Monday, November 16, 2009

〔責任論〕 結論 責任能力と抑制性③

 結局孔子は野望の道半ばにして七十四でこの世を去る。そして彼の責任の取り方とは、彼の弟子たちに彼の遺恨を何らかの形で伝えることを弟子たちから率先して実行に移すことをしやすくするような日頃の言動を弟子たちに取り続けることだったのかも知れない。
 脳科学者のマッガウは長期記憶に残ることというのは情動を刺激するものであると述べている。しかも茂木健一郎氏によると、共感回路というものが人間には発達していて(それは通常男性よりも女性により発達している。注4)、本当なら優れているのだからもっと然るべき評価を得ていい筈なのに評価さえ得ない者、最上の評価を得て然るべきであるのにそれが実現されていない者に対する共感はより長期記憶の意味内容のリストに残りやすいだろう。今日の何人かのテロリストの首領には幾分そういう意図さえ私には感じられる。それは結果的には儒教以外の全ての宗教に言えることである。ただ通常宗教の開祖は責任からではなく、あくまで良心から教えを普及するという意識があったのだろう。だがその教えを得る者を外部から見れば、その開祖の持つカリスマ性とは、共感回路への刺激であると受け止められる。だが孔子の場合その点開祖である立場をフルに活かした人生のように文献からは私には感じられ、またそのような人間臭さこそが、彼の思想が社会における人間関係の実際的な場面での教訓として後の多くの官僚たちにもバイブル視されたことの根拠のような気がするのである。
 公的文章というものは往々にして理解し難いとされる。それは連帯責任が徹底化されている役所では必然的なものである。そもそも公的文章というものは長期記憶に残るような文学作品とは異なっている。それを作成したセクションがトップダウン的な命令からの対応として責務上こなしているということが了解されることがそれらの文章に対して望ましいのである。しかしそれは公的文章を保管する立場の成員にとっての在り方にしか過ぎない。組織というものは恐らく人類の曙からずっと、特定の個性を全体としては認めない、つまり特定の利害に対しては抑制的な役割を担ってきている。そしてそのことに対する成員全体の同意が前提されている。良心の発動はだから集団内、組織内の歯車から一歩後退した視点からしか採用され得ない。もし上司に怒鳴られている部下がいても、その上司の前でその部下の同僚がその部下に助言したり、慰めたりすることは通常控えられるであろう。そういう時はそれとなくその場以外の二人だけになれる機会を伺って密かになされることが通常である。それは社会自体が責任と良心を識別して判断するものだ、という社会成員全体の了解があるからである。ということは裏を返せば、人間社会には前に少し触れたが、仕事を離れれば責務感情からは開放されてプライヴァシーは保証されているということでもある。例えば私秘的なこと、つまり表立って個人に対して言及したり、問い詰めたりすることを公ではタブーとされることというのは、民族毎にその内容は違うだろうが存在するだろう。キリスト教圏の国々では宗派的なことに対する言及は恐らくタブーであろう。信教の自由というものが保証されているどのような国々でも、プライヴェートなことは言及してはならないとされているだろう。しかし仕事上での利害ではそういう私的なことを一旦全て忘れて業務に専心しなくてはならない。だから業務内容にかかわる命令はどんなことでも上司は部下に対して許容されているが、一歩プライヴェイトなことになれば、どのような提言もたとえ会社の経営責任者たりとも慎まなくてはならないというモラルがある。
 ベンヤミンが「パサージュ論」で示したモードとは彼の考えでは恐らく通常個性を発揮するべき部分なのだが、その実都市ではそれぞれの成員が自主規制することによって結局個性とは無縁の、ある階層なら階層なりに、特定の傾向性を有するという現実を反映させていると捉えることも出来る。だから住居を選ぶという行為には、社会的地位に応じた報酬という面と、終の棲家を求めたいという潜在的な欲求がどこかで巧く結びついている。そしてそれはそうすることで社会全体に奉仕するというスタンスを示しつつ、一方では社会活動とは無縁の個的生活を維持することが、権利上保証されていることをも示し、社会全体に感謝の念を表明することを意味している。それは少なくともテロリズム犯罪者として追われる生活をすることではない真っ当な生活の維持の宣言でもあるのだ。
 「中庸」では「誠」が最も重要な概念として記述されている。これは意思疎通の誠実性にも通じる。繰り返しになるが、人間には本来自己本位な利害を追求する面がある。だからこそ「誠」は意味を持つということである。中国人には面子とか体面というものを重んじるところがある。これは日本でもある種のタイプの人々にだけではなく、一般的な国民にも日常的場面で見られることである。しかしビジネスシーンではそういう部分を包み隠そうと成員全員が心掛けている。それは民族的な羞恥感情とも無縁ではないのだろう。つまり私たちは誰しも、民族的なルサンチマンに触れられたくはないという欲求をごく自然に無意識の内に抱えている。ということは面子を意識しなくてもいいように計らうというところに責任というものが集団では求められているのかも知れない。つまり他者攻撃欲求それ自体を発動しなくても済むように常に考え行動することが原羞恥的感情を発動させないようにすることに繋がるというわけだ。もしそのような箇所に触れられれば、宗教差別と同様のルサンチマンを持つことになるだろう。
 民族と宗教のルサンチマンとは民族が経験してきた長期記憶に他ならない。例えばどの動物を食すことが不浄で、どの動物を食すことはそうではないかという判断そのものにおいてさえ民族的な差異が歴然としている。それは家族所帯の在り方から住居形態に至るまで民族、国家毎に異なっているのだ。つまりある特定の文化形態が、食習慣そのものを規定して、尤も食習慣というものは外的な要因、その民族が居住することになった環境に最初は左右されていた部分が大きかっただろうが、ともあれその食習慣に応じた居住空間が建築にも影響を与える。そしてそういった各個別の住居が全体として寄り集まったものが社会である以上、我々にはどの成員にも共通した居住、食文化に伴ったモラルが発生するのだ。だから責任という事態には、先験的に人類が言語獲得することとなった根拠と共に、それとは異なり後発的な文化形態そのものが強制的に我々に要求する共同体毎に固有のモラルとして発生するものとが一個の人格の中で共存しているということでもあるのだ。
 しかし良心にはどこか言語獲得起源的なそれと、個的なそれとでそれほどの相違がないということは言えるかも知れない。つまり良心は社会的な規制から発するものではないために、同一の判断を合理化する時に、その内的な根拠を分析した場合、異なった理由が複合化されているという事態は責任に比べれば少ないであろう。例えば一個の成員は国民、市民、職業人といったさまざまな肩書きによって位置付けられる。それは社会内存在としての成員に対する評定基準である。しかし良心とはそもそも個人の社会内的責務からではなく、寧ろ社会内の社会外的な権利の領域から発せられるので、責任に付帯する分裂的傾向、つまり多層的な面とは自ずと異なった面があると思われるからである。
 つまり責任の持つ分裂性と、良心の持つ非建前的な性質とが常にどちらを優先させ、どちらを発動させるかという判断が、その人間の行動を誘発し、同時にその人間の言動となり、またその積み重ねそのものはその人間の内部においても、他者からの評定においても人格(あるいはその発動という意味では個性)となって立ち現れるのだ。
 
 アンセルメとマジストレッティーは、フロイトの概念である快感原則を慣性原則として、それと恒常原則を現代神経科学の法則と合致するものとして現代的視座において適用している。慣性原則は興奮性(痛みにおける神経伝達物質で言えばグルタミン酸を活性化させるし、情動的記憶促進においてはアドレナリンを活性化させる)を喚起させるべく常に興奮システムを温存させておく恒常原則を抑制して、興奮性を鎮める役割として考えられている。ある意味では惰性的、鈍磨的な慣性原則のお陰で我々は全ての外界の刺激に対して抵抗力を維持し得るが、同時に恒常原則があるからこそ非常の場合に備えることが出来るのである。精神的な緊急状態においては我々は不快感を発動させられ、それを和らげるのは欲動の軽減である。つまり「ホメオスタシスの混乱が不快状態の原因となり、不快状態は欲動の軽減によって解消される」(「脳と無意識ニューロンと可塑性」135ページより)わけだから、「不快状態中和にいたるこの軽減は、じっさいに快感に到達する一つのメカニズムと見ることができる」(同書、同ページより)わけである。要するに人間は不快感を得ることを知らなければ快感を得ることも出来ないということである。これは醜悪なものを知らない人間に真に美しいものを知ることが出来ないということと原理的には相同である。
 例えばある嫌な性格な奴だと思う人間と相対している時に、ふと見せる彼の人間的な言動は日々常にいい性格な奴だと思う人間と相対している時よりも印象度は濃い。それはある人間に対して構えを抱く(それはただ単に偏見に基づく場合も多いのだが)ことそれ自体を、解除させてくれる言動を示されることがよりその人間の性格に関するデータ記憶として長期記憶に残りやすいということである。あるいは見知らぬ他者に対して構えを抱き、真意の表出を差し控えている時に、相手が予想に反して真意を表出させてきた場合に、我々はそれまでその他者に対して抱いていた懐疑的な態度、訝しさを一挙に解除する気持ちになれることもある。記憶の仕方そのもの、あるいは長期記憶内容の選択そのものがその人間の人格であり個性であるなら、良心の発動のさせ方と責任の取り方もまたその人間の人格であり個性であると言った。その責任と良心の相関性に絞って残りの紙面を論じてみたいと思う。その手始めに幾つかの先述例を取っ掛かりとしてみよう。

 慣性原則も恒常原則も、ホメオスタシスの機能と存在が重要な役割を果たしているらしいということははっきりしている。さて良心は興奮性に対する抑制性であるとも言えるが、そもそも興奮鎮静化のシステムとしてだけではなく、興奮を発動する以前に発動させる必要を感じない良心というものは、他者に対して信頼を寄せていることである。例えばそういう他者から期待を裏切られた場合、その他者にはある程度きつく要求する権利があると思うだろう。例えばC集団首領がB集団首領を信じて追随したばかりにB首領が悪どい仕方でC首領を裏切った場合、進言したC首領の部下はC首領を更迭する要求をするだろう。
 上司が部下を他の部下のいないところで訓戒をしたり、叱責することはある意味では他の成員に対する配慮という意味では順当な判断であると言えるだろう。それは職務上における、あるいは職務規定上における良心の採用である。しかし特定の部下に対して訓戒することが、他の部下全員に対する影響力を持ち得ると思われる場合(その部下が他の部下から絶大な信頼がある場合)は、彼はその部下を他の部下の面前で訓戒することは、ある意味では企業や法人組織上の秩序維持の観点からは責任倫理に沿った行為選択であると言えるだろう。こういう場合その上司は明らかに良心を法人組織全体の利益に対して向けているのだ。だがそういう風に公衆の面前で訓戒された部下に対してその部下や同僚たちが慰める、励ますという行為は、その個人に対して向けられている。しかしそれは全体的な責任を負わない部内者の個人主義であるだけで、部外者から見れば公的には何の意味もないことになる。ある判断が個人に対して良心を発動し、全体の責任に対しては無頓着になることと、そうではなく、日常的には信頼している部下に対して敢えて先述のように公衆の面前で訓戒するような場面でも該当する組織全体の利益に対して良心と責任を抱いて、個人に対する良心を抑制した判断のどちらを選択するかが、我々の日常の行動の全てに対して該当する行為選択の意志決定の合理化をなす基準である。つまりその場その時に何を優先するかということが全ての決定に貢献するのだ。
 全体の利益を考えない良心というものは幾分個人的なエゴイズムを内包している。そこには責任というものはない。しかし同時に全体の利益を考えている良心には責任を伴う。私は責任には多少冷たさが付き纏うと言った。しかしそれはその時にはそうであるだけであり、長い目で見れば、その冷然とした判断が一番正しいということも多々あるのだ。つまり小さな利益を捨てて、大きな利益を取ることが良心で、大きな利益に目を瞑り、小さな利益に対して執心することは長い目で見れば良心ではない。例えば孔子を採用しなかった当時の王朝の判断はその時点では正しかったのかも知れない。もし彼が意外とすんなり採用されていれば、今日我々が目にする孔子の考えの大半は生まれなかったかも知れない。だから結果的には後世の我々には彼がルサンチマンを抱えたまま死に、後世に弟子たちがそのルサンチマンを引き継いだことそのものが正解だった、と考えることが出来る。
 ベンヤミンは最後にスイスの山荘で自害する。ナチに追い詰められての決断だった。彼の残した膨大なテクストは、色々な意味で今日の我々に深い洞察を与えてくれる。例えば引用するとはどういうことであるか、引用されたものを整理して再定義することとはどういうことであるか、独創性とは何なのか、そのようなことを深く考えさせる今日的な発想の持ち主としてベンヤミンは我々に語りかけてくれる。しかし当時彼がしたことは一部の理解者以外には理解し難いことだっただろう。だが彼の責任は後世の人々に対して向けられていたのである。そして後世に向けられることそのものが現在を生きる者に対する良心であると考えることも出来るのだ。孔子のような挫折は、挫折を直に目撃する大勢の弟子たちにとって彼の思想を伝承させてゆこうと決意させるに値する事実だったのだ。そのことを孔子はある程度自覚的だったと思うと私は言った。(弟子の良心を擽るような意図もあったかも知れない。)
 しかし彼を採用しなかった側の人間には彼らなりの理があり、それは責任倫理だったのだろう。つまり責任倫理は相互には対立することも多く、良心の発動も常に対立する。しかし歴史はそういうその時代の状況を一切無視して公平な目で見ることが出来る。そして幾分こうも思う。孔子がその時代において天下を取れなくてよかった、と。それはゴッホがあと十年長く生きていたら、ずっと彼自身は幸福になれたと思いながら、どこかそんなゴッホの人生でなくてよかったとも勝手に思う心理に似ている。
 最後に責任と良心とそのことに対する理解と説明判断について考えてみようと思う。まず記憶に関して責任のあるなしについて少し考えよう。

 貝原益軒の「養生訓」の教えてくれるところは抑制性のエネルギー温存という原理だけではなく、実はそのように有益に身体のエネルギーを浪費せずに大切に使うことで、精神的に充実した生活を送ることが結局生を悔いなく全うすることに繋がるという倫理的な意味での指針に他ならない。それは例えば先述の例で言えば、上司が部下を訓戒する時、彼は自己内の私情によってそれを行ってはならない。(とえ言え、百%そのように自覚的にすることはかなり難しいのだが)だから逆に贔屓な部下に対して敢えて親心で厳しく訓戒する必要もあれば、なかなか私情的な意味では応対の難しい部下に対しても、私情を差し挟まずに応対するということはそれ自体で良心の発動であると言えるだろう。また人間は自分にとって日頃から関心のあることは容易に記憶に残るし、またそのように意識していなくても尚自然と記憶に残ることもある。しかし同時に自覚的に自己内の関心を喚起させるように心掛けることもまた重要である。最初から自分の中に飛び込んでくるものよりも、最初は苦痛なものの方が一旦そのことに対する摂取において慣れてくれば、そちらの方がより魅力的に感じられるという事態も稀ではない。また責任あるセクションを担当する人員はよりそのような心掛けを日常的に身に着けておくことも必要であろう。良心とは他者に対しては適用し、自己に対しては責任以上には適用しないように心掛けることが重要であるかも知れない。良心は説明不能であり、責任はある程度説明可能なものとそうではないものとがあると先に述べた。そのことは次のように説明出来る。
 アンセルメとマジストレッティーは慣性原則が快感原則であり、同時に反復原則であるとする。その意味はホメオスタシスの回復機能であり、再確立の機能であるからだ。つまり外的な衝撃、例えばアメリカ人にとっての9.11の体験のようなイヴェントは、そのイヴェントの遭遇自体には彼らに直接の責任はない。そして不可避的に長期記憶に残り得る。だが長期記憶に残るものは、そのように受動的なイヴェントに遭遇すること以外にも、自己内の訓練によって関心を生じさせ、次第に大きくなるようなものにも適用される。そしてこの自己決意によって関心を引き起こしたものにはいいものも悪いものも含めていずれも責任が付き纏う。だからある学説を主張するのなら、それに対する反駁を想定して、それを跳ね除けるくらいの理解を自説に対して持っていないと、揚げ足を取られることも多いだろう。あるいは中途半端な学習ならしない方がよいし、中途半端なままで何かを発表することは差し控えた方が賢明であるというのは意識的、意図的に育んだ長期記憶は明らかに自己責任の領域であるからだ。そしてそれはある程度他者に対して説明可能な論理的領域である。(その内容が非論理的であってもその関心事について論理的には語れるという意味において。)
 我々は一冊の良書に対する出会いが人生を変えることもある。その意味ではそういう良書に巡り合うという事態もまた、その人間の日々の心掛けと努力という意志レヴェルの問題に関わってくるであろう。つまり偶然的であるような出会いをも含めて遭遇自体も幾分かは自己責任の領域であると言えるだろう。

 今日の社会は、家庭電化製品一つとっても、一個の家電製品を恒久的な使用に耐え得るようには製造してはいない。もっと便利なアップグレードされた商品を一定期間が過ぎたら買い換えた方が得なように、予めメーカーが計画立案している。だから一個の商品を長く大切にしたいという消費者の欲求には答えてはいない。つまり物を大切にという倫理観は、少なくとも消費サイクルにおいては捨象しなければ生きていけない、修理に出したら余計に金がかかってしまうという事態に陥っている。
 またネット通信の会社が表示エラーをした場合、そのトラブルに巻き込まれて重複注文した場合、その商品に関して逆発送することは手間がかかるから出品者は通販ネット会社に請求するというシステムになっているので、売買という行為においては相互の顔を見なくてもよいという現実に我々は慣れっこになっている。言わば現代社会とは、古典的な倫理観を無視しなくては生きていけないような具合になっていることも確かである。そういう現実の中で自己責任とはどのように成立し得るのかを問うことはなかなか熾烈である。システム維持に貢献しながら(消費者として)、最低限のマナーを持つことも要求されるだろう。例えば昔風に古本屋に直に出向き、本棚に手をやって現物を見る行為を私もしなくなった。新品の本を一般の書店で見て確かめてから、同じ本をネット通信で買うという行為が当たり前になっている。しかしそこには通信であれ、相互のマナーは必要である。私の経験ではそういうマナーのあるバイヤーも、セラーもいるということである。システム社会とはややもすると責任転嫁をすることが日常化しやすい。しかしエラーミスを一回くらいしたとしてもびくともしないような通販ネット会社も、それが度重なれば、経営も立ち行かなくなるだろう。だから一回のミスでももしそういうことがあったならば、メールで詫び状を送るだけでは済まないのではないだろうか?(私は重複注文することになったお陰で、出品者に電話する羽目になった。)しかしトラブルに陥った時ほど冷静に対処することを考えさえすれば、我々は案外この便利なシステム社会を容易に生き抜くことは出来る。その時やはり責任の所在を冷静に相互に相互の事情を説明しながら検討することが大切ではないだろうか?しかし説明がなかなか容易ではないという人もいるだろう。そこで説明によって責任の所在を鮮明にすることをここで一つ考えてみよう。そして引き続いて良心の発動に関して考えてみよう。
 今日のネット社会のややネガティヴな面をシステム・エラーに私は見たが、しかしそのような不測な事態をも想定に入れ、そのシステムを有効活用することにしか最早我々には残された生活維持の道はない。その一つの売買を巡る顔の見えなさという事態はしかしよく考えてみると、顔の見えない相手が例えば私が買う本やCDを売るアメリカの出品者がいるということを私は承知していることでもある。恐らく人間以外の動物は地球の裏側に自分と同様の個体が生活して喜怒哀楽を感じつつ生活しているという発想は持たないだろう。そのような想定と想像力が私たちの世界では既に顔の見えない人を、面識があり顔を直に見ることの出来る人と同等の切実さを持って接するという意識を生じさせる。一度も会ったことのない大切なパートナーに囲まれて生活することが今日の人類の姿である。それは他者哲学の深遠に位置する状況なのかも知れない。そしてその意思疎通の基本とは良心である。良心の発動とは古代以前、言語獲得期までの人間にとっては同一種内でも自分の親族間だけのものだったという現実もあったであろう。そして同一種内攻撃欲求を充足するために他集団に争いを仕掛けることは日常的だったであろうが、地球全体が概念的にも実感的にも把握された今日、世界は認識上では狭くなりつつある。だからその限りある資源の中で人類が協調しようと考える時我々はどこかで、知らない人に対してこそ礼節を尽くすという観念を重要視するようになってきているのではないだろうか?そして見知っている人間同士が親愛の情を結ぶことは当然としても、責任が見知らぬ他者(我々は既に経済一つとっても見知らぬ他者たちにこそ恩を受けている。)に対して見知った者と同等に払われるという確固たる意志を持つことで良心の起源に私たちが常に回帰する運命にある。
 良心はその都度他部族への破壊に対する反省からも呼び覚まされたのかも知れない。
 生物学者のリン・マーギュリスも指摘している(「共生生命体の30億年」草思社刊より)が、私たち人類が地球環境を汚染させ、破壊したとしても尚地球自体は破壊されることはない。ただ私たち自身にとって住みやすい環境が破壊されるだけのことである。人類が滅んだ後にもまた別の生命体が進化して天下を取る可能性はゼロではない。だからこそ我々はシステム社会を見知らぬ顔の見えない相手なればこそ神経を使うという処方を使用せずには未来を生き抜くことが出来ないのだ。良心の発動は我々自身が構築したシステム社会の現実に対する認識に、人類の言語獲得の起源として位置しているであろう意思疎通上の他者への信頼において発動される良心と同形のものを適用するということである。
 今日では地球の裏側に住む人とチャットやブログで交信することも可能である。だから職場で孤立している成員でさえ、そのような手段で「きっと誰かは自分を理解してくれる。」という意識を持ち、顔の見えない他者の存在に救いを求めることは出来る。実際現代のような交信手段のなかった古代でもそのような思いに囚われていた人はいただろう。ある意味では優れた弟子に囲まれていた孔子でさえ、自分の政治的理念を実現することに手を貸す人の不在という事実は彼にとって後世には明確に理解してくれる人がいるかも知れないという思念を抱かせたのだろう。だからこそ弟子たちの良心を擽ることが彼にとっては重要だったのだ。しかしもし彼が現代に生きていたらネットを使用していただろうし、それを利用して海外に出向き後援者を見出していただろう。
 さてこの通信と交通の張り巡らされたシステム社会の現実とは想定される社会の姿を一際原因→結果という順序ではないウリクトの言う遡及的因果関係(retroactive causation)をア・プリオリに前提している社会に生きていると言える。例えば企業は予めどれくらいの決算において収束するかを想定して事業を行っている。全ては想定された事態の上に現実が乗っかっており、その意味では結果に原因を後付しているのだ。しかしそれは言語獲得期の人類の思念にも該当する真理である。
 大屋は普遍性を目指すことを「普遍志向」、普遍的真理は存在するという信念を「普遍信仰」と呼んでいるが、彼は井上達夫という法哲学者の考えを拡張して「我々はロゴスの外部にある普遍性に比較して自らの議論の不十分さを自覚し、それを少しでも普遍性に近付けるために対話を通じた正当化を継続するべきだとされるのだ。」(「法解釈の言語哲学」120ページより)と我々の意思疎通を定義付けている。もし大屋の言うようなものとして意思疎通(対話)を考えるなら、人間は彼の言う普遍志向を普遍信仰によって行為として顕現させながら、普遍という結果を先験的に設定してその普遍に全ての行為を近付けることによって、ある種の理想を永遠に追い求める存在となった、と言うことが出来る。例えば鳥を見てあのように飛べたらいいな、と思念することが鳥のような飛行を模倣した飛行機を発明するに至ったように、我々は言語獲得した時点で、最早無垢な自然との対話を失ったのかも知れない。そしてそういった諦めることを忘れた願望への実現努力が「周囲に誰も自分の理解者がいなくても尚、世界のどこかには自分の理解者がいるに違いない。」という考えを容易にする社会を築き上げたとも言える。だからシステム・エラーが起きた時に見知らぬ他者と交信して何とか窮状を切り抜けること自体もまた顔の見えない他者に対する信頼と感謝という良心に基づいて行われる。そもそもエクリチュールを人間が発明した時にも、それと似た内的理解があっただろう。
 人間は反省と後悔という思念を記憶能力の向上という進化的な出来事に伴って、責任という観念をア・プリオリなものとして認識し始めたのだろう。それは過去の失敗を二度と繰り返すまいという決意によるものであり、最初は単純な学習的な認識からスタートしたのだろう。そして一旦責任という観念を生じさせれば、それは結果として行為に先立っているのだ。そう認識することで社会的行動というものがなされ、社会人という意識が自己に付与されたわけである。よってクリプキのような哲学者が慣用しているシステムが正当なものであるかを主張することが誰しも出来ないのではないか、という問いを提出した事実は逆にシステムそれ自体を認めていることに他ならない。例えば現代の人類にとってネット社会にシステムは前提となっている。それは言語活動が社会の基本的な前提であるのと同じである。次は我々の生活において責任が果たされるという事態がシステムを前提とした遡及因果関係によるものであることにおいてどのような責任を考えればよいのかを論証してみようと思う。
 ここで言うシステムとは高次の意識から言えば近代国家以降の全てのシステム(官僚制、交通システム、ネット・システム等)のことであり、低次の意識から言えば人間集団の全てに該当する。そして私は遡及的因果関係の礎として責任を考えたいのである。それは最初から与えられた結果であり、成果が出た時に報奨の対象とされるものでもある。だからこそシステムの維持が人間生活では最優先されるし、それは責任であり報奨の対象となる。
 カントが言う善意志とは社会人としての自覚論的なものであると同時に、存在者として哲学的に論じられており、高次であると同時にどこか起源的でもある。「道徳形而上学原論」において実践的理性原理〔客観的原理〕(これは大屋の言う普遍信仰に近いと思われる。)と格率(律)〔主観的原理〕とを類別している。これは前者がイデアであり、後者が個人的な対処法と考えても間違いではない。カントが高次な意識であると同時に起源的であるように感じさせるのは彼の論理からではなく、彼の哲学論全体から醸し出される彼の主張の独自性からである。しかし私が良心と呼ぶものは、カントの言う善意志とは幾分異なっており、それは社会正義そのものを成立させ、つまり自己と他者を認識させる意識である。それは全ての前提条件なのだ。例えば部下を訓戒する上司の前で訓戒される部下を慰め、励ますことを同僚たちが憚るのは、明らかにその訓戒を垂れる上司の部下全員に対する面子を誰しも潰したくはないと考えるからである。面子とは原羞恥であり、要するに他者の視線に対する意識である。もしこれが一切なければ、我々はそもそも他者と言語行為へと赴くことはない。だから良心も又他者に対して潜在的に誰しも抱く心理であると同時に他者認識を支えるものである。しかし良心は表立って発動されることを控えられる場合も多いものだ。例えば今の例で言えば、明らかに誰しも全ての部下の面前で訓戒される部下に対して同情するのだが、その言い方がどんなに厳しいものであっても通常他の部下はその上司に苦言を呈するべきではないだろう。それが職務上の責任だからだ。
 責任は全ての善悪に先行する。そして良心もまた善悪に先行する。何故良心だけではなく責任もア・プリオリに存在するかと言えば、人間には悪もア・プリオリに存在するからである。しかし善悪とは制度・法意識獲得の後に我々が認識するものである。だから私の言う良心とはカントの善意志とも少し違うのである。何故ならカントが言うところの善意志とは私が言う良心に善悪判断や法意識を認識して然る後に獲得する倫理だからだ。(しかし今述べたようにカントは直観的には善意志を起源的に考えたいかのように私には感じられるのだ。)そして責任と良心、この二つは重なることもあるがずれることもあるのだ。
 マックス・ヴェーバーはカントからも多大な資質論的なエキス(懐疑的姿勢、本質洞察的姿勢)を得ている。そして責任に関する彼の記述でも「職業としての政治」の次の箇所は出色である。
「(前略)ある男性の愛情がA女からB女に移った時、件の男性が、A女は自分の愛情に値しなかった、彼女は自分を失望させたとか、その他、似たような「理由」をいろいろ挙げてひそかに自己弁護したくなるといったケースは珍しくない。彼がA女を愛していず、A女がそれを耐え忍ばねばならぬ、というのは確かにありのままの運命である。ところがその男がこのような運命に加えて、卑劣にもこれを「正当化」で上塗りし、自分の正しさを主張したり、彼女に現実の不幸だけではなくその不幸の責任まで転嫁しようとするのは、騎士道精神に反する。恋の鞘当てに勝った男が、やつは俺より下らぬ男であったに違いない、でなければ敗けるわけがないなどとうそぶく場合もそうである。戦争が済んだ後でその勝利者が、自分の方が正しかったから勝ったのだと、品位を欠いた独善さでぬけぬけと主張する場合はもちろん同じである。あるいは、戦争のすさまじさで精神的に参った人間が、自分にはとても耐えられなかったと素直に告白する代わりに、厭戦気分をひそかに自己弁護して、自分は道義的に悪い目的のために戦わねばならなかったから、我慢できなかったのだ、とごまかす場合もそうである。同じことは戦敗者の場合でもあることで、男らしく峻厳な態度をとる者なら_戦争が社会構造によって起ったというのに_戦後になって「責任者」を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任_これが肝心な点_にもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と。これ以外の言い方はすべて品位を欠き、禍根を残す。国民は利害の侵害は許しても、名誉の侵害、中でも説教じみた独善による名誉の侵害だけは断じて許さない。戦争の終結によって少なくとも戦争の道義的な埋葬は済んだはずなのに、数十年後、新しい文書が公開されるたびに、品位のない悲鳴や憎悪が再燃して来る。戦争の道義的埋葬は現実に即した態度と騎士道精神、とりわけ品位によってのみ可能となる。しかしそれはいわゆる「倫理」〔自己弁護の「倫理」〕によっては絶対不可能で、この場合の「倫理」とは、実は双方における品位の欠如を意味する。政治家にとって大切な将来と将来に対する責任である。ところが「倫理」はこれについて苦慮する代わりに、解決不可能だから政治的にも不毛な過去の責任問題の追及に明け暮れる。政治的な罪とは_もしそんなものがあるとすれば_こういう態度のことである。しかしその際、勝者は_道義的にも物質的にも_最大の利益を得ようとし、他方、敗者にも、罪の懺悔を利用して有利な問題全体が不可避的に歪曲化されるという事実までが、そこでは見逃されてしまう。「卑属」とはまさにこういう態度を指す言葉で、それは「倫理」が「利害」の手段として利用されたことの結果である。」(「職業としての政治」岩波文庫、83~85ページより)
 このヴェーバーの倫理を無効にする責任の重さに対する着目は幾分ニーチェを想起させる。カントの論理を見ていると、実践的理性原理を提唱していることの背景には悪が横行することも珍しくなく(彼の言い方に習えば他率(律)的行為の横行)、要するに人間は性悪的であるという考え(これはマット・カートミル<解剖学者>によると西欧社会に根深く定着してきていると言う。)、要するにカートミルの視点を採用すると狩猟文化と習慣が社会の深層心理で攻撃的欲求の発露となる傾向性が横たわっているということになる。
 カントの性悪説的な前提条件の付与は、ルソーに既に特殊意志という形で表明されていた。そのルソーをニーチェは大きく取り上げている。ニーチェの良心に対する攻撃は専らキリスト教的教条主義に対して向けられており、その限りで、彼の考えは宗教本体を支える地点に着眼していると言える。彼の言葉「「主観」は一つの虚構にすぎない。利己主義が非難されるとき問題となる自己など、全然ないのである。」(「権力への意志」より)(370)や、「「自我」_このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない!_まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない。_それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。」(同)(371)等によってそれは明らかであろう。
 宗教本体を支える連帯感には特権意識が介在しているが、同時に彼ら信徒もまた市民であり、その限りで責任と信仰とは別地点に据え付けられている。それは勿論信徒たちだけではなく人間の宗教的感情とは責任とは常に別地点である。それは幾分良心にも近い感情かも知れない。そして当然のことながら私が言う良心とはニーチェの言う良心とは異質のものである。ニーチェは「ルソーは、規則を感情の上に基礎付ける。公正の源泉としての自然。人間は、自然に近づく程度に応じて完全となる(_ヴォルテールにしたがえば、自然から遠ざかる程度に応じて)同一の時期も、一方にとってはヒューマニティーの進歩の時期であり、他方にとっては不正や不平等による悪化の時代である。(後略)」(同)(100)と言いつつルソーを精神錯乱であると同章で断じる。(事実彼には性的錯綜的な一面もあった。)彼は責任の先験性と感情抑制(良心)をルソーが着目していたと考えている。
 責任がある集団内で徹底化することに応じて他集団からは利害が対立して、同一地域の成員全員の利害は不一致となり、不平等と差別が横行するから、責任はどのクラスに対して適用されるかに応じて社会全体の調和はその都度変化する。要するにヴェーバーの言うように倫理とは利用される。それは責任からもである。しかし責任は利用するのだ。あるいは利用されまいとするし、我々は責任を負うのだ。理性が自ら率先して責任に縋るのだ。

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