Monday, May 28, 2012

〔言語の進化と責任〕第五章 自我の超越と宗教的行為、そして道徳的行為

 この社会には学問とされるもの、芸術とされるもの、あるいは宗教とされるもの等がある。哲学は学問であるが同時に極めて芸術的なニュアンスがあるものもある。美学などがそうである(現象学も文体に拘るところがある)。
 ところでくだけた話だが、自然科学者にはレオナルド・ダ・ヴィンチのように芸術と両立している天才もいるが(尤も彼は基本的には画家だ、と茂木健一郎は言っている)全く芸術的な素養のない人でも科学者として偉大な人は大勢いる。あるいは宗教家として名を馳せた人の中には偉大な科学者もいたが、科学に関しては無知でも偉大な宗教家はいた。そのように考えれば多芸多才な天才もいたが一つの道に朴訥に突き進む天才もいたし、その両方ともが偉かったと言っていいだろう。それは科学の知識に疎くても偉大な芸術家やスポーツ選手がいる(彼等は直観的にそういう真理を捉えている)ことと同じである。
 つまりそのような両立と独立という価値の錯綜が様々な学問の世界で散見される、と言うことなのだ。因みに心神喪失という言葉は法的な用語であり、精神分析とか心理学ではまた別の言い方をする。しかし今日のように社会が複雑化してきているような時代では他の専門用語でも専門家以外の多くの職業人が把握していなければ社会のニーズに対応しきれないという面もあるので、精神分析や心理学の用語はその専門家以外の職業人でも把握しておく必要がある。そしてそのように意識しなくても尚、今日ではネット・ユーザーの間では意識しなくても自然と視界に飛び込んできて、「さて、これはどういう意味だろう?」と首を捻れば即ネットで調べれば概略的なことくらいなら即座に知ることが出来る。
 しかしこのような職業的な領域の違いを超えた学者間の好奇心は今に始まったことではない。事実ウィリアム・ジェームスは当初生物学や医学を学び、解剖学等の素養を積んだ後、心理学にも挑んだのだ。つまり当初自然科学の領域に学んだ人がその後人間の心理について学ぶことになるという道筋は極めて多いケースである。そして医学や生理学といった要するに身体を客観的に、哲学の用語で言えば外在主義的に認識する学から、もっと人間の心理を主観的に捉える学へと関心が移行するという事態は、ある意味では医学や生理学の専門家でも、人間の身体が人間の心理と分かち難く結びついており、従って身体一辺倒では医療行為さえ困難であるという認識に至るからであろう。この事実は一面では現代の用語で言えば意識のハード・プロブレムに還元出来るように思われる。この考え方はオーストラリア哲学者であるディヴィッド・チャーマーズが初めて提唱した。(1994)しかしそのことについて触れる前に既にウィリアム・ジェームスがその考え方の萌芽を持っていたという事実から入って行くこととしよう。
 ジェームスはこの論文でも何回となく登場してきた「宗教的体験の諸相」で次のように言っている。
 「緊張、自責、心労が、平衡、忍従、平安へと移行するということは、私がこれまでしばしば分析してきた心の均衡のあらゆる転移、人格的エネルギーの中心の変化のなかで、最もふしぎなものである。しかもそのふしぎは、主として、この移行が積極的な活動によって生ずるのではなく、単に心をくつろがせて重荷を投げ出しただけで生ずる場合が多いという点である。この自己の責任の放棄ということは、道徳的行為とは違った、とくに宗教的行為の基本的な営みであるように思われる。それはあらゆる神学に先行し、またあらゆる哲学とも無関係である。(後略)」(岩波文庫、下、55~56ぺージより)
 私たちが今ここでジェームスから受け取るべきこととは、心を寛がせることというのは責務的に間違ってはいないということなのだ。つまり道徳的行為とは人間が社会内での倫理に照応させて価値と見做した行為であるが、宗教的行為とは、外見的な振る舞いとか対他的な振る舞いからよい結果を引き出すのとは異なった個人毎に異なった忘我に対する接近法を我々に自覚させてくれる。
 今日の社会はインターネットの普及によって自宅勤務も多くなり、昼日中街中でショッピングをする若者以外にも中高年も珍しくなくなってきたが、そういう現代のフレックスタイム制的生活は形式的振る舞いだけが責任ではないということを教えてくれる。
 ところで何もジェームスは宗教心と信仰心のみが社会を救うと無宗教を否定しているわけではない。無宗教であっても信仰心の一つなのだし、それは形を変えた宗教心以外の何物でもない(因みにデネットはジェームズを人類最初のミーム学者だとしている。「解明される宗教」阿部文彦訳、青土社刊)
 そして努力とか意識的な心得だけが好結果を得ることに繋がるのではないという主張としてもこの下りは拝聴に値する。
 社会的道徳はしばしば外見的所作とか形式随順的傾向の強いステレオタイプを招聘する。それは建前主義的な強制力以外の何物でもない。建前はそれが必要な最低限の許容範囲に留めてくおくべきであり、それ以上の強制力になった時本末転倒である。そしてここで最も重要なこととは重荷、つまり義務感、あるいは責務感から解放された時寧ろ初めて真に責任を遂行することが可能になるという事態がしばしばであるというジェームスの心理学者としての境地であり、それは哲学者としての彼の思想にも繋がっている。そしてジェームスは必要以上の媚び諂いとか言葉の安易な流行に対するアンチテーゼもきちんと述べている。(同書、下、61~64ページより)
 この考え方は特に「あらゆる神学の先行し」という下りからも明白であるが、よりカント的な神に対する必要以上の諂いに対する侮蔑感情(神も間違うことがある筈だという考え)をも読み取ることが可能である。そして極めつけは哲学でさえ生の時間での心の解放に比べれば何ほどのものでもないという考えである。この下りはウィトゲンシュタインの「このテクストを乗り越えねばならない。」という「論理哲学論考」の最終節の主張にも繋がる。
 NHKの紀行番組でも特集されたが、サルヴァドールのサンバのカーニヴァルでの熱狂を我々は道徳で推し量ったからと言ってその本質が把握出来るのだろうか?それは把握することすら意味を持つであろうか?それは感得の世界であり、子供から大人までが一斉に打楽器を演奏する様は陶酔と忘我の境地である。そして音楽教育云々というレヴェルで体得することが出来るものではない音楽のリズムと熱狂が幼少の頃から生理的にも、身体論的にも、心理的にもその根幹から沁み付いた彼等の生活は、親なし子たちや、そういう境遇の人々同士での隣人愛(キリスト教教義的な呪縛からのそれではない)、或いは人類愛のレヴェルでの大人と子供、老若男女の集いの中から生まれる。それは私が本論で言うところの真の信仰ではないか?神は一人一人の生活者の心の中に宿っているという思念が彼等には定着しているように思われた。そしてそのような大衆的な熱狂は実はどの民族も持っている文化であり、体質でもある。それらは自我というものとは一体どういうことなのかという反省へと我々を誘う。
 反省はヘッブが否定的に語った内観とは異なる。今日記憶の問題が大きくクローズアップされていることから、我々は環境と適応した行動とか遺伝子以外に、記憶作用というものを考慮する必要があり、それは内観主義と一線を分かつだろう。そして道徳という言葉をジェームスは先述の記述で否定的に扱っているが、では本質的に道徳的であるとはどういうことかという問いもまた彼の記述は産出しているのである。
 話をいったん言語学に移行させる。
 言語学者イエスペルセンは総じて文法規則において、その認識を主部(主語を含み、埋め込み文の場合にはその実詞を指す)と述部、そしてその関係性、そして実詞を目的語とする一次、二次、三次という等級を付け、端的に言えば階層性を設け、その階層性において支配と従属という観念で文法を理解しようとしている。これは英語のように目的語が見かけ上はっきりしている言語であれ、日本語のような膠着語と呼ばれる接続詞によって支配と従属とが了解される言語であれ変わりない真理である(膠着語では叙述で目的格に膠着する接続詞が状況説明と話者同士の情動的確認の意図がある。屈折語では状況即応的なことは統語全般に開放されていると考えてよい)。そして彼は主に形容詞や副詞といった品詞がその使用目的によって名詞化する動詞とか、副詞化する名詞といったような認識によって言語行為というものが極めて機能的にも、使用意図的にも恣意的なものであるという認識を示している。
 このことは言語が生き物であり、規則とか規約とか(その中には文法も含まれる)はあくまで言語学上の分類項目として設定された基準でしかないという思想が示されている。
 道徳というものもまたそういった社会通念とか時代毎の規約として作用しているという側面は否定出来ない。だからテクノロジーの進化によって社会常識や人間関係(特に組織での)がその認識すべき優先順位が変更されてゆくという事実に道徳もまた向き合う必要がありはしないだろうか?
 例えば性について少し考えてみよう。マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において示したプロテスタントの性生活上の規定として子孫繁栄以外の性的快楽追求を戒める言辞には、今日の家庭生活を営む人々も、恋人たちも懐疑的な思いを抱くのではないだろうか?つまりそれは端的に我々人間もまた動物であり、生物であり、社会的責務とか義務以外の時間のプライヴァシーもあっていい、ということになる筈である。
 確かに近代の殖産興業の時代にはそのような倫理規定にも一定の効力があったかも知れない。しかしそのような倫理が道徳的なコードとして今日通用すると考えている御仁は現代では希少ではないだろうか?巷には体位に関するハウツーものも飛ぶように売れたりする現代ではプライヴェートで一切強制力のないコード(米国のバイブルベルトではどうなのだろうか?)にしがみ付いているという事態にはあまり大きな意味を感じない人の方が多いだろう。
 再び言語に戻そう。言語は確かに支配と従属によって伝達事項を伝達内容として伝達対象に対して伝達者が意図的に示す信号である。しかしそれは言語自体が有している性格のように見えるのは表面的なことであり、文法とか一定の伝達習慣によって規約として存在する約束事に随順することで理解しやすくしているという事実として捉えるなら、説明的な理解というものの本質が個人的な能力とか個人的な性格的傾向性よりも大きい、つまり我々が考えるよりも個人間の差とは小さいものである、という事実へと我々を覚醒させる。つまり性と言語というものは、その行為(性行為、言語行為)において個人差よりも共通性の方が大きいということでは共通するという事実に我々を導くのだ。
 社会道徳が禁欲的になるとしたら、それは性的快楽への追求が果ては金銭的な悪辣な商法や詐欺まがいの利己的な行動が蔓延した状況下であろう(売春に纏わる退廃が禁欲を招くが故に)。 しかしことはそれほど単純ではない。何故なら禁欲的な道徳というものはただ社会という人間存在の一個人にとってみれば外部的な環境強制的なものを原因とするものではないからだ。個人的な懺悔心によってジェームスが示したような決意が個人内部でなされる時我々はその禁欲的な聖徳を対他的にもモラル上では適用してしまいがちだ。それはある意味では個人の間での共通性が差異よりも大きいという認識が仇となってしまう事態でもある。つまり自己内発的な宗教心はただ単に自己変革の道具として認識されている内はいいが、ある社会的強力を持ち始めると途端に様相を変化させる。
 しかしこう考えてみよう。もし生物が生殖という行動を採らずに、つまり異性同士の交配というものなしに、つまり雄(Y遺伝子の産物)なしに、雌一個体だけで子孫を形成出来るのなら、基本的に全ての個体はクローンとなる。しかしクローン同士は血族であるが、それ以外の他の個体群は全て他者(人間であるなら他人)である。そういう社会がもしこの地球上での進化の偶然で成し遂げられてしまったなら、少なくとも高等知性を持たない生物にはそういう繁殖の形態を選択したものも実際にはあるが、人間がそれに習ったとしたら、今頃とっくに人間の脳の進化の凄まじさの前で、他のクローン群に対する自己同一クローン群との戦いにおいて全ての個体は絶滅への道を辿ったかも知れない。
 つまり異性との交配という遺伝子のブレンドと適度の配列ミスによって人間という存在は多様性を持ち、豊かな隣人間での友愛と友情と、社会的協力を成し遂げてきたのであり、純粋同一遺伝子継承性を捨て去ったことが我々人類の繁栄を司ってきたのである。そういう意味では共通性を探ることが異性を前提している内は未だ平和であるということである。
 そこで人類は価値観の多様性への認識を持つことになった。勿論時として歴史はそれを踏み躙ってきた。しかしそのことに対する反省も常に繰り返してきたのだ。その際に漫才の「ぼけ」と「つっこみ」的なコンビネーションによる対話という性格論的、役割遵守的な対話によって辛うじて社会の崩壊を未然に防いできたとも言えるのだ。その時我々は宗教的行為というものの個人的なレヴェルでの救済と、道徳的行為の社会的レヴェルでの救済という事態を巧く並存させてきたのだ。
 一方で税金を払い、選挙に行き、社会的義務を行い、同時に家庭生活において個人的な幸福を築き上げていった。そしてその両者の中間に友情とか同僚同士の協力とかがある。自我は対他的な攻撃欲求を発現させることが要求される時には巧くゆくが、いったん防御の姿勢を解除した者同士では有効に作用しないことも多い。そこで一定の水準まで便利さが定着していった時、社会において共同幻想的な社会的事実に辟易した人類は、その度に「個」とは何なのかという問いを繰り返し提出してきたのだ。
 例えば日本では肉にしても魚にしても意図的に賞味期限を早めに設定しているが、それは食品業界自体が食中毒等の社会問題を引き起こすことを未然に防止し、責任を負うことを回避しようとしているからである。あるいは便利な商品、価値ある品目という題目は全て経済社会自体が捏造した欲望である。つまり消費欲求とか、アップグレード化された商品を消費するサイクルを作り上げるために社会全体が人間にそれに巧く対応出来るような欲望を作り出しているのだ。その欲望によって人は不安になる。つまりその欲望を充足出来ない成員は、立ち遅れているのではないかという不安を嫌が上にも掻き立てられるのである。その不安を除去するために現代社会では新たな任務が要請され、新たな責任が作られてゆく。その責任をつくるために不安は恣意的に作られ、ある時には意図的に作られるのだ。それは病気という事態に対してもそうである。
 病気は作られるのだ。つまり正常と異常の価値基準自体が、社会全体のムードによって作られてきたのだ。そのムードを煽るのがマスメディアでありマスコミである。
 ある報告(「抗うつ薬の功罪」デイヴィッド・ヒーリー著、田島治、谷垣暁美訳、みすず書房刊)によれば「抗うつ薬が導入されてからうつ病の頻度が1000倍にふえた」と言う。これは今までになかった形での要請、つまり新たに作られた新種の病気に対応するために処方される薬剤を投与し、その投与がまた新たな病気、つまり恣意的に捏造された異常(恣意的に作られた克服対象であるところの)を産出することとなって、薬事業界とか医療にとって恰好のターゲットを作り上げている。それは社会全体の経済サイクル的なニーズだけが優先された結果である。当然のことながらマスコミがその尻馬に乗っていることは言うまでもない。ではそういった現状をどのように改善したらよいのか、どのように切り抜けたらよいのかということになると、政治を正すのだとか、新たな数値目標をたてるべきであるとか色々な考えが捻出されるだろうが、それらも一聴に値するにしても、それ以上に重要なのは、我々一個一個の個人が意識的な変革、つまり当然過ぎる真理に向き合いつつ、社会全体が作り出す風潮というものに対して安易に迎合することなく、日々冷静に判断する(消費に関しても、マスコミや政治が題目を唱える今日的課題が真に正しいのかということに関して)ということに尽きる。
 宗教的行為が真に自己内の自覚によって執り行われるような素地を自ら築き上げるということが大切ではないだろうか?宗教的という言葉が嫌なら無心で取り組める充実した生における行為としてもよい。信仰という言葉が嫌なら信念を持って生きるということでよい。道徳さえもが社会全体のムードによって自然と形作られているという現実に対しては、「待てよ」と互いに声を掛け合う勇気を持とうということである。

Saturday, May 26, 2012

〔言語の進化と責任〕第三章 未来という事態に備える責任

 自己内で対話すること、ある自分がもう一人に自分に対して問いかけるという事実は、私たちにとって他者の存在への覚醒、つまり他性認識によって見出されている思念である。他者の存在しない世界では対話とは成立しない。ある心的作用や心的活動それ自体は他者との差異を認識していく中で自我を見出す活動の事実なのだ。キルケゴールが「哲学的断片」で考えていた師匠と生徒の関係は社会的な人間同士のそれであると同時に一人に人間の内部での対話をも意味していたのだ。彼は「不安の概念」で次のように言っている。
 「ソフィストたちをさして、彼らは弁舌はさわやかだが対話はできないとソクラテスが区別をつけて非難した真意は、ソフィストたちはあらゆる事柄について多くを語ることができても、身につけるという精神に欠けているためであった。この身につけるということこそ対話の秘密である。」(中央公論、世界の名著40、「不安の概念」枡田啓三郎訳、中212~213ページより)
 身につけるということは、ここで示されていることとしては、習慣化するということだけのことではない。身につけるということはその行為の意味を理解し、実生活を少しでもよりよいものとするために役立てることが出来る、つまり実践出来るということを意味している。しかし一見このキルケゴールの論述が正反対に見えるウィリアム・ジェームスの次の一節と同じ主張になるのだ。
 「「神の意志<みこころ>のままに成かれし」ということをただ口にするだけでなく、身をもって感じる者は誰でも、あらゆる弱さに対して防備されているのである。普通の人なら人心を動揺させたり苦しめたりするような事情にあっても、自己放棄が平静な心の状態を生み出すということは、歴史に名をつらねたすべての殉教者や伝道者や宗教改革者がこれを証明している。」(「宗教的体験の諸相」下、枡田啓三郎訳49ページより)
 ジェームスが言う最後の人たちは啓蒙に命をかけたわけだが、彼等の心的な活動は常に身に付けたものを実践するということでなされていたのかも知れない。
 ここで来場者諸氏は日本人にはそのようなキリスト教文化圏の国ではないので、関係ないのではないかと考えられる向きに対しては明示しておきたい。私が本論で信仰と呼ぶものはキリスト教とか無宗教者とかとは無縁な、あるいは彼等全成員の生活に沁み込む、心的決定要因、あるいは行動や意志の根拠の問題を言っているのだ。だからここでキルケゴールやジェームスが言う諸々の固有名詞や一般名詞は別の日本人にとって理解しやすい語彙に置換しても構わないのだ。要するに我々は内的にある「構え」を構成するのは他者の存在あってのことなのだ。そしてその事実から読み取れることこそが最大の命題なのである。
 本章では責任の在り方を巡ってなされる時間の問題について考えてみようと思う。
 茂木健一郎は「脳の中の人生」において自然科学とりわけ物理学では未来というもの、そのものの過去との区別とか、あるいは今というものが特別な事態であるということ自体は解明されていないということを述べている。さて時間の中で責任という概念は大きく立ちはだかってくるのだ。そして責任という共同幻想の内発化ということを考えることは自然科学の分野でも何らかのメリットはあるのではないだろうか?
 過去というものをまず現在の側から考えてみよう。過去の行為は現在に何らかの痕跡を残している。さて過去の行為の成果として現在があるのなら、その過去の行為は、その時にどのような評定がなされていたとしても尚重要なものとして現在からは認識されるのではないだろうか?
 小説家の石田衣良はテレビの対談番組において自分の小説家としての活動において過去の小説を書くことに直接関係のない普通の生活がいかに役立っているかを力説していた。つまり小説家を目指す人は出来るだけ普通の生活を送ることが小説をやがて書くことの肥やしになると彼は言っているのである。
 私は過去において最悪な事態ではなかったかも知れないが、多くの失敗をしてきたし、あまり芳しい青春を送ったとの言い難い人生だった。しかしそれらの失敗や挫折が今思い起こせばかなり役に立っているのである。つまり私は失敗もしたけれど最悪の過去の過失の損失を補填することが不可能なほどの失敗はしなかったということになる。
 つまり過去の行為は損失の補填が現在なり未来なりに残されているということと、そうではなく既に取り返しのつかないことの双方が存在するということである。勿論過去の行為それ自体は存在しない。要するに記録としてとか記憶として存在すると言っている。
 過去の補填出来ない行為において我々は対他的に賞賛したり、報奨を与えたり、逆に懲罰を与えたりしている。しかし過去の行為の補填が可能なことは、人生とは幾らでもやり直しが効くという意味に於いては、未来へ過去行為の代理行為を適用出来るのだ。そしてそれを対他的に認識すれば信頼したり、委任したり、任命したりすることになるのだ。
 それは責任を付与することである。責任を取ることとは現在の行為として位置付けられるのだが、それは賞賛したり、報奨を与えたり、懲罰を課したり、要するに一定の評定を与えることである。そして未来に対してはその賞罰においてなされた社会的意味に則った、その評定に相応しい責任を彼に与えるのである。そのことは対自的な意味においても変わりない。
 先述したキルケゴールの身につけるということ、そしてジェームスの自己放棄が平静な心の状態を生み出すということは双方にも信仰と私が本論で呼ぶものと一致する。
 身に付けるということは実践し、その行動の真理の意味を知るということであるし、自己放棄とジェームスが呼ぶ行為とは自我の超越のことに他ならない。そして自我を超越するということは自我をよく知るということだから、自我が他性認識と自己内の対自的対話という現実を知ることを前提する。平静な心の状態を生み出すこととは迷いない行動を採ることによって得られる。迷いとはポール・リクールも言っているように行動前的な逡巡とか思念とかのことであるが、要はそれを吹っ切って行動することとは迷いを消すことだし、迷いが消せるということは心の乱れを正すということであり、乱れないような安定を見出すということである。これは宮本武蔵の「五輪の書」の精神にも相通じる。
 そして揺るぎない信念、そして乱れのない心の安定というものの獲得こそ信仰という心の状態によって容易に得られるのではないだろうか?
 そして責任は信仰という心的活動を促進するものとして未来へ向けられた補填可能な過去の失敗例から学ぶ代理行為の権利と任務を我々に与える。責任の全うとは信仰によってなされ得るということである。そして責任ある行動という想念を得るには明らかに言語の助けを我々は借りている。仮定法とか条件節とかの論理的枠組みは言語的な論理によるものである。勿論非言語的な直観意識もここで総動員されるだろう。聴覚映像的な思念も心に立ち現われるからだろうからである。
 しかし責任を他者に委ねるという事実には、心的にはその他者の能力への信頼がある。そして責任を自己に帰することは心的に自己の能力に対して自信がある場合に限る。だから責任は自己や他者といったそれを帰すことの出来る成員に対する評定に左右される。そしてギャンブル的感性を他者に対しても自己に対しても適用する場合もある。少々危なっかしいのだが、一丁ある人間の能力に対して賭けてみる価値はありそうだ、という判断が責任をある成員に負わせることに繋がる。だから「やってみませんか?」という勧誘の言葉にはその成員に対する他者一般の信頼性を代弁した響きがあるものである。その成員の能力に対する期待値こそが勧誘の言葉の熱意の指標となっている。しかし未来そのものは不確実なので、どのように他の成員と比べてその成員が能力を発揮する可能性が過去データによって高いと示されていてさえ、本質的には賭け的要素は拭えない。
 記憶には書き換え作業があることが知られているし、特に過去のエピソードはどのように印象に残っていることでも現在の自分の状態に照応させ微妙に編集を行っていることも分かっている。心理学者のダニエル・L・シャクターは記憶の書き換えを「調和編集」、「変化編集」、「後知恵編集」、「利己的編集」、「ステレオタイプ編集」という風に心理学者らしく五つに分類して論じている。(「なぜ「あれ」が思い出せなくなるのか」春日井晶子訳、日経ビジネス人文庫)
 この様に記憶それ自体が現在の自分を中心とした都合で動くということを我々はどう捉えたらよいだろうか?
 恐らく我々はある部分では過去から現在迄継続されていることから今現在の不備を過去の例えば自分の行為での何らかの怠りに起因していると捉える時、我々は過去行為を反省するが、その過去行為が他者によってなされた場合、そのことによる実害を自分自身が蒙る場合、その他者へ社会的責任を問うということをするのだ。だから自分自身で反省しつつ今からはこうしようと思うことでも、他者に対して責任の所在を明らかにして弁済させる場合でも必ず現在どんな状態になっているかという査定から過去の行為の責任を問うのだ。
 ところで心理学者のニコラス・ハンフリーは「喪失と獲得」中のある論文で次のように言っている。
 「(前略)もはやヘーゲル的な法則が人類の歴史のコースを指図していると信じている人間は誰もいない。マルクス主義的な歴史原理を信じているものもほとんどいない。(もっとも、こちらのほうがおそらく多いに違いないが_エンゲルスの非凡な『自然弁証法』は、さまざまな形で、複雑性やカオスについての現代的な考え方を先取りしていた)。」
 ここでハンフリーは示すような意味では現代はとっくの昔からそうなのだが、絶対とか信仰という言葉が流行らない時代になっている。そして私はだからこそ敢えて普段それほどは取り上げないヘーゲルについて、その解釈を現代現象学者のアンリの視点を借りて大きく取り上げた。しかしある意味では絶対性という概念にとり憑かれていた時期が西欧哲学を中心として長かったという歴史的事実が、例えば男尊女卑的なジェンダーロール的観念が長く続いたことと同様に、逆に現代ではそのような誤りは二度と起こさない様な心がけを作ったのだ、と今私が勝手に歴史を解釈するとしたら、それは現代人としての「利己的編集」を私が採用しているのかも知れないし、また「調和編集」(予定調和編集と言い換えた方がより相応しいかも知れない)或いは「後知恵編集」を行っているとも言える。
 しかし歴史というものに対する捉え方とは常にそのような編集作業の反復であった。だからもしかしたらあと何十年かたった後、意外と絶対という観念がもう一度見直される時期が来ないとは決して断言は出来ない。
 そう捉えることも現在でも我々の判断なのだ。何故なら古典から触発される新しい考え方というものも常に存在してきた。その意味では案外相対論自体もそろそろ大きな曲がり角に来ていると言ってもよいかも知れない。
 しかし少なくとも、その時に示される絶対とはヘーゲル等が唱えた絶対とは明らかに異なった質のものであろうし、また相対というものもその頃には現在とは全く異なった質のものとなっているだろう。そういう意味ではヘーゲルの正否の無限進行は認識としては有効である。
 未来に対してある展望を持つ時我々はどこかに理想像を持つ。その理想像は現時点においては達成不可能な事態に対して処方することの可能な状態である。責任はその事態に一歩でも近づくことの出来る能力に対する信頼に受け応えるものでなくてはならないだろう。
 文章で身をたてている者の多くは昔自分が書いた文章をもう一度機会を作って目にする時、他人の書いた文章のように見える経験があるだろう。その時自分で自分の文章を他人の目から読むことが出来る。人はある文章を書いた人物の人間性によって文章を読むわけではない。読んだ文章に惹きつけられるからこそその文章の書き手の人間性に惹かれるというだけである。つまり文章書きというものはその文章だけで自立した主張を込めなければならない。それは文の持つ意味世界による。書く動機付けは後付的な解釈でしかない。それは書いた当人にとってもそうである。書くことが哲学者にとって信仰であると言ったのはそういう背景があったのだ。文章の意味世界を求めて旅する文章の書き手は、実はその旅に赴くために行く準備をしたりするのだが、それが書く動機である。
 しかし通常書き出したら、動機はどうでもよくなるし、また別に違った目的が生じることもある。その展開そのものに魅せられて文章書きは作業を続行するのだ。書き続けることが次第に彼の責任になってゆくが、それは書きながら彼が自己の能力を信頼しているからだ。それは書く行為の続行によって未来への展望が探り当てられる感触を彼が掴むからなのだ。未来への責任は今現在執り行っている行為を中断しないという意志によって形作られるのだ。
 未来へと責任を受け渡された者に共通したこととは、それが他者から要請された場合でも、自己内で責任を負った者でも、意志的に何らかの現状の難点に対する克服と打開の可能性に賭けた思いがある筈なのだ。それは未来の事態の不確実性と同時に、責任を負った者の資質と能力が今現在と変わりないと思われるある強烈な信頼に裏打ちされたものなのである。そしてそういった心理的な期待感が言語活動にも反映される。そのことは追々実例を通して考えていきたいが、本章では取り敢えずそれらの事実関係の所在だけを明らかにしておきたかった。

Thursday, May 24, 2012

〔言語の進化と責任〕第三章 視覚情報の意味と言語

 生命進化上での大実験場であったとされるカンブリア紀において遊泳性のナメクジ状の動物ピカイアが我々人類を含む多くの動物の祖先とされ、彼等が生存を継続したからこそ、我々の今日があるということになる。何故彼等が絶滅しなかったかというと、案外その形状が単純であり、何らかの環境の激変に対して特殊な環境に完璧に適応していなかった、という事実こそが最大の理由かも知れない。何故ならある環境条件に対する完璧な適応という事態は、その環境が激変した時には最も絶滅しやすくなるからだ。要するにいい加減に適応している者こそ、環境の変化に常に対応出来るというわけだ。
 尤もピカイアからイクチオステガやプルガトリウス等を経て我々の祖先に至るまで相当長い年月を要したのだから、そこには奇蹟的幸運の連続という偶然が大きく作用していると考えても間違いはないだろう。
 しかし前章で触れた自我という作用は生存を安定したものにするために必要な作用であるが、それは前頭前野によってなされていると考えられているから、その作用は意外と眼に近い部位で行われており、脳科学者たちが眼に近い部位において自我が活性化されているのなら、彼等が躍起になって追究しているクオリアが自我の作用によって生み出されていると考えられているのなら、一歩進めて言語が大脳辺縁系と即頭葉によってなされている、しかも即頭葉が記憶の格納にもかかわっているということを考えれば、言語活動の進化過程には視覚情報が極めて密接に関わっているということも容易に想定し得るのではないだろうか?
 男女の脳の特質は微妙に異なっていると考えられているし、事実ある程度証明されているのだが、空間把握能力において行動したりすることにおいては男性が、平面的な配置に関する記憶では女性がより平均的には秀でているとされるが、この二つは協力し合って、空間把握とか空間的な記憶を支えていると言えるだろう。
 さて言語活動に於いて敢えて強引に男性性と女性性というものをでっちあげてみると、支配と統制に秀でた男性性としての能力と、共感と友愛の女性性の能力が密接に協力して言語行為をなさしめる人間のコミュニケーション能力を進化させてきたのではないかとさえ考えられる。その進化には男性も女性もないというわけだ。そして空間的把握を可能にするのは紛れもなく脳の視覚情報処理である。
 眼が進化した時期もだいたいカンブリア紀に該当する。眼の動物における進化上の登場は画期的であったことだろう。何故なら空間移動において彼等の移動をスムーズにするためには障害物を認識する必要があったからだ。障害物以外のものに対する認識は寧ろ当初は副次的な効果でしかなかったであろう。しかし興味深いことには副次的な効果の有効利用ということがしばしば進化過程において多大な貢献をするということはどのようなタイプの歴史を見ても珍しいことではない。要するに瓢箪から出た駒的な発見というものは偉大な人間による自然科学的な発見に留まらず、自然全体のセレンディピティーにおいても効力を持っているものと見える。
 私は長い間空間把握能力を言語と結び付けて考えていた。実際言語獲得後の人類は、ちょうど言語習得後の幼児に見られるような世界を秩序付けて把握する能力に秀でるようになり、ある意味では言語が空間を説明する能力から理解するようになると考えていた。そしてそれはある程度事実だろうと思うが、言語というものを全く習得していなくても尚空間的な把握という能力は行使出来るのではないかと考えが変わった。事実数学の幾何学の感性とかも言語習得後の説明能力だけではそれこそ説明が尽かないと思われるし、また論理というものもまた必ずしも言語的能力、言語的思考のみが全てではないような気がしてきた。ここに私の言語支配観は変更を余儀なくされた。そして寧ろ逆な場合も十分あり得るのではないかとさえ思えてきたのだ。
 例えば遠近感という把握能力は言語的な秩序を理解する能力とは異なる。そしてAとBとCという実体が目前にあって、Aが一番自分の近くにあって、Cが最も遠くにあるから、Bはその中間であり、AよりBの方が遠くで、BよりCの方が遠くだから、従ってCはAより遠くにあるなどとは実際の空間においては考えたりしはしない。この場合には論理というものは言語的な制約に基づいているように思われ、従って実際の視覚情報による把握とは異なるという面が強調される(それは端的に記録するとか、記憶していることを語るという説明原理の問題に過ぎない)。
 しかし同時に遠近感そのものをそのように論理に置き換える時に、必ずしも我々は言語的な思念に全てを委ねていると言い切れるだろうか?寧ろ言語は後付的な理解の仕方として採用されているに過ぎないとも言える気がするのである。
 ただ我々はたまたま言語を持っているので、それを利用して空間における遠近感とか、順序とかの秩序を言語で説明出来る(それは内心で自分に対してでもそうであるし、他人に対してもそうであるが)という副次的な効果に身を委ねているだけであり、全てを言語のお陰と考えるのは少々行き過ぎた認識であり、我々は眼が本来有していた筈の目的(こういう言い方は自然科学上では特に物理学的には許されないだろうが、生物学的には許されるかも知れない。)に適った眼に対する認識を取り戻すことが出来るような意味で、言語の持っていた存在理由とか、空間的な把握能力における遠近感とか、幾何学的図形理解とかの能力が、言語的な論理による説明ではなく、それ本来の能力として認識する必要があるような気がするのである。また論理自体も、言語的な説明というレヴェルの前段階として、論理的思考回路自体の非言語的な感性(言語には言語の感性があるのだが)から見届けてゆく必要があるような気がするのである。
 そう言いながら言語に関してとりわけ記述行為に関して再び触れておこうと思う。
 ミシェル・アンリのテクスト「現出の本質」を本論で大きく取り上げたからなのだが、彼以外にもカント、ヘーゲル、ハイデッガーやメルロ・ポンティー、サルトル等には共通して何回も同じ主張が全く同じ文面であれ、あるいは少々変更しながらであれ、繰り返し登場するという事態が決して珍しくないという事実に対して我々はどのように向き合えばよいのだろうか?そのことについて少しだけ考えてみよう。  彼等がそのようなテクストの記述を選んだのは、読者に対するある種の啓蒙的な説得という意図がまず考えられる。そして哲学者は通常の人々よりは少しだけ人間の陥りやすい傾向というものに対して敏感だから、人間が極めて忘れっぽいということを熟知しており、そのために読者に対して著者が重要であると思われる事実を何回も繰り返し述べることを通して十分な理解を促進するという意図がある、ということがまず考えられる。
 人間とは本来全てを逐一記憶していたら、寧ろ生活することは出来ない。ある程度全てに対して重要なポイントだけを記憶し、後はあっさり忘れることを無意識に選んで生活している。もし全てを克明に記憶していたのなら、彼は行動するということが覚束なくなるだろう。そのような真理を熟知しているからこそ、彼等は重要なことを意図的に何回も反復して記述する、という理由がまず考えられる。
 しかしそれだけではないと私は思う。もっと極めて実際的なこととしては、彼等自身が自分で書いていたことを忘れるという事実があったと思う。長い論文となると、大分前に記述したことを忘れてしまい、何回も同じことを繰り返し記述してしまう、ということもあるだろう。しかし同時に自分で自分が書いていて重要であると書きながら感じることというのは何回登場させてもおかしくはないと考えている、ということと、それが重要だから次々と登場する色々な記述の前に、自分でも何回も思い出しながら、忘れたくはないと考えていた(それは意図的にも、無意識的にも)ということがあるのではないだろうか?
 ということは記述するという行為はかつてのように原稿用紙に向っている時でも、今日の多くの人々のようにパソコンに向っている時でも、記述することで何回も同じ文字が登場することで視覚的な文字知覚残像(形状的にも意味内容的にも)にも印象的に鮮やかに記憶され、そのように蘇らせやすい記憶を形作る意味合いをも込めて何回も同じか似たような記述を繰り返すということがあるということが了解される。  しかしそのことは視覚的なことからは少し離れるが、発語行為に関しても言えることだろう。発語には発話者にとって欲求充足的観点から次のような効用があると考えられる。
 ①発語することで、その「語られる文章」や意味内容を記憶しようとする。要するに記憶したいことを発語する。語ることはそれだけで印象深い事実として語った内容は記憶に残る。
 ②発語することは発話者にとって意志決定することを意味する。発語することで、決意しようとする。(これはJ・L・オースティンのperformativeという概念の出所である。)
 ③発語することで心的な不安を除去する。人に何か聞いて貰うことで、不安を取り除き安心を得ようとする。(しかしこれはある程度気心が知れた対話者を必要とする。)
 ④自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これもまた対話者に対する信頼を必要とする。)
 このような効果が得られることを殆ど自動的に身体や精神状態自体が判断して、我々は発語行為、発話を行うのだ。そしてそのような身体や精神の側の目的が達せられることで、「あの時あんなことを言った。」と自分で過去を振り返る時、我々はエピソード記憶としてその会話のシーンを想起するわけであり、そのエピソードにはその時対話者がどのように反応したかということまで記憶に残り、同時に想起されるだろう。そしてその発言の際の視覚的な記憶も連動して想起されるだろう。そして発語行為の場合には、音声的な記憶、聴覚的な記憶として意味内容とそのニュアンスとして記憶に残るだろう。
 しかしこれはよく記憶について言われることであるが、記憶は編集される。よって必ずしも正確にいつまでも記憶しているわけではない。
 トーマス・ネーゲルは「主観に現われる自我は、外的な分析の下では消滅するように思われる。」と述べている(「コウモリであるとはどのようなことか」永井均訳、313ページ、勁草書房刊)し、P・F・ストローソンは「(前略)我々は自然で強力な仮象のために、意識の必然的統一を(中略)単一的主体についての認識と取り違えるのである。」(「意味の限界」熊谷直男、鈴木恒夫、横田栄一訳、勁草書房刊)と述べている。
 主観に現われる自我とは端的に言えば、ある過去の行為の際に考えていたことである。それは時間と共に、その時とは異なった精神状態の現在によって都合のいいように作り変えられるのだ。だから外的な分析とは、この場合過去に対する現在からの意味内容の把握、つまり思い出である。そして強力な仮象とはまさに現在を常に中心とした記憶内容全般に対する書き換えのことである。そして単一的主体とは、いつも変わらない自分というある幻想(像)のことである。意識の必然的統一とは現在によって過去全体を常に作り変えているということである。つまり過去事実の作り変えとは必然なことなのである。
 しかし我々はだからこそこう考えるのだ。相対的な受け答えしか我々はしていないし、してこなかったし、これからもしはしないのだ、と割り切ることは一抹の不安を抱かせるものなのだ。そこでヘーゲルが絶対知とか絶対の自由とか言い、それを受け継ぎ絶対性と言ったアンリの心的な目論見に対して、その根拠が読み取れるのだ。
 言語を生み出すものは直観であるし、論理を生み出すものもまた直観である。だから論理を説明する時に言語が必要とされるのであって、言語が論理を形作っているわけではない。言語によって説明するということは、それが当の言語であれ、論理であれ、責任の領域に属する行為である。
 我々は室内にいる時も、ある風景の前にいる時も、テレビや映画を見ている時も、常に自分にとって見たいと思っているものを見ている。記憶したいと思って見ているわけではなく、時間がたってみて、自然と記憶に残っていることと、そうではなくすっかり忘れてしまったこととがあるということである。何かに関心を今現時点で注ぐが、その時の全てを常に思い出せるものではなく、ある時偶然的にある事を目撃したり、聞いたりして、あの時そう言えばこんなものを見たり聞いたりしたと思い出すのだ。
 だからこのように忘れる能力があるということが逆に覚えていることを特化するわけであり、要するに忘れる能力があるからこそそれを補填しようという感情が生まれ、その感情に答えようとするところに責任が発生するのだ。
 「賛成したいのですが。」という一言は決して言いたいと意図して言う台詞ではない。寧ろ気がついた時に勝手に口から出ている言葉である。そして説明するという行為は説明者が説明したいと思えるものがあるからするのであり、それは感動したり、感激したり、あるいは驚愕したりしたその経験を一人で誰とも声を交わし伝えることをしないということが出来ないと思うからである。発見というものは一人で抱え込むことより、他者と共有したいと願うことは自然な心理である(脳科学でも感動した時それを他者に伝えたいと思うということが証明されている)。
 それは何か文章を書くことにも言える。何かを書いて発表するということも、素晴らしい思いつき、素晴らしい内的な発見事実を記述することを通して我々は他者に自分の感じたこと、理解したこと、気がついたことを別の誰かに知って貰いたいと願うから自動的に何かを書いているのだ。それはそういう風に目的を持ってしているというのもとも違う(哲学の因果論的認識には自然な流れを認識し損なうという要素がある)。
 そして何かを書くという行為は必ず何か経験したことが関わっているものであり、経験を意味に変えるものが記憶であり、記憶の編集である。そしてその経験を記憶したいから話したり、書いたりするのだ。だから何も記憶が編集されてそれが実際あった通りではないということは憂えるべきことばかりではないのだ。
 風景に感動するとしよう。それは風景の意味をそこから感じ取っているからだ。そして風景を意味に変えるのも記憶である。素晴らしい風景を見たことを誰か親しい人間に語ることとは、言語行為によって感動を説明することで、内的な感動を共有することを欲しているからなのだが、それは風景を見て、身体全体で感じて得た体験的なクオリアを伝達することで思い出を記憶が意味に変えているということなのだ。その意味とは端的に生きる活力というものなのだろう。(茂木健一郎によれば感動すると脳はその感動を人に伝えようとするものらしい。)
 視覚情報を意味に変えているのは記憶作用であり、記憶作用を促進するものとして言語というものが役立つということを、言語発生の第一目的ではなかっただろう人類にとって、副次的な効果の発見として、その作用事実が応用されていったのだろうと私は思う。
 言語は人類史的に見れば恐らく内的な欲求充足以前的にはもっとサヴァイヴァルな信号としての役割だったのだろう。しかしそれだけに押し留めておくにはあまりにも言語行為というものは魅力に満ちていたのであろう(大脳の発達がサヴァイヴァル的自然選択によって齎されたからだ)。そしてそれは視覚情報によって得られる感動は決して言葉では伝えられないという事実が、逆に言葉を発するという行為を視覚情報確保と独立した意味を持たせたのだ。つまりその発せられた言葉を通してある風景を見る、あるいは世界に存在する事物を見るとその時、そのように言葉とは無縁に見ていた時と全く異なった意味を生じることを我々の祖先たちはある時知ったのだ(感情の誕生)。しかし言葉の存在理由に関してはもっと慎重にならなければならない。それは後述しよう。
 視覚情報によって得られる感情は言語を誘発し、その言語が視覚情報に影響を与えているのだ。その「見ることと語ることの対話」が我々に感情が意味そのものであること、つまり見てあるいは語ってある感情を抱くことから意味が発生することを知るのだ。
 そしてその時我々は視覚情報を意味の世界として受け取る。しかし意味は恐らく言語以前に内的には感得されている。しかしその感得を認識するために言語を利用しているのだ。感情に意味があることを言語は教えてくれるが、これもまた言語以前的にも感情の意味があるということを言語が教えてくれるのだ。あるいはそれを教わるために我々は言語を利用するのだ。だから言語がなければ感情は感情のままである。あるいは意味は意味のままである。しかし言語は人と人を繋ぐ作用があるから、あるいはもともとはそれが目的のようになっていったからこそ我々は言語を使用するのだが、感情と意味を接合し、一体化させるものこそ言語なのだ。そして視覚情報と内的な想像、あるいは思念を接合し、一体化させるものこそ言語なのだ。
 人類が絵画を描いてきたのはまさにこのことに起因する。絵画は人類が発見した唯一の実際に見えるもの(視覚情報)と、内的な想像が一体化したものなのだ。画家が描く絵画は、彼が見たものと見たいものとが一体化した世界なのだ。その点では文字とは内的な想像が写像されたものである。その事実をシンボルと呼んでもいいだろう。しかし絵画はシンボル的な要素があっても尚アイコン(イコン)的なものである。
 画家は外部世界を視覚情報として見るし、認識もする。しかしその外部世界に対する内的な感情とか認識とかを絵画という外部世界の中に閉じ込めるのだ。そして作品世界とすることで音声的、聴覚的ではないもう一つの次元の言語として絵画を提示するのだ。
 勿論文字世界もまた外部世界に対する感情を意味として内的な想像と一体化させられているものなのだが、絵画に比べるとただ間接的であるというだけである。
 間接、直接を問わず我々の祖先が言語表現を獲得するに至ったという事実の重みはそれだけで特筆すべきことかも知れない。しかし先述したが、言語を特定の言葉の配列を通して利用するという事実についてはもっと慎重にならなければならない。
 視覚情報を知覚映像として顕現させているものは後頭葉の大脳皮質視覚領である。右の眼球から得た情報は左に、左の眼球から得た情報は右にという具合にである。しかし視覚情報を意味付けているものは前頭前野であるし、それを感情的に判断させているものは大脳辺縁系である。前頭前野は眼球に近い。意味とは自己にとっては視覚情報を対象化した時の特定の関心事項に対する感情の説明である。そしてこの時既に責任という心的活動は発動されている。そして我々は唯一感情を意味付けし、意味と感情を一体化することが出来るものと思われる。この一体化の欲求は脳内で自動的に発動する。そしてこの一体化こそ発語、記述へと我々を誘う。感情は欲求をも産出するが、それと意味の一体化の脳内での衝動こそが言語を一体化促進の道具あるいは武器として利用しようとするのだ。
 養老孟司は「唯脳論」の中で近づいたり、遠ざかったりする対象物を同一のものと認識させるものとは比例に関する認知であるとしている。そして感情と意味を一体化させても尚対象そのものには知覚映像的に何の変化もないように(例えば嫌いなものが歪んで見えるということがないように)認知出来ることは養老氏のご指摘によって理解されよう。
 しかし我々が最もここで注目しなければならないのは、端的に言えば自己内で視覚情報を関心的志向の意味内容に沿って焦点化する時に、既に責任という心的活動が発動されているという事実を誘引するものこそ他者であるということである。他者存在が既に側頭葉のミラーニューロン以外にも前頭葉全体から、あるいは他性認識の根源としての扁桃体その他との連動でなされていながら、同時に自己内では他者とは直接関係のないものであっても他者存在を想定するかのように、あるいは自己そのものを他者のように扱いながら、自己という他者に向って説明するような心的様相性は、明らかに他者に対する説明を滞りなく遂行することで得られる理解を自己に適用しているということである。それは言語的説明認識に纏わる責任倫理(自己内での対自己説明というかたちでの)は他者が前提されている、もっと分かりやすく言えば、言語と責任とは共に他者存在の原初的認知こそが誘引している、ということである。つまり他者に対して説明するような「構え」を一人でいる時にも心的に持つということは他者存在を前提して思念しているのが人間だということになる。
 また論理とは言語的な思考外のもの、前言語的なものもあると言ったが、それは要するに論理にはその出発点に直観があると言いたかったからである。論理の出発が直観であるということは、数学者が直観を立て、そこで得られる予想に向って数論理的に証明しようとするところからも間違いない。そしてその直観力には他者に対して証明してやろうという意気込みがあるわけだから、当然のことながら報酬への期待、つまりドーパミン放出レヴェルでの意図が介在していていないとは言えないだろう。そしてそのようなある種利己的な欲求の中にこそ責任は発動されるのかも知れない。
 つまり他性認識という心的様相が論理を招聘するのだ。つまり他性認識はすぐさま他者に対してどのように接するかとか、そのように他者に対して接するように自己に向き合うわけだから、当然のことながら責任という心的活動が発動されている。論理に責任がつき物なのは、要は他者と自己の関係に置換して物事に真理や順序、序列、階層を認識するからである。しかしそれは論理に他者が必要であるという事実が自己内で何かを理解する時にも応用出来るということであって、責任を遂行するために論理が必要というわけではないだろう。要するに責任は目的意識のための道具ではなく、既に論理を直観する時に心的作用として発動される、心的活動として活性化させられるということであって、責任を目的遂行に供することをするのは反省意識だけである。それは社会的認識を持つ様に事後的に判断しているだけであり、責任それ自体は社会法的意識以前的に心的に活動させられるのだ(人類が唯一協力し合う遺伝子を保有しているということでも説明出来る)。
 しかし視覚に関して盲目の人はどうなるのかという問題が残されるが、生まれた時には目が見え、その後視力を失ったという場合には、その眼の見えた期間の長短も関係してくるだろうが、生まれつき眼が見えない人の場合、盲視という事実も報告されているが、脳の可塑性が何らかの代理的措置をとっているのだろう。聴覚には並列という意識は生じ難いし、数量認識も数えられることに関しては限界がある。そこで彼等は恐らく空間的なことを時間に置換して考えているか、もしくは皮膚感覚とか触覚あるいは聴覚の連動によって遠近感を察知し、それを手掛かりに論理的直観を得ているのかも知れない。

Tuesday, May 22, 2012

〔言語の進化と責任〕第二章 意識の冒険

 神経学者のマイケル・ガザニガは「脳の中の倫理」において責任という脳活動は実体論的にはfMRIでは確認出来ないと述べている。それはそうだろう。脳検査というもの自体、今現在の全ての自然科学的なテクノロジーを駆使しても責任という脳活動は確認出来ないであろう。だからこうも言えるのだ。脳活動を現代のテクノロジーを駆使して解明したとして、その事実にどう向き合うかという時、初めて「ここから哲学が始まる。」と言い得るのだ、と。
 しかし脳内の活動を還元主義的に、あるいは機能主義的に理解する努力を怠るべきではないと全ての哲学者は肝に銘じなければならない時代に生きているとも言える。それは現代の哲学者の責任である。
 端的に言えば責任とは共同幻想としての観念であると言える。何かに対して配慮する時、それが私的な感情によるものであれ、公的な義務感情であれ、感情を前面に押し出したような判断であれ、極力控えめに感情を押し殺したような判断であれ、その行動の向う先に、責任は立ちはだかるのだ、と言える、と言うより責任は内的な行動以前の思念において言語的な思念に介在するエネルギーである。統語を、言語行為を、言語的思考を支えるのだ。
 前章で本章において考えようと言った宗教的なプラシーボ効果とはテクストを書く行為において自己宗教的出自の教義を敢えて批判対象として認識することで自己責任を現出させようとする意図に見られる。テクスト創造者としてのアンリがヘーゲルに習って行ったキリスト教信者としての立場からアンチ・キリスト教教団教義的現実というスタンスの取り方自体がある種の社会ゲーム上での責任という幻想にテクスト作者が立ち向かっているということを表しているのだ。そしてそういうスタンスを敢えて自己テクストで明示することで、何らかの教義に依拠することを通して読者をその教義に誘引しているような発言をしていることを否定することで、逆に読者の共感回路を刺戟することの快楽を共有するように仕向けるのだ。それはテクスト創造者としても、西欧キリスト教文化圏市民としての責任を負うという意識(まさに脳映像からは何らかの熱中とかにおいて確認出来る血流の活性化作用こそが責任に立ち向かっているという事態である。)が、信仰の本質をキリスト教への批判を通して顕現させようと試みているかのようである。つまりその主張は、信仰とはウィリアム・ジェームスも主張しているように、キリスト教であれ、その他の宗教であれ、無宗教であれ成立するユニヴァーサルな人間的行為であるということだ。しかしそれはそう主張することでプラシーボ効果を得ようとするテクスト創造者の不安と平衡感覚の喪失という現実とは別の事実である。自己批判しつつ共感を得ようとすることは、読者もまた似たような体験を所有していることを想起させるようなシステムにテクスト自体が構成されているということである。そしてそのように構成すること自体が著者のプラシーボ効果であると私は言いたいのである。もっと端的に言えば書くこととはそれ自体で信仰である、ということである。その事実に洋の東西は関係ない。
 例えば肯定してから否定する方が、最初から否定するよりも効果的であるという意味で「賛成したいのですが。」型の言辞(第一章以降解説している。)にはある説得力がある。その手法はあらゆる哲学で試みられている。インマニュエル・カント、ギルバート・ライル、トーマス・ネーゲルetc。この中にミシェル・アンリが付け加わることに読者も異論がないであろう。
 ある法案に関してある一人の成員を除いて全ての成員の意見は一致しており、その一人の意見を聞いて早くその法案を通したいと考えている場合、この場合の成員は政治家でもよいし、地域の野球チームの後援会のメンバーでもよいのだが、その残りの一人に対して向けられる質問は、最初から得られるべき返答は二つに絞られている。つまり予め限定された返答をしか与えられないように配慮されているということである。
 心理学者のテレンス・W・ディーコンはチャールズ・サンダース・パースに大きく影響を受けている。彼はトークン(もともとパース用語)間の連携を一つの閉じた系として捉え、その閉鎖系であるが故に全てのレファレンスをインデキシカルになし得るのであり、それが閉じていなければ混乱し、各レファレンスは相互に関連し合わず、ランダムで気まぐれなその場限りの命名と呼称だけに終始するだろうと考えている。もしそのウィトゲンシュタインの「言語に限界が世界の限界である」流の世界観が特定の話題に関する質疑に関する言語使用に関しても当て嵌まるのなら、規約主義的な思念は発語行為のその時その時の異なった質問や応答にも見られるだろう。  「あなたはその意見に賛成しますか?」 と、一人未だ聞いていなかった成員に法案賛成の是非を聞く時、自ずと二つの返答だけが残されている。しかし「賛成します。」あるいは「賛成したいと思います。」以外のもう一つの選択肢である「賛成しかねます。」あるいは「反対です。」という場合の責任は、その双方が真意である場合責任の重さは等価である。しかし本当は反対したいのに他の成員全員が賛成しているので賛成に回るというのであれば、最も責任の重さは小さいだろう。そしてそれならば「反対します。」の方がかなり重いと言える。しかしもっと重い責任の発言があり、それこそが「賛成したいのですが。」なのである。
 これが何故一番責任が重いかと言うと、それは説得という行為が含まれているからである。と言うのも、最初から否定する意志を伝えることなく、最初は賛意を示しながら(当然のことながら賛意を示すことは他の成員を一瞬安心させる)次の瞬間、「が。」と締め括り否定的言辞に落着させることはそれだけで失望を買う。しかし心理的にはその言辞を聞く者に対して「何故ですか?」と問う余裕を与える。もし最初から否定する意志をストレートに伝えればその瞬間に「あなただけなのですよ。」と言う猶予さえ与えず、反発を買う。この法案を通したい他の成員は全員早くその会議を終わらせたいのだ。
 しかし一回は賛意を示すことに吝かではない旨を伝えている場合、それでも尚そうではない意見の可能性を示唆することは「どうしてですか?」あるいは「どうなさりたいのですか?」という質問を他の成員がする余裕を他の成員に与えることであるから、当然その質問の返答として自己真意を他の成員全員に伝えることを可能にする。そして論理的にその法案に賛成出来ない理由を説明する機会が得られ、もっとよい意見を述べ、その意見の正当性を主張する可能性も得られる。つまり説得的説明責任を得る可能性の開示であることから、この言辞が最も行動責任に関して重いということになるのである。
 例えばこの本論の主軸になる例証がキリスト教文化圏に生活する西欧哲学者たちによるキリスト教批判に介在しているということが言えると私は思うわけである。
 哲学者のテクスト創造に纏わる信仰心的なプラシーボ効果のことに立ち入る前に、断っておかなくてはならないことがある。それは真意の隠蔽、あるいは偽装のことである。
 ある種の鳥類は自分が発見した餌を独り占めするために、他の仲間に対して「餌はあっちだよ。」と餌の場所を偽って教えると言う。しかしその泣き声の選び方そのものは彼等の本能的なコードによって学習した通りの仕方で、本来餌があるべき場所以外の方向を指示するわけだから当然その個体は自分では嘘をついていることを知っていることになる。しかしその行為それ自体を逸脱した行為として、つまり人間が感じる良心に対する疚しさという心理を持って臨むかと言えば即断することは禁物である。と言うのも生存戦略的な意味合いで、予め遺伝子レヴェルからそのような偽りを報告することが書き込まれているかも知れないからである。例えばもしそのような偽りの報告をした後に何らかの内分泌物質、とりわけ緊張した時に放出されるコルチゾール等の物質が、偽りではない報告をした場合よりも高い数値が確認されたのなら、嘘をつくことによって発生するストレスを彼等も感じていることになり、彼等にもまた人間が持つ良心のようなものがあるという可能性が出てくることになるだろう。しかしそのような偽装とか隠蔽というような行為がもし遺伝子レヴェルで生存戦略的に書き込まれている本能ではない、もっと高次の意図的な行為であるのなら、あるいは逸脱的な、つまり意識の冒険的なレヴェルの判断に基づくものであるならそう頻繁にはそういう行為をすることはないだろう、ということは言える。
 かつて私が見た落語にこんなものがあった。人間はあることに対する知識について無知であるということを隠蔽したいという心理がある。例えばその無知を知られたくはない者に対して必死にその無知を隠蔽しようとすることは人間に羞恥感情があるという事実からは極めて自然な感情でさえあると言える。そこである者が本当は知らないのに知っている振りをするという悪辣さが人間にはある。しかしもっと悪辣なこととは、知らないのに知らない振りをするである、とその落語家は言った。知っている振りをする者は言ってみれば初歩的な小さな犯罪者であるとすれば、知らないのに知らない振りをする者とは、知本当は知っているのに知らない振りをする狡猾な無垢さを装う演技者であるが、知らないのに知らない振りをする者はそれより更に上をいっており、要するに無知なのに狡猾な演技者を装うということを言いたかったのだろうと私は思う。長く生きている智慧者にはそういう芸当が出来るものだという信念がその落語のエピソードの落ちとなっているのだが、実際には私はそのような偽装というものは不可能であると思う。それはあくまで笑い話のねたとしてのみ成立する世界ではないだろうか?
 哲学には無限後退という考え方があるが、何らかの事実が直接言及されることに対してその言及自体を語ることをメタ報告とすると、その報告それ自体を報告することをメタ・メタ報告とするというような無限に連続してゆく事態を、無限後退と哲学では呼ぶ。これに近いものが今挙げた笑い話にはある。つまり人間というものはどんなに嘘つきで、その嘘が巧妙な者でも、人生に一回くらいならそういった巧妙な嘘が功を奏することもあるが、四六時中は無理なようになっているのだ。端的に言えば、嘘をつく時の人間の表情とか口調とか語調といったものは、本当のことを告げている時と必ず微妙に異なるものなのだ。そこで私は全ての哲学者というものは真意をテクストに示していると確信している。もしあるとすれば「賛成したいのですが。」型の捻った説得術だけである。これは真意伝達に関する技巧であり、カントも多用しているが、嘘をついているのでも、隠蔽しているのではない。またシャイネスな表現というものもまた偽装や隠蔽ともまた異なっている。オブラートに包むような表現は、心ある者に対しては婉曲と受け取られることを承知で行う明示行為であるに過ぎない。そこで私は明言する。哲学者は嘘をつかない。もし嘘をつく者がいたとしたら、あるいはテクストで示されていることが嘘であると思っているのなら、その者は哲学者ではないし、またそのテクストもまた哲学ではない、ということである
 話を元に戻そう。「賛成したいのですが。」型の返答を一人だけ意見を求められていなかった成員が他の成員に告げるという行為の持つ意味は実は極めて重要である。何故ならそのように言えば、その賛意を滞りなく報告出来ない理由を説明することを必然的に求められるからである。そしてそう切り返すということ自体が、賛意を翻した理由を説明し、それが正当な意見であるということを説得することを自ら選んでいる事だ言えるからだ。それはある意味では自分の能力の可能性を信じているからこそ言える発言形態である。もしそのような自信のない者は、丁度あの「十二人の怒れる男」でヘンリー・フォンダに次いで少年を無罪だと言った壮年紳士のように取り敢えず賛意を示すという選択を無意識の内に採る(あの映画では他の陪審員同様有罪に賛成した。)であろう。仮にそれほど賛成的な意見を内心は持っていなかったとしてもである。つまり賛意を翻すという選択にはそれだけの勇気というものが要るし、余程自分の能力に対する可能性に対する信頼がなければならないのである(だからこそ勇気を持って付和雷同をしない者は尊敬を集める様になる)。
 人間は元来弱い生き物である。そこでネガティヴなケースとしては進化心理学者にして動物行動学者であるニコラス・ハンフリーが、「喪失と獲得」中の<武器と人間>で述べているように憎悪とか嫌悪といった感情がまさにその憎悪対象から何かを仕掛けられたからではなく、こちらから仕掛けたという経験則によって逆に向こうに対する軽蔑心を生み、やがて憎悪し、嫌悪してゆくようになる、と述べている。だからポジティヴな場合でも自分だけが彼を救うことが出来るのだ、と思い込み、そして彼を助けるという自発的行為が彼に対する慈愛を育むようになる(このことは一面ではニーチェが批判した同情とか憐憫的な感情を育むのだが)、と述べているのだが、もし最初本当は間違った選択であると承知しているのに他の成員全員がそれに付き従っているので彼等に対して説得し、自分の意見の正当性を主張する自信がないものだから、つい他の成員に迎合するような行為を常に繰り返していたようなタイプの成員はベトナム戦争で米兵士が味わった自ら仕掛けた攻撃対象を自己正当化のために次第に憎悪をエスカレートさせて戦争を続行させるような行為を反復してゆく可能性は高いと言えるだろう(現在でも米国にはそういう傾向はなくなっていない)。人間は自己によって決意した行為を正当化するためにたとえそれが誤った考えであろうとも辻褄合わせをするのである。
 しかし通常我々は小さなことなら一々向こうに対して抵抗しないで済ますという選択もする。例えば本当は向こうの方が悪い場合でも、小さな例えば街角で誰かとぶつかってしまった場合など、向こうが完全に悪いのに向こうは自分に落ち度がないと思っている場合などでは、すれ違っただけの間柄である。向こうに対して咄嗟に「失礼。」と声をかけて済ますという選択を無意識の内に採るということは日常ではあることである。勿論それが痴漢と間違われたというような場合には別であるが。
 しかし哲学者は同一のテクスト内で、相反する意味の陳述をすることも珍しくない。例えば「真理は不変である。」と言ったかと思えば、同時に別の箇所では「真理とは恣意的なものである。」と言うという事態も決して珍しいものではない。そのような陳述はある部分では自然科学とか心理学では許されない(多少の比喩的表現は許されていたとしても)。
 例えばアンリは現出の本質を主張するのに、何種類もの陳述で表現(まさに表現と言うに相応しい)を畳み掛けるようにしている。例えば本質ということの規定として次のようにヴァリエーションを持たせている。 「このように、いっさいの現前の地平ならびにその条件として了解されるなら、<概念>は本質である。」(1037~1038ページより) 「経験は本質の経験である。本質は経験の本質である。」(1039ページより) 「疎外とは本質が自らを結集し、それが在るがままに自ら自己自身を再発見することを可能にする過程であり、疎外は本質自身である。」(1046ページより)
 しかし何故このように哲学では同一の言葉を何通りもの定義に置換することを頻繁に行うのだろうか?
 例えば私はこの論文を実はかなり意識的にある部分では哲学者風のもってまわった文体で、ある部分では逆に自然科学者風に常識的な言葉使いを行ってきたが、そのことにはわけがある。
 茂木健一郎は「「脳」整理法」で哲学者と科学者の使用する言葉使いの差について論じている。そして前者の言葉使いをパフォマティヴ(元来は哲学者J・L・オースティンの提唱した言語行為における概念なのだが、彼はそれを自説に応用していている。)とし、後者の言葉使いをディタッチメントとして規定している。その理由を彼は哲学者が通常彼自身の哲学的思想を語るために、主観的なスタンスを前面に押し出し、行動スタンスを明示しなくてはならないからとしているのだが、私が思うに彼等は勢い一個の概念を二律背反に追い込むような形で矛盾を矛盾のままに晒すことを厭わない。しかし同じことを自然科学者が行うと、その論文は少なくとも実用的に応用可能なデータ的価値を失う。つまり自然科学ではその論述の持つ真理が誰によって語られたかという事実は、真理自体の一般化可能な価値に比べれば大したことではないという考えがあるので、主観的な定義づけを拒否する必要があるのだ。このような態度とか、受け取られ方をディタッチメントと言う(茂木氏の「「脳」整理法」に詳細が記述されている)。
 私は哲学者にとっては書くこと自体が信仰であると言った。それはある意味では哲学者という職業にのみ客観的にも許された事実ではないだろうか?文学者もまたそのような一面があるが、文学作品とはそれ自体が作品世界という虚構であるために、主人公の行動とか小説自体に表現された時代背景とか主題自体に作者の思想を投影させることは出来るが、それは間接的なものに留まる。しかし哲学はその主張それ自体が直接的なメッセージである。そのような意味では文学者という職業的メッセージの位置は科学者と哲学者の中間に位置すると考えてもよいだろう。尤もそれらは文章という形で示された位置づけであって、例えば音楽とか美術とか芸術表現を含めればまた異なった位置づけが必要とされるだろう。
 例えば前章で示したアンリの言述には多く絶対者というような言葉が登場する。絶対という言葉自体、相対性理論以降、相対という観念にとり憑かれた感のある現代人に対するアンチメッセージのように響くし、事実アンリにはそういう意図もあったのだろう。しかしその出自は明らかにヘーゲルの絶対知やそれ以外にも多用される絶対という観念であるし、それ以前にはカントも多用していたし、絶対という観念が影を潜めたのは寧ろ比較的最近のことであると考えた方がよい。しかしアンリの言いたい絶対という観念は科学のディタッチメントとも明らかに違う。科学という学問はあくまでそれまで通用していた常識が覆された時には素直に新しく見直された観念に従うという面があるが、彼の言いたいそれはそういう意味での相対性とは対極のものである。そして勿論前章でも触れたようにその考えの起源には明らかにカントやヘーゲルの存在がある。彼等が絶対と呼ぶものは彼等が超越と呼ぶものとも微妙に異なっている。例えば超越と言うと、何かを論じている時に、それではそれもそうなのかと敷衍しようとする時、そうではないそれは「超越的だからだ。」ということになることが多いが、それは例外的だというニュアンスと、別個の事例として考えるべきだという特化された認識を適用するべきであるという倫理的ニュアンスがある。
 例えば責任で言えば責任とは個人に対して適用される時、昨日のあなたと今日のあなたは自己同一的に同一人物だという事実に着目して述べられる。つまり過去事例が現在へと連綿と連続しているという事実に着目している。だからある閣僚が責任を問われるのは彼が任期中の事案に対してだけであり、それ以外の時期に関しては通常彼への閣僚としての責任(閣僚としての資質問題に関する言及はなされても)追及はなされ得ない。責任を適用されるという事態は、つまり過去と現在が連続して同一の状態であるという認識に基づいている。それは因果論的な見方とも少し違っている。と言うより因果論的認識もまた過去が現在の起源であるという認識に依拠していると言うべきである。
 しかし絶対と通常哲学者たちが言う時、そこには「信じる」という行為への依拠が感じられる。例えば通常哲学から別れていった歴史的経緯のある心理学では絶対という観念は滅多に使用しない。それは心理学者たちが通常自然科学の一分野として心の学問を位置付けたいという考えを持っているからである。だから絶対という概念を哲学者たちが使用する時、哲学者固有の主観に裏打ちされている。それは信仰という行為自体を客観的に認識したものともまた微妙に異なっている。絶対とは信仰という対自的な認識ではなく、即自的に「これが正しい。」と彼等が直観している場合のことである(即自は対自と異なって相対的ではない)。
 だから愛を論じる時、通常他者哲学から考えている時に、親子の事例を出す時、血縁関係は超越的な命題であると規定した次の瞬間、しかし愛の存在は絶対だ、と哲学者が言ったとしよう。その場合それは客観的に血縁関係による愛を例外であり、別個に考えるべきであるとする超越的議論に対する要請とは更に別個の心的要求があると見てよい。それは確信であり、揺るぎない信念であり、その信念に同意しない者にはそれ以上そのテクストを読み進めて貰いたくはないという真意の表明なのである。つまり哲学者の語る絶対という概念は概念ではないのだ。それは彼の全主観を支える揺るぎのない信念の起源なのである。
 しかしそのようにあるテクストに自己の意志を表明するという行為自体は、それ自体がテクスト創造者にとってのプラシーボ効果であると私は言った。つまり書く行為自体が信仰の姿なのだ、と。それは彼等にとって実は心の平衡を保つと同時に意識の冒険でもあるのである。世界全体に対して、あるいは社会全体に対して、「私も賛成したいのですが。」と意思表明することは「ではあなたはどういう形態に対して賛成したいのですか?」という問いを必ず返される。その問いを一身に受け止める覚悟が彼をテクスト記述に向かわせるのだ。それを意識の冒険と言わずして何と言おう。意識を意識として受け止めることをメタ認知と言うが、メタ認知の仕方を通常の仕方とは別個のものとして認識し直すことを意識の冒険であるとしてみよう。すると次第に何か光のようなものが見えてくる。
 それは信念の体系に対してそれが通常は閉じている筈なのに、閉じてはいない、つまりもう一度編み直す必要性に対する覚醒である。それは通常ア・プリオリであると思われていたことがそうではなかったという事実に対して覚醒することでもある。その心的状態が所謂本論で言うところの「賛成したいのですが。」型の言辞を生むのである。「反対します。」とその真意が微妙に異なるということは既に述べた。「反対します。」には説得はない。そこにはあるものは多数決には従うということの表明でしかない。しかし「賛成したいのですが。」型の発言には建設に対する願望の表明と、他者誘導に対する意志が感じられる。
 20世紀の哲学潮流に多大に影響を及ぼしたものに精神分析があることはよく知られたことであろう。その起源を遡ればカント辺りまで遡ることが出来る。カントはパトローギッシュ(病理的)という形容をよく使用している。そして時代がヘーゲルを必要とすると、自我ということの問題が極めてクローズアップされてくる。カントにとって自我とは哲学者のパトスとして超越的であったが、その観念をヘーゲルが客体化したのだ。そしてフロイトが登場し、それ以後の多くの哲学者たちは心理学と精神分析を哲学的概念規定のための資料として盛んに利用するようになる。サルトルはワトソンやジャネについて触れていたし、メルロ・ポンティーもフロイトに関して触れている。ポール・リクールは新行動主義のトールマンについて触れている。彼等に共通して最も大きく取り上げられてきたのがゲシュタルト心理学である。それらは概ね批判対象としてであるが、哲学者たちは通常例えば現代の信原幸弘等を見れば分かるように、私たちが通常抱きがちな心の内容が、脳の作用の写像であると教え諭されても尚、それを信用することが出来ないという心的傾向を超越的な命題であるとする。心脳一致説を早く提唱したウィトゲンシュタインと同世代のファイグルのような存在も、基本的には心‐脳一致を説明するために哲学者の伝統に則っている。そしてこの心の内容が脳作用の写像であるという観念を比較的初期におぼろげながら提出していたのがゲシュタルト心理学であると言ってよいだろう。
 しかし精神分析は脳作用としては前頭葉によって司られている自我を基本的な命題として分析し続けてきた。しかし今日脳科学では感情がそれら一切の底流として作用しているからこそ前頭葉の思考回路が活性化しているのだと考えている。その感情を司るのは古脳と呼ばれる扁桃体を中心とする大脳辺縁系である。精神分析が哲学においては超越的であると考えられてきた自我に対して客体化して分析してきたのは精神分析が元々、臨床医学の一分野である精神病理学とか精神医学を基本として発展してきたからである。精神分析の背景には自然科学の認識がある。そこで今日精神分析と脳神経学や脳生理学が協同して考えるという流れも実現しつつある。これに更に哲学や言語学、心理学、あるいは動物行動学等が合流すれば、あるいは言語の起源も、人間の脳の進化の謎も、人類の社会生活の起源も次第に解明されてゆくことになるかも知れない。
 そこで本章では残りの紙面を主に意識の冒険を自我というレヴェルで考えていってみようと思う。
 自我という概念は心理学や精神分析では最早最も頻繁に登場するものだが、哲学においては有名なところではドイツ観念論哲学のフィヒテが考えた。しかしその後シェリングやヘーゲルによって批判を受け、哲学者毎に異なった考えが持ち出されることとなる。しかし哲学においては倫理への問いということはあまりにも当然過ぎるので、倫理自体とはどういうことかと問うということはしない。もし倫理自体を問うとしたらそれは哲学ではなく、脳科学とか心理学とかになるだろう。だが倫理への問いということは一見容易なようでいて、実は極めて論理的な進め方が困難なのだ。例えば宗教なら愛せよと一言言えばそれでよい。しかしその事実を煎じ詰めると誰かを「愛すること」というのは他の世界中で生活する大勢の人のことを無視すること等しいのではないかということになる。
 また例えば文学賞でもそうだし、ピアノコンクールでもそうなのだが受賞して成功する人がいるということは、その影で数多くの受賞することなく、またそのために世の中に出ることなく終わる人がいるということである。もっと端的に言えば誰かが幸福になるということは誰かが不幸になることだ、と言い切ってもよい。あるいはある国が平和であることは別のどこかの国が平和ではなくなることであるし、また裕福な国があるということは貧困な国があるということなのだ。しかしそれを直接言えば政治的な発言にはなるかも知れないが、心の問題を扱う哲学では、裕福であるとか幸福であるとかいうことは一律にこういう状態であるとは規定し得ないという立脚点にあるので、問うことで誰彼差別するということはない。真に幸福な人も一見幸福な人も、不幸な人も均なみに問う自由がある(自由とはかなりきついことであるとはこのことでも了解され得るだろう)。
 宗教の場合ある一つの真理に対して共感する同一の波長の人々が集まり共感し合うという事態が基本としてある。だからカントという哲学者に惚れた者同士の学会があるとしたらそれも宗教と言ってもよいし、フッサールやウィトゲンシュタインに対して格別の思いを抱いている者同士の集まりは宗教のある宗派の集いと同じである。
 しかし本来哲学とは共感し合うばかりではないし、共感するとは一体どういうことであるかと問うことでもあるので、愛することが愛する必要のない大勢を無視することであるために倫理を問うことそれ自体の仕方が問題に取り組む人々によって多様化し、こういうものが哲学であると一言で言い表せないという事態に特に19世紀後半くらいからなってきた。だから論理実証主義(本当は論理的経験主義と言う)、現象学といった様々なタイプの潮流が登場したが、どこを見れば倫理という観念が論じられているのかと一見すると思われるが、実際は倫理を問うということは倫理を取り巻く世界の状況や世界成立の構造を問うことと等しいために倫理という観念自体は殆ど登場しないということとなるのだ。しかし現象学であれ、論理的経験主義であれ、日常言語学派哲学であれ、分析哲学であれ、言語哲学であれ哲学と名のつくものは全て倫理への問いであることは間違いない。
 例えば戦争という事態を考えてみると、私は勤勉とか禁欲が齎していると考えている。
 禁欲はともかく勤勉という観念はいいことであると特に日本人は思っている。しかし私は今までの人生の大半を何らかの表現をすることに費やしてきた人間なのだが、表現するという行為は勤勉さだけではなし得ないと考えている。それは端的に言えば勤勉さも必要な要素の一つであるが、最も大切な心得とは心の余裕、もっと直接的に言えば遊び心である。
 科学とはそこで示されたデータの正確さと一般化されて応用されることが目的なので、世界中のどこの国のどういう考え方の人間同士でも共通の真理によって結ばれているので、定義付けがきちんと統一されていなくてはならない。しかし昔から偉大な科学者は同時に偉大な哲学者であるか、そうでなければ偉大な哲学的思念の持ち主であった。そして科学者が同時に偉大な宗教家であるということも昔から珍しいことではなかった。
 だから一人の科学者の書く本には科学者としての使命と同時にその人の哲学や宗教観が反映されているということもまた珍しいことではないし、それは哲学者たちが科学や宗教に関して触れているということと何ら変わりない。
 自我を考える時、哲学的にはフィヒテ流とかヘーゲル流とか言えるが、もっと大切なこととは、そのような自分の立場を自分で理解するということと、他者もまたそのようなものを持っていると認識することである。恐らく動物行動学的な見地から言うと、自我もまた進化的な観点での適応ということになるのだろう。茂木健一郎は生物学分野の進化論者たちが利他的行動として位置付けるものの一つ、「人に注意する」という行為が脳科学的に言えば脳内の快楽中枢が活性化していると指摘している(「脳の中の人生」中公ラクレより)が、利他的と利己的ということの境界というものは設定することが不可能なように思われるのは、あのリチャード・ドーキンスの考えが最も端的に表された「利己的遺伝子」を見れば理解出来るだろう。しかし彼はどちらかと言うと適応という生物学的な概念、つまり生存戦略上のメリットを利己的に追い求めることから利他的な行動が定着したと考えている。それは要するに他個体から不意の攻撃を受けたのなら咄嗟の判断でその個体を避けることを躊躇わずに行動選択する身体的、条件反射的な動作や所作を遂行する意志を育む自己防衛と他者との協調の能力を司る脳内活動なのであろう。だから自我を心理学的なパーソナリティーという概念で考えると、あるいは自己の立場を鮮明にすることで社会生活において自己内の本来は無目的な行為や行動をする際の快楽享受を一定の社会的目的に照応させて、行為や行動に一定の意味を自己の側からも他者一般からも理解しやすいように仕向ける当のものとして考えられるかも知れない。
 それは脳内での生活実体の無目的性を目的性(例えば社会に貢献するとか、社会全体の幸福と個人的幸福のためにとかの)へと転換するための意志と呼んでもいいかも知れない。
 だから裏を返せば自我の在り方を変換するということはそれだけで意識の冒険をしようとしていると言っても過言ではないだろう。しかし意識の冒険はそうしていると意識するには危ういものなのだ。つまり意識的に冒険しているということはそうしながら一瞬反省的な意識になった時のみ覚醒することなのだ。だから逆に意識的に冒険しようと思う時、それは功を奏する冒険になるとは限らないのだ。
 自我に戻ろう。何かに関心がある時とか、何かに熱中している時に、そういう自分にふと気付くということがある。そういう時に初めて自我は意識される。それが意識の冒険だったのだ、と気付く自分が自我である。自我には自他の認識を司る作用がある。自己の生存の持続を望む欲望は自我によるものである。
 音楽という行為にはある忘我がある。一如である。またスポーツもそうである。この二つには熱狂的な精神状態へと誘う作用がある。ある意味では戦争もまた極度に遊びのないゆとりのない勤勉さ一本槍が招来するのだ(だが一旦それをし始めると途端に敵を倒す喜びに満たされてしまうそういった麻薬に近いものも戦争にはある)。遊びのない勤勉さは社会全体の利潤だけを追求する。戦争はそういう意識から発生する。ウィリアム・ジェームスは言語を生存と競争の原理を体現したもの、つまり道具と考えた。その意味ではプラグマティズムとは自我の確立過程に存する競争原理に依拠した考え方である。自我の確立過程はそのまま言語行為の進化過程となって立ち現われる。
 何故そのように進化過程において競争原理が示されるのか?それは人間がコンピューターと違って強制されると一挙に嫌気が差す動物だからだ。実は他の動物でも意識的にもし強制されていると考えればその命令を拒否するだろう。しかし幸いなことには彼等にはそのように強制を強制と認識する知性は備わっていなかった。人間はしかし強制されたくはないと同時に自ら進んで自分より強者の軍門に下るような部分もあるのだ。つまり相手からの支配を進んで受け入れ、相手への服従に素直に屈するところさえある。そして強制されたくはないという心理とその服従心は常に共存しているのだ。そしてその二つのいずれかが立ち現われるかということに関しても全く不確実なのだ。しかし更に同時にその不確実だけではなく一生変わらずに持ち続けるような一面も持っているのだ。そしてその不確実と確実の二つの領域は全ての成員において異なった領域なのだ。だから私は人間が人間の力によって人間と同等の能力を有するコンピューターを創造することは不可能なのではないか、と考えている。しかしにもかかわらずそれを挑戦するというところに意識の冒険を気が付かぬ内に実践している人間の実像が垣間見られる。
 意識の冒険を反省的に捉える時、我々は認識上で超越的な視点を要する。つまりメタ認知レヴェルの認識を持つということは、「もう一人の自分」を客観的自分(身体、世界に存在する世界の構成要素としての自分)に対峙させる必要に迫られる。そして我々の祖先は恐らくこの「もう一人の自分」(つまり客観的自分を観察するところの)のことを自我と呼んだのかも知れない。

Thursday, May 17, 2012

〔言語の進化と責任〕第一章 言語活動を成立させる基盤②

 例えば哲学者のダニエル・デネットはリベットの実験以外にも主観的な意志決定の瞬間が、自分であの時だと思うよりも先に脳内では決定されていることの好例としてグレイ・ウォルターの実験について言及している。
 つまり我々がこのデネットの論述から学ばなくてはならないことというのは、我々は我々の脳から決して自由にはなれないということと、自由の領域とは物理的な時間的事実ではなく、我々がそれを決心した瞬間であると脳から言い渡された(この表現が酷く宗教的であると言って気に入らないのなら、脳がそのように我々にある閃きとか考えをセットしてそれ自体を確固たる認識として理解させるように仕向けた<この表現は脳を一個の意志決定のコンピューターとして見做している。>と言ってもよい。)瞬間をこそ自分で決めた瞬間であり、また記憶上ではその瞬間は徐々にずれてゆくこともあり得る、それこそが現在を特殊な位置として認識する脳の、いい意味での自由な解釈を許す生存戦略であると言えるだろう。しかしこのような自由と非自由との認識論的な闘争、我々の思考内部での葛藤は果たして現代に固有の事態であるかと言えば、それはノーである。
 へーゲルの考えでは純粋洞察とは、カントの言う如く悟性に近く(尤も、カント哲学はこと道徳という倫理的主題に関してはへーゲルのような超越的な神の視点を採用してはいない。永井均の主張するように、ソール・クリプキは明らかにデカルト主義的な自己、自我、我の考えを基準に他者性を考える哲学者永井からすれば、超越的視点の採用によって自己哲学を構成していると言える。「私という存在の比類なさ」中、他者より。その点ではクリプキはヘーゲルと同一の志向性を有していると言える。)、それは啓蒙思想の中の合理主義と合致し、明らかに彼の言うもう一つの人間の思惟、つまり信仰と対立する。信仰とは一つの決定である。それは要するに逡巡の撤回であり、迷いの死への誘いである。しかしポール・リクールやそれ以前にもサルトルが主張していたような意味で、迷いとか考えあぐねることというのが可能性の承認であるような意味で奥深いものでありながら、同時にそれをいつまでたっても行動に移さないということにはある種の停滞以外の何物もないと言わねばならない。確かに行動は他のあらゆる可能性の放棄である。しかし行動しないことはもっと多くの可能性の放棄である。事実19世紀以降の多くの哲学では明らかに行動という投企あるいは企投によって問題を(ただ単に社会哲学的視点からではなく)見据えることをモットーとしてきているし、その事実に対して私は歓迎すべきことであると考えるからである。(因みにヘーゲルが言う純粋洞察と真理希求の傾向性<彼は一方でそれを認め、他方でそれを批判しているのだが>とは、彼によれば人間の考える理想的な在り方への便利な接近方法である。これは否定という論理を主張したヘーゲルの「実在は常にある程度理想からは隔たっている<これは平均的な今日の自然科学の認識である。著者注加入>。」が、それを常に否定しながら、それ以上の在り方の可能性を探る人間の傾向性を示したという意味合いでは、サルトルが「存在と無」で考えていた「そうではあらぬかたちでそうであること」という思惟の理想希求型の実存に対する未完了恒常性という観念を誘発したと言えると思う。)
 ともあれヘーゲルはその二つを二項対立的に捉えたのだ。彼は「信仰は偶然を否定しない。」と言った。(「精神現象学」長谷川宏訳、388ページより、作品社刊)しかしそれは偶然というものを今日流に言えばセレンディピティーとか、あるいは古風に言えば啓示(アンリの好む語彙である。)とかお告げであると捉えてのことである。その中でも至上のものとは要するに奇蹟である。しかし同時にもしこの世に生起する全てが偶然であるとするなら、自然科学的な因果論認識の必然的な生起に対する理解と容易に共存し得るのではないか?  ヘーゲルもヘーゲルを分析するアンリもそうだが、悟性とそれを支える理性と信仰を彼等は敢えて極度に分離させてみせる。そして信仰それ自体も決して否定しない。その意味では進化心理学あるいは社会生物学の学者としてその徹底振りで知られるリチャード・ドーキンス、ダニエル・デネットあるいはニコラス・ハンフリーと彼等は対立する位置にいると言える。しかしことはそう単純でもない。
 哲学者の信原幸弘は指摘している(「考える脳、考えない脳」講談社現代文庫)が、我々は因果論的認識つまり合理的思考を常に、そうは割り切れないような思考と共存させてもいるからだ。彼は前者を至上のものとする哲学や脳科学の考え方を古典的計算主義であると言い、後者を含めた脳の傾向の捉え方をコネクショニズムであるとする。そして習慣的行動を誘発する脳の活動はコネクショニズムの考え方を採用すると理解しやすく、それは古典的計算主義では捉えきれない活動をも指示するとする。そして暗算とは視覚的に計算式を書くことを想像することだから、知覚皮質が実際に紙に計算式を書く時のような活動を脳がすることを指摘し、外部環境からの入力を糧に脳内で思考することだから、純粋脳内活動ではないと考えておられる。しかもそれらの脳活動をニューラルネットワークという枠組みで捉えることの方がより有効であり、無意識という意識で解明出来ないことの全てをそこに収めるやり方が既に無効となっていることを主張する。結局氏は結論として心と脳は一致せず、心は脳活動よりも広範であると考えておられる。それは最終章の次の記述によって結論される。
 「(前略)脳と身体と環境はひとつの大きなシステムを形成していると考えることができるでしょう。構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この大きなシステム全体によって産み出されるのです。すなわち、脳の働きが身体を動かし、それによって環境のなかに構文論的構造をもつ表象が作り出され、それを脳が知覚して新たな身体を動かし、等々というふうにして、表象の操作がなされるのです。構文論的構造にもとづく思考は、脳と身体と環境からなる大きなシステムによって、そのサブシステムである環境のなかに産み出されるのです。
 心の動きのなかには、脳の働きのみによって脳の内部に生じるものもありますが、そうではなく脳の働きによって身体をつうじて環境のなかに生じるものもあります。したがって、心の働きのすべてが脳の働きだというわけにはいきません。心は脳を超え出て、身体をつうじて環境にまで及びます。身体や環境がなければ、心は完全な形では成り立ちません。脳と身体と環境からなる大きなシステムが心なのです。  心の動きは、この大きなシステムの脳のところで起こったり、あるいは環境のところで起こったりします。脳のところで起こる心の動きは、構文論的構造をもたない表象の操作としての働きにかぎられます。それにたいして、環境のところでは、構文論的構造をもつ表象の操作としての心の働きも生じます。発話による意識的な思考は、そのような心の働きの代表的なものです。
 心は脳に尽きるものではありません。脳がなければ、心がありえないのはたしかですが、脳だけで、心が成り立つわけではありません。心には、身体と環境も必要です。心は脳と身体と環境からなる一大システムなのです。」(207~208ページより)
 信原氏が自著で指摘されているように、無意識のレヴェルで選択しているようでも、実際にはその脳活動にはそれなりの根拠がニューラルネットワークを通じた神経的記憶に刻み込まれている。してみると「信仰」とは本来古典的計算主義的な論理、つまり論理構造を文章に置換可能な形で考える仕方では収まりきれないと言うことが出来る。それは論理的納得以前の、もっと感得的な理解、あるいは「そうとしか思えない」という信憑性のクオリアに起因するものと考えられる。そういった信念とは幼児期における体験に依拠した感動のクオリアということが根深く作用しているのかも知れない。(有神論者においても無神論者においても変わりなくその体験は刻み込まれている。)体験もまた一個の環境であると考えることが出来るからである。そして体験は身体的な情動をも含むからだ。
 ニコラス・ハンフリーの「喪失と獲得」中の<子供に何を語ればいいのか?>で彼は散々偏った宗教的(キリスト教も含む。)ドグマに対して子供を大人の子供に対する(とりわけ両親の子供に対する)特権的なエゴから子供を守りつつ、合理的科学的認識(彼はそれを自己参加の可能な理想的な選択であると考えている。それに対して宗教的教義は子供の側から自発的に選択するような種類のものではなく、明らかに外部からしかもその子供の属する国家や民族からではなしに、他国のしかも現代のものではない考え方のみ正しいとし、それ以外の全ての選択肢を排除するように仕向けるものであるとしている。要するにそれらは参加型ではないのだ。そしてその中にはキリスト教の聖書原理主義も含まれるのだ。他者からの押し付け型の信念は、決して両親でさえ特権的に行使出来るものではないと彼は考えている。)を自由にしかも子供の内発的要求に従って選択させるような環境を提示すべきであると提唱しながら、最後の最後で「申命記」(旧約聖書中の一つ)の記述を教訓として使用しているのだ。このようなテクスト民族的伝統依拠的な方法論はリチャード・ドーキンスにも見られる。しかしそのような方法的な潔癖さをいつまでも主張していたら、具体的な主張はいつまでたってもなされ得ないとも言えるのだ。我々日本人が哲学を理解する時我々の民族的な理解しやすさから、我々の文化を唯一のものとして理解してはないにしても尚、我々自身の理解しやすさから日本文化に通底するコードを理解促進のために語彙使用するということは間違った手法ではない。要するにそれが行動するということである。
 サルトルはそのことに関して真理への希求が大切であると主張しながらも、こうも言っている。
 「結局すべてを知ることは、何もしないことである(伝説と神話)。それはなぜか。それは全体的知が与えられた知であり、それゆえ、もはや構築の可能性がないからである。」 (「真理と実存」澤田直訳、179~180ページより、人文書院刊)
 つまり可能性の封印とはある意味では可能性の開示でもあるのである。だからこそ必死にハンフリーは子供に対してある種の偏った教義を教え込むことを、そのような選択は最終的には子供本人が自主的に選び取るものであるという観念を教え込むためにだけ例外的に認められするが、それは子供の性格にもよるものだし、決して積極的に彼は推奨してはいないのだ。
 キリスト教文化圏にいて生活しながら、それを文化的基盤としては受容しながらも、同時にその事実を冷徹に見ることというのは、ある意味ではヘーゲルの否定しつつ受容するようなスタンスからしか為し得ないのかも知れない。つまりハンフリーやドーキンスのテクストに見られる一方で宗教的ドグマを批判しつつ、その文化的な方法論を採用することに関しては決してタブーを設けないというスタンスは実はヘーゲルやアンリにも如実に示されているのだ。彼等のテクストに関する叙述に戻るとすると、彼等のテクストでは明らかにキリスト教的な信仰を否定してはいないが、キリスト教の自己犠牲的精神の奨励に関しては痛烈に批判しているのだ。まずヘーゲル、そして続いてアンリの叙述に示された批判をここに引用し、続いて彼等が無条件の信仰の批判を加えつつ、同時にハンフリーやドーキンス、デネットとはまた少々異なった第三の立場を模索していることを示し、再びハンフリーが示したプラシーボ効果というものとどんなに無神論者でさえも共存して生活しているということについて考えてみよう。そしてそれが言語的な進化の上でどのように責任倫理と密接に繋がっているかを次章では考えることにしよう。
 まずヘーゲルの「精神現象学」で示されたキリスト教批判から見てみよう。 「信仰は偶然の知を否定はしない。偶然のできごとと関係するのが信仰というものだし、絶対の神も日常の現実的なイメージの形をとってあらわれてくる。だから、信仰者の意識は、真理とはいえない確信をもつこともあるし、自分がありきたりの意識であって、おのれを確認し確証していく精霊とは離れた位置にあることも隠しはしない。が、絶対神を精神的に直接に知る、という段になると、そのことを忘れてしまっている。一方、そのことを信仰に思い出させる啓蒙思想は、ここでもまた、偶然の知のことだけを考えて、永遠の知のことは忘れてしまう。見知らぬ第三者によって生じる媒介の働きだけを考えて、直接目に見えるものが第三者であり、それを通じてそれとは区別される自己自身との媒介が生じる、という媒介の働きについては考えないのだ。
 最後に啓蒙思想は、信仰者の行為を論評して、快楽や所有を放棄することは正しくなく、目的にかなわないと考える。正しくないと考えるのは、財産を所有し、確保し、そこに満足を見いだす現実を承認するという点で、信仰者の意識と啓蒙思想とは考えが一致しているからである。が、信仰者は財産の所有についてはあくまでそれを守りぬこうとし、快楽についても乱暴にそれに身をまかすのであって、それというのも、所有と快楽を放棄する行為は、この世の現実の彼岸にあって、彼岸での自由を約束するものだからである。自然の欲望や犠牲にするという行為は、彼岸と此岸の対立をふくむがゆえに、真の宗教的行為ではない。犠牲の行為と並んで保有の行為が生じるので、犠牲の行為といっても象徴的な意味合いが濃く、実際に犠牲に供せられるのは所有物のごく一部で、犠牲は実際に思いうかべられたものにすぎないのである。」(同書、長谷川宏訳、388ページより、作品者刊)
 続いてアンリの叙述を引用し、その後で二人に共通したアンチ・キリスト教教義随順主義の見解について考えてみよう。少々長いがお付き合い願いたい。
 「ヘーゲルは、すでにその青年期から、生について、そして生の本質との関係においてキリスト教について、反省をめぐらせている。キリスト教は、ヘーゲルにとってただちに、「生の制限」であるように思われた。<キリスト>は多くのものを放棄する。たとえば個人が自分の生きる社会とのあいだにもつさまざまな関係を、一般的にいえば、生のすべての外在的形式を放棄する。「たくさんの活動的結びつきや生き生きした関係が失われた」。キリスト教を定義づけるもの、それは生の豊かさの対比における、ある種の「貧しさ」であり、この「貧しさ」の本質的性格を了解することが重要である。というのは、あたかも、特定の事物が拒絶されたり禁じられたりする一方で、少なくともそれ以外の事物は許されているかのように、たとえばある道徳的教えとの関連における相対的な貧しさが問題となっているのではないからである。本当のところ、キリスト教はどんなものも存続させはしない。なぜならキリスト教は、ヘーゲルからみると、事物の本質そのものを審問に付すからである。事物の本質、それが<精神>であり、現出しているというその性質における具体的で現実的な存在であり、客観性そのものなのだ。だが客観性は<キリスト>にとって「最大の敵」であった。このために<キリスト>は彼に従う者たちとともに、いっさいの事物を奪われた絶対的な貧窮の内で本質的に貧しくありつづけなければならなかった。たしかに、この貧窮は、弟子たちからみると、見かけ上のことにすぎない。この貧窮がもついわば面は、ある豊かさの世界の方に、つまり内面的であろうと欲しそのようなものとして無限でもあるような豊かさの世界の方に向けられている。<キリスト>が教えているもの、それは心の純粋さであり、内面的で限りのない愛である。だが、これらの語が意味をもっているとするなら、そのような愛に支えとして役立ちそれに実在性を付与することができるのはいかなる本質なのかを、存在論的次元において指示できるのでなければならない。キリスト教が原理上身に捧げている貧窮は、存在論的観点からすれば、否定性という本質から切り離され、唯一具体的である<全体性>から孤立させられるならば、もはや一個の空虚なカテゴリーにすぎなくなり、その意味は失われてしまう。自己自身では一個の抽象物でしかないものを「その絶対性において保持しよう」と欲すること、それは「狂信」に落ち込むことである。キリスト教の宿命は、本質ではないもののうえに自らを根拠づけようとする試みから帰結するのであるが、そこには、真の本質を、すなわち客観性そのものを拒絶しようとする空しい意図が付け加わっている。」(同書下、999~1000ページより)
 アンリはイエスその人を批判しているわけではない。寧ろそのイエスを奉るその後の教義的な教えそのものを批判している。そしてそこで我々が着目しなくてはならないこととは、アンリ自身が熱心なキリスト教徒であった筈であるその内部の側の人間から発せられた発言であるだけに最後の一節は極めて辛辣な、キリスト<教>批判となっているということである。それは内部的事情を知る者のみが遂行し得る勇気ある提言であるということだ。アンリは続ける。  
 「ところでこうした二重の企図の内には、破壊的な矛盾が存している。というのも、本質に対立させられようとしているものは、当の本質の一契機、つまり、当の本質の実体と共にし、実際には同じ存在論的意味をもつ本質の一契機にすぎないのだから。事実、存在がそこにおいて限定態という特徴を伴って自らを現出させることのできるような現象学的地平の開けの内に、客観的な本質が存しているかぎりにおいて、否定性は、この客観的な本質とひとつのものである。否定性とは限定態のカテゴリーなのだ。主観的な本質を欲し、それと同時に、客観的な限定態を拒否する、などということはできない。<絶対者>が自らを主観性たらしめようとすることと、<絶対者>が客観的限定態というかたちで自ら自分自身に現われ出ようと欲することとは、ただひとつの同じ欲すること、つまり、<絶対者>が自分自身にとって現前的であろうと欲することなのである。限定態の拒否はキリスト教をまったく空虚な一種の「無定形さ」(amorphisme)へと引きずり込む。なぜならその信徒は、世界から顔を背けることによって、生の豊かで具体的な諸形式を失ってしまうばかりでなく、実際には、否定性の主観的な本質もまた彼から逃れ去ってしまうからであり、それというのも否定性の主観的な本質は、彼が顔を背けようとしている現実性の構造そのものに属しているからである。そうなると、存続するものは厳密に何ものでもない。すなわちそれは否定性の無でさえもない。キリスト教が新たな王国をそのうえに築こうと試みているこの「何ものでもないもの」について、われわれがともかくも語ることができるのは、実際には、この実存性を表象しているから、つまり、光が支配する原初的な領野へとこの実存性を投影しているからなのだ。しかるに、キリスト教が最終的に到達しようとする想像上の最終項である<天国>は、いっさいの超越的な表象そのものに属している程度の現象学的実在性をもっている。この現象学的実在性を、キリスト教はあきらかに現出の本質に、いいかえれば、客観性の本質に負っているのである。他方、周知のように、キリスト教において神の愛は、何よりもまず現実に与えられた次いで記憶の内に保存された具体的な人物のかたちをとって人間に提示された。キリスト教的実在性は、世界の中に介入することによってしか、自らを現出させることができない。「神的なものが現われるためには、見えない精神が見えるものとひとつに結ばれなければならない」とヘーゲルは言う。神的な存在それ自身は、人間のそばに居ようと欲すると同時に、いっさいの現前の本質を見誤っていることなどできない。諸々の奇跡、預言、秘跡そのもの、あらゆるかたちのもとでの信仰、いたるところで愛と結びつき愛がそれなしにでは生を欠いたものになってしまうような歴史的境位、これらのものがそこ存在するのは、キリスト教は自らが断罪するものなしで済ますことができなかった、と証言するためなのである。」(同書下、1000~1002ページより)  
 「賛成したいのですが。」型発言に見られるような心的状態での言辞とは、実はそれ自体で一つの責任の在り方を巡る論争に一石を投じる。と言うのも本来責任とはその負い方においてより客観的判断よりも主観的判断において重大なものとなるものだからだ。それは罪を犯した者の法的な処遇等を見れば明白であろう。しかし困ったもので人間は不確実な未来の可能性に一か八か賭けてみるという傾向もあるのだ。それをギャンブル的感性と呼ぶこととしよう。つまり主観的な判断、つまり個人的感情による直感で判断した場合に成功した時の報酬に対する欲求による内分泌、言わばドーパミンの放出量は通常よりも絶大であるということも脳科学では知られている。つまり報酬への欲求とは責任の重さ(つまり行為の成果に対する不確実性)に比例して増大するというわけである。この真理は宗教的感情においても変わりない。つまりアンリが真に言いたいこととは、宗教が客観を回避しようと欲するのは教団そのものがその信奉者たち共通の主観(的幻想)がもし功を奏した時の快楽が絶大であるということにおいて成立した集団的ヒステリーの結果である以上必然的であるということなのだ。それは苦しい時の神頼みであることの本質的な空しさに対する自己言及(キリスト教徒自身による告悔)なのである。しかもこのアンリによる欧米人懺悔型のキリスト教批判の背後にはカントが「道徳形而上学原論」において述べた神でさえも誤っている場合にはそれに従う必要なしという人間の神からの独立という観念も控えていると見ることが出来る。   提言的、苦言的言辞である「賛成したいのですが。」型言辞とは実は、四面楚歌状態では極めて反社会的意思表示以外の何物でもないと言えるのだ。それはそう言い放つことで、自分と相同の胸中の者の出現を暗に期待するというかたちをとったプロテストである。そしてアンリがヘーゲルに習って示したこのキリスト教批判は、サルトルが「本質は実存に先立つ」とのたまわった「実存主義とはヒューマニズムである」以来の本質的反逆である。 それは次の一節にもよく示されている。
 「(前略)神的なものが初期キリスト教の共同体に自らを現出させ続けることができたのは、自らの有限な形式を保持するという条件のもとでだけであったのと同様に、ヘーゲル的な<概念>が有限な限定態の定在から身を引くことができるのは、本当のところ、自己への帰還というこの運動が、実際には、自己の外部へと赴き外在性の光の中で自らを自己自身に対して現出させるという作用以外の何ものでもない場合だけなのである。(中略)ヘーゲルが了解しているようなキリスト教の宿命、つまり、客観的限定態なしでは済ますことができないという宿命は、ほかならぬヘーゲル主義の宿命そのもの以外の何ものでもない。」
 ここには明らかにヘーゲルの考えるキリスト教と、実態とはかけ離れているという考えがアンリによって示されている。そしてそこには特に前半部でだが、ヘーゲルに対する楽観主義的な考え方に対する批判が交えられてもいる。端的に言えばヘーゲルの時代には精神とか神経とかの作用それ自体もそうだし、その綜合作用自体に対する認識は科学的にも哲学的にもなされていなかった。しかしその現代へとやがて到達する時代の中でヘーゲルが現出という概念に光を見出していたという事実に対してアンリは敬意を表明してもいるのである。それは「<概念>が有限な限定態の定在から身を引くことができる」という可能性をヘーゲルに見出しているところから了解出来る。
 概念とは本来ある決まった社会でだけ通用するような符号ではない。尤もそのような符号と概念を識別することが可能でない限り逆に概念だと思って符合を使用するとしたら、その成員は単に言語使用に関する規約を知らないというだけのことである。しかし概念もまた人類の曙においてはある集団内だけで流用される符号からスタートしたのだろう。そのことは限定態という概念でしばしばアンリが述べる言述において、特にキリスト教批判の箇所において了解しやすく示されている。彼が言おうとしている限定態とは固定観念に発展しやすいある思い込みとか、確固たる信念を形成する人間の傾向性のことではないだろうか、と私は考える。(賢明なる読者諸氏のご意見を拝聴したい。)
 アンリはヘーゲルが考えただろうキリスト教のあるべき姿に対する着眼に対して敬意を払いつつも、その限界を指摘し、かつキリスト教教団的教義世界の限界も指摘することを通した彼固有の「賛成したいのですが。」型の西欧人による西欧人のための(あるいはそれ以外の文化圏の全ての固有宗教文化保持者のための)哲学を構成しようと目論見たのだろう。そして彼の批判するキリスト教文化圏の最も象徴的な日常的所作とは「神に誓います。」という言辞に見られる無頓着なのである。哲学者は宗教的発言に対しては、幾分形式主義的なニュアンスに関して懐疑的である。もっと直裁な言葉を求めている節があるが、実際言葉が直裁であることはいたく他者を傷つけてしまうということもあるのだ。(第九章あるいは結論において詳しく論じる。)
 「神に誓います。」という言辞には本来、神に逆らわないから、神の思し召しであるのなら、たとえそれが誤った選択であったさえそれに付き従いますという意図の表明なので、その言辞に纏わる責任とは一種の責任転嫁、もっと積極的に批判すれば責任放棄である。人間が内発的に主体的に、自らの意志で動こうとする時、その宣言は従属からの解放を欲求することの意思表示である筈だ。それはある種の言語の進化と言えるのではないか?つまり言語の進化とは統語秩序の完成というような形式的事実以上にある意味では「神に誓いたいのですが。」と言うような自らの主観を信じることから発せられる非従属的な判断の宣言への進化そのものである筈であり、それは形式的には無宗教的色合いを濃くする筈なのだ。それは全ての責任を自己の判断に負い、真実の正義への直観に対する覚醒の宣言なのである。神とはいかようの性質のものであっても、責任転嫁を相互に認可し合う暗黙の同意以外のものではない。 
 日本人は元来無宗教民族と言われる。しかしそういう性質の民族にも無宗教なりの宗教がある。それが世間体であり世間様であり、世間一般の常識であり、有職故実であり、天皇制であり、あるいはそれら全てを巧みに利用するマスメディア(これは新聞、ラジオ。テレビ出現以前から瓦版、その他でずっと日本民族にあったことである。)という得体の知れぬ暗黙の世間的協定である。故にそういうものをも宗教と言うのなら、宗教の責任とは極めて限定された成員間での閉じた村意識の賜物であり、小さな運命共同体意識の発露以外の何物でもない。イエス・キリストが村の鎮守の神様に代わっても、あるいはテレビのニュースに代わってもその正体は実は同一のものである。確かにイエス・キリストは偉大だったのだろうし、神武天皇もそうだった筈だ。そしてそれら一切の宗教的信仰者間のコードはあってよいものであるし、文化的な遺産であろう。しかし同時にそれが現在生きる全ての人の個人的責任と選択的自由を狭めるような性質のものであるのならどのような世界遺産と言えども弊害以外の何物でもなくなるだろう。
 本章の結論めいたことを言わせて頂くと、言語成立の基盤の成否とは意味論的世界としての感情表出という観点に立てば、要するに自己責任の所在に対する不明瞭な明示の仕方から、確固とした明示の仕方まで、つまり「誓います。」型から「賛成したいのですが。」型までの推移(その他の中間例は次章以下で示そう。)に見られる責任の度合いに応じた意思疎通自体の規定の仕方にかかっているということである。
 哲学者の永井均は他者性というものの可能性を「私」以外の全ての他者が意識を持ち、その意識がゾンビではないということを必ずしも立証出来ないという不可避的現実への直視からしか獲得し得ないと考えている。その考え方はディヴッド・チャーマーズも信原幸弘も同一のベクトルで表明している。それは責任というものの在り方そのものに対して我々が「私」というものの構成され方、つまり<私の責任>を意識するのはどんな時か、という問題へと我々を必然的に誘うのである。そこにはある種の運命共同体的な考えが助けになるものと思われる。次章ではそういった観点から考えてみたい。