Sunday, November 15, 2009

〔責任論〕 結論 責任能力と抑制性②

 孔子の考えを弟子たちが纏めた「論語」以外に「大学」、「孟子」、「中庸」が四大書として知られているが、「中庸」(「礼記」<周から漢にかけて儒学者が纏めた礼に関するテクストで、載聖が編纂したとされ、49篇。>の一篇である文章であるとされる。子思作とされる。)では孔子が政治的野望の挫折者であるにもかかわらず、弟子によって孔子こそが真に王に相応しい人物であったと説くのだ。浅野裕一氏は「儒教ルサンチマンの宗教」(平凡社新書)で「(前略)編述者は、無冠の王者としての孔子の統治形態を説明する。君子は号令や賞罰といった外面的統治手段に頼らず、己の内面的徳が自ずと外界に発露・顕現して「動かずして敬せられ、言わずして信ぜられる」無為・無言の統治形態を取る。(中略)孔子が実質的には無冠の帝王として君臨していたことを黙示しようとしたのである。(中略)子思学派は『中庸』の全篇を費して、孔子は沈黙の徳治により天下に君臨する王者であったと主張した。」と記している。
「天を怨まず、人を尤めず、下学して上達す。我を知る者は其れ天か」(憲門篇)、「子曰く、予は言うこと無からんと欲す。(中略)子曰く、天何をか言わんや。四時行り、百物生ず。天何をか言わんや」(陽貨篇)
もし誰も彼を目にとめなくても尚、真理は彼に味方して、天は彼を称賛するであろうという意味では、どこかソクラテス、ガリレイといった西欧の先達を想起させずにはおかない。そして重要なこととは、そのように孔子が彼固有の挫折感と無念を後世に怨念として伝えさせたその人間的な弟子に対するカリスマ性であり、そのようなプライドが後世韓国人の中に自尊心(チャジョンシム)という形で継承され、日本武士に対して「武士は食わねど高楊枝」と言った気風を生じさせ貝原益軒の「養生訓」における中庸な摂取といった考えにも歴然と結びついているということである。その事実と対極のように思われる19世紀パリの退廃文化はベンヤミンをして次のように言わせしめる。
「さまざまな様式の仮装行列が十九世紀全体を貫いているということは、支配関係が見えにくくなっていることの一つの帰結である。ブルジョアの権力者たちは、(金利生活者である)彼らが暮らしているその場では、多くの場合もはや、直接的かつ無媒介な形態では権力を所有してはいない。彼らの住居の様式は、彼らの偽りの直接性なのである。空間における経済的アリバイ。時間における室内的アリバイ。」〔13,4〕
 ベンヤミンは彼の知識欲、文化的香りをゲーテから、真摯さをカントから、そしてアイロニーとブラック・ユーモアをニーチェから引き継いでいる。つまり孔子の時代には、中国ばかりではなく、全ての国家において優劣ははっきりしていた。外面的に既に勝者と敗者の差が歴然としていた。しかしそれが産業革命期以降は極端な敗者であるホームレス等は例外として、一見敗者ではない風の大勢の市民は、実は見えない権力に支配されている(今日の社会で言えば、マスコミ、マスメディアに多くの国民が支配されているように)状況下で、全ての支配は間接的となっているということだ。そしてそのことは当然のことながら、責任の所在を見えにくくしている。その事実が同一状況における共辞(共時)的な相関性で語られ得るのなら、孔子と弟子たち、そして末裔の思想継承者たちの関係は、間接的な伝承性という通辞(通時)的なエネルギーとして顕現されている、ということだ。
 ベンヤミンが訴えた市民生活は、ある意味ではラングからの支配である。しかし中国四千年の歴史において彼らの育んだ論理=倫理は共時的モードを無効にするような霊力を備えてもいる。それは今日のような資本主義経済導入に至っても変わるところはない。
 ただ宗教文化というものは、それが発生してから隆盛を極めた時代や後世に齎した影響力と、その影響力を勝ち取るまでの間の宗教布教者たちの間であった歴史的事実とは明らかに全く関係のないものとして捉えなくてはならない。例えば宗教信者はどのような歴史的な汚点等の同一の宗教史においてあった事実も美化するような傾向はあるし、またその宗教信者が唱えるその宗教文化の素晴らしさは的を得ていることは確かだし、要するにその二つの事柄ははっきりと峻別する必要があるのである。
 宗教信者や信奉者による布教にはしかし同時に他の宗教は相容れないという面もある。だからどの宗教にも属していない者がどの宗教に対しても、公平な目で見れるということはあるが、そういうケースというのは日本ではあり得ても、別の国ではあり得ない場合の方が多い。ただ一つ言えることは宗教にはどのような宗派であろうとも、共通して言えることというのは、宗教においてはその信条に対する解釈においては個人主義は成り立たないということである。総じて宗教的心理というものは集団依拠的であるし、神対個の契約も、それを信じる者同士の連帯を旨としていることが多い。そしてその宗教的な連帯という意識は、官僚同士の連帯やピア・プレッシャーといったものとも共通点が多い。それは一言で言い表せば、責任転嫁を容易にするシステムであると言える。連帯責任という事態は、そうすることで特定の個人に対して独裁を未然に防止する意図と、特定の個人に対して責任を負わせることを相互に防止し、互助的な人間関係を構築することを容易にするのである。
 だから孔子の場合は、彼がかつて隆盛を極めた一族の出であり、そのこととは関係なく、官僚として登用されることで、政治的リーダーになる野望に打ち破れて、その失墜を後世へと弟子たちが綿々とその思想的、理念的(政権転覆的な破壊によってではなく徳として治める考え)理想の正当性を主張することを旨とした。そしてその過程においては極めて詐称的な行為も横行していたことも報告されている。しかし徳を説くという事態そのものは、不徳な行為が罷り通っていたからであり、その布教が長く続くという事態もまた、そういった不徳の横行の隠滅がなかなかなされ得なかったということを意味する。その意味では彼らの責任倫理はあくまで布教することでせめて自分たちだけでも理想を念頭に行動しようという意識に裏打ちされている。その意味では宗教のみならず、近代以降のダーウィンやその他の科学者や哲学者、思想家の考えを布教しようとする全ての学究の徒、あるいは思想活動家と全く共通する。しかしここで西欧哲学に堪能な者に想起されることはカントの存在である。彼は善意志というものを提唱したが、それはライルの哲学にも直結することであるが、行動と心的内容とは明らかに異なるという考えを機軸として展開された哲学上の形而上学の弱点とは、要するにどんなにその二つが分離していても、その分離はほんの些細なことでしかなく、本来心的内容というものは行動に反映されるものだし、また行動というものは心的内容にも影響を与えるということをややもすると見過ごしがちであったということに尽きる。だからカントが善意志をことほどさように主張したということには西欧哲学史上に、そのような考えを自然なものとすることを阻む学問の傾向的な性質が根強くあったということを意味する。その点では時代が変遷しても脈々と受け継がれた「論語」や「中庸」、「孟子」といった存在の儒教的精神とは、時代状況の打破と哲学者個人の主張を越えたもっと根深い民族的なルサンチマンが控えていると考えてもよいだろう。浅野裕一氏が「儒教ルサンチマンの宗教」を世に問うたこともそこに起因する。注4
 だから宗教的な責任転嫁とは、連帯的意識の持続をモットーとするから、カント派がカントを変形し、カントを否定する哲学者の多くがカントに負っているという事態ともいささか異なる面がある。勿論儒教それ自体も幾多の変遷を経てきてもいるのだろうが、どこかで元祖教祖を踏みにじることだけは決してない、どのような策謀がなされようが、原点回帰だけはなすという考えが彼らには通底している。だから彼らの責任転嫁は、その考えに共鳴し得ない者に対する軽蔑心によって保たれていると考えても間違いではないだろう。
 それ以外の一切の信条を認めることが出来ないという一点である宗教的信条を信奉するという心的様相である信者にとって責任とはその一点を守り抜くということ以外にはない。
 哲学ならもっと自由に尊崇者に対して批判を加えられるだろう。そもそも哲学は集団で行う行為ではない。科学界ではそういう意味では法則的なディタッチメントにおいて有用であるものだけを採用しようとするから、そもそも法則そのものの真理はそれ自体で無名性のものである。だから個人に対する崇拝という事態そのものが科学の世界では客観的真理の前では無効である。だから哲学はその二つの境界に位置しているとも言える。何故なら哲学の場合は、その哲学者の考えとその考えを述べた哲学者の人生や生活的信条を切り離しては考えられないような主観的な接し方を別段禁じているわけではないからである。
 科学の責任とは客観的合理性と実(応)用理解促進性である。それは責任の全人類的な共有の意識によって成立している。ここで定義しておこう。

宗教的責任→同一信条の布教と布教者間の連帯
科学的責任→客観合理性と実(応)用理解促進
哲学的責任→客観と個人毎の主観を許す自由性

 アメリカ人にとっての9.11であるとか、日本人にとっての終戦体験とか、原爆体験(その当事者は勿論のこと、そのことをルサンチマンとして記憶している全ての国民にとっての)といったことは他のどの国に人々にも共通して存在する。そしてそれらは長期記憶に厳然と残る不可抗力のようなもので、自発的な関心事ではない。悲惨な事故や辛い親族との別れといった出来事は長期記憶に巣食うこととなるが、それ以外にも自己内の関心事においては長期記憶に残るものもあり、それは個人毎に異なるだろう。勿論こういった個人毎に異なる関心事も、実際自発的であるとも言い切れない部分はあるのだが、取り敢えず関心を持つことを主体的に行うという意味ではそうである。そういう意味では前記の宗教的責任、科学的責任、哲学的責任とは相互に交換可能ではないが、幾つかを同時に一人の個人が抱くということは稀ではないだろう。
 孔子に話を戻すと、中国では絶対王政という絶対君主制が長く続き、清王朝が滅ぶまで思想とは政治的思想のことを指していたと言っても過言ではないだろう。その意味では仏陀の仏教とはいささか宗教思想においてさえ事情が異なる。また西欧哲学とも勿論事情が異なる。尤も西欧思想にも政治的な思想も古くからあった。だが少なくともそういう社会学的哲学以外にも、論理学、天文学、数学、倫理学、形而上学といったものが同時に極めて盛んだったという意味では、思想それ自体も政治志向的一辺倒ではない歴史がそこにある。しかし中国思想には、直接政治的な発言へと直結し得る思想の在り方に、独自の民族性を私たち日本人には感じさせる。
 日本人は職業倫理以前に自然人的な善良さを尊ぶところがある。しかし中国人は商売上の鉄則としては一切私情を挟まないし、政治は協調ではない。そういう意味では日本人は責任以前に善があり(価値規範として)、中国人は善以前に責任があると言っても過言ではない。しかし本来責任とは私情的な判断のものではない。法治国家というものが、法体系の価値規範と法秩序と、その施行によって成立している以上、適用されるものに不平等があってはならず、それはどの国の人々にも共通した倫理だろう。しかしそのことと、心理的な優先順位というものは異なる。
 孔子の弟子たちがおよそ百年後の孟子に至るまで孔子の王朝を捏造して普及しようとしたりして、野心が挫折したことへの積年の恨みが弟子たちをして更に正当化に拍車をかけている。彼らにとって心理的優先順位という観点から言えば、自ら抱く信条こそが正当であるという主張は、別に違う考え方の人がいてもそれはそれでよい、干渉すべきではない、という日本人的な観念とは真っ向から対立する。その点ディベート自体を結論へと導くアメリカではたとえその考え方とは個人の内面では齟齬をきたしていても尚、役割分担において、左派の考え方でディベートするのなら、その責務を全うすべしという観念が定着している。しかし結論が出て一先ずその役割を終え、自分の立場が変われば、また別の行動を取ることは一生の内にいい条件を求めて国中を放浪するような生活形態が珍しくはないアメリカ人が最も中国人と対極な部分である。
 住居を定め終の棲家とするという決意には、社会的地位誇示ともまた異なった考え方がある。ベンヤミンは都市文明に着目した思想家であるが、都市文明そのものが人間の欲望を反映した生き物であり、人間の深層心理を洞察するのにもってこいの対象物だったからである。住居そのものには、社会的地位に左右されない自由を確保するという意識も人間にはある。しかし同時に地方自治体に税金を納め、生活を確保するという意味では住居を定めることは責任行為の一環として位置付けられるであろう。そしてよりよい自分を取り巻く社会環境に対する考えがあれば、それは政治的発言にならざるを得ない。だが税金を納め、市民としての権利を要求することは一面では「それさえやっていれば後は何をしても自由である。」ということの表明であり、それは全ての責任を負うことを免除されることと引き換えになさねばならない義務である。そのことについては第一章で既に述べた。
 マックス・I・ディモントはその著書「ユダヤ人」の中でユダヤ教とは、戒律さえ守っていれば、後は何をしてもよい、という意味もあると述べているが、そういう部分ではキリスト教ともまた異なった考えがある。事実キリスト教では反ユダヤ主義的考えも多分にある。つまり同一宗教内で、親ユダヤと反ユダヤが共存しているわけだ。だが、そういう対立軸も例えば私のように外側にいる人間から見れば理解し難い。一枚岩でことにあたればもっと巧くゆくとそう考えてしまうのは部外者のおめでたさかも知れない。つまり内部に入らなければ分からないこととは、外部に対しては繕うという傾向が誰しもある。それが責任という事態の発生する場所である。関係者以外立ち入り禁止という立て看板、表示の全ては同一利害保持者の他者一般に対する権利要求である。そしてその権利は説明責任という形で私たちが、他者に対してしていることの見返りとして受け取る報酬である。
 孔子は百八十八センチくらいの長身であったという。その雄姿に弟子たちが惹き付けられたという面もあっただろう。しかしそれだけの人望と器があっても、彼の政治的野望は遂げられなかった。だが孔子自身に全くそういった事態が想定不能だったとも私には思えない。何故ならそれだけ強く為政を望んだのなら、却って大勢の弟子たちを抱えているという現実そのものを見直す必要があったのではないかと想像されるからだ。しかし存外彼はもし自分の野望が遂げられない時のための保険として弟子に日頃の考えを伝えて自分の死後伝承させるという目論見もあったであろう。そしてその野望の遂げられなさそれ自体が遺恨として残るものであればあるほど彼の中では自己のアンチ的なカリスマ性は高められる。あるいはもし自分の野望を遂げられるのであれば、それが一番いいことは分かりきっているのだが、そうではない可能性の中にこそ彼の宗教倫理思想の伝承され得る可能性を見ていたからこそ、弟子を大勢取ることを厭わなかったということはあくまで私の考えである。

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