Tuesday, October 6, 2009

結論 喪と瞑想

 人間が死した他者との思い出を持ち、その中でその他者だけが知る唯一の私という観念はその他者の親しさに応じて、重要となってくる。しかし通常他の動物はその他者しか知らない自己という観念は持たない(と思う)。人間がそれを所有出来たのが、記憶能力の進化によるものかも知れないし、そのような想念を偶然持ったことが記憶作用に進化を齎したと考えることも出来るが、そのことについて問うことには今のところそれほど重要ではない。問題はそのような自己という観念を抱くこととなる何らかの社会的な出来事が問題設定上必要である。それを取り敢えず喪という行為から考えていってみよう。
 もし今現在の人類のように他者の死に際して、その他者だけが知る自分という意識があったのなら、人類の祖先はその当時から既に死した他者と親しい度合いに色々な等級があったと考えるのはごく自然なことではないだろうか?例えば死者の知る唯一の私というものに近い観念が既に殆どの成員に備わっていたのなら、例えば長老者が亡くなった場合、当然その親族、つまり配偶者、子供、親戚、同僚(尤もこれは公務に付く者の場合、とそれほどの地位にない者とでは喪の形式には違いがあったと考えるのも自然であるが)といった人たちがまず最も死に際して悲しみを持つと言うことはあり得るから、そういう長老的な人の死には、通常の人間社会での親等と社会的地位に応じた喪に同席する成員間の死者との親密度の等級が存在したであろう。しかし若い青年が亡くなるという事態も決して珍しいことではないだろうから、そういう場合、近親者以外では同世代の友人とか同僚とかが優先的に喪の中心に置くことを長老者もまた承諾していたのではないだろうか?要するにそれは思い遣りという意識である。
 また言語面から考えると、既に名詞と動詞はかなり発達していたが、未だ確固とした統語秩序の形成期においては、感情的な内容叙述としては確かに形容詞が重要な役割を果たしたが、同時に死者に対する親密度の等級という意味では既にかなり明確に日本語で言えば助詞とか、英語で言えばisn’t it?とかwould you?といった付帯節注1がかなり発達していた可能性も否定出来ない。つまりこれはやがて社会階級の固定化に伴って敬語と、日常語の差異を生じさせる契機として作用したとも考えられる。そしてこの助詞とか付帯節のようなものの発達それ自体もまた統語秩序としての統辞能力を急速に進化させていったとも考えられる。だから統語秩序の完成期以前には、<名詞+動詞→名詞with形容詞+動詞>あるいは<形容詞だけ→名詞with形容詞+動詞>→<名詞with形容詞+動詞、形容詞だけ>、あるいは<前記一切>→<前記一切に付帯する付帯節、助詞>→<前記一切+敬語表現>といった使用例における進化順序はそれぞれ考えられるところである。
 この際私が最も強調したいのは、親密度の度合いを他者が他者同士に対して認識し、それを言辞自体に弁別させる能力そのものが、統語秩序と社会階層というものの秩序を完成させるに至ったのではないかというものである。だから社会的地位の低い者なら者同士の親密度の度合いに応じた喪の際の列席順序、これがもし初期人類にあったとしたら、逆に今まで考えられてきたような社会階層という合理主義以前的に厳然と、親切心とか良心とか善意志といったものがまず基本として形成されていた、ということになる。それは人間に不合理的な社会秩序に対する初期段階的な萌芽である(そのことはすぐ詳述する)。
 そのような繊細な弁別性においては、「思い出」という概念はかなり早くから芽生えていたと考えられる。ホモ・サピエンス以外の霊長類もまた恐らく社会階級外の親密度の等級という現実はあったことだろう。しかし彼等は一様にそれを言語として弁別することが出来なかった。付帯節とか助詞を発達させることが出来なかったのかも知れない。例えばネアンデルタレンシスもまた名詞のごく単純な弁別を何種類かはこなしていたのかも知れない。しかしそれ以上には例の喉頭器官の発達の度合いがホモ・サピエンスよりも低く、発声行為における弁別自体に限界があったのだろう。しかしもし彼等が何らかの発声以外の例えばエクリチュールを我々人類よりも早く発明していたら、逆に我々人類の方の生存が脅かされていたかも知れない、とも私には思われる。恐らくそれが手話であっては、やはり我々よりも早く絶滅するのは必至であったことだろう。手話というものは捕食者に面した時のリスクを考えれば発声意志伝達よりも分が悪いからである。
 この結論の章を「死と瞑想」としたのには訳がある。瞑想とここで言うのは明らかに「喪の際の冥福」のことであるが、これはその瞑想をすることを他者が慮り、そっとしておいてあげるという意志が多くの成員に備わっていたであろう、という私の推察からである。  
 勿論現代にも多くの犯罪者やエゴイスティックな独裁者たちは存在するから、当時からいたであろう。しかし少なくとも喪の時だけは社会的地位の優劣よりも故人の親密度を優先するような順位が発達していたなら、ひょっとするとそれを表現するための日本語で言えば助詞に相当するものの弁別において我々の祖先たちは社会階層と社会階層外の人的交流を文化的な余地として発達させ人間の精神性を進化させていったということは容易に想像される。それは社会にある二重性、つまり社会機能維持という合理主義と共に、個人主義的な発想の生活、もっと端的に言えば友人関係、友情といったものを明確に育む。それがあったからこそ仮に圧制的な秩序の社会がもしあったとしても尚一般庶民とか人民は生活保持をしながら圧制を耐え得ることが可能だったのではないだろうか?
 ここでちょっと纏めておこう。
 まず品詞自体がメッセージ性を持ち得る幾つかの論点における順位表を示そう。

感情意味論(発話内容)的メッセージ強度順位
① 形容詞
② 動詞、副詞
③ 助詞
④ 名詞

感情表現論(話者態度)的メッセージ強度順位
① 助詞
② 副詞
③ 形容詞
④ 動詞
⑤ 名詞

事実述定論的メッセージ強度順位
① 動詞
② 名詞、形容詞
③ 副詞
④ 助詞
(注、感情意味、表現両論的に順位の低い名詞だが、それを話題にしているのだから、内的な指示をすること自体での関心レヴェルでは常に最大であるが、それを叙述レヴェルでは無視した。)

対象指示論的メッセージ順位
① 名詞
② 動詞、形容詞
③ 副詞
④ 助詞

次は日本語を基準に助詞が示す感情的意味合いと、話者の聴者に対する態度、つまり感情的な様相、つまり言辞で表示される事態について考えてみよう。
①「今日はいい天気ですね。」
②「今日はいい天気ですわね。」
③「今日はいい天気ですわ。」
④「今日はいい天気ですわよ。」
⑤「今日はいい天気ですよ。」
⑥「今日はいい天気ですぜ。」
⑦「今日はいい天気ですこと。」
⑧「今日はいい天気ですぞ。」
⑨「今日はいい天気ですなあ(のう)。」

①は誰が使用しても、いい天気であることをよいことであると歓迎するような朝の挨拶的言辞である。②はその女性言葉である。しかしこれはある程度親しい間柄でないと使用すると多少不自然である。③も女性言葉であるが、女性が誰か別の人から同意を求められて賛同の意を表するニュアンスである。④は多少屈折していて、ある程度親しい間柄の人に対して女性が、外に出て行かない誰かに対して「こんないい天気なのに家に一日中引き篭もっているのは健康によくないですよ。」と独身の若い男性に中年女性、しかも下宿の大家の奥さんから誰かが声をかける風情の言辞である。⑤はやはり外に出ないで一日中自宅や職場で仕事か何かをしている人があまり外の天気が確かめられない条件や自宅とか仕事場に訪ねて来た人に「今日天気はどうなんですか?」と訪ねられた時の返答のようなニュアンスである。⑥は何か悪事を決行しようとしているグループの部下が、決行を渋っているボスに対して嗾けるようなニュアンスである。⑦はいかにも昔流行った洋行帰りっぽい(あるいはそういう振る舞いをする)貴婦人が他人に話しかけるようなニュアンスである。⑧は年長の部下が年少の上司にやはり一日中屋内に引き篭もっているのを外に連れ出すような風情の言辞である。⑧は多少年配者が近所の人に対して休日に話しかける風情である。
 このように現代日本語でも助詞の使い方一つで全く異なった雰囲気に文章全体が志向される。つまりこの種の助詞使用に纏わるニュアンスは実は極めて言辞という事態からすれば重要なのだ。そしてこれはどの言語でも該当する事項である。仮にこれを英語に翻訳してみよう。
① It’s very fine today、isn’t it?
② It’s so fine today、isn’t it?
③ It’s very fine today 、you know.
④ It’s so fine today 、right?
⑤ It’s just very fine today.
⑥ It’s very fine today right now.
⑦ It’s so fine today、I don’t believe it.
⑧ Say、It’s very fine today.
⑨ It’s very fine today、oh boy.

人間はある言辞を齎した際に、失言に近いことをすると、途端にある疚しさを感じるものである。それは第一章においても触れた。このことを私は羞恥感情と結び付けた。これを社会学的視点とりわけデュルケム的な集団の拘束力とそれに対応する個人的判断という観点から考えると、生物学者ハミルトンたちの提唱した利他行動という観点と容易に結びつく。要するに動物界に普遍的に存在する事実の人間版というわけである。しかし同時に、利他的な潜在的合理主義だけでは分析不能の行動を多く人間は行う。ある時には自己犠牲を利他的であるような正義からではなくすることもあるのではないか?あるいは他者に対する思い遣りとは、自己に対して周囲の者がぞんざいに扱うことがないように良好な印象を保っておきたいと願う無意識の心理からのものもあるが、そういう受動的な思い遣りばかりが人間によってなされているとは限らない。もっとその人間の真意からの思い遣りというものもあるだろう。あるいはそのような主体的、と言ってもそれによって社会正義を貫くというような道義的なものではなしに、もっと個人的な思い遣りというものの行使の能力そのものが他の生物個体との相違を作ってきたのかも知れない。そしてネアンデルタレンシスたちが絶滅したのは、彼等には絵画を描くことが出来なかったというが、私が社会的地位とは別個の個人主義という観点を提示したが、ホモ・サピエンス同様のそれを彼等は持っていたのだろうが、恐らくそれを言語化することの能力の欠如が彼等を絶滅へと追い遣ったのではないかという観点からは私は決して今の進化学の見識を疑うものではない。だからもっと彼等の身体とDNA調査と脳科学(それは実際の個体で研究しようがないので、古生物学とか解剖学とかから類推接近するしかないのだが)から真の絶滅の原因を突き止めるしかないのだろう。
 上記の言辞そのものの多様は、それを意味内容的には同一のものとしながらも、態度表明における話者と聴者との関係とか相互の感情の度合いを測る意味でも今後の言語学ではより重要なテーマとなってゆくように私には思われるのだ。あの日常言語学派の学者たち(オースティン、ストローソン、サールといった人たち)はある程度の方向的可能性を示唆したが、今後そういうアプローチには自然科学の分野のエキスパートたちとの協力がより求められてゆくであろう、とも思われる。上記の例で言えば、英語では助詞というものはない。しかし英語には日本語以上にニュアンス表現は多様であるという面もあり、各言語間に横たわる構造論的差異を越えて、我々は普遍的な品詞論的な意志伝達様相について考察してゆく必要性があるのではないだろうか?

 背徳が禁止を生むと私は第一章で述べた。そのことに関して少し考えてみよう。
 私は私なりに集団同化意識と孤独確保意識というものを設定して考えているのだが、前者は明らかにデュルケム流の考え方であるが、それは集団の成員としての意識として国家意識、民族意識、地域社会の社会人意識、大人社会意識、ビジネスマン意識、教育者的倫理といった様々な職業意識等もこれに入るとだろう。しかし何か倫理規定的に「それは許されないことだ。」と強制されると人間は途端に反抗したくなるものだ。人間にはあくまで善意志として個人的意志としてそれを行うのでない場合に、必ずどこかで拒否反応を示すという部分がある。そこで我々は往々にして強制されて何かをなせと言われると、それが権力からなら余計に「別の行動だって許されるのではないか。」という疑問を抱く。その時我々は孤独確保意識を持つ。それはニーチェの言うディオニソス的側面の発動である。反社会性というものは犯罪者以外の通常の社会人にもあるのだ。そしてその際に反社会性の意識を共有し合える成員に対して我々は共感を示し、連帯感を抱く。それはある意味では私が言った言語獲得時に人間が備えていたと私が仮定した個人主義的な人間の性質である。例えば私たちは正式に結婚していない男女同士の性的関係をモラルに反する行為であると一方では倫理規定的に社会常識の枠内で正当な意見としながらも、他方実際の社会を見回してみると、真実に幸福な結婚生活ばかりではなく、建前的な結婚とか政略的な結婚(勿論それら全てが不幸であると言っているわけではない)とかも多く、そういう事態に抵抗感を持つことは体制的、反体制的と問わず多くの人間の持つある種のヒューマニズムであると言ってもよい。一般常識的観点からは通常では許されない、あるいは法的には認められないような不倫関係においても、我々は「頑張れ」と声援を送るような事態さえ稀ではない。これらもある意味では社会的地位に厳密に従った喪における参列順位とは異なった個人的親密度を優先するような私が仮定した人類の祖先の実像と共通する人間の性質ではないだろうか?
 つまりこういうことが言える。背徳という観念は確かに性交渉に関して言えば、不倫関係であり、かつ肉体的快楽を目的とする事態を想定して言っているのだろう。すると社会で容認出来ない背徳というのは、それが正式な夫婦であるなら許され、そうでなければ許されないということであるわけだ。そこにある種の人間の法遵守的形式主義を見ることが出来る。だから性的快楽追求そのものが悪いと法的に規定しているわけではない。もしそのような性的快楽追求をモラルに反した行為だと考えるなら、それは集団同化意識でも寧ろ個人的な幼少期における宗教体験、あるいは教育体験(親から何らかの禁止指令を受けたというような)に起因するものと考えられる。性交渉での快楽追求とは、それが売春、買春行為に纏わる性病の危険性を伴うものであれば、回避すべきものであるが、正式な夫婦間あるいは恋人間において何ら疚しいという意識を持たない成員は現代では多いと思われる。しかしそれにもかかわらず、あらゆるチャンスに恵まれない成員(老化も手伝って)にはそういうことにおいて極度に拒否反応を抱き、自己生活上の信条としても極度に潔癖を守っているのかも知れない。そういう成員に顕著に見られるケースとしては、年功序列的な観念を極度に重視し、年少の自由な行動の人間に対して敵意を剥き出しにするという事態はよく見られることである。そういう成員にとって助詞とか付帯節的なニュアンス表現上での礼儀といったことは最重要事項であろう。勿論人類の歴史において礼節のために助詞、付帯節的言辞が最重要事項として発展してきたことは否めない。また英語では日本語にあるような厳密な敬語の形式は存在しない。しかし寧ろそのために英語にはニュアンス表現に対して人一倍神経を使わなくてはならないし、訴訟社会のアメリカではそういう些細な失言が醸す社会問題は恐らく日本以上のものがあるだろう。かつて「アリー・マイ・ラブ」注2というドラマが放映されたが、それは若い女性弁護士がヒロインだった。そこで描かれるアメリカ人の姿は、日本以上に言葉に神経を使うということであった。
 しかしそれにもかかわらず、現代は基本的にそういうレヴェルでの価値観が最重要ではない。それ以上ビジネスシーンでは神経を使うことが近代以上に増殖してきた、ということが言えるからだ。だから私が示したそういう古風というか、時代遅れな成員も中にはいるのだろうが、最早現代では年長差よりも仕事に関する能力差による差別の方が深刻である。しかし能力差に纏わる差別はある意味では礼節を欠くような事例にも事欠かない。だから逆に古代やそれ以前の人類の祖先が抱いていたかも知れない、思い遣りという月並みな言葉で表現した喪の際における配慮に近い人間の資質、それはある意味では現代では急速に失われつつある面もあるが、それを見直すということは意味ある考えではないだろうか?
 エクリチュールについて多く触れることが出来なくなったが、これは喪についての他者への思い遣りという心理の保有が延長されている。「そっとしておいてあげる」ということは冥福を祈る瞑想に対して配慮されるばかりではなく、一人で何かをする時間を他者へ付与し合うことの認識が我々に文字を読むという個人でする行為を記述という行為によって促進することなのだから、我々は他者への死者の別れとそれに伴う一個の自己への惜別と追慕の情を理解する心が、記述を通したもう一つの瞑想を相互に付与し合うということを定着させたと捉えることが出来る。(注1、付加疑問文や感嘆詞全てを含めて私はこう呼ぶことにした。注2、「アリー・マイ・ラブ」は原題をAlly McBealと言う。尚現代脳科学では、古脳でもとりわけ扁桃体と呼ばれる部位に情動を司る機能があり、記憶を促進するのに役立っていると考えられている。またfMRIとは機能的磁気共鳴影像法、functional magnetic resonance imagingの略である。)

参考文献 「論理学研究」、「イデーン」(みすず書房刊)エトムント・フッサール、「存在と無」(人文書院刊)ジャン・ポール・サルトル、「言語と行為」(大修館書店)J・L・オースティン、「個体と主語」(みすず書房刊)P・F・ストローソン、「野生の思考」(みすず書房刊)クロード・レヴィ・ストロース、「裸のサル」(河出書房新社刊)デズモンド・モリス、「利己的な遺伝子」、「延長された表現型」(共に紀伊国屋書店刊)、「ブラインド・ウォッチメーカー」(早川書房刊)リチャード・ドーキンス、「文化人類学入門」(中公新書)祖父江孝男、「意識とはなにか」(ちくま新書)、「脳と仮想」(新潮社刊)、「脳と創造性」(PHP刊)茂木健一郎、その他多数

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