Sunday, October 25, 2009

〔責任論〕第七章 内的理解と認識の齟齬、説明され得ることとそうではないこと

 かつて画家の宇佐美圭司は「絵画はどこでとめるか<つまりどこで絵を仕上げるか>が一番重要である。」というようなことをエッセイで書いていた。それは画家が完成という観念をどのように自分で理解しているかということがその画家の画業全体を支配するイデアとなるということを意味している。しかしそう言いながらも多くの画家はどのような状態を完成と呼ぶという風には他者に言葉で説明することは出来ないであろう。またそのように言語化し得るのなら彼は画家ではなく、評論家か論理学者になっていただろう。つまり言語化され得ることが躊躇なく履行される範囲というものはそもそも限られていて、またそのことの自覚のみが言語活動を生き生きさせるのだ、とも我々には言い得るのだ。
 さて完成は絵画全体に対しても言えることだが、やはり画家の横尾忠則は「今日一日は完成したなんて思ったら明日を迎える意味なんてない。そもそも人生は死ぬまで完成しないからこそ明日また一生懸命生きようと思えるのだ。」というようなことをインタビューで言っていたが、それもまた生き方のレヴェルでは順当な意見であると言えるだろう。完成というものの定義をし直すことが真理や論理に対する問いの歴史であったとも言える。
 しかし何故かは即座に答えられないが、その場その時には必ずその場その時なりに正しい判断と言うものがあったのではないか、という考えが私にはあるのだ。このことは哲学者エイヤーの「言語・真理・論理」でも適切述べられている。つまり後から別の考えが正しいと判明しても尚、その時の決断の正当性はいささかも揺らぐことはないということだ。
 さて何度も登場願った大屋雄裕は「法解釈の言語哲学」で次のように語っている。
「フィッシュの解釈共同体理論を検討する際にまず注目しなくてはならないのは、そこにおける「解釈共同体」が実際には何を意味しているかという点である。まず『このクラスにテクストはありますか』(中略、フィッシュの出自)の段階において、解釈共同体は以下のように明確な性質を持っている。
 解釈共同体は解釈戦略を共有する人々から成っている。(.....)テクストの特性を構成しテクストに意味を付与するための戦略は読む行為に先立って存在し、従って読まれるものの形を決定する。一般に考えられているのと違って、その逆ではない。(中略、フィッシュの出自)ここでは、解釈共同体が実体としての性格を色濃く有していると見ることができる。解釈共同体とは文学研究者の一群や特定のクラスの生徒たち、特定の雑誌の流派に属する解釈者の集団といった存在であり、その存在を外見的に想定することが可能なように語られていたのである。独我論という非難を回避するために解釈戦略が社会的に形成されるものであることを主張するフィッシュにとって、この想定は必須の条件である。「個人の仮定や意見が『彼自身』のものであることはない(.....)<彼>は仮定や意見の起源ではない(実際、仮定や意見の方が彼の起源だというのがより正確である)」(中略、フィッシュの出自)。共同体は彼の外部に存在しなくてはならないのである。」
 ここには集団同化意識を無意識の内に発動する人間の対社会戦略として、規則遵守という観念が浮上する。例えば犯罪者は自ら行っている行為が犯罪であると知っている。よって彼等は責任という観念も良心という観念も承知の上で敢えて実践的にそのことから逸脱しているのだ。つまり犯罪とは道徳、良心、善意志、責任という観念のない場では存在し得ないのだ。だから動物が仮に同一種の他個体を殺したとしても、それは攻撃による結果的な事実でしかなく、人間が人間を殺すのは傷害致死のような不可抗力の場合を除いて意識的、意図的な行為であり、それはあらゆる道徳的観念を熟知した上での策略となるのだ。ただこの際犯罪者の犯罪事実に対する認識に関してのみ言述しているのであり、精神病理学的なアプローチで言っているのではない。
 規則を承知で行っているということは言語活動も同じである。だからある種の精神錯乱者が逮捕されたり、裁判にかけられたりした際に言語的説明を求められて、きちんと説明することを拒み、その場から逃れようとしたり、暴れたりすることもまた、彼には了解されているのだ、本当はこんな行為をしては規則遵守の観念からは逸脱しているということが。そしてそれにもかかわらず敢えてそのような暴挙に出る行為選択をしているのだ。
 言語獲得という人類の事実を見据える時、我々は一個の社会成員が幼少期に言語習得する際の状況を思い浮かべてみるということは無駄ではないだろう。
 例えば責任という観念を「責任」という概念の下で了解して言辞を、陳述内容披瀝を行うのは、語彙「責任」を使用事実として認識してから後のことであろう。それは間違いない。そして語彙「責任」を習得することを通して「自己責任」とか「連帯責任」とか「説明責任」とか様々な派生的概念を理解して認識し、使用事実としてある文脈において使用し、概念を応用してゆく、ということもまた正しい。
 しかし同時に我々の幼少期を思い出してみても了解されることがある。それは「責任」という語を習得したから私たちは責任という概念を把握し、責任という観念を理解し、使用してきたのではない、ということである。
 「責任」という語を他の「道徳」とか「良心」から「背徳」とか「背信」という風に段階的に習得する際に我々はただ単に音声的秩序としてそれらを教え込まれたのではなかったのだ。つまり我々は「責任」という語を学習する以前にも、内的にはおぼろげながらも、「どういうことをしたら、周囲の人<家族、友人、学校の先生、近所の大人たち>にどういう処遇<扱い、評定>を下されるか」とか「どういうことをしたら褒められ、どういうことをしたら叱られたり、咎められたりするか」という判定基準を持っていた。だからこそ我々は学校で初めて「責任」という語が黒板に書かれ、教科書に記載されていることを大切な「覚えておかなくてならないこと<=概念>」であるとして脳内にインプットされたのである。この事実こそ本章の内的理解ということに他ならない。
 しかし「責任」という概念は他者に説明せよ、と言われればどうにか説明することが誰でも出来る事項であると言える。しかしそのように即座に答えられないこともまたこの世の中には沢山存在する。その一つが愛情とか友情とかそういうことであることは誰しも異論はないのではあるまいか?だからこそ画家が自分の描く絵をどこで仕上げたと言い切ってよいのか、あるいはどのような形態が完成に相応しいものであるかを説明せよと求められてもなかなか答えられないのではないだろうか?つまり画家を問わず小説家、詩人、音楽家といった人たちは皆どのような形で例えば小説をスタートさせて、どのような形でエンディングを迎えるように持っていくかに常に悩まされる。恐らくどのようなスタート(プロローグ)とどのようなエンディング(エピローグ)にするかということは、その作品を通してどの部分を最も強調し、メッセージとして伝達するかという意志決定の合理化と基準を一にしているように思われる。
 ここで敢えて結論的なこととして言えば良心というものは説明され得ないことに属するということである。例えば責任はそれに比べれば、良心発動、社会正義の実践というレヴェルから説明可能であり、要するに説明され得る事項に属する。つまり責任が説明可能なのは、責任を支える心的様相としての良心が愛情とか友情同様説明され得ないことをどこかで我々が無意識の内に覚知していて、それを根拠に代理的に使用している、と捉えることも可能である。そのことと関係のある事柄として再び大屋に登場願おう。
 大屋雄裕は「法解釈の言語哲学」の副題として<クリプキから根元的規約主義へ>と付け加えている。このクリプキに対する解釈こそ彼の論旨を決定するものであると言える。
 クリプキのことを解説するとそれだけでかなりな紙面を必要とするので、クリプキ哲学のことをある程度知識上粗方の読者諸氏が有しているということを前提に論を進めることにする。大屋はウィトゲンシュタインに対するクリプキの認識が一般的には誤っているという事実を提示した後にそのことを正論とする小林公の論旨に苦言を呈する形で、小林の文章を引用してから自らクリプキに対する認識の結論として次のように述べている。
「いわばウィトゲンシュタインがルール使用を内的に・理解の観点から考えているのに対して、クリプキは外的に・直接ルールに従う者ではなく使用を観察している人間の視界から描こうとしているというのである。だがこの見解は、クリプキの問題の意義が「我々が一貫してルールに正しい結果を出し、だからこそ懐疑論者に苦しめられていたことを想起せよ」、我々と異なる結果を出した他者に対してどうしたら自分たちの答えを正当化することができるかという点にあるということを見落としている。すなわち、ここで問われているのは自らと異なる意見を持つ他者に対して自分の答えの方が正しいと主張することはいかにして可能かという問題、要約すれば権力行使の正当化問題なのである。だからこそ、この問題が法哲学において問われる意味があるのだ。」(「法解釈の言語哲学」73ページより)
 ここで私たちが問わなければならないこととはクリプキ哲学がでは実際皆が通常答えるプラスの答えが正しくはないと言っているのか、ということである。そうではないだろう。彼はそれが歴然と正しいことを承知の上で敢えて「だがそれを認識論的に根拠を論って説明することなど出来はしないのだ。」ということを言いたかったのである。つまり我々は通常何でも言葉で説明出来るという幻想を持っている。しかし我々の日常において経済活動、政治的決断とか多くの事例を目撃して、自分が当事者ではないのに、どこかで「あの社長のあの時の決断は正しかった。」とか「あの時の総理の決断は正しかった。」とか肯定的な評価からそうではない否定的な評価に至るまで一々説明するまでもなく判断しているし、また大勢の人間がそういうことというのは往々にして間違いではない場合の方が多い。そしてそれは全体的な流れとか全体的な判断において、その場その時に立たされた個人の決断としてはその後如何様に流れが変わったとしても尚、その時の決断は正しかったとか間違っていたという風に言える。それは理屈ではない。我々はそれを言葉で説明しようとする。そしてそのことは正しい。しかし同時に言葉では説明しきれない数多くの具体的な事柄というものの存在を我々は知っている。そしてそれらの筆舌に尽くし難い事項の存在の前では説明とか根拠の堤示という行為の無力を我々は無意識の内に知っている。そのことを敢えてシニカルに「あなたはあなたが一番正しいと思う回答が正当であるという根拠を果たして示すことが出来ますか?」という問いを通して覚醒させたのがクリプキの「ウィトゲンシュタインのパラドックス」であると私は捉える。その意味ではクリプキはウィトゲンシュタインの考えていた内的理解という面での現実(私が提出した「責任」という語習得以前の責任に対する認識)を否定したわけではなかったのだ。彼がプラスをクワスとしたことはスワスでもツワスでもどれでもいいという可能世界に対して、我々の世界では明らかにプラスを自明のこととしている規則遵守は、では規則だからと言って規則だからそのメカニズムを説明せよ、と言われて答えられるのですか、という問いが彼から発せられているのである。(尤もウィトゲンシュタインの内的理解とは言語獲得後的なものである。)
 私はこのことをもってクリプキはウィトゲンシュタインが自身の哲学を突き詰めていった時「私的言語」という観念を提出したことに象徴される規則遵守とは無縁のように思われる内的な個、あるいは内言といった事態が、一方では説明責任によって成立している社会が、同時に全ての成員間では説明不可の様々な思念によっても満たされ、それはカントが言った道徳的法則とか自由という価値論的命法が、言葉で説明出来ないほど自明であるからこそ逆にそれを何とか言語化することには意味があるという主張になっている(それは自然科学においても同様のことが言える。自然科学で知り得ることには限界がある。しかしその限界まで知ろうとすることには人間の知の偉大さがある。)ことと同一の地平を我々は確認することが出来るのである。
 クリプキは「数学式を始めとする言語の偉大さはその説明的な無力さ故に確然的である。」(要するに言語では常に説明され得ないことが残るからこそ、言語で何とか説明しようとすることに意味があるということである。)という主張を、数式を通して示したと捉えているのだ。その意味ではクリプキはゼノンやヒュームと同様カントのチルドレンでもあったと言うことが出来る。そして本章の結論を言うと、良心というものは相手の立場に立ってそれを自分の立場に置き換えて考える配慮であるが、責任と重複する部分もあるが、責任が時として非情である場合もあることに比べれば、それが正しいか正しくないかを説明せよと求められれば、即座に返答に窮する日常的には最も経験することの多い心的な確然性である、と言えよう。
 だから我々は幼少期に「責任」という明確なイデーを把握していて、それをその内「責任」という語(概念)に置換して高次の応用を旨として理解してきた。しかし良心はその正体が明確にもかかわらず責任ほど言語化して説明することが困難である。それはどこか深く感情的なレヴェルでの判断に基づいているからである。そして良心的な判断は時として責任遂行と衝突することもある。だが相手の立場になって考え、相手を思い遣るという意志決定は論理外の判断である。責任はその範囲内で良心を使用しようとするから、社会正義の範囲で自明な判断であるだろう。しかしもし責任に対して良心が許さない場合、我々は説明不可領域において決断しているのであり、そのどちらが正しいかというような論理整合性からではない筈だ。もし行動として決することを躊躇しているのなら、それははっきりしている、制度は良心に対して拮抗しているから、決断を鈍らせているだけのことである。そしてそれを決行することが正しいと自分では信じているが、怖気づいている場合には迷いを吹っ切るために納得出来る形で自己に説明することこそが意志決定の合理化(それは良心に対する責任の側からの決行に際してもあり得ることである。)なのだから、それが出来なくて苦しんでいるだけのことである。そしてそれをせずに済ますことは後悔と自責を我々は後日抱くことになるということもまた我々はよく承知しているのである。画家は恐らく直観的に説明不可能な良心に基づいて一個の作品をどこかで完成としているのだろう。

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