Tuesday, November 3, 2009

〔責任論〕第十一章 理解に纏わる困難さ

 理解することにおける困難さ、つまり難しい事柄というものの幾つかのカテゴリーについて考えてみたい。私たちが難しいものと言われて想像することには幾つかのパターンがあるように思われる。本章では暫く責任と離れてそのことについてだけ考えてみよう。
 一つは化学などに纏わる物質の固有名詞が覚えにくいというものである。あるいは元素記号や分子式の持つ他と弁別を巡る困難さである。それは音楽での各種コード(和音)暗記といったものにも共通する要素理解である。固有名詞の覚えにくさは語学での単語の覚え難さと共通している。そして元素記号と分子式の難しさは綴りを暗記する難しさに共通している。これはピアノ等で音階を駆け巡るメロディーの細かい音符配列を覚えることの難しさに共通している。固有名詞の覚え難さとは数学での法則の暗記の難しさに共通しているし、要素理解の難しさは数学での代数での一定の規則を覚える難しさに共通している。あるいはそれが複雑化してゆくと文法的な解釈の難しさに共通している。
 例えば短期記憶レヴェルではなく長期記憶レヴェルへとある記憶を固定化される時、脳内の特定の物質の受容体をオンにして活性化するか、オフにしてブロックするかというような場合、そこに登場する物質の固有名詞とか性質を理解することは困難であるが、脳内の作用そのものに関してはメカニズムは比較的理解しやすい。勿論専門的に理解するという意味ではなく大まかな意味を理解するという意味でである。このような理解内容の大まかな図式理解と、その個々の物質の作用の理解の複雑さとはまた別個の問題である。理解しやすさは大まかな作用全体の図式と、個々の性質ということで言えば、大まかな図式は理解しやすいということが言えるだろう。
 それは音楽の楽曲も大まかな構造は比較的理解しやすいよう作られているものである。名品と言われるものほどそうである。それは絵画にしても同様である。名画と呼ばれるものほど構図とか主張とかは単純なものである場合が多い。しかしそれらのものでも個々の技術であるとか、手法的な習得といったレヴェルではそう容易いことではなく、ある長い経験を要することが多い。
 物理学の難しさとは恐らくメカニズムの大まかな法則と、細かな法則との関連性にあるのだろう。数学は発想転換にある種の難しさがあるのだろうと思う。尤もこれらは私の専門分野とあまりにもかけ離れているので、専門家のご意見を伺いたい。
 つまり固有名詞のように一旦覚えたらそれほど反復の難しくはないものと、単純な論理は理解出来るが、その組み合わせにはある複雑さを伴い、そのメカニズムを理解すること自体にはいつまでたっても難しいことというのはあるのだ。このように理解することにおける困難さは暗記することの困難なものほど一旦覚えたら生涯忘れないものがある一方、そういう個々のことは覚えやすいのにその複雑な組み合わせにはいつまでたっても梃子摺るものもある、というのが真相ではないだろうか?
 理解するということはその困難に思われた内容が、ある現象であるなら、その現象自体に内在するメカニズムを把握することである。しかし現象というものはさまざまであり、一律に全てを同一のメカニズムによって理解することは不可能である。それは数々の事例に遭遇することによって理解される。そしてある程度の経験が蓄積された段階で、数々の事例に対処するあるこつを理解する。このこつこそ自己流ではあるが紛れもなく論理的思考である。
 人間はあらゆる想定され得る可能性を考慮に入れることによって知性と論理を獲得してきた。例えば戦争自体は悪である。しかし戦争をすることが出来るだけの技術が飛行機とかあらゆる交通機関とか宇宙計画(かつてアメリカではレーガノミクスの一環としてスターウォーズ計画というものがあったことを思い出して欲しい。)といった人類の未来を切り開く偉業も生まれるのだ。例えば工場の生産ラインのような場面ではロジスティックスと言われる分野が有効活用されているが、それは兵站学という要するに軍事部門のノウハウを出発点にしている。かつて西田幾多郎は偉大な仕事は強烈なる主観に裏打ちされている、というようなことを言った。それは偉大な仕事をする能力の持ち主は偉大な善と同時に偉大な悪をもなすことが出来るということを意味する。そのことに習えば、天才的な犯罪プランを立てる能力は偉大な善行をもなす可能性を秘めているということだ。
 例えば背徳的なこと、インモラルなことを誰しも想像することは出来る。しかしそれを実行に移すことはよくない。だから我々はそれをいけないことである、と考え行動に移すことを抑制している。しかしそういう抑制には多少のストレスも付き纏うから、時々息抜きにアクション映画を見たりする。しかし動物は恐らく自分の家族とか以外の個体に対して自己防衛以外では他人を騙すということを考えたり、あるいは自分の家族をも裏切るということは考えることがそもそも不可能なのではないか?勿論イルカとか特定の高等知性動物には人間のような想像力を想定することが不可能ではないが、大概の動物では全ての行為可能性について想定することなど不可能であろう。つまりいけないことをいけないこととして自主的に抑制するという能力を持つ人間と、予めそういう選択肢を設定されていない、つまり自主的ではなくそういう背徳を考える能力を付与されていない動物とでは善をなすことの意味が違う。動物はそれを善と認識してなすわけではない。またいけないことをしないでいるのも、それがいけないと考えてそうしているわけではない。しかし人間は善であると考えて行動し得るし、いけないことをいけないことと考えてなさないでいることが出来る。だから逆に理解し難いことで、それが尚且つ理解するに値することである場合と、そうではなくこれ以上それを理解しようと努めること自体を放棄すべきことの判断をその都度つけているのが人間である。だから理解に纏わる困難さの前には二種類の反応を我々は大概抱く。一つはそれでも尚理解しようと努めること(尤も理解してよかった、と思う場合と理解する必要がなかった、と思う両方の結果が待ち受けているが。)、そしてもう一つは理解するに足りない、あるいは理解する必要もないし、理解したくはないということ(背徳的なこと)である。理解に纏わる困難さには理解する行為自体の価値評定が常に付き纏うのだ。
 しかし人間はそのような理解すべきことという認定をそう簡単に手中にしたわけではなさそうだ。少なくとも人類学的な見地に立てば。つまり同一種内での殺害行為の常習があったということもまた考えられている。そうであれば尚更我々は言語獲得の起源を理性的な見地、つまり良心の発動に見ることは根拠を増してくるのではないだろうか?理解する意味のありそうなものとそうではないものを峻別する知性としての理性が、少なくとも言語活動をする人間のその後の進化に単なる知性以上に貢献したのだ。そう考えることは実に自然である。

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