Friday, November 20, 2009

〔責任論〕 結論 責任能力と抑制性④

 生物学者のリチャード・ドーキンスは遺伝子の作用によって(彼によれば利他的な判断を得策とする遺伝子の利己性となるが)人間が構築した文字や文化をミームと総称しているが、儒家思想(それは秦代から前漢代に道教その他に圧迫された。)やユダヤ教(ギリシャ時代にはアイデンティティーを失いかけた。)・キリスト教も、あるいは自由主義経済や自由思想もミームを通して同世代から後代へと遺伝子が人間をヴィークルとして利用して伝播させてゆく意志を持ち、殆どそのことに対して本能的に対応する、と考えているのだが、それは明らかに私たちの中に無意識に宿っている責任に誘発されることが多く、言語行為もまたその無意識の責任から誘発されている、とも捉えられるのだ。
 この責任を行動や認識の誘発剤として捉える考え方は未だ端緒についたばかりであるが、一体このような誘発剤を動物が兼ね備えているかどうかが問題である。人間のように反省と後悔による明確な意識としてではなくても、何らかのそれに近い行動は随所で確認出来る。例の有名なミツバチのダンス(カール・フォン・フリッシュによる報告)は太陽と蜜の場所と現在位置との関係に応じてその角度にほぼ正確に尻を振りダンスをする彼らは、その尻の向きで明らかに密の場所を仲間に知らせている。しかし彼らの行動は既に遺伝子に本能的に書き込まれており、それを責任として、つまり誘発剤として認識しているかと言えば疑問であろう。意識内に意志として自覚される明示性はないと思われる。
 しかしゾウ(歩行の覚束ない子供を助け起き上がらせる。)もアザラシにも見られる親の子に対する教育的配慮といった社会行動は責任のある行動であると言える。しかしその責任を責任として認識出来るかというと集団内の懲罰的な学習性から引き起こされる行動にしか過ぎないとも言える。 
 本来責任というものはその在り方が複雑である。ミームを駆使する説明責任(アカウンタビリティー)、連帯責任(これなら高等哺乳類にはあるかも知れない。専門家の御意見をお伺いしたい。)、責任転嫁(これも動物にはあるかも知れない。)といった諸相によって分析可能であるからだ。
 
 我々の脳では扁桃体でノルアドレナリン(カテコールアミンの一種)が放出されると記憶の固定化に役立つことが知られている。そしてそれが尾状核へと投射されると記憶として固定化されるわけだ。マッガウの謂いに従えば「扁桃体におけるノルアドレナリンの記憶増強効果は、単に扁桃体への直接の影響によるものではなく、記憶の固定化に関与している他の脳部位に影響することによって生じている」らしいが、分条界と呼ばれる扁桃体と尾状核(反応学習を記憶させる)を繋ぐ経路があり、それが損傷されると反応学習に支障をきたすのだとすると、例えば上司に訓戒を受けてその言い方に棘を感じた部下がそのことに関していつまでも根に持つとしたら、その社員は職務への情熱よりも、人間関係の安定を望む心理が強いということになり、逆にそのような長期記憶へとそういった事柄を収納しないような性格の人間は職務に関する情熱の方が社員の言動よりも勝っているのであり、そういう場合ひょっとしたら、上司の厳しい言い方に対して反応する情動を抑える、要するに分条界において扁桃体から尾状核へと記憶を固定化させる作用をブロックさせる何らかの内分泌作用がなされるのかも知れない。あるいは扁桃体においてノルアドレナリンを放出させることによってなされる作用そのものをブロックするような作用が起きるのかも知れない。 
 確かに人間は悔しいことも長期記憶に残ることがある。しかし少なくともビジネス上では上司からの訓戒は、短期記憶にとどめおくくらいの意識も必要であろう。そうする方が得策と意識的に構えている者の方に、ビジネス上では利があるだろう。また実際は厳しく言われた方も言った方も心得ているのである。その訓戒はあくまで業務上の問題点としてなされたのであって、その業務を行う人間の人間性に対してなされたのではない、ということを。
 大屋は「法解釈の言語哲学」において、デリダをクリプキ以外では最も哲学者としては大きく取り上げている。その中でも次の記述は示唆的である。
「デリダが「正しさ」をめぐる問題に本格的に検討を加えた作品が『法の力』(中略)である。そこでの彼の理論は導出における前提が必然的に複合的な構造物であることを帰結の不確実性の原因として指摘するものであった。例えば《「語られる言葉」パロール》と書かれた言葉」エクリチュールの関係において、本来は一回起的でありその故に現前と看做されるパロールが、しかし新たなコンテクストの下に置かれ得る「反復可能性」(iterabilite)としての原エクリチュールを内包することが、意味の不確実性の起源である。」(同書121ページより)とし、デリダの言葉を「(前略)何が正しいことかをめぐる導出が行われる以前に存在すると想定されるすべての正しさの根拠、すなわち「正義」は、基礎付けをめぐる議論を超越した場所にあるとされる。このことは第一に、「法/権利を基礎付け、創始し、正義にかなうことになるようにすることになる作用、つまり掟をつくる/場を支配する(中略)ことになる作用を成り立たせるのは、実力行使、つまり行為遂行的でありそれゆえ解釈をする暴力であろう」(デリダの引用<著者注加入>)としてその暴力性=無根拠性が主張される一方で、それが正誤に関する判断が可能となる以前に存在し、それらの判断が可能となる条件を与えるものであるために(条件概念が重要であるとウリクトも「説明と理解」で主張している。<著者注加入>)、それ自体は基礎をもたない暴力である。これは、それら自体は判断の対象とならないということを意味している。「権威の起源、掟を基礎付ける作用または掟の基礎になるもの、掟を定立する作用(.....)自体は基礎をもたない暴力である。これは、それら自体が『非合法』または『正統でない』の意味で正義にかなっていないということを意味しない。それらは、それらが基礎付けをなす瞬間には、合法的でも非合法的でもない。それらは、基礎付けられたものと基礎付けされなかったものとの対立や、基礎付け主義かそれとも反基礎付け主義かの対立を超えている」(デリダの引用<著者注加入>)(同書121~122ページより)
 つまりここで大屋が示したかったのは、デリダが言う幾分バタイユ的な暴力という攻撃欲求をシステム構築(言語体系、住居群、法体系、階級性、ネット社会)へと、人間がただ単なるホモ・サピエンスから存在者として自己認識出来る地位を獲得するために、営為努力しているということである。勿論この転化は目的意図的に行われるのではない。我々は全ての行為を気が付いた時には、そのように認識し得るのみである。そして前半部の大屋のデリダ引用文章中の反復可能性こそ、アンセルメとマジストレッティーの言う「快感原則は慣性原則であるだけでなく、反復原則である。」(「脳と無意識ニューロンと可塑性」139ページより)ことを示している。デリダが言う本来一回性であるパロールが常套化されるような惰性判断が、ホメオスタシスに依拠しながらも、我々の言語行為において何らかの節目を付けながら、他者に説明責任を果たすべく同一の言い方、同一の意味内容、同一の意味作用をそれを聞き取る者がコラムあるいはクラスターとして選択して、その他者の脳内に同一のニューロンの発火パターンを生じさせ、他者の長期記憶に収納させるべく意志することが説明者の責任であるということを示している。
 法も正義も責任が作る。責任が理性の助けを借りて秩序付けるのだ。理性とは責任と良心の共存と対立の全てを一括して俯瞰する認識である。
 しかし責任とは責任を負える範囲の指定でもある故、それは長期的なことであれ、確実に想定し得る未来に関してのことである。例えば長期に渡ってローンを組むことがあっても、その間には何があるか分からない。だからこそまた保険の存在理由も発生するわけだが、もっと百年後、二百年後というスパンになると想像することも無意味という観念を人間は抱くものだ。自分の死後のことまで想定出来るか、というわけである。だがマックス・ヴェーバーは政治家ならそれくらいのスパンでものを考える必要があると考えていた。だから生の意味を長期的な展望に立って考えていたということになる。「(前略)無差別的な愛の倫理を貫いていけば「悪しき者にも力もて抵抗うな」となるが、政治家にはこれと逆に、悪しき者には力もて抵抗え、しからずんば汝は悪の責めを負うにいたらん、という命題が妥当する」(「職業としての政治」より)わけだし、「この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と横暴性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。そして善から善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。これらのことは古代のキリスト教徒でも非常によく知っていた。これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である。」(同書より)し、「およそ政治をおこなおうとする者、とくに職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなるだろうかという問題に対する責任を、片時も忘れてはならない。繰り返して言うが、彼はすべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。」のだ。悪は幾分現世主義的であり、実際的であり、未来に対して何の展望もない。しかし実際ヴェーバー自身も百年スパンの展望を抱いてこのような言辞を吐いたのだろうが、それ以上未来のことを考えることには臆しただろう。つまり人間にはつい目先のことだけ処理出来れば、それ以上先のことを考えるのは不安だし(第一自分は死んでいるかも知れない。)、そこでどうせ人生一回なら今楽しまなくてどうする、という観念に囚われがちなものだ。だから目標設定とか願望といったものをそれほど大それたことではなく、もっと地道で地に肢を付けたものをという発想になる。そういう意味では責任感といったものさえ、長期的な未来展望であるよりは、目先のことに関して目標を定めるという意味合いでなされていることの方が多いだろう。つまり責任は死に対する生の意義において認識されるが、同時に自らの死に対する恐怖を和らげ、長期的未来への意志を猶予させる効用もあるのだ。今生きていて、自分の周囲にいる人たちを中心にしかものを考えることが出来ない人間の必然的な内的理解であるも言える。つまりこういうことである。「私も一個の小さな人間でしかありません。だから私の出来ることには限界があります。そしてその範囲内でなら何とか一生懸命やらせて頂きます。」という表明こそ責任の明示なのである。
 例えば我々は<いつかは人間も絶滅する>と考えるし、<地球もいつかは滅ぶ>だろう。<太陽でさえ永遠ではない>だろう。しかしそんな先のことを考えると暗くなる。だいたいでは我々が生きて来ているのに何の意味があるのか、と考えてしまう。だから自分の想定し得る範囲に自分の存在を位置付けようとする。その時自分の使命とか責任とかは、極めて実際的であり、自分の極小さを忘れさせてくれるのに本当に都合がいいのだ。
 ところで、カントは神を否定したわけではない。しかし彼の考えはともかく、そのテクスト内容の意味作用から言えば、神による恩寵という事態はそれほど大したことではなかった。彼にあってはもっと大切であると思われるものが確かにあったのだ。例えば「人倫の形而上学の基礎付け」において彼はこう言っている。

「できるだけ他人に親切を尽くすことは義務である。そしてさらに、世の中には同情心に富んだ人が多くいて、そういう人々は虚栄心や利己心などという他の動機なしに、喜びを周囲の人々に行き渡らせることに内的な楽しみを感じ、自分のせいで他人が満足をすることをこの上なく喜ぶことができる。けれども、私は言う。この場合そのような行為はいかに義務に合致した愛すべき行為であるが、しかし真の道徳的価値をもたず、他のさまざまな傾向と同類である、と。例えば名誉を求める傾向が、実際に公衆のためになり義務にしかない、したがって名誉に値するようなことがらと、うまく一致する場合、称賛と励ましを受ける値打ちはあるが、尊重を受ける値打ちはないのと同様である。というのは、こういう格率については、傾向に基づいてではなく義務にもとづいてそういう行為を行うという、道徳的内容が欠けているからである。そこで仮に上の博愛家の心が、彼自身の心によって曇らされ、その悲しみは他人の運命に対するあらゆる同情を消してしまったとしよう。彼は、彼の困っている人々に対して親切を尽くす能力は依然としてもっているが、自分自身の困窮で心が一杯であるため他人の困窮は彼の心を動かさないとしよう。このように、もはやいかなる心の傾向もただ義務のみにもとづいて親切な行為をするとした場合、その行為ははじめて真実な道徳的な価値をもつのである。さらにまた、ある人が生まれつき同情心乏しく〔ほかの点では立派な人でありながら〕気質の上では他人の苦しみに対して冷たくで無関心であるとしよう。そしてその理由は、その人が自分自身の苦しみをも辛抱強くもちこたえる生まれつき特にめぐまれていて、そのためそういう生まれつきが他のすべての人にも具わっていると思いこみ、さらにそれを当然のこととして他人にも要求するからであるとしよう。このような人を〔これは自然の生んだ最悪の産物ではけっしてない〕、自然は特に博愛家に育てあげなかったとしても、そういう人は、やさしい気質の人のもつ価値よりもはるかに高い価値をみずからに与える可能性、やはりみずからの内に見出さないであろうか。確かにそういう可能性はある。そういう人が傾向にもとづかず義務のもとづいて他人に親切を尽くすという場合、まさにそこに、性格の価値というものが、はじめて生ずるのであり、これこそ道徳的価値であり、すべてを超える最高の価値なのである。
 みずから幸福を確保することは〔少なくとも間接的には〕義務である。というのは多くの心配につきまとわれ、満たされる数々の欲求に囲まれて、みずからの境遇に満足を欠いていることは、義務の違反への大きな誘惑になりやすいからである。しかしこの場合、義務のことなど顧みずとも、あらゆる人間はもともとすでに、幸福を求める極めて強くかつ内に根ざした傾向をもっているのである。なぜなら、まさにこの幸福の理念がすべての傾向を一つの全体にしめるものなのであり、しかもそのようにしても人間は、幸福と呼ばれるところの、あらゆる傾向の満足に総体について、はっきり確かな概念をつくりあげることができないのである。それゆえ、ただ一つの傾向でもその約束する満足が何であり満足が得られるときはいつであるかはっきりしていることがあるのは、怪しむに足りない。たとえば、通風で足の動かない人が、自分の食べたいものを食べ、せめて今できるだけ楽しもう、とするのは怪しむに足りない。なぜなら、この場合彼は、すべてを考慮した末、健康のうちにありと言われる幸福への、おそらく彼にはもう満たされぬであろう期待によって、少なくとも現在の瞬間の享楽を失うことがないようにした、のだからである。しかしながら、このように幸福を求める一般的な傾向が、彼の意志を決定せず、健康というものが少なくとも彼の考慮にはそれほど必然的に属さない場合すらも、やはり他のすべての場合におけると同様に、みずからの幸福を増すことにつとめるべきであり、しかも傾向にもとづいてではなく義務にもとづいてつとめるべきであるという法則は、依然として残っている。そして彼がこの法則に従う場合に、彼の行為は、はじめて道徳的価値をもつのである。
 われわれの隣人を、いな敵をさえも、愛せよ、と命ずる聖書のことばもまた、明らかに同様な意味で理解すべきである。というのは、傾向としての愛は命令されることはできないからである。義務そのものから他人に親切をくつすことは、実践的愛であって、感情的愛でなく、意志のうちなる愛であって感覚の性癖のうちなる愛でなく、行為の原理のうちにある愛であって、われを忘れた同情のうちにある愛ではない。こういう実践的な愛のみが命令されうるのである。」(「人倫の形而上学の基礎付け」248~251ページより)

 カントの主張は、この箇所の発言からだけで判断するなら、彼自身は理神論者と言っているが、そうではないのではないか、という憶測さえ成り立つ。
 例えば人間の性格とは善良であれ、懐疑的であれ、悪辣であれ神から与えられたものである、としよう。するとその恩寵如何ではなく、そういう性格的傾向性があるにもかかわらず、自分の意志で、つまり意識的な努力でそれではいけない、と悪を出来る限り抑制した善行をすることの方に、神から予め与えられた「よい性格」の人間のごく自然な善行よりも価値があるとするのなら、それは神はあってなきに等しいものである、という考えとなる。(そこまで神が介入出来ないのなら)一方いささか仏教的でもあるが、善行をして努力した人間は予め「よい性格」を与えられた者であれ、「悪い性格」を与えられた者であれ、いずれにせよよい来世が待ち構えている、として尚且つその善行に対する評定者が神であるとするなら、神とは極めて人間臭い存在となる。それでは理神論ではなくなる。しかしこうも考えられる。カントは神がいてもいなくても、自分の心の満足こそが一番大事なのだ、ということを言いたかったのだ、と。その点ではカントは孔子や仏陀にも相通じる主張をしていることになる。(カント自身は有神論者だが神からの自立を確かに主張した。)
 カントの主張は目には見えないことの意味である。それはヴェーバーが実際的である社会における目で見えることの実践を語っていることと、対極に位置するかのように思われる。しかし政治上での社会の運営ということには、目に見えることを変えてゆくことを通して、目では見えないことを充実させてゆこうという考えがあるように私には思えるのだ。 
 目のない状態という進化もあったかも知れない。しかし我々は電話を通してでも、意味内容を伝え合える。一方パソコンも本も新聞も目で追う。この異なったクオリア感知能力の所有こそ人間が多層的な視野を獲得したことの根拠であろう。しかしもし目が見えなかったら、見えなかったなりに、あるいは耳が聞こえなかったら、聞こえなかったなりに我々はまた別種の感知能力を付与されていたかも知れない。ただ一旦獲得した能力を喪失した状態を考えることがし難いというだけのことである。責任は能力に付帯して負わされる。人間には目が見えて耳が聞こえるという前提で、責任は負わされる。要するに責任とは能力の行使の十分さに対する評定である。だからカントが善意志を持ち、道徳的価値に則って行動することは我々に付与された意志的な能力であり、能力の行使は私たちに与えられた権利であるという考えが基本にある。彼にとって義務こそが最大の権利だったのだ。
 ベンヤミンが「無媒介では権力を所有していない。」と言ったことを振り返ってみよう。我々は攻撃的欲求とか破壊意志というものを持っている。そしてそれは創造のエネルギーを形成するのにも多大に貢献している。しかし破壊的な意志は、実は恒常的な維持によって支えられている。慣性法則に随順した身体的な反応は、恒常的な破壊欲求を安定した状態へと導く。破壊したものを破壊したままにしたくはない、と私たちは思うのだ。
 だから媒介を通して顕現された権力的意図とか欲求を、緩和させるものとして良心は常に攻撃的欲求の発露においてさえ常備されている。それもまた一つの能力である。
 周囲の誰もが自分の存在を認可してくれなくても尚、世界中のどこかには自分を認可してくれる人間がいる筈だ、という思いが孔子に対して弟子たちに積年の自己理想挫折に対してその怨念を誰かに継承させることを暗に示さしめたのだし、今日も沢山、自己理想実現に程遠い人々がパソコンの前で佇み世界に何かを発信しようとしている。(デイトレーダーもそういう人々である。)つまり見知らぬ人間による恩恵と感謝が古代から現代に至るまで責任倫理の根底にある。つまりその見知らぬ者に対する配慮(あるいは時には要求)こそが、無媒介では他者に権力を誇示しはしないという最低限のルールを人間が人間に与えてきたのである。攻撃は媒介を通して緩和されているのだ。それこそ人間の無意識の内での良心と責任を一致させる試みである。媒介を通した伝達という意味では電話こそそうだし、自宅の内部と外部隔てる壁であれ、とどのつまり人間同士の衝突を回避させるために人間が進化させた方策だったのだ。ミームとは抑制的作用顕現のための道具でもあるのだ。
 しかしそれ以上に重要なこととは、未来の不確実性にもかかわらず、人間は誰しも、それがいつかは分からないが、人間という種も絶滅し、いつかは地球も滅び、いつかは太陽さえなくなるのだ、ということに確信を持っている。クリプキの哲学の様相論理性、可能世界意味論とは、「八十歳でカントは亡くなるが、もしあと数年生きていたなら」という仮定法はどのような人生にも与え得るし、どのような事態でもそこで収束するのなら、もっと先までその事態が長引いたならという仮定法を設置することが可能であるが、そういう仮定法を許すということは、裏返せばそうはならなかったという諦念があるからである、ならば限りある個々の生において、責任を果たすことに献身せよ、という主張にさえ私には響く。つまりその与えられた能力をフルに活かして生を意義あるものにしよう、という考えを抱くのだ。その時自分に課せられた責任とは一体何なのか、ということは恐らく言語獲得期の人類も思い巡らせていたであろうし、そのことを追慕しながら自分でもそのことについて思い巡らせることにはきっと意味がある。(了)

参考文献
(括弧内の数字は最初が原テクストの出版年、後は日本語訳出版年を指す。)
「養生訓」(1713-1961)貝原益軒著、岩波文庫
「人間不平等起源論」(1755-2005)「社会契約論」(1762-2005)ジャン・ジャック・ルソー著、小林善彦、井上幸治訳、中公クラシックス
「道徳形而上学原論」(1785-1960)インマニュエル・カント著篠田英夫訳、岩波文庫
「人倫の形而上学の基礎づけ」(1785-2005)インマニュエル・カント著、中公クラシックス
「実践理性批判」(1788-1979)インマニュエル・カント著篠田英夫訳、岩波文庫
「精神現象学」(1807-1998)フリードリッヒ・ヘーゲル著、長谷川宏訳、作品社刊
「善悪の彼岸」(1885、1886-1970)フリードリッヒ・ニーチェ著、岩波文庫
「権力への意志」(1901-1993)フリードリッヒ・ニーチェ著、岩波書店刊
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(1920-1989)マックス・ヴェーバー著、岩波文庫
「職業としての政治」(1919-1980)マックス・ヴェーバー著、岩波文庫
「パサージュ論」(1982-2003)ワルター・ベンヤミン著、岩波書店刊
「言語・真理・論理」(1946-1955)A・J・エイヤー著、吉田夏彦訳、岩波現代叢書刊
「日本的霊性」(1944-1972)鈴木大拙著、岩波文庫
「心の概念」(1945-1987)ギルバート・ライル著、みすず書房刊
「全体性と無限」(1961-2006)エマニュエル・レヴィナス著、熊野純彦訳、岩波文庫
「現出の本質」(1963-2005)ミシェル・アンリ著、法政大学出版局ウニベルシタス叢書刊
「説明と理解」(1971-1983)G・V・フォン・ウリクト著、丸木高司+木岡伸夫訳、産業図書刊
「わが世界観」(1985-2002)エルヴィン・シュレーディンガー著、中村量空+早川博信+橋本契訳、ちくま学芸文庫
「意味の限界」(1966-2005)P・F・ストローソン著、永井均訳、勁草書房刊
「裸のサル」(1967-1969)デズモンド・モリス著、河出書房新社刊
「コウモリであるとはどういうことか」(1979-1989)トーマス・ネーゲル著、勁草書房刊
「名指しと必然性」(1972-1985)ソール・アーロン・クリプキ著、産業図書刊
「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(1982-1983)ソール・アーロン・クリプキ著、産業図書刊
「利己的遺伝子」(1976-1991)リチャード・ドーキンス著、日高敏隆、岸由二、羽田節子、垂水雄二訳、紀伊国屋書店刊)
「ブラインド・ウォッチメーカー」(1986-1993)リチャード・ドーキンス著、早川書房刊
「なぜ人を殺すのか」(1993-1995)マット・カートミル著、新曜社刊
「自然の中に隠された数学」(1995-1996)イアン・スチュアート著、草思社サイエンスマスターズ5
「知性はいつ生まれたか」(1996-1997)ウィリアム・カルヴィン著、草思社サイエンスマスターズ8
Having thought John Haurgeland HARVERD UNIVERSITY PRESS(1998)
「記憶と情動の脳科学」(2003-2006)ジェームズ・L・マッガウ著、大石高生・久保田競訳、講談社ブルーバックス
「脳と無意識ニューロンと可塑性」(2004-2006)フランソワ・アンセルメ+ピエール・マジストレッティー著、長野敬+藤野邦生訳、青土社刊
「儒教ルサンチマンの宗教」(1989)浅野裕一著、平凡社新書
「乱交の生物学」(2000-2003)ティム・バークヘッド著、新思索社刊
「言語の脳科学」(2002)酒井邦嘉著、中公新書
「意識とは何か」(2003)茂木健一郎著、ちくま新書
「「脳」整理法」(2005)茂木健一郎著、ちくま新書
「法解釈の言語哲学クリプキから根元的規約主義へ」(2006)大屋雄祐著、勁草書房刊
「ユダヤ人」(1984)マックス・I・ディモント著、藤本和子訳、朝日選書
「イスラムとコーラン」(1987)牧野信也、講談社学術文庫



注1 functional magnetic resonance imagingの略である。核磁気共鳴を利用して、ヒト及び動物の脳や脊髄の活動に関連した血流動態反応を視覚化した手法の一つで、計測原理的には酸化ヘモグロビンが脱酸化ヘモグロビンに変化する時に、磁気共鳴信号が見られることから、酸化ヘモグロビンが脱酸化ヘモグロビンへと変化する時の共鳴変化を捉えていると考えられている。一般に高磁気のもの程、高い分解能を持っている。例えば2005年10月現在、理化学研究所の脳科学綜合センターでは4テスラの装置を使って1㎜未満の空間分解能を実現している。fМRIでは高い分解能で脳神経活動を記録出来る一方、信号の時間変化は数秒~数十秒程度であるため、高い時間分解能は得られない欠点がある。(以上全てウィキペディア2007年4月19日付けによる。)検索事項「核磁気共鳴画像」に関するデータはウィキペディアに詳細が配信されているので参照されたし。
注2 ジェームズ・ジェローム・ギブソン(James Jerome Gibson、1904~1979)とは知覚専門の認知心理学とは一線を画した直接知覚説を展開したために生態心理学の領域を切り開いたとされるが、オハイオ州生まれでノースウェスタン大学を経てプリンストン大学を卒業1928年よりスミス・カレッジで教育、研究に携わる。ゲシュタルト心理学の創始者クルト・コフカがナチスから逃れて彼の主催するセミナーに参加していたが、彼から多大な影響を受ける。また彼を通してクルト・レヴィンと共にコフカが提唱していた誘発特性(invitation character)ないし、誘発性(valence)を起源としてアフォーダンスという概念を提唱したと告白しているが、彼の考えたアフォーダンスの概念は、1988年ドナルド・ノーマンというデザイン認知心理学の研究者が人間の主観性に依存するものとしてアフォーダンスを再定義したために、アフォーダンスというと微妙に異なるこの二つの考え方によって代表される。ギブソンの方は一般に客観的アフォーダンスととされる。その二つを簡単に解説すると、客観的アフォーダンスは①客観的に計測できる②人間の持つ、可能性を認知する能力から独立している。③動作主の能力に依存する。であり、一方主観的アフォーダンスとは動作主の目的や計画、確信、興味に依存する、と分類される。しかし次のような主観的アフォーダンスへに客観的アフォーダンスの側からの批判もある。
「部屋の椅子とボールがある。もしアフォーダンスが動作主の主観にかかわらず、客観的な能力限界によってすべての動作可能性からある動作を選択させるものであるならば、この部屋に入った男は次のような行動をとるだろう。すなわち、椅子を投げ、ボールに座るのだ。なぜならどちらも客観的にその行動が可能であるからだ。ではなぜ私たちはそういった行動をとらずに、椅子に座り、ボールを投げるのか。それは過去にそういった経験、つまり、ある物体の本質とそれが示すアフォーダンスとの関連性を経験しており、それが呼び覚まされているからだ。」 
 物体の本質と、それが示すアフォーダンスとに乖離があった場合でも、動作主はアフォーダンスに従った行動、すなわちその物体の本質と関係のない行動をとる、とされる。以上2007年4月18日ウィキペディアによる。つまりアフォーダンスはギブソン説を採ると不随意な身体反応であり、主に視覚的な情報によって例えば大きさとか幅とかを瞬時に測定する悟性的判断力とも言えるが、私は例えば後ろに誰かの人の気配を感じるようなこともあり得るわけだから、そういう場合、視覚情報からのものではないし、私の提示した眼のない我々という思考実験にはそういう気配を感知する皮膚感覚のようなものとしてここに取り上げた次第である。ギブソンの妻エレノア・ギブソンも心理学者である。(ウィキペディアによる)
注3 私は欲望=情動としたが、欲望という概念は、特に哲学者の竹田は情動と感情の差に関してはそれほど意識的ではないが、神経学者のアントニオ・ダマシオは情動を身体不随意的な作用として、そして感情をその感覚の認知的な事項として捉える。(「感じる脳情動と感情の脳科学よみがえるスピノザ」田中三日子訳、ダイヤモンド社刊)ダマシオはダーウィンとフロイトを融合した視点で脳神経科学を捉えている。しかし情動もただ生得的な場合もあるが、そうではなく社会的な経験を要するものも認める。例えばサルはヘビを恐れるようになるのは、母親の嫌悪と恐怖の表情に接するという経験からであり、こういった経験を持たないサルはいつまでたってもヘビに対する警戒心は生まれないことを指摘している。だが竹田の指摘する欲望という概念は情動と感情がワンセットになっており、要するに「生きる意志」や「諸々の欲求」が複合化された生の実存を示して私には新鮮に感じられる。(竹田青嗣「意味とエロス」ちくま学芸文庫)
尚私は動物は感情を持つと本論文中で言ったが、哲学界ではこの議論は喧しくされてきた。例えばデカルトは完全に動物には感情はないとした。ほぼ同時期のフランシス・ベーコンも同じような考えであった。デカルトよりも少し前の時代のモンテーニュには動物を人間と断絶した存在ではなく、連続した存在であるという考えが見られるのだが、彼の考えはその時代には誤解されていた。しかし17世紀後半から18世紀になると徐々にこのような考え方に対して修正が加えられてゆく。しかしその考え方の変更は決して人間がただ単に動物に対して同情したというヒューマニズムからではなくて、動物のする行為と人間のする行為をややもすると人間が特別な位置に存在すると思う傾向性が人間自身にあるために人間の行為だけを特権的に見てきたことに対して反省をし、逆に人間の行為においても動物と何ら変わらないこともあるという発見によって、人間を動物と等価に見る自然科学的な合理主義的視点(マット・カートミルによると「あらゆることを説明する単一のシステムを探ろうとする」)を導入しただけのことである。しかし未だそこには神の視点は濃厚に立ちはだかっていた。ジョン・ウェスリーは「唯一人間と動物の真の相違」は人間は神を知り、動物にはそれがなかった、ということだとした。だが徐々に人間は動物にも人間同様の権利を認めるようになっていった。人間が本質的に動物に対する愛護の精神を身につけたのはごく最近であり、それは人間が多くの動物を絶滅に追いやってきたという事実に対する覚醒からであり、人間の行為が地球環境に多大な影響を与えてきているという認識からである。この動物に対する認識の変化を粒差に検証し、狩猟文化を人間の攻撃欲求という側眼から考察した西欧文化逆説史的論文が解剖学者マット・カートミルの「人はなぜ殺すか狩猟仮説と動物観の文明史」である。ジョン・ウェウスリーのこともデカルトやベーコンのこともこの本に詳細に述べられている。(新曜社刊)尚私が「感情がある」と言ったのはある程度の高等知性を有する哺乳類のことであって、例えばショウジョウバエやアメフラシなどにはダマシオが言うように知性も感情もないであろう。それは行動パターンも行為選択も予め外界との接触によってプログラムされた通りの刺戟に対する反応でしかないだろう。しかし一個一個の個体にはそれぞれ反応の仕方の差は存在するだろう。しかもそれが自然選択のバロメーターになるような意味で。
注4 孔子の死去した年、BC479年(春秋東周時代)より実に千二百年以上に渡る紆余曲折の末、儒家思想は遂に国家公認となった。AD739年唐代のことである。ここに我々は儒家思想継承者たちの執念を見ることが出来る。詳細な紆余曲折期のデータは参考文献欄に記入の浅野裕一の「儒教ルサンチマンの宗教」を参照されたし。 
注5 女性の方が男性よりも共感感情が先天的に発達しているのは、多くの学者の主張するところである。とりわけ心理学者、精神医学者のサイモン・バロン=コーエンによる「共感する女脳、システム化する男脳」三宅真砂子訳、NHK出版刊では、男性がより構造的、世界把握的システム認識に優れ、女性は共感感情が発達しているために、同級生同士の子供の優劣を支配によって示す時、男の子は直接的に弱者を攻撃する傾向があるのに対し、女の子は別の成員に対して攻撃的な様相を表面的には悟られないように、コノテーションを使うことを指摘している。要するに女性の方が正々堂々ではないし、またより巧妙であるわけだ。また脳科学者で医学博士の田中冨久子は女性の方が統計的に語学能力が得意である傾向があり、男性の方が空間認知能力に長けているという統計的数値を示しているが、同時にある程度社会全体がそういう能力を男女に割り当てているので、そういう傾向になる場合もあり、必ずしも生得的であるかどうかは未だ熟考を要するというニュアンスも残している。尚女性に対するジェンダーロールの暗黙の規制という面ではアメリカの哲学者ジュディス・バトラーが論を展開している。田中冨久子の著作は「脳の進化学男女の脳はなぜ違うのか」中興新書ラクレであり、この面からの考察としてコーエンの著作と共に一読に値する。(89ページ参照のこと。*)
注6 リン・マーギュリスは細胞の共進化を証明した著名な生物学者である。彼女は自著「共生生命体の30億年」(中村桂子訳、草思社刊)で終章(ガイア)終節で次のように述べている。
「私たち人間も、この星に暮らす他の仲間と同じだ。私たちは自然に終始符をうつことはできない_できるのは自分たち自身を脅かすことだけだ。人間が核燃料工場の水槽や熱水噴出孔に生息している細菌まで含めて、すべての生命を破壊させる可能性があるという意見はばかげている。私には、この星の他の仲間が忍び笑いしているのが聞こえる。彼らは「君たちに会う前は、君たちなしにやっていた。これから先は君たちなしでやっていく」と声を合わせて歌っている。細菌も鯨も昆虫も種子植物も鳥も、歌っている。熱帯林の樹木は小さくハミングしながら、私たちが不遜な伐採をするのをやめて、彼らがもとのように成長できるようになるときを待っている。そして彼らは、私たちが消え去ったあともずっと、不協和音や和音を奏でつづけるだろう。」
 この言述は示唆的だ。私たちは私たちを時には脅かす細菌すらも消滅させることは出来ないし、また全ての細菌を消滅させる前に我々が消滅するだろう。全ての動物も植物も他の細菌の存在があって、初めて成立するからだ。しかしこの問題地球から我々がいなくなった後、更に我々のような高等知性を持つ種が進化して登場するかどうかについて脳生理学者で医師のジョン・エックルズは次のように言っている。
「われわれの進化系列はわれわれと同じあるいはこれをこえる知性と想像力を持った存在に導くことのできる唯一のものだろうかということがしばしば問われる。たとえば、ある超知性をもつ尾なしザルがヒト科と合致するかこれをこえるような別の進化を始めることがありうるだろうか。答えは否である。ヒト科の進化は主な遺伝群から別れた非常に小さな遊離群による量子的な進歩に依存する。さらに、何十万年という途方もなく長い遊離期間が新しい種の誕生には必要である。そのような条件は現在の地球上ではけっして再現されることはありえない。事実、過去でさえヒト科の進化はただ一回おこっただけであり、その後何百万年ものあいだつねに絶滅の危険を孕んだ小さな集団に依存していた。」(「脳の進化」東大出版会)
 もし彼の言うことが正しいとすれば我々が滅んだ後には再び別の集団が制覇することなど出来ないということとなる。しかし恐らくエックルズが言う進化とか進歩とかは我々と「似たような文明を築く種」ということであり、そうでなければ、つまり我々とは似ても似つかないタイプのものであればあり得ると私は思う。しかしそれも地球自体が存続する寿命とも関係があり、思いの他地球の今後が少ない命脈時間だとすれば、また違った意見が出されるだろう。しかしそうなると進化とか進歩とか時間とは何なのかというもう一つの問いを産出することになる。
[補足論考]
 カントは哲学史に乗せられた近代的人間像としてだけではなく、起源論的に善意志を捉えたのではないかと、私は直感したのだが、その理由を述べておこう。カントは彼が創出した定言命法に生涯拘り続けたのだが、このことは、彼の哲学が「論理を研ぎ澄ますこととは、論理では推し量れない、つまり説明の尽かぬことの大切さを知れ」と語る哲学であるように思われるからである。
 私は人類が言語獲得した第一の理由は、人間がある集団で責任と良心(これもまた意識と欲望と記憶の三角形(46ページの図参照。)の中心に位置すると思われる。)を介在させたこと(だからこそ人間は意思疎通の意味を言語によって獲得したのだ。)と、説明し切れないことがあるということそれ自体を説明したいという欲求を説明出来ることだけでも説明し尽くすことから始めようとしたからだ、と考えている。
 カントは生涯殊更言語についてはルソーほどは語らなかった。しかしカントの哲学からは濃厚に言語起原の問題を誘発させる。というのも彼の言う定言命法というものの認識を、言語獲得に関して関心を注いだルソーが見落としていたもののように考えていたのではないかと私は思うからである。それは彼の「人倫の形而上学の基礎づけ」(中公クラシックスW42の「プロレゴメナ・人倫の形而上学の基礎づけ」286~290ページより)の義務の理説によって明らかだ。ここで特に自殺の禁止をキリスト教教義の言説からではなく自説論理で立証し、返済不可能な借金に手を出すことを彼の自説論理から説諭する(ここら辺り現代人に耳の痛いところではないか?)ことにそれは示されている。つまり人間は出来ることは出来ると明言してもよいが、そうではないことをも出来ないと明言する必要があるのだ。出来ないと告げることは実際出来ると明言りもするよりもある意味では勇気を要する。このカントの言説から私の責任と良心が善悪に先だつという事態から言語獲得が可能だという論理はより信憑性が増す。カントは事実「世界平和のために」を1795年七十一歳当時発表している(1804年2月12日永眠。)が、この政治的理想発言のテクストの持つイデアが、逆にそれまで他のテクストを通して彼が語ってきたことがただ単に近代人の理性についての言明ではなく、人間の起源的な根本原理のテクストであるという主張を裏付けるのだ。カントは人間の行為選択に関して、大雑把に言えば大きく次のような観点から考えた。何か行為する時、その行為の格律(率)に則ったものであるか否か、そして他者一般に対してそれが該当するか、そして「汝の行為の格率を汝の意志によって(これが重要である。著者注加入)普遍的自然法則とならしめようとするかのように行為せよ。」(「プロレゴメナ・人倫の形而上学の基礎づけ」中公クラシックスW42、286ページより。)しかし人間はカントの言うような理想的な状態としてだけ存在し続けてきたわけではない。中には犯罪者や殺人者もいた。そしてそれら一切の現実を包み込むように自然は存在する。自然の格律と言うべきものをサー・ロナルド・A・フィッシャーやハミルトンが統計的に法則化してみせたことは実はカント哲学の真骨頂を証明する行為でもあったのだが、そのことについては後日別の機会で深く掘り下げようと思う。兎に角カント哲学が我々現代人にも教えてくれることとは、人間は与えられた能力を真っ当する(人間は自分の能力の本来の発現の仕方を知る頃寿命を終える。)こと(それは身体的にも精神的にも)と、自分から主体的にアプローチすることの双方に責任があるということである。
また私がA集団とC集団の首領同士の結託に関する思考実験の際に、C集団首領のジレンマに関して、もし部下の言う通りに選択をしていたら、その部下に対して負い目が残るとしたのは、その部下と首領の信頼関係よりもA集団首領との信頼関係を重視する場合のみであり、逆に部下との信頼感を最も重要視するなら、A集団首領との関係はあくまで形式的、建前的である方が得策なこともあるとは言っておこう。
 要するに我々は責任をどのように取り得るかという面から他の全てのことを考えるのだ。首領たちが何を一番に信頼するか、誰を一番に信頼するか(価値観とか人生観とかに頼った判断において)によって責任の在り方も変わってくるし、良心の発動の仕方も変わる。あるいは理想も、目標も変わる。だから善悪の判断とか倫理的な裁定とかさえ、何に対して信頼しているかという我々の判断によって、つまりその信頼対象によって支えられる独自の責任倫理(ここで言う倫理は世間一般の倫理とは酷くずれ込むだろう。)によって変わり得る。というより責任の在り方の方に善悪とか世間、社会における一般的倫理的裁定という一見ア・プリオリな基準と思われるものの方を我々が合わせる、あるいは当て嵌めるというのが我々の生存に関する実情なのだ。
度々この論文で登場したソール・クリプキのことについて触れておこう。ソール・アーロン・クリプキは1940年ネブラスカ州オマハ生まれの現プリンストン名誉教授、アメリカの哲学者、論理学者である。論理学の中でも特に様相論理の分野での業績で知られ、指示の因果説等の言語哲学分野での貢献が著名である。(ウィキペディア2007年4月18日付けを参考にした。)本論で彼の「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(産業図書刊)を解釈した法哲学者の大屋雄裕の「法解釈の言語哲学」を大きく取り上げたため、直接クリプキのことを解釈することを控えたのは、大屋のクリプキ解釈が優れているためでもあるが、クリプキ哲学そのものが直接的なアプローチばかりではなく、間接的アプローチにも耐え得る本質論であるため、敢えて直接的アプローチを避けた。「ウィトゲンシュタインのパラドックス」中のプラスとクワスのエピソードを簡単に紹介しておくと、「68+57」は幾つだと、質問者が言うと私は「125」と答えると、彼はそうではない、答えは「5」だと言うところから始まる。χもyも共に57より小さいときはプラス関数を使い、それ以外のとき、即ちχかyかがそうではない時、つまり57より大きい時は、クワス関数を使い、答えは全て5となるのだ、と私は意味してあなた質問をした、それに対してあなたはそんなのおかしいと感じても、ではあなたは今まで必ずプラス関数を使い、クワス関数を使ってはいなかったと証明出来るのかい、ということをクリプキは言っている。このジョークのようなエピソードは我々が日常において抱く一般論とか先入見に対して痛烈なる皮肉となって響く。このような数が小さい時にはどうということはないが、数が天文学的数字となるとこのクリプキの提示したエピソードのクワスの示す意味が大きく立ちはだかる。ということは私が最終部において示した、「もしカントがもっと長生きしていたなら」という仮定法において例証したようにどのような長さのものでもあと寸分でも長ければという仮定法が成立するような意味で、我々は常にもう一つの可能世界というものを仮想出来る。しかしそれはある意味ではどのような事態においても最後には必ず何らかの結果という「落ち」がつくものだ、ということを感慨として我々に示してもいるわけなのだ。
 ところで私は孔子を長身であるとしたが、浅野氏の報告によると、それすらも捏造であった可能性もあると言う。しかし私は恰好のいい長身の孔子が夢に敗れるという姿の方が真実味があると思えるし、そう後代の儒家思想継承者たちが画策したとしても、そうではなく事実であったとしてもいずれも説得力があると思われる。つまりここには事実と真実のずれがあるのだ。我々が他者を説得させる一般的理解促進とは実は真実の方なのだ。その意味ではヘーゲルに対して私が本論で取り上げた部分はヘーゲルの思想の真実をよく表している。
 ヘーゲルは民族意識というものを様々な共同体意識の中でも特殊なものと位置付けている節がある。(51ページ中305~306ページ分引用箇所)このことは今回の論文作成を機に初めて知った一つの収穫である。またへーゲルは明らかにフロイト的無意識の萌芽的発想を抱いていたとも知れる。(51ページ中310ページ分引用箇所)このことに対する認識を得たことも今回の収穫であった。それはヘーゲルの全てに関わることではないかも知れないが、その後の哲学史を備に見てゆくと真実味を帯びる。勿論そういった解釈学はほどほどにすべきなのかも知れない。とりわけ真実味という奴は、伝承や創造世界では許されるが、こと政治に関しては滅多にするべきではない。しかし政治にも大衆扇動という真実味加担主義もないことはない。しかしそれは危険な兆候である。
 ヴェーバーが言う「悪魔と手を結ぶ」とは即ち政治とは惰性的悪(現世主義的安定志向型の)を断ち切るために「悪を持って悪を征す」の意に他ならない。それは他者に自己内の幻想を説明する際に他者にとって理解しやすい形で表現することを選ぶことと本質的には同一の心的様相である。孔子の対弟子伝承促進戦略も、カントの格率論も、ヘーゲルの共同体解釈も、クリプキの可能世界意味論も、どこか甘ったるい良心を受け付けない、それに流されまいとする決然とした意志を感じさせる。それは正に責任倫理の世界である。ヴェーバーの言う現世主義に対する克服を現世主義流の悪を持って制す仕方もまたその責任倫理である。それは要するに主体的に先験的に付与された理想という一つの型(つまり予め与えられた結果)に自己とその志向性を当て嵌めるようとすることに他ならない。しかしこの一連の繋がりに対する認識論は更に今後意図という事態に対しての考察をもって持続すべきである。又機会を改めて意図について論じる必要がある。

*第三章、発語内行為=J・L・オースティン(日常言語学派、オックスフォード学派のイギリス人哲学者1911~1960)の提唱した概念「言語と行為」(坂本百大訳、大修館書店刊)に詳しいが、行為遂行文、つまり話者が話者の意図、意志を宣言する形の発話明示行為のこと。当然のことながら行為動詞を必ず含む。
*第四章、発語媒介行為=発語を通して聴者を未来においてある行為へと赴かしめる目的の発話行為、つまり行為誘導型の動詞必須文。やはり右のオースティンによる分類提唱。
*第八章、概念、つまり感情への認識という事態が先験的に存在していなければならない。=我々の内的な対象への感情が意味となるなら、そのこと自体への認識つまり一般的対対象感情が概念となろう。だから感情そのものへの認識こそが概念となる。
*第十章、我々が自由であると思っている大半=例えば我々に付与された休日、祝日といったものは全て強制的に付与されたものであり、従って余暇そのものも強制的なものである。
*注6、浅野裕一は次のように言っている。(「儒教ルサンチマンの宗教」276~277ページより)キリスト教や仏教、イスラム教といった世界宗教も、創始者が布教した当初から、正統性を獲得していたわけではない。出発当初においては、いずれの宗教も全くの異端と見なされ、無視・冷笑はもとより、激しい迫害や弾圧さえ蒙った。その後これらの宗教は、ある時期に政治権力と手を結んで、その庇護を受けたり、自ら政治権力を構築したりして、その世界における支配的地位、正統的権威を獲得したのである。」
 私はこのような紆余曲折こそが宗教を権威付ける長期記憶に相応しい事項として記憶されやすい要因であると見たわけである。

論文中引用した著者は全て敬称略した。

 付記 これで「責任論」は終了致します。次回からは「言語の責任とその進化」を掲載更新致します。暫く休暇を頂きます。(河口ミカル)

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