Sunday, November 1, 2009

〔責任論〕第十章 眼の進化から考える責任認識

 1944年にダニエル・ニルソンとスザンヌ・ペルガーが考案した眼の進化のコンピューター・シミュレーションというのがある。これは眼の進化のプロセスをシミュレートしたものである。ところで私はこのようなシミュレーションを見て考えていたことがある。果たして人間に眼が仮になくて、それは盲目という意味ではなく、そもそも眼がなくても尚現在のような心を持ちえたかということを考えたことがある。例えば眼が見えないである環境で生きてゆくためには触覚を利用するということが挙げられる。聴覚の利用もその一つであろう。しかし脳そのものには可塑性があるから、たとえその内の一つしかなくても尚、生きてゆくうえで支障のないように我々の脳はそういう条件なりに適応して不自由を感じないように生活するための手段を編み出してくれるだろう。しかし眼という存在が仮に視覚的に機能しないで、ただ通常の眼のように二箇所窪んでいたり、あるいは逆に出っ張っていたりしたらどのような効用というものがあるのだろうか?そのことについて考えてみよう。
 例えば眼のある箇所に一箇所だけ眼の代わりになる何かが突起しているか、窪んでいる場合のことを考えてみよう。それは鼻のちょうど真上にあるものと考えてみよう。
 まず窪んでいる場合、その箇所だけが空気抵抗という面から言えば、最後に空気圧に晒される。しかしそこに何もないわけだから、特に有利であるというわけでもないだろう。しかしもしその部分が突起となっていたなら、鼻がある上に更にそこに突起があるわけだから、その突起が鼻よりも更に高いとすれば、まずその突起が空気圧に晒されることになる。そしてその次に鼻に空気圧を受ける。しかしただ顔がのっぺりしているよりは空気に流れを受けることで立体的な外界の映像を想像しやすくなるという利点はあるかも知れない。しかしもし現在の我々のように眼が二箇所、それも鼻よりは少し低く突起状になっていたなら、立体的な触覚は更にスケールアップするだろう。つまり空気の流れを蝕知する器官として二つの突起があれば、真ん中に一個の突起があるよりも数段立体認識を自らの顔で得ることが出来る。 しかも移動する際に向こうからやってくる物体を蝕知するための感覚器官としてそれらを利用すれば、仮に視覚的現像を得ることが出来なくても尚、何もそこに突起がない状態よりは恐らく自己の身体にとって外部的な接近物に対する認識くらいなら容易に察知することが出来るかも知れない。
 私は物理学者でもなければ、生物学者でも、解剖学者でもない。しかしもし私たちが何の疑問もなく利用している視覚情報というものが遮断された時のことを想像すると更にそれでも尚自己身体へと接近する物体を蝕知するためには何らかの工夫をしなくてはならないだろう。そして私が今思考実験したように仮に顔の本来眼のある部分に二箇所突起があるのとないのとでは接近対象に対する認知過程には差が出てくるであろう。ということは用途的な意味では視覚ということは、外部接近物に対する認知という目的を有しているということなのだから、逆にそれさえ把握出来れば、必要最低限レヴェルから言えば、何も視覚的な現像までは必要ないということになる。そしてこう言うことも出来る。視覚の基本的な最低限の条件というものは触覚である、と。
 カンブリア紀の進化の実験場において眼の萌芽が認められるらしい。するともし仮に自然史の偶然によって眼が我々動物の祖先に具わらなかったとしてみよう。するとそれならそれなりに我々の祖先は眼によって視覚的情報を得ることのない別手段によって外部対象を認識する手段を進化させていたであろう。そして視覚情報を得ることで今現在我々が獲得している自己と他者との間での距離の取り方とは異なった遣り方で外部対象認識をしていたであろう。その時には脳内に具わるアフォーダンス注2と呼ばれるギブソンという心理学者が発見した能力を今現在の我々以上に研ぎ澄まし、それをフルに活用していたかも知れない。我々の祖先だけが眼を進化させずに、他の動物全てが眼を進化させるような偶然というものは殆どゼロに近いだろう。もしそうならまず我々の祖先が絶滅していたであろうし、そのようなアンバランスを一時的にでも自然選択が結果させるというようなことはまず考えられない。
 しかしもし我々に視覚知覚能力が与えられていないとすれば、我々が現在獲得している事物に対する弁別性、クオリアの大半が視覚イメージによるものであるが、その代理として聴覚イメージ、そして触覚イメージによるものに置換され、今までにはない微妙なそれらの感覚イメージが表現され、概念化されていたであろう。
 要するにそうなっていたらなっていたで、別段我々は困るということはなかったかも知れない。ただ我々が長い進化の過程で築き上げられてきた能力が損なわれることを我々自身が未知な感覚に置換されることに恐れをなしているだけのことであり、もし我々の「こうなっていたかも知れない」感覚を通常のものとしていたなら、今現在ある我々の感覚の方をこそ代理されているものとして認知し、そうならないで欲しい思っていたであろう。
 再び眼の代わりにただ突起した二箇所の皮膚には、それだけ敏感な神経が通っていたかも知れない。そうなったらそうなったで、その敏感な神経は視覚的知覚には供せられないにせよ、別種の触覚器官と化していたかも知れない。
 しかしいずれにせよ我々の外的な障害物認識、あるいは接近対象の認識が視覚によるものではなしに、そのような内触覚による認知過程であったとしても尚、例えば我々の今現在知覚が視覚に大きく依拠しているがために、映像的現像と内的理解とか要するに目には見えない世界との対比が一層印象付けられているのだが、そのような明確な差異、つまり外部世界に対する知覚、精神的思念との差異のようなものは感じられず、明確な差はないのではないか単純に想像されるが、そうではないかも知れない。つまり視覚を代理する別の触覚がそれ自体で明確であれば、それはそれで精神的思念とは全く別個の心的作用として認識される可能性も大きいからである。
 私たちの行為の責任は外的な視覚的認識に対する明証性によって成立している。あらゆる公的文章、あらゆる外的イヴェントの発生の目撃といった風に、その際の知覚の無名性、つまりそれを見る者誰しもが同一の現象として捉え得る筈だという前提に立っている。しかし実際ピカソがあのようなキュービスム以降の形象をカンヴァスに定着させたのは、彼の視覚が通常の状態ではなかったという説も近年出されたが、もしそのようにしか彼に見えなかった(彼が描いた絵のように)としたら、彼の抽象画の意味も、実は一つのリアリズムであったということになる。しかしそのような知覚現像を我々はただ単に病理的状態と認識する。「あの人の視覚能力は常軌を逸しているのだから。」と捉える。通常の視覚現像によって我々はそれを認知し得れば、字さえ読めれば、あるいはその場に居合わせさえすれば、それを認知し得ないことはない、ということが社会全体が我々に強制する暗黙の責任発祥の場となっている。
 マックス・ヴェーバーが「職業としての政治」で政治家は責任倫理と手を結ぶべきであり、心情倫理ではないとした時、彼は結果主義であるべき政治家にとって善悪の判断とは内的理解(心情としての善悪)とは別個のものとして考えている。そしてそれは同時に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でカルヴィニズムをルター派とは明確に峻別化し、前者を明確な報酬欲求を利用した厳格な結果主義として捉え、逆に後者をより心情的な純粋さを求めたしアメリカのメソジスト派はよりルター派の信条に近いとされる。さてこの厳格な結果主義は、ヴェーバーの謂いを借りれば、「市民的(信徒的なルター派とは違って<河口注>)・資本主義的な企業家の厳格、実直(知らないことを知らないと答え、出来ないことを出来ないと答えるような<河口注>)、行動的な心情に一層親和力を持っていたように思われる」のだ。
 つまり成果主義的な資本主義の倫理をプロテスタンティズムはキリスト教精神を巧みに利用して社会秩序を職業的倫理とかもっと簡単に言えばプロとしての誇りを持たせたのだ。だから彼等プロテスタントからすれば、「純粋の感情的敬虔派は(中略)「有閑階級」のための宗教的遊戯なのだ」として回避すべき信条であり、軽蔑すべきものであったのかも知れない。そしてそのような倫理からすれば、例えば貨幣経済以外の競争社会を想定することとか、要するに哲学的な夢想は全て切り捨ててゆくべき危険思想ということになる。今日のアメリカ社会にはそういう面がヨーロッパよりは強い、と思われる。そしてそういう考え方からすれば、明らかに進化論者や科学者の考える可能世界という様相論理(私が先述した眼のない我々の生活といったような)はやはり危険なものであり、それがあのダーウィンが危険視された創造説外のホモ・サピエンスの発生論的考察を封殺するようなモラルを生むのだ。勿論ヴェーバーはそのこと自体を肯定も否定もしない。しかしヴェーバーの言う心情倫理についてはここでは取り敢えず結論を保留するにしても、少なくとも可能世界に対する認識を持つことは実際の社会に即応した認識を常住させることと共存し得ると私は考えるのだ。それは私たちが通ってきた進化の道を探ることが、実は私たちが辿らなかった道を想定しながらしか本質が見え難い面があるということでもある。
 ところでヴェーバーの捉えたプロテスタンティズムの代理的努力を人間固有のものと捉えていいのだろうか?例えばアザラシの大人は海底に潜って餌を捕獲するが、子供と共に潜る時間も多く持つ。これは子供の成長を見守るという社会行動であると考えられている。それは目的と手段において、同一の手段で異なった目的を有すということだから、何かしら代理という観念があるとも考えられる。そうすると人間の宗教信仰心を職業的努力に代理するような社会管理面でのモラルもまた、それほど人間固有のものでもない、ということになりはしまいか?それは確かに一面では人間の動物的扱いである。しかし動物の場合何かに縛っても、それを守らない個体というものは当然考えられるが、何かに代理して行うことで億劫さを払拭するというような智慧に対してそれを跳ね除けるという意識があるかどうか、そこのところは疑問である。人間には反社会的行動へと導かれるのは、どこか反体制という意識が付き纏う。つまり管理社会と権力に対してある種のアレルギーを抱く。だが同時に自己による固い決心においてはかなりな困難も厭わないという部分もある。そのような意識、つまり強制されることと自主的なこととの境界が動物にあるのかどうかは動物にも自由意志(この言葉はどちらかと言うと私は嫌いだ。誤解を生む恐れを常に抱いている観念だ。)を認めることになる。動物が自由意志ということになると利己的行動の占める割合が大きいのではないだろうか?尤もイルカのような知的な動物には人間に近い強制と自主の相違があるのかも知れないが。
 ところで強制と自主の相違を理解出来るということは、先述の「現実世界の進化の様相」と、<そうではなかった場合>の「可能世界の進化の様相」という思念を理解出来ることに繋がらないだろうか?強制されることというのはある意味では責任を伴わない。しかし自主的なことというのは責任が加重される。そしてそれを承知で履行することが自主的であることである。そしてそこに真の自由を発見するのが人間である。さて現実を直視する知覚と観察と立証には説明責任としては科学的データ主義なので、明らかにその正確さにおいて責任は問われるが、差し出されたデータ数値そのものは現実の側に責任(?)がある。しかし可能世界は実際にはそういう世界は顕現され得なかったのだから、その現像を描出することにはその可能世界(先ほどの例で言えば私が人類に眼がなかったらと仮定したような)を仮定した私の仮説並びに「ありそうなこと」の真実味の持つ私の説得力は私に責任がある。可能世界を堤示した私の比喩が適切ではないという批判が差し出される可能性も十分にある。つまり自主的であることを強制的であることと峻別し得る能力とは想像した可能世界を他者に説得することの出来る能力、つまり真実味を持たせる能力に繋がることになる。
 するとアザラシの海底潜りはたとえ子供の成長を見守ることであれ、自主的であるよりは本能的な行為であることになる。あるいは人間もまた子供を愛することは自主的なこととは違い、やはり本能的なことなのだろう。しかし強制されて嫌だと感じることと、自主的であることなら(それは結婚とか就職とかに関してさえ)価値があると感じることは、たとえ子供を持った時には他の動物同様の本能を発現させていてさえ、生の時間の在り方そのものは質的にかなり違うものとなるのだろう。
 そもそも動物は本能的なことを強制とは感じないだろう。強制的であるという認識は一方で自主的かつ自由なという観念を必要とするからである。例えば仮に先述の眼のない人間の、眼の代理としての二つの突起物と人間の付き合いを考えてみると、突起物にはそれ以外の鼻を除けば神経線維が集中してくるから光に対する、つまり光が発する熱に対する感受性が鋭くなるだろう。しかしそれは眼を持つ我々が視覚情報に頼るという事実そのものと同様自主的な事実ではない。しかしそれは強制でもない。強制というのは眼で確認したいのに、眼を瞑らされることである。勿論自主的な強制というものもあるし、強制的な自由というものもあるだろう。我々が自分で自由であると勝手に思っている大半が強制的な自由である場合も多いからだし、また真に自由であるということは欲求に赴くだけではないカント的な自主的な強制であるかも知れないからだ。しかし少なくとも自主的であろうとする価値倫理と、強制的であると感じるある種の諦念は人間固有のものかも知れない。
 人間はカントが感じたような意味で本能的な衝動を強制であると考えることが可能なのだ。他率(律)と彼が呼ぶもののことである。だから人間は仮に自分の子供が犯罪をしたとして、それを知って警察に捕まることを防ぎ、子供の罪を発覚しないように画策して尚、それは倫理的にもよくないことであり、子供に罪を償わせることが正しいと判断したとしたら、それは本能的な子供に対する外部強制力を排除する大人の本能とは別個の判断を、つまり本能に拮抗するような意志決定をなしているということになる。そういうことが果たして動物に可能だろうか?
 そして本能に拮抗し得る行動に対する価値規範こそ責任を起源にするものである。本能の赴くままに行動することはそれがたとえ攻撃欲求ではなしに、愛情に溢れ家族や仲間を守ることにおいて発揮されていてさえ責任とは無縁である。自己にとって大切なものでも、その事実が他者の迷惑になるのならそれを諦めること(それが子供に対する愛情であってさえも)が責任の基本的な性格だからである。
 資本主義倫理においては貨幣経済外の競争社会という仮説は夢想でしかないのだろう。だからそれは眼がもしなかったならという観念を抱くことをも一面では危険思想の部類にするかも知れない。しかしアンチノミーというような思念もまた哲学や論理学では有効な手段の一つであるが、科学的思考においては資本主義倫理外の効率性というものに対する認識もまた全く無意味ではない。もしそれら一切が許されないとしたら、我々は経済活動に奉仕する仕事以外の一切を放棄するしかなくなるし、地球の百万年後というような推測も無意味ということになるだろうからである。

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