Saturday, June 21, 2014

シリーズ 愛と法 第九章 愛とエゴイズム続編Ⅱ

 愛は甘えへと転化しやすい。その典型的例が映画『それでも夜は明ける 12years a slave』で描かれていた。 アメリカ南部の奴隷制時代には北部で自由黒人として生活している人達とは無縁に依然奴隷としてしか黒人を扱わないという不文律があって、それが結局後日南北戦争の誘因となるのだが、ニューヨークで生活していた自由黒人の男性を南部に拉致して奴隷として働かせる様に仕向け、奴隷商人から報酬を貰う為に誘拐する事件等もきっと当時かなり多く在ったのだろう。それをこの映画は題材にしている。しかしこの映画で重要なのは、主人公が再度自由を取り戻す事にあるのではなく、奴隷としての生活を余儀なくされていた時期の主人公へ生きる希望を見出させる奴隷女性の存在である。
 彼女は堅い格式に縛られて育った奴隷主の白人男性の妻が夫へ提供する癒しを夫である男性自身が感じられず、精神的にも奴隷のその女性へ依存している事が映画的にも重要なテーマだった。当然異性への眼差しを持つ自らの夫の不貞相手という意味でもこの黒人奴隷女性は奴隷主の男性の妻からも虐待を受ける。思い余った黒人女性から主人公の元自由黒人として一般市民生活を営んで来ていたが拉致されて奴隷の身に甘んじている男性は自分を殺してくれと依頼される。勿論主人公は断るが、彼女がやっと自由黒人としての証明書を持って北部から現れた白人の知人に連れられニューヨークに戻るその瞬間、生きる希望の光であった奴隷同僚である主人公が去っていく前に熱く抱擁をするが、片や自由を獲得して綿花畑から去っていく男性と対照的に残された女性は映像の左隅に小さく頽れる姿が映し出されていた。彼女の未来は再度絶望の淵に立たされ続けるだろう。その意味でこの映画の結末とは、自由への日々は未だ遠いという暗示ともなっているのである。
 奴隷主の白人男性は肉体的にだけ黒人奴隷女性へ依存しているのではなく、明らかに白人に課せられていた当時の南部のノブレスオブリッジに対して逃避的気分に拠り自らが管理する奴隷へと精神的に依存していく様が描かれていた事がこの映画の本質だと思われた。
 精神的甘えとはこの様な特殊な歴史的経緯を持つアメリカ南部だけでなく、現代でも存在するだろう。つまり自らは愛と信じて疑わない多くの夫婦や親子の間でも精神的甘えが何等かの現実での葛藤や矛盾や障害からの逃避という形を取って顕在化している、という例は観られるかも知れない。 LGBTという概念規定自体がそうである。
 そもそもレズやゲイでしかあり得ない様な精神状態とかジェンダー的な自覚で生まれて来た人達(彼等彼女等はそれはそれで色々と精神的にはきつい面も現代社会にもあるだろうが)だけでなく、人生経験の途上で異性との出会いで躓く人達は大勢居て、彼等彼女等も又後発的な経験依存的な精神的な失望、つまり異性と共存する事自体の失望を味わう形で後天的にレズやゲイになっていく事は考えられる。又それだけでなくそもそも人間はヘッセの『デミアン』やエドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』でも描かれていた様な意味で同性の気になる存在は思春期以降死ぬ迄誰にとっても大きな精神的な関心事である。そして生涯憧れてしまうタイプの同性とは存在する。只その事実をどれくらい深刻に受け取るか、それとも受け流せるかに拠って同性愛へ行くか、其処迄行かずに踏みとどまるかが決定されているに過ぎない。
 と言う意味では、バイセクシュアルとは異常性愛的なメンタルな状態ではない。寧ろ全人類的に持つ精神的傾向でもある。
 トランスセクシュアルは古い言葉で言えば(ふたなり)等とも言って、両性具有的な生殖器保持者は(私は生殖生理学者ではないので、どれくらいのパーセンテージで出現するか迄は知らないが)一定程度どの時代でも存在する。彼等の持つ精神的問題とバイセクシュアルの持つ精神的問題は大分異なっている。 にも関わらずLGBTという形で全てを一緒くたにしてしまう処にある種の現代社会での臭いものには蓋をせよ、という暗黙の発令を私は感じ取ってしまう。
 今から振り返ってみても、マーティン・ルーサー・キング牧師やマルコムXを登場させたアメリカ合衆国史に於いて、精神分析対象とされるべきは当時の白人達でもとりわけ精神的に黒人奴隷女性へ依存していた男性達である。そして確かにオバマ大統領の登場に拠ってアメリカは黒人奴隷制の時代の社会矛盾を解消したかに見えるが、内実的には精神的な依存とか甘えの様な収拾不能なメンタルなメカニズムを解明する迄に至っているとは言えない、という事は、巨大資本の金融企業体やウェブサイトビジネス等の世界の成功者達と、失業者達との二層構造へと分岐していく社会様相で、成功者自身が中間層(激烈に減少しつつあり、貧困層へ転化されている)以下の人達へ精神的に依存しているのかも知れない、という自由資本主義文明国の持つ必然的な精神的矛盾があり、それが益々資本主義マネーゲームプレイへと国家や社会全体を駆り立てている様に思われる現況では確かな事である様に思われるのだ。
 だが本ブログの存在理由は社会構造とか世界経済矛盾自体を摘発する事にあるのではない。あくまで問題とされるのは、人間心理の中にある迷いや矛盾への割り切れなさがどう社会倫理や社会進化過程に参与しているのか、という部分である。
 成功者とは一度社会的信用とか信頼とか他者からの尊敬心を得てしまうと、それを如何に長く持続し得るかだけが至上命題となっていく。その過程で彼等に必要となるのは、積極的に非成功者、経済力的な意味での敗者達なのである。そして彼等が何時迄も自分達の様にならずに、下層的な市民層の中で狭い範囲で旋回していてくれる事が理想となる。つまり彼等から尊敬され一目置かれる為には、自分達以上の成功者を彼等の中から出さないという事以外ではない。そういう風には絶対に示す事はないが、内心でそれ以外に自分達の外部から得るカリスマ性を維持し得る道はない。この部分では黒人奴隷制自体が撤廃されても、ビジネス成功者や経済的パワー保持者達に拠るハヴノットへの精神的深層的依存とは明らかに世界全体を支配している。
 そういう暗黙の了解においてこそ世界経済とか世界の治安の安定(それは実際には今はシリア、イラク等で実現されないという事を証明し、恐らく今後も何時迄もシリアやイラクが安定化すれば別の諸国が不安定な状態へと突き落とされるというもぐら叩き促進的な状況は変わらないだろう)を辛うじて必要である、と世界市民が同意している(その証拠にアメリカが厭戦気分となり、各地で多発するテロリズムを抑制しようと軍事的に動かぬ限り益々世界で内戦が頻発する状況は明白化している)。
 そしてそういうストイックな常に暫定的な内戦防止維持でやっと世界的安定を得られるのだと知っている現代人は、益々同性愛的精神的依存傾向を強めていくだろう。つまり最終的にレズとかゲイではないという事が実際に性行為へは赴かないという最後の一線を死守するだけで、結婚して子供が居ても、独身でも相手が結婚していようがいまいが、精神的には益々友情の延長戦である同性同士の信頼が、相互甘え実現態としての慰安を深層的には積極的に望むという傾向は強まっていくだろう。そもそも全てのチームプレイで臨む集団のスポーツ〈サッカーでも野球でもバスケットボールでも〉での同性のプレイヤー同士の信頼関係の中にもそういった同性愛的傾向は読み取れるし、銀行やメーカー等のチームプレイでも共演する役者同士でもそういったメンタルな甘えや依存は読み取れる。
 そもそもライヴァル心とか敵対者という発想の中にもバイセクシュアル的、ゲイ、レズ的側面はあるのだ。だからこそそれでも尚現代でLGBTを命題化せざるを得ないという問題意識の停滞的リアルこそが、我々の内実的なバイセクシュアル的なメンタリティが誰しもに内在しているリアルを本格的に分析する事を旧態依然的なモラルが阻止しているという事実を逆照射しているものとも思われる。
 次回は精神的甘え、今回述べた共依存関係(成功者は下層市民層へ、下層市民層は成功者をカリスマ的に偶像化する事で成立している)が言語的にどういう影響を我々の生活で与えているかを考察してみよう。
 付記 何をLGBTとするかという判断自体に、管理者側のエゴイムと、自分達は正常であると思いたい、そして彼等と括る事に拠って精神病理学的にも生殖生理学的にもアブノーマルな人達を設ける事で、自らは安心を得たいという事、つまり共依存、無意識の甘えが立ち現れている、と言う事も出来る。