Wednesday, December 2, 2009

〔言語の進化と責任〕序

 私たち人類が進化して他の動物にはない高度の思考能力を携えるようになったという事実は、我々自身にとっては自明のことのように思えるが、実は極めてそのこと自体を冷静に考えると奇蹟的なことでもある。しかし自然科学が奇蹟ということを認めないことがまず前提条件であるとしたら、例えばノヴァーリスという詩人が近代にいたが、彼のことをディルタイが「体験と創作」において「ノヴァーリスにとっても、一切は奇蹟である。あるいは別な言い方をすれば、われわれの情感とわれわれの人格との最高の機能たる真の信念は、神を告知する唯一の真の奇蹟である。似かよった言い方をすれば、奇蹟の中の最高の奇蹟は、自由決定の行為としての有徳の行動である。いかなる死も贖罪の死である。つまりキリスト教の歴史的要素は偏在である。」(「体験と創作」(下)小牧健夫、柴田治三郎訳、岩波文庫、60ページより)と語った部分の主張は重要な意味を生じる。
 確かに自然科学は端的に言えば、奇蹟の否定から始まる。というのもそもそも自然科学は全ての事象を因果系列で判断することで、ある事象を発生させることに纏わる解釈を必然の名の下に、理解しようという意志のものであるからだ。しかし逆を言えばその事実とは、そのように自然科学自体を純化させてきた人類が、一方ではそのように冷静に判断することが出来ない数々の出会いと、その出会いに翻弄された事実を多く持ったということを物語ってもいるのである。本来奇蹟というものの考え方には、その事象に関して何の関心もない者にとっては意味を持たないことでも、その事象に関心のある者にとっては肯定的にも否定的(この場合青天の霹靂ということになるのだが)にも重大な意味を生じるものである。
 例えば人間社会にとって奇蹟である事態とは端的に言えば動物にとっては然程の意味がない場合も多い。(こうやって文を読まれる読者の姿を見る愛犬や愛猫たちにとってあなたの行為は全く意味のある行為ではない。)あるいはある者の死はその家族や友人にとっては重大な意味があったとしても、他人から見たら大した意味はないだろう。要するに奇蹟というものとは、その事象が発生することそのものが、ある者にとって自然全体に対して、自然との関わり合いにおいて、その事象を生んだ状況の全てが何らかのグッドタイミングのものであり、そのタイミング自体がセレンディップな出会い以外の何物でもないと感じられるということそのものなのだ。バッドタイミングな場合には我々はそれを古代人のように今でも天の呪いと感じるかも知れない。
 だからある出会いが偉大な意味を人類全体にとって生じさせるものであるのなら、それは確かに人類にとっては奇蹟と呼んでいいだろう。そして我々が今こうして生きて、他者の意見に耳を澄ますことが出来るように他者の意見を文章という形で知ることが出来ることそのものが奇蹟であると言ってよい。
 例えば私という人間のことを知らない大勢の読者が、今私がこのように書いているこの文章を目にすることが出来るという事実そのものは、人間がその事実を奇蹟と呼ぼうが、ただ単なる当たり前の日常であると捉えようが、人間固有のもの以外の事実ではなさそうだ、とは言える。
 というのもそもそも人間にとってのコミュニケーションというものは動物と全く異なった様相のものであると言えることの第一は、意思表示とか意思疎通というものを全く実際には会うことのない人々とも可能であるということ以外の事実にはない。
 動物でもゾウが危機的状況を遠くにいる仲間に超音波を使って知らせるという事実は確認されている。しかし彼等の意思疎通はそういう危機的状況の時に限られている。それに対して人間は四六時中自分の知らない仲間の考えを念頭に入れて思考し、行動する。ブログやバーチャルマネーゲームでは自分が男なのに女性を装うことすら自由である。しかしそういう意思疎通ということは例えばインターネットが当たり前になっている今日に限ったことではない。太古の昔から人間は他人の書いたものを読んできた。そしてその際人類は自分の知らない人、一度も逢ったことのない人が大半であった。例えば流行作家がいて、その人の講演会があって、その人に質問をして話しを交わすという事態は、実は今日的でもあるが、そういう事態が仮に太古にあったとしても尚、ある「書かれたもの」が自分の知らない人、つまり知人ではない人であることが通常である人類のコミュニケーションの採り方からすれば、寧ろ例外的な事態であったであろう。それは幸運以外の何物でもないということなのだ。
 実はこの当たり前の事実、書物に書かれた言葉から我々が意味を受け取るという行為を当たり前にしている日常そのものが最も人類にとって特異な現象なのだ。そしてそのことを成り立たせる前哨戦としてまず我々には次の認識が必要である。
「我々は我々が個人的に知ることが出来る成員以外の多くの成員の考えを知ることが出来る。そしてそのことに意味があるということを知る。」(この認識をDとしよう。)
 しかしこの認識には更にそれ以前に次の認識が必要である。
「我々はどのような成員でも個人的な知り合い以外にも大勢の成員が生活して意思疎通していることを知る。」(この認識をCとしよう。)
 しかしこの認識も更にそれ以前に次の認識が必要である。
「私はどのような成員でも個人的知り合い以外にも大勢の成員が生活して意思疎通していることを知る。」(この認識をBとしよう。)
 しかし賢明なる読者諸氏は次のように反論なさるであろう。「私は」という意識を得るためにはまず他者が必要である、だから他者と意思疎通する機会に恵まれない者には「私は」という意識は持てないし、また私以外の成員を意識しようがないだろう、と。それでは次のように最後の認識を言い換えてみよう。
「<私>は<私>以外の<私>のような生き物がどこかにはいる筈だと思う。」(この認識をAとしよう。)
 このような思惟が成立するのは生まれて間もない赤ん坊が自分以外の例えば母親の姿が確認出来ない時に持つことがあり得る、そういう認識である。敢えて私が<>で私を括ったのは、私とあなたという明確な意識のない状態での、ある種の身体的実存を引き受ける生活者としての人間が初歩的な認識として、肉体的な情動あるいは情感を持って他者を希求するという状態を示してみたかったからである。
 人間には脳内にミラーニューロンと呼ばれる部位が存在し、その部位は人間が他人の行動に対して、あるいは他種の生物に関しても歩いていたり、ものを食べていたりする場面を目撃する時に、反応する仕組みになっているということは現代脳科学では解明されているし、また親愛の情を示す時脳内にプロラクチンという物質が放出されることも解明されている。例えばその最も顕著な例とは、母親が自分の子供に対して愛情を注ぐ時に、放出されると言われる。それは生物としての人間がそのような状況で無意識の内に判断しているという事実から我々がやがて一般化し得る自然科学的事実である。
 私は恐らく人間以外のどの動物も、決して「自分たち以外の自分たちと同様の生き物が自分の知らないところでも生活している。」という認識を明確には持てないのではないか、と考えている。勿論イルカはイルカ固有の生活環境で生活し、他個体と接触するわけだから、ある個体が自分の知らない個体と相対した時には「知らない」と認識するだろう。しかしそれはあくまでその個体が自分の前に出現したから得た認識である。その個体が登場する以前に、そのような出会いがあるかも知れないとまでは恐らく彼等は認識出来るだろう。しかしではそのような事態を総括して、「つまりだから自分の預かり知らぬ場所にも自分同様の生物(つまり仲間)がいるのだ。」と明確に認識出来るか、と言うとそこまで認識することはかなり困難なのではないかと私は思っている。
 人間に話しを戻そう。例えば私が考えた認識モデルのBは、私が想定した読者からの批判を真摯に受け止めて、認識Cを得た後に当たり前の事実として受け止めることの出来る認識であるという可能性は多いにある。例えば幼児が母親と一緒に歩いている時、それまで食べていたチョコレートを包んだ銀紙を幼児が捨てようとした時、母親が
「いけませんよ。こんなところにものを捨てては。ちゃんと拾いなさい。」 
 と多少威嚇的な表情で子供を教え諭すという行為が、じきに子供の心の内部で、
「自分や自分と親しい人以外の人<その人とは抽象的な人であるから、当然自分にとっては知らない人、要するに他人である。勿論そんなことまでは彼等は考えないが。>が生活しているのだ。」
 という認識が育っていく。そしてその認識が生じた時、公衆道徳という観念とほぼ同時的に子供は悟るのだ。
「生きているのは自分たちだけではない。」
 ということを。つまりこの時点で彼等は自己及び自己にとってかけがえのない他者(家族と家族にとって大切な親族や知人)、つまり見知らぬ人たちの存在を知る。
 勿論両親は兄弟姉妹との関係から人間は「私」という観念を得ることは出来る。しかしその際には未だ「然程親しくはない人」というものは含まれてはいない。つまり親しい間柄以外にこの社会で生活する全ての人たちの存在をも考慮に入れた人間関係という観念の中で知る「私」という自覚こそ、真に責任ある社会成員としての自覚を伴った「私」という観念の獲得と言ってもよいのだ。そしてこの認識は認識Cの後にすぐさま認識Dを得るという認識の成長を必然のものとなすのである。
 ここで本論の主旨を説明しよう。つまり人間が言語を進化させてきた背景には、寧ろ言語を必要とした事実があることはずっと考えられてきたのだが、その多くの論証において一番不足していた領域とは、端的に言えば責任倫理という脳内では確認されることの未だにない共同幻想に他ならない。責任倫理のない地点では決して言語的進化というものは成立し得ない。だから逆に言えば公衆道徳を守らない若者や中年、老人がいたとすれば、それは彼等が公衆道徳から発生した言語を使用しながら、その事実に対して目を見開かせないような何らかの事態が発生し、サルトル流に言えば、要するに無知を決込んでいるということ以外の何物でもない。
 ここで少しくだけた話題から考えてみよう。
 先日某国営放送局において先月亡くなった(2007年6月19日現在)シンガーソングライターであるZARDの坂井泉水氏の追悼ドキュメントが放送された。その番組に漫画家の倉田由美子氏が出演し、「彼女の音楽は<彼女が殆どテレビに出演しなかったためにその私人としての実像がミステリアスであるために>聴くファンが自由にその実像を付け加える、つまり自分にとっての坂井泉水、ZARD像を想像することが出来る。」というようなことを述べられていた。
 昨今お笑いタレントを初め、流行作家たちが挙ってテレビのヴァラエティー番組に出演し、作品世界とは無縁の私人としてのパーソナリティーを披露する。芸能人の私生活に興味のある視聴者向けの内容なのだろう。しかしその際に生じるのは、あまりにもテレビで地名度のある文化人にせよ、芸能人にせよ、その本業以外での活動でのイメージが付帯してしまい、その人が書いた本を読む時にも、その人の本業の仕事を見る時にも、その本や芸の内容以上にその著者のパーソナリティーの方が前面に出てしまい、そのように付帯したイメージで作品世界の意味内容を解釈するようになる。だがこのような事態は純粋に本や芸の内容を解釈する際の難点となる。
 例えば私たちが古典的作品に接する時、我々はテレビに出演する文化人や有名人に対するような意味では、その著者のイメージというものは知らない。勿論その著者を研究している人は別であるが、それでもテレビのない時代の著者に関してはいつまでも人格的なパーソナリティーは謎のままだ。しかしこの事実は実はその著書の意味内容、意味作用の両面から言えば、健全な事態である。余計な先入見が入り込む隙がないからである。
 本来作品というものは、その作者の個人的な性格とか人間性とは無縁の世界である筈である。つまり作品によって示された内容やニュアンスが全てであり、その作品がどのような個人のどのような私生活から生み出されたかという事実は、その作品世界の意味に比べれば、然程重要ではない。
 つまり意味の連鎖とか、生物学者として最も影響力を持つ一人リチャード・ドーキンス流に言って、ミーム的な価値から言えば余分なことである。しかし映画を観に行く時、我々は贔屓の役者が出演するという事実が見るべき映画選択のキーワードとなっている。しかしそのことはその映画自体の価値と関わりはない。そしてこの贔屓感情というものは端的に言えばそのパーソナリティーに対する共感作用によるものである。共感という感情は心理学者のサイモン・バロン・コーエンによると、女性の方がより優れているという。それは平均的な統計的事実である。それに対して男性はシステム化能力に秀でているという。これは要するに全体的な秩序をもって理解する能力、事象の全てを解釈する能力である。
 この事実を踏まえて考えると、責任とは明らかに左脳的判断であり、要するにシステム化能力と関係がある。それに対して、共感という感情は明らかに良心と関係があり、友愛的な感情を起点とする。右脳的判断であると言えよう。そして記憶作用において我々は暗示にもかかりやすく(心理学者のダニエル・シャクターの「なぜ、「あれ」が思い出せなくなるのか」<原題はSeven Sins Of Memory2001年>日経ビジネス人文庫刊に記憶の書き換え、暗示等のことは詳しい。この著者は記憶を「物忘れ」「不注意」「妨害」「混乱」「暗示」「書き換え」「つきまとい」の七つのエラーから捉えている。この本に書かれた内容に関しても本論では大きく取り上げる積もりである。)要は、我々はそういう脳記憶の作用において、先入見を持って全ての判断をしがちである。すると多くのテレビのヴァラエティー番組でレギュラーになっている人は、その人の本業の仕事に対する評価を多く映像的に視聴者に受け取られたイメージによって解釈されがちであるということになる。しかしこの事実はその人の仕事に対する評価としては決して公平な見方ではないだろう。人間的な私人としてのイメージに対する贔屓感情からのみ理解されるという事実は、実は俳優にせよ、歌手にせよ、他の芸能人にせよ、学者や芸術家同様その仕事(作品とか論文)によって解釈されるべきであるという観点に立てば、例えばお笑い芸人であれば、そのコントとか漫才とか落語とかの専門分野の力量に対する評価という面から言えば損な事実である。しかしその二つの境界そのものがあやふやになっているという事態もまた極めて現代的なことである。
 責任は良心と常に共存して進化(つまり共進化)してきたと私は考え、以前別の論文「責任論」(本ブログにおいて掲載)でも取り上げた。そしてこの責任と良心の脳内での判断こそが言語を進化に導いてきたと私は考えるのだ。今挙げた<くだけた内容の事実>とは実は、要するに私人としての性格に対する評価が仕事の純粋な力量に対する評価以上に重要となっているというマスコミ誘導型の価値判断というものが、現代を支配しているとすれば由々しき事態であるという判断が、責任によって言語活動そのものを、あるいは言語の体系そのものを進化させることに貢献してきたと考える私の本論における主張と相同のメカニズムを持っていると言える。例えばカントという人間がどういう存在だったかということは、少なくとも彼の哲学の内容を理解した後においてのみある程度の意味を持ち、その哲学テクストを読んだこともない者にとっては害悪となるだけである、と言いたいのである。
 そしてそれは言語自体の存在理由にも当て嵌まる。つまりある内容の文章とは、その書かれた内容に関する判断からのみ評価するべきであるし、その記述者の性格とか人間性は、そのテクスト内容から逆流して考えられるのでなければ公平ではないということなのだ。その意味では古典というものはおしなべて我々による公平な内容解釈に基づいていると言える。(少なくとも贔屓の役者が出ている映画を見ようという動機に纏わる不公平感はない。いい映画と売れる映画の違いもここにある。例えば北野武監督の映画はテレビで知る我々のビートたけし像をどれくらい監督である彼が裏切ってくれるかという期待感によって我々は満たされていると言ってもよいだろう。)
 そして責任という考え方は今挙げた例から言えば、明らかに公平な判断というものを欲しているのだ。それは端的に言えば親しい者とそうではない者との間に差別をつけないという倫理に支えられ、寧ろ親しくはない者に対してより配慮するという考えが基本にある。そしてそのことと、自分にとっては親しくはない人の書く文章を読むという行為には認識Dに近い心理があるのである。だから私はまず基本的に言語活動というものは、親しくはない者同士を結び付ける作用が出発点であったしたら、知らない者、地球上の裏側にも自分のような人は生活し、自分よりも偉大な素晴らしい人がこの世にはいると知りながら、そういった人の全てと知り合うことは不可能であるというもう一つの認識を持つこととは「世界」というものを想定することが出来る能力、あるいは言語的な意思疎通のおける責任倫理的な遣り取り(思い遣りもまた責任理理的遣り取りである。)と共に発達したと考える。
 つまり言語、とりわけエクリチュールに依拠した言語的思考というものは、地球の裏側という認識を持てなかった時代においても世界という認識によって育まれてきたと捉えることが出来、言語の進化を「自分の知らない世界市民の存在」に対する意識が促進してきたのだ、という本論の支柱となる理念を今私に宣言させずにはおかないのである。そして世界認識とは、私にとって大事なことと、私の知らない者にとって大事なこととを等価な価値として認識すること、即ち責任という考えを起点とするということである。そしてこの自己に対する認識をB以降の全ての認識をもって明確化するという事態こそ、私が考える言語の進化の謎を解くものである、ということなのである。
 序なりに本論の内容を先に結論的に言っておくと、言語の進化は責任倫理と良心の発動が極めて重要な役割、いや寧ろそれこそが言語獲得以後の全ての言語進化史に関わってきたであろう、ということなのだ。しかしそのことをもっとたやすく言うと、人間もまた本来はただの動物である。他の動物と同様本能がある。しかし人間は言語を持ったがために他の動物とどうしても同じ穴の狢であると自分のことを考えたくはない。そこで社会倫理として責任という観念を自己の肝に銘じたのだ、とも言える。
 本論では第一章を現象学という哲学の一分野の流れを一人のフランス哲学者ミシェル・アンリによるテクストの現代的な意義について考えながら、テクストを創造する人間の行為から言語というものの果たす役割を考えた。そして結論として第九章では人間の愛と性に対して、その営み自体を言語行為、言語活動であると捉える視点から考えてみた。そして現代の日本が抱える性意識を日常からジェンダー的な意識と絡めて考えてみたので、あまり観念的な論述が苦手という向きの読者はそこだけを集中して読んで頂いても一向に構わない。その二つの間に介在する諸問題をその間の章で書いてみた。どの章から読んでもよいようには一応心掛けたが、通して何らかの主張が読み取られるようにも心掛けた。後はどのような順序で読み進められるかは読者諸氏次第である。

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