が感情から我々は自由ではないということを指し示すのだ。例えば感情によって記憶はエラーを起こすし、記憶の不確かさこそが感情を左右する。それは現在の唯一的意識こそが至上の命令者であることから発するのだ。我々は感情から自由ではないという事態において初めて記憶からも自由ではないと言い得るのだ。
 しかし一方自由ではないという観念はニヒリズムを生む。我々の祖先は感情と記憶から自由ではないという事態を薄々知っていたのだ。(認識論的にではなく、直感的に。)そこで記録という観念を発生させる、あるいはそういう観念を発生させながら記録していった。そして記録行為それ自体の公共性の確保という意識が我々に責任を発生させたのだ。
 記録行為が文字であった時代には既に言語は獲得されていた。しかし記録が無意識的な行為にせよ、何らかの目的的行為であったにせよ、絵であった内は前言語状態と言ってもよい状態であったかも知れないので、記録を記録として認識していたかどうかは怪しい。しかし少なくとも絵を描く行為が心に見える姿というレファレンスを他者に告げ知らせることであるという認識は描かれた絵を見た成員によって得られていたであろう。絵の制作者は必然的に自分の目撃したシーンの説明を求められていっただろう。その時言語行為、意志伝達行為の萌芽が認められたのではないだろうか?
 勿論それ以前から我々の祖先は発声的行為をしていたろう。しかし説明がそこでなされていたわけではないのだろう。しかし絵の作者は絵を説明する必要性が絵を見た成員の要望によって発生した。そこで説明するという責任において統語的秩序が要請された、と考えると全ての辻褄が合うのだ。
 言語的認識は一般化された概念に対する理解と言ってよい。それはこういうことである。テレンス・W・ディーコンも指摘しているが、彼の例に倣えばスカンクを知っている者(それは人間でも犬でもよい。)がスカンクの匂いを嗅ぐという事態は、その匂いがスカンクであるということを知らない、つまり初めてその匂いを嗅いだ者とは異なった反応になるだろう。つまりスカンクの固有の匂いを経験して然る後、その匂いは他の多くの匂いと対比せられるカテゴリー的ディレクトリにストックする場合、その匂いを再び嗅いだ時に、以前の記憶を想起させるから、その匂いが初めての時より嫌悪感というものは倍増されている。例えば次のような例を考えてみよう。ある時あなたが街角を歩いている時いきなり暴漢に襲われ、足をカッターナイフで切られたとしよう。切られたという事実をあなたは咄嗟に判断し、周囲に誰も救助を求めるべき人が見当たらないので、全速力で逃げるとしよう。その時あなたは足が切られたことに対する痛みよりも、咄嗟の緊急事態に対処し、生存を確保することの本能的な行動へと向けられる意識が強烈で、逃亡している時には然程痛みという感覚には鋭敏ではないだろう。しかし思い切り走って後ろに暴漢が追手として確認出来ないほど引き離した時、我に返って自分の切られた足を見ると血が滲んでいる。その時初めてあなたは逃げている時には感じなかった痛みを痛烈に味わうこととなる。この時あなたは要するに過去に何らかの怪我をして血が出た時のことなどを想起せざるを得ない。その想起が痛みの感覚をよりクローズアップさせることとなるのだ。つまり経験的な痛みのカテゴリーがあるからこそ、想起によってその時の痛みの記憶を喚起し、よりそれを不快と感じるわけである。
 言語はある意味ではその痛みの記憶の想起による喚起、痛み全般に対する綜合的な認識を生じさせるような想像力によってより自覚的となることに助力する。記憶内容に検索項目を設けているような言語的認識が、実際の身体的な記憶を喚起することに助力するのだ。
 それは情動を感情へと転化させることと相同である。情動は不随意な身体的な反応であるが、それを「あっ、あの時の痛みだ。」とラヴェルを張り、より感覚的に意識させるものこそ身体的な痛みの記憶であり、それは言語的な検索項目として「針に刺さったような痛み」とか、「皮が擦り剥けた時の痛み」というような痛みの種類の分類を可能にして記憶させやすくするあなたの脳の作用なのである。
 しかし言語の認識はそのうような具体的な知覚体験に根差した事実に対するレファレンス以外の多くの、つまりそのような具体性の欠如してはいるが、意志伝達の際により理解しやすい語彙間の連鎖というものもある。それは同じ言語のレファレンスであっても、より抽象化された相互了解事項であると言ってよいだろう。
 しかしそのことと、人類の言語獲得の発生論的な意味での言語の役割としてそれが極初期に既に用意されていたかということになると、実は極めて謎が多いとしか言いようがないのだ。その具体的な知覚体験に根差した心像という事実と、そのような具体性の欠如した意志伝達行為それ自体を支える抽象的な心像の差を、発生論的に少し考えていってみよう。
 人間社会が単独の行動者から社会的行動者へと移行する過程というものを考えてみると、恐らくそこには単独の個体の利害を巡る攻撃と防御から、徐々に数個体同士の利害の対立へと移行するという様子が垣間見られるに違いない。それは要するに攻撃と防御から競争意識の共有という事態への移行であろう。勿論その数個体同士の集団は他の集団を攻撃する。そしてその敵対する集団も同様である。しかしその数個体内での人間関係は統率者を決定することを巡っての競争があるだろう。ただ単なる協力体制だけではない筈だ。その集団内でチームリーダーを決定するための競争ではウィナーテークスオール式の報奨(例えば負けた者の配偶者を横取りするとかの)もあったかも知れない。そしてリーダーが決定した集団は他の集団と争いを持ったであろう。その争いが狩猟の縄張りを巡るものなのか、採集生活の拠点を巡るものなのかは様々であっただろう。そして最初の内は勝った集団は負けた集団成員全員を殺したりしていただろうが、じきにその負けたチームにも頭のよい者がいて、それを捕虜として徴用することもあるようになっただろう。
 世界の学問を見渡してみると、多くの意見の対立、学派の争いがある。もしどの学者からも一定の評価を得、敵が一人もいないような学者がいるとしたら、その学者は一流ではない。一流というレヴェルがどの辺にあるかはともかく少なくとも歴史に残るような学者ではないことだけは確かだ。デュルケム対タルド、サピア対イエスペルセン、クワイン対ストローソン、ドーキンス対グールド、クリプキ対マッギンという風に昔から学者間の論争はずっと続いてきた。そのような意味で人間社会の曙からそのような争いはずっと続いてきただろう。例えば勝った集団は負けた集団の成員を全員殺していた頃は、ある意味ではリスクも大きかっただろう。と言うのも常に勝った集団だけで争うのなら人員にも限りがあるし、疲労もする。そこで負けた集団の中の威勢のよい部下を捕虜として利用することで戦争に費やされる労働力は軽減されたという経験を持ってからは、集団間の争いでは負けた側は少なくとも首領だけは殺されただろうが、部下たちは威勢のいい者から勝った集団の戦争要員として利用されて、その中でも秀でた者は重用されたであろう。二つの集団内での勝敗は首領が殺されるという事態が相互にない限り、残った成員の数に応じて戦う意欲に差が出て、結局最後まで戦い続ける意志と意欲から自然に決定していったのだろう。
 学者の世界で競争があるということは逆に言えば、どの競争者もライヴァルを必要としているということである。それと全く同じ心理的なメカニズムが人類の曙でもあったとすれば、同一集団内でのライヴァル意識から、次第に他集団をも含めた広い領域内でのライヴァル意識が生じていったということも考えられる。例えば捕虜にした者でも働き次第では元々その集団に属していた者以上に出世する道が開けていくに連れて、今の野球の世界のように他チームからの移籍というような事態と相同の人員交換のようなこともあったかも知れない。そして最初他の集団を皆殺しにすることが勝者側の当然の仕事であった時期から次第に勝敗を建前的なものにして戦争責任者以外は全て優劣で別集団へのトレードが可能になってゆくに連れて言語的な秩序も徐々に複雑化していったということは考えられる。そのことを最も原始的な状態からかなり複雑化していった社会の変遷と共に考察していってみよう。
 
 まず我々が考えなくてはならないこととは、当初攻撃することで自集団の領域拡大だけを狙っていた集団が、敵側の成員を生かして利用することを思いついた時、色々なパターンが可能性としては考えられるということである。例えば先述のように敵側の首領のみ敗戦集団側の戦争責任として処刑され、その他の部下たちは捕虜として利用されるということがもし最初に常習化したら、逆に敵側の首領が有能であるということに着眼し、部下たち全員は処刑するが、首領だけを捕虜として利用するという考えがあるいはメリタブルに作用したかも知れない。そしてその遣り方が徐々に拡張されていくと、今度は常套的な方法、つまり敵側首領のみを処刑し、他の成員は捕虜として活用するという遣り方が再びメリタブルに作用するようになるだろう。これは行動生物学においてとみに主張されてきていることである。そのことの証明になるかどうかは分からないが「古代ユダヤ教」においてマックス・ヴェーバーは次のように記している。
「(前略)軍隊の神聖化の手段とならんで、聖戦において、掠奪品に関する儀礼的タブーがあらわれた。その分捕品を連合戦争に対して聖別すること、すなわちへーレムがそれである。このへーレムは、一つの平和にされた宗派的教団へと移り変わった捕囚後の時代には、教団の団体員が厳正に生活しないばあい、これを破門することを存続した。私的なタブー化のいろいろな名残りはイスラエルにおいても発見されるようにおもわれる。ところが生きた分捕物もしくは死んだ分捕物の全部あるいは一部を神に対してタブーとなし犠牲となすことは、すこぶる普遍的に普及していたし、ことにエジプトにおいて知られていた。げんにエジプトでは王が儀礼的義務によって捕虜を惨殺したのである。敵はエジプトでもイスラエルでも神なきものとみなされた。つまり例えば騎士的感情については、エジプトでもイスラエルでもその痕跡はぜんぜん発見されないのである。へーレムは戦時には相当いろいろのことをすることができた。そしていずれにせよ分捕物分配に関する通常のやり方から知りうることは、分捕物_男、女、子供、家畜、家屋、家具_の全部が通常タブー化されたわけではなかったかということである。一部は成人した戦士_「壁に向って放尿するすべての者」_だけか、あるいはおそらくまた、君主や名望家たちだけが犠牲として殺された。聖戦以外においては、イスラームと同様古代イスラエルの軍法でも、自発的に服属した敵を、敵対し続けた敵と区別し、前者を殺さなかった(申命記20の11)。カナンの地域の内外を問わずこの軍法によって処置された。神に約束されたこの土地〔カナン〕を特別に神聖であるとみなす、予言者に影響された理論_この理論はエリヤ時代に最初にあらわれる_がはじめて、偶像崇拝者のみちたこの土地の徹底的純化を要求したのである(申命記7の2・3)。そして戦争予言者の理論やさらに捕囚の理論や、そしてまたユダヤ教の宗派的発展だけが、カナンの敵は徹底的に撲滅されるべきである、という熱狂的命題へと傾斜したのであった。すべての戦争だけが聖戦とみられたのであって、しかもそれさえも、もしかするとつねにそうであったとはかぎらなかった、という事実を別とするならば、へーレムの最後的諸帰結が比較的後代のものであるということを示すのは次の事実である。すなわち伝承がサムエルの口で言わせた諸要求に対してサウルが反対の態度をとった、という事実がそれである。さてしかしこのへーレムの最後的諸帰結は、考慮する所なき峻厳さをもって、伝承の形成過程についてのほとんど肉欲的とも言えるような空想と、弱者や寄留者に対する寛大な諸命令との、あの聖書のいたるところに特徴をしるしつづけている独特な結合をうみだしたのであった。」(同書上、238~240ページ)
 マックス・ヴェーバーのこの論文のより注目すべき箇所とは、実は歴史的な民族の行動史が、予言や霊的な戦争祈祷によって集団としての民族が統合されてゆく過程と、そこに内在する性的な統御力こそが民族を結束させたと捉えていることである。しかし今はそのことに深く触れる機会ではない。本書の結論においてそのことは詳述されることとなる。
 さて問題なのは、言語的な進化がもし社会の行動的な目的性においてより単純なものからより複雑なものに移行する過程において統語秩序とか意思表示的な体裁が進化し、内的な意味論の世界における認識をも進化させてゆくものであるなら、言語の進化は集団内での、個的な意味(集団内秩序同化意識)でも、集団選択的な意味でも責任倫理という意識が共同幻想として大きく作用していったであろうということを証明出来るか、ということである。
 「解明される意識」において哲学者のダニエル・デネットはベンジャミン・リベットの実験結果等から意識における過去の記憶の先後関係がしばしば逆転し得ることを指摘している。それは例えば未だ起きていない事態をも想定して意識の上ではある「構え」を作るので、それが起きたという事実が実際よりも早く起きたように錯覚することは記憶の仕業としては常習的なことなのだ。あるいは極めて印象的な出来事に対する記憶が他の些細な記憶を押し退け先後関係を撹乱させることがある。
 例えばI’ve got to go(行かなくちゃ。)という英語は発音上はaiv gala gouとなる。二番目にくる語彙がgot toと癒着し、しかも通常これは母音の発音は閉音であるのに、次のgouがgot to以上に開音であるために、それを話者が見越して先の音まで既に開音として構えてしまう事態を表している。それは話者が脳内では既に伝達する内容を把握しており、それを発音において置換しているために、無意識の内にその意志が発音に影響を与えるからである。意識では未決定な意志も、行動する前に脳では自動的に、我々が「あの時決心した。」と我々が思う以前既に決定しているということが脳科学や心理学で既に証明されている(準備電位)。例えばそれが今例に挙げたような発話であるとしよう。その時話者が明らかに発語行為として対話者に対して責任を遂行していると言える。
 一つ一つの発語においてそうなのだから、逆にその一つ一つの発語を可能にする社会的規約の前では我々は話者がある陳述を意味内容的にも意味作用的にも伝達可能な事実とするために同一言語通用区域におけるラングとして陳述形式においても陳述内容においても何らかの共同幻想的な意味での責任意識を生じさせながら発語していると考えることは理に適っている。
 そのことをまずただ闇雲に他集団との抗争において他集団を打ち負かした時、生き残り全員処刑することをモットーとしている集団内の規約における言語行為というものを考えてみよう。そこで集団内での規約という事実を自我という側面から考えていってみよう。
 アンリは「現出の本質」において最後にヘーゲルと自己との対比で「啓示の根源的な本質をヘーゲルの現出(manifestation,Erscheinung)概念との対比において明らかにすること」と銘打った補論で締め括っている。そしてその第一声「ヘーゲル哲学の中心的な主張、それは、実在は<精神>であるということである。」と主張する。
 自我を概念として多用したヘーゲルはどのような心積もりだったのだろうか?
 自我とはインド哲学にも既に見られる概念だ。自我は恐らく現在意識からも自己反省意識からも認識可能な自己として捉え得るものではない。デカルト、スピノザ、カント等はそれぞれ主観と客観、原因と結果、分析と綜合という二元論から自我の本質に肉迫した。しかしそれ以後の哲学は徐々に社会を構成する当のものという認識から自我を考え始める。その予兆は既にホッブスにも見られたし、ルソーにも見られた。カント以降はベンサム、フィヒテ、そしてヘーゲル等によって問われ続けてきている。
 自我は超越的であり、例えば脳科学において前頭葉のここら辺が自我を構成していると特定し難い。尤も扁桃体あたりに感情を構成する機能が認識されているということから、何らかの古脳(大脳辺縁系)と大脳皮質とりわけ前頭葉、側等葉等とのネットワークから考えられる可能性があるかも知れないが。要するに自我は社会自体が生物存在によって内的に作動されるエネルギーの集積と捉える認識における内的エネルギーそのものと言ってもよく、その意味では生物学者のユクスキュル等が環世界と呼ぶものとそう遠くはないだろう。(そのことについては結論で詳述する機会を持とうと思う。)
 ヘーゲルの自我論は基本的にはフロイトにも引き継がれていると思われる。アンリはヘーゲルについて次のように言っている。(「現出の本質」下、今までの引用は全て北村晋、阿部文彦訳、法政大学出版局刊による)
「主観性というひとつの本質の現実的かつ自律的な現実存在を予想させる諸概念に対してヘーゲルが向けた重大な批判の意味は、ひとり自らを現出させるものだけが実在的であるということを喚起し、ただひとつの根本的な現出様態しか、つまり、対象性[客観性]という様態しか現実に存在しないと主張することにある。とはいえ、「ひとり自らを現出させるものだけが実在的である」という主張は、哲学の課題が、自らを現出させるかぎりにおいて現実存在するいっさいのものの単なる目録作りにあるのでなければならない、などということを意味しているのでは毛頭ない。ヘーゲルは、自然的意識や哲学的次元における自然的意識の反復である<啓蒙主義(Aufklarung)のように、客観的限定態にただ単に信頼を寄せる思考からは、はるかに遠ざかったところに身を持している。彼は厳密には、「われわれがわれわれの周りに見るものが、そして現出しているという性格を伴ってわれわれが見出すものが、実在的である」と言っているのではない。ヘーゲルの思想は、もっと正確には、次のような定式において表現されよう。すなわち、「いっさいの実在的であるのものは、自らを現出させることができるのでなければならない」。現出の実在性よりも前に、もっと正確にいえば、現出化した実在性よりも前に、それに先立つ要求のごときものがある。この要求はある成就への要求である。成就されなければならないもの、それが実在性である。実在性の成就とは、実在性がひとつの現象に成るということである。たとえばキリスト教が閉じこもるような「成就されていない生」とは反対に、「成就された生」はすでに、若きヘーゲルからみると、自らを現出させる生なのであった。それにしても、成就された生は自らを現出させる生であるかぎりにおいて、それは、いまだ自らを現出させない「成就されていない生」へとわれわれを差し向ける。いっさいの成就は単に、それによって成就されるであろうものへの差し向けをもつだけではない。いっさいの成就はまた、いまだ存在しない何ものかへの成就でもある。ヘーゲル流に語るとすれば、展開された一性(Unite)は「展開されていない一性」への<遡行的‐差し向け>を含意しているのだ。しかるに、成就されていない生、展開されていない一性とは、まさに<内面的なもの>という名で理解すべきものではないだろうか?<内面的なもの>は、単にわれわれの成就していない可能性の偽りの表象を指し示しているのではない。それはむしろ、客観的限定態というかたちでいかなる成就にも、いかなる実現にも、ある仕方で現実に先立つところのものなのである。」(同書下、1006~1007ページより)
 ここでアンリによって述べられている言述は実は、ヘーゲルという存在を借りた彼自身の時間感覚に対する覚醒の告白でもある。未完了態に対する思慕は、実は完了された実相において我々は体感するのだ。つまり何かを成し遂げた後の空しさとか、空虚感、虚脱感といったものは、ラヴェルの名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」で示されていたが、つまりその虚脱感こそが次の行為への、次の目標を定め行動するための指針となるのだ。だからポール・リクールの言うような意味での可能性の剥奪としての行動には、前段階として虚脱感と、空虚感とが伴うある終局、ある滅亡が必要であり、それは端的に言えば極めて反省的な思念に裏打ちされたものなのだ。しかしヘーゲル自身にはアンリが指摘するような意味での深い反省的思念(それをアンリは内面的と評しているが)が付き纏っていたであろう。だからこそヘーゲルは自我の本性を顕現させるものとして言葉を考えている。(「精神現象学」より)ヘーゲルはフッサールが前言語状態という概念で語る言語的基盤、モティヴェーションの所在を示したとも言えるのである。そしてそれは自我に対する覚醒である。(その自我を日常的なレヴェルから考えたのがジェームスだった。しかしジェームス当人は我々が現代から見て受ける印象以上にそれ以前までの哲学者の考えと著しく隔たっていたというわけではない。彼は端的に心理学と生理学の壁を取り除き、一体化を図ったと言ってよい。)
 ヘーゲルが提唱した二つの概念、疎外と承認は相補的である。何故なら自我作用それ自体を我々が携えるものとして認めつつ、分析するヘーゲルのスタンスが一方で自然に対する不可知領域から疎外されていると感じつつ、その事実が他者と自己とのどうしようもない壁をも意識させる時、まさに現代心理学の言葉で言えば「心の理論」の解明の突破口として承認という概念を流用することが彼にとって最適である、と思われたからである。
 ヘーゲルの言う承認は他者の承認であり、それ以前に存在の承認である。それは期せずしてウィリアム・ジェームスが無意識の内に提唱した自我の超越へと意識が連なってゆくことになる。西欧哲学をこのように系譜学的に見てくると、そこにはテクスト間の応報という哲学者間の思索の旅が見えてくる。例えば自我一つ考えてみても、よりその命題がクローズアップされるということは、ヘーゲル以前のテクストでは明示されていなかったという事実を如実に浮かび上がらせる。要するにテクストの意味作用の記憶がもう一つのテクストを産出する過程の中から自ずとテクスト創造者たちの記憶の意味内容が現出する。
 私たちの記憶はテクスト創造者たちのように必要な事項を注視することで、よりそれ以外の多くの事項を無視するように作用する。人類史的に見れば、あるいは我々の祖先は記憶事項の飛躍的増大(例えば同一集団内での全成員の固有名を覚えなくてはならないというような)によって逆に他の些細な事項に対する記憶を一挙に忘却する能力を進化させてきた可能性はある(そのことはニコラス・ハンフリーが「喪失と獲得」で述べている)。そして段階論的な忘却進化が、逆に限定された事項の記憶を確かなものにするように作用するよう進化したというわけである。
 つまり私的に記憶することだけで全てが消化されていた時期の人類が、ある一定の秩序を持った社会的動物へと進化する過程において、我々の祖先はきっと公的な事項、つまり集団としての秩序を維持するために必要な事項に対する責務的な記憶必須事項と、そうではない私的な事項とを弁別するようになっていった、ということが想定出来るのである。それは端的に言えば公的にこれだけは記憶しておけば後は自由であるという自由と権利の獲得をも意味する。そしてその時期には当然発話行為それ自体もかなり進化していたと考えた方がよい。発話行為それ自体はあくまで私的であることの思念と、集団内での隣人との間で交わされる個人的思念同士の突合せという現実からスタートしたと考えられる。同一集団内での私的会話というものの進化は当然述語的世界の進化を促したであろう。端的に言えば形容詞と副詞の進化である。勿論それ以前から既に名詞(実詞)と動詞は発明されていたろう。しかしその基本的な叙述構成要素に対して個人的な思念、世界や事物に対する感情を表しつつ、同時にその感情表出行為自体が意味伝達を構築したと考えることは理に適っている。つまり私的感情の伝達という公的集団内におけるプライヴァシーの獲得という成員間の同意という事実が、同僚とか友人という観念を生じさせることとなったのだ。
 そして友情的感情の進化は当然のことながら、真意の表出という「賛成したいのですが。」型の発言を通り一遍の「誓います。」型の発言以外に多用することを促す。叙述内容の意味的世界、つまり私的感情と公的事実との間の連関によって生じるある種の齟齬自体が新たな意味を産出することを相互に発見し合うことの定着とはまず基本的に公的約束事としての言語定着の後になされたと仮定してみよう。するとそれは概略的に説明すると、予め決められた事項を伝え合うという行為(義務的発話を中心とした)から、伝え合うことによって新たな意味世界を発見していくという行為へと変質することそのものが、友情を育み、友情の進化が真意の表出と、建前的な会話の差を生じさせ、公的、私的の使い分けが各成員間に定着し、暗黙の了解となる。これは社会進化上極めて重要な出来事である。
 そしてそれらは叙述内容の詳細に伝達することの進化それ自体が、私的な会話と公的な会話の弁別、そしてこれが重要であるのだが、記憶すべきことと記憶したいこと、つまり個人的感情のレヴェルで記憶しやすく関心のあることと、そうではなくても集団生活としての秩序を維持するために必要最低限としての義務として記憶しなくてはならないことの両方使い分けることを通して各成員に定着していったという事実が想定され得るということである。
 しかし叙述内容の進化そのものは決して個人的、私的会話から発展したとも言い切れない。恐らく公的会話、私的会話の双方が相補的に発展させていった、つまり私的会話での発見が公的会話に応用され、公的会話での新たな秩序が私的会話にも適用されていったと考えた方が自然である。ともあれ言語はある意味内容的構成秩序として伝達されるように配慮されていったのだから、当然テーブルならテーブルという日常的事物とか道具に対して私的、公的を問わず発話する相手に対して相互了解伝達対象として選択されていただろうから、叙述することの伝達意味内容の詳細さへの希求が形容叙述を進化させていったと考えられる。しかしテーブルならテーブルと述べた時、そのテーブルに対する修飾事項によって我々は何らかの注釈をつけることによって状況論的にも、あるいは語順によっても指示対象を限定してゆくことが出来る。英語でmodifyと言えば修飾することと限定することを同時に意味する。例えばそれはただ単に話者同士が意思疎通するための方便であると考えることも可能だが、実はその事実が社会的認識としての言語を段階論的に進化させてきた可能性がある。つまり修飾して限定してゆく段階に応じて説明責任の詳細が決定されてゆくわけだから、我々の祖先が比較的緩い修飾行為から厳密な修飾行為へと転換してゆくプロセスそのものが言語行為における統語秩序や、意思疎通の状況判断的な進化の過程であると考えてもよいものと思われる。それは私がやや冗長的に述べてきた自我と哲学者の関わりに見られるある事項の注視と共に他の幾多の些細な事項の忘却という認識論史に見られる関心事項の焦点化という哲学者集団内での記憶と忘却という作用の連鎖にも顕著に示されているのではないだろうか?そして記憶と忘却という二つの作用は、責任の所在を限定することにどのように繋がっているかという面から考えることの意味を我々に示すのだ。
 次にその責任の明示(責任は限定されることで明確化する。)の段階論的な進化を二つの顕著な構文例によって考えてみよう。
 アメリカの大統領は就任式において必ず牧師によって「あなたはこの国とこの国の国民に対して誠心誠意尽くすと神に対して誓いますか?」というような質問を受け、それに対して「誓います。」と返答するのが慣わしとなっている。そのような際の返礼は儀礼的で、つまりア・プリオリに決定された慣習的なコードに随順するスタンスを明示する返答であり、責任倫理としては最も初歩的な段階にあるものである。
 しかし例えば殆ど全ての成員がある決定事項に対して賛意を示し、その中にあってその決定事項に対して異論を抱く成員が、最終的に「あなただけですよ、未だ賛意を示しておられないのは。」と他の成員全員に詰め寄られてその返答の際に他の成員の期待に沿うように言う積もりであったのに、自分でも無意識の内に
「賛成したいのですが。」
 と言うことを想像してみよう。この場合我々は通常自分でも自分の言った発言が予想外のものであると感じることはあるだろう。つまり発声された陳述内容そのものが自分が他の成員の強圧的な集団の論理に押し潰されながらも、それに従おうと保守的な自己防衛心では規約的に脳内で囁いているにも関わらず、理性の内奥の叫びがそれを拒否し、まるで言葉を口から発するレールが自分が行きたいと願っている方向を無視して勝手に列車を暴走されているかのようの思われる瞬間とは、この例のように自分でも予想していなかった大胆な言辞を発声している時である。だがそれはフロイトの言い間違いほど無意識的言辞でない。もっと自然な欲求に随順したものである。
 この二つを今後この論文で重要な概念としても使用したいので、前者を「誓います」型とし、後者を「賛成したいのですが」型と呼ぶことにしよう。まずここで言っておかなくてはならないこととは、前者の型はJ・L・オースティンの主張するような行為遂行的な発語行為ではないということである。(オースティンは「結婚式における<誓います>」を例証していた。)これは積極的な賛同であるよりは、集団依拠的な常套的な責任遂行の意思表示であり、建前的な言辞であり、儀礼的であるよりは挨拶的なものである。挨拶の責任というものは内発的な責任ではない。それは大統領就任の式典においてさえそうである。またそのようなものでなく個人的なものであるのなら、その政治家は逆に大統領に就任すべきではない。それはいい意味での通り一遍の責任であるべき性質のものである。
 しかし後者は本質的にそれとは対立する。と言うのも、この言辞には周囲の異なった意見を持つ大勢の成員に対する拒否の意見陳述であり、その拒否感情やら拒否意見賛同者に対して暗に共感が示されているのである。勿論表面的には自分の周囲にそのような賛同者はいない。しかしそのような真意を抱く成員の出現を暗に期待してもいるのだ。これはあの米映画の名作シドニー・ルメット監督作品「12人の怒れる男たち」のヘンリー・フォンダ演じる少年殺人犯に対する陪審員の心境のものである。孤独な表明である。
 しかし一見前者の「誓います」型の発言の方が責任を大きく負うように見える(特に大統領就任式の宣誓の場合など)が、それは建前上の儀礼的な措置であり、このような儀礼的措置自体を無視することは大人気ないので通常の遣り方に従うというだけのことであり、本来後者の「賛成したいのですが。」型の発言の方により主観的判断故の個人的責任を負うという姿勢は表されていると言えるのだ。しかしこの言辞には自分でも予想のつかない真意の表出なので、ある意味では素直に真意を告げることに纏わる不安が付き纏っているものである。それが最後の「が。」に表されている。 
 しかしこのように無意識の内に自分の真意を表出しているような言辞自体に驚くという経験は他にも何か思い当たることはないだろうか?

Wednesday, December 2, 2009

〔言語の進化と責任〕序

 私たち人類が進化して他の動物にはない高度の思考能力を携えるようになったという事実は、我々自身にとっては自明のことのように思えるが、実は極めてそのこと自体を冷静に考えると奇蹟的なことでもある。しかし自然科学が奇蹟ということを認めないことがまず前提条件であるとしたら、例えばノヴァーリスという詩人が近代にいたが、彼のことをディルタイが「体験と創作」において「ノヴァーリスにとっても、一切は奇蹟である。あるいは別な言い方をすれば、われわれの情感とわれわれの人格との最高の機能たる真の信念は、神を告知する唯一の真の奇蹟である。似かよった言い方をすれば、奇蹟の中の最高の奇蹟は、自由決定の行為としての有徳の行動である。いかなる死も贖罪の死である。つまりキリスト教の歴史的要素は偏在である。」(「体験と創作」(下)小牧健夫、柴田治三郎訳、岩波文庫、60ページより)と語った部分の主張は重要な意味を生じる。
 確かに自然科学は端的に言えば、奇蹟の否定から始まる。というのもそもそも自然科学は全ての事象を因果系列で判断することで、ある事象を発生させることに纏わる解釈を必然の名の下に、理解しようという意志のものであるからだ。しかし逆を言えばその事実とは、そのように自然科学自体を純化させてきた人類が、一方ではそのように冷静に判断することが出来ない数々の出会いと、その出会いに翻弄された事実を多く持ったということを物語ってもいるのである。本来奇蹟というものの考え方には、その事象に関して何の関心もない者にとっては意味を持たないことでも、その事象に関心のある者にとっては肯定的にも否定的(この場合青天の霹靂ということになるのだが)にも重大な意味を生じるものである。
 例えば人間社会にとって奇蹟である事態とは端的に言えば動物にとっては然程の意味がない場合も多い。(こうやって文を読まれる読者の姿を見る愛犬や愛猫たちにとってあなたの行為は全く意味のある行為ではない。)あるいはある者の死はその家族や友人にとっては重大な意味があったとしても、他人から見たら大した意味はないだろう。要するに奇蹟というものとは、その事象が発生することそのものが、ある者にとって自然全体に対して、自然との関わり合いにおいて、その事象を生んだ状況の全てが何らかのグッドタイミングのものであり、そのタイミング自体がセレンディップな出会い以外の何物でもないと感じられるということそのものなのだ。バッドタイミングな場合には我々はそれを古代人のように今でも天の呪いと感じるかも知れない。
 だからある出会いが偉大な意味を人類全体にとって生じさせるものであるのなら、それは確かに人類にとっては奇蹟と呼んでいいだろう。そして我々が今こうして生きて、他者の意見に耳を澄ますことが出来るように他者の意見を文章という形で知ることが出来ることそのものが奇蹟であると言ってよい。
 例えば私という人間のことを知らない大勢の読者が、今私がこのように書いているこの文章を目にすることが出来るという事実そのものは、人間がその事実を奇蹟と呼ぼうが、ただ単なる当たり前の日常であると捉えようが、人間固有のもの以外の事実ではなさそうだ、とは言える。
 というのもそもそも人間にとってのコミュニケーションというものは動物と全く異なった様相のものであると言えることの第一は、意思表示とか意思疎通というものを全く実際には会うことのない人々とも可能であるということ以外の事実にはない。
 動物でもゾウが危機的状況を遠くにいる仲間に超音波を使って知らせるという事実は確認されている。しかし彼等の意思疎通はそういう危機的状況の時に限られている。それに対して人間は四六時中自分の知らない仲間の考えを念頭に入れて思考し、行動する。ブログやバーチャルマネーゲームでは自分が男なのに女性を装うことすら自由である。しかしそういう意思疎通ということは例えばインターネットが当たり前になっている今日に限ったことではない。太古の昔から人間は他人の書いたものを読んできた。そしてその際人類は自分の知らない人、一度も逢ったことのない人が大半であった。例えば流行作家がいて、その人の講演会があって、その人に質問をして話しを交わすという事態は、実は今日的でもあるが、そういう事態が仮に太古にあったとしても尚、ある「書かれたもの」が自分の知らない人、つまり知人ではない人であることが通常である人類のコミュニケーションの採り方からすれば、寧ろ例外的な事態であったであろう。それは幸運以外の何物でもないということなのだ。
 実はこの当たり前の事実、書物に書かれた言葉から我々が意味を受け取るという行為を当たり前にしている日常そのものが最も人類にとって特異な現象なのだ。そしてそのことを成り立たせる前哨戦としてまず我々には次の認識が必要である。
「我々は我々が個人的に知ることが出来る成員以外の多くの成員の考えを知ることが出来る。そしてそのことに意味があるということを知る。」(この認識をDとしよう。)
 しかしこの認識には更にそれ以前に次の認識が必要である。
「我々はどのような成員でも個人的な知り合い以外にも大勢の成員が生活して意思疎通していることを知る。」(この認識をCとしよう。)
 しかしこの認識も更にそれ以前に次の認識が必要である。
「私はどのような成員でも個人的知り合い以外にも大勢の成員が生活して意思疎通していることを知る。」(この認識をBとしよう。)
 しかし賢明なる読者諸氏は次のように反論なさるであろう。「私は」という意識を得るためにはまず他者が必要である、だから他者と意思疎通する機会に恵まれない者には「私は」という意識は持てないし、また私以外の成員を意識しようがないだろう、と。それでは次のように最後の認識を言い換えてみよう。
「<私>は<私>以外の<私>のような生き物がどこかにはいる筈だと思う。」(この認識をAとしよう。)
 このような思惟が成立するのは生まれて間もない赤ん坊が自分以外の例えば母親の姿が確認出来ない時に持つことがあり得る、そういう認識である。敢えて私が<>で私を括ったのは、私とあなたという明確な意識のない状態での、ある種の身体的実存を引き受ける生活者としての人間が初歩的な認識として、肉体的な情動あるいは情感を持って他者を希求するという状態を示してみたかったからである。
 人間には脳内にミラーニューロンと呼ばれる部位が存在し、その部位は人間が他人の行動に対して、あるいは他種の生物に関しても歩いていたり、ものを食べていたりする場面を目撃する時に、反応する仕組みになっているということは現代脳科学では解明されているし、また親愛の情を示す時脳内にプロラクチンという物質が放出されることも解明されている。例えばその最も顕著な例とは、母親が自分の子供に対して愛情を注ぐ時に、放出されると言われる。それは生物としての人間がそのような状況で無意識の内に判断しているという事実から我々がやがて一般化し得る自然科学的事実である。
 私は恐らく人間以外のどの動物も、決して「自分たち以外の自分たちと同様の生き物が自分の知らないところでも生活している。」という認識を明確には持てないのではないか、と考えている。勿論イルカはイルカ固有の生活環境で生活し、他個体と接触するわけだから、ある個体が自分の知らない個体と相対した時には「知らない」と認識するだろう。しかしそれはあくまでその個体が自分の前に出現したから得た認識である。その個体が登場する以前に、そのような出会いがあるかも知れないとまでは恐らく彼等は認識出来るだろう。しかしではそのような事態を総括して、「つまりだから自分の預かり知らぬ場所にも自分同様の生物(つまり仲間)がいるのだ。」と明確に認識出来るか、と言うとそこまで認識することはかなり困難なのではないかと私は思っている。
 人間に話しを戻そう。例えば私が考えた認識モデルのBは、私が想定した読者からの批判を真摯に受け止めて、認識Cを得た後に当たり前の事実として受け止めることの出来る認識であるという可能性は多いにある。例えば幼児が母親と一緒に歩いている時、それまで食べていたチョコレートを包んだ銀紙を幼児が捨てようとした時、母親が
「いけませんよ。こんなところにものを捨てては。ちゃんと拾いなさい。」 
 と多少威嚇的な表情で子供を教え諭すという行為が、じきに子供の心の内部で、
「自分や自分と親しい人以外の人<その人とは抽象的な人であるから、当然自分にとっては知らない人、要するに他人である。勿論そんなことまでは彼等は考えないが。>が生活しているのだ。」
 という認識が育っていく。そしてその認識が生じた時、公衆道徳という観念とほぼ同時的に子供は悟るのだ。
「生きているのは自分たちだけではない。」
 ということを。つまりこの時点で彼等は自己及び自己にとってかけがえのない他者(家族と家族にとって大切な親族や知人)、つまり見知らぬ人たちの存在を知る。
 勿論両親は兄弟姉妹との関係から人間は「私」という観念を得ることは出来る。しかしその際には未だ「然程親しくはない人」というものは含まれてはいない。つまり親しい間柄以外にこの社会で生活する全ての人たちの存在をも考慮に入れた人間関係という観念の中で知る「私」という自覚こそ、真に責任ある社会成員としての自覚を伴った「私」という観念の獲得と言ってもよいのだ。そしてこの認識は認識Cの後にすぐさま認識Dを得るという認識の成長を必然のものとなすのである。
 ここで本論の主旨を説明しよう。つまり人間が言語を進化させてきた背景には、寧ろ言語を必要とした事実があることはずっと考えられてきたのだが、その多くの論証において一番不足していた領域とは、端的に言えば責任倫理という脳内では確認されることの未だにない共同幻想に他ならない。責任倫理のない地点では決して言語的進化というものは成立し得ない。だから逆に言えば公衆道徳を守らない若者や中年、老人がいたとすれば、それは彼等が公衆道徳から発生した言語を使用しながら、その事実に対して目を見開かせないような何らかの事態が発生し、サルトル流に言えば、要するに無知を決込んでいるということ以外の何物でもない。
 ここで少しくだけた話題から考えてみよう。
 先日某国営放送局において先月亡くなった(2007年6月19日現在)シンガーソングライターであるZARDの坂井泉水氏の追悼ドキュメントが放送された。その番組に漫画家の倉田由美子氏が出演し、「彼女の音楽は<彼女が殆どテレビに出演しなかったためにその私人としての実像がミステリアスであるために>聴くファンが自由にその実像を付け加える、つまり自分にとっての坂井泉水、ZARD像を想像することが出来る。」というようなことを述べられていた。
 昨今お笑いタレントを初め、流行作家たちが挙ってテレビのヴァラエティー番組に出演し、作品世界とは無縁の私人としてのパーソナリティーを披露する。芸能人の私生活に興味のある視聴者向けの内容なのだろう。しかしその際に生じるのは、あまりにもテレビで地名度のある文化人にせよ、芸能人にせよ、その本業以外での活動でのイメージが付帯してしまい、その人が書いた本を読む時にも、その人の本業の仕事を見る時にも、その本や芸の内容以上にその著者のパーソナリティーの方が前面に出てしまい、そのように付帯したイメージで作品世界の意味内容を解釈するようになる。だがこのような事態は純粋に本や芸の内容を解釈する際の難点となる。
 例えば私たちが古典的作品に接する時、我々はテレビに出演する文化人や有名人に対するような意味では、その著者のイメージというものは知らない。勿論その著者を研究している人は別であるが、それでもテレビのない時代の著者に関してはいつまでも人格的なパーソナリティーは謎のままだ。しかしこの事実は実はその著書の意味内容、意味作用の両面から言えば、健全な事態である。余計な先入見が入り込む隙がないからである。
 本来作品というものは、その作者の個人的な性格とか人間性とは無縁の世界である筈である。つまり作品によって示された内容やニュアンスが全てであり、その作品がどのような個人のどのような私生活から生み出されたかという事実は、その作品世界の意味に比べれば、然程重要ではない。
 つまり意味の連鎖とか、生物学者として最も影響力を持つ一人リチャード・ドーキンス流に言って、ミーム的な価値から言えば余分なことである。しかし映画を観に行く時、我々は贔屓の役者が出演するという事実が見るべき映画選択のキーワードとなっている。しかしそのことはその映画自体の価値と関わりはない。そしてこの贔屓感情というものは端的に言えばそのパーソナリティーに対する共感作用によるものである。共感という感情は心理学者のサイモン・バロン・コーエンによると、女性の方がより優れているという。それは平均的な統計的事実である。それに対して男性はシステム化能力に秀でているという。これは要するに全体的な秩序をもって理解する能力、事象の全てを解釈する能力である。
 この事実を踏まえて考えると、責任とは明らかに左脳的判断であり、要するにシステム化能力と関係がある。それに対して、共感という感情は明らかに良心と関係があり、友愛的な感情を起点とする。右脳的判断であると言えよう。そして記憶作用において我々は暗示にもかかりやすく(心理学者のダニエル・シャクターの「なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか」<原題はSeven Sins Of Memory2001年>日経ビジネス人文庫刊に記憶の書き換え、暗示等のことは詳しい。この著者は記憶を「物忘れ」「不注意」「妨害」「混乱」「暗示」「書き換え」「つきまとい」の七つのエラーから捉えている。この本に書かれた内容に関しても本論では大きく取り上げる積もりである。)要は、我々はそういう脳記憶の作用において、先入見を持って全ての判断をしがちである。すると多くのテレビのヴァラエティー番組でレギュラーになっている人は、その人の本業の仕事に対する評価を多く映像的に視聴者に受け取られたイメージによって解釈されがちであるということになる。しかしこの事実はその人の仕事に対する評価としては決して公平な見方ではないだろう。人間的な私人としてのイメージに対する贔屓感情からのみ理解されるという事実は、実は俳優にせよ、歌手にせよ、他の芸能人にせよ、学者や芸術家同様その仕事(作品とか論文)によって解釈されるべきであるという観点に立てば、例えばお笑い芸人であれば、そのコントとか漫才とか落語とかの専門分野の力量に対する評価という面から言えば損な事実である。しかしその二つの境界そのものがあやふやになっているという事態もまた極めて現代的なことである。
 責任は良心と常に共存して進化(つまり共進化)してきたと私は考え、以前別の論文「責任論」(本ブログにおいて掲載)でも取り上げた。そしてこの責任と良心の脳内での判断こそが言語を進化に導いてきたと私は考えるのだ。今挙げた<くだけた内容の事実>とは実は、要するに私人としての性格に対する評価が仕事の純粋な力量に対する評価以上に重要となっているというマスコミ誘導型の価値判断というものが、現代を支配しているとすれば由々しき事態であるという判断が、責任によって言語活動そのものを、あるいは言語の体系そのものを進化させることに貢献してきたと考える私の本論における主張と相同のメカニズムを持っていると言える。例えばカントという人間がどういう存在だったかということは、少なくとも彼の哲学の内容を理解した後においてのみある程度の意味を持ち、その哲学テクストを読んだこともない者にとっては害悪となるだけである、と言いたいのである。
 そしてそれは言語自体の存在理由にも当て嵌まる。つまりある内容の文章とは、その書かれた内容に関する判断からのみ評価するべきであるし、その記述者の性格とか人間性は、そのテクスト内容から逆流して考えられるのでなければ公平ではないということなのだ。その意味では古典というものはおしなべて我々による公平な内容解釈に基づいていると言える。(少なくとも贔屓の役者が出ている映画を見ようという動機に纏わる不公平感はない。いい映画と売れる映画の違いもここにある。例えば北野武監督の映画はテレビで知る我々のビートたけし像をどれくらい監督である彼が裏切ってくれるかという期待感によって我々は満たされていると言ってもよいだろう。)
 そして責任という考え方は今挙げた例から言えば、明らかに公平な判断というものを欲しているのだ。それは端的に言えば親しい者とそうではない者との間に差別をつけないという倫理に支えられ、寧ろ親しくはない者に対してより配慮するという考えが基本にある。そしてそのことと、自分にとっては親しくはない人の書く文章を読むという行為には認識Dに近い心理があるのである。だから私はまず基本的に言語活動というものは、親しくはない者同士を結び付ける作用が出発点であったしたら、知らない者、地球上の裏側にも自分のような人は生活し、自分よりも偉大な素晴らしい人がこの世にはいると知りながら、そういった人の全てと知り合うことは不可能であるというもう一つの認識を持つこととは「世界」というものを想定することが出来る能力、あるいは言語的な意思疎通のおける責任倫理的な遣り取り(思い遣りもまた責任理理的遣り取りである。)と共に発達したと考える。
 つまり言語、とりわけエクリチュールに依拠した言語的思考というものは、地球の裏側という認識を持てなかった時代においても世界という認識によって育まれてきたと捉えることが出来、言語の進化を「自分の知らない世界市民の存在」に対する意識が促進してきたのだ、という本論の支柱となる理念を今私に宣言させずにはおかないのである。そして世界認識とは、私にとって大事なことと、私の知らない者にとって大事なこととを等価な価値として認識すること、即ち責任という考えを起点とするということである。そしてこの自己に対する認識をB以降の全ての認識をもって明確化するという事態こそ、私が考える言語の進化の謎を解くものである、ということなのである。
 序なりに本論の内容を先に結論的に言っておくと、言語の進化は責任倫理と良心の発動が極めて重要な役割、いや寧ろそれこそが言語獲得以後の全ての言語進化史に関わってきたであろう、ということなのだ。しかしそのことをもっとたやすく言うと、人間もまた本来はただの動物である。他の動物と同様本能がある。しかし人間は言語を持ったがために他の動物とどうしても同じ穴の狢であると自分のことを考えたくはない。そこで社会倫理として責任という観念を自己の肝に銘じたのだ、とも言える。
 本論では第一章を現象学という哲学の一分野の流れを一人のフランス哲学者ミシェル・アンリによるテクストの現代的な意義について考えながら、テクストを創造する人間の行為から言語というものの果たす役割を考えた。そして結論として第九章では人間の愛と性に対して、その営み自体を言語行為、言語活動であると捉える視点から考えてみた。そして現代の日本が抱える性意識を日常からジェンダー的な意識と絡めて考えてみたので、あまり観念的な論述が苦手という向きの読者はそこだけを集中して読んで頂いても一向に構わない。その二つの間に介在する諸問題をその間の章で書いてみた。どの章から読んでもよいようには一応心掛けたが、通して何らかの主張が読み取られるようにも心掛けた。後はどのような順序で読み進められるかは読者諸氏次第である。

Friday, November 20, 2009

〔責任論〕 結論 責任能力と抑制性④

 生物学者のリチャード・ドーキンスは遺伝子の作用によって(彼によれば利他的な判断を得策とする遺伝子の利己性となるが)人間が構築した文字や文化をミームと総称しているが、儒家思想(それは秦代から前漢代に道教その他に圧迫された。)やユダヤ教(ギリシャ時代にはアイデンティティーを失いかけた。)・キリスト教も、あるいは自由主義経済や自由思想もミームを通して同世代から後代へと遺伝子が人間をヴィークルとして利用して伝播させてゆく意志を持ち、殆どそのことに対して本能的に対応する、と考えているのだが、それは明らかに私たちの中に無意識に宿っている責任に誘発されることが多く、言語行為もまたその無意識の責任から誘発されている、とも捉えられるのだ。
 この責任を行動や認識の誘発剤として捉える考え方は未だ端緒についたばかりであるが、一体このような誘発剤を動物が兼ね備えているかどうかが問題である。人間のように反省と後悔による明確な意識としてではなくても、何らかのそれに近い行動は随所で確認出来る。例の有名なミツバチのダンス(カール・フォン・フリッシュによる報告)は太陽と蜜の場所と現在位置との関係に応じてその角度にほぼ正確に尻を振りダンスをする彼らは、その尻の向きで明らかに密の場所を仲間に知らせている。しかし彼らの行動は既に遺伝子に本能的に書き込まれており、それを責任として、つまり誘発剤として認識しているかと言えば疑問であろう。意識内に意志として自覚される明示性はないと思われる。
 しかしゾウ(歩行の覚束ない子供を助け起き上がらせる。)もアザラシにも見られる親の子に対する教育的配慮といった社会行動は責任のある行動であると言える。しかしその責任を責任として認識出来るかというと集団内の懲罰的な学習性から引き起こされる行動にしか過ぎないとも言える。 
 本来責任というものはその在り方が複雑である。ミームを駆使する説明責任(アカウンタビリティー)、連帯責任(これなら高等哺乳類にはあるかも知れない。専門家の御意見をお伺いしたい。)、責任転嫁(これも動物にはあるかも知れない。)といった諸相によって分析可能であるからだ。
 
 我々の脳では扁桃体でノルアドレナリン(カテコールアミンの一種)が放出されると記憶の固定化に役立つことが知られている。そしてそれが尾状核へと投射されると記憶として固定化されるわけだ。マッガウの謂いに従えば「扁桃体におけるノルアドレナリンの記憶増強効果は、単に扁桃体への直接の影響によるものではなく、記憶の固定化に関与している他の脳部位に影響することによって生じている」らしいが、分条界と呼ばれる扁桃体と尾状核(反応学習を記憶させる)を繋ぐ経路があり、それが損傷されると反応学習に支障をきたすのだとすると、例えば上司に訓戒を受けてその言い方に棘を感じた部下がそのことに関していつまでも根に持つとしたら、その社員は職務への情熱よりも、人間関係の安定を望む心理が強いということになり、逆にそのような長期記憶へとそういった事柄を収納しないような性格の人間は職務に関する情熱の方が社員の言動よりも勝っているのであり、そういう場合ひょっとしたら、上司の厳しい言い方に対して反応する情動を抑える、要するに分条界において扁桃体から尾状核へと記憶を固定化させる作用をブロックさせる何らかの内分泌作用がなされるのかも知れない。あるいは扁桃体においてノルアドレナリンを放出させることによってなされる作用そのものをブロックするような作用が起きるのかも知れない。 
 確かに人間は悔しいことも長期記憶に残ることがある。しかし少なくともビジネス上では上司からの訓戒は、短期記憶にとどめおくくらいの意識も必要であろう。そうする方が得策と意識的に構えている者の方に、ビジネス上では利があるだろう。また実際は厳しく言われた方も言った方も心得ているのである。その訓戒はあくまで業務上の問題点としてなされたのであって、その業務を行う人間の人間性に対してなされたのではない、ということを。
 大屋は「法解釈の言語哲学」において、デリダをクリプキ以外では最も哲学者としては大きく取り上げている。その中でも次の記述は示唆的である。
「デリダが「正しさ」をめぐる問題に本格的に検討を加えた作品が『法の力』(中略)である。そこでの彼の理論は導出における前提が必然的に複合的な構造物であることを帰結の不確実性の原因として指摘するものであった。例えば《「語られる言葉」パロール》と書かれた言葉」エクリチュールの関係において、本来は一回起的でありその故に現前と看做されるパロールが、しかし新たなコンテクストの下に置かれ得る「反復可能性」(iterabilite)としての原エクリチュールを内包することが、意味の不確実性の起源である。」(同書121ページより)とし、デリダの言葉を「(前略)何が正しいことかをめぐる導出が行われる以前に存在すると想定されるすべての正しさの根拠、すなわち「正義」は、基礎付けをめぐる議論を超越した場所にあるとされる。このことは第一に、「法/権利を基礎付け、創始し、正義にかなうことになるようにすることになる作用、つまり掟をつくる/場を支配する(中略)ことになる作用を成り立たせるのは、実力行使、つまり行為遂行的でありそれゆえ解釈をする暴力であろう」(デリダの引用<著者注加入>)としてその暴力性=無根拠性が主張される一方で、それが正誤に関する判断が可能となる以前に存在し、それらの判断が可能となる条件を与えるものであるために(条件概念が重要であるとウリクトも「説明と理解」で主張している。<著者注加入>)、それ自体は基礎をもたない暴力である。これは、それら自体は判断の対象とならないということを意味している。「権威の起源、掟を基礎付ける作用または掟の基礎になるもの、掟を定立する作用(.....)自体は基礎をもたない暴力である。これは、それら自体が『非合法』または『正統でない』の意味で正義にかなっていないということを意味しない。それらは、それらが基礎付けをなす瞬間には、合法的でも非合法的でもない。それらは、基礎付けられたものと基礎付けされなかったものとの対立や、基礎付け主義かそれとも反基礎付け主義かの対立を超えている」(デリダの引用<著者注加入>)(同書121~122ページより)
 つまりここで大屋が示したかったのは、デリダが言う幾分バタイユ的な暴力という攻撃欲求をシステム構築(言語体系、住居群、法体系、階級性、ネット社会)へと、人間がただ単なるホモ・サピエンスから存在者として自己認識出来る地位を獲得するために、営為努力しているということである。勿論この転化は目的意図的に行われるのではない。我々は全ての行為を気が付いた時には、そのように認識し得るのみである。そして前半部の大屋のデリダ引用文章中の反復可能性こそ、アンセルメとマジストレッティーの言う「快感原則は慣性原則であるだけでなく、反復原則である。」(「脳と無意識ニューロンと可塑性」139ページより)ことを示している。デリダが言う本来一回性であるパロールが常套化されるような惰性判断が、ホメオスタシスに依拠しながらも、我々の言語行為において何らかの節目を付けながら、他者に説明責任を果たすべく同一の言い方、同一の意味内容、同一の意味作用をそれを聞き取る者がコラムあるいはクラスターとして選択して、その他者の脳内に同一のニューロンの発火パターンを生じさせ、他者の長期記憶に収納させるべく意志することが説明者の責任であるということを示している。
 法も正義も責任が作る。責任が理性の助けを借りて秩序付けるのだ。理性とは責任と良心の共存と対立の全てを一括して俯瞰する認識である。
 しかし責任とは責任を負える範囲の指定でもある故、それは長期的なことであれ、確実に想定し得る未来に関してのことである。例えば長期に渡ってローンを組むことがあっても、その間には何があるか分からない。だからこそまた保険の存在理由も発生するわけだが、もっと百年後、二百年後というスパンになると想像することも無意味という観念を人間は抱くものだ。自分の死後のことまで想定出来るか、というわけである。だがマックス・ヴェーバーは政治家ならそれくらいのスパンでものを考える必要があると考えていた。だから生の意味を長期的な展望に立って考えていたということになる。「(前略)無差別的な愛の倫理を貫いていけば「悪しき者にも力もて抵抗うな」となるが、政治家にはこれと逆に、悪しき者には力もて抵抗え、しからずんば汝は悪の責めを負うにいたらん、という命題が妥当する」(「職業としての政治」より)わけだし、「この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と横暴性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。そして善から善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これらのことは古代のキリスト教徒でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。」(同書より)し、「およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。」のだ。悪は幾分現世主義的であり、実際的であり、未来に対して何の展望もない。しかし実際ヴェーバー自身も百年スパンの展望を抱いてこのような言辞を吐いたのだろうが、それ以上未来のことを考えることには臆しただろう。つまり人間にはつい目先のことだけ処理出来れば、それ以上先のことを考えるのは不安だし(第一自分は死んでいるかも知れない。)、そこでどうせ人生一回なら今楽しまなくてどうする、という観念に囚われがちなものだ。だから目標設定とか願望といったものをそれほど大それたことではなく、もっと地道で地に肢を付けたものをという発想になる。そういう意味では責任感といったものさえ、長期的な未来展望であるよりは、目先のことに関して目標を定めるという意味合いでなされていることの方が多いだろう。つまり責任は死に対する生の意義において認識されるが、同時に自らの死に対する恐怖を和らげ、長期的未来への意志を猶予させる効用もあるのだ。今生きていて、自分の周囲にいる人たちを中心にしかものを考えることが出来ない人間の必然的な内的理解であるも言える。つまりこういうことである。「私も一個の小さな人間でしかありません。だから私の出来ることには限界があります。そしてその範囲内でなら何とか一生懸命やらせて頂きます。」という表明こそ責任の明示なのである。
 例えば我々は<いつかは人間も絶滅する>と考えるし、<地球もいつかは滅ぶ>だろう。<太陽でさえ永遠ではない>だろう。しかしそんな先のことを考えると暗くなる。だいたいでは我々が生きて来ているのに何の意味があるのか、と考えてしまう。だから自分の想定し得る範囲に自分の存在を位置付けようとする。その時自分の使命とか責任とかは、極めて実際的であり、自分の極小さを忘れさせてくれるのに本当に都合がいいのだ。
 ところで、カントは神を否定したわけではない。しかし彼の考えはともかく、そのテクスト内容の意味作用から言えば、神による恩寵という事態はそれほど大したことではなかった。彼にあってはもっと大切であると思われるものが確かにあったのだ。例えば「人倫の形而上学の基礎付け」において彼はこう言っている。

「できるだけ他人に親切を尽くすことは義務である。そしてさらに、世の中には同情心に富んだ人が多くいて、そういう人々は虚栄心や利己心などという他の動機なしに、喜びを周囲の人々に行き渡らせることに内的な楽しみを感じ、自分のせいで他人が満足をすることをこの上なく喜ぶことができる。けれども、私は言う。この場合そのような行為はいかに義務に合致した愛すべき行為であるが、しかし真の道徳的価値をもたず、他のさまざまな傾向と同類である、と。例えば名誉を求める傾向が、実際に公衆のためになり義務にしかない、したがって名誉に値するようなことがらと、うまく一致する場合、称賛と励ましを受ける値打ちはあるが、尊重を受ける値打ちはないのと同様である。というのは、こういう格率については、傾向に基づいてではなく義務にもとづいてそういう行為を行うという、道徳的内容が欠けているからである。そこで仮に上の博愛家の心が、彼自身の心によって曇らされ、その悲しみは他人の運命に対するあらゆる同情を消してしまったとしよう。彼は、彼の困っている人々に対して親切を尽くす能力は依然としてもっているが、自分自身の困窮で心が一杯であるため他人の困窮は彼の心を動かさないとしよう。このように、もはやいかなる心の傾向もただ義務のみにもとづいて親切な行為をするとした場合、その行為ははじめて真実な道徳的な価値をもつのである。さらにまた、ある人が生まれつき同情心乏しく〔ほかの点では立派な人でありながら〕気質の上では他人の苦しみに対して冷たくで無関心であるとしよう。そしてその理由は、その人が自分自身の苦しみをも辛抱強くもちこたえる生まれつき特にめぐまれていて、そのためそういう生まれつきが他のすべての人にも具わっていると思いこみ、さらにそれを当然のこととして他人にも要求するからであるとしよう。このような人を〔これは自然の生んだ最悪の産物ではけっしてない〕、自然は特に博愛家に育てあげなかったとしても、そういう人は、やさしい気質の人のもつ価値よりもはるかに高い価値をみずからに与える可能性、やはりみずからの内に見出さないであろうか。確かにそういう可能性はある。そういう人が傾向にもとづかず義務のもとづいて他人に親切を尽くすという場合、まさにそこに、性格の価値というものが、はじめて生ずるのであり、これこそ道徳的価値であり、すべてを超える最高の価値なのである。
 みずから幸福を確保することは〔少なくとも間接的には〕義務である。というのは多くの心配につきまとわれ、満たされる数々の欲求に囲まれて、みずからの境遇に満足を欠いていることは、義務の違反への大きな誘惑になりやすいからである。しかしこの場合、義務のことなど顧みずとも、あらゆる人間はもともとすでに、幸福を求める極めて強くかつ内に根ざした傾向をもっているのである。なぜなら、まさにこの幸福の理念がすべての傾向を一つの全体にしめるものなのであり、しかもそのようにしても人間は、幸福と呼ばれるところの、あらゆる傾向の満足に総体について、はっきり確かな概念をつくりあげることができないのである。それゆえ、ただ一つの傾向でもその約束する満足が何であり満足が得られるときはいつであるかはっきりしていることがあるのは、怪しむに足りない。たとえば、通風で足の動かない人が、自分の食べたいものを食べ、せめて今できるだけ楽しもう、とするのは怪しむに足りない。なぜなら、この場合彼は、すべてを考慮した末、健康のうちにありと言われる幸福への、おそらく彼にはもう満たされぬであろう期待によって、少なくとも現在の瞬間の享楽を失うことがないようにした、のだからである。しかしながら、このように幸福を求める一般的な傾向が、彼の意志を決定せず、健康というものが少なくとも彼の考慮にはそれほど必然的に属さない場合すらも、やはり他のすべての場合におけると同様に、みずからの幸福を増すことにつとめるべきであり、しかも傾向にもとづいてではなく義務にもとづいてつとめるべきであるという法則は、依然として残っている。そして彼がこの法則に従う場合に、彼の行為は、はじめて道徳的価値をもつのである。
 われわれの隣人を、いな敵をさえも、愛せよ、と命ずる聖書のことばもまた、明らかに同様な意味で理解すべきである。というのは、傾向としての愛は命令されることはできないからである。義務そのものから他人に親切をくつすことは、実践的愛であって、感情的愛でなく、意志のうちなる愛であって感覚の性癖のうちなる愛でなく、行為の原理のうちにある愛であって、われを忘れた同情のうちにある愛ではない。こういう実践的な愛のみが命令されうるのである。」(「人倫の形而上学の基礎付け」248~251ページより)

 カントの主張は、この箇所の発言からだけで判断するなら、彼自身は理神論者と言っているが、そうではないのではないか、という憶測さえ成り立つ。
 例えば人間の性格とは善良であれ、懐疑的であれ、悪辣であれ神から与えられたものである、としよう。するとその恩寵如何ではなく、そういう性格的傾向性があるにもかかわらず、自分の意志で、つまり意識的な努力でそれではいけない、と悪を出来る限り抑制した善行をすることの方に、神から予め与えられた「よい性格」の人間のごく自然な善行よりも価値があるとするのなら、それは神はあってなきに等しいものである、という考えとなる。(そこまで神が介入出来ないのなら)一方いささか仏教的でもあるが、善行をして努力した人間は予め「よい性格」を与えられた者であれ、「悪い性格」を与えられた者であれ、いずれにせよよい来世が待ち構えている、として尚且つその善行に対する評定者が神であるとするなら、神とは極めて人間臭い存在となる。それでは理神論ではなくなる。しかしこうも考えられる。カントは神がいてもいなくても、自分の心の満足こそが一番大事なのだ、ということを言いたかったのだ、と。その点ではカントは孔子や仏陀にも相通じる主張をしていることになる。(カント自身は有神論者だが神からの自立を確かに主張した。)
 カントの主張は目には見えないことの意味である。それはヴェーバーが実際的である社会における目で見えることの実践を語っていることと、対極に位置するかのように思われる。しかし政治上での社会の運営ということには、目に見えることを変えてゆくことを通して、目では見えないことを充実させてゆこうという考えがあるように私には思えるのだ。 
 目のない状態という進化もあったかも知れない。しかし我々は電話を通してでも、意味内容を伝え合える。一方パソコンも本も新聞も目で追う。この異なったクオリア感知能力の所有こそ人間が多層的な視野を獲得したことの根拠であろう。しかしもし目が見えなかったら、見えなかったなりに、あるいは耳が聞こえなかったら、聞こえなかったなりに我々はまた別種の感知能力を付与されていたかも知れない。ただ一旦獲得した能力を喪失した状態を考えることがし難いというだけのことである。責任は能力に付帯して負わされる。人間には目が見えて耳が聞こえるという前提で、責任は負わされる。要するに責任とは能力の行使の十分さに対する評定である。だからカントが善意志を持ち、道徳的価値に則って行動することは我々に付与された意志的な能力であり、能力の行使は私たちに与えられた権利であるという考えが基本にある。彼にとって義務こそが最大の権利だったのだ。
 ベンヤミンが「無媒介では権力を所有していない。」と言ったことを振り返ってみよう。我々は攻撃的欲求とか破壊意志というものを持っている。そしてそれは創造のエネルギーを形成するのにも多大に貢献している。しかし破壊的な意志は、実は恒常的な維持によって支えられている。慣性法則に随順した身体的な反応は、恒常的な破壊欲求を安定した状態へと導く。破壊したものを破壊したままにしたくはない、と私たちは思うのだ。
 だから媒介を通して顕現された権力的意図とか欲求を、緩和させるものとして良心は常に攻撃的欲求の発露においてさえ常備されている。それもまた一つの能力である。
 周囲の誰もが自分の存在を認可してくれなくても尚、世界中のどこかには自分を認可してくれる人間がいる筈だ、という思いが孔子に対して弟子たちに積年の自己理想挫折に対してその怨念を誰かに継承させることを暗に示さしめたのだし、今日も沢山、自己理想実現に程遠い人々がパソコンの前で佇み世界に何かを発信しようとしている。(デイトレーダーもそういう人々である。)つまり見知らぬ人間による恩恵と感謝が古代から現代に至るまで責任倫理の根底にある。つまりその見知らぬ者に対する配慮(あるいは時には要求)こそが、無媒介では他者に権力を誇示しはしないという最低限のルールを人間が人間に与えてきたのである。攻撃は媒介を通して緩和されているのだ。それこそ人間の無意識の内での良心と責任を一致させる試みである。媒介を通した伝達という意味では電話こそそうだし、自宅の内部と外部隔てる壁であれ、とどのつまり人間同士の衝突を回避させるために人間が進化させた方策だったのだ。ミームとは抑制的作用顕現のための道具でもあるのだ。
 しかしそれ以上に重要なこととは、未来の不確実性にもかかわらず、人間は誰しも、それがいつかは分からないが、人間という種も絶滅し、いつかは地球も滅び、いつかは太陽さえなくなるのだ、ということに確信を持っている。クリプキの哲学の様相論理性、可能世界意味論とは、「八十歳でカントは亡くなるが、もしあと数年生きていたなら」という仮定法はどのような人生にも与え得るし、どのような事態でもそこで収束するのなら、もっと先までその事態が長引いたならという仮定法を設置することが可能であるが、そういう仮定法を許すということは、裏返せばそうはならなかったという諦念があるからである、ならば限りある個々の生において、責任を果たすことに献身せよ、という主張にさえ私には響く。つまりその与えられた能力をフルに活かして生を意義あるものにしよう、という考えを抱くのだ。その時自分に課せられた責任とは一体何なのか、ということは恐らく言語獲得期の人類も思い巡らせていたであろうし、そのことを追慕しながら自分でもそのことについて思い巡らせることにはきっと意味がある。(了)

参考文献
(括弧内の数字は最初が原テクストの出版年、後は日本語訳出版年を指す。)
「養生訓」(1713-1961)貝原益軒著、岩波文庫
「人間不平等起源論」(1755-2005)「社会契約論」(1762-2005)ジャン・ジャック・ルソー著、小林善彦、井上幸治訳、中公クラシックス
「道徳形而上学原論」(1785-1960)インマニュエル・カント著篠田英夫訳、岩波文庫
「人倫の形而上学の基礎づけ」(1785-2005)インマニュエル・カント著、中公クラシックス
「実践理性批判」(1788-1979)インマニュエル・カント著篠田英夫訳、岩波文庫
「精神現象学」(1807-1998)フリードリッヒ・ヘーゲル著、長谷川宏訳、作品社刊
「善悪の彼岸」(1885、1886-1970)フリードリッヒ・ニーチェ著、岩波文庫
「権力への意志」(1901-1993)フリードリッヒ・ニーチェ著、岩波書店刊
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1920-1989)マックス・ヴェーバー著、岩波文庫
「職業としての政治」(1919-1980)マックス・ヴェーバー著、岩波文庫
「パサージュ論」(1982-2003)ワルター・ベンヤミン著、岩波書店刊
「言語・真理・論理」(1946-1955)A・J・エイヤー著、吉田夏彦訳、岩波現代叢書刊
「日本的霊性」(1944-1972)鈴木大拙著、岩波文庫
「心の概念」(1945-1987)ギルバート・ライル著、みすず書房刊
「全体性と無限」(1961-2006)エマニュエル・レヴィナス著、熊野純彦訳、岩波文庫
「現出の本質」(1963-2005)ミシェル・アンリ著、法政大学出版局ウニベルシタス叢書刊
「説明と理解」(1971-1983)G・V・フォン・ウリクト著、丸木高司+木岡伸夫訳、産業図書刊
「わが世界観」(1985-2002)エルヴィン・シュレーディンガー著、中村量空+早川博信+橋本契訳、ちくま学芸文庫
「意味の限界」(1966-2005)P・F・ストローソン著、永井均訳、勁草書房刊
「裸のサル」(1967-1969)デズモンド・モリス著、河出書房新社刊
「コウモリであるとはどういうことか」(1979-1989)トーマス・ネーゲル著、勁草書房刊
「名指しと必然性」(1972-1985)ソール・アーロン・クリプキ著、産業図書刊
「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(1982-1983)ソール・アーロン・クリプキ著、産業図書刊
「利己的遺伝子」(1976-1991)リチャード・ドーキンス著、日高敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二訳、紀伊国屋書店刊)
「ブラインド・ウォッチメーカー」(1986-1993)リチャード・ドーキンス著、早川書房刊
「なぜ人を殺すのか」(1993-1995)マット・カートミル著、新曜社刊
「自然の中に隠された数学」(1995-1996)イアン・スチュアート著、草思社サイエンスマスターズ5
「知性はいつ生まれたか」(1996-1997)ウィリアム・カルヴィン著、草思社サイエンスマスターズ8
Having thought John Haurgeland HARVERD UNIVERSITY PRESS(1998)
「記憶と情動の脳科学」(2003-2006)ジェームズ・L・マッガウ著、大石高生・久保田競訳、講談社ブルーバックス
「脳と無意識ニューロンと可塑性」(2004-2006)フランソワ・アンセルメ+ピエール・マジストレッティー著、長野敬+藤野邦生訳、青土社刊
「儒教ルサンチマンの宗教」(1989)浅野裕一著、平凡社新書
「乱交の生物学」(2000-2003)ティム・バークヘッド著、新思索社刊
「言語の脳科学」(2002)酒井邦嘉著、中公新書
「意識とは何か」(2003)茂木健一郎著、ちくま新書
「「脳」整理法」(2005)茂木健一郎著、ちくま新書
「法解釈の言語哲学クリプキから根元的規約主義へ」(2006)大屋雄祐著、勁草書房刊
「ユダヤ人」(1984)マックス・I・ディモント著、藤本和子訳、朝日選書
「イスラムとコーラン」(1987)牧野信也、講談社学術文庫



注1 functional magnetic resonance imagingの略である。核磁気共鳴を利用して、ヒト及び動物の脳や脊髄の活動に関連した血流動態反応を視覚化した手法の一つで、計測原理的には酸化ヘモグロビンが脱酸化ヘモグロビンに変化する時に、磁気共鳴信号が見られることから、酸化ヘモグロビンが脱酸化ヘモグロビンへと変化する時の共鳴変化を捉えていると考えられている。一般に高磁気のもの程、高い分解能を持っている。例えば2005年10月現在、理化学研究所の脳科学綜合センターでは4テスラの装置を使って1㎜未満の空間分解能を実現している。fМRIでは高い分解能で脳神経活動を記録出来る一方、信号の時間変化は数秒~数十秒程度であるため、高い時間分解能は得られない欠点がある。(以上全てウィキペディア2007年4月19日付けによる。)検索事項「核磁気共鳴画像」に関するデータはウィキペディアに詳細が配信されているので参照されたし。
注2 ジェームズ・ジェローム・ギブソン(James Jerome Gibson、1904~1979)とは知覚専門の認知心理学とは一線を画した直接知覚説を展開したために生態心理学の領域を切り開いたとされるが、オハイオ州生まれでノースウェスタン大学を経てプリンストン大学を卒業1928年よりスミス・カレッジで教育、研究に携わる。ゲシュタルト心理学の創始者クルト・コフカがナチスから逃れて彼の主催するセミナーに参加していたが、彼から多大な影響を受ける。また彼を通してクルト・レヴィンと共にコフカが提唱していた誘発特性(invitation character)ないし、誘発性(valence)を起源としてアフォーダンスという概念を提唱したと告白しているが、彼の考えたアフォーダンスの概念は、1988年ドナルド・ノーマンというデザイン認知心理学の研究者が人間の主観性に依存するものとしてアフォーダンスを再定義したために、アフォーダンスというと微妙に異なるこの二つの考え方によって代表される。ギブソンの方は一般に客観的アフォーダンスととされる。その二つを簡単に解説すると、客観的アフォーダンスは①客観的に計測できる②人間の持つ、可能性を認知する能力から独立している。③動作主の能力に依存する。であり、一方主観的アフォーダンスとは動作主の目的や計画、確信、興味に依存する、と分類される。しかし次のような主観的アフォーダンスへに客観的アフォーダンスの側からの批判もある。
「部屋の椅子とボールがある。もしアフォーダンスが動作主の主観にかかわらず、客観的な能力限界によってすべての動作可能性からある動作を選択させるものであるならば、この部屋に入った男は次のような行動をとるだろう。すなわち、椅子を投げ、ボールに座るのだ。なぜならどちらも客観的にその行動が可能であるからだ。ではなぜ私たちはそういった行動をとらずに、椅子に座り、ボールを投げるのか。それは過去にそういった経験、つまり、ある物体の本質とそれが示すアフォーダンスとの関連性を経験しており、それが呼び覚まされているからだ。」 
 物体の本質と、それが示すアフォーダンスとに乖離があった場合でも、動作主はアフォーダンスに従った行動、すなわちその物体の本質と関係のない行動をとる、とされる。以上2007年4月18日ウィキペディアによる。つまりアフォーダンスはギブソン説を採ると不随意な身体反応であり、主に視覚的な情報によって例えば大きさとか幅とかを瞬時に測定する悟性的判断力とも言えるが、私は例えば後ろに誰かの人の気配を感じるようなこともあり得るわけだから、そういう場合、視覚情報からのものではないし、私の提示した眼のない我々という思考実験にはそういう気配を感知する皮膚感覚のようなものとしてここに取り上げた次第である。ギブソンの妻エレノア・ギブソンも心理学者である。(ウィキペディアによる)
注3 私は欲望=情動としたが、欲望という概念は、特に哲学者の竹田は情動と感情の差に関してはそれほど意識的ではないが、神経学者のアントニオ・ダマシオは情動を身体不随意的な作用として、そして感情をその感覚の認知的な事項として捉える。(「感じる脳情動と感情の脳科学よみがえるスピノザ」田中三日子訳、ダイヤモンド社刊)ダマシオはダーウィンとフロイトを融合した視点で脳神経科学を捉えている。しかし情動もただ生得的な場合もあるが、そうではなく社会的な経験を要するものも認める。例えばサルはヘビを恐れるようになるのは、母親の嫌悪と恐怖の表情に接するという経験からであり、こういった経験を持たないサルはいつまでたってもヘビに対する警戒心は生まれないことを指摘している。だが竹田の指摘する欲望という概念は情動と感情がワンセットになっており、要するに「生きる意志」や「諸々の欲求」が複合化された生の実存を示して私には新鮮に感じられる。(竹田青嗣「意味とエロス」ちくま学芸文庫)
尚私は動物は感情を持つと本論文中で言ったが、哲学界ではこの議論は喧しくされてきた。例えばデカルトは完全に動物には感情はないとした。ほぼ同時期のフランシス・ベーコンも同じような考えであった。デカルトよりも少し前の時代のモンテーニュには動物を人間と断絶した存在ではなく、連続した存在であるという考えが見られるのだが、彼の考えはその時代には誤解されていた。しかし17世紀後半から18世紀になると徐々にこのような考え方に対して修正が加えられてゆく。しかしその考え方の変更は決して人間がただ単に動物に対して同情したというヒューマニズムからではなくて、動物のする行為と人間のする行為をややもすると人間が特別な位置に存在すると思う傾向性が人間自身にあるために人間の行為だけを特権的に見てきたことに対して反省をし、逆に人間の行為においても動物と何ら変わらないこともあるという発見によって、人間を動物と等価に見る自然科学的な合理主義的視点(マット・カートミルによると「あらゆることを説明する単一のシステムを探ろうとする」)を導入しただけのことである。しかし未だそこには神の視点は濃厚に立ちはだかっていた。ジョン・ウェスリーは「唯一人間と動物の真の相違」は人間は神を知り、動物にはそれがなかった、ということだとした。だが徐々に人間は動物にも人間同様の権利を認めるようになっていった。人間が本質的に動物に対する愛護の精神を身につけたのはごく最近であり、それは人間が多くの動物を絶滅に追いやってきたという事実に対する覚醒からであり、人間の行為が地球環境に多大な影響を与えてきているという認識からである。この動物に対する認識の変化を粒差に検証し、狩猟文化を人間の攻撃欲求という側眼から考察した西欧文化逆説史的論文が解剖学者マット・カートミルの「人はなぜ殺すか狩猟仮説と動物観の文明史」である。ジョン・ウェウスリーのこともデカルトやベーコンのこともこの本に詳細に述べられている。(新曜社刊)尚私が「感情がある」と言ったのはある程度の高等知性を有する哺乳類のことであって、例えばショウジョウバエやアメフラシなどにはダマシオが言うように知性も感情もないであろう。それは行動パターンも行為選択も予め外界との接触によってプログラムされた通りの刺戟に対する反応でしかないだろう。しかし一個一個の個体にはそれぞれ反応の仕方の差は存在するだろう。しかもそれが自然選択のバロメーターになるような意味で。
注4 孔子の死去した年、BC479年(春秋東周時代)より実に千二百年以上に渡る紆余曲折の末、儒家思想は遂に国家公認となった。AD739年唐代のことである。ここに我々は儒家思想継承者たちの執念を見ることが出来る。詳細な紆余曲折期のデータは参考文献欄に記入の浅野裕一の「儒教ルサンチマンの宗教」を参照されたし。 
注5 女性の方が男性よりも共感感情が先天的に発達しているのは、多くの学者の主張するところである。とりわけ心理学者、精神医学者のサイモン・バロン=コーエンによる「共感する女脳、システム化する男脳」三宅真砂子訳、NHK出版刊では、男性がより構造的、世界把握的システム認識に優れ、女性は共感感情が発達しているために、同級生同士の子供の優劣を支配によって示す時、男の子は直接的に弱者を攻撃する傾向があるのに対し、女の子は別の成員に対して攻撃的な様相を表面的には悟られないように、コノテーションを使うことを指摘している。要するに女性の方が正々堂々ではないし、またより巧妙であるわけだ。また脳科学者で医学博士の田中冨久子は女性の方が統計的に語学能力が得意である傾向があり、男性の方が空間認知能力に長けているという統計的数値を示しているが、同時にある程度社会全体がそういう能力を男女に割り当てているので、そういう傾向になる場合もあり、必ずしも生得的であるかどうかは未だ熟考を要するというニュアンスも残している。尚女性に対するジェンダーロールの暗黙の規制という面ではアメリカの哲学者ジュディス・バトラーが論を展開している。田中冨久子の著作は「脳の進化学男女の脳はなぜ違うのか」中興新書ラクレであり、この面からの考察としてコーエンの著作と共に一読に値する。(89ページ参照のこと。*)
注6 リン・マーギュリスは細胞の共進化を証明した著名な生物学者である。彼女は自著「共生生命体の30億年」(中村桂子訳、草思社刊)で終章(ガイア)終節で次のように述べている。
「私たち人間も、この星に暮らす他の仲間と同じだ。私たちは自然に終始符をうつことはできない_できるのは自分たち自身を脅かすことだけだ。人間が核燃料工場の水槽や熱水噴出孔に生息している細菌まで含めて、すべての生命を破壊させる可能性があるという意見はばかげている。私には、この星の他の仲間が忍び笑いしているのが聞こえる。彼らは「君たちに会う前は、君たちなしにやっていた。これから先は君たちなしでやっていく」と声を合わせて歌っている。細菌も鯨も昆虫も種子植物も鳥も、歌っている。熱帯林の樹木は小さくハミングしながら、私たちが不遜な伐採をするのをやめて、彼らがもとのように成長できるようになるときを待っている。そして彼らは、私たちが消え去ったあともずっと、不協和音や和音を奏でつづけるだろう。」
 この言述は示唆的だ。私たちは私たちを時には脅かす細菌すらも消滅させることは出来ないし、また全ての細菌を消滅させる前に我々が消滅するだろう。全ての動物も植物も他の細菌の存在があって、初めて成立するからだ。しかしこの問題地球から我々がいなくなった後、更に我々のような高等知性を持つ種が進化して登場するかどうかについて脳生理学者で医師のジョン・エックルズは次のように言っている。
「われわれの進化系列はわれわれと同じあるいはこれをこえる知性と想像力を持った存在に導くことのできる唯一のものだろうかということがしばしば問われる。たとえば、ある超知性をもつ尾なしザルがヒト科と合致するかこれをこえるような別の進化を始めることがありうるだろうか。答えは否である。ヒト科の進化は主な遺伝群から別れた非常に小さな遊離群による量子的な進歩に依存する。さらに、何十万年という途方もなく長い遊離期間が新しい種の誕生には必要である。そのような条件は現在の地球上ではけっして再現されることはありえない。事実、過去でさえヒト科の進化はただ一回おこっただけであり、その後何百万年ものあいだつねに絶滅の危険を孕んだ小さな集団に依存していた。」(「脳の進化」東大出版会)
 もし彼の言うことが正しいとすれば我々が滅んだ後には再び別の集団が制覇することなど出来ないということとなる。しかし恐らくエックルズが言う進化とか進歩とかは我々と「似たような文明を築く種」ということであり、そうでなければ、つまり我々とは似ても似つかないタイプのものであればあり得ると私は思う。しかしそれも地球自体が存続する寿命とも関係があり、思いの他地球の今後が少ない命脈時間だとすれば、また違った意見が出されるだろう。しかしそうなると進化とか進歩とか時間とは何なのかというもう一つの問いを産出することになる。
[補足論考]
 カントは哲学史に乗せられた近代的人間像としてだけではなく、起源論的に善意志を捉えたのではないかと、私は直感したのだが、その理由を述べておこう。カントは彼が創出した定言命法に生涯拘り続けたのだが、このことは、彼の哲学が「論理を研ぎ澄ますこととは、論理では推し量れない、つまり説明の尽かぬことの大切さを知れ」と語る哲学であるように思われるからである。
 私は人類が言語獲得した第一の理由は、人間がある集団で責任と良心(これもまた意識と欲望と記憶の三角形(46ページの図参照。)の中心に位置すると思われる。)を介在させたこと(だからこそ人間は意思疎通の意味を言語によって獲得したのだ。)と、説明し切れないことがあるということそれ自体を説明したいという欲求を説明出来ることだけでも説明し尽くすことから始めようとしたからだ、と考えている。
 カントは生涯殊更言語についてはルソーほどは語らなかった。しかしカントの哲学からは濃厚に言語起原の問題を誘発させる。というのも彼の言う定言命法というものの認識を、言語獲得に関して関心を注いだルソーが見落としていたもののように考えていたのではないかと私は思うからである。それは彼の「人倫の形而上学の基礎づけ」(中公クラシックスW42の「プロレゴメナ・人倫の形而上学の基礎づけ」286~290ページより)の義務の理説によって明らかだ。ここで特に自殺の禁止をキリスト教教義の言説からではなく自説論理で立証し、返済不可能な借金に手を出すことを彼の自説論理から説諭する(ここら辺り現代人に耳の痛いところではないか?)ことにそれは示されている。つまり人間は出来ることは出来ると明言してもよいが、そうではないことをも出来ないと明言する必要があるのだ。出来ないと告げることは実際出来ると明言りもするよりもある意味では勇気を要する。このカントの言説から私の責任と良心が善悪に先だつという事態から言語獲得が可能だという論理はより信憑性が増す。カントは事実「世界平和のために」を1795年七十一歳当時発表している(1804年2月12日永眠。)が、この政治的理想発言のテクストの持つイデアが、逆にそれまで他のテクストを通して彼が語ってきたことがただ単に近代人の理性についての言明ではなく、人間の起源的な根本原理のテクストであるという主張を裏付けるのだ。カントは人間の行為選択に関して、大雑把に言えば大きく次のような観点から考えた。何か行為する時、その行為の格律(率)に則ったものであるか否か、そして他者一般に対してそれが該当するか、そして「汝の行為の格率を汝の意志によって(これが重要である。著者注加入)普遍的自然法則とならしめようとするかのように行為せよ。」(「プロレゴメナ・人倫の形而上学の基礎づけ」中公クラシックスW42、286ページより。)しかし人間はカントの言うような理想的な状態としてだけ存在し続けてきたわけではない。中には犯罪者や殺人者もいた。そしてそれら一切の現実を包み込むように自然は存在する。自然の格律と言うべきものをサー・ロナルド・A・フィッシャーやハミルトンが統計的に法則化してみせたことは実はカント哲学の真骨頂を証明する行為でもあったのだが、そのことについては後日別の機会で深く掘り下げようと思う。兎に角カント哲学が我々現代人にも教えてくれることとは、人間は与えられた能力を真っ当する(人間は自分の能力の本来の発現の仕方を知る頃寿命を終える。)こと(それは身体的にも精神的にも)と、自分から主体的にアプローチすることの双方に責任があるということである。
また私がA集団とC集団の首領同士の結託に関する思考実験の際に、C集団首領のジレンマに関して、もし部下の言う通りに選択をしていたら、その部下に対して負い目が残るとしたのは、その部下と首領の信頼関係よりもA集団首領との信頼関係を重視する場合のみであり、逆に部下との信頼感を最も重要視するなら、A集団首領との関係はあくまで形式的、建前的である方が得策なこともあるとは言っておこう。
 要するに我々は責任をどのように取り得るかという面から他の全てのことを考えるのだ。首領たちが何を一番に信頼するか、誰を一番に信頼するか(価値観とか人生観とかに頼った判断において)によって責任の在り方も変わってくるし、良心の発動の仕方も変わる。あるいは理想も、目標も変わる。だから善悪の判断とか倫理的な裁定とかさえ、何に対して信頼しているかという我々の判断によって、つまりその信頼対象によって支えられる独自の責任倫理(ここで言う倫理は世間一般の倫理とは酷くずれ込むだろう。)によって変わり得る。というより責任の在り方の方に善悪とか世間、社会における一般的倫理的裁定という一見ア・プリオリな基準と思われるものの方を我々が合わせる、あるいは当て嵌めるというのが我々の生存に関する実情なのだ。
度々この論文で登場したソール・クリプキのことについて触れておこう。ソール・アーロン・クリプキは1940年ネブラスカ州オマハ生まれの現プリンストン名誉教授、アメリカの哲学者、論理学者である。論理学の中でも特に様相論理の分野での業績で知られ、指示の因果説等の言語哲学分野での貢献が著名である。(ウィキペディア2007年4月18日付けを参考にした。)本論で彼の「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(産業図書刊)を解釈した法哲学者の大屋雄裕の「法解釈の言語哲学」を大きく取り上げたため、直接クリプキのことを解釈することを控えたのは、大屋のクリプキ解釈が優れているためでもあるが、クリプキ哲学そのものが直接的なアプローチばかりではなく、間接的アプローチにも耐え得る本質論であるため、敢えて直接的アプローチを避けた。「ウィトゲンシュタインのパラドックス」中のプラスとクワスのエピソードを簡単に紹介しておくと、「68+57」は幾つだと、質問者が言うと私は「125」と答えると、彼はそうではない、答えは「5」だと言うところから始まる。χもyも共に57より小さいときはプラス関数を使い、それ以外のとき、即ちχかyかがそうではない時、つまり57より大きい時は、クワス関数を使い、答えは全て5となるのだ、と私は意味してあなた質問をした、それに対してあなたはそんなのおかしいと感じても、ではあなたは今まで必ずプラス関数を使い、クワス関数を使ってはいなかったと証明出来るのかい、ということをクリプキは言っている。このジョークのようなエピソードは我々が日常において抱く一般論とか先入見に対して痛烈なる皮肉となって響く。このような数が小さい時にはどうということはないが、数が天文学的数字となるとこのクリプキの提示したエピソードのクワスの示す意味が大きく立ちはだかる。ということは私が最終部において示した、「もしカントがもっと長生きしていたなら」という仮定法において例証したようにどのような長さのものでもあと寸分でも長ければという仮定法が成立するような意味で、我々は常にもう一つの可能世界というものを仮想出来る。しかしそれはある意味ではどのような事態においても最後には必ず何らかの結果という「落ち」がつくものだ、ということを感慨として我々に示してもいるわけなのだ。
 ところで私は孔子を長身であるとしたが、浅野氏の報告によると、それすらも捏造であった可能性もあると言う。しかし私は恰好のいい長身の孔子が夢に敗れるという姿の方が真実味があると思えるし、そう後代の儒家思想継承者たちが画策したとしても、そうではなく事実であったとしてもいずれも説得力があると思われる。つまりここには事実と真実のずれがあるのだ。我々が他者を説得させる一般的理解促進とは実は真実の方なのだ。その意味ではヘーゲルに対して私が本論で取り上げた部分はヘーゲルの思想の真実をよく表している。
 ヘーゲルは民族意識というものを様々な共同体意識の中でも特殊なものと位置付けている節がある。(51ページ中305~306ページ分引用箇所)このことは今回の論文作成を機に初めて知った一つの収穫である。またへーゲルは明らかにフロイト的無意識の萌芽的発想を抱いていたとも知れる。(51ページ中310ページ分引用箇所)このことに対する認識を得たことも今回の収穫であった。それはヘーゲルの全てに関わることではないかも知れないが、その後の哲学史を備に見てゆくと真実味を帯びる。勿論そういった解釈学はほどほどにすべきなのかも知れない。とりわけ真実味という奴は、伝承や創造世界では許されるが、こと政治に関しては滅多にするべきではない。しかし政治にも大衆扇動という真実味加担主義もないことはない。しかしそれは危険な兆候である。
 ヴェーバーが言う「悪魔と手を結ぶ」とは即ち政治とは惰性的悪(現世主義的安定志向型の)を断ち切るために「悪を持って悪を征す」の意に他ならない。それは他者に自己内の幻想を説明する際に他者にとって理解しやすい形で表現することを選ぶことと本質的には同一の心的様相である。孔子の対弟子伝承促進戦略も、カントの格率論も、ヘーゲルの共同体解釈も、クリプキの可能世界意味論も、どこか甘ったるい良心を受け付けない、それに流されまいとする決然とした意志を感じさせる。それは正に責任倫理の世界である。ヴェーバーの言う現世主義に対する克服を現世主義流の悪を持って制す仕方もまたその責任倫理である。それは要するに主体的に先験的に付与された理想という一つの型(つまり予め与えられた結果)に自己とその志向性を当て嵌めるようとすることに他ならない。しかしこの一連の繋がりに対する認識論は更に今後意図という事態に対しての考察をもって持続すべきである。又機会を改めて意図について論じる必要がある。

*第三章、発語内行為=J・L・オースティン(日常言語学派、オックスフォード学派のイギリス人哲学者1911~1960)の提唱した概念「言語と行為」(坂本百大訳、大修館書店刊)に詳しいが、行為遂行文、つまり話者が話者の意図、意志を宣言する形の発話明示行為のこと。当然のことながら行為動詞を必ず含む。
*第四章、発語媒介行為=発語を通して聴者を未来においてある行為へと赴かしめる目的の発話行為、つまり行為誘導型の動詞必須文。やはり右のオースティンによる分類提唱。
*第八章、概念、つまり感情への認識という事態が先験的に存在していなければならない。=我々の内的な対象への感情が意味となるなら、そのこと自体への認識つまり一般的対対象感情が概念となろう。だから感情そのものへの認識こそが概念となる。
*第十章、我々が自由であると思っている大半=例えば我々に付与された休日、祝日といったものは全て強制的に付与されたものであり、従って余暇そのものも強制的なものである。
*注6、浅野裕一は次のように言っている。(「儒教ルサンチマンの宗教」276~277ページより)キリスト教や仏教、イスラム教といった世界宗教も、創始者が布教した当初から、正統性を獲得していたわけではない。出発当初においては、いずれの宗教も全くの異端と見なされ、無視・冷笑はもとより、激しい迫害や弾圧さえ蒙った。その後これらの宗教は、ある時期に政治権力と手を結んで、その庇護を受けたり、自ら政治権力を構築したりして、その世界における支配的地位、正統的権威を獲得したのである。」
 私はこのような紆余曲折こそが宗教を権威付ける長期記憶に相応しい事項として記憶されやすい要因であると見たわけである。

論文中引用した著者は全て敬称略した。

 付記 これで「責任論」は終了致します。次回からは「言語の責任とその進化」を掲載更新致します。暫く休暇を頂きます。(河口ミカル)

Monday, November 16, 2009

〔責任論〕 結論 責任能力と抑制性③

 結局孔子は野望の道半ばにして七十四でこの世を去る。そして彼の責任の取り方とは、彼の弟子たちに彼の遺恨を何らかの形で伝えることを弟子たちから率先して実行に移すことをしやすくするような日頃の言動を弟子たちに取り続けることだったのかも知れない。
 脳科学者のマッガウは長期記憶に残ることというのは情動を刺激するものであると述べている。しかも茂木健一郎氏によると、共感回路というものが人間には発達していて(それは通常男性よりも女性により発達している。注4)、本当なら優れているのだからもっと然るべき評価を得ていい筈なのに評価さえ得ない者、最上の評価を得て然るべきであるのにそれが実現されていない者に対する共感はより長期記憶の意味内容のリストに残りやすいだろう。今日の何人かのテロリストの首領には幾分そういう意図さえ私には感じられる。それは結果的には儒教以外の全ての宗教に言えることである。ただ通常宗教の開祖は責任からではなく、あくまで良心から教えを普及するという意識があったのだろう。だがその教えを得る者を外部から見れば、その開祖の持つカリスマ性とは、共感回路への刺激であると受け止められる。だが孔子の場合その点開祖である立場をフルに活かした人生のように文献からは私には感じられ、またそのような人間臭さこそが、彼の思想が社会における人間関係の実際的な場面での教訓として後の多くの官僚たちにもバイブル視されたことの根拠のような気がするのである。
 公的文章というものは往々にして理解し難いとされる。それは連帯責任が徹底化されている役所では必然的なものである。そもそも公的文章というものは長期記憶に残るような文学作品とは異なっている。それを作成したセクションがトップダウン的な命令からの対応として責務上こなしているということが了解されることがそれらの文章に対して望ましいのである。しかしそれは公的文章を保管する立場の成員にとっての在り方にしか過ぎない。組織というものは恐らく人類の曙からずっと、特定の個性を全体としては認めない、つまり特定の利害に対しては抑制的な役割を担ってきている。そしてそのことに対する成員全体の同意が前提されている。良心の発動はだから集団内、組織内の歯車から一歩後退した視点からしか採用され得ない。もし上司に怒鳴られている部下がいても、その上司の前でその部下の同僚がその部下に助言したり、慰めたりすることは通常控えられるであろう。そういう時はそれとなくその場以外の二人だけになれる機会を伺って密かになされることが通常である。それは社会自体が責任と良心を識別して判断するものだ、という社会成員全体の了解があるからである。ということは裏を返せば、人間社会には前に少し触れたが、仕事を離れれば責務感情からは開放されてプライヴァシーは保証されているということでもある。例えば私秘的なこと、つまり表立って個人に対して言及したり、問い詰めたりすることを公ではタブーとされることというのは、民族毎にその内容は違うだろうが存在するだろう。キリスト教圏の国々では宗派的なことに対する言及は恐らくタブーであろう。信教の自由というものが保証されているどのような国々でも、プライヴェートなことは言及してはならないとされているだろう。しかし仕事上での利害ではそういう私的なことを一旦全て忘れて業務に専心しなくてはならない。だから業務内容にかかわる命令はどんなことでも上司は部下に対して許容されているが、一歩プライヴェイトなことになれば、どのような提言もたとえ会社の経営責任者たりとも慎まなくてはならないというモラルがある。
 ベンヤミンが「パサージュ論」で示したモードとは彼の考えでは恐らく通常個性を発揮するべき部分なのだが、その実都市ではそれぞれの成員が自主規制することによって結局個性とは無縁の、ある階層なら階層なりに、特定の傾向性を有するという現実を反映させていると捉えることも出来る。だから住居を選ぶという行為には、社会的地位に応じた報酬という面と、終の棲家を求めたいという潜在的な欲求がどこかで巧く結びついている。そしてそれはそうすることで社会全体に奉仕するというスタンスを示しつつ、一方では社会活動とは無縁の個的生活を維持することが、権利上保証されていることをも示し、社会全体に感謝の念を表明することを意味している。それは少なくともテロリズム犯罪者として追われる生活をすることではない真っ当な生活の維持の宣言でもあるのだ。
 「中庸」では「誠」が最も重要な概念として記述されている。これは意思疎通の誠実性にも通じる。繰り返しになるが、人間には本来自己本位な利害を追求する面がある。だからこそ「誠」は意味を持つということである。中国人には面子とか体面というものを重んじるところがある。これは日本でもある種のタイプの人々にだけではなく、一般的な国民にも日常的場面で見られることである。しかしビジネスシーンではそういう部分を包み隠そうと成員全員が心掛けている。それは民族的な羞恥感情とも無縁ではないのだろう。つまり私たちは誰しも、民族的なルサンチマンに触れられたくはないという欲求をごく自然に無意識の内に抱えている。ということは面子を意識しなくてもいいように計らうというところに責任というものが集団では求められているのかも知れない。つまり他者攻撃欲求それ自体を発動しなくても済むように常に考え行動することが原羞恥的感情を発動させないようにすることに繋がるというわけだ。もしそのような箇所に触れられれば、宗教差別と同様のルサンチマンを持つことになるだろう。
 民族と宗教のルサンチマンとは民族が経験してきた長期記憶に他ならない。例えばどの動物を食すことが不浄で、どの動物を食すことはそうではないかという判断そのものにおいてさえ民族的な差異が歴然としている。それは家族所帯の在り方から住居形態に至るまで民族、国家毎に異なっているのだ。つまりある特定の文化形態が、食習慣そのものを規定して、尤も食習慣というものは外的な要因、その民族が居住することになった環境に最初は左右されていた部分が大きかっただろうが、ともあれその食習慣に応じた居住空間が建築にも影響を与える。そしてそういった各個別の住居が全体として寄り集まったものが社会である以上、我々にはどの成員にも共通した居住、食文化に伴ったモラルが発生するのだ。だから責任という事態には、先験的に人類が言語獲得することとなった根拠と共に、それとは異なり後発的な文化形態そのものが強制的に我々に要求する共同体毎に固有のモラルとして発生するものとが一個の人格の中で共存しているということでもあるのだ。
 しかし良心にはどこか言語獲得起源的なそれと、個的なそれとでそれほどの相違がないということは言えるかも知れない。つまり良心は社会的な規制から発するものではないために、同一の判断を合理化する時に、その内的な根拠を分析した場合、異なった理由が複合化されているという事態は責任に比べれば少ないであろう。例えば一個の成員は国民、市民、職業人といったさまざまな肩書きによって位置付けられる。それは社会内存在としての成員に対する評定基準である。しかし良心とはそもそも個人の社会内的責務からではなく、寧ろ社会内の社会外的な権利の領域から発せられるので、責任に付帯する分裂的傾向、つまり多層的な面とは自ずと異なった面があると思われるからである。
 つまり責任の持つ分裂性と、良心の持つ非建前的な性質とが常にどちらを優先させ、どちらを発動させるかという判断が、その人間の行動を誘発し、同時にその人間の言動となり、またその積み重ねそのものはその人間の内部においても、他者からの評定においても人格(あるいはその発動という意味では個性)となって立ち現れるのだ。
 
 アンセルメとマジストレッティーは、フロイトの概念である快感原則を慣性原則として、それと恒常原則を現代神経科学の法則と合致するものとして現代的視座において適用している。慣性原則は興奮性(痛みにおける神経伝達物質で言えばグルタミン酸を活性化させるし、情動的記憶促進においてはアドレナリンを活性化させる)を喚起させるべく常に興奮システムを温存させておく恒常原則を抑制して、興奮性を鎮める役割として考えられている。ある意味では惰性的、鈍磨的な慣性原則のお陰で我々は全ての外界の刺激に対して抵抗力を維持し得るが、同時に恒常原則があるからこそ非常の場合に備えることが出来るのである。精神的な緊急状態においては我々は不快感を発動させられ、それを和らげるのは欲動の軽減である。つまり「ホメオスタシスの混乱が不快状態の原因となり、不快状態は欲動の軽減によって解消される」(「脳と無意識ニューロンと可塑性」135ページより)わけだから、「不快状態中和にいたるこの軽減は、じっさいに快感に到達する一つのメカニズムと見ることができる」(同書、同ページより)わけである。要するに人間は不快感を得ることを知らなければ快感を得ることも出来ないということである。これは醜悪なものを知らない人間に真に美しいものを知ることが出来ないということと原理的には相同である。
 例えばある嫌な性格な奴だと思う人間と相対している時に、ふと見せる彼の人間的な言動は日々常にいい性格な奴だと思う人間と相対している時よりも印象度は濃い。それはある人間に対して構えを抱く(それはただ単に偏見に基づく場合も多いのだが)ことそれ自体を、解除させてくれる言動を示されることがよりその人間の性格に関するデータ記憶として長期記憶に残りやすいということである。あるいは見知らぬ他者に対して構えを抱き、真意の表出を差し控えている時に、相手が予想に反して真意を表出させてきた場合に、我々はそれまでその他者に対して抱いていた懐疑的な態度、訝しさを一挙に解除する気持ちになれることもある。記憶の仕方そのもの、あるいは長期記憶内容の選択そのものがその人間の人格であり個性であるなら、良心の発動のさせ方と責任の取り方もまたその人間の人格であり個性であると言った。その責任と良心の相関性に絞って残りの紙面を論じてみたいと思う。その手始めに幾つかの先述例を取っ掛かりとしてみよう。

 慣性原則も恒常原則も、ホメオスタシスの機能と存在が重要な役割を果たしているらしいということははっきりしている。さて良心は興奮性に対する抑制性であるとも言えるが、そもそも興奮鎮静化のシステムとしてだけではなく、興奮を発動する以前に発動させる必要を感じない良心というものは、他者に対して信頼を寄せていることである。例えばそういう他者から期待を裏切られた場合、その他者にはある程度きつく要求する権利があると思うだろう。例えばC集団首領がB集団首領を信じて追随したばかりにB首領が悪どい仕方でC首領を裏切った場合、進言したC首領の部下はC首領を更迭する要求をするだろう。
 上司が部下を他の部下のいないところで訓戒をしたり、叱責することはある意味では他の成員に対する配慮という意味では順当な判断であると言えるだろう。それは職務上における、あるいは職務規定上における良心の採用である。しかし特定の部下に対して訓戒することが、他の部下全員に対する影響力を持ち得ると思われる場合(その部下が他の部下から絶大な信頼がある場合)は、彼はその部下を他の部下の面前で訓戒することは、ある意味では企業や法人組織上の秩序維持の観点からは責任倫理に沿った行為選択であると言えるだろう。こういう場合その上司は明らかに良心を法人組織全体の利益に対して向けているのだ。だがそういう風に公衆の面前で訓戒された部下に対してその部下や同僚たちが慰める、励ますという行為は、その個人に対して向けられている。しかしそれは全体的な責任を負わない部内者の個人主義であるだけで、部外者から見れば公的には何の意味もないことになる。ある判断が個人に対して良心を発動し、全体の責任に対しては無頓着になることと、そうではなく、日常的には信頼している部下に対して敢えて先述のように公衆の面前で訓戒するような場面でも該当する組織全体の利益に対して良心と責任を抱いて、個人に対する良心を抑制した判断のどちらを選択するかが、我々の日常の行動の全てに対して該当する行為選択の意志決定の合理化をなす基準である。つまりその場その時に何を優先するかということが全ての決定に貢献するのだ。
 全体の利益を考えない良心というものは幾分個人的なエゴイズムを内包している。そこには責任というものはない。しかし同時に全体の利益を考えている良心には責任を伴う。私は責任には多少冷たさが付き纏うと言った。しかしそれはその時にはそうであるだけであり、長い目で見れば、その冷然とした判断が一番正しいということも多々あるのだ。つまり小さな利益を捨てて、大きな利益を取ることが良心で、大きな利益に目を瞑り、小さな利益に対して執心することは長い目で見れば良心ではない。例えば孔子を採用しなかった当時の王朝の判断はその時点では正しかったのかも知れない。もし彼が意外とすんなり採用されていれば、今日我々が目にする孔子の考えの大半は生まれなかったかも知れない。だから結果的には後世の我々には彼がルサンチマンを抱えたまま死に、後世に弟子たちがそのルサンチマンを引き継いだことそのものが正解だった、と考えることが出来る。
 ベンヤミンは最後にスイスの山荘で自害する。ナチに追い詰められての決断だった。彼の残した膨大なテクストは、色々な意味で今日の我々に深い洞察を与えてくれる。例えば引用するとはどういうことであるか、引用されたものを整理して再定義することとはどういうことであるか、独創性とは何なのか、そのようなことを深く考えさせる今日的な発想の持ち主としてベンヤミンは我々に語りかけてくれる。しかし当時彼がしたことは一部の理解者以外には理解し難いことだっただろう。だが彼の責任は後世の人々に対して向けられていたのである。そして後世に向けられることそのものが現在を生きる者に対する良心であると考えることも出来るのだ。孔子のような挫折は、挫折を直に目撃する大勢の弟子たちにとって彼の思想を伝承させてゆこうと決意させるに値する事実だったのだ。そのことを孔子はある程度自覚的だったと思うと私は言った。(弟子の良心を擽るような意図もあったかも知れない。)
 しかし彼を採用しなかった側の人間には彼らなりの理があり、それは責任倫理だったのだろう。つまり責任倫理は相互には対立することも多く、良心の発動も常に対立する。しかし歴史はそういうその時代の状況を一切無視して公平な目で見ることが出来る。そして幾分こうも思う。孔子がその時代において天下を取れなくてよかった、と。それはゴッホがあと十年長く生きていたら、ずっと彼自身は幸福になれたと思いながら、どこかそんなゴッホの人生でなくてよかったとも勝手に思う心理に似ている。
 最後に責任と良心とそのことに対する理解と説明判断について考えてみようと思う。まず記憶に関して責任のあるなしについて少し考えよう。

 貝原益軒の「養生訓」の教えてくれるところは抑制性のエネルギー温存という原理だけではなく、実はそのように有益に身体のエネルギーを浪費せずに大切に使うことで、精神的に充実した生活を送ることが結局生を悔いなく全うすることに繋がるという倫理的な意味での指針に他ならない。それは例えば先述の例で言えば、上司が部下を訓戒する時、彼は自己内の私情によってそれを行ってはならない。(とえ言え、百%そのように自覚的にすることはかなり難しいのだが)だから逆に贔屓な部下に対して敢えて親心で厳しく訓戒する必要もあれば、なかなか私情的な意味では応対の難しい部下に対しても、私情を差し挟まずに応対するということはそれ自体で良心の発動であると言えるだろう。また人間は自分にとって日頃から関心のあることは容易に記憶に残るし、またそのように意識していなくても尚自然と記憶に残ることもある。しかし同時に自覚的に自己内の関心を喚起させるように心掛けることもまた重要である。最初から自分の中に飛び込んでくるものよりも、最初は苦痛なものの方が一旦そのことに対する摂取において慣れてくれば、そちらの方がより魅力的に感じられるという事態も稀ではない。また責任あるセクションを担当する人員はよりそのような心掛けを日常的に身に着けておくことも必要であろう。良心とは他者に対しては適用し、自己に対しては責任以上には適用しないように心掛けることが重要であるかも知れない。良心は説明不能であり、責任はある程度説明可能なものとそうではないものとがあると先に述べた。そのことは次のように説明出来る。
 アンセルメとマジストレッティーは慣性原則が快感原則であり、同時に反復原則であるとする。その意味はホメオスタシスの回復機能であり、再確立の機能であるからだ。つまり外的な衝撃、例えばアメリカ人にとっての9.11の体験のようなイヴェントは、そのイヴェントの遭遇自体には彼らに直接の責任はない。そして不可避的に長期記憶に残り得る。だが長期記憶に残るものは、そのように受動的なイヴェントに遭遇すること以外にも、自己内の訓練によって関心を生じさせ、次第に大きくなるようなものにも適用される。そしてこの自己決意によって関心を引き起こしたものにはいいものも悪いものも含めていずれも責任が付き纏う。だからある学説を主張するのなら、それに対する反駁を想定して、それを跳ね除けるくらいの理解を自説に対して持っていないと、揚げ足を取られることも多いだろう。あるいは中途半端な学習ならしない方がよいし、中途半端なままで何かを発表することは差し控えた方が賢明であるというのは意識的、意図的に育んだ長期記憶は明らかに自己責任の領域であるからだ。そしてそれはある程度他者に対して説明可能な論理的領域である。(その内容が非論理的であってもその関心事について論理的には語れるという意味において。)
 我々は一冊の良書に対する出会いが人生を変えることもある。その意味ではそういう良書に巡り合うという事態もまた、その人間の日々の心掛けと努力という意志レヴェルの問題に関わってくるであろう。つまり偶然的であるような出会いをも含めて遭遇自体も幾分かは自己責任の領域であると言えるだろう。

 今日の社会は、家庭電化製品一つとっても、一個の家電製品を恒久的な使用に耐え得るようには製造してはいない。もっと便利なアップグレードされた商品を一定期間が過ぎたら買い換えた方が得なように、予めメーカーが計画立案している。だから一個の商品を長く大切にしたいという消費者の欲求には答えてはいない。つまり物を大切にという倫理観は、少なくとも消費サイクルにおいては捨象しなければ生きていけない、修理に出したら余計に金がかかってしまうという事態に陥っている。
 またネット通信の会社が表示エラーをした場合、そのトラブルに巻き込まれて重複注文した場合、その商品に関して逆発送することは手間がかかるから出品者は通販ネット会社に請求するというシステムになっているので、売買という行為においては相互の顔を見なくてもよいという現実に我々は慣れっこになっている。言わば現代社会とは、古典的な倫理観を無視しなくては生きていけないような具合になっていることも確かである。そういう現実の中で自己責任とはどのように成立し得るのかを問うことはなかなか熾烈である。システム維持に貢献しながら(消費者として)、最低限のマナーを持つことも要求されるだろう。例えば昔風に古本屋に直に出向き、本棚に手をやって現物を見る行為を私もしなくなった。新品の本を一般の書店で見て確かめてから、同じ本をネット通信で買うという行為が当たり前になっている。しかしそこには通信であれ、相互のマナーは必要である。私の経験ではそういうマナーのあるバイヤーも、セラーもいるということである。システム社会とはややもすると責任転嫁をすることが日常化しやすい。しかしエラーミスを一回くらいしたとしてもびくともしないような通販ネット会社も、それが度重なれば、経営も立ち行かなくなるだろう。だから一回のミスでももしそういうことがあったならば、メールで詫び状を送るだけでは済まないのではないだろうか?(私は重複注文することになったお陰で、出品者に電話する羽目になった。)しかしトラブルに陥った時ほど冷静に対処することを考えさえすれば、我々は案外この便利なシステム社会を容易に生き抜くことは出来る。その時やはり責任の所在を冷静に相互に相互の事情を説明しながら検討することが大切ではないだろうか?しかし説明がなかなか容易ではないという人もいるだろう。そこで説明によって責任の所在を鮮明にすることをここで一つ考えてみよう。そして引き続いて良心の発動に関して考えてみよう。
 今日のネット社会のややネガティヴな面をシステム・エラーに私は見たが、しかしそのような不測な事態をも想定に入れ、そのシステムを有効活用することにしか最早我々には残された生活維持の道はない。その一つの売買を巡る顔の見えなさという事態はしかしよく考えてみると、顔の見えない相手が例えば私が買う本やCDを売るアメリカの出品者がいるということを私は承知していることでもある。恐らく人間以外の動物は地球の裏側に自分と同様の個体が生活して喜怒哀楽を感じつつ生活しているという発想は持たないだろう。そのような想定と想像力が私たちの世界では既に顔の見えない人を、面識があり顔を直に見ることの出来る人と同等の切実さを持って接するという意識を生じさせる。一度も会ったことのない大切なパートナーに囲まれて生活することが今日の人類の姿である。それは他者哲学の深遠に位置する状況なのかも知れない。そしてその意思疎通の基本とは良心である。良心の発動とは古代以前、言語獲得期までの人間にとっては同一種内でも自分の親族間だけのものだったという現実もあったであろう。そして同一種内攻撃欲求を充足するために他集団に争いを仕掛けることは日常的だったであろうが、地球全体が概念的にも実感的にも把握された今日、世界は認識上では狭くなりつつある。だからその限りある資源の中で人類が協調しようと考える時我々はどこかで、知らない人に対してこそ礼節を尽くすという観念を重要視するようになってきているのではないだろうか?そして見知っている人間同士が親愛の情を結ぶことは当然としても、責任が見知らぬ他者(我々は既に経済一つとっても見知らぬ他者たちにこそ恩を受けている。)に対して見知った者と同等に払われるという確固たる意志を持つことで良心の起源に私たちが常に回帰する運命にある。
 良心はその都度他部族への破壊に対する反省からも呼び覚まされたのかも知れない。
 生物学者のリン・マーギュリスも指摘している(「共生生命体の30億年」草思社刊より)が、私たち人類が地球環境を汚染させ、破壊したとしても尚地球自体は破壊されることはない。ただ私たち自身にとって住みやすい環境が破壊されるだけのことである。人類が滅んだ後にもまた別の生命体が進化して天下を取る可能性はゼロではない。だからこそ我々はシステム社会を見知らぬ顔の見えない相手なればこそ神経を使うという処方を使用せずには未来を生き抜くことが出来ないのだ。良心の発動は我々自身が構築したシステム社会の現実に対する認識に、人類の言語獲得の起源として位置しているであろう意思疎通上の他者への信頼において発動される良心と同形のものを適用するということである。
 今日では地球の裏側に住む人とチャットやブログで交信することも可能である。だから職場で孤立している成員でさえ、そのような手段で「きっと誰かは自分を理解してくれる。」という意識を持ち、顔の見えない他者の存在に救いを求めることは出来る。実際現代のような交信手段のなかった古代でもそのような思いに囚われていた人はいただろう。ある意味では優れた弟子に囲まれていた孔子でさえ、自分の政治的理念を実現することに手を貸す人の不在という事実は彼にとって後世には明確に理解してくれる人がいるかも知れないという思念を抱かせたのだろう。だからこそ弟子たちの良心を擽ることが彼にとっては重要だったのだ。しかしもし彼が現代に生きていたらネットを使用していただろうし、それを利用して海外に出向き後援者を見出していただろう。
 さてこの通信と交通の張り巡らされたシステム社会の現実とは想定される社会の姿を一際原因→結果という順序ではないウリクトの言う遡及的因果関係(retroactive causation)をア・プリオリに前提している社会に生きていると言える。例えば企業は予めどれくらいの決算において収束するかを想定して事業を行っている。全ては想定された事態の上に現実が乗っかっており、その意味では結果に原因を後付しているのだ。しかしそれは言語獲得期の人類の思念にも該当する真理である。
 大屋は普遍性を目指すことを「普遍志向」、普遍的真理は存在するという信念を「普遍信仰」と呼んでいるが、彼は井上達夫という法哲学者の考えを拡張して「我々はロゴスの外部にある普遍性に比較して自らの議論の不十分さを自覚し、それを少しでも普遍性に近付けるために対話を通じた正当化を継続するべきだとされるのだ。」(「法解釈の言語哲学」120ページより)と我々の意思疎通を定義付けている。もし大屋の言うようなものとして意思疎通(対話)を考えるなら、人間は彼の言う普遍志向を普遍信仰によって行為として顕現させながら、普遍という結果を先験的に設定してその普遍に全ての行為を近付けることによって、ある種の理想を永遠に追い求める存在となった、と言うことが出来る。例えば鳥を見てあのように飛べたらいいな、と思念することが鳥のような飛行を模倣した飛行機を発明するに至ったように、我々は言語獲得した時点で、最早無垢な自然との対話を失ったのかも知れない。そしてそういった諦めることを忘れた願望への実現努力が「周囲に誰も自分の理解者がいなくても尚、世界のどこかには自分の理解者がいるに違いない。」という考えを容易にする社会を築き上げたとも言える。だからシステム・エラーが起きた時に見知らぬ他者と交信して何とか窮状を切り抜けること自体もまた顔の見えない他者に対する信頼と感謝という良心に基づいて行われる。そもそもエクリチュールを人間が発明した時にも、それと似た内的理解があっただろう。
 人間は反省と後悔という思念を記憶能力の向上という進化的な出来事に伴って、責任という観念をア・プリオリなものとして認識し始めたのだろう。それは過去の失敗を二度と繰り返すまいという決意によるものであり、最初は単純な学習的な認識からスタートしたのだろう。そして一旦責任という観念を生じさせれば、それは結果として行為に先立っているのだ。そう認識することで社会的行動というものがなされ、社会人という意識が自己に付与されたわけである。よってクリプキのような哲学者が慣用しているシステムが正当なものであるかを主張することが誰しも出来ないのではないか、という問いを提出した事実は逆にシステムそれ自体を認めていることに他ならない。例えば現代の人類にとってネット社会にシステムは前提となっている。それは言語活動が社会の基本的な前提であるのと同じである。次は我々の生活において責任が果たされるという事態がシステムを前提とした遡及因果関係によるものであることにおいてどのような責任を考えればよいのかを論証してみようと思う。
 ここで言うシステムとは高次の意識から言えば近代国家以降の全てのシステム(官僚制、交通システム、ネット・システム等)のことであり、低次の意識から言えば人間集団の全てに該当する。そして私は遡及的因果関係の礎として責任を考えたいのである。それは最初から与えられた結果であり、成果が出た時に報奨の対象とされるものでもある。だからこそシステムの維持が人間生活では最優先されるし、それは責任であり報奨の対象となる。
 カントが言う善意志とは社会人としての自覚論的なものであると同時に、存在者として哲学的に論じられており、高次であると同時にどこか起源的でもある。「道徳形而上学原論」において実践的理性原理〔客観的原理〕(これは大屋の言う普遍信仰に近いと思われる。)と格率(律)〔主観的原理〕とを類別している。これは前者がイデアであり、後者が個人的な対処法と考えても間違いではない。カントが高次な意識であると同時に起源的であるように感じさせるのは彼の論理からではなく、彼の哲学論全体から醸し出される彼の主張の独自性からである。しかし私が良心と呼ぶものは、カントの言う善意志とは幾分異なっており、それは社会正義そのものを成立させ、つまり自己と他者を認識させる意識である。それは全ての前提条件なのだ。例えば部下を訓戒する上司の前で訓戒される部下を慰め、励ますことを同僚たちが憚るのは、明らかにその訓戒を垂れる上司の部下全員に対する面子を誰しも潰したくはないと考えるからである。面子とは原羞恥であり、要するに他者の視線に対する意識である。もしこれが一切なければ、我々はそもそも他者と言語行為へと赴くことはない。だから良心も又他者に対して潜在的に誰しも抱く心理であると同時に他者認識を支えるものである。しかし良心は表立って発動されることを控えられる場合も多いものだ。例えば今の例で言えば、明らかに誰しも全ての部下の面前で訓戒される部下に対して同情するのだが、その言い方がどんなに厳しいものであっても通常他の部下はその上司に苦言を呈するべきではないだろう。それが職務上の責任だからだ。
 責任は全ての善悪に先行する。そして良心もまた善悪に先行する。何故良心だけではなく責任もア・プリオリに存在するかと言えば、人間には悪もア・プリオリに存在するからである。しかし善悪とは制度・法意識獲得の後に我々が認識するものである。だから私の言う良心とはカントの善意志とも少し違うのである。何故ならカントが言うところの善意志とは私が言う良心に善悪判断や法意識を認識して然る後に獲得する倫理だからだ。(しかし今述べたようにカントは直観的には善意志を起源的に考えたいかのように私には感じられるのだ。)そして責任と良心、この二つは重なることもあるがずれることもあるのだ。
 マックス・ヴェーバーはカントからも多大な資質論的なエキス(懐疑的姿勢、本質洞察的姿勢)を得ている。そして責任に関する彼の記述でも「職業としての政治」の次の箇所は出色である。
「(前略)ある男性の愛情がA女からB女に移った時、件の男性が、A女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。彼がA女を愛していず、A女がそれを耐え忍ばねばならぬ、というのは確かにありのままの運命である。ところがその男がこのような運命に加えて、卑劣にもこれを「正当化」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけではなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道精神に反する。恋の鞘当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合はもちろん同じである。あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと素直に告白する代わりに、厭戦気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために戦わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである。同じことは戦敗者の場合でもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら_戦争が社会構造によって起ったというのに_戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任_これが肝心な点_にもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。国民は利害の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない。戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪が再燃して来る。戦争の道義的埋葬は現実に即した態度と騎士道精神、とりわけ品位によってのみ可能となる。しかしそれはいわゆる「倫理」〔自己弁護の「倫理」〕によっては絶対不可能で、この場合の「倫理」とは、実は双方における品位の欠如を意味する。政治家にとって大切な将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。政治的な罪とは_もしそんなものがあるとすれば_こういう態度のことである。しかしその際、勝者は_道義的にも物質的にも_最大の利益を得ようとし、他方、敗者にも、罪の懺悔を利用して有利な問題全体が不可避的に歪曲化されるという事実までが、そこでは見逃されてしまう。「卑属」とはまさにこういう態度を指す言葉で、それは「倫理」が「利害」の手段として利用されたことの結果である。」(「職業としての政治」岩波文庫、83~85ページより)
 このヴェーバーの倫理を無効にする責任の重さに対する着目は幾分ニーチェを想起させる。カントの論理を見ていると、実践的理性原理を提唱していることの背景には悪が横行することも珍しくなく(彼の言い方に習えば他率(律)的行為の横行)、要するに人間は性悪的であるという考え(これはマット・カートミル<解剖学者>によると西欧社会に根深く定着してきていると言う。)、要するにカートミルの視点を採用すると狩猟文化と習慣が社会の深層心理で攻撃的欲求の発露となる傾向性が横たわっているということになる。
 カントの性悪説的な前提条件の付与は、ルソーに既に特殊意志という形で表明されていた。そのルソーをニーチェは大きく取り上げている。ニーチェの良心に対する攻撃は専らキリスト教的教条主義に対して向けられており、その限りで、彼の考えは宗教本体を支える地点に着眼していると言える。彼の言葉「「主観」は一つの虚構にすぎない。利己主義が非難されるとき問題となる自己など、全然ないのである。」(「権力への意志」より)(370)や、「「自我」_このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない!_まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない。_それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。」(同)(371)等によってそれは明らかであろう。
 宗教本体を支える連帯感には特権意識が介在しているが、同時に彼ら信徒もまた市民であり、その限りで責任と信仰とは別地点に据え付けられている。それは勿論信徒たちだけではなく人間の宗教的感情とは責任とは常に別地点である。それは幾分良心にも近い感情かも知れない。そして当然のことながら私が言う良心とはニーチェの言う良心とは異質のものである。ニーチェは「ルソーは、規則を感情の上に基礎付ける。公正の源泉としての自然。人間は、自然に近づく程度に応じて完全となる(_ヴォルテールにしたがえば、自然から遠ざかる程度に応じて)同一の時期も、一方にとってはヒューマニティーの進歩の時期であり、他方にとっては不正や不平等による悪化の時代である。(後略)」(同)(100)と言いつつルソーを精神錯乱であると同章で断じる。(事実彼には性的錯綜的な一面もあった。)彼は責任の先験性と感情抑制(良心)をルソーが着目していたと考えている。
 責任がある集団内で徹底化することに応じて他集団からは利害が対立して、同一地域の成員全員の利害は不一致となり、不平等と差別が横行するから、責任はどのクラスに対して適用されるかに応じて社会全体の調和はその都度変化する。要するにヴェーバーの言うように倫理とは利用される。それは責任からもである。しかし責任は利用するのだ。あるいは利用されまいとするし、我々は責任を負うのだ。理性が自ら率先して責任に縋るのだ。

Sunday, November 15, 2009

〔責任論〕 結論 責任能力と抑制性②

 孔子の考えを弟子たちが纏めた「論語」以外に「大学」、「孟子」、「中庸」が四大書として知られているが、「中庸」(「礼記」<周から漢にかけて儒学者が纏めた礼に関するテクストで、載聖が編纂したとされ、49篇。>の一篇である文章であるとされる。子思作とされる。)では孔子が政治的野望の挫折者であるにもかかわらず、弟子によって孔子こそが真に王に相応しい人物であったと説くのだ。浅野裕一氏は「儒教ルサンチマンの宗教」(平凡社新書)で「(前略)編述者は、無冠の王者としての孔子の統治形態を説明する。君子は号令や賞罰といった外面的統治手段に頼らず、己の内面的徳が自ずと外界に発露・顕現して「動かずして敬せられ、言わずして信ぜられる」無為・無言の統治形態を取る。(中略)孔子が実質的には無冠の帝王として君臨していたことを黙示しようとしたのである。(中略)子思学派は『中庸』の全篇を費して、孔子は沈黙の徳治により天下に君臨する王者であったと主張した。」と記している。
「天を怨まず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者は其れ天か」(憲門篇)、「子曰く、予は言うこと無からんと欲す。(中略)子曰く、天何をか言わんや。四時行り、百物生ず。天何をか言わんや」(陽貨篇)
もし誰も彼を目にとめなくても尚、真理は彼に味方して、天は彼を称賛するであろうという意味では、どこかソクラテス、ガリレイといった西欧の先達を想起させずにはおかない。そして重要なこととは、そのように孔子が彼固有の挫折感と無念を後世に怨念として伝えさせたその人間的な弟子に対するカリスマ性であり、そのようなプライドが後世韓国人の中に自尊心(チャジョンシム)という形で継承され、日本武士に対して「武士は食わねど高楊枝」と言った気風を生じさせ貝原益軒の「養生訓」における中庸な摂取といった考えにも歴然と結びついているということである。その事実と対極のように思われる19世紀パリの退廃文化はベンヤミンをして次のように言わせしめる。
「さまざまな様式の仮装行列が十九世紀全体を貫いているということは、支配関係が見えにくくなっていることの一つの帰結である。ブルジョアの権力者たちは、(金利生活者である)彼らが暮らしているその場では、多くの場合もはや、直接的かつ無媒介な形態では権力を所有してはいない。彼らの住居の様式は、彼らの偽りの直接性なのである。空間における経済的アリバイ。時間における室内的アリバイ。」〔13,4〕
 ベンヤミンは彼の知識欲、文化的香りをゲーテから、真摯さをカントから、そしてアイロニーとブラック・ユーモアをニーチェから引き継いでいる。つまり孔子の時代には、中国ばかりではなく、全ての国家において優劣ははっきりしていた。外面的に既に勝者と敗者の差が歴然としていた。しかしそれが産業革命期以降は極端な敗者であるホームレス等は例外として、一見敗者ではない風の大勢の市民は、実は見えない権力に支配されている(今日の社会で言えば、マスコミ、マスメディアに多くの国民が支配されているように)状況下で、全ての支配は間接的となっているということだ。そしてそのことは当然のことながら、責任の所在を見えにくくしている。その事実が同一状況における共辞(共時)的な相関性で語られ得るのなら、孔子と弟子たち、そして末裔の思想継承者たちの関係は、間接的な伝承性という通辞(通時)的なエネルギーとして顕現されている、ということだ。
 ベンヤミンが訴えた市民生活は、ある意味ではラングからの支配である。しかし中国四千年の歴史において彼らの育んだ論理=倫理は共時的モードを無効にするような霊力を備えてもいる。それは今日のような資本主義経済導入に至っても変わるところはない。
 ただ宗教文化というものは、それが発生してから隆盛を極めた時代や後世に齎した影響力と、その影響力を勝ち取るまでの間の宗教布教者たちの間であった歴史的事実とは明らかに全く関係のないものとして捉えなくてはならない。例えば宗教信者はどのような歴史的な汚点等の同一の宗教史においてあった事実も美化するような傾向はあるし、またその宗教信者が唱えるその宗教文化の素晴らしさは的を得ていることは確かだし、要するにその二つの事柄ははっきりと峻別する必要があるのである。
 宗教信者や信奉者による布教にはしかし同時に他の宗教は相容れないという面もある。だからどの宗教にも属していない者がどの宗教に対しても、公平な目で見れるということはあるが、そういうケースというのは日本ではあり得ても、別の国ではあり得ない場合の方が多い。ただ一つ言えることは宗教にはどのような宗派であろうとも、共通して言えることというのは、宗教においてはその信条に対する解釈においては個人主義は成り立たないということである。総じて宗教的心理というものは集団依拠的であるし、神対個の契約も、それを信じる者同士の連帯を旨としていることが多い。そしてその宗教的な連帯という意識は、官僚同士の連帯やピア・プレッシャーといったものとも共通点が多い。それは一言で言い表せば、責任転嫁を容易にするシステムであると言える。連帯責任という事態は、そうすることで特定の個人に対して独裁を未然に防止する意図と、特定の個人に対して責任を負わせることを相互に防止し、互助的な人間関係を構築することを容易にするのである。
 だから孔子の場合は、彼がかつて隆盛を極めた一族の出であり、そのこととは関係なく、官僚として登用されることで、政治的リーダーになる野望に打ち破れて、その失墜を後世へと弟子たちが綿々とその思想的、理念的(政権転覆的な破壊によってではなく徳として治める考え)理想の正当性を主張することを旨とした。そしてその過程においては極めて詐称的な行為も横行していたことも報告されている。しかし徳を説くという事態そのものは、不徳な行為が罷り通っていたからであり、その布教が長く続くという事態もまた、そういった不徳の横行の隠滅がなかなかなされ得なかったということを意味する。その意味では彼らの責任倫理はあくまで布教することでせめて自分たちだけでも理想を念頭に行動しようという意識に裏打ちされている。その意味では宗教のみならず、近代以降のダーウィンやその他の科学者や哲学者、思想家の考えを布教しようとする全ての学究の徒、あるいは思想活動家と全く共通する。しかしここで西欧哲学に堪能な者に想起されることはカントの存在である。彼は善意志というものを提唱したが、それはライルの哲学にも直結することであるが、行動と心的内容とは明らかに異なるという考えを機軸として展開された哲学上の形而上学の弱点とは、要するにどんなにその二つが分離していても、その分離はほんの些細なことでしかなく、本来心的内容というものは行動に反映されるものだし、また行動というものは心的内容にも影響を与えるということをややもすると見過ごしがちであったということに尽きる。だからカントが善意志をことほどさように主張したということには西欧哲学史上に、そのような考えを自然なものとすることを阻む学問の傾向的な性質が根強くあったということを意味する。その点では時代が変遷しても脈々と受け継がれた「論語」や「中庸」、「孟子」といった存在の儒教的精神とは、時代状況の打破と哲学者個人の主張を越えたもっと根深い民族的なルサンチマンが控えていると考えてもよいだろう。浅野裕一氏が「儒教ルサンチマンの宗教」を世に問うたこともそこに起因する。注4
 だから宗教的な責任転嫁とは、連帯的意識の持続をモットーとするから、カント派がカントを変形し、カントを否定する哲学者の多くがカントに負っているという事態ともいささか異なる面がある。勿論儒教それ自体も幾多の変遷を経てきてもいるのだろうが、どこかで元祖教祖を踏みにじることだけは決してない、どのような策謀がなされようが、原点回帰だけはなすという考えが彼らには通底している。だから彼らの責任転嫁は、その考えに共鳴し得ない者に対する軽蔑心によって保たれていると考えても間違いではないだろう。
 それ以外の一切の信条を認めることが出来ないという一点である宗教的信条を信奉するという心的様相である信者にとって責任とはその一点を守り抜くということ以外にはない。
 哲学ならもっと自由に尊崇者に対して批判を加えられるだろう。そもそも哲学は集団で行う行為ではない。科学界ではそういう意味では法則的なディタッチメントにおいて有用であるものだけを採用しようとするから、そもそも法則そのものの真理はそれ自体で無名性のものである。だから個人に対する崇拝という事態そのものが科学の世界では客観的真理の前では無効である。だから哲学はその二つの境界に位置しているとも言える。何故なら哲学の場合は、その哲学者の考えとその考えを述べた哲学者の人生や生活的信条を切り離しては考えられないような主観的な接し方を別段禁じているわけではないからである。
 科学の責任とは客観的合理性と実(応)用理解促進性である。それは責任の全人類的な共有の意識によって成立している。ここで定義しておこう。

宗教的責任→同一信条の布教と布教者間の連帯
科学的責任→客観合理性と実(応)用理解促進
哲学的責任→客観と個人毎の主観を許す自由性

 アメリカ人にとっての9.11であるとか、日本人にとっての終戦体験とか、原爆体験(その当事者は勿論のこと、そのことをルサンチマンとして記憶している全ての国民にとっての)といったことは他のどの国に人々にも共通して存在する。そしてそれらは長期記憶に厳然と残る不可抗力のようなもので、自発的な関心事ではない。悲惨な事故や辛い親族との別れといった出来事は長期記憶に巣食うこととなるが、それ以外にも自己内の関心事においては長期記憶に残るものもあり、それは個人毎に異なるだろう。勿論こういった個人毎に異なる関心事も、実際自発的であるとも言い切れない部分はあるのだが、取り敢えず関心を持つことを主体的に行うという意味ではそうである。そういう意味では前記の宗教的責任、科学的責任、哲学的責任とは相互に交換可能ではないが、幾つかを同時に一人の個人が抱くということは稀ではないだろう。
 孔子に話を戻すと、中国では絶対王政という絶対君主制が長く続き、清王朝が滅ぶまで思想とは政治的思想のことを指していたと言っても過言ではないだろう。その意味では仏陀の仏教とはいささか宗教思想においてさえ事情が異なる。また西欧哲学とも勿論事情が異なる。尤も西欧思想にも政治的な思想も古くからあった。だが少なくともそういう社会学的哲学以外にも、論理学、天文学、数学、倫理学、形而上学といったものが同時に極めて盛んだったという意味では、思想それ自体も政治志向的一辺倒ではない歴史がそこにある。しかし中国思想には、直接政治的な発言へと直結し得る思想の在り方に、独自の民族性を私たち日本人には感じさせる。
 日本人は職業倫理以前に自然人的な善良さを尊ぶところがある。しかし中国人は商売上の鉄則としては一切私情を挟まないし、政治は協調ではない。そういう意味では日本人は責任以前に善があり(価値規範として)、中国人は善以前に責任があると言っても過言ではない。しかし本来責任とは私情的な判断のものではない。法治国家というものが、法体系の価値規範と法秩序と、その施行によって成立している以上、適用されるものに不平等があってはならず、それはどの国の人々にも共通した倫理だろう。しかしそのことと、心理的な優先順位というものは異なる。
 孔子の弟子たちがおよそ百年後の孟子に至るまで孔子の王朝を捏造して普及しようとしたりして、野心が挫折したことへの積年の恨みが弟子たちをして更に正当化に拍車をかけている。彼らにとって心理的優先順位という観点から言えば、自ら抱く信条こそが正当であるという主張は、別に違う考え方の人がいてもそれはそれでよい、干渉すべきではない、という日本人的な観念とは真っ向から対立する。その点ディベート自体を結論へと導くアメリカではたとえその考え方とは個人の内面では齟齬をきたしていても尚、役割分担において、左派の考え方でディベートするのなら、その責務を全うすべしという観念が定着している。しかし結論が出て一先ずその役割を終え、自分の立場が変われば、また別の行動を取ることは一生の内にいい条件を求めて国中を放浪するような生活形態が珍しくはないアメリカ人が最も中国人と対極な部分である。
 住居を定め終の棲家とするという決意には、社会的地位誇示ともまた異なった考え方がある。ベンヤミンは都市文明に着目した思想家であるが、都市文明そのものが人間の欲望を反映した生き物であり、人間の深層心理を洞察するのにもってこいの対象物だったからである。住居そのものには、社会的地位に左右されない自由を確保するという意識も人間にはある。しかし同時に地方自治体に税金を納め、生活を確保するという意味では住居を定めることは責任行為の一環として位置付けられるであろう。そしてよりよい自分を取り巻く社会環境に対する考えがあれば、それは政治的発言にならざるを得ない。だが税金を納め、市民としての権利を要求することは一面では「それさえやっていれば後は何をしても自由である。」ということの表明であり、それは全ての責任を負うことを免除されることと引き換えになさねばならない義務である。そのことについては第一章で既に述べた。
 マックス・I・ディモントはその著書「ユダヤ人」の中でユダヤ教とは、戒律さえ守っていれば、後は何をしてもよい、という意味もあると述べているが、そういう部分ではキリスト教ともまた異なった考えがある。事実キリスト教では反ユダヤ主義的考えも多分にある。つまり同一宗教内で、親ユダヤと反ユダヤが共存しているわけだ。だが、そういう対立軸も例えば私のように外側にいる人間から見れば理解し難い。一枚岩でことにあたればもっと巧くゆくとそう考えてしまうのは部外者のおめでたさかも知れない。つまり内部に入らなければ分からないこととは、外部に対しては繕うという傾向が誰しもある。それが責任という事態の発生する場所である。関係者以外立ち入り禁止という立て看板、表示の全ては同一利害保持者の他者一般に対する権利要求である。そしてその権利は説明責任という形で私たちが、他者に対してしていることの見返りとして受け取る報酬である。
 孔子は百八十八センチくらいの長身であったという。その雄姿に弟子たちが惹き付けられたという面もあっただろう。しかしそれだけの人望と器があっても、彼の政治的野望は遂げられなかった。だが孔子自身に全くそういった事態が想定不能だったとも私には思えない。何故ならそれだけ強く為政を望んだのなら、却って大勢の弟子たちを抱えているという現実そのものを見直す必要があったのではないかと想像されるからだ。しかし存外彼はもし自分の野望が遂げられない時のための保険として弟子に日頃の考えを伝えて自分の死後伝承させるという目論見もあったであろう。そしてその野望の遂げられなさそれ自体が遺恨として残るものであればあるほど彼の中では自己のアンチ的なカリスマ性は高められる。あるいはもし自分の野望を遂げられるのであれば、それが一番いいことは分かりきっているのだが、そうではない可能性の中にこそ彼の宗教倫理思想の伝承され得る可能性を見ていたからこそ、弟子を大勢取ることを厭わなかったということはあくまで私の考えである。

Thursday, November 12, 2009

〔責任論〕 結論 責任能力と抑制性①

 ヘーゲルが言うような死者の如き共同体成員のあるべき姿は、ある意味ではそれだけ他率的な特殊意志に忠実に横暴をする傾向性のある存在者であるということを示している。ヘーゲルの言うような理想的精神の設定に纏わるストレスは、実はそういったストレスを引き起こす背景に背徳的行為へと赴く我々自身の内的惰性性を描出しているのだ。その意味では功利主義も、平等主義も、権利問題も全てこのどうしようもない人間の他率的傾向性に対する処方としての法実践問題であるとさえ言える。トーマス・ネーゲルは平等主義を功利主義と権利の理論の狭間に位置していると考えている。しかし平等にも責任は付き纏う。ある意味では平等に与えられた権利や機会は、それを有効に活用する成員とそうでなく無駄にする成員との間に格差を生じさせることになる。
 ヘーゲルが神の領域として無意識を設定し、人間の意識的意志のレヴェルを人間の領域としたことは無意識に全てことを運べば人間は神に操られるということを主張していることになるし、それは一面では人間の神からの自立を促すような主張であるとも言える。それは神に対しては対峙し、自己という存在を自己責任で全うする時初めて神から操られることはない、という意味では明らかに神を理神論としてではなく、裁定者として有神論としてもとりわけ人性と神性を一致させるような趣がある。汎神論者としてのヘーゲルのキリスト教的ラングに対する恭順を感じさせる一面ではないだろうか?
 しかしネーゲルが指摘しているように結果論的な格差を生じた場合、我々は平等主義を持ち上げる。そして平等主義は結果的に恩恵に預からない者を優先することとなる。しかしそれほど困窮していない者の権利よりも酷く困窮している者の権利を常に最優先し過ぎると、今度は切迫していない者の権利は益々縮小され、逆に切迫している者の権利は益々拡張してゆくことになろう。だからヘーゲルの意識としての男性性は、実は責任の所在を明確にするという意志のことを言っているのであり、それが先述のように良心の発動をなす愛情の持つある赦免という意識(しばしばヘーゲルの言う女性性と一致する。)と対抗し得る可能性があるのだ。つまり人間が自然状態で生きることにおいて我々は時として法体系とは一致しないカントの言う他率に恭順な生き方の選択をせざるを得ない。だから逆に社会共同体で法的実効性を持つような秩序ある生活を全うする観点からは、我々は不自然な生き方を選択せざるを得ないのだ。そして人間が人間の権利を第一に考えれば、動植物や地球環境に対する配慮を疎かにすることとなり、また地球環境保全と動植物に対する保護を第一課題とすると、人間間の平等の配分は疎かになる。かつてミヒャエル・エンデは人間は社会の平和と、地球環境の保全を両立し得ない、つまりどちらかを選択せざるを得ない状況に立たされていると言っていた。かつて地球上では戦争が人間成員の数を制御していたという側面があったが、今日それをしたら、地球環境全体が汚染される(第一人間の数が多くなり過ぎて戦争を許容する余裕はなくなった。)ばかりではなく、経済社会の秩序も大幅に後退することとなる。また経済効率のみを優先すると、格差や悲惨な交通事故、あるいは公害が頻発することになるが、一方経済社会を疎かにしても社会は機能不全に陥ることとなる。つまり我々が社会秩序を構成してきた歴史とは人間の同一種内攻撃欲求に対する処方における合理主義のその都度の顕現によるものなのだ。我々がもし行為にのみ大きく依存すれば、権利の問題は拡張し過ぎ、逆に結果にのみ大きく依存すれば責任の範囲が拡大し過ぎることとなろう。行為そのものが結果に繋がる実効性を備えたものであるかどうかという判定は全てが結果に依存している以上なかなか難しい。というのもあるよい結果を生んだ際の手法が再度採用すべきものであり、それを忠実に実践しても尚我々はその手法が再び功を奏するとは限らないことを知っているが、組織にあっては、その都度の実践にその場限りに気まぐれを採用することを許すことも出来ない。そこである成功例をそのことで甚大な被害が出るまでは採用し続けるのだ。
 例えばよい結果さえ出せば何をしてもよいという考えにおいては、倫理的査定というものの必要性が著しく狭められる。だから結果主義オンリーでやっていると、いつかは結果そのものの破綻を招くことも確かなのだ。責任はだから結果においても重視されるが、同時にプロセスにおいても重視されるものなのだ。しかし同時にプロセスさえ踏めばどういう結果になってもよいということにはならない。人間は洞窟で生活した頃も、高層ビルに生活する現在の社会でもその基本的な責任倫理においては何ら変わるところはない。よかれと考えられて実践されてきた合理主義が破綻する場合もあれば、逆に人材資質優先主義が破綻して、経営合理化をすることで活路が開かれる場合もある。そして人間が狩猟を生活手段にしていた頃の身体記憶が、どこかで競争社会の現実やスポーツや格闘技に熱中するようなカタルシスを付与しているとしたら、我々はどのようにして秩序と合理化と、それとは相反する無秩序志向的な傾向性と、非合理的な決心の折り合いをつけてゆかねばならないのだろうか?
 部分的には我々が他者のエゴイズムを容認することを相互に理解し合うということである。そしてそのエゴイズムが個人の権利内にある場合、それを咎める必要はさらさらないのだ。ということは必要なこととは権利として認定されたエゴイズムを保証するために全成員が平等に負担をすること、それは報酬に応じた税金という意味ではなく、地球環境とあらゆる生態系の秩序を保全し、かつ我々が快適な居住を全うすることの可能な範囲で、なさねばならない全人類に共通して許され得るエゴイズムの範囲と、許されざるエゴイズムの範囲の国際的な評定基準の設定であろう。
 西欧哲学と自然科学は神と人間と動物をも含む自然という観念で発達してきた。しかし東洋哲学にはそれとは異なった社会生活と人間関係という側面が強い。仏教だけが唯一西欧哲学同様の自然と人間の関係を問うてきたが、そこには西欧流の神の観念は希薄であったために因果律的思考が、西欧的な原因と結果というよりも縁起とか輪廻といった側面から考えられてきた。しかし孔子の儒教は先述の社会生活と人間関係という側面から教えを継続させ、それは中国、朝鮮半島、日本の官僚機構に多大な精神的影響を与え続けてきている。そのようなある種の管理機構主義的な責任は同僚に対して、周囲の人間に対して払われるものとなる傾向があるが、自然全体に対する配慮という面では等閑になってゆく危険性も常に孕んでいる。しかし神と人間と自然という西欧流の考え方を推し進めてゆくと今度は自己裁量という行為決裁に際してのエゴイズムが横行する危険性がある。事実独裁政治や自然科学技術の極端な破壊行為への加担を我々は多く目撃してきた。しかし共産主義も社会主義も独裁を多く生んできた。これは事実である。それでは責任の使用の仕方はどのようにしてゆけばよいのだろうか?
 一つには責任の分担の仕方をより個人毎の能力と適材適所に割り振るということであろう。しかしこの遣り方にはいい裁定者が必要とされる。しかも独裁ではない形での適材適所割り振り役というのは、説明能力と理解能力を要求される。それは端的に言えば、人が嫌がる仕事の中にも喜んでする人というものがどのようなケースにおいてもいて、それを有効活用するという方法によってのみ見出せる。例えばキリスト教社会では天職という概念によって社会成員のやる気を奮発し、宗教的な契約の信条と思想を有効活用して自然科学の進歩を促してきた。産業革命も彼等の内的理解としての宗教的な信条抜きには語れない。それはマックス・ヴェーバーの謂いに拠れば、「あたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励むという心情_Berf天職_が一般的に必要となるからだ。」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫、67ページより)
 社会奉仕が責任倫理に基づいている限り我々はそれを人格とか人間性からではなく、職務的な適性において判断すべきなのである。そして職務的な適性というものはなかなか自己によっては発見され難いものなのだ。しかもそれは学校の成績とかそういうレヴェルでの評定とも極めてずれ込むのである。だから社会は有能な指導者をその人間の実績をも考慮すべきだが、同時に実績とは無関係な可能性にも賭けてみるべきなのである。しかしそういう思い切った指導者の抜擢には失敗もつき物であろう。そのような場合にはその指導者の交代をスムーズにして尚且つその失敗した指導者の後のキャリアにその失敗が影響を与えないような寛容な社会システムが求められているのだ、と私は思う。例えば一回の失敗が全てを無効にするようなケースはその責任に比例して大きくなる。だからこそ最も重い職責に応じて交代をスムーズにするシステム作りには時間をかける必要がある。そしてそのシステムに関する説明に関して要求されるのが、ただ政治家のみではなく、文筆家、科学者といった豊富な人材の登場によってなされるべきなのである。しかしそのことは一旦職についた指導者に思い切ったことをさせるべきであるという可能性を摘むことに繋がってはならないだろう。自然環境も、国際的政治秩序も、対テロ対策に関しても、全てにおいて今日危機的状況にあるのが世界であるし、我が国である。そして危機的状況に求められるべき人材とはいい意味で危機的状況を楽しむ心の余裕のある成員であろう。
 ネーゲルの言うように「もっぱら権利にのみ基づく理論は、たとえそこに含まれる利害が基本的なものであるとしても、道徳に関係のあるあまりにも多くのことを排除している。全体としての諸結果の価値をまったく重視しない道徳的見解が正しいということはありえない」のだとしたら我々は責任の行使の仕方を真剣に討議する必要がありはしないだろうか?
 突然暴言のようなことを言うと思われる方もおられるだろうが、私はあらゆる責任を放棄するような自暴自棄だけが難局を切り抜けることが出来るかも知れないと思っている。道徳的価値とは結果がついてこなければやはり何の存在理由もないだろう。だから権利は確かに許され得るエゴイズム以外においては一切認められないのでよい。例えばどうしようもなく記憶に残ることというのは自ら選択出来るようなものではない。そこで印象に残ること、関心があってどうしてもそこから離れることの出来ない執着心のみを残し後は一切捨て去ること、責任放棄をすること、それだけをやれば後は何を言われてもよい、という潔さではないだろうか?それこそ個人性の尊重である。
 例えば最高権力者、CEОに求められている資質は明らかにどういう角度から切り込まれても尚責任を果たしているということである。だが実際上全てに目配せをすることは不可能な場合もある。ならば「これだけはしたいと思います。」と敢えて明言出来ることのみに責任を集中させること、これしか今のところ私には思い浮かばないのである。そしてこれは何もトップ・リーダーのみに求められている条件ではないだろう。「出来ることは出来る」と言い、「出来ないことは出来ない」と言うような誠実性のおいてのみ責任は果たし得るのだ。過大な期待をかけられてあるプロジェクトを任された者は「いいんですか、私のような者に一任して。私はこれ以上のことは出来ませんよ。それでも。」と明言すればよいのである。
 何度も述べたが未来とは不確実である。だからこそ押し迫る危機的状況において、未来を想定する能力を過去に対するデータ観測という観点から人間は記憶能力を向上させてきたし、それは要するに自然という神からの恩寵である。レヴィナスは「全体性と無限」で

「私の未来は私の未来であると同時に私の未来ではなく、私自身の可能性であるとともに<他者>の、つまり<愛される女性>なのであって、可能的なものが有する論理的な本質に参入することがない。このような未来との関係は、可能的なものに対する権能には還元不可能なものである。その関係を私たちは多産性と呼ぶ。」(岩波文庫下巻、194ページより)

と言っている。要するに私たちは未来という不確実において、長期記憶と短期記憶を交差させながら、来たるべく未来に備える。
 人間の攻撃欲求は直に狩猟をしたり、対立する部族を殺害したりすることから、次第に有能な官僚が無能な官僚に対してコノテーションを採用して嘲笑したり、メールによる嫌がらせをしたりという風に間接的な方法において原始的な欲求を解消してきている。この巧妙化された揶揄も、実際は古典的ないじめとも原始時代の野生的な捕食者に対する攻撃的パワーと本質的にはその向かうエネルギーとその力においては何ら変わるところはない。  

 多産性とレヴィナスが呼ぶものこそ、決定猶予であり、決意前の逡巡の付与である。 
 決定しているのにもかかわらずそれに即座に取り掛からないのは、ある意味でもっとよい方策があるということを意味する。例えば私たちは常に最良の選択をしたいと願う。しかし同時に何かに差し迫っている場合、付け焼刃的でやっつけ仕事的なことでもこなさなくてはならない。そこで緊急の処方を採用するわけである。しかしもしその緊急性が解除されれば、通常私たちはもっと時間をかけて結果を引き伸ばししようとするかも知れない。しかしそういう時でも実は我々は緊急な時と同じように人生の時間は無為に過ぎていっているかも知れないのである。時間をかけて決断すべき事項と、そうではなくなるべく早く片付けたほうがよい事項というものはあり、その判別が最も難しいのである。
 殺人でも詐欺でもそれを意図的にしたか、計画的だったのか、過失だったのかという判定がその罪状の被疑者の判決、刑期の長短に影響する。そして経済社会全体からすれば、あらゆる決裁は早期になされるべきであるが、人権という立場からはあらゆる裁判は時間的余裕を確保する必要性がある。
 ギルバート・ライルは現代哲学者の中でもとりわけデカルト的な視座を持って、古典的な命題に挑んだ先達だったと言えるだろう。彼の行動主義哲学と呼ばれた考えも、その実人間は行動と行動外の心的な作用とを峻別し得るという知性レヴェルでの認識論から派生したものであり、私は人間が百%行動を心的な作用と切り離してし得るとは思わないし、またそのようなことを持続することは不可能であると考える。そのことはともかくとして、ライルが語っていることの多くは責任倫理への問いであるということを示してみたい。

「ある人が何を読んでいたかということにその当人自身が気づいていないか否かということを知りたいと思うときには、われわれは、一般には、読了後間もなく彼に問い質すことによってその問題に決着をつけるということで満足する。たとえば、彼がその章の要旨や言い回しについてわれわれに何一つ話すことができなかったり、彼が最初の章と矛盾するような文章を読んでも「これは前の部分と矛盾している」と不平を漏らさなかったり、あるいはまた、最初の章においてすでに述べられていることを再度告げられたにすぎないにもかかわらずその記述内容に驚くというようなことがあったりするならば、そのときには、彼がその間に脳震盪を起こしていたとか、今心が乱れているとか、あるいはまた寝ぼけているというようなことでもない限り、われわれは彼は自分が読んでいるものに注意を払っていなかったと確信するであろう。このように、読んでいるものに注意を払っているということには、上述のような、読了後に行われる若干の「テスト」に首尾よくパスする用意ができているということが含まれているのである。同様に、われわれは、ある種の事故や事故寸前の状態が生起するならば、その運転手は用心していなかったのであると確信するであろう。したがって、用心するというようなことにはある種の緊張事態に対する備えができているということが含まれている。
 しかし、問題はこれからである。一方において、留意動詞として分類することはできないがしかし類似の傾向性的性質を表現する過程動詞process verbsが数多く存在するという事実がある。たとえば、「彼は今死に瀕している」、「.....へ来つつある」、「衰弱しつつある」、」「彼は今催眠術にかけられている」、「麻痺している」、「免疫のある」、などは一面においてすべて事象を報告してはいるが、それにもかかわらず、それらの報告が真であるためには彼の将来に関するあるテスト可能な仮言的言明が真でなければならない。他方、ある人に対して何ごとか心に傾けるように命令したり、依頼したりすることもまた可能なのである。ところが、彼に対してあることができるように命令order him to be able to doしたり、あることを行いそうであるように命令order him to be likely to doしたりすることは不可能である。われわれはまた、注意深く読書する場合の方がそうでない場合よりも疲れるという事実を知っている。このように、われわれはまた、注意深く読書する際にはたしかに一方において傾向性的な事柄を述べているのであるが、他方において挿話的な事柄を述べているということもまた明らかなのである。すなわち、われわれは、彼自身の行為をある気構えframe of mindにおいて行ったということを述べているのである。その気構えがいかなるものであったかという点に関して詳細に述べるためにはいかなる仕方で行為しうるかということなどを述べなければならないが、その気構えにおいてなされる彼の行為自体は生起の時間を示すことが可能な種類の事象なのである。」(「心の概念」みすず書房刊、196~197ページより)

 ここで述べられていることは哲学が意志、欲求、信念といった、外在主義的な視点から言えば極めて曖昧な概念規定に依拠せずに、行動とそれを誘引する気構え、備え、決心といった内的理解を、結果論的になされた行為にのみ依拠して、考察すべしという主張であったと思われる。なぜそのようなことを哲学上でする必要があったかと言えば、エイヤーも必死に初期著作で示したような西欧形而上学の伝統において行動とか表出とか現出とかは、その背後に真理とか本質を隠し持っているという考えが払拭されずにきている(フッサールでさえそういうところはある。)ということに対する痛烈なるアンチ・テーゼなのであった。しかし責任ということは意志、欲求、信念といったものとも重なる部分を持ちながら、同時にそれら全てをどこかで支えてもいる。何故なら責任があるからこそ意志を持ち、欲求を生じさせ、信念を構成すると思われるからである。
 哲学では先述のライルのようなあらゆるイズムを産出する前提条件として批判対象というものがあるが、これらに対する受け答えとはそれ自体で一つの攻撃である。攻撃欲求は形を変えて思索にも、思想にも、哲学にも人間社会に適用されてきている。哲学では懐疑主義者はとか、実際に該当する人物がいなくても、仮想敵として設定して論議を進めることがしばしばだ。それは内的理解としての攻撃欲求という感情を我々が行動で解消するためには、実際の狩猟対象ではなく、仮想の狩猟対象を設定しなければそれ以上の進展がないからである。ライルに関しても、ある程度の実在の敵をも想定していたであろうが、仮にそういった当該の人物がいなくても尚彼は仮想敵を産出していたであろう。そしてそれはライルがデカルト主義的な心と身体の二元論に対してアンチ・テーゼとして示した「心の中の幽霊」というデカルト的考えを否定するためなのであった。そして今までライルに関しては触れられてこなかった一面とは、彼が責任倫理として、「いかに内的理解としてはイノセントであれ、行動に移した結果がイノセントでなければ、それは内的理解であってもただの思念(カルヴィン流に言えば思考)でしかなく、行動に移す構えとか意志が実際は意識に浮上していたわけではないだけのことなのである。」という主張を先述の記述でなしている、と捉えることが可能である。それはライル流の哲学史的な責任の取り方なのだった。そして何故そのような責任を彼に取らせたかと言えば、それは未来は依然どのように科学技術が進歩しても尚不確実なままであり、その不確実性に立ち向かう時には、行動されたこと、意志的顕現として行為選択されたものを、その予兆として構え、備えとして理解することを通して未来へと拮抗してゆくしかないと哲学者たちが自覚していたからである。
 構えとか備えといった心の状態は、そういう構えとか備えを常住させる傾向性の所在をも意味する。責任というものの本質には、それを巡って賠償したり、追及したりすることがあるが、要するに責任を取ることが出来る(たとえ金銭的にその時点で弁済することが出来なくても)成員に対する能力の承認がある。だから心神喪失状態での犯罪には罪責が課せられないという現実もあるのだ。そして責任能力とは即ちその成員の良心(特に共同体に対する)の認可である。もし敵対する成員であれば、戦争状態という事態もあり得る。その場合戦争対立国同士で殺しあったとしても良心を縮小してでも敵対国人を殺害することが正当化されることもあるだろう。だから責任を課せられる義務性は即ち成員としての認可に他ならない。責任を中心とした反省と後悔はそのまま共同体へと向けられた良心と、それを支える理性(あるいは理性が良心によって支えられる)によって存在意義を付与されている。そして責任を課せられる時点で、その責任を放棄した時に、その説明を強制的に求められるという事態をも引き受けることである。説明を求められるという事態には、責任を有する成員全員が共通して同意した事項、それは法体系であれ、言語であれ、要するにそれらに対する理解を前提としている。理解という心的状態とは、ある反復されて痕跡化されたカルヴィンの言葉を借りれば時空パターンとしてクローン化されたものでもあり、ニューロンの発火パターンによるクオリアかも知れない。既在性の確認である。
 しかし主体的な理解は理解した者の関心事項から喚起されているので問題はないのだが、しばしば現実には理解することの多くが、致し方なく理解しているということである。例えば業務内容に対する理解、人間関係的な事項、とりわけ社会組織上での重要な上役をはじめとする人間の性格に対する理解とか、要するに主体的に楽しむような理解ではない理解という奴がビジネス上の場面では大半を占める。だから当然説明という行為も、説明する方も責務的な感情でしているわけだし、説明される側も職務的、義務的履行性において説明を理解しようとしているわけである。そして説明されるということは仕事でもそうであるが、師匠が弟子に何かを伝授するという場面でもしばしば見られる。これは何かを習得しようとしているわけだから、楽しいばかりではないが、そうかと言ってそういうことをして習得することとか、その後に得られる喜びのために半ば強制的に自己を縛るということを人間はする。そしてそういった説明する、される、それを理解させようとする、理解しようとするということにおいて洋の東西はない。しかし人間は一方で責務を鬱陶しいと思いながらも、それに付き従い、社会に一定の地位を確保し、安定を望みもする。その典型的な行為は「住む」である。住居の確保はそれ自体でステイタス・シンボルである。これは社会の成員としての資格を得た者である証明であると同時に、個人性(プライヴァシー)を確保することを権利上認められていることを意味する。ここに次のような図式が認められる。

責務(追随的心理)(鬱陶しさ)<孤独確保意識>←→ 反発(冒険心)(爽快さ)<集団同化意識>

                ↓

永住(プライヴァシーの確保)   ←→  挑戦(転職)(パブリック<対他的>な意識)

 ワルター・ベンヤミンは「パサージュ論」において、19世紀ヨーロッパの退廃をより顕著に反映していたパリの都市像を、住居、ビジネスビル、家具、装飾品といった文明としての象徴的な事物に着眼して、その時代のモードを痛烈に風刺した。彼の視点は我々人間が要するに対他者攻撃欲求と、他種への狩猟欲求を沈静化するために、都市文明を構築し、その攻撃欲求の矛先を知性へと転化してきたのだが、その実代理欲求として他者への優越性、ステイタス・シンボルを渇望することにおいて他者への虚栄心を常備するという事実に対して向き合ったということである。ベンヤミンの引用のパラダイムとしてのテクストは幾分ヨーロッパ人の自嘲意識が息衝いている。それはモードという認識が、古代から中世、近代を通過しながら、何らその実相を人間の無意識では変えてこなかったという事実に対する認識でもある。そしてその実相とは何か、それはピア・プレッシャーに他ならない。集団同化意識というものは孤独確保意識と裏腹であり、一人になった時、人間は責任から一番離れているようでいて、最も未来に向けて責任を実感するのである。寧ろ集団でいる時ほど一人になりたいと思う時はない。近代におけるピア・プレッシャーが「パサージュ論」に封じ込められているとしたら、古代のピア・プレッシャーを封じ込めてきたのが「論語」世界であろうが責任倫理に目覚めた時に最も痛烈に脳内に救わせる意識こそピア・プレッシャーである。
 孔子にとって人生における最も重要課題は立身出世であり、政治的地位確保であった。そしてそれは叶わなかった。つまり孔子の思想の根幹に横たわっているものは、野望の実現に対する挫折に他ならない。そして彼はしばしば弟子に愚痴を言った。そういった屈折した遣り取りの中からは彼は後世に残る道徳律を発見したのだ。道徳的真理の発見はセレンディピティーによるものだったのだ。
 人間は他者への攻撃欲求を、所有欲求(そこに社会的地位も含まれる。)へ転化し、その代理物を通して暗黙の内に他者へプレッシャーをかけることで自己内に燻るストレスを解消しているのだ。偉業を成し遂げた者や、職業的知(職人とか、科学者とか、医師)をモットーとする者は住居に神経をあまり使わない場合もあるが、そうでない者は住居に神経を使う傾向があるかも知れない。せめて住むところくらいは、ということである。(尤も芸術家<特に作家、美術家関係>は、住居に金銭をかけるというよりは、快適で自然のよさを活かした住居を好む独特の傾向が見受けられるが。)しかし孔子の時代における官僚同士の人間関係も、ベンヤミンの時代の退廃文化を支える市民の人間関係も、他者攻撃欲求を所有によるプレッシャー(暗黙の所有誇示)によって欲求充足を図っているという点では何ら変わらない。

Sunday, November 8, 2009

〔責任論〕十三章 事物に対する静観と他者への配慮

 責任という意識が固有の状況としてではなく、ある意識と記憶と感情の三角形自体を支えるシステムとして内在した時、我々は外界の事物を初めて意味あるものとして理解することが出来る。川を見れば魚やプランクトンたちが泳ぎ、森林や平原に生える植物に恵みを齎しているのだろうとか、空を仰ぎ見れば雲となって上昇する気流が再び雨を降らせることとなる循環作用や、天体を観測するのに有効な世界として認識させることとなる。つまり自分と直接関わりのあるものと、そうではないが、この世界に存在する事物があり、それは何らかの作用を持って他の事物や他者にとって恵みとなったり、脅威となったりしているのだろうな、という認識を生じさせる。だから事物が直接自分や自分を巡る周囲の他者にとって脅威とならない範囲で我々はどのような事物に対しても静観を決め込むことにする。だが今日世界の情勢を一瞬で知り得る時代になっても尚、我々は一々世界中の悲惨な出来事に対して自分のことのようには思わなくなっている。それはデズモンド・モリスが指摘しているように人間は精精百人くらいの他者さえ自己を巡る世界において介在しておれば、それで自分にとっての必要事項は満たされるものなので、その他国の悲惨が自分の周囲の、あるいは自分の住む国の経済や社会情勢に極端な脅威とならない限り静観をそこでも決め込む。それは他者に迷惑をかけないように配慮する意識と、他者には干渉しないことで自分に火の粉が降り懸からないように配慮する意識が抱き合わせになっている証拠である。しかしウリクトも言っているように本来行為とは自然に干渉することであるなら、何もしないでいてイノセントであるような自己弁護とは実は逆に善をなすことも何もないということを意味するのだ。そのことは本章で取り上げる問題と密接に関わっている。
 先日映画「不都合な真実」を見た。デイヴィス・グッゲンハイム監督作品で2007年3月14日年度アカデミー賞ドキュメント映画賞を受賞した話題の映画である。この映画では元副大統領で、2000年大統領選で敗退した政治家アル・ゴアが映写映像をバックに地球温暖化を力説するものである。京都議定書ではアメリカとオーストラリアだけが反対の意を唱えたのだが、今日急速に広がりつつある地球温暖化の実害を直に映像で示しその脅威を訴えるのが議定書で反対した同じ一アメリカ人であるという皮肉に私はある種の真実の矛盾した姿を見た。
 日本は文化伝統的に捕鯨を除き、それほど野生動物に対する狩猟はヨーロッパやアメリカほどは盛んではない。そのことは逆に日本では動物愛護精神が根付かない理由ともなっている。例えば最も動物実験を初めとして、あらゆる狩猟の盛んな英国ではナショナル・トラスト等による動物愛護運動は日本よりもずっと盛んである。一方で肉食習慣の日本よりずっと定着した欧米では、恐らくペット動物に対する虐待は日本よりも少ないのではないだろうか?そういう意味では日本人はウリクトの言うような意味ではそれほど個人的なレヴェルでは自然に干渉してはいないようだが、それが国家レヴェルとなると、やはりディーゼル規制をしてはいるもののそれまでは実害を撒き散らすことに貢献してきたのだろう。つまりヘーゲルの言う正と否の弁証法の論理から行けば、ある行為を価値とすることは、その行為の反対の行為に対する認識によって逆に弁別を明確化するのであるなら、我々は美しいという観念を逆に醜悪な現実に対する直視によってのみ実現出来ると認識すべきなのである。鈴木大拙は平安時代の雅を本質的な意味では日本人が実存に目覚めてはいないという現象として捉え、鎌倉時代以降初めて日本人が真実に醜悪と対極にある美を進化させたのだと捉え、それは死生観が本質的に定着したのが、却って平和なだけではない動乱の鎌倉期以降だという認識を持っていたが、これなどはある意味では醜悪さを知った上での美化精神の定着という意味ではアメリカ人の手になる世界規模での地球温暖化運動への提唱という現実とオーヴァーラップして極めて興味深いものがある。
 さて事物を静観することもまた、ある意味では事物に対する自己欲望の果てしのないエゴイスティックなまでの攻撃性と破壊性によって自覚され得るものであり、その意味では自然と共存するという観念(かつての日本人的な)では決して真に静観という姿勢は生まれ得ない。禅を哲学思想にまで高めたのはある意味では西欧人だったかも知れない、というような意味で我々は静観することの本質的な意味を静観出来ず、干渉することだけで乗り切ってきた人類史的な観点から改めて捉え直さねばならない。
 そのための一つの方法は、我々が個の成立過程において共同体の果たす役割が甚大であったことの本質が逆に集団による烏合の衆的な意味での集団ヒステリーとか集合的無意識とか、群集心理とかのレヴェルからの脱却として秩序ある共同体という倫理の形成過程において、改めて個の意味を捉え直す必要がありはしないだろうか?その時ヘーゲルの哲学の視点が再考を迫られるのである。少し長いが「精神現象学」内の一連の記述が第八章に引用したシュレーディンガー的世界観とも重複する視点を抱いていることを示す意味で引用してみようと思う。

「共同体のなかでの家族のありかたは自然発生的だと定義できるとしても、家族の成員がうまれながらに家族をなし、その関係が現実の個人のあるかぎりでは、家族の内部に共同の世界がなりたっているということはできない。共同体精神は個を超えるものであり、うまれながらの関係といえども、その本質からして精神的なものであって、精神的であるからこそ共同体とかかわるのである。家族という精神世界に固有の共同体精神とはどういうものか、それを見ていかねばならない。
 第一に、共同体はもともと全体とかかわりをもつものだから、家族の成員の共同体的なものが認められるべきで、その際、成員の現実の行為は、家族の全体を目的とし、内容とするのでなければならない。しかし、行為が家族全体の際、成員の現実の行為は、家族全体にかかわるような目的を意識的に設定したとしても、目的全体はあくまで個別的である。権力と富の獲得や維持は、必要やむをえぬ行為だったり、欲望に発する行為だったりするにすぎない場合もあれば、さまざまな要素が入りこんできて、もっと高度な志がそこにこめられる場合もある。が、そこに見られる高度なる志なるものは、家族にふさわしいものではなく、真の普遍的存在たる共同体にこそふさわしい。それは家族を否定する傾きをもち、家族から個人を追放し、個人の自然な個性を抑圧し、個人を、全体のなかで全体のために生きる、有徳者にしようとするのだ。(集団内での理想的成員の設定<著者注加入>)
 家族に特有の積極的な目的とは、個別的なものである。それが共同体的なものになるには、行為者も行為の受け手も、なんらかの援助行為やサービス行為の場合のように、偶然そこにかかわったというのではいけない。共同体的な行動の内容は、秩序にかない、全体と関連するものでなければならない。したがって、その行動は個人の全体とかかわるような、いいかえれば、共同存在としての個人とかかわるようなものであるほかはない。といっても、あるサービス行為が個人の幸福を全体として個人を高めると頭では思われているが、現実にそれが目の前にあらわれてみると、個人の一面にかかわりをもつにすぎない、というのでは困るし、一定の順序を踏んでなされる教育行動が、個人を全体として対象とし、それなりに成果をあげながら、しかし、それは家族を否定するという目的にこそふさわしく、それ以外の面では、現実の行動として限られた内容しかもたない、というのでも困るし、最後に、まったく偶然の緊急行動によって個人がまるごと救われたといった場合も、共同体的行動とは考えにくい。そんな行動の機会は狭い日常世界のどこにでも転がっていて、行動としてあらわれるかどうかは状況しだいなのである。
 したがって、血縁関係の全体を包括し、血縁でつながる個々人_家族とは別次元にある市民や、特定の個であることをやめて市民たらんとする個人_について、感覚的で個別的な現実を脱却した共同存在としてかれらをとらえ、そうした個々人を対象ともし、内容ともする行動は、もはや生者を相手とする行動ではなく、死者を相手とする行動でなければならない。なぜなら死者は、長く続いた多面的な生活をおえて、感覚的で個別的な現実を脱却した共同存在としてかれらをとらえ、そうした個人でなければならない。なぜなら、死者は、長く続いた多面的な生活をおえて、完結した一形態におさまり、偶然に左右される不安定な生活をぬけだして、単一で安定した一般的なすがたをとるに至っているのだから。_個人は、市民となってはじめて現実の共同体にかかわるのだから。市民ならざる家族員としての個人は、非現実の、力なき影なのである。」(長谷川宏訳、作品社刊以下同、303~304ページより)
「共同体秩序は精神がそのままそこに真理としてあるすがただから、意識の分裂した二側面も、そのままそこにあるというかたちをとるのであって、個としての肉体は抽象的に否定され、その否定を個人は外面的な現実の行動を通して、本質的に慰めも和解もない事実として受けいれねばならない。そこで、血縁者のなすべきことは、抽象的な自然の運動を補って、それに意識の運動をつけくわえ、自然の行為に介入し、血縁の死者を破壊から救いだすこと、もっと適切にいえば、破壊されて純粋な存在となることが避けられないものとすれば、破壊の行為をみずから引きうけることである。
 それによって、死んだ共同の存在が自分のうちに還ってきて自立した存在となり、ただ個物としてある無力な死体がみんなに認められた個人となる。死者は、その存在がその行為や否定的な統一力から切り離されるから、空虚な個物となり、他にたいして受動的に存在するものでしかなくなって、すべての低級な理性なき生物や自然の元素の力の餌食になる。理性なき生物はその生命ゆえに、自然の元素はその否定力ゆえに、いまや死者よりも強いものとなっているのである。無意識の欲望や元素の抽象的な力にもとづくこうした死者陵辱の行為を防ぎとめるのが家族であり、家族はみずから行為を起こすことによって血縁者を大地のふところに返し、不滅の原始的な個たらしめる。それによって、死者は共同世界の仲間に引きいれられるので、この共同世界は、死者を思うさま破壊しようとする元素の力や低級な生物を配下におさめ、その力を抑制するのである。
 この最後の義務こそ完全な神の掟であり、個人にたいする共同体の積極的な行動である。愛を超えるような共同体的広がりをもつ他のすべての行為は、人間の掟の属するものであって、自然発生的な共同体(家族)に現実にとりこまれた状態にある個人を、そこから脱出させようとするものである。ところで、すでに見たように、人間の正義の内容と力が、現実の意識的な共同体秩序_民族全体_にあり、神の正義と掟の内容と力が、現実の彼岸にある個人_死者_にあるとすれば、死者が無力なのは当然である。死者の存在は純粋に抽象的・一般的な、元素にもどった個であって、かつて元素たることを脱却して、みずから民族の現実の一員たることを意識していた個人が、その掟でもあり土台でもある純粋な元素へともどっているのだ。_そうした死者の存在が民族のもとでどう表現されるのかを以下で見ていかねばならない。」(305~306ページより)
「(前略)性のちがいとその共同体的な内容のちがいは、あくまで共同体秩序のうちに統一されているので、ちがいにもとづく運動が、まさに統一をたえずうみだす運動となっている、男は共同体のうちに全体を支える秩序と土台を見いだすが、逆にまた、共同体は家族こそおのれの現実を支える形式的な場であり、神の掟こそおのれの力を確証するものだと考える。どちらも一方だけでは欠ける所があるのだ。人間の掟_地上を支配する、意識的で、間接的な掟_は、神の掟_地下を支配する、無意識の、直接的な掟_に発して、生き生きとした運動を経て生じ、やがてまた、出発点へと還っていく。他方、地下の権力は地上に出て現実のものになり、意識によって存在へと活動をあたえられるのだ。」(310ページより)
「こうして共同体王国は、一点のしみもない、いかなる分裂にも汚染されることのない世界として存続する。同様に、その動きも、一つの権力からもう一つの権力への安定した移行であって、両者はたがいに守りあい、うみだしあう関係にある。世界が二つの本質と二つの現実に分割されるかに見えるが、その対立は一方が他方を確証するような対立であって、両者が現実の権力として直接ふれあう中間地帯においては、二つが直接に浸透しあっている。一方の極をなす意識的な共同体精神は、反対の極をなす無意識の精神_共同体精神に力と場を提供するもの_と、男の個性を通じて一体化している。反対に、神の掟_個人の無意識の精神_は、女の個性のうちに存在をあたえられ、女を媒介にして非現実から現実へ、無知から無意識の領域へと登場してくる。男と女の統一が、全体を動かす中間項であり、神の掟と人間の掟への分裂をもう一度そのまま統一する場となるのであって、神の掟と人間の掟をめぐる三項関係も、男と女をめぐる三項関係に帰着する。そして、現実から非現実へ_さまざまな組織にわかれる人間の掟から死の恐怖へと確認へ_逆にまた、地下の掟から白日の下にある現実や意識された生活へ、という二つの運動_前者が男の役割で、後者が女の役割だが_、対立するこの運動が、そこで一つに統一されることにもなるのである。」(312~313ページより)
 
 ヘーゲルの視点は、共同体を個的な特殊意志のレヴェルから言えば、個滅却的な無個性的で死んだ意志の寄り合いと捉えている。そして意識界を人間の掟として、無意識界を神の掟として前者を男性性として、後者を女性性としてと捉えているところがユニークであるが、彼にあっては共同体への奉仕はある種自己犠牲への投身であり、投企とはまさにそのことである。また305~306ページの叙述は明らかに無個性的な個として参入した社会共同体においては、死んだ個を再生させるものとして家族の愛を位置付けている。これは裏を返せば、家族の愛を受けている者であれば、逆に社会に奉仕することにおいても他者への愛を注ぐことが出来るという主張でもあり、キリスト教的な汝の隣人を愛せよという謂いとも繋がるが、つまりは個的な他率に感けた特殊意志から脱却する一つの処方としても家族の愛を、そしてもう一つは社会全体への契約(それは神への契約でもあるのだが)として奉仕しながら同時に家族の愛を権利として要求することで、社会からも賞与を獲得し、社会に幸福を還元するという思想がある。しかしその根底には家族の愛のない成員には社会に対して死者への陵辱という表現に該当するが、他の成員、つまり他者への攻撃欲求という本能を直接ぶつけてしまう可能性をどの成員も秘めている(もっと有体に言えば犯罪者に転化し得る可能性)ので、良心を他者にまで拡張するためには充実した家族を持ち、幸福の権利を追求しなくてはならない、という思想が横たわっている。つまり家族の愛情を注ぎ注がれている成員には他者に対しても良心を発動することが可能であるという暖かい合理主義がそこに垣間見える。
 この考えはシュレーディンガーの言う自己と他者の違い、そうした精神的存在者の中にある素朴な疑問は、しかし自然界を見渡して見ると、自己の周囲のどの事物も、事物なりに充足しているが、その充足は何らかの変転の後に不動点に達し、それ以外の逸脱を潔しとしない、そして例えば一個の岩石でさえ何らかの衝突物によってその不動性を破壊されるかも知れない未来に対する不確実性こそが、現在の不変を維持している、つまり現在なりに負い目のない未来への備えとして存在しているという観念を再び想起させずにおかない。「異」性は「同」性によって異化され、無化され、同化され、一体化されるということである。そしてそれこそが責任という考え方が発生する現場であると同時に、実は責任という考え方が基本に理性発生と同時にあるからこそ、他者へ向けられた良心と愛情の眼差しの拡張が叫ばれるわけである。
 勿論共同体とヘーゲルが言っているのは歴然とした近代国家を前提としたそれであるが、他者へ向けられた良心の発動と、そのことによる奉仕の見返りとしての個人生活の権利要求という現実は恐らく言語獲得した段階から人類は発生させていたと私は考える。なぜならそのような集団と個の論理が内的に各成員に自覚されない限り、言語行為としての能力が人類全体に波及するとはとても思えないからである。勿論発声秩序とか、所有の概念とか要するに初期的な認識は言語獲得以前的にも考えられるだろうが、語彙と品詞とシンタックスという観念は、ある程度複雑な心的様相としての内的理解なしには不可能である。そしてヘーゲルの叙述の指摘するところはあながち初期人類においても考えられないことではないと私には思えるわけである。
 しかし今日から見るといささかヘーゲルのジェンダーロール的な認識から喚起される比喩は時代遅れな感を我々に抱かしめるものの、女性の方が男性よりも平均した大脳皮質の体積が男性よりも二割程度小さいので言語習得を主に統合する大脳左半球(左脳)を中心の体積比が大きく故に外国語語学は女性の方が習得しやすいという可能性も脳科学では考えられる(男性の方がやや左半球優位性であり、女性はその逆である。)のでヘーゲルの比喩はあながち間違いではなく一つの示唆は我々に与えてくれる。しかし男性が左脳中心の判断であることは、事実女性よりは価値論的に左脳判断をなすことがあり得るので、男性性を意識、女性性を無意識としたヘーゲル解釈はそういう現代脳科学を予感していたのではないかと思わせる面からは実に興味深い。
 しかし問題となるのは責任倫理とは右脳的判断であるのか、それとも左脳判断であるのかということだが、それはいずれ脳科学が解明してくれることを期待して先へ進もう。
 責任が他者への配慮となっているということは、例えばペーパーテストを採点する先生の担任する生徒の中に自分の息子がたまたまいたとしても、彼は自分の生徒に課したテストの採点で自分の息子だけ贔屓するわけにはゆかない。そういう意味ではこういう場合には文学賞の評定基準以上に主観は入り込む余地はない。そしてそれこそが責任である。だから良心というものが責任を伴って発動されるのは本来親しくはない成員、あるいは好きではない成員に対してある種の贔屓とは逆の感情で排他するような態度を採ることは許されない、そういう風に理性的に考えることが良心の起源ではないだろうか?つまり自分の親族に対する身贔屓を他者に拡張し、それだけに留まらず、自分の親族でさえ、他者と比べて劣った判断をし得るようなケースでは他者を支持し、自分の親族の方に非があると主張するような判断を正当化する内的理解であると言える。そしてそこに初めて平等という観念が発生する場が与えられる。
 何度か登場願った理論脳神経学者のウィリアム・カルヴィンは「思考は、感覚と記憶が結びついたものだ_あるいは別の見方をすると、思考はまだ起っていない(そして決して起らないかも知れない)行動のことだ。それはつかのまのものであり、ほとんどが短命である。これは何を物語っているのだろうか?」(「知性はいつ生まれたか」197ページより)と言っているが、まさにこれこそが言語発生の根拠であると言える。そして言語は言語化された途端に責任を発生させる。例えばある意見に同調したり、ある意見に反意を示したりすることはそのまま政治的発言そのものであり、責任を伴う。そして責任の基本的なスタンスが平等によって裏打ちされていることを哲学者のトーマス・ネーゲルは次のように語っている。
「(前略)権利は、そうする代わりに行為を直接に制限するのである。各個人は、たとえ彼自身が他人の権利を少しばかり侵害することによって、間接的に権利の侵害の全体数を減少させることが可能であるような場合でも、直接的に他人の権利を侵害することを禁じられている。(ここら辺はまるで大人数によるいじめを否定しているかのようだ。<著者注加入>)このような行為者中心的な制限に説明を与えることはむずかしい。解釈としてそれについて言える一つのことは次のことである。すなわち、それは権利の侵害を最小にすることはどんなことでも行うように要求する原理よりも、高度な道徳的不可侵性を表現している、ということである。というのは、もしそれがその種の原理であるならば、権利の侵害は常に悪であるとは限らないからだろうからである。他のいくつかの殺人をさけるためであっても殺されない権利という道徳的権利要求は、殺人を単に大悪と見なすだけの主張よりも力強い。というのも、前者は後者ならば許すであろう殺人を禁じるだろうからである。後者の方が前者よりも多くの殺人を避けることを可能にするかもしれないとしても、やはりそうなのである。(ここら辺は東南アジア某国のような状況に対する批判にもなり得る<著者注加入>)しかしこのことは、行為者中心的な諸権利を説明するのにはそれほど役立たない。真の説明ならば、保護される利害だけでなく、行為者と、彼が特定の仕方では扱われないように_たとえ非常に望ましい目的を達成するためだとしても_強制されている人物との関係をも、考察しなければならないだろう。何が起こるかへの関心に対立するものとしての、人が誰に何をしているかへの関心は、不十分にしか理解されていない倫理学の重要な源泉なのである。」(「コウモリであるとはどのようなことであるか」中、平等180~181ページより)
 つまりここではヘーゲルが言った死者を相手とする行動という極度に主観を排除した客観的基準が責任には付き纏うのだ。しかしそれが法哲学的なディタッチメントである。法はいかなる矛盾を孕もうとも例外を許さない。もしあらゆるケースにおいて法を例外を認めることにおいて正当化し得るのなら平等も、公平も、正義も成立しないことになる。その都度権力による丼感情が横行し、やがてそれは人治主義となってしまう。だからもし法的執行にあまりにも例外を適用しなくてはならないとしたら、その法は改正すべきなのである。しかし本質的に社会を築きあげるという事態には自然に干渉する行為性が付き纏うので我々は事物を静観するだけの猶予は与えられてはいないのだ。つまり何らかの反応を行動で示す必要があるのだ。これはウィリアム・カルヴィンが思考の短命性として堤示した記述の根本的な主張である。責任ある行動という投企をなして初めて我々は権利を主張することが可能なのだ。しかし自然へと干渉するような人工的な意図があればこそ、我々はその自然への干渉を意義あるものにするためにも、他者と折り合いをつけ、他者存在を相互に配慮し合う必要性があるのである。
 次章の結論では「不都合な真実」によって示されたような地球規模の環境破壊の元凶である人間の攻撃的欲求を狩猟本能と、それに対する克服過程として言語を位置付けながら、秩序というものは何なのか、調和というものとは何なのかという観点から考えてみよう。

Thursday, November 5, 2009

〔責任論〕十二章 記憶能力が形成するもの

 私達は未来が不確実であることを知っている。何故だろうか?それはある意味では記憶能力を発達させたから、とも言える。しかし同時に未来が不確実であることを知ったから記憶を発達させたとも言えるのだ。未来が不確実であるということを知るということは未来を想像する力があることである。未来を想像することが出来るということは現在における知覚をなしながらも、その現在性の中には過去から引き継がれたものと過去と断絶したものとの対比で現在を知ることが出来ることであるし、且つそのような過去から現在の流れを知ることを通して未来を想定することが出来るが、同時にそのあらゆる可能性、あるいは自分で想定する可能性外の出来事が不測な事態として起り得ることをも知る、つまり未来の不確実を知るということに他ならない。要するに記憶とは記憶した出来事に対する解釈を含み、そこには現在知覚時における表象とはまるで異なった出来事に対する印象、感想、解釈を通した全く別個の記憶内容(それは同じ事件に関する記憶でも人それぞれ違うということを意味する。)を持つことを意味する。
 意識に忠実なこととは現在の知覚がクオリアを通して顕現されながら、原像としてだが、それが想起契機として有効活用されることである。記憶は哲学者の言う欲望、あるいは脳科学者の言う情動、つまり広義の感情が支配するのだ。それは全部個的なことである。
 反省意識というものは記憶を手助けするし、同時に記憶によって形成されもする。そして反省とは後悔の念が作るとも言える。そして責任という概念は明らかに失敗が先験的に存在しているのだ。失敗のないプロセスにはプロセスという認識も生じなければ、後悔という念も生じ得ようもない。失敗があり、後悔があり、反省するからこそ責任という認識に意味が生じる。ここに次のような図式が与えられる。

 ↓   →責任‐記憶← ↓
後悔‐反省 ←→  欲望‐想定
  ↓           ↓
記憶    ←→     願望

 記憶はこの中でもとりわけ重要であり、これがなければ意識もあり得ない。というのも現在知覚というものはどのような動物でもあるが、その現在を、現在であると意識させるものこそ記憶だからだ。記憶は海馬が例えば場所の記憶などを司り、尾状核が行為的な手段の記憶を司ると言われる。(場所学習と反応<てがかり>学習)例えば会社に行こうとする。その時会社の場所とか道順は海馬が、そして切符を買ったり、横断歩道を渡ったりするそれぞれの手段の記憶は尾状核が司るわけだ。しかし不覚なことにも我々は会社に遅刻したり、切符を間違えて買って、乗り越しに気が付かなかったり、切れた定期を使おうとすることがある。そういう時我々は「しまった。」と思う。それが後悔である。そして二度とそういうことを繰り返すまいとする。これが反省である。しかし哲学で言う反省とは過去の経験的記憶全般にかかわることを言うので、哲学で言う反省ではない通常の反省である。そして後悔と反省を繋げ、二度とそういうことをすまいと誓うこと、これが責任である。責任とはある種の決意である。(先の図式の反省は狭義の反省を含む広義の反省。)
 責任は「こういう風にするぞ。」ということであり、「そうはすまいぞ。」ということであるから、決定である。それは要するに名詞的な思念である。叙述ではない。それに対して反省と後悔は叙述しながらするものであり、想起的であり、想像的な思念である。そしてそれは動詞的思念である。「もう少しこうすればよかった。」とあれこれ想像することだ。
 多くの神経学者、精神医学者たちが、記憶を、ある出来事(事実)に対する意味作用として刻印されると考えている。つまり事実そのものなのではなく、事実という意味内容に対する意味作用として記憶されているということである。すると先述したが、一つの事実に対する意味作用の様相が個人毎に異なり、その事実に対する解釈の仕方そのものが、その人間の性格であり、個性であることになる。そして過去の事実に対する反省と後悔の念の在り方が、独自に責任倫理をその個人に生み、その責任の行使の仕方がその人の人格であると言える。20世紀には偉大なる他者哲学者が(例えばレヴィナス)登場したが、他者という存在は、即ち記憶能力の行使の仕方、あるいは解釈内容の「異性」によって位置付けられる。他者の「異性」とは社会的には個性となって立ち現れる。他者哲学の故郷は記憶である。
纏めよう。記憶とは記憶される事実に対する意味付けである。それは茂木健一郎が言うクオリア(アメリカの哲学者デヴィッド・チャーマーズが提唱して、日本では信原幸弘や茂木健一郎が応用して使用した概念で感覚質、例えばベルベッドの肌触りとか餃子の味の食感とか)という知覚原像のモダリティー(様相)に対して彼が言うポインター(クオリアを位置付けること)に近いものかも知れない。そして現在知覚ではクオリアが先験的に立ち現れ、ポインターがそれを制御する。しかし記憶ではポインターが先験的に立ち現れ、そこからクオリアの記憶が呼び覚まされる。想起である。しかしそれは曖昧な部分もあって、恐らく現在知覚や経験によって日々内容の様相も、印象も塗り替えられている。過去の事実は一回きりのことだが、それに対する我々の志向はその都度異なり、記憶の様相自体も刻々と変化しつつあるのだ。例えばある友人と旅行に行った時の思い出は彼(女)と関係が良好な内は良い思い出として想起されるが、一旦個人的感情が拗れれば、途端に良い思い出は嫌な思い出に転化するというような。あるいはその逆のケースとかも考えられよう。
 それに対して責任とは過去と未来を繋ぐ意志であり、過去と未来を支える現在の意識が責任というものの所在によって倫理の網の目を通して顕現されることを意味している。責任こそ過去と未来を繋ぐものであり、現在の意識を明確化するものである。
 「明日こそこれをしよう」、「明日こそこれを他者に告げよう」、「明日こそあのようにはすまい」という決意が責任によって形成され、形成されたそのような思念が責任を自己に不可欠のものにするのだ。不可欠にされた責任によってまた次の決意が生まれる。
 ミシェル・アンリの哲学テクストとして「現出の本質」があるが、現出とは哲学上では、ある現象が立ち現れることを様々な要因が複合的に絡まり合い、その結果一つの事態の発現となることを指すが、従来本質とはその背後に隠れていると考えられてきたが、現象学出現以来実存主義哲学においてもそうなのだが、現出それ自体が本質であるという考えが定着してきている。その考えに従えば、責任は一個の現出であり、人間の本質であるとも言えるだろう。そして責任はそのような意識と記憶と感情の三角形において現出するというよりはそれら三つの構図を支える理念として、あるいは生理的な発動という面から言っても、人間の意志を支えるものとして常住していると考えることも出来る。だから海馬によって場所的特定をすることで社会的には自分のテリトリーを弁え、尾状核によってあらゆる社会的行動を恙無くこなすように自分を仕向けている。それら一切は海馬と尾状核の連繋作用を責任として自覚することで我々が社会活動を行っている証拠である。また感情も記憶がなく何の後悔も反省もない事態には生じ得ようもないし、意識も記憶なしには何の現在性に対する特別な認識も生じ得ようもないので、この三角形自体を一つの記憶能力(意識維持性)の全体的な発現と見做すことすら可能である。

Tuesday, November 3, 2009

〔責任論〕第十一章 理解に纏わる困難さ

 理解することにおける困難さ、つまり難しい事柄というものの幾つかのカテゴリーについて考えてみたい。私たちが難しいものと言われて想像することには幾つかのパターンがあるように思われる。本章では暫く責任と離れてそのことについてだけ考えてみよう。
 一つは化学などに纏わる物質の固有名詞が覚えにくいというものである。あるいは元素記号や分子式の持つ他と弁別を巡る困難さである。それは音楽での各種コード(和音)暗記といったものにも共通する要素理解である。固有名詞の覚えにくさは語学での単語の覚え難さと共通している。そして元素記号と分子式の難しさは綴りを暗記する難しさに共通している。これはピアノ等で音階を駆け巡るメロディーの細かい音符配列を覚えることの難しさに共通している。固有名詞の覚え難さとは数学での法則の暗記の難しさに共通しているし、要素理解の難しさは数学での代数での一定の規則を覚える難しさに共通している。あるいはそれが複雑化してゆくと文法的な解釈の難しさに共通している。
 例えば短期記憶レヴェルではなく長期記憶レヴェルへとある記憶を固定化される時、脳内の特定の物質の受容体をオンにして活性化するか、オフにしてブロックするかというような場合、そこに登場する物質の固有名詞とか性質を理解することは困難であるが、脳内の作用そのものに関してはメカニズムは比較的理解しやすい。勿論専門的に理解するという意味ではなく大まかな意味を理解するという意味でである。このような理解内容の大まかな図式理解と、その個々の物質の作用の理解の複雑さとはまた別個の問題である。理解しやすさは大まかな作用全体の図式と、個々の性質ということで言えば、大まかな図式は理解しやすいということが言えるだろう。
 それは音楽の楽曲も大まかな構造は比較的理解しやすいよう作られているものである。名品と言われるものほどそうである。それは絵画にしても同様である。名画と呼ばれるものほど構図とか主張とかは単純なものである場合が多い。しかしそれらのものでも個々の技術であるとか、手法的な習得といったレヴェルではそう容易いことではなく、ある長い経験を要することが多い。
 物理学の難しさとは恐らくメカニズムの大まかな法則と、細かな法則との関連性にあるのだろう。数学は発想転換にある種の難しさがあるのだろうと思う。尤もこれらは私の専門分野とあまりにもかけ離れているので、専門家のご意見を伺いたい。
 つまり固有名詞のように一旦覚えたらそれほど反復の難しくはないものと、単純な論理は理解出来るが、その組み合わせにはある複雑さを伴い、そのメカニズムを理解すること自体にはいつまでたっても難しいことというのはあるのだ。このように理解することにおける困難さは暗記することの困難なものほど一旦覚えたら生涯忘れないものがある一方、そういう個々のことは覚えやすいのにその複雑な組み合わせにはいつまでたっても梃子摺るものもある、というのが真相ではないだろうか?
 理解するということはその困難に思われた内容が、ある現象であるなら、その現象自体に内在するメカニズムを把握することである。しかし現象というものはさまざまであり、一律に全てを同一のメカニズムによって理解することは不可能である。それは数々の事例に遭遇することによって理解される。そしてある程度の経験が蓄積された段階で、数々の事例に対処するあるこつを理解する。このこつこそ自己流ではあるが紛れもなく論理的思考である。
 人間はあらゆる想定され得る可能性を考慮に入れることによって知性と論理を獲得してきた。例えば戦争自体は悪である。しかし戦争をすることが出来るだけの技術が飛行機とかあらゆる交通機関とか宇宙計画(かつてアメリカではレーガノミクスの一環としてスターウォーズ計画というものがあったことを思い出して欲しい。)といった人類の未来を切り開く偉業も生まれるのだ。例えば工場の生産ラインのような場面ではロジスティックスと言われる分野が有効活用されているが、それは兵站学という要するに軍事部門のノウハウを出発点にしている。かつて西田幾多郎は偉大な仕事は強烈なる主観に裏打ちされている、というようなことを言った。それは偉大な仕事をする能力の持ち主は偉大な善と同時に偉大な悪をもなすことが出来るということを意味する。そのことに習えば、天才的な犯罪プランを立てる能力は偉大な善行をもなす可能性を秘めているということだ。
 例えば背徳的なこと、インモラルなことを誰しも想像することは出来る。しかしそれを実行に移すことはよくない。だから我々はそれをいけないことである、と考え行動に移すことを抑制している。しかしそういう抑制には多少のストレスも付き纏うから、時々息抜きにアクション映画を見たりする。しかし動物は恐らく自分の家族とか以外の個体に対して自己防衛以外では他人を騙すということを考えたり、あるいは自分の家族をも裏切るということは考えることがそもそも不可能なのではないか?勿論イルカとか特定の高等知性動物には人間のような想像力を想定することが不可能ではないが、大概の動物では全ての行為可能性について想定することなど不可能であろう。つまりいけないことをいけないこととして自主的に抑制するという能力を持つ人間と、予めそういう選択肢を設定されていない、つまり自主的ではなくそういう背徳を考える能力を付与されていない動物とでは善をなすことの意味が違う。動物はそれを善と認識してなすわけではない。またいけないことをしないでいるのも、それがいけないと考えてそうしているわけではない。しかし人間は善であると考えて行動し得るし、いけないことをいけないことと考えてなさないでいることが出来る。だから逆に理解し難いことで、それが尚且つ理解するに値することである場合と、そうではなくこれ以上それを理解しようと努めること自体を放棄すべきことの判断をその都度つけているのが人間である。だから理解に纏わる困難さの前には二種類の反応を我々は大概抱く。一つはそれでも尚理解しようと努めること(尤も理解してよかった、と思う場合と理解する必要がなかった、と思う両方の結果が待ち受けているが。)、そしてもう一つは理解するに足りない、あるいは理解する必要もないし、理解したくはないということ(背徳的なこと)である。理解に纏わる困難さには理解する行為自体の価値評定が常に付き纏うのだ。
 しかし人間はそのような理解すべきことという認定をそう簡単に手中にしたわけではなさそうだ。少なくとも人類学的な見地に立てば。つまり同一種内での殺害行為の常習があったということもまた考えられている。そうであれば尚更我々は言語獲得の起源を理性的な見地、つまり良心の発動に見ることは根拠を増してくるのではないだろうか?理解する意味のありそうなものとそうではないものを峻別する知性としての理性が、少なくとも言語活動をする人間のその後の進化に単なる知性以上に貢献したのだ。そう考えることは実に自然である。

Sunday, November 1, 2009

〔責任論〕第十章 眼の進化から考える責任認識

 1944年にダニエル・ニルソンとスザンヌ・ペルガーが考案した眼の進化のコンピューター・シミュレーションというのがある。これは眼の進化のプロセスをシミュレートしたものである。ところで私はこのようなシミュレーションを見て考えていたことがある。果たして人間に眼が仮になくて、それは盲目という意味ではなく、そもそも眼がなくても尚現在のような心を持ちえたかということを考えたことがある。例えば眼が見えないである環境で生きてゆくためには触覚を利用するということが挙げられる。聴覚の利用もその一つであろう。しかし脳そのものには可塑性があるから、たとえその内の一つしかなくても尚、生きてゆくうえで支障のないように我々の脳はそういう条件なりに適応して不自由を感じないように生活するための手段を編み出してくれるだろう。しかし眼という存在が仮に視覚的に機能しないで、ただ通常の眼のように二箇所窪んでいたり、あるいは逆に出っ張っていたりしたらどのような効用というものがあるのだろうか?そのことについて考えてみよう。
 例えば眼のある箇所に一箇所だけ眼の代わりになる何かが突起しているか、窪んでいる場合のことを考えてみよう。それは鼻のちょうど真上にあるものと考えてみよう。
 まず窪んでいる場合、その箇所だけが空気抵抗という面から言えば、最後に空気圧に晒される。しかしそこに何もないわけだから、特に有利であるというわけでもないだろう。しかしもしその部分が突起となっていたなら、鼻がある上に更にそこに突起があるわけだから、その突起が鼻よりも更に高いとすれば、まずその突起が空気圧に晒されることになる。そしてその次に鼻に空気圧を受ける。しかしただ顔がのっぺりしているよりは空気に流れを受けることで立体的な外界の映像を想像しやすくなるという利点はあるかも知れない。しかしもし現在の我々のように眼が二箇所、それも鼻よりは少し低く突起状になっていたなら、立体的な触覚は更にスケールアップするだろう。つまり空気の流れを蝕知する器官として二つの突起があれば、真ん中に一個の突起があるよりも数段立体認識を自らの顔で得ることが出来る。 しかも移動する際に向こうからやってくる物体を蝕知するための感覚器官としてそれらを利用すれば、仮に視覚的現像を得ることが出来なくても尚、何もそこに突起がない状態よりは恐らく自己の身体にとって外部的な接近物に対する認識くらいなら容易に察知することが出来るかも知れない。
 私は物理学者でもなければ、生物学者でも、解剖学者でもない。しかしもし私たちが何の疑問もなく利用している視覚情報というものが遮断された時のことを想像すると更にそれでも尚自己身体へと接近する物体を蝕知するためには何らかの工夫をしなくてはならないだろう。そして私が今思考実験したように仮に顔の本来眼のある部分に二箇所突起があるのとないのとでは接近対象に対する認知過程には差が出てくるであろう。ということは用途的な意味では視覚ということは、外部接近物に対する認知という目的を有しているということなのだから、逆にそれさえ把握出来れば、必要最低限レヴェルから言えば、何も視覚的な現像までは必要ないということになる。そしてこう言うことも出来る。視覚の基本的な最低限の条件というものは触覚である、と。
 カンブリア紀の進化の実験場において眼の萌芽が認められるらしい。するともし仮に自然史の偶然によって眼が我々動物の祖先に具わらなかったとしてみよう。するとそれならそれなりに我々の祖先は眼によって視覚的情報を得ることのない別手段によって外部対象を認識する手段を進化させていたであろう。そして視覚情報を得ることで今現在我々が獲得している自己と他者との間での距離の取り方とは異なった遣り方で外部対象認識をしていたであろう。その時には脳内に具わるアフォーダンス注2と呼ばれるギブソンという心理学者が発見した能力を今現在の我々以上に研ぎ澄まし、それをフルに活用していたかも知れない。我々の祖先だけが眼を進化させずに、他の動物全てが眼を進化させるような偶然というものは殆どゼロに近いだろう。もしそうならまず我々の祖先が絶滅していたであろうし、そのようなアンバランスを一時的にでも自然選択が結果させるというようなことはまず考えられない。
 しかしもし我々に視覚知覚能力が与えられていないとすれば、我々が現在獲得している事物に対する弁別性、クオリアの大半が視覚イメージによるものであるが、その代理として聴覚イメージ、そして触覚イメージによるものに置換され、今までにはない微妙なそれらの感覚イメージが表現され、概念化されていたであろう。
 要するにそうなっていたらなっていたで、別段我々は困るということはなかったかも知れない。ただ我々が長い進化の過程で築き上げられてきた能力が損なわれることを我々自身が未知な感覚に置換されることに恐れをなしているだけのことであり、もし我々の「こうなっていたかも知れない」感覚を通常のものとしていたなら、今現在ある我々の感覚の方をこそ代理されているものとして認知し、そうならないで欲しい思っていたであろう。
 再び眼の代わりにただ突起した二箇所の皮膚には、それだけ敏感な神経が通っていたかも知れない。そうなったらそうなったで、その敏感な神経は視覚的知覚には供せられないにせよ、別種の触覚器官と化していたかも知れない。
 しかしいずれにせよ我々の外的な障害物認識、あるいは接近対象の認識が視覚によるものではなしに、そのような内触覚による認知過程であったとしても尚、例えば我々の今現在知覚が視覚に大きく依拠しているがために、映像的現像と内的理解とか要するに目には見えない世界との対比が一層印象付けられているのだが、そのような明確な差異、つまり外部世界に対する知覚、精神的思念との差異のようなものは感じられず、明確な差はないのではないか単純に想像されるが、そうではないかも知れない。つまり視覚を代理する別の触覚がそれ自体で明確であれば、それはそれで精神的思念とは全く別個の心的作用として認識される可能性も大きいからである。
 私たちの行為の責任は外的な視覚的認識に対する明証性によって成立している。あらゆる公的文章、あらゆる外的イヴェントの発生の目撃といった風に、その際の知覚の無名性、つまりそれを見る者誰しもが同一の現象として捉え得る筈だという前提に立っている。しかし実際ピカソがあのようなキュービスム以降の形象をカンヴァスに定着させたのは、彼の視覚が通常の状態ではなかったという説も近年出されたが、もしそのようにしか彼に見えなかった(彼が描いた絵のように)としたら、彼の抽象画の意味も、実は一つのリアリズムであったということになる。しかしそのような知覚現像を我々はただ単に病理的状態と認識する。「あの人の視覚能力は常軌を逸しているのだから。」と捉える。通常の視覚現像によって我々はそれを認知し得れば、字さえ読めれば、あるいはその場に居合わせさえすれば、それを認知し得ないことはない、ということが社会全体が我々に強制する暗黙の責任発祥の場となっている。
 マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で政治家は責任倫理と手を結ぶべきであり、心情倫理ではないとした時、彼は結果主義であるべき政治家にとって善悪の判断とは内的理解(心情としての善悪)とは別個のものとして考えている。そしてそれは同時に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でカルヴィニズムをルター派とは明確に峻別化し、前者を明確な報酬欲求を利用した厳格な結果主義として捉え、逆に後者をより心情的な純粋さを求めたしアメリカのメソジスト派はよりルター派の信条に近いとされる。さてこの厳格な結果主義は、ヴェーバーの謂いを借りれば、「市民的(信徒的なルター派とは違って<河口注>)・資本主義的な企業家の厳格、実直(知らないことを知らないと答え、出来ないことを出来ないと答えるような<河口注>)、行動的な心情に一層親和力を持っていたように思われる」のだ。
 つまり成果主義的な資本主義の倫理をプロテスタンティズムはキリスト教精神を巧みに利用して社会秩序を職業的倫理とかもっと簡単に言えばプロとしての誇りを持たせたのだ。だから彼等プロテスタントからすれば、「純粋の感情的敬虔派は(中略)「有閑階級」のための宗教的遊戯なのだ」として回避すべき信条であり、軽蔑すべきものであったのかも知れない。そしてそのような倫理からすれば、例えば貨幣経済以外の競争社会を想定することとか、要するに哲学的な夢想は全て切り捨ててゆくべき危険思想ということになる。今日のアメリカ社会にはそういう面がヨーロッパよりは強い、と思われる。そしてそういう考え方からすれば、明らかに進化論者や科学者の考える可能世界という様相論理(私が先述した眼のない我々の生活といったような)はやはり危険なものであり、それがあのダーウィンが危険視された創造説外のホモ・サピエンスの発生論的考察を封殺するようなモラルを生むのだ。勿論ヴェーバーはそのこと自体を肯定も否定もしない。しかしヴェーバーの言う心情倫理についてはここでは取り敢えず結論を保留するにしても、少なくとも可能世界に対する認識を持つことは実際の社会に即応した認識を常住させることと共存し得ると私は考えるのだ。それは私たちが通ってきた進化の道を探ることが、実は私たちが辿らなかった道を想定しながらしか本質が見え難い面があるということでもある。
 ところでヴェーバーの捉えたプロテスタンティズムの代理的努力を人間固有のものと捉えていいのだろうか?例えばアザラシの大人は海底に潜って餌を捕獲するが、子供と共に潜る時間も多く持つ。これは子供の成長を見守るという社会行動であると考えられている。それは目的と手段において、同一の手段で異なった目的を有すということだから、何かしら代理という観念があるとも考えられる。そうすると人間の宗教信仰心を職業的努力に代理するような社会管理面でのモラルもまた、それほど人間固有のものでもない、ということになりはしまいか?それは確かに一面では人間の動物的扱いである。しかし動物の場合何かに縛っても、それを守らない個体というものは当然考えられるが、何かに代理して行うことで億劫さを払拭するというような智慧に対してそれを跳ね除けるという意識があるかどうか、そこのところは疑問である。人間には反社会的行動へと導かれるのは、どこか反体制という意識が付き纏う。つまり管理社会と権力に対してある種のアレルギーを抱く。だが同時に自己による固い決心においてはかなりな困難も厭わないという部分もある。そのような意識、つまり強制されることと自主的なこととの境界が動物にあるのかどうかは動物にも自由意志(この言葉はどちらかと言うと私は嫌いだ。誤解を生む恐れを常に抱いている観念だ。)を認めることになる。動物が自由意志ということになると利己的行動の占める割合が大きいのではないだろうか?尤もイルカのような知的な動物には人間に近い強制と自主の相違があるのかも知れないが。
 ところで強制と自主の相違を理解出来るということは、先述の「現実世界の進化の様相」と、<そうではなかった場合>の「可能世界の進化の様相」という思念を理解出来ることに繋がらないだろうか?強制されることというのはある意味では責任を伴わない。しかし自主的なことというのは責任が加重される。そしてそれを承知で履行することが自主的であることである。そしてそこに真の自由を発見するのが人間である。さて現実を直視する知覚と観察と立証には説明責任としては科学的データ主義なので、明らかにその正確さにおいて責任は問われるが、差し出されたデータ数値そのものは現実の側に責任(?)がある。しかし可能世界は実際にはそういう世界は顕現され得なかったのだから、その現像を描出することにはその可能世界(先ほどの例で言えば私が人類に眼がなかったらと仮定したような)を仮定した私の仮説並びに「ありそうなこと」の真実味の持つ私の説得力は私に責任がある。可能世界を堤示した私の比喩が適切ではないという批判が差し出される可能性も十分にある。つまり自主的であることを強制的であることと峻別し得る能力とは想像した可能世界を他者に説得することの出来る能力、つまり真実味を持たせる能力に繋がることになる。
 するとアザラシの海底潜りはたとえ子供の成長を見守ることであれ、自主的であるよりは本能的な行為であることになる。あるいは人間もまた子供を愛することは自主的なこととは違い、やはり本能的なことなのだろう。しかし強制されて嫌だと感じることと、自主的であることなら(それは結婚とか就職とかに関してさえ)価値があると感じることは、たとえ子供を持った時には他の動物同様の本能を発現させていてさえ、生の時間の在り方そのものは質的にかなり違うものとなるのだろう。
 そもそも動物は本能的なことを強制とは感じないだろう。強制的であるという認識は一方で自主的かつ自由なという観念を必要とするからである。例えば仮に先述の眼のない人間の、眼の代理としての二つの突起物と人間の付き合いを考えてみると、突起物にはそれ以外の鼻を除けば神経線維が集中してくるから光に対する、つまり光が発する熱に対する感受性が鋭くなるだろう。しかしそれは眼を持つ我々が視覚情報に頼るという事実そのものと同様自主的な事実ではない。しかしそれは強制でもない。強制というのは眼で確認したいのに、眼を瞑らされることである。勿論自主的な強制というものもあるし、強制的な自由というものもあるだろう。我々が自分で自由であると勝手に思っている大半が強制的な自由である場合も多いからだし、また真に自由であるということは欲求に赴くだけではないカント的な自主的な強制であるかも知れないからだ。しかし少なくとも自主的であろうとする価値倫理と、強制的であると感じるある種の諦念は人間固有のものかも知れない。
 人間はカントが感じたような意味で本能的な衝動を強制であると考えることが可能なのだ。他率(律)と彼が呼ぶもののことである。だから人間は仮に自分の子供が犯罪をしたとして、それを知って警察に捕まることを防ぎ、子供の罪を発覚しないように画策して尚、それは倫理的にもよくないことであり、子供に罪を償わせることが正しいと判断したとしたら、それは本能的な子供に対する外部強制力を排除する大人の本能とは別個の判断を、つまり本能に拮抗するような意志決定をなしているということになる。そういうことが果たして動物に可能だろうか?
 そして本能に拮抗し得る行動に対する価値規範こそ責任を起源にするものである。本能の赴くままに行動することはそれがたとえ攻撃欲求ではなしに、愛情に溢れ家族や仲間を守ることにおいて発揮されていてさえ責任とは無縁である。自己にとって大切なものでも、その事実が他者の迷惑になるのならそれを諦めること(それが子供に対する愛情であってさえも)が責任の基本的な性格だからである。
 資本主義倫理においては貨幣経済外の競争社会という仮説は夢想でしかないのだろう。だからそれは眼がもしなかったならという観念を抱くことをも一面では危険思想の部類にするかも知れない。しかしアンチノミーというような思念もまた哲学や論理学では有効な手段の一つであるが、科学的思考においては資本主義倫理外の効率性というものに対する認識もまた全く無意味ではない。もしそれら一切が許されないとしたら、我々は経済活動に奉仕する仕事以外の一切を放棄するしかなくなるし、地球の百万年後というような推測も無意味ということになるだろうからである。