Saturday, October 17, 2009

〔責任論〕第三章 責任と信頼

 しかし良心というものは判断行為において、それが正しいことであるという信念に忠実に履行しようとする慣習的な行為連鎖に位置付けられでもしない限り、我々はただ単に丼感情であるとしか判断し得ないであろう。例えば法というものを考えてみよう。法がただ個別のケースを裁くための処方として、丁度一人一人の患者の体質に合わせた薬を処方するように個別の裁定を下すということにおいて方便であると捉えることは間違いではないだろうが、その法を如何様にも解釈出来るとした場合(現行の日本国憲法にはそういう性質があるがために憲法改正という題目が出てきているのだが)、裁定する者と裁定される者の都合によってどのようにも解釈出来るとしたら、これは法整備の不備であるとしか言えないだろう。だから良心というものが仮にただ単にその場凌ぎの処方であるなら、それは寧ろ良心という名に値しないと言って差し支えない。だからもしその場凌ぎの判断が成立し得るのなら、それは判断を支える信念であり、それをここで信頼としてみよう。その低次の信念について考えてみなくてはならない。そして再び良心とは何なのかを考え直してみよう。
 例えばイスラム法として知られる「クルアーン」は二つ大まかな解釈が存在する。それはスンナ(スンニ)派解釈と、シーア派解釈である。前者は最も多くの信者を世界中に持つ考えであるが、要するに字義通りの解釈をせよという教えである。しかし後者はその字面に示されたものには背後の意味が存在し、それを読み取らなくてはならないという解釈である。もっと要約して言えば、スンナ派解釈で言えば、「クルアーン」はディノテーション(明示)的なテクストであり、逆にシーア派解釈で言えば、「クルアーン」はコノテーション(暗示)的なテクストであるということになる。しかしこのような大まかな宗教教義上の解釈の相違も、同一テクストを介在させて国家とか民族共同体を管理する上での分岐的な事実でしかなく、恐らくそれらは実は同一の視点から別々の解釈をしていると外側からは認識し得る(尤もその分岐性そのものがその成員同士では重大なことである場合も多々あるのだが)。寧ろ問題なのはある一つの事実に対する解釈の違いから、例えば一個の文章があるテクストに記述されている場合、あるいはある一個の発話(発言)がなされた場合、その発言が意味するところがディノテーションであるかコノテーションであるかというような判断はそれを受け取る者の解釈次第であるとさえ言える。例えば世の中には冗談の積もりで何かを述べた者の真意とか意図を解することが出来ず、要するに冗談の通じない人間というものはある。しかし冗談もまた時と場合を弁えてそれを言っていい場合と、そうではない場合というものもあるだろう。またこういうことも考えられる。ある発言をディノテーションであるかコノテーションであるかということはその発言の意味内容に関する理解度と理解速度に応じて変化するということである。例えばある専門的な語彙とか引用とか示唆を与える場合、その発言意図を即座に受け取り理解する者にとってそれはディノテーション以外の何物でもない。例えばその発言が聴者に対する当て擦りであるとか皮肉であるとかの場合などは特にそうである。しかしその発言の意味内容を即座に理解出来ないということが発話者に予め想定されて敢えてそのような聴者にとって難解な理解を強いるものである場合、それは明らかにコノテーションであると言える。しかも厄介なことにはある発言が意図的コノテーションとして指し示されて話者によって提示されていても、聴者が思いの他上手であり、それをディノテーションとして受け取ることの出来る能力を有しており、それを即座に不快感を示すことが出来て、「しまった。読み取られたか。相手を見くびっていたな。」と発話者が後悔するだけならまだよい。問題なのは気が付いていて尚気が付かない振りをする聴者である場合などは完全に話者の方が手玉に取られていて、尚且つそのことに言った本人は気付いていない場合、我々はこれを明示と暗示どちらと受け取ればよいのだろうか?要するに命題内容としての発言の波及力そのものに対する明示と暗示の裁定と同時に、話者の真意表出性をも考慮に入れた誠実性をも加味して考えるなら我々は命題表示部分とオースティンの言う発語内行為としての力表示部分(先述の「法解釈の言語哲学」大屋雄裕著、40ページに詳しいので参照されたし。)からの考察と同時に発言態度の誠実性にまで考えを及ばせなくてはならないのである。従って明示性と暗示性は話者、聴者双方の誠実性によるコミュニケーションの前提基盤と、その了解(相互の)と、命題内容如何でどのようにも可変的であると言えるのである。
 
 例えばある言辞が齎された場合、すり同士の会話とか銀行強盗同士の会話であるなら、その目的性において履行意志が明確であるから「~とあなたに報告する」という部分は全く述定する必要はない。また取調室の刑事と被疑者の会話の場合、刑事は逮捕拘留しようとしているわけだからたとえ柔和な態度で被疑者に接して被疑者が気が緩んでやってもいない犯行を自供したとしても、柔和で人当たりのよい刑事はただ「よく告白してくれました。」とだけ言い、その実彼は職務を遂行しただけのことであり、被疑者の立場に立ってはいないことは明白である。それはサラリーローンに藁をも掴む気持ちで借金に訪れた客と、その事務所で応対する女性従業員のにこやかな笑顔にして同様である。つまり言辞、陳述の全てはその命題内容だけではなく、あくまで話者たる相手の立場に立ったものであるか否かという誠実性に常に目的論的には着目しなくてはならない。しかし矛盾するようだが、そしてここからが大切なことなのであるが、話者同士が騙し合おうと思って接したり、画策したり、出し抜こうとしている場合ですら、実は意思疎通というものはその前提条件においては信頼性を基礎としているということなのだ。
 例えば親しい者同士の会話では、その発話される陳述の意味内容如何というような問題は寧ろ過小なものにしか過ぎない。何故ならば彼等同士人間関係的にも信頼し合っており、それは発話することがその確認のためのルティンワークでしかないのだから、それは丁度地域共同体内での近隣住民としての顔見知り同士の朝の挨拶のようなものである場合も多い(勿論そうではない場合もあるが)。しかしそもそも面識のない者同士の会話ではまず発話した者が何故聴者に話しかけたかということの意図と目的を説明する義務がある。それは要するに意味内容明示性の行為なのだ。それに対して前者の親しい者同士の会話は意味作用受容性の行為であり、それは人間関係の信頼度の確認であり(家族内でおやすみのキスを交わすような意味での)信頼促進のための行為なのだ。しかし疎遠な者同士、純然たる他人同士という関係の場合、意味内容如何ではそれ以上の意思疎通は遮断すべき場合もある。話しかけてきた者が何らかの営業的な勧誘であるかも知れないし、押し売りであるかも知れない。しかし重要なことはここからなのだが、そういう場合でさえ、まず基本的に意志伝達することが可能であるという事実こそがそういう会話でさえミニマルな基本、つまり信頼性によって我々は会話している、ということなのだ。
 例えば我々は猫や犬にはそういう会話をしようとはまず思わないし、明らかに観光客である外国人同士が我々の与り知らない言語で会話している場合、その者たちに対して通常の知人や同国人同士で会話するように話しかけることはまずないだろう。尤もその者たちの発話する言語が瞬時に理解出来たなら話は別であるが。
 つまり命題内容が偽証であったり、嘘であったり、はったりであったり、その発話の目的が相手を騙すことであったとしても尚我々は意思疎通し合える相手であるという前提なしにはそういう会話すら成り立たないという現実を生きているということなのだ。すると我々はただ親しい者同士から純然たる他人にまである階層的な認識を個人毎になして会話しているが、責任の所在、つまり親しい者に対して誤った情報を仮に意図的にではなく伝えたとしたら、親しさの度合いに応じて良心の呵責に苛まれることが通常であるが、同時に見ず知らずの他人に対してどんな謝った情報を伝えても構わないかという判定においてこそ責任という倫理は問われ得るのだから、つまり職業倫理、アカウンタビリティー、情報開示といった全ては責任という名に収斂される意味合いを持っている。それはつまり良心(よい情報内容を相手に対する差別意識することなく伝え合う倫理の起源としての)を支えることの出来る能力こそが、ある意思疎通をすることは可能であるかという言語認識、言語理解能力に対する裁定基準、つまり会話が成立するか否かに掛っていると言っても過言ではない。すると良心という理性的な基準というものはその前提条件としては理解能力という知性、つまり低次の(理性が高次のものであるとしたら)条件によって支えられていると捉えることが出来る。しかし同時にその低次の条件が全ての言語活動を支えてきたわけでもなければ、また人間の言語活動を進化させてきたわけでもない、ということをしっかり認識した上で理解すべき前提条件なのである。例えば生物学的に大脳皮質によって我々が判断していることの前提条件として脳幹だけで判断していると判断してはならないだろう。しかし同時に我々は大脳による判断を身体によっても、それ以外の部位によっても同時的に行っているのだ、ということである。だから余程鈍感な者か、その場の状況を判断出来ない場合(取調室に缶詰にされているのに刑事から尋問を受けているという判断がつかないような病理的に鈍感な場合等)以外では通常我々はある命令に対して、「~を私はあなたに命じます。」とか「~をあなたに報告します。」などとは言わない。ただ単刀直入に命題内容を述べるだけである。「奴が死んだよ。」とか「そこに座れ。」とかのようにである。そしてそれは低次な信頼性(あなたは私と同一の言語を使用することが出来るということを承知であること)と同時に誠実性(それは威嚇的発言でさえそうなのだ。つまりその威嚇意志を伝達することが出来る相手であるという真意を表出しているのだから)をも使用しているのだ。そしてそれは殆ど無意識レヴェルからそのようにしているのである。

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