Wednesday, September 30, 2009

第二章 責任と愛情、信頼

 情報伝達、意志伝達が信頼を基本としていることは、生物学者のハミルトンの利他的行動その他で実証されている。テレビで茂木健一郎氏が語っていたが、人間の脳は感動するとそのことを他者に伝えたくなるらしい。それは意味理解、つまり感情の襞を進化させてきたからである。しかし親しい人に対しては確かに感動を伝えたいというのは極めて自然なことであるが、それほど親しい人間ではない、つまり他人に対してはまた少し違う。この親しさの段階に従って、人間は私的、公的に差異を作ってきた。そして親しい者を裏切ることは人間でも逸脱者以外にはそうなかったであろう。しかし他人に対してはそれと多少は違ったであろう。しかし他人に対して攻撃的であり、嘘をつくことは次第に社会全体から爪弾きにされてゆく運命にあったであろう。それがハミルトンの功績であるところの利他的行動へと人間を落ち着かせる(尤もハミルトンにとって他者とは家族であり、トリヴァースが初めて本当の他人をこの範疇に引き入れた。これを互恵的利他主義と言う)。この時責任ということが発生するのだ。責任は本来他人に向けられたものであり、その信頼が家族内にも向けられた時、家族を養うとか家族の生活を維持するという行為へと向かう。しかしその前には家族の愛情の享受、自己愛、そして親しい者への愛情、そして他人への責任、そして家族内に向けられる責任と愛情という段階を踏む。この点では精神分析が20世紀に多大な功績を残したと思う。そして文化人類学は人間の宗教感情の起源に挑戦しようと思ったということだけでも多大な功績があると私は思う。私は現代の自然科学が文化人類学や精神分析とあまり結束していない状況を残念に思う。確かに自然科学者たち、とりわけ脳科学者たちは、生物学者とか哲学者とは結束しているようだが、やはり彼等だけでも解明出来ないこともあるのではないだろうか?
 例えば社会という現実が出来上がる頃には言語自体も統語構造とか意味の世界はかなり出来上がっていたと考えるのが自然である。しかしその前段階にはやはり統語を必要とする情報伝達という極めて感情的行為が要求された現実があった筈である。そして情報伝達内容の面から考えると親しく常に行動を共にする他者たち、つまり家族と仕事仲間と、それ以外の疎遠な人々との親近度の差が情報内容と情報伝達方法の差を生む。その差の認識が感情の襞に様々な階層を作る。その階層の差が愛情と責任のバランスを決定する。
 例えば他人を信頼するということは信頼する人間を裏切らないということである。しかし他人に対して親しさの度合いは違う。そこで親しさの差が愛情に裏打ちされた責任(他人)と、責任に裏打ちされた愛情(家族、友人)という両極的な二つの傾向の間に様々な段階を築く。この段階に対する認識こそが社会認識であり、哲学を産む土壌となる。
 宗教は恐らくもっと自然全体に対して社会全体が拮抗する意味合いから集団の論理から発生したのであろう。だから民族性とか国家意識とかそういう一切は全て宗教的感情、つまり集団同化意識から発生していると考えられる。人間はこの信頼の度合いという家族、友人、他人という階層性と、内面的宗教感情という言わば社会全体が自然の脅威(災害、疾病)に対する恐怖、そして死に対する個人的恐怖が集団と個人の関係性の中で綯い交ぜになって一個の感情を形作る。だから一個の感情というものは信頼という対他的な感情と、自分一人の内面的な世界とが、同時的に複雑に絡まりあっているから、どこからどこまでが社会的な認識で、どこからどこまでが個人的な認識であるかという判定は一概に付けられないものであろう。
 責任は親しい者を守るという人間の基本的な感情と、そうではない人にも迷惑はかけないという利他的な智慧が結びついて様々な彩りを形作る。だから仮に家族内で犯罪者が出た場合、家族は家族を守ろうとするだろうが、ある段階に来ると社会的な制裁を受けることを潔しとする場合もあるだろう。その時家族の決断は私的であることと公的であること、信頼と責任の配合バランスの内部で懊悩するということとなるだろう。
 責任と信頼のシステムを少し別の角度から考えていってみよう。まず愛情と信頼というものの違いと、その表現の仕方、そしてその二つと責任の関係について考えていってみようと思う。
 現代では脳のニューロンの働きを解析することも比較的可能になった。fMRIと言う方法も採られ、極めて今後の脳科学は注目を浴びている。しかしそのような状況を成立させる基盤に我々が自然科学を信頼している、という事実がある。責任というものは他人に迷惑がかからないということをも意味すると言った。責任の認識が同じ地球上に生活する限り、自国の利益にならないからと言って、自分が住む地球の裏側の国々の悲惨に目を瞑ったり、あるいは自国の利益のために他国を犠牲にしたりしてはいけないという倫理を産む。責任と倫理は表裏一体である。だから責任ある立場の人間は自分だけの単なる思い付きの感情でことを判断してはならない。そういう意味で信頼性のおけるものとして科学的数値、統計上でのデータ等がある。それらは個人的感情を極力排除して、公正で公平な認識を得ようとするものであるから、必当然的に、科学的認識というものとは責任倫理によって要請されていることになる。つまり科学の合理思想を人間が信頼するということは、一方で人間はそういう合理思想には加担しない、要するに駄々っ子的部分が濃厚にある、ということを人間自身がよく心得ているからである。
 しかし愛情となるとそれ自体もまた一個の信頼感情なのだが、少し事情が異なってくる。つまり愛情にはどこか歪な部分もあるからである。人間には優れた人間であっても、どこか自分にはない破壊的な、他人から見たらどうしようもないような破綻的な性格や傾向性の人間に惹かれてゆく部分もあるのだ。それは世間の人間同士の結び付き、友人関係、夫婦を見ればよくわかることである。つまり人間には一方で自然科学とか統計的数値を信頼する、そういう合理志向的側面もあるが、同時にそれとは反対の非合理的側面というものが常に共存して、その二つに引き裂かれながら生活しているのだ。そういう両極端の志向性の駆け引きが人間という存在を極めて矛盾した心理、そしてそれと共に発生する各個人に内在する独自の価値観を醸成してきているのだ。
 この価値観の独自性ということが愛情の形態にも多様性を付与する。そしてそれは言語活動自体にも影響を与え続けている。例えば我々は進んだシステムのパソコンを利用し、メールやネット、チャットをするが、実は我々の画像上での文字配列とか記述に纏わる文明も、基本的には原始時代の人間の意志伝達と本質は変わらないと思うのだ。
 つまりこういうことである。原音楽には他者に対して「合わせる」欲求があるから、音楽もそうだし、身体律動確認型の行為は全てここに収斂されてよいと考える。しかし実は数学の基礎の一つである数えるという行為、単位という概念の理解もここに収斂されると私は思う。幾何学的な発想はそれとは少し違って創造的であるから複合的(あるいは空間同定的直感力)であろう。しかし人間のコミュニケーションを観察していて分かることなのだが、人間は他者に追随するような言動をすることもあり、それを私は「引用される意味」を人間が採用していると捉えているのだが、これと共に、いつもそうしてばかりいたら息が詰まるし、面白味もないので、「見出される意味」も求めていると私は考えている。つまり後者は他者追随型の協調性ではなく、自分独自の発想の進言などに見られる人間の意味に対する対応である。だがよく個性的な人間と会話していると楽しいし、充実しているが、同時に個性的な人間とばかり話していると、得てしてそういう人間は自分の主観も相当力説して語る傾向があるから、時々そういう個性的な人間との会話とか交際を差し控えたいと願う心理にもなる。特に自分の仕事とか自分にとって何かが閃いたような時期にはそういう人間と会うことを差し控えたりすることを選択することというのは日常あることである。だから人間には「引用される意味」の段階で留まっていたいという欲求と、いやそればかりでは面白味がない、ということで「見出される意味」を求め、他者からそれを聞きたかったり、自分でも進言したりしようという欲求も持ち、その反復が人生であると言ってもいいだろう。それにどんなに他者追随型で、伝統保守的な人間にも固有の「見出される意味」があるし、逆にどんなに個性的、自主的で、伝統破壊的な革新的な人間にも「引用される意味」に加担するようなオーソドックスな面というがあるのだ。そして私が考える原羞恥は明らかに「見出される意味」の中に起源的に備わっているように思われる。そして逆に「引用される意味」は原音楽的な体系に彩られている。人間は自然科学に代表される合理的判断と共に、そういう公平無私な態度と共に、幾分偏見に満ちた大胆だが、屈折した考えとか発想に惹かれる部分があり、それはどちらかと言うと非合理的判断であり、幾分ギャンブル的な感性の発露である。しかし同時に四六時中そういう態度とか発想に浸りきることに辟易しもするので、そういう時には原音楽的なバイオリズムを採用しようとする。それは破壊的であるよりは身体順応的な、もう一つの人間の本能である。勿論音楽自体の中にも「引用される意味」というオーソドックスと共に「見出される意味」というものはあるだろう。それは芸術にも文学にもあるだろう。あるいは自然科学にも数学にも「引用される意味」(それも発見された当初は「見出される意味」だったものが殆どだろう。)もあれば、「見出される意味」もあるだろう。そしてそれらは複雑に絡まりあっていると言える。
 そして話は戻るが、文字配列を目にする行為とは、読むことであり、文字配列を視覚的に楽しむことであり、それは絵を見る行為とも関連があるが、文字を打ち込む行為、書く行為といったエクリチュールは、そうしながら論理思考することであるから、当然「見出される意味」的な思考実験である。しかし同時に文法とかある学問、報告文とか要するに形式的に備わった技術とか文体、内容の検討といったことにおいて「引用される意味」は常に検索されているのだ。そして基本的に他者の目に触れさせる目的性からは記述とか、記述されたものを読む行為は「引用される意味」の世界であり、原音楽であるが、同時にその意味的世界の理解、つまり共感とか反感とかいった一切は「見出される意味」の世界であり、原羞恥的な郷愁が無意識にある。つまり意味とは原始的な本能の叫びのようなものがあると考えているのだ。つまり文章という秩序、形態そのものは記述者による社会的責任倫理であるが、同時にそれを記述する行為の中では、あるいは読む行為の中には、密かに私秘的な感慨を得ようとする心情倫理、と言っても近代的なそれではなく、もっと原始的な郷愁が控えている。だから実際に顔をつきあわせる人間関係ではあまり巧くいっていない人でも、文字の世界に埋没すれば、それだけで憩いを見出すということもあるのだ。そして著者や文章作成者に共鳴し得るのなら、それはやはり一つの愛情でもあるのだ。そしてそういう著者の本を何冊も読もうと意志決定の合理化をなすものこそ信頼である。その著者への信頼である。信頼とはだから、基本的には愛情を基本としている。確かに愛情というものも範囲が広いので、偏愛的な愛情も多く存在するだろうが、信頼もまた基本的にはそれが「引用される意味」(学歴や経歴、職歴を見て人を判断することもまたそこから引き出される判断である)であれ、新しい発見であるところの「見出される意味」であれ、それを「いいものである」、「好感の持てるものである」という判断によって経験的に意志決定しているわけだから、科学的判断であるとも言えるのだ。だから当然のことながら「見出される意味」にも非科学的なそれへの傾注もあれば、逆に極めて信頼度の高い科学的なそれもあるということであり、そのことは「引用される意味」でもそうである。「引用される意味」で非科学的なことの代表は、民族的な宗教文化と、それに対する信頼感、居心地のよさであろう。
 ここで一つ定義しておこう。愛情とは科学をさえ包み込む信頼であり、それにはいいものに対してもあるし、悪いものに対してもある。信頼は愛情のある部分に依拠しているが、科学に対しても宗教に対しても等しく接する。

Monday, September 28, 2009

第一章 情報伝達そのものが感情的な行為である

 私は情報を得ることも、伝えることも全て感情的な行為としてしか考えられないのである。それは何故か。人間にもまた他の幾つかの動物同様偽装することが出来るからである。本来嘘をつくことを遂行出来るということはなかなかの知性を要求することである。しかし同時に嘘をつくことというのは最初から嘘だけしかつかない者にとっては益の少ない行為であることを嘘つきは皆理解している。全てを嘘で塗り固めることというのは、案外巧くはゆかないものである。つまり真実を語ることで、つまり偽の情報を他者には与えないで他者に対して信頼を得ることが出来なければ、人間関係そのものが破綻をきたすので、嘘というものの効果とは時々するということに限るのである。普段嘘をつかない人間は、嘘をたまについたとしても、それほど怪しまれない。しかしいつも嘘をついているような個人は信頼を得ることなど出来はしない。それはどんな犯罪者でも心得ている心理である。だから他者にそれがたとえビジネスであろうとも、なるべく嘘を付かず、真実を報告することが長期的な展望に立てば、他者から信頼を得ることは犯罪者でも知っていることである。そういう意味で嘘をつくことというのは必ず何らかの形で真実を語るという文脈のない生き物には意識することが出来ない。これはア・プリオリな真理である。もっと端的に言えば、嘘という概念は誠実であること、真実であることという概念の文脈なしには成立しないということである。そして意思疎通は誠実性の表明であり、相互確認である。
 言語活動がたまたま我々の喉頭によってなされてきた、ということは恐らくただの偶然であろう。それは手話のようなものでもよかったし、表情でもよかった。しかしある時人間は全て真実を表明することを鬱陶しく感じ出したのだ。つまりいつかは自分も死ぬということを全ての人間が知っている(少なくともある一定レヴェルの知性のある者なら誰でも)ということがプライヴァシーを人間間に付与させたのだ。
 人間はどんなに家族を大切に思う者も、どこかで一人きりになりたいという願望を持っている。それはどんなに孤独の好きな人間でもどこかでは他者と触れ合いたいと願うという思いを持つのと対になって存在する。他者や集団と触れ合うことのどんな好きな人間でも、孤独になりたいと常にそのような矛盾した二つの心理は隣接してもいるのだ。そのことを確認し合えることからこそ、他者への信頼を形成するのだ。それは他者を労わり、思い遣ることを人間が知っているからである。つまり他者を思い遣る行為とは、それがたとえ表情による明示であっても、尚ストレスフルであることを皆知っている。だから逆に他者に他者に対して気を遣わせることを時には猶予させてあげる気持ちに人間はなるのだ。これが四六時中一緒にいるということは家族ではない場合には耐えられないであろう。いや家族でさえ、個人にプライヴァシーはあるのである。あるいは秘密さえあるのだ。
 動物は秘密を持っている。しかし多くの動物では秘密を持つことを疚しいとは思わないのだ(だからそれは厳密に秘密とは呼べないかも知れない)。ある行為をいいことであり、ある行為を悪いことであると知るということは、その行為が自分にではなく、他者に迷惑をかけるということを知るということである。他者が迷惑をするのを知るとは自分が他者から迷惑をかけられた経験があり、それを他者の悪意として認識することが出来、あるいはそういう経験が過去にあったからであり、他人の立場に置き換えることが出来るから生じる認識である。そしてこれは言語行為として発声し、音韻秩序に沿って会話出来ない人間がいたとしても理解出来る感情である。つまり私は言語的思念というものを持たない人間にも、感情の意味を理解することが出来ると考えているのだ。言語を使って自分の感情を示すことというのは、寧ろ言語がない状態でも、ある程度の感情表出を表情等によって可能であるというア・プリオリなしには成立しないであろう、と私は考えるからある。
 では何故そう考えるかと言うと、そう考えた方が言語習得することがたやすいだろう、と私は考えるからである。逆に言語獲得以前に何らの感情的な気持ちを抱かないような人間がいたとして、その人間に言語を習得させようと努力してもその人間には言語を習得することが出来ないだろう。だから犯罪者で、しかも他者に迷惑をかけずに何でもするという者がいたとしたら、それは病理的状態であると言ってもいいし、そもそもそういう者の発する言語とは全く誠実性というものが欠如しているのだから、知性だけであって、少なくとも理性というものはないのだろう。彼等も言語習得時には少なくとも感情の襞を理解することが出来た筈である。
 理性とはいち早く考えられていたのにもかかわらず、それを前提しているということであり、それ自体はカントまで問われなかったと思うがそれは何故だろうか。理性というものの秩序を整えたのがカントであり、それ以後の何人かの哲学者であることを考えれば、理性というものの存在が存外理解困難なものであり続けたということだけは言えるであろう。だから理性のない動物には秘密を秘密であるとして背徳的な感情を抱くことは恐らくないであろう(尤もチンパンジーとかイルカにはあるのかも知れないが)。  
 背徳という感情は明らかに禁止が生む。禁止とは理解するよりも早く、それはいけないことだ、してはならないと肝に銘じることの出来る行為に対して前もって人間が設置した法意識である。それは集団的レヴェルででもそうだし、個人の内面からしてもそうである。だが背徳という良心と不可分な心的様相のない動物には、秘密に対して疚しさを感じはしないであろう。またそこまでどんな種でも考えることが出来る個体がいるのなら、彼等にも人間の言語に匹敵する言語を身に付けてゆく可能性があるということではないだろうか?
 ここで疚しさというものの正体を少し考えてみようと思う。
 例えば人間は間違った情報を悪意ではないにせよ、他者に伝えた場合、「しまった。悪いことをした」と感じる。これは自分の悪意からではなくて、不注意であり、勘違いによるものである時さえも疚しさを感じる。そういう時の疚しさとは他人に対して思い違いをして恥ずかしいという感情を無意識の内に感じるのだ。つまり疚しさとは羞恥に関係があるようである。
 例えば情報伝達をする者が無表情に真実を伝えることはある種のニュース原稿を読むアナウンサーにも感じることである。しかし親しい者同士ではそういう無表情はしなくて済む。しかしそういう伝え方と伝える内容の真実度というものには何の関係もない。例えば腕のいい医師が仮に愛想の悪い人間であったとしても、そのことで悪い治療をすることさえなければ、愛想が飛び切りよくて人当たりもいいのに、腕の悪い藪医者よりはずっとましであると私たちは考える。つまり情報伝達者が信頼性を獲得するのは、明らかに正しい情報を、有益な情報を他者に伝える者であり、好感の持てる伝え方をする者ではない。勿論日頃から挨拶をきちんとすることと同じで、いい応対の人間が同時に有益な情報を伝えることが出来るのなら、それがベストであろう。しかしいくら好感の持てる人間でも、真実味のない情報を与える迂闊者よりは、無愛想でいながらいい加減な情報を与えないように心掛ける(たとえ悪意で嘘をついたのではなく、間違っていた場合でも素直に謝るようなことをするだけでもいい)あるいは悪意で決して嘘をつくことのない、正しい有益な情報を与えてくれる者を人間は信頼するようになるものだ。その点から考えても、疚しさとはそういう調子のいい情報伝達者であることを避けたいという当然の人間の心理が大きく関係していると思われる。それは責任という考えである。責任倫理なのである。だから逆に責任倫理の欠如した者はいくら好印象を与える者でも、どこか胡散臭いという感情を他者から持たれるのだ。つまり出来ないことは出来ないと伝え、知らないことを知らないと伝えない者に対しては当然のことながら胡散臭く思うし、そうではなく常に誠実であった者が試しに誰かに嘘をつくと、ある疚しさを自分自身に対して感じることとなる。
 人間はデズモンド・モリスの言葉を借りれば、裸のサルであり、そういう着衣の習慣が人間に羞恥感情を醸成したということは可能性としては考えられると思う。しかしそれは寧ろ偶然的なことである。事実愛する者同士は裸も恥ずかしくもなく、また人に裸を見せる仕事の人も大勢いる。羞恥の根幹とはもっと別の部分にある。
 人間には私が名付ける原音楽的な心理があり、それが他者と何かを共同ですることであり、他者と意見を一致させることであり、合奏したり、ダンスをしたりすることである。そしてそれは集団同化意識であるが、人間は孤独な心理に打ちひしがれ、またそういう瞬間を持続させたいとも願う。それは人間が対人間としてではなく、対自然の存在として意識する傾向である。これは他人の存在に対して敏感になるから私はこれを原羞恥と呼ぶ。
 少々その羞恥の根源である私が原羞恥と呼ぶものに対する注目と原音楽と呼ぶものに対する注目に視点を向ける時現代の学問に一つ言いたいことがある。それは次のようなことである。
 まず言語学はあまり今までのように発声システムとか概念とかに拘り過ぎない方がいいと私は思う。例えば人間はたまたま現在のような音声聴覚システムにおいて電話等を通して相手の表情が見えなくても会話はすることが出来るが、例えばインターネットとかチャット、携帯メールとかもここ数年の間に定着したものだし、電話でも高々百年以内の出来事である。そういう現代文明に至るまでの長い間に培ってきたもの、例えばそれらよりは古い文字の発明とかを何故人間に促進したのかという観点からすれば、明らかに人間は情報を他者同士で伝え合うという行為の定着が考えられ、その点が重要である。しかし文字発明以前的にはやはり人間が音声秩序として発話するようになっていったプロセスが考えられるのだが、その音声発声行為に意味を付与するようになったということは、音声発声という行為と、それ以前の内的な感情の襞の進化という別々の現実があり、岡ノ谷進氏のご指摘のように、音声秩序と意味の一致を偶然的に発見したことが現在のような発語行為へと人間を駆り立てたと思う。概念とは比較的最近の人類の歴史において登場した、と思われる。
 脳科学は言語中枢とか要するに新脳、大脳皮質、前頭前野とかの局在システムではなしに、もっと脳全体のことに今現在注目するようになってきたが、言語に関する研究も古脳と新脳の連結作用、つまり根本的なニューラルネットワークに注目する必要もあるのではないかと素人なりに考えているのだ。私の考えでは他性認識の根幹は古脳にあるのではないかと思うのだ。そしてこの古脳の他性認識を支える原羞恥を、新脳が、つまり大脳皮質が概念的に把握することが出来る、つまり羞恥を社会的な現実と結びつかせることが出来る能力、まさにそれが原羞恥と原音楽を同一の照準に合わせるということのだが、それが人間に社会的な羞恥、つまり倫理、道徳、良心、愛情、信頼といった感情のシステムを内的に構築させ、そしてその内面の叫びが外部出力的で、結果としてストレス発散ともなり得る音声発声秩序として「自己」の考え、思いを他者に伝えるという行為、つまり意思疎通、意志伝達行為をなすことを要請したのだ。だから音声発声と意味を結び付けられたという事態はまさに偶然であったと思われるが、一番重要なことは意味の獲得であり、そして意味の獲得という事態は、統語秩序であるとか、文法であるとかそれよりもずっと以前になされていた、と私は考える。寧ろ統語秩序とか文法とかは、意味というものがクリアになればなるほど必然的に要請された、と考えた方が私は自然だと思うのである。
 では意味とは何か?それは自己の内的感情を他者に伝える欲求が起源であると考える。つまりこういうことだ。意味とは外部自然とか環境全体から人間が受ける感慨、あるいは他者との触れ合いにおいて、人間同士が社会を構成するに従って、尤もその段階ではかなり音声発声によって意味を伝達することの萌芽は確立していたと思われるが、私はその対外部、他者、対象、事物、現象に対する感想、印象を告知する習慣、少なくともそういう心的な要請が音声発声秩序と結び付けられて行ったということが言語活動の起源であるとするなら、感情の襞を内的認識として進化させてきたことが、他者に告知することの要請を産み、それがやがて言語活動へと結び付けられて行ったと考えるのが一番自然であると私は考える。だから大脳皮質の言語中枢とか、大脳の認知システムとかの探求一辺倒ではやはり不足してくる部分とは、脳の今まで思考とか感情とかとは関係がないように思われてきた部位と感情レヴェルを司る部位(例えば扁桃体とか)との連携がもっと重要になってくるだろうと素人なりに思うのだ。そうでなければただ言語中枢的理解だけでは人間による言語行為獲得の起源の謎には迫れないような気が私にはするのだ。そしてよく言われてきている遺伝子のシステムも勿論極めて脳科学同様重要であるが、寧ろ遺伝子と大脳の関連性、大脳と身体の関連性、遺伝子と身体の関連性、遺伝子と古脳の関連性、古脳と大脳の関連性、古脳と身体の関連性において、つまり全体的システムにおいて初めて我々は対他的告知へと至る感情の襞の進化の謎が解明されてゆくのではないかと考えるのである。
 つまり意味とは内的感情の告知によって完成するのだ。そして意味の伝達が完成した時、あらゆる言語秩序、例えば音韻システム、統語秩序、文法が完成するのだ。文法の完成は同時に社会における法秩序の完成を意味する。自然科学が大成するのはもっとずっと後であろう。勿論単純な単位の認識の獲得は言語発声という能力によっても齎されている。呼気と吸気の反復に対する意識はそれだけで一つの単位の獲得であり、それを客体化した時、我々は自然科学の起源を持ったのだ。しかしそれ以前に神という単位を考え出すことが人間にはあった。それは社会を一つに纏める誘引力として作用した。
ギリシャが偉大であったのは理性に着目したことである。そしてそれはどこかで神と結びついていた。しかし中世には神の存在が肥大化して、近代にはそのことに対する反省として形而上学に対する批判が相次ぐ。しかし近代以降、現代の哲学は自然科学の方法論と、形而下学に依拠し過ぎ、理性は軽んじられるようになり、再び今理性は注目を浴びている。チューリング・マシーン等の多大な実験と認識転換がなされた偉大な20世紀も終わり、我々は再び出発点に立たされている。それはあの偉大な物理学をも産んだ自然科学を推進した人間の欲求の根源に対する着目をする時が来たのだ。
 動物にも愛情はあるし、感情表現というものはある。しかしその感情表現を伝えることはある程度出来ても、その正確な表現が出来ないことは、ある意味では音声発声システムの発見がなされていないこともあるが、それは大きな理由の中の寧ろ一部であり、彼等には彼等なりの別のシステムで進化させることは出来た筈だ。しかし彼等には何故人間のような文明が築けなかったかと言うと、それは恐らく原羞恥というものと原音楽、つまり原羞恥は他性認識の起源であり、原音楽は社会的意識、つまり集団同化意識であるが、その二つを交差させることが出来なかったという一点にあると私は思うのである。
 物を創造することは、それがどんなことであれ、愛情表現もまた根幹的な創造行為の一つであるが、それは色々な事態を交差させることである。例えばその一つとして住居を空間的に確保することと、建造物に時間的耐性を保たせることである。もう一つは愛情は自分と他者の感情の襞を交差させることである。信頼の根幹にはそれがある。その二つに最も必要なことというのは何かを想像出来ることである。それは過去に対する記憶の確保とそれと関連した未来への想定意識である。これがあるからこそ色々な感情を重ね合わせ、交差させて複雑な感情を形造れる。感情が複雑になればなるほど創造のレヴェルは進化する。その創造進化の過程から住居の進化、芸術表現の進化、愛情表現の進化という事態が招聘される。そしてそれら一切は情報伝達の有用性の確固とした認識であり、それは他者を信頼することである。他者を信頼しなければ偽の情報を伝えるであろう。それは鳥類にも出来る。しかしもし彼等にもっと人間のように他者に対する信頼を持てる能力が備わっていたら、人間の文明に近いシステム創造をすることが出来たであろうと私は考える。
 ここでもう一つ定義しておこう。情報伝達の基本は他者に対する信頼である。

Sunday, September 27, 2009

死者と瞑想 <自分を知っていてくれる者の死を巡って>序章

 世は新たな時代を迎えつつある。依然としてITは大きな柱となっていて、脳科学ブームである。しかしその影でひっそりと哲学について考えている一郡の人々がいる。そしてペシミズムに浸ることをモットーとした宗教カルトの人々もいる。私はそのいずれにも関心があり、そのいずれにも大いなる関心はない。そのことをまず断っておかなくてはならない。しかしそれは諦観的な感情ではない。寧ろ人間である自分の起源について常に思いを馳せ、いずれ古代の人々よりももっと以前の私たちの祖先の感情が理解出来るような気がする日があるのだ。それは一部私の身体にも受け継がれている資質である。それは私の性格が社会にどのように奉仕することが出来るかという観点の私の資質ではなく、もっと原始的な内奥からの叫びのようなものである。
 それは呪術的でさえある。しかし宗教的感情を理解するということはある意味で倫理、道徳、そしてそれら一切を司る感情というものの正体を把握しなくてはならない。感情というものの正体は恐らく私たちの日常生活だけからは理解することは出来ない。
 ただ私たちは今でも殆ど毎日言語活動に勤しんでいる。それはブログを通してだったり、人と会って話したりすることによってである。しかしそれらは実はよく言われるようにそれほど重大な開きはないのだ。要するに何らかの形で他者と関わるということが一番重要なのだ。
 他者と関わるということは他者の存在を認めていることに他ならない。他者の存在を求めることというのは、自分自身を他者と同じような存在として考えることが出来るということに他ならない。他者と自分は確かに社会では異なった存在だし、要するに他人という奴は厄介な生き物である。にもかかわらず他人という存在を視野に入れずに我々は自分というものの正体を掴むことなど出来ない。自分を理解することは他人を知ることであり、他人と自分との相関性において自分の立場を省みることである。
 古代より、いやもっとずっと以前から人間は意思疎通をしてきた。しかし今のような言語活動をしてきたわけではないだろう。寧ろ今現在のような言語活動を獲得したのは意外と未だ新しい時代だったかも知れない。しかし今現在の言語活動以前のもっと原始的な言語活動に対する着目おいてこそ恐らく我々人間という生き物の本質が理解出来る気がする。というのも我々には絵を描くことが出来るし、音楽を聴くことが出来る。そして他人と一緒に酒を飲むことが出来る。その全てが人間の行為においてなくてはならないことである。
 何故酒を飲むのかということを本質的に追求した哲学者を私は知らない。(ニーチェが触り程度触れているものの)また音楽を聴くことの楽しみを理解していた哲学者が大勢いたということも聞かない。(これもニーチェやウィトゲンシュタインくらいか?)しかし私たちは言語活動において、どうやら音楽的に如何にセンスのない音痴の人でもしっかりと言語活動することには以前から疑問に思ってきた。つまりこういうことだ。言語発声という行為は音楽的な行為であり、それは所謂「音楽」ではないかも知れないが、れっきとした呼吸の呼気と吸気の反復行為である。それに私は原音楽という秩序を考えているのだが、それは集団同化意識のなせる業であると思う。しかしそれだけが言語活動ではない。例えば確かにビジネスでは私たちは一分一刻も無駄には出来ない。それは納期というものがあり、決算ということがある。そして給料を貰い、それを家族に渡す。この行為の連鎖は日々の私たちの言語行為を幾分目的的な社会機能の一部に組む込みがちだ。しかし重要なのは、そういう忙しい連鎖において我々は一時常に休息を味わってもいる。それはどういうことか?つまり電車に乗って立っていても、座っていても、他人とはまた別の時間を過ごしている。つまり他人と共存しながらも実は密かに自分だけの時間を過ごしている。そしてその私秘的な忙しい時間の中での一瞬の安らぎを皆求めており、そのことについて誰しも同意している、他人のプライヴァシーを大切にしよう、と。そして私はそれを現代人に固有のことのようにずっと思ってきた。しかし恐らく古代人には古代人に固有のストレスがあったのだ。あるいは言語活動黎明期の人間には人間なりのストレスはあったのだ。ただそのストレスの発散の仕方が違ったということだけの話である。江戸時代には日本には鉄道は通っていなかったし、その時代の人々は移動を肢で、そして身分の高い人は馬に乗ったり、少し金のある人は籠に乗ったりしただろうし、もう少したつと人力車に乗った人もいたであろう。しかしその中でそれはそれなりに自分だけの孤独を昔の人々なりに、確保していたし、またその確保の仕方が現代人とは異なっていたけれど、それでもそれなりに今現在の人類にはないストレスはきっとあったのだ。
 言語活動はビジネスライクであるか、そうではないかによって大きくその様相は異なる。しかし社会に奉仕するための手段的な発話とか会話というのは古代からあったであろう。そしてそれと同時に気心の知れた人々同士の会話とか対話といったものも常に同時にあったであろう。つまりビジネスは何も現代人だけの特権ではなく、恐らく言語行為がやっと誕生した頃からあったのだ。ただビジネスの内容とか形式とか生活レヴェルの本質的課題が異なっていただけである。
 例えば原野で狩猟をすることで生計を成り立たせていた頃から人間には他者というものの存在、そして家族の間での時間を持っていた。つまりその頃から家族と他人、他人の中でも特に親しい人間との間の人間関係はあった。しかしそれ以前人間が殆ど偶然的に言語行為をするようになる頃からストレスというものはあった筈だし、何らかの悩みというものを抱えて人間は生活していた。そして当然のことながら、その頃にも家族、友人、他人という人間社会の現実はあった。
 動物でも高等な知性を持ったものたちは他個体の、つまり他者の死を自覚している。とりわけ親族の死というものには敏感な動物というものはある。例えば象は明らかに他者の死を、つまり同一種内の死という現実を受け止めている。そういう意味ではかなり多くの動物が他者の死を受け入れている。尤もただいなくなったから、寂しいという気持ちを持つくらいで明確に死を認識しているかどうかは疑問な場合も多いだろう。例えば他者の死を自覚出来ても尚、自分もまたいつかはそうなるのだ、と理解しているかとなると、これは今でも疑問であろう。だがどんな動物でも自分の死が近いことだけは理解出来るだろう。ただ健康な時にさえ自分の死を理解出来るか否かは、恐らく言語行為、言語認識能力、そしてそれら一切を支える人間固有の感情、それが進化して倫理とか道徳と呼ばれるようになっていった認識力に関係があるだろう。幼年、少年、青年、中年、壮年、老人といった年齢的な階層性は動物にもある。しかし明確に幼年期から死を自覚出来るという能力は人間において特徴的な資質である。そしてそれは言語能力所有の根拠の大きな一つであると私は考えるのだ。だから動物にも死を理解する瞬間はある。しかしそれを想定して生涯の設計をするということを人間ほど明確に意識しているとは私には思えない。ただ人間である私にはそう思えるだけで、意外と動物にも大いなる能力があるということは考えられるところである。
 ただ人間はそれを他の動物に先駆けて理解することが出来たということは言えるだろう。そしてこれは完全に私の直観なだけであるが、動物の中でも自分の死を常に受けて入れて生きている人間の祖先たちは恐らく言語獲得以前的に、自分の死を健康時にも理解したのだ、と私は思う。
 死を理解することとは、哲学的に考えれば、他人と自分を死が分かつことを理解することである。そしてそれはどちらか一方が、例えば親や子供が、他人でも親しい者が先立つことを知ることだから、他者同士での労わりを生む。昔大脳が肥大化したから直立二足歩行をすることが出来たということと、直立二足歩行をするようになったから、大脳が肥大化したのだ、と捉えることの論争があった。しかしそれは恐らくどちらでもよい。その段階では恐らく人間は言語行為までは行ってはいなかった筈だからである。
 例えば鳥類でも囀り、動物も鳴くことがあるかから、音声的な行為というものだけを採ればかなり古くから、恐らく直立二足歩行完遂以前から発声はしていただろう。しかしその段階では未だ人間は何かを明確に伝えていたかと言えば、疑問である。恐らく単純な身体健康上の状態を伝え合う程度だったことだろう。しかし音声にある時意味を付与するようになる。これはかなり大脳が発達してからのことである。
 確かに感情というものの複雑な様相はそうたやすくは獲得出来なかっただろう。そういう感情の綾というものは確かに言語の発達に伴って発達したと考えることも出来る。しかし私は発声行為として、現在の音韻論的な秩序を形成することが出来たという事実は、それほど驚異的な事実ではなく、寧ろ内心の感情の襞が複雑化したことの方が重要であると考えている。寧ろその内面的な感情の発達こそが、言語行為において複雑な音声出力的行為をなすことになった、と考えた方が自然である。勿論音声伝達の初期には我々はそんなに大したことを表現出来なかったであろう。しかしその出来なさに対してある種のもどかしさならかなり長い間感じて生活していたと私は思う。それは外国人が言葉を理解出来ないで、困惑している姿を見てもそう思えるのだ。勿論証明は出来ないから、それは科学的見解ではない。   
 しかし少なくとも言語行為が心の発達、端的に言えば、感情の襞のない段階から偶然的に発達したとはとても私には思えない。だからどんなに人間が高等霊長類に人間が言語習得させても不可能なのは致し方ないであろう。というのも基本的に言語活動することが可能なだけの感情の襞を獲得していなければそれは不可能だと考えた方が自然であるからだ。つまり私は人間には統語秩序等を駆使して何らかの言語活動をなす素地として感情理解というものの進化が認められたのであろうと考える。少なくともかなり長期に渡る前言語状態というものはあっただろうと考えるのだ。
 イルカや霊長類注1は確かに言語行為に近いことをするようだし、鏡を見て、かなりの割合で自分を認識することが出来るとも言われている。しかし彼等に人間が言語獲得以前にあったと私が思う前言語状態のようなものがもっと明確にあれば、彼等ももっと複雑な言語行為をしていただろう。尤も動物学的には未だそこら辺も解明していないようなので、今後意外に凄い意思疎通能力を各種動物が保有していることが判明するかも知れない。しかし死の自覚、他者の死といつかはそれが自分にも到来することを人間が幼少期からに既に理解出来たという事実が人間を言語活動を、ただの音声発声行為なだけではなく、もっと意味表出的な行為をすることを促したと私は考えるのだ。
 他者の死への自覚は他者の人生全体を自分で追想することを強いる。そこで他者への尊厳として埋葬という行為が発生する。それは言語的には未だ覚束ない段階で既に執り行われていたであろう。あるいはそういう共同作業(埋葬他の)体験とそのことに関する記憶が共有されることで、他者間の意思疎通という行為に意味が出てくる。
 AとBとCの成員が仕事を分担し、Cだけが別行動をする場合、AやBの共行動成員に対して単独行動成員Cは好意からCしか知らない情報を、また何らかのC不在時でのAとBしか知らない情報をAとBはCに伝えようとする。その情報供与は明らかに信頼感によって醸成される行為である。意思疎通において嘘をつかないこととは、他者信頼の確実度に比例して増加する。あるいは嘘をその他者につかないことが、信頼度を増加させる。そして嘘をつくことが後ろめたい行為であると直観的にそう感じることが出来るという能力は、恐らく自分もまた死んだ他者のようにいつかは死ぬということを人間が知っていて、そのために限りある時間を悔いなく生きたいと考えることが出来ることと関係している。つまり他者を欺くことよりも真実を報告し、向こうからもまたそういう真実を聞きたいと願う心理を生む。そういう感情を抱くことが意思疎通行為を要求し、そこに発声という行為と結び付けることをたまたま人間が出来たということである。他人に対して労わりの感情を示すことで他人からよく思われたいし、そればかりではなく自分でも他者に対して悔いのない生活を送りたいと願う心理の発生が言語行為を生み出したと考えた方が私は自然であると思う。
 今までもチンパンジーに言語を習得させようと人間がしてきたが、寧ろ私に言わせれば、チンパンジーが他者に対する思い遣りとか、善悪の判断を他者から教えられるのではなしに、自分で判断出来る能力が人間並みにあればその時初めて彼等に言語習得を可能にするのであり、そういう判断がつかない内は、どのような動物にも言語行為は不可能であろう。イルカが超音波を使って言語行為をしていることはよく知られている。そしてイルカは他者の死も、自分の死も知っているかも知れない。そういう意味ではチンパンジーやオランウータンもそうかも知れない。しかし未だその範囲がどれくらいかはよく分かっていないらしい。
 結論的に最初に言っておけば、発声という事態のみを言語行為の起源と考えること、つまり言語を習得したから感情が細やかになったという考えがあり、言語全体に漲る情報摂取と、情報供与という実はこれは極めて初歩的な感情行為なのであるが、それをしたから感情の襞が細かくなったという説を私は採らない。言語行為というものを発声することで聴覚的行為として定着させる前段階において何らかの内的な意味理解が、感情の襞の複雑化を通してなされていなければ、言語行為を可能にする側頭葉の各言語中枢が発達することもなかった、と私は考えたい。何故そう思うかということを第一章では説明したいと思う。(注1、チンパンジー、ボノボ、オランウータン、イルカ、アジアゾウが鏡で自己を確認する。)