Thursday, May 1, 2014

シリーズ 愛と法 第八章 愛とエゴイズム続編

 前回取り組んだ愛と性の問題も、実は愛とエゴイズムの問題とも完全に重なる。其処でエゴイズムから歪な愛、しかしかなり日常的には起き易い疑似愛から愛を考えてみよう。その前の再度肉体的愛の形をおさらいしておこう。
 夫婦や愛人同士の性交渉で相手と性の相性がいいと思っている事は、即ち自分自身の性的嗜好を相手が理解してくれているとある意味では幻想しているから、相手の身体とその反応に愛着を持つ事を通して、相互に相互の愉悦を幻想し、相手へ性交渉で得る身体的快楽を素直に相手へ伝える事から相互に性交渉が楽しいものとなるのだ。 相手が気持ちいい表情や反応を示す事が嬉しいと思える事を相互に伝え合えるからこそ身体的律動をより加速化しようとすることで、男女(或いはストレート以外でも)が相手へ気持ち良さを伝えようとするのだ。相手を気持ち良くさせることが出来ると実感して嬉しい表情を相手に伝える事を相互に確認し合えると、心底愛し合えたと実感し得るのである。 こちらが相手を通して自分自身を気持ち良くしたいと同時に、相手へもこちらを通させて気持ちよくして(させて)あげたいという事が同時に相手もそうである、と実感し得た時良い理想的性交渉だと言える。
 しかしそう思い込んでいるだけで相手は我慢しているのかも知れない、とは全く言い切れないということはない。要するに自分自身が気持ちいいという事はある種の身勝手なのだ。勿論それが全く無い交渉は耐えがたい。しかしそれだけである、つまり相手への配慮なんて一切考慮していないのに、惰性的に身勝手に相互にいい相性であると思いこんでいる場合もあり得る。
 それは性交渉に限らず同性同士の友人関係でも、師弟関係でも何でも当て嵌まる。相手を愛おしいと思える理由が師弟関係の場合では、相手が未だ自分を追い越していないと自覚していられる内は健全に維持し得ても、相手が凄く成長して師匠である自分の立場を脅かす様に感じられるのであれば、相手へ恐怖感情を持つ事もあり得る。それでも尚相手の成長が喜べるという事であるなら、その師匠の弟子への愛は本物だと言える。
 しかしそうでないのなら、そしてそれは意外と我々の社会では多い事であるが、本物の愛ではないのに、相手の至らなさを愛しているという、所詮愛着を持てるのが、愛するペットというものが自分程頭が良い事が決してないからこそ可愛いのと同じで、出来損ないの自分の子供、出来の悪さにこそ愛着を感じ取っている様な事があり得るなら、本物の愛の様に誤解している、或いはそう思い込もうとしている疑似愛であろう。勿論知的障害を持つ子供を愛する事は可能だし、それも本物の愛であるが、そういう場合でもそうでなく健常的な子供への愛でも、相手が成長しきれない、成長をなかなかしない事自体に憩を見出しているのなら、それは疑似愛である。
 其処に多くの身勝手さ、愛着の持てる事の選択に於けるエゴイズムが差し挟まってくる。
 だから再び性交渉へ話を戻すと、まるでホストの様に相手へ献身するだけの相手への愛撫を続け、相手がこちらを楽しませてくれる工夫を一切しないでいる事でも耐えている様であり続けるなら、義理や義務感で自分を愛してくれているのだと女性は負担となっていくこともあるかも知れないだろうが、それでも尚お金を払ってホストに楽しませて貰っているのだから、オナニーをお金を払って相手を使ってしているのと同じである場合、それは疑似愛である。
 又、DVをされているのに、しばしばあり得る相手から心底頼られているのだと思い込もうとして、自分へ危害を加える男性へDVされつつ献身しているのだ、と思い込もうとする相手へ、次第にDVをする男性の方も疑似愛を感じ取りシラケてきて、相手へより憎悪を募らせる事はあり得る。そうならないのなら、DVを続けている男性は自己理性が完全に麻痺しているに過ぎなかろう。
 要するに耐える事、相手の非を我慢し続ける事も又固有の身勝手なエゴイズムでしかあり得ない。にも関わらず自己犠牲的愛で疑似倫理的充足感を得てしまっているナルシスとは、当然自分は相手へホストの様に献身しているのだ、と男性は思い込むし、相手からの暴力を受け止めてあげられる位に自分は相手へ寛容さで包み込んであげているのだ、と女性はヒロイズムに酔っているのだからなかなか始末が悪い。
 愛とエゴイズムで最もよく見られるものの一つこそ、自分自身を自己犠牲的なヒロイズムのヒーローやヒロインへ仕立てあげる疑似愛である。そして意外とこれは、相手が自分自身より劣っているから憩を見出せ、こいつを可愛がってやろうと思える疑似愛と近接している、と言う事が出来る。
 相手を使ってオナニーをする事だけ、つまり自分の身体部位の快楽を得る為だけに自分へ奉仕する自分を奴隷化する事や、相手からDVを受けているのに、それをじっと耐えて受け止めている自分を愛する事とは、相手に理性的に他者存在を受け止めるという心の余裕を与えないエゴイズムという意味で共通するからである。それは成長したいという子供や尊敬し合える友人関係や、師匠を乗り越えたいと欲する弟子の向上心を摘んで迄も、自分の優位を保っておきたいと願う身勝手と、この二つは極めて似ている。相手の理性的な他者へ接する感情、つまり相手を尊敬すればこそ乗り越えたいと欲する理性的向上心を阻害して迄自己の愛着心、つまり相手が自分より劣っているからこそ、相手を許せるという身勝手さとは、ホストの人格を無視して、オナニーマシーンとして人間を奴隷の様に使う女性や、DVという肉体的な破壊力を行使する男性の野蛮を発揮させる事を受け止めてあげる事で相手へ奉仕していると思い込みたいDVされる事を選び取る女性は(相手がシラケてきているのに、自分をもっとぶってと言うなら偏依存だし、相手も喜んで女性を甚振り、それでも尚愉悦の表情を崩さぬサディズムにあるのなら共依存関係にあると言っていい)相手の理性的成長や向上心を持たせぬ侭にしておきたい、というエゴイズムという意味では全く相同の心的メカニズムを保有している、と言える。
 しかし先程の性交渉でも相互愉悦獲得目的性で語られ得る、相手を気持ち良くさせてあげたいけれど、そうしながら自分も相手から気持ちよくして貰いたいという欲求が同時的に発生し得るのだから、それは許され得る身勝手さであろう。そして愛とは、意外とこの相手への愛着、それは先程述べた様に相互に愛し合うばかりでなく、相手の欠点や弱点さえ愛すのであれば、当然相手が自分より劣っているからこそ安心出来る、慰安を持てる、寛げる、憩を見出せるという事だから、当然身勝手な愛着というものをも必ず含む、と言い得る。
 つまり愛の公理があるとすれば、それはルール、つまり法的には相手へ奉仕する部分も必要だけれど、相手から奉仕して貰いたいという契約もあるが、同時に相手へ奉仕する事のヒロイズムに適度に酔う部分もあるから、それは献身という身勝手、つまり相手の主体性を無視する部分も当然ある、という事となるし、そういった身勝手さえ絶無であるなら、長期持続し得る愛とはならない、という意味では我々が何と言う事のない平凡だけれど、見慣れた自分の住むエリアのお気に入りの風景同様、配偶者でも愛人関係でも相手を愛し続けられる条件としては長期愛着が保てると自覚し得ているという事であり、その愛着とは適度の身勝手な相手への自分より劣っている部分への発見も手伝っているのだ、という事が言えるのではないか、という事が今回の一つの結論である、と言えよう。
 しかし献身的愛の全てが身勝手なナルシスであり、ヒロイズムに酔う疑似愛を愛だと思い込みたいナルシスである、とも確かに言い切れない場合もある。次回はその事、つまり例外的な真実の献身的愛という事に就いて考えていってみよう。(つづき)
 付記 DVされているのに、別れられぬ女性の男性のDVとの共依存関係は、ある意味ではそうまでしても別れぬ理由に、別れたら又一人ぼっちになる、という相手と出会った時から今迄の運命的出会いの崩壊への恐怖がある。それは次回伝えようと思うかつてアメリカ南部に奴隷制の存在した時代の奴隷主と奴隷との関係や、奴隷同士の関係でも言える事だ。そして当然献身的愛は奴隷同士でもあったと思われるが、その事も書こうと思う。