Thursday, November 27, 2014

シリーズ 愛と法 第十六章 種と愛の在り方④ 情と愛はどう違うか?Part2 理と法(1)

韓流ドラマでは情を重んじると言った。それは宮廷がより両班の利権と権威を重んじる余り平民以下(奴婢も含めて)への差別意識が強かったが為に、それにも関わらず心医(ドラマ<ホ・ジュン>)は宮廷の御医(王族の為のかかりつけの医師)をテーマとしたものであり、しかし医師とはそういう権威や権力の為の道具であってはならず、あくまで人民の為に誠心誠意尽せという主張となっている)が金銭を取らずに一般平民や奴婢迄診療したという事で一度は徹底的に宮廷の体罰を受ける設定となっている。しかしホ・ジュンは一切金銭を取らずに診療したので、地位や名声を求めての行動ではなかったという事で体罰に耐えた事で却って人望を得る物語となっている。其処で重要なメッセージは法に逆らってでも理さえあればそれはヒューマニズムであり理性的判断であるという事だ。それはホ・ジュンが理を通し、賄賂を使って診療する順番を早くして貰う等の一切の誘惑に打ち勝っているという描写で示されている。
つまり理とは法より重いという主張が其処にある。事実法はそれ自体権力者や権威的な腐敗に拠って捻じ曲げられ、必ずしも正義的なものでない場合も多々あり得るからだ。
しかしそれでも我々は情と理が結び付けば、それはかなり説得力のある行為であると認識し得るも、アメリカ合衆国ミズーリ州ファーガソンで起きた白人警官の黒人18歳青年射殺事件での公判で警官が不起訴となった事でロンドンでも同じ様な人種差別的射殺事件があったので五千人の市民が不起訴処分を不当と訴えるデモ迄起こしているが、日本では其処迄するという事はない。それは日本では(勿論在日韓国人への差別等が有り、それなりに民族問題はあるものの)黒人が多く居住して白人から差別を受けるという様な歴史自体がなく(日本人は格段黒人を差別する意識が多く在る訳ではない)敢えて外国の事例に対して抗議をするモティヴェーションが無いと考えている人達の方が多い、という事を意味する。
しかしイギリスは確かにアメリカと使用言語も同じだし、歴史的にも血脈的な繋がりもあるし、事実黒人奴隷を輸入したりしてきた(リヴァプールがそうであり、ビートルズの曲で有名なペニー・レーンがその地だった)ので、ロンドンで抗議デモをする事には意味があるのだと思われる。
だが面白いのは、その様に自分達とは関係ない事にはいらん口を差し挟むまいという日本人の判断は、では理性的であるかと言うとそうとも言えず、それは只単にエゴイスティックにドメスティックであるだけであり、功利主義的な判断であるに過ぎないだろう。又その様に日本人の存在自体が欧米では観られるだろうという事も想像される。だがそれなら同じ様にロンドンでは行われるデモが北京やソウルでは行われない事も論うべきかも知れないが、当の欧米人が中国や韓国は又別の文化圏だと勝手に思っている可能性も在る。
情と理が結び付いたら確かに法のいい加減さをも克服する、超越すると仮に結論づけたとしても尚、情と理の接合のさせ方もだし、情自体の在り方、理自体の在り方がやはり民族間では差異もあるし、国民性も反映する。その点では日本人には日本人の情と理、韓国人には韓国人の情と理、アメリカ人やイギリス人には彼等なりの情と理というものがあるのだろう。
だがそういう風に言えば何となく納得してしまえるとしたなら、やはりユニヴァーサルな情と理というものも存在し得るという事になる。
それは前回示した地震や津波で赤ん坊を背負う母親は子供をまず守るべきであるが、それが出来て尚余力があるなら(津波が目前に迫ってきている様な場合以外では)隣人や見知らぬ通りすがりの他人でも危険を察知したら教えるとか互いに協力し合うべきであろう。そういった意味では倫理的には韓流ドラマ<ホ・ジュン>の描写の様に診療して貰う順番は賄賂や顔で何とかすべきでなく、あくまで来た順に並んで待つものだという公的なマナーが理性論的には正しく、それを逸脱する事は如何に私的には我が子を優先させたいという情があっても許されるべきではない、という意味では理と法がもし接合され得るなら、それが常に順当な判断だという事になるだろう。
その点では国民性とか民族性というものとは別個に成立し得る正義論が在り得るだろう。宗教的伝統の差異はどの民族や国家にも在り得るが、そういった極基本的な事ではどの宗教でも同じ事を言っている筈である。
日本人がロンドン市民がイギリスでも起きた似た事件の被害者である青年の両親も立ち上がり、アメリカ人の被害者の青年の両親と協力し合う等の事は自然な成り行きであるが、日本人にとってはそうではないと日本人が思っているという事が、文化差、歴史差というものを我々に実感させる。
でも日本人も又射殺されたのが黒人であり、白人は黒人程は射殺されないのではないかと問い、事実がそうであるとしたら、其処にある種の理不尽を発見し得るという意味では日本人なりに何となく情というもののユニヴァーサリティだってあり得るのではないか、と思考するだろう。それは欧米人が色々な可笑しい文化伝統的であっても日本にも隣の韓国にもマナー遵守とそれに伴う差別や生活レヴェルの格差があるなら、それは可笑しいとか理不尽だとか思うだろう様な意味では、確かにユニヴァーサルな倫理論は成立し得ると言える。
私的である事は常に許されない訳ではない。勿論自らの家族が危機的状況では全てにそれを優先すべきである。しかし職場に居て給料を貰っているなら、それは全うすべきであり、私的な事をその場では捨てるべきである。だからどうしても私的な事を優先すべき時は職を辞して、そちらを優先すべきである。そうでなければ社会全体へ迷惑をかけるし、社会に損失を与えるからだ(此処等辺は哲学者中島義道も多くの著書で展開させている)。
責任倫理とはそういう事である。
だが人種差別自体がイギリスやアメリカの様なタイプのものとしては存在しない歴史の国々で同じ様にミズーリ州ファーガソンで起きた事件に対して抗議デモをする事は確かにヒューマニズム以前的に法的以前的に、既に内政干渉という事になってしまうという判断が無意識に日本人にも働いているとしたら、それはそれで全く無根拠でもない。やはり成り行きを見守っていくしかない。しかし全くアメリカともイギリスとも日本は無関係ではない以上、そういう風に注目していき、それなりに自分なりの意見を各自持つ事は必要であろう、と言い切れるなら、それこそが倫理的なユニヴァーサリティであり、そのユニヴァーサリティが理であり、その理を我々がイギリス人やアメリカ人とは違う立場から情的に結びつけるとしたら、それは彼等とも意見交換し得るものの見方であろう。しかしそういう機会を持てるのなら、逆に英米人とは全く無縁の日本固有の問題に就いて彼等が意見する時は真摯に耳を傾ける必要だけはあろう。
それを見失ってしまえば現今の対中国や対韓国の日本外交の遅滞・停滞と同じ事態をそれ以外の国々(今挙げた例で言えば英米の国々)との間でも齎してしまうだろう、という事だ。

シリーズ 愛と法 第十五章 種と愛の在り方③ 情と愛はどう違うか?Part1

 韓国哲学研究者の小倉紀蔵に拠れば韓国人は法より情を重んじる、という事だが、それは韓流ドラマを観れば主人公の行動が必ず情で法に背き、其処で制裁を受け、しかし観ている鑑賞者は皆情を捨てられない生き方を是とする様に作られている事からも、彼等韓国人の深層心理には法にだけ縛られる事を潔しとしない世界観が大きく支配している事だけは分かる(その顕著な例は今放映中で佳境にある『ホ・ジュン』であろう。其処では心医という語彙が使われている)。
 しかし人は確かに人事(ひとごと)であれば、責任やその履行を最優先に主張し、それを果たさぬ者を揶揄するけれど、それが自分に課せられた責務であるなら、その履行が如何に大変かを悟り、同じ立場に立たされた他者へ同情も禁じ得ない。そういう意味では当事者にしか分からない相互の情というものは存在し得る。
 そしてそれでも尚責任を履行しない事へは自ら戒めを抱くだろうし、同じ様に戒めを持ち自己を律する他者のみを情で観よう。しかし仮に責任を履行し得ない他者に対して情で見ないで責任倫理だけで判断しても、相手にもそれなりの事情もあったのかも知れない、という意味では人間はかなり自らの主観で許せる相手とそうでない相手を恣意的に選別しているという事も分かる。
 所詮人へ厳しいのも、情で接するのも主観であり恣意的なその都度の判断でしかないと知れる。其処でそれなら、寧ろ相手の立場を自分で理解し得る・し得ないで判断するのでなく、全て一緒くたで判断して、法を守る者は如何なる他者でも等し並に正しく、そうでない者も等し並に正しくないとして接する以外にない、という判断が一番正当であると思えてくるのだし、それは確かに理性論的に正しい。
 情は法より重要であるとは確かに責任倫理的には言えないし、それは端的に謝りである。しかしにも関わらず時と場合に拠っては法だけが全てであるとは言い切れず、一切の情を注がない事の方が悪であると判断せざるを得ない事もある。
 民族とか国家もその一つであり、同胞という意識自体も全く常にそれだけを最重要命題にする事も現代グローバル社会、世界的視野からは正しくはない。にも関わらず誰しも特定の国家に属し、民族を有している以上、同胞同士協力し合わないでいるだけなら、非難されて然るべきだという判断も、それはそれで正しい。
 結局相手が外国人だから何があっても知らん振りという事も許されないが、同胞だからと言って一切手加減もしないという事は客観的に正義や法の前では正しくても、人は確かに法にのみ従順で、法順守だけしていれば、後はどうでもいいという事もない、という視点からは決定的に言い得るし、正しい。
 相手が外国人であれ民族的な同胞であれ、妻であったり夫であったり、要するに家族としてパートナーであるなら、やはり身内同士で助け合うべきだし、そういう時に公的客観的基準を持ち出すのはやはり可笑しい。と言って一切私的な関係でだけ助け合い、それ以外何も他人とは協力し合わないという生活態度や姿勢では社会的態度として適切であるとはやはり言えない。
 結局どういう場合に私的な事を優先し、どういう場合にはそうであってもいけないのか、という事に帰着する。それは結局国民の義務を果たしているのかとか、社会成員としての義務を物理的精神的に果たしているのかという判定から、それをしているなら、それ以外の事では私的な事、身内、親族も含めた血縁的関係、要するに家族を優先してもいいという事になる。とりわけ親子関係に於いてそうである。
 だがその親子とか血縁関係でも同僚とか同業者とか、要するに他人であっても、何処迄私的な事を優先すべきか、何処迄公的な事を優先すべきか、という事も実際民族毎にそのケース判定は微妙に異なるだろう。集団や組織を優先すべき場面が民族や各国民に拠って異なる、という事は大いにあり得る。それは社会行動とか社会判断でどういう風にするべきかが民族や国民毎に大幅に異なるという事がある以上当然である。そして其処では大いに民族史、国家史、要するに宗教的不文律から、日々の生活感情と不可分な文化的感性が其処に大きく立ちはだかっている以上、文化差、民俗学的差異は決定的にリアルには大きい、と言える。それを前回、前々回に私はそれなりに整理して考えてみたのである。
 だが民族や国家帰属性を離れても判断し得る部分も当然あり得る。しかし豚肉をイスラム教徒に強制する事も出来なければ牛肉をヒンドゥー教徒に強制する事も出来ない。或いは日本の様に法的に拳銃等の銃器を所持する事を許さない国の市民にアメリカの全米ライフル協会の理念を理解せよと強制する事も同じ様に出来はしない。
 だからそうなると結局ユニヴァーサルに相互に理解し合える範囲とはかなり狭まってしまうとも言えるだろう。しかしだからと言ってユニヴァーサルな愛と法の倫理が狭く矮小化された観念しか生み出さないともやはり言えない。
 それは考えていく必要がある。そして今回韓流ドラマで情が法より観念的民族思考的な正義論では優先されるという事を例証したが、では情は韓国人の特権なのだろうか?やはりそれも違うと言える。
 ドラマで頻繁に描かれるか否かより、そういう内容のドラマでも凄くいいものであるなら、どの国民でも理解し合える(例えば『おしん』は日本ドラマだが、かなり広範囲に世界中で親しまれ理解された)とも言える。
 其処で危機的状況(地震や津波等)に陥った時他人も家族も助ける事が出来ない場合には、やはり家族を優先してもいいのではないかという想念も沸き起こる。しかしそれを優先しても尚、他人とも協力し合うべきだし、同一の運命で共有し合わねばならぬ状況では家族同士だけで結束していればいいのではなく、やはり他人とも協働すべきだし、情報交換し合うべきだという点ではユニヴァーサルに一致する見解が持てる様に思える。少なくとも赤ん坊を抱いた母親が津波を目前にした時赤ん坊をまず助ける事を優先する様な場合以外では、極力他人も同じ臨場に居合わせたなら相互に助け合うべきであろう。
 この点では許されるべき私的な咄嗟の行動と、そうでなく咄嗟でないなら極力他人とも協力し合い、助け合うべきだ、とは言えるだろう。
 次回は今回最後に述べた私的であっても許され得る状況とそうではない状況をもう少し踏み込んで考えてみよう。

Sunday, November 2, 2014

シリーズ 愛と法 第十四章 種と愛の在り方②

聖書では「はじめにロゴスありき」と記されている。キリスト教は多分の言語唯一理性ツール主義と言える。事実アメリカ人の母親は世界でも最も赤ん坊をハグしないと言われる。赤ん坊へスキンシップで愛情を示すのは東南アジアやオセアニア等では多いかも知れないが、欧米で同じ様にそうであるとは言えない。この事一つ取っても欧米社会が言語理性的正義を命題化させている事が分かる。
アメリカ軍が終戦後日本に駐留していた時代ミステリアススマイルと日本人の笑みを称したのは有名である。それから約七十年が経った。しかし確かに表面的には日本は欧米型の社会に移行したかの如き様相である(マスメディアや資本主義自体はそうである)けれど、赤ん坊へのあやし方等では異なっているだろうか?それはあくまで地方部の事で都市部ではそうとも言えないと言えるだろうか?
実際には赤ん坊をハグする風習自体もかつて程ではないかも知れない。しかし身体感覚的には日本人はやはり決定的に欧米人とは違う。
神道のお清め、お祓い等は死を穢れとして捉える思想が根源にある。それは道教でも同じであると前回述べた。その発想自体が日本民族の感性が言葉正義論ではない事を示している。空気を読む等の感性は言葉化され得ないものの方を重視する感性と言える。日本人はロゴス主義的ではないが故に弁解とは見苦しいものと社会的通念としてはされる。
つまり日本人はこれだけビジネス優先的社会へ移行しても尚、言葉的ではないもの、つまりロゴス的な言語自体の普遍性とは別個の感性を重視する民族だと言える。
他方キリスト教ではあくまで人間主体の正義論が展開される。キリスト教徒は自分を進化論的な生物種、動物と同祖を持つ生命体とは捉えない。それは生物学者だけである。
キリスト教は人間が特別である。人間中心主義自体が神をも支える。従ってもし仮に此処で全ての生物も使命を全うする事を目指し、そのユニヴァーサルな価値としては対等だと言ってなら、 その者は進化論者ではあるけれど、人倫主義者ではないと見做される。これは宗教だけでなく哲学の徒も同様である。思想哲学宗教は全面的に人間中心主義である。その点ではルネッサンスの文藝復興運動自体も同様である。そして自然科学はその礎の上に成立する。
又キリスト教は一方では愛を隣人や敵へも注ぐが、イエスとその弟子達とは別格扱いとなっている。要するに聖書とはイエスとその弟子を家族愛的に結び付けられたものとして別扱いにしているのだ。この点では日本にキリスト教を移植した明治期の新島襄とその同志社大学の熊本バンドを中心とする人達にも受け継がれている発想である。 異教徒infidel、misbelieverとは異教徒でしかない。従ってユダヤ教の選民思想はキリスト教では階級制的家族主義へ移行している。
しかし仏教では修行に拠る悟りのレヴェルに於いて当然階級は成立する。解脱も涅槃も一つの悟りの境地であり、それは体得者同士にしか分からない事である。その点では仏教も又当然の如く階級制的である。
と言うより宗教とは必然的に階級制的にならざるを得ない部分がある。表向きの平等主義とは相反して宗教活動実践者同士では厳然とそうである。 その意味では他民族、異民族、異教徒を差別しない純粋にグローバルな宗教等世界に一つもない。しかしその事実は裏を返せば、その閉じた仲間内でのドメスティシティ自体はある程度どの宗教にもある訳だから、その点でのみユニヴァーサルである。
愛は確かに一方では宗教的な慣習性とは別個の理性論に拠って習俗文化を超越する。しかし私自身は日本人であり、死ねば土に還るという発想も色濃く持っている。これは日本での仏教風土的感性と言ってよい。恐らく欧米人にはないものである。日本人には逆に弁証法にせよ論理思考にせよ、所謂欧米人的な哲学論理思考自体が文化的にはない。
従って愛の在り方とか愛を論じる仕方も欧米人と日本人一般とでユニヴァーサルに理解し合えるとは限らない。
宗教的死生観が異なれば当然社会倫理的な色々な意味での通念や不文律も異なってくる。当然その不文律自体の考察や分析はユニヴァーサルに行えるだろう。しかしそれはあくまで学者や研究者間の中でのみである。つまり愛はそれ自体ハグし合う習慣がある欧米とそうでない日本(欧米では赤ん坊をハグする事は少なくても、大人同士は逆にハグし合うし、その点では五輪等に出場する海外経験の豊富なアスリート達以外は日本では今でも他人とハグし合う習慣はない)とでは当然セックスの感性も異なってくる。性愛自体が文化習俗的な感性に彩られていると言える。
それでも国際結婚もあり得るし、ビジネス上ではあらゆる異なった文化圏と交流しなければいけない現代人は常にドメスティシティとユニヴァーサリティというダブルスタンダードを理性論的に携えていかなければならない。
国際政治では愛はマララ・ユスフザイさんの様な人倫的演説でしか把握出来ない。しかしユスフザイさんが女性へ教育を訴えても、尚イスラム教の文化習俗自体は消滅しない。アメリカでも南アでも黒人は白人とは異なった文化ルーツも持っている。ヒスパニックも又白人とも黒人とも異なった文化背景がある。そういった異民族同士が共存し合うという事実は、我々に愛の普遍性を考えずに済ます事を許さない。だから逆に愛を文化習俗的異性から法それ自体が民族毎に多様であると捉える処から論議を進めていくしかないとも言える。
此処で一つの結論に達した。愛の普遍性を論じるには、法の個別性と個がどう向き合うべきかという事に尽きる、という事である。
次回からは法の個別性が愛の普遍性へ抵触し得るか、もしそうだとしたら、どう考えたらよいか、を考えていこう。

Monday, October 27, 2014

シリーズ 愛と法 第十三章 種と愛の在り方

 重要な事とは、私達は普遍という事を念頭に生きていく訳ではないという事だ。普遍とは私達一個一個の個にとって具体的であらゆる固有の条件を背負って生きていく上で人生の途上の何時か何等かの瞬間に悟る様なもので(と言ってそれは何かそういう価値あるものとして見出さなければいけない様なものでなく)、悟る事に拠って生きていく上での自信とか安心を得るだけの事であり、例えば私なら日本のある場所に生まれ其処に何年か居て別の場所へ引っ越しという様な極めて具体的な私自身が幼い頃には私自身の力ではどうにもならない外部からの強制に拠って、その限定的条件の下で成長していかざるを得ず、その固有の条件自体へ好き嫌いとか不平不満等言い様もないものである。
 つまりそういう風に誰しもが付与された(付与する者が神であれカミであれ仏であれ何であれ)固有の条件下で我々は生きていくとは何かを自分なりに見出していく他あり得ず、普遍が最初から与えられている訳ではないという事だ。
 日本では前世、来世を論う仏教は奈良時代に定着していった訳だが、遣唐使等の施策以前的に国家規模の統一を図るものは神道だった訳だが、神道は現世的宗教であり、死者を穢れとして捉える。従って天皇等の古墳(墳墓)は須らく生者の近寄っていくべき場所でなく、死の穢れを鎮める意味合いがあり、神社でお祓い等の祈祷をするのも、当然の事ながら死への穢れを祓う意図のものである。死者の鎮魂や供養は仏教が担ってきた。それでも日本では神仏混淆であったが、明治政府に拠り神仏が分離される運びとなって現在へ至っている。
 対し台湾では明治政府的な神仏分離的意図が政府に拠って為された事がなかった為に江戸期以前の日本同様、神仏は今も混淆的である。しかも中国では毛沢東の文化大革命に拠り仏教寺社等を破壊して無宗教的国家へ再生されたので、今ではそれ以前の中国の宗教伝統的文化の名残は却って台湾か香港に残存するという訳だ。
 中国大陸では長江(揚子江)を境にそれより北では仏教が、それより南では道教が一般的に文化的に強く、道教では神仙思想と老荘思想とで役割分担され、前者では大極という中心(渦巻き的システム。此処等辺は極めてワトソンとクリックの二重螺旋を彷彿させる)を持つ陰陽五行等(日本では安倍晴明に拠る陰陽師として継承されてきている。神戸に唯一道教の寺がある)の風水等の方位学的知見等を生んできた訳だが、日本の神社でも大きな建物を神宮と称し、それ以外を神社としている様に台湾では、大きなものを宮、小さな一般的な神社的役割のものは廟と称している。
 仏教はそれ以外でも台湾でも存在し、その点では明治政府神仏分離以前的な日本と今の台湾は酷似している。
 宗教伝統的格式とか風習とかは好き嫌いを問わずどの国でもどの地域でも誰しもが幼い頃から自然と身に付けており、それは個人の選択以前の問題である。個人の自由意志とか選択とかは、あくまでそういった強制的などの自己にも課せられる運命的な条件(生まれてくる時に男女とかトランスとかの条件がある様に)を付与され、誰しもがそれを背負う形で成長していく過程で理性とか道義とか正義とか倫理とかを学ぶ内に自ら掴み取っていくものとして後発的に意識されるものであり、その理性的な判断とは、あくまで誰しもが逃れられない個に背負わされた、付与された固有の条件というものの上で成立するものなのだ。
 田辺元はその事に就いて師の西田幾多郎からの教えや訓示以外でも懊悩し、『種の原理』を著したが、それが戦争を正当化する軍部に利用され、その事実への贖罪心理から戦後直ぐに『懺悔道の哲学』を著した。だが彼の内部での信念は理論的な意味で種という発想自体を否定するものではなく、あくまでそれへ軍部利用されていったプロセスに内在する自分自身のどうする事も出来なかった運命へ必死に懺悔に拠って抵抗を試みたと言う事が出来る。
 田辺が大きく後年啓発されたハイデガーは既に田辺的な観念には若い頃に到達していた。田辺はそれを発見する事で、ハイデガーと自分とを比較検討したりして、最終的にはハイデガー批判をも兼ね備えた理論と論理へ到達した。
 ハイデガーは『存在と時間』で既に今日の分析哲学が現象性として考える個の他者との間のどうしようもない孤絶性を死というものの主体にとっての逃れられなさと、他者から介入される事の無い事を、唯主体的な責任付与的運命の下に描出していた。
 その後の著作である『現象学の根本問題』ではその主体の運命を実在論として存在論として、本質存在(エッセンティア)と事実存在(エクシステンティア)という風に二分させ概念設定する事でその主体の運命的な条件と生きるという事の真理を見出そうとした。ハイデガーは愛という様な語彙は使用しない。哲学として存在論としてそういう判断を哲学では保留するという事が一つの哲学者固有の自己判断であり倫理である。科学者も今度は倫理それ自体を論じないという倫理がある。それは科学者の領分ではないという自覚に拠ってである。
 つまりそれこそが主体のどうしようもなく背負わされた運命であり、固有の個としての条件であり、普遍は或いはその逃れられなさに於いてのみ誰しもに拠って実感され得るものかも知れない。愛もそうである。それはキリスト教の様にそれ自体としてダイレクトにイエスやヨハネに拠って言及される場合でも、哲学の様にそれ自体として論われる事を保留される場合でも、誰しもが固有の条件からは逃れられないという運命的な個の他者からの隔絶、孤絶その事を言うのかも知れない。
 つまり主体の運命、命運的な固有条件、絶対的に一回性的な出来事や背負わされたものの孤絶性、隔絶的孤独の持つ本質的には他者に委ねる事の絶対不可能性に於いて、真理とか普遍というものが考えられるなら、愛も又公的な道徳として如何に説得力を持って説かれても尚、最終的には主体の自己判断、自己決裁に拠って履行していかざるを得ない一つの他者への手の差出、与えるという事の行為実践である。自分の心の中のどういう状態を他者へ何かを差し出す、与えるという事を意味するかは、終ぞ誰から教わるものでも、教えて貰い納得するものでもない。
 それは率直に自己で何かを為して精神的に充足しているか否かの自己判断にのみ委ねられている。他者の愛が自己の愛と相同であるかとか、自己の愛が他者への差出とか与えに値するかを他者に判断して貰う様なものではあり得ない。つまりその判断の主体へ全面的に委託されたという意味こそ、愛の本質である。愛の本質は従って法それ自体の目の行き届くものではない。何故なら法は目の行き届く範囲に常に留まるからだ。しかし如何に他者から感謝されようが、如何に法的にその行為は愛に値すると迄判断されようが、その事と自己内の精神の充足とか悔いが無いのかそうでないのかとは別個の事である。
 キリスト教で説く愛が他者への与えであるとしたら、それは他者が自己に拠って与えたものをどうするか、どう受け取るか自体が他者へ委ねられ、その部分での決裁に関し与えた者もどうする事も出来ない、それを踏み越える事の互いでの出来なさこそ一つの主張であり、キリスト教的悟りと言える。キリスト教は一般社会的な法を説いているのではない。しかしキリスト教的愛の法があるとしても尚(それを一つの愛の与えとして受け取ったとしても尚)、それはその与えに対する受け取りに関して、何人たりとも越権する事が出来ない、それは神でもである(その事は永井均が『私、今そして神』で述べていた事である)という一種のどうしようもない我々全体への突っ放し以外ではない。
 このある種の主体という事、現象的な私という事の内でしか個の精神的充足感を認める事の出来なさの神さえもの踏み越えられなさに対して現代哲学は提言しているのだし、宗教伝統文化慣習もその事を恐らく太古より習熟していた筈であり、民主主義とか社会倫理とか言っても、それは外在的法でしかなく、内在的な法以前的な主体の自己判断性は誰しもが誰からも踏み越えられ得ず、踏み越え得ず、その突っ放しそれ自体の中でしか全ての愛への論議は為され得ず、それを認める処からだけ、この様に論述している言語自体も運用され得るのだという事以外ではない。(つづき)

Wednesday, October 15, 2014

シリーズ 愛と法 第十二章 宗教のアヘン性と聖書/科学の時代の逆行不可能性

重要な事は、愛が意外と制度、我々が誠実だと思ったり、正義だと思ったりといった外的強制と無縁には成立していない、何故なら我々が社会で生活しているからだと納得しても尚、それだけでないもっと絶対的純粋な信念はあり得るだろうかと問う誠実性が哲学者的立場の人達だけのものであり得るかと問えば、そうでないし、哲学者とは只単にそういうロールとして社会で(好かれているとかそうでないとかとは関わりなく)認定されているに過ぎず、哲学的思念、思索は誰しもが持てる筈だし、それを「哲学」としてでなく人生上での対自的訓戒として生きていく場合、愛が慣例的慣習的な儀礼性としてだけでなく、もっと自己信念とダイレクトに絆を持ち得るある種の信仰にもなり得るものと捉えれば、そう捉える仕方も決して特権的な思索ではないと分かる事である。
そもそもキリスト教の場合は愛の在り方そのものを社会儀礼性や慣例性、慣習性から切り離して、それ自体の価値を問う試みとしての宗教でもあった。キリスト教自体(イエスもヨハネも含めて)、従ってパリサイ人、律法学者達にとって危険思想そのものであった。イエスやヨハネの行っていた事は、パリサイ人や律法学者達が考えている様な職業とか社会、つまり閉じたコミュニティで承認されている地位としての行為ではない愛の在り方を説く、哲学者風に言えば誠実性の問いだったからである。
しかし実際実利的な方向に宗教文化とは裏腹に人類は歩んできた。社会機能維持インフラの全ては科学的知に支えられて進化してきたと言える。交通機関がそうであるし、貨幣経済の合理主義的経済秩序がそうであるし、教育をはじめとする全ての社会文化インフラがそうである。寧ろ愛の誠実性的在り方を説く宗教とは、そういったインフラ整備へと人類が邁進する事になる基盤としてはどの国家民族でも必要であったものの、それが確定的に文化様相として不動点、つまりふらふらとどっちつかずでいるより、何処かに定める(例えば此処は祈る神聖な場所であるとか、此処は糞尿を排泄する不浄の場所であるとかの)地点に到達すれば、既にそれは儀礼化されてしまい、後は具体的なインフラ整備へと人類の視点は移行していった。つまり科学がそういうインフラ整備の為の方便を得て具体的に始動してしまえば、既に儀礼的なああでもないこうでもないという試行錯誤は停止され、具体的行動へと意識のアスペクトが移行するのだ。
従ってそうなってしまった後に、否キリスト教の教えの誠実性は可笑しい、本当はこうであるべきだと言っても、それは全て危険思想と見做される。それは日本の様に仏教的思想文化の移植、儒教文化の移植を執り行って来た民族でも神道的な清めや不浄さへの忌避等の想念は変わらず規定し続けるのと同じだ。 現代社会で生活する我々は宗教が世界を引率するには、余りにも科学の恩恵を得過ぎた。科学への日常的な安穏な肯定こそが我々の宗教儀礼性さえ文化として認識する自然な信仰だと言ってさえいい。
科学への信仰の正当性への疑いなさこそが宗教戦争に明け暮れた中世以降は、試行錯誤の時代ではないと警鐘を鳴らす信仰であり続け、それが少なくとも世界大戦の時代以降は定番となってきている。宗教で人類史を打開させる事を少なくともキリスト教文化圏と日中韓、北・東南アジアでは(イスラム教文化圏以外では)忌避されている。其処では民主主義が一応体裁上では北朝鮮、中国を除き宗教で駆動させる国家機能、社会機能ではない(そう考える点では北も中国もそうである)事を証明する為の方便となっている。
キリスト教のユニヴァーサリティと我々が勝手に受け取っている事は、そういった国家社会集団の不文律的な慣例性慣習性から解放されて尚価値を容認されるものとして愛の在り方を個人の選択として受け取ろうという事が、勿論其処には民族伝統的思考回路もあるのだが、主題としては唱えられていたという認識なのだ。従ってマルクスが宗教とはアヘンであると言った時、それは暗にキリスト教さえ懐疑的俎板に載せてよいのだとしているが、それはそういう思考が発生し得る地点にやはりキリスト教の唱える個人の選択(儀礼的規約外的な個人主義宗教説諭)を前提していた、と言える。聖書は旧約の段階では通史観的ユダヤ民族選択物語であり、その歴史的事実の持つ人間実像への解釈が主題であるが、新約聖書ではそれを通した愛の在り方の理性論的規定、つまり定言命法示唆としての問答が中心なのだ。
その意味では今日我々が社会正義として受け取っている民主主義、自由平等友愛とは全てキリスト教新約聖書中心主義的、つまり聖書問答の弁証法を基本としたものである。其処に疑いを持つ事は基督教的には異教者という事となるのだ。従ってもしキリスト教さえも一つの選択肢でしかないと受け取ればゾロアスター教、マニ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、道教、儒教、神道といった全ては対等となる。すると当然イスラム国の思想そのものも、イスラム教から派生した一つの思想ともなってしまい、それ自体完全存在否定は出来なくなる。それをも哲学的誠実性やキリスト教の個人選択、愛の在り方への問いは思考する自由は与える。
勿論イスラム国的仕方は決して正しいとは言えない。そう我々は直観する。だがそう言い切る為の根拠は自由でも愛でも、それ自体を誠実に個人に問えという形での問題提起に尽きる。自由や愛の在り方自体を問う事の自由迄我々は規定してしまっているのだ。問う事の自由をアナーキーに保証し得るとしたら、しかし何でも思想としては在りとなってしまう(哲学では何でも在りなのだが)。それは可笑しいとしか思えない。しかしそれが可笑しいと言い切る根拠を問わずして何になろう、と自由が規定(?)する自由に自由や愛をさえ考える事を保証する理性がそう囁く。しかし本当にそうなのだろうか?そういうある種の経済や国家に関して思想実践したマルクス主義的な思考実験の愛版、自由版が今も尚有効だろうか?それは当然科学こそ正義であるという観念に対してさえ差し向けられ得るだろう。
次回はその問いに対して、まずキリスト教以外の宗教の死生観から考えていってみよう。

Thursday, October 9, 2014

シリーズ 愛と法 第十一章 定言命法は誠実性を超える(前回の補足的意味合いから)

 ニーチェが言った誠実性とは、自分が思っているのに思って等いないと言い切ってしまういい子ぶり批判でもあった。それはイエスが息子二人に何かを頼んだ時快諾する息子を誹り、一度は断った息子を肯定する時にも適用されていたし、イエスは<リア王>のコーディリアスの様な誠実さを認めたのだった。
 しかしそれは前回の結論としてはイスラム国に参加する事だって自分で正しいと思えば正しいのだという決心へも繋がるし、それを否定出来ない。誠実性とはそういう危険性も実際にはある。
 にも関わらず我々はイスラム国に参加する事は良くない事である、とは哲学書や思想書に書きはしないだろう。何故なら今の所そういう活動に身を投じる事は危険分子として見做されるが、やがてそうでなくなる時期も来るからそう書いてはいけないのではない。
 どんな時代や状況が到来しようとそういう風には書けないのだ。つまりそれこそが文章化する事での誠実性と言えよう。 つまり生まれてきた国が日本だったから、それは如何様な理由があろうと処罰され得るから避けておこうと皆思う様な場合、それをいけないという風に書けないのだし、もし自分の身内にイスラム国の参加者が居て、しかもそれが民族的にもイスラム教徒であった様な場合、それをいけないとも言い切れない。イスラム国自体に問題があろうと、それを生み出したイスラム教圏自体にはそういったテロ集団を生み出す土壌自体が存在したという事だけは間違いない。
 前回の重要な議題でもあった<与える>とはつまりそういう事である。与える事の本質とは受け取る側(者)の主体と自発を促し、責任を相手へ委ねる事、つまり相手の意志(自由意志)と主体を信用する事が基本としてある、という事だ。それは愛の基本である。
 だからその愛の仕方、方法、つまり法はそれ自体その都度それを考える主体に拠っても変わり得る。イスラム国をいけないとか否定する論理自体は(そういう風に判断する自分が日本人だから)というそれ以上の是非を論じる暇は誰にもない。だが自分自身の国際正義や社会正義や人倫的正義としてはそうでない、だから敢えてその活動に身を投じるという意志自体は否定出来ないが、そうしなければいけないという何か外部からの圧が無意識に発動されているなら、それは考え直した方がいいとしか言い様がない。それらその都度の判断こそ法である。
 従ってカントの言った定言命法とは、ニーチェの言った誠実性より上位にある。何故なら誠実性とはあくまである選択肢を取る時、その選択肢が正しいと自分自身で思うからと根拠づけるだけだからだ。だが人は理性自体さえ常に正しいと言い切れないとカントを通しても知っている。つまり正しいと思えないから正しくないとか、正しいと思うから正しいのなら、自分自身が健全な判断を下せない時に、その下せなさ自体に誠実であるなら、それはそれが正しいと思っているのだから(健全な判断を下せる様になったら、それは正しくなかったのだ、と後で振り返りそう思えてしまう様な事であっても)正しくないとは思えない、それが本性だからだ。
 だからこそ誠実性とは自分自身の刹那的な誠実も含むが故に、且つ定言命法の様に一歩引き下がって、デカルトの様に自分自身のものだと思っている様な当たり前の事さえ、自分自身の判断ではないかも知れない、と疑う様なコギトを巡る真理さえ見据えているが故に、誠実性とは刹那的な自分自身への正直さという意味で、定言命法には劣ると言える。 誠実性は定言命法へ適用されて初めて意味があるのであり、定言命法なき誠実性は、イスラム国は正しいと思えば正しいという判断も正当化してしまう。
 イスラム教圏自体には恐らく問題がある。それは日本社会にも韓国社会にも問題があるのと同じ様にである。しかしそれだからと言ってイスラム国の仕方は正しいと言い切れば、当然連合赤軍もオウム真理教も正しいという事になってしまう。
 しかしイスラム国内部で生まれ育った者はそういう事さえ聞かされる事なく生き方を決めなければいけないだろう、しかし少なくとも哲学の言っている誠実性とは、その事迄語られてはいない、否聖書にさえも。
 そして定言命法はイスラム国内部で生まれ育った未来の青年の様な立場でも、日本人として生まれた未来の青年の様な立場でも、それぞれ自分自身にとってその都度一番正しいと信じられる事を、理性的に格率に従って考えて判断せよ、という定言命法だけは等し並に(与えられる)だろう。
 何故なら与えるとはあくまで真理だけを述べ、その真理にどう従うかは責任として(与えられる)者に委ねられているからである。

Wednesday, October 8, 2014

シリーズ 愛と法 第十章 根源悪(根本悪)とキリスト教

 聖書で<貧しい人は幸いである>と言う時、得ようとだけする人を悪の入り口に立ち、偽る人もそうであり、逆にそうでなく偽らず、真っ正直な気持ちで居る人(つまり与え様とする人)は神と対話し得るとそう考えている。ピーター・ミルワード神父は日本在住者で日本語に翻訳された多くの著作もあるし、原文でも本を出している。其処(<イエスとその弟子>講談社新書、別宮貞徳訳)から読み解いてみよう。
 二人の息子の父からの頼みに対する返答で<イエス>と返答した息子が前者で<ノー>と返答した息子が後者としている。シェークスピアの<リア王>の娘コーディリアこそ前者であり、ゴネリルは言葉巧みにリアを惑わしその実裏切るので後者である。シェークスピアは聖書を踏まえて書いているとも取れる。
 <貧しい人は幸いである>は甘言を弄す事もなければ、得ようと貪る事もなく、従って実直であればこそ甘言に拠って得る事は少ないかも知れないが、明らかにその実直さで他者に与え得るものがある。つまり聖書は基本的に得ようと思い欺瞞的で偽善的な取り繕いを弄す事なく、自己利益から言えば失わせてしまう誤解も恐れず、勇気を持って自らの悪を噛み締めて生きていくという事に外ならない。
 しかし我々は真っ正直に嘘偽りなく与えようとする者に現代社会で直面すると臆してしまう。怖くなってきてしまう。つまり其処に我々の生来の功利主義が控えている。カントが根源悪(或は根本悪)と呼んだものとは、功利主義的な安泰だけを願う勇気の無さが素直な他者の行為をさえ悪辣な甘言と受け取ってしまう事、それは結局自らが悪辣で功利主義であるが故に他者全体に対してその本当に素直な心もあるのだ、という事(勿論そうでない真に偽善的欺瞞的な事もある訳だが、それ等の違いを見抜けず)から、一律に他者全般へ不必要に懐疑的になり、甘言的取り繕いの応酬だけに依存して、それが心地良くなっていってしまう惰性的行状を言っているのだ。
 愛なんて信用しないという事、つまり惰性的打算的繋がりに安心を得てしまう事、それは勇気を持たず真理を見つめる事なく、曇った悪こそ救われる的な(それは親鸞に拠ると<歎異抄>では真理なのだが)悪しき開き直りで社会機能維持に貢献し得ていると錯覚する事を言っているのだ。
 愛は信用出来なくなればなる程観念性を帯びる。何故なら愛を信用しなくなった者とは素直な他者の好意を受け取れなくなるからだ。
 大人的な態度という観念程曖昧なものはない。儀礼的に失礼のない様にだけ振る舞い、一切の他者への感謝の念もなければ、協力もし合わないという選択肢が一番気楽でいいと考え生活出来るくらいに日本もそうだし、一定程度の先進諸国は社会秩序的には安定している(勿論時折凄く凄惨で残酷な犯罪も起きるが、それはかなり件数的には稀であればこそ大きく報道される。又自然災害的な悲惨さとは現代社会にだけ特徴的な事ではない。勿論地球温暖化に拠る悲惨な状況、或いは地殻変動的な地震や火山の噴火等もあるが、それさえ固有の現代の自然的傾向はあるものの、古来同じ様に勃発してきた事でもある)。
 愛が儀礼的な取り繕いへの安穏とした安心だけとなってしまった時、それはたとえセックスをしても、抱きしめ合っても或いは心は虚ろであり、素直な他者への信用、信頼、憩いはない。それは義務感であり善意であり、形式的秩序だけを維持したいエゴイズムである。これはハイデガーの言う頽落の中でも最低であるにも関わらず、経済生活的な安定からは意外とそういう悪しき現実主義だけが形として残って、その安定性の上で真理探求への向上心を失っていく。
 聖書の思弁性とは旧約聖書の<神の選択と葡萄畑>でも書かれている事で(旅に出た葡萄畑の主人は収穫をしたいが、農夫達がその収穫の報告者である召使を酷い目に合わせ、主人が息子を今度は派遣すると彼を農夫は殺してしまい、自分達で支配してしまう時)イエスは貴方達ならどうすると問うと、他の農夫に葡萄畑を与え、その悪辣な農夫達を罰すべきだと返答する者へ、神の国は貴方達から取り上げられ、もっとそれを与えられるに相応しい別の良い実りを結ぶだろう人達へ与えられると諭すのだ。
 此処には通り一遍の返答をする者への激しい侮蔑が込められていて、旅に出た主人を批判する論理が展開する。つまり此処でイエスの言っている事はマルクス主義的な観念とも共通するメッセージが発せられている。しかし重要なのは、イエスの返答とは、安易に即断をするイエスとの問答者への批判となっているという事だ。
 此処にイエスの聖書全体のメッセージでもある思弁的理性とでも呼ぶべき対話術と思弁性が漲っている。イエスの言葉は語り過ぎず、後はそれを聴く者(聖書を読む者)が自分で考えよとある部分では突っ放している。つまり与えているのだ。
 かつてのフランス映画の様な不条理な終わり方をする際に後は鑑賞者達が各々自分の心で考えて欲しいというメソッドに近い。
 イエスの言葉は確かに淡々としていて、自己責任の無い者が読めば突っ放して冷たい様にさえ思える。だがそれは自分の心に問い詰めて考えよと与えていると考えれば、愛の法なるものは存在し得るのなら、それはきっと生温い世辞や美辞麗句、或いは社交辞令的な取り繕いとは全く別種のもので、突っ放しているかも知れないが、自分自身の頭と心で考えよ、と与えてくれていると読む者、聖書の説教を聴く者は考えざるを得ない。それはある意味では法自体が重要なのではなく(法自体が重要だとする形式主義こそハイデガーの頽落であり、イエスがパリサイ人・律法学者を通して批判している処の事である)、愛を自分の頭と心でその法則を考えよと言っているという意味では哲学者、中島義道が著している<悪への自由―カント倫理学の深層文法>で言っている処のカントの定言命法とは即ち形式的に設定されている法なのでなく、その都度自分の頭と心とで考えよ、というカントなりの与えである事と極めて隣接している。
 その点では新約聖書でのイエスの言葉とカント(の定言命法と根源悪<根本悪>)とハイデガー(の頽落)とは一直線で結び付く要素を秘めている。
 それは法とはその都度自ら最も正しいと考え得る処の信念を持って設定せよ、という事以外でない。
 しかしそれではイスラム国が真に正しいと思うなら、其処に参加せよ、してもそれは罪悪ではない、という解釈も成立させてしまうだろうか?実はそうである。そしてそう解釈させてしまえる剰余を残して書かれている処に宗教書も哲学書もある種の危険性がある。そして、それはしかしウィトゲンシュタインが<論理哲学論考>で述べている様に、この書の読者は此処迄読んできて、その際に使った梯子を上り切った後で捨てよ、と命じる、つまり哲学(彼の書いたテクストの事を指して)なんかに頼るな、と言い放っている事と同じなのであるが、その同じ事、やはり此処に書かれてある事を信じても、その都度イエスの言っている事、カント、ハイデガーの言っている事は、全てではないと思って読み切る事、或いは読み進む事こそ正論である、とイエスもカントもハイデガーも言っていると受け取る事も(つまりイスラム国へ参加する事さえ自由なのであるなら)全く可能な様にそれ等のテクストが我々に与えられている、とも言えるのだ。
 つまりキリスト教で言う処の得ようとだけ思うな、与えよとは、それ自体罪な事、悪への唆しさえも含有した与える者も与えられる者も命を賭けた行為に外ならない、という一つの(やはり物静かに語り過ぎないイエスの口調の様な)語り、或いは囁きなのである。(つづき)

Saturday, June 21, 2014

シリーズ 愛と法 第九章 愛とエゴイズム続編Ⅱ

 愛は甘えへと転化しやすい。その典型的例が映画『それでも夜は明ける 12years a slave』で描かれていた。 アメリカ南部の奴隷制時代には北部で自由黒人として生活している人達とは無縁に依然奴隷としてしか黒人を扱わないという不文律があって、それが結局後日南北戦争の誘因となるのだが、ニューヨークで生活していた自由黒人の男性を南部に拉致して奴隷として働かせる様に仕向け、奴隷商人から報酬を貰う為に誘拐する事件等もきっと当時かなり多く在ったのだろう。それをこの映画は題材にしている。しかしこの映画で重要なのは、主人公が再度自由を取り戻す事にあるのではなく、奴隷としての生活を余儀なくされていた時期の主人公へ生きる希望を見出させる奴隷女性の存在である。
 彼女は堅い格式に縛られて育った奴隷主の白人男性の妻が夫へ提供する癒しを夫である男性自身が感じられず、精神的にも奴隷のその女性へ依存している事が映画的にも重要なテーマだった。当然異性への眼差しを持つ自らの夫の不貞相手という意味でもこの黒人奴隷女性は奴隷主の男性の妻からも虐待を受ける。思い余った黒人女性から主人公の元自由黒人として一般市民生活を営んで来ていたが拉致されて奴隷の身に甘んじている男性は自分を殺してくれと依頼される。勿論主人公は断るが、彼女がやっと自由黒人としての証明書を持って北部から現れた白人の知人に連れられニューヨークに戻るその瞬間、生きる希望の光であった奴隷同僚である主人公が去っていく前に熱く抱擁をするが、片や自由を獲得して綿花畑から去っていく男性と対照的に残された女性は映像の左隅に小さく頽れる姿が映し出されていた。彼女の未来は再度絶望の淵に立たされ続けるだろう。その意味でこの映画の結末とは、自由への日々は未だ遠いという暗示ともなっているのである。
 奴隷主の白人男性は肉体的にだけ黒人奴隷女性へ依存しているのではなく、明らかに白人に課せられていた当時の南部のノブレスオブリッジに対して逃避的気分に拠り自らが管理する奴隷へと精神的に依存していく様が描かれていた事がこの映画の本質だと思われた。
 精神的甘えとはこの様な特殊な歴史的経緯を持つアメリカ南部だけでなく、現代でも存在するだろう。つまり自らは愛と信じて疑わない多くの夫婦や親子の間でも精神的甘えが何等かの現実での葛藤や矛盾や障害からの逃避という形を取って顕在化している、という例は観られるかも知れない。 LGBTという概念規定自体がそうである。
 そもそもレズやゲイでしかあり得ない様な精神状態とかジェンダー的な自覚で生まれて来た人達(彼等彼女等はそれはそれで色々と精神的にはきつい面も現代社会にもあるだろうが)だけでなく、人生経験の途上で異性との出会いで躓く人達は大勢居て、彼等彼女等も又後発的な経験依存的な精神的な失望、つまり異性と共存する事自体の失望を味わう形で後天的にレズやゲイになっていく事は考えられる。又それだけでなくそもそも人間はヘッセの『デミアン』やエドガー・アラン・ポーの『ウィリアム・ウィルソン』でも描かれていた様な意味で同性の気になる存在は思春期以降死ぬ迄誰にとっても大きな精神的な関心事である。そして生涯憧れてしまうタイプの同性とは存在する。只その事実をどれくらい深刻に受け取るか、それとも受け流せるかに拠って同性愛へ行くか、其処迄行かずに踏みとどまるかが決定されているに過ぎない。
 と言う意味では、バイセクシュアルとは異常性愛的なメンタルな状態ではない。寧ろ全人類的に持つ精神的傾向でもある。
 トランスセクシュアルは古い言葉で言えば(ふたなり)等とも言って、両性具有的な生殖器保持者は(私は生殖生理学者ではないので、どれくらいのパーセンテージで出現するか迄は知らないが)一定程度どの時代でも存在する。彼等の持つ精神的問題とバイセクシュアルの持つ精神的問題は大分異なっている。 にも関わらずLGBTという形で全てを一緒くたにしてしまう処にある種の現代社会での臭いものには蓋をせよ、という暗黙の発令を私は感じ取ってしまう。
 今から振り返ってみても、マーティン・ルーサー・キング牧師やマルコムXを登場させたアメリカ合衆国史に於いて、精神分析対象とされるべきは当時の白人達でもとりわけ精神的に黒人奴隷女性へ依存していた男性達である。そして確かにオバマ大統領の登場に拠ってアメリカは黒人奴隷制の時代の社会矛盾を解消したかに見えるが、内実的には精神的な依存とか甘えの様な収拾不能なメンタルなメカニズムを解明する迄に至っているとは言えない、という事は、巨大資本の金融企業体やウェブサイトビジネス等の世界の成功者達と、失業者達との二層構造へと分岐していく社会様相で、成功者自身が中間層(激烈に減少しつつあり、貧困層へ転化されている)以下の人達へ精神的に依存しているのかも知れない、という自由資本主義文明国の持つ必然的な精神的矛盾があり、それが益々資本主義マネーゲームプレイへと国家や社会全体を駆り立てている様に思われる現況では確かな事である様に思われるのだ。
 だが本ブログの存在理由は社会構造とか世界経済矛盾自体を摘発する事にあるのではない。あくまで問題とされるのは、人間心理の中にある迷いや矛盾への割り切れなさがどう社会倫理や社会進化過程に参与しているのか、という部分である。
 成功者とは一度社会的信用とか信頼とか他者からの尊敬心を得てしまうと、それを如何に長く持続し得るかだけが至上命題となっていく。その過程で彼等に必要となるのは、積極的に非成功者、経済力的な意味での敗者達なのである。そして彼等が何時迄も自分達の様にならずに、下層的な市民層の中で狭い範囲で旋回していてくれる事が理想となる。つまり彼等から尊敬され一目置かれる為には、自分達以上の成功者を彼等の中から出さないという事以外ではない。そういう風には絶対に示す事はないが、内心でそれ以外に自分達の外部から得るカリスマ性を維持し得る道はない。この部分では黒人奴隷制自体が撤廃されても、ビジネス成功者や経済的パワー保持者達に拠るハヴノットへの精神的深層的依存とは明らかに世界全体を支配している。
 そういう暗黙の了解においてこそ世界経済とか世界の治安の安定(それは実際には今はシリア、イラク等で実現されないという事を証明し、恐らく今後も何時迄もシリアやイラクが安定化すれば別の諸国が不安定な状態へと突き落とされるというもぐら叩き促進的な状況は変わらないだろう)を辛うじて必要である、と世界市民が同意している(その証拠にアメリカが厭戦気分となり、各地で多発するテロリズムを抑制しようと軍事的に動かぬ限り益々世界で内戦が頻発する状況は明白化している)。
 そしてそういうストイックな常に暫定的な内戦防止維持でやっと世界的安定を得られるのだと知っている現代人は、益々同性愛的精神的依存傾向を強めていくだろう。つまり最終的にレズとかゲイではないという事が実際に性行為へは赴かないという最後の一線を死守するだけで、結婚して子供が居ても、独身でも相手が結婚していようがいまいが、精神的には益々友情の延長戦である同性同士の信頼が、相互甘え実現態としての慰安を深層的には積極的に望むという傾向は強まっていくだろう。そもそも全てのチームプレイで臨む集団のスポーツ〈サッカーでも野球でもバスケットボールでも〉での同性のプレイヤー同士の信頼関係の中にもそういった同性愛的傾向は読み取れるし、銀行やメーカー等のチームプレイでも共演する役者同士でもそういったメンタルな甘えや依存は読み取れる。
 そもそもライヴァル心とか敵対者という発想の中にもバイセクシュアル的、ゲイ、レズ的側面はあるのだ。だからこそそれでも尚現代でLGBTを命題化せざるを得ないという問題意識の停滞的リアルこそが、我々の内実的なバイセクシュアル的なメンタリティが誰しもに内在しているリアルを本格的に分析する事を旧態依然的なモラルが阻止しているという事実を逆照射しているものとも思われる。
 次回は精神的甘え、今回述べた共依存関係(成功者は下層市民層へ、下層市民層は成功者をカリスマ的に偶像化する事で成立している)が言語的にどういう影響を我々の生活で与えているかを考察してみよう。
 付記 何をLGBTとするかという判断自体に、管理者側のエゴイムと、自分達は正常であると思いたい、そして彼等と括る事に拠って精神病理学的にも生殖生理学的にもアブノーマルな人達を設ける事で、自らは安心を得たいという事、つまり共依存、無意識の甘えが立ち現れている、と言う事も出来る。

Thursday, May 1, 2014

シリーズ 愛と法 第八章 愛とエゴイズム続編

 前回取り組んだ愛と性の問題も、実は愛とエゴイズムの問題とも完全に重なる。其処でエゴイズムから歪な愛、しかしかなり日常的には起き易い疑似愛から愛を考えてみよう。その前の再度肉体的愛の形をおさらいしておこう。
 夫婦や愛人同士の性交渉で相手と性の相性がいいと思っている事は、即ち自分自身の性的嗜好を相手が理解してくれているとある意味では幻想しているから、相手の身体とその反応に愛着を持つ事を通して、相互に相互の愉悦を幻想し、相手へ性交渉で得る身体的快楽を素直に相手へ伝える事から相互に性交渉が楽しいものとなるのだ。 相手が気持ちいい表情や反応を示す事が嬉しいと思える事を相互に伝え合えるからこそ身体的律動をより加速化しようとすることで、男女(或いはストレート以外でも)が相手へ気持ち良さを伝えようとするのだ。相手を気持ち良くさせることが出来ると実感して嬉しい表情を相手に伝える事を相互に確認し合えると、心底愛し合えたと実感し得るのである。 こちらが相手を通して自分自身を気持ち良くしたいと同時に、相手へもこちらを通させて気持ちよくして(させて)あげたいという事が同時に相手もそうである、と実感し得た時良い理想的性交渉だと言える。
 しかしそう思い込んでいるだけで相手は我慢しているのかも知れない、とは全く言い切れないということはない。要するに自分自身が気持ちいいという事はある種の身勝手なのだ。勿論それが全く無い交渉は耐えがたい。しかしそれだけである、つまり相手への配慮なんて一切考慮していないのに、惰性的に身勝手に相互にいい相性であると思いこんでいる場合もあり得る。
 それは性交渉に限らず同性同士の友人関係でも、師弟関係でも何でも当て嵌まる。相手を愛おしいと思える理由が師弟関係の場合では、相手が未だ自分を追い越していないと自覚していられる内は健全に維持し得ても、相手が凄く成長して師匠である自分の立場を脅かす様に感じられるのであれば、相手へ恐怖感情を持つ事もあり得る。それでも尚相手の成長が喜べるという事であるなら、その師匠の弟子への愛は本物だと言える。
 しかしそうでないのなら、そしてそれは意外と我々の社会では多い事であるが、本物の愛ではないのに、相手の至らなさを愛しているという、所詮愛着を持てるのが、愛するペットというものが自分程頭が良い事が決してないからこそ可愛いのと同じで、出来損ないの自分の子供、出来の悪さにこそ愛着を感じ取っている様な事があり得るなら、本物の愛の様に誤解している、或いはそう思い込もうとしている疑似愛であろう。勿論知的障害を持つ子供を愛する事は可能だし、それも本物の愛であるが、そういう場合でもそうでなく健常的な子供への愛でも、相手が成長しきれない、成長をなかなかしない事自体に憩を見出しているのなら、それは疑似愛である。
 其処に多くの身勝手さ、愛着の持てる事の選択に於けるエゴイズムが差し挟まってくる。
 だから再び性交渉へ話を戻すと、まるでホストの様に相手へ献身するだけの相手への愛撫を続け、相手がこちらを楽しませてくれる工夫を一切しないでいる事でも耐えている様であり続けるなら、義理や義務感で自分を愛してくれているのだと女性は負担となっていくこともあるかも知れないだろうが、それでも尚お金を払ってホストに楽しませて貰っているのだから、オナニーをお金を払って相手を使ってしているのと同じである場合、それは疑似愛である。
 又、DVをされているのに、しばしばあり得る相手から心底頼られているのだと思い込もうとして、自分へ危害を加える男性へDVされつつ献身しているのだ、と思い込もうとする相手へ、次第にDVをする男性の方も疑似愛を感じ取りシラケてきて、相手へより憎悪を募らせる事はあり得る。そうならないのなら、DVを続けている男性は自己理性が完全に麻痺しているに過ぎなかろう。
 要するに耐える事、相手の非を我慢し続ける事も又固有の身勝手なエゴイズムでしかあり得ない。にも関わらず自己犠牲的愛で疑似倫理的充足感を得てしまっているナルシスとは、当然自分は相手へホストの様に献身しているのだ、と男性は思い込むし、相手からの暴力を受け止めてあげられる位に自分は相手へ寛容さで包み込んであげているのだ、と女性はヒロイズムに酔っているのだからなかなか始末が悪い。
 愛とエゴイズムで最もよく見られるものの一つこそ、自分自身を自己犠牲的なヒロイズムのヒーローやヒロインへ仕立てあげる疑似愛である。そして意外とこれは、相手が自分自身より劣っているから憩を見出せ、こいつを可愛がってやろうと思える疑似愛と近接している、と言う事が出来る。
 相手を使ってオナニーをする事だけ、つまり自分の身体部位の快楽を得る為だけに自分へ奉仕する自分を奴隷化する事や、相手からDVを受けているのに、それをじっと耐えて受け止めている自分を愛する事とは、相手に理性的に他者存在を受け止めるという心の余裕を与えないエゴイズムという意味で共通するからである。それは成長したいという子供や尊敬し合える友人関係や、師匠を乗り越えたいと欲する弟子の向上心を摘んで迄も、自分の優位を保っておきたいと願う身勝手と、この二つは極めて似ている。相手の理性的な他者へ接する感情、つまり相手を尊敬すればこそ乗り越えたいと欲する理性的向上心を阻害して迄自己の愛着心、つまり相手が自分より劣っているからこそ、相手を許せるという身勝手さとは、ホストの人格を無視して、オナニーマシーンとして人間を奴隷の様に使う女性や、DVという肉体的な破壊力を行使する男性の野蛮を発揮させる事を受け止めてあげる事で相手へ奉仕していると思い込みたいDVされる事を選び取る女性は(相手がシラケてきているのに、自分をもっとぶってと言うなら偏依存だし、相手も喜んで女性を甚振り、それでも尚愉悦の表情を崩さぬサディズムにあるのなら共依存関係にあると言っていい)相手の理性的成長や向上心を持たせぬ侭にしておきたい、というエゴイズムという意味では全く相同の心的メカニズムを保有している、と言える。
 しかし先程の性交渉でも相互愉悦獲得目的性で語られ得る、相手を気持ち良くさせてあげたいけれど、そうしながら自分も相手から気持ちよくして貰いたいという欲求が同時的に発生し得るのだから、それは許され得る身勝手さであろう。そして愛とは、意外とこの相手への愛着、それは先程述べた様に相互に愛し合うばかりでなく、相手の欠点や弱点さえ愛すのであれば、当然相手が自分より劣っているからこそ安心出来る、慰安を持てる、寛げる、憩を見出せるという事だから、当然身勝手な愛着というものをも必ず含む、と言い得る。
 つまり愛の公理があるとすれば、それはルール、つまり法的には相手へ奉仕する部分も必要だけれど、相手から奉仕して貰いたいという契約もあるが、同時に相手へ奉仕する事のヒロイズムに適度に酔う部分もあるから、それは献身という身勝手、つまり相手の主体性を無視する部分も当然ある、という事となるし、そういった身勝手さえ絶無であるなら、長期持続し得る愛とはならない、という意味では我々が何と言う事のない平凡だけれど、見慣れた自分の住むエリアのお気に入りの風景同様、配偶者でも愛人関係でも相手を愛し続けられる条件としては長期愛着が保てると自覚し得ているという事であり、その愛着とは適度の身勝手な相手への自分より劣っている部分への発見も手伝っているのだ、という事が言えるのではないか、という事が今回の一つの結論である、と言えよう。
 しかし献身的愛の全てが身勝手なナルシスであり、ヒロイズムに酔う疑似愛を愛だと思い込みたいナルシスである、とも確かに言い切れない場合もある。次回はその事、つまり例外的な真実の献身的愛という事に就いて考えていってみよう。(つづき)
 付記 DVされているのに、別れられぬ女性の男性のDVとの共依存関係は、ある意味ではそうまでしても別れぬ理由に、別れたら又一人ぼっちになる、という相手と出会った時から今迄の運命的出会いの崩壊への恐怖がある。それは次回伝えようと思うかつてアメリカ南部に奴隷制の存在した時代の奴隷主と奴隷との関係や、奴隷同士の関係でも言える事だ。そして当然献身的愛は奴隷同士でもあったと思われるが、その事も書こうと思う。

Saturday, February 15, 2014

シリーズ 愛と法 第七章 愛と性は一致するか?①

 もし愛と性とが完全に常に調和を保ち一致している、その志向性も、その願望も、その理想も、要するに全てのそれらに付帯する価値に於いて完全に一体化し合致していたなら、恐らく世界中の全ての文学、思想、哲学は完全に覆されるであろう。
 我々にとって身体と心と言う時、かなりの比重で性と愛とも言い換えられる。
 第三章で既に述べてきたことと、前章で述べた幸福感ということは常に完全分離しているとも言い切れないが、完全一体化しているともやはり言い難い。言い切れないより少しこちらの方が強い。
 エロスは自分自身で理性だと思っていることに常に従順ではない。寧ろ理性とはエロスに耽溺するか、或いはエロスに翻弄されることの内に仄浮かぶ「心とはこうであるべきである」という理念である。それが理念であるからには、全ての我々の性行動が完全に理性に拠って制御されているとは言い難いということをも意味する。恐らくそれは結婚をしていてもしていなくても同じである。
 人間は自分自身の全行動を理性に拠って制御していると思っているのなら甚だしい幻想である。それは仮に法的に一切触れない様に日頃から行動していてもそうである。
 対人感情の全ては理性に拠る統制下にあるわけではない。寧ろ全ての対人感情がかなり感情的気分、それは決して理性的に判断していると言えない性質の判断に拠ってなされている(心に持たれている、と言い換えてもいいが)と言える。人間は全行動を統制することが容易な心のロボットではない。寧ろ心とは行動や習慣や記憶や様々なものに拠ってその都度右往左往させられている。勿論全ての行動や習慣を統制しようと心がけることは出来る。しかしその統制それ自体が既に過去の記憶にかなりの度合いで支配を受けている。心のデータベースは常に現在知覚へと総動員される。しかし既に忘却してしまっていることもかなり多く、記憶違いもあれば、知覚自体も錯覚に塗れている。
 エロスはリビドー的なことも含めれば常に揺れている。好きだと思っている相手へ一挙に幻滅することもあれば、理性的にこの相手は不適切だと思っている相手に対してさえ欲情する。勿論全てのエロス的情動も何等かの形でそれが喚起される根拠は詳細に分析すればあるのかも知れない。しかしその様に全記憶、全習慣を隅から隅迄探る心の余裕は我々にはない。今抱えている全問題に取り掛からねばならないからだ。かくしてエロス的な衝動は処理されて然るべき問題へと格下げされる。
 しかしこの格下げは処理しさえすればいいという形で決定されるので、非理性的なことである。我々の身体は理性的ではない。非理性的であればこそ病気にも罹るし、努力を怠りたいとも思う。要するに理性は身体にとって身体と心との乖離を自覚する我々に拠って設定された処方であり、ほんの部分的な解決法である。身体的な苦悩、病苦やエロス的衝動の全てを身体は処方しなければいけないので、その身体の処方を手助けする為に理性が動員され病院へ行くとか、ベッドで横になって安静にしていようと我々は意志決定する。
 しかし性衝動自体は意志決定とは違う。全人類史的な婚姻制度はこのことを人間が知っていたからこそ設定されてきている。しかしその性衝動の抑制方法や、性衝動自体を過剰に喚起させまいとすることに動員される理性はその具体的処方を提供しているわけではない。従って身体の病理的な判断、免疫その他のものを含む身体自体の判断こそが病気であり、そうなった時にそれを治癒させようと画策する時にも理性は動員されるし、倫理的な社会認識に於いて性衝動を抑制しようと画策する時にも理性は動員される。そしてこの事実こそ性衝動が理性とは別個に身体的に判断するということを意味する。
 しかしエロス的衝動を喚起するものは意外と多くは文化であり習俗でもある。そしてどういう状態の観察、どういう事態の到来に拠ってそれが喚起されるのかを我々はなかなか客観的に知ることが難しい。それは恋という衝動にも示されている。
 好きな相手、好きになってしまう相手とは理性的に判断されているわけではない。そして通常は異性への好感度は性的衝動と見做される。勿論同性に対しても憧れとか羨望の様なものは同性愛的傾向の全く希薄な者へも到来する。
 愛は性愛をも含み込もうとする。しかし性衝動は愛という理性的判断、或いは理性的衝動と言ってもいいものに拠って統制されているわけではない。エロス的衝動は愛という理性へ謀反を起こすことも稀ではない。勿論愛する相手へエロス的衝動を抱くということはあり得る。そしてそれは社会的責任に於いて全うされているのなら、非難されない。にも関わらず非難されることを承知で犯す性衝動の行動化はエロスが喚起しているとすれば、エロスは背徳的な美学をも含有していることとなる。そのことを考慮に入れると、寧ろ愛と性の一致は理想である。それが理想であるからには、恐らく我々は愛と性とが甚だしく一致していない状況を日頃から多く経験している証拠である。
 そしてエロスそれ自体が悪いことなのではない。何故ならエロスとは愛や性を巡る全ての感情的事態を並列化させて我々に認識させる文化であり習俗であるからだ。と言ってそれは何か国家や共同体や帰属組織や職業だけに拠って支配を受けているわけではなく、あくまで想像力の産物である。寧ろ性衝動を滞りなく実行させる為にストイシズムを一時的に除去する為に設けられている身体の側の処方でもある。
 エロスは極めて社会文化的側面があるとすれば、それは官能小説やノンフィクションを読む際に喚起される性的好奇心等を育む磁場であると言えるが、それは身体的な生殖生理学的衝動でもある。その複合化されたものをエロスと我々は呼ぶと言えよう。しかし文化的側面も個々の性格遺伝子的傾向に拠ってより個人的な感受性、個人的な感性、個人的な想像力が成立する。想像力の父は好奇心である。そしてそれに拠って随伴する性衝動は愛とは別個のものである。と言うよりそれをも愛に拠って統制させ発動させないとすると、愛それ自体の意味修飾的なこと、つまり愛の定義への理性的判断に拠って性は完全にストイックに統制されてしまうからである。(つづき)