Sunday, November 8, 2009

〔責任論〕十三章 事物に対する静観と他者への配慮

 責任という意識が固有の状況としてではなく、ある意識と記憶と感情の三角形自体を支えるシステムとして内在した時、我々は外界の事物を初めて意味あるものとして理解することが出来る。川を見れば魚やプランクトンたちが泳ぎ、森林や平原に生える植物に恵みを齎しているのだろうとか、空を仰ぎ見れば雲となって上昇する気流が再び雨を降らせることとなる循環作用や、天体を観測するのに有効な世界として認識させることとなる。つまり自分と直接関わりのあるものと、そうではないが、この世界に存在する事物があり、それは何らかの作用を持って他の事物や他者にとって恵みとなったり、脅威となったりしているのだろうな、という認識を生じさせる。だから事物が直接自分や自分を巡る周囲の他者にとって脅威とならない範囲で我々はどのような事物に対しても静観を決め込むことにする。だが今日世界の情勢を一瞬で知り得る時代になっても尚、我々は一々世界中の悲惨な出来事に対して自分のことのようには思わなくなっている。それはデズモンド・モリスが指摘しているように人間は精精百人くらいの他者さえ自己を巡る世界において介在しておれば、それで自分にとっての必要事項は満たされるものなので、その他国の悲惨が自分の周囲の、あるいは自分の住む国の経済や社会情勢に極端な脅威とならない限り静観をそこでも決め込む。それは他者に迷惑をかけないように配慮する意識と、他者には干渉しないことで自分に火の粉が降り懸からないように配慮する意識が抱き合わせになっている証拠である。しかしウリクトも言っているように本来行為とは自然に干渉することであるなら、何もしないでいてイノセントであるような自己弁護とは実は逆に善をなすことも何もないということを意味するのだ。そのことは本章で取り上げる問題と密接に関わっている。
 先日映画「不都合な真実」を見た。デイヴィス・グッゲンハイム監督作品で2007年3月14日年度アカデミー賞ドキュメント映画賞を受賞した話題の映画である。この映画では元副大統領で、2000年大統領選で敗退した政治家アル・ゴアが映写映像をバックに地球温暖化を力説するものである。京都議定書ではアメリカとオーストラリアだけが反対の意を唱えたのだが、今日急速に広がりつつある地球温暖化の実害を直に映像で示しその脅威を訴えるのが議定書で反対した同じ一アメリカ人であるという皮肉に私はある種の真実の矛盾した姿を見た。
 日本は文化伝統的に捕鯨を除き、それほど野生動物に対する狩猟はヨーロッパやアメリカほどは盛んではない。そのことは逆に日本では動物愛護精神が根付かない理由ともなっている。例えば最も動物実験を初めとして、あらゆる狩猟の盛んな英国ではナショナル・トラスト等による動物愛護運動は日本よりもずっと盛んである。一方で肉食習慣の日本よりずっと定着した欧米では、恐らくペット動物に対する虐待は日本よりも少ないのではないだろうか?そういう意味では日本人はウリクトの言うような意味ではそれほど個人的なレヴェルでは自然に干渉してはいないようだが、それが国家レヴェルとなると、やはりディーゼル規制をしてはいるもののそれまでは実害を撒き散らすことに貢献してきたのだろう。つまりヘーゲルの言う正と否の弁証法の論理から行けば、ある行為を価値とすることは、その行為の反対の行為に対する認識によって逆に弁別を明確化するのであるなら、我々は美しいという観念を逆に醜悪な現実に対する直視によってのみ実現出来ると認識すべきなのである。鈴木大拙は平安時代の雅を本質的な意味では日本人が実存に目覚めてはいないという現象として捉え、鎌倉時代以降初めて日本人が真実に醜悪と対極にある美を進化させたのだと捉え、それは死生観が本質的に定着したのが、却って平和なだけではない動乱の鎌倉期以降だという認識を持っていたが、これなどはある意味では醜悪さを知った上での美化精神の定着という意味ではアメリカ人の手になる世界規模での地球温暖化運動への提唱という現実とオーヴァーラップして極めて興味深いものがある。
 さて事物を静観することもまた、ある意味では事物に対する自己欲望の果てしのないエゴイスティックなまでの攻撃性と破壊性によって自覚され得るものであり、その意味では自然と共存するという観念(かつての日本人的な)では決して真に静観という姿勢は生まれ得ない。禅を哲学思想にまで高めたのはある意味では西欧人だったかも知れない、というような意味で我々は静観することの本質的な意味を静観出来ず、干渉することだけで乗り切ってきた人類史的な観点から改めて捉え直さねばならない。
 そのための一つの方法は、我々が個の成立過程において共同体の果たす役割が甚大であったことの本質が逆に集団による烏合の衆的な意味での集団ヒステリーとか集合的無意識とか、群集心理とかのレヴェルからの脱却として秩序ある共同体という倫理の形成過程において、改めて個の意味を捉え直す必要がありはしないだろうか?その時ヘーゲルの哲学の視点が再考を迫られるのである。少し長いが「精神現象学」内の一連の記述が第八章に引用したシュレーディンガー的世界観とも重複する視点を抱いていることを示す意味で引用してみようと思う。

「共同体のなかでの家族のありかたは自然発生的だと定義できるとしても、家族の成員がうまれながらに家族をなし、その関係が現実の個人のあるかぎりでは、家族の内部に共同の世界がなりたっているということはできない。共同体精神は個を超えるものであり、うまれながらの関係といえども、その本質からして精神的なものであって、精神的であるからこそ共同体とかかわるのである。家族という精神世界に固有の共同体精神とはどういうものか、それを見ていかねばならない。
 第一に、共同体はもともと全体とかかわりをもつものだから、家族の成員の共同体的なものが認められるべきで、その際、成員の現実の行為は、家族の全体を目的とし、内容とするのでなければならない。しかし、行為が家族全体の際、成員の現実の行為は、家族全体にかかわるような目的を意識的に設定したとしても、目的全体はあくまで個別的である。権力と富の獲得や維持は、必要やむをえぬ行為だったり、欲望に発する行為だったりするにすぎない場合もあれば、さまざまな要素が入りこんできて、もっと高度な志がそこにこめられる場合もある。が、そこに見られる高度なる志なるものは、家族にふさわしいものではなく、真の普遍的存在たる共同体にこそふさわしい。それは家族を否定する傾きをもち、家族から個人を追放し、個人の自然な個性を抑圧し、個人を、全体のなかで全体のために生きる、有徳者にしようとするのだ。(集団内での理想的成員の設定<著者注加入>)
 家族に特有の積極的な目的とは、個別的なものである。それが共同体的なものになるには、行為者も行為の受け手も、なんらかの援助行為やサービス行為の場合のように、偶然そこにかかわったというのではいけない。共同体的な行動の内容は、秩序にかない、全体と関連するものでなければならない。したがって、その行動は個人の全体とかかわるような、いいかえれば、共同存在としての個人とかかわるようなものであるほかはない。といっても、あるサービス行為が個人の幸福を全体として個人を高めると頭では思われているが、現実にそれが目の前にあらわれてみると、個人の一面にかかわりをもつにすぎない、というのでは困るし、一定の順序を踏んでなされる教育行動が、個人を全体として対象とし、それなりに成果をあげながら、しかし、それは家族を否定するという目的にこそふさわしく、それ以外の面では、現実の行動として限られた内容しかもたない、というのでも困るし、最後に、まったく偶然の緊急行動によって個人がまるごと救われたといった場合も、共同体的行動とは考えにくい。そんな行動の機会は狭い日常世界のどこにでも転がっていて、行動としてあらわれるかどうかは状況しだいなのである。
 したがって、血縁関係の全体を包括し、血縁でつながる個々人_家族とは別次元にある市民や、特定の個であることをやめて市民たらんとする個人_について、感覚的で個別的な現実を脱却した共同存在としてかれらをとらえ、そうした個々人を対象ともし、内容ともする行動は、もはや生者を相手とする行動ではなく、死者を相手とする行動でなければならない。なぜなら死者は、長く続いた多面的な生活をおえて、感覚的で個別的な現実を脱却した共同存在としてかれらをとらえ、そうした個人でなければならない。なぜなら、死者は、長く続いた多面的な生活をおえて、完結した一形態におさまり、偶然に左右される不安定な生活をぬけだして、単一で安定した一般的なすがたをとるに至っているのだから。_個人は、市民となってはじめて現実の共同体にかかわるのだから。市民ならざる家族員としての個人は、非現実の、力なき影なのである。」(長谷川宏訳、作品社刊以下同、303~304ページより)
「共同体秩序は精神がそのままそこに真理としてあるすがただから、意識の分裂した二側面も、そのままそこにあるというかたちをとるのであって、個としての肉体は抽象的に否定され、その否定を個人は外面的な現実の行動を通して、本質的に慰めも和解もない事実として受けいれねばならない。そこで、血縁者のなすべきことは、抽象的な自然の運動を補って、それに意識の運動をつけくわえ、自然の行為に介入し、血縁の死者を破壊から救いだすこと、もっと適切にいえば、破壊されて純粋な存在となることが避けられないものとすれば、破壊の行為をみずから引きうけることである。
 それによって、死んだ共同の存在が自分のうちに還ってきて自立した存在となり、ただ個物としてある無力な死体がみんなに認められた個人となる。死者は、その存在がその行為や否定的な統一力から切り離されるから、空虚な個物となり、他にたいして受動的に存在するものでしかなくなって、すべての低級な理性なき生物や自然の元素の力の餌食になる。理性なき生物はその生命ゆえに、自然の元素はその否定力ゆえに、いまや死者よりも強いものとなっているのである。無意識の欲望や元素の抽象的な力にもとづくこうした死者陵辱の行為を防ぎとめるのが家族であり、家族はみずから行為を起こすことによって血縁者を大地のふところに返し、不滅の原始的な個たらしめる。それによって、死者は共同世界の仲間に引きいれられるので、この共同世界は、死者を思うさま破壊しようとする元素の力や低級な生物を配下におさめ、その力を抑制するのである。
 この最後の義務こそ完全な神の掟であり、個人にたいする共同体の積極的な行動である。愛を超えるような共同体的広がりをもつ他のすべての行為は、人間の掟の属するものであって、自然発生的な共同体(家族)に現実にとりこまれた状態にある個人を、そこから脱出させようとするものである。ところで、すでに見たように、人間の正義の内容と力が、現実の意識的な共同体秩序_民族全体_にあり、神の正義と掟の内容と力が、現実の彼岸にある個人_死者_にあるとすれば、死者が無力なのは当然である。死者の存在は純粋に抽象的・一般的な、元素にもどった個であって、かつて元素たることを脱却して、みずから民族の現実の一員たることを意識していた個人が、その掟でもあり土台でもある純粋な元素へともどっているのだ。_そうした死者の存在が民族のもとでどう表現されるのかを以下で見ていかねばならない。」(305~306ページより)
「(前略)性のちがいとその共同体的な内容のちがいは、あくまで共同体秩序のうちに統一されているので、ちがいにもとづく運動が、まさに統一をたえずうみだす運動となっている、男は共同体のうちに全体を支える秩序と土台を見いだすが、逆にまた、共同体は家族こそおのれの現実を支える形式的な場であり、神の掟こそおのれの力を確証するものだと考える。どちらも一方だけでは欠ける所があるのだ。人間の掟_地上を支配する、意識的で、間接的な掟_は、神の掟_地下を支配する、無意識の、直接的な掟_に発して、生き生きとした運動を経て生じ、やがてまた、出発点へと還っていく。他方、地下の権力は地上に出て現実のものになり、意識によって存在へと活動をあたえられるのだ。」(310ページより)
「こうして共同体王国は、一点のしみもない、いかなる分裂にも汚染されることのない世界として存続する。同様に、その動きも、一つの権力からもう一つの権力への安定した移行であって、両者はたがいに守りあい、うみだしあう関係にある。世界が二つの本質と二つの現実に分割されるかに見えるが、その対立は一方が他方を確証するような対立であって、両者が現実の権力として直接ふれあう中間地帯においては、二つが直接に浸透しあっている。一方の極をなす意識的な共同体精神は、反対の極をなす無意識の精神_共同体精神に力と場を提供するもの_と、男の個性を通じて一体化している。反対に、神の掟_個人の無意識の精神_は、女の個性のうちに存在をあたえられ、女を媒介にして非現実から現実へ、無知から無意識の領域へと登場してくる。男と女の統一が、全体を動かす中間項であり、神の掟と人間の掟への分裂をもう一度そのまま統一する場となるのであって、神の掟と人間の掟をめぐる三項関係も、男と女をめぐる三項関係に帰着する。そして、現実から非現実へ_さまざまな組織にわかれる人間の掟から死の恐怖へと確認へ_逆にまた、地下の掟から白日の下にある現実や意識された生活へ、という二つの運動_前者が男の役割で、後者が女の役割だが_、対立するこの運動が、そこで一つに統一されることにもなるのである。」(312~313ページより)
 
 ヘーゲルの視点は、共同体を個的な特殊意志のレヴェルから言えば、個滅却的な無個性的で死んだ意志の寄り合いと捉えている。そして意識界を人間の掟として、無意識界を神の掟として前者を男性性として、後者を女性性としてと捉えているところがユニークであるが、彼にあっては共同体への奉仕はある種自己犠牲への投身であり、投企とはまさにそのことである。また305~306ページの叙述は明らかに無個性的な個として参入した社会共同体においては、死んだ個を再生させるものとして家族の愛を位置付けている。これは裏を返せば、家族の愛を受けている者であれば、逆に社会に奉仕することにおいても他者への愛を注ぐことが出来るという主張でもあり、キリスト教的な汝の隣人を愛せよという謂いとも繋がるが、つまりは個的な他率に感けた特殊意志から脱却する一つの処方としても家族の愛を、そしてもう一つは社会全体への契約(それは神への契約でもあるのだが)として奉仕しながら同時に家族の愛を権利として要求することで、社会からも賞与を獲得し、社会に幸福を還元するという思想がある。しかしその根底には家族の愛のない成員には社会に対して死者への陵辱という表現に該当するが、他の成員、つまり他者への攻撃欲求という本能を直接ぶつけてしまう可能性をどの成員も秘めている(もっと有体に言えば犯罪者に転化し得る可能性)ので、良心を他者にまで拡張するためには充実した家族を持ち、幸福の権利を追求しなくてはならない、という思想が横たわっている。つまり家族の愛情を注ぎ注がれている成員には他者に対しても良心を発動することが可能であるという暖かい合理主義がそこに垣間見える。
 この考えはシュレーディンガーの言う自己と他者の違い、そうした精神的存在者の中にある素朴な疑問は、しかし自然界を見渡して見ると、自己の周囲のどの事物も、事物なりに充足しているが、その充足は何らかの変転の後に不動点に達し、それ以外の逸脱を潔しとしない、そして例えば一個の岩石でさえ何らかの衝突物によってその不動性を破壊されるかも知れない未来に対する不確実性こそが、現在の不変を維持している、つまり現在なりに負い目のない未来への備えとして存在しているという観念を再び想起させずにおかない。「異」性は「同」性によって異化され、無化され、同化され、一体化されるということである。そしてそれこそが責任という考え方が発生する現場であると同時に、実は責任という考え方が基本に理性発生と同時にあるからこそ、他者へ向けられた良心と愛情の眼差しの拡張が叫ばれるわけである。
 勿論共同体とヘーゲルが言っているのは歴然とした近代国家を前提としたそれであるが、他者へ向けられた良心の発動と、そのことによる奉仕の見返りとしての個人生活の権利要求という現実は恐らく言語獲得した段階から人類は発生させていたと私は考える。なぜならそのような集団と個の論理が内的に各成員に自覚されない限り、言語行為としての能力が人類全体に波及するとはとても思えないからである。勿論発声秩序とか、所有の概念とか要するに初期的な認識は言語獲得以前的にも考えられるだろうが、語彙と品詞とシンタックスという観念は、ある程度複雑な心的様相としての内的理解なしには不可能である。そしてヘーゲルの叙述の指摘するところはあながち初期人類においても考えられないことではないと私には思えるわけである。
 しかし今日から見るといささかヘーゲルのジェンダーロール的な認識から喚起される比喩は時代遅れな感を我々に抱かしめるものの、女性の方が男性よりも平均した大脳皮質の体積が男性よりも二割程度小さいので言語習得を主に統合する大脳左半球(左脳)を中心の体積比が大きく故に外国語語学は女性の方が習得しやすいという可能性も脳科学では考えられる(男性の方がやや左半球優位性であり、女性はその逆である。)のでヘーゲルの比喩はあながち間違いではなく一つの示唆は我々に与えてくれる。しかし男性が左脳中心の判断であることは、事実女性よりは価値論的に左脳判断をなすことがあり得るので、男性性を意識、女性性を無意識としたヘーゲル解釈はそういう現代脳科学を予感していたのではないかと思わせる面からは実に興味深い。
 しかし問題となるのは責任倫理とは右脳的判断であるのか、それとも左脳判断であるのかということだが、それはいずれ脳科学が解明してくれることを期待して先へ進もう。
 責任が他者への配慮となっているということは、例えばペーパーテストを採点する先生の担任する生徒の中に自分の息子がたまたまいたとしても、彼は自分の生徒に課したテストの採点で自分の息子だけ贔屓するわけにはゆかない。そういう意味ではこういう場合には文学賞の評定基準以上に主観は入り込む余地はない。そしてそれこそが責任である。だから良心というものが責任を伴って発動されるのは本来親しくはない成員、あるいは好きではない成員に対してある種の贔屓とは逆の感情で排他するような態度を採ることは許されない、そういう風に理性的に考えることが良心の起源ではないだろうか?つまり自分の親族に対する身贔屓を他者に拡張し、それだけに留まらず、自分の親族でさえ、他者と比べて劣った判断をし得るようなケースでは他者を支持し、自分の親族の方に非があると主張するような判断を正当化する内的理解であると言える。そしてそこに初めて平等という観念が発生する場が与えられる。
 何度か登場願った理論脳神経学者のウィリアム・カルヴィンは「思考は、感覚と記憶が結びついたものだ_あるいは別の見方をすると、思考はまだ起っていない(そして決して起らないかも知れない)行動のことだ。それはつかのまのものであり、ほとんどが短命である。これは何を物語っているのだろうか?」(「知性はいつ生まれたか」197ページより)と言っているが、まさにこれこそが言語発生の根拠であると言える。そして言語は言語化された途端に責任を発生させる。例えばある意見に同調したり、ある意見に反意を示したりすることはそのまま政治的発言そのものであり、責任を伴う。そして責任の基本的なスタンスが平等によって裏打ちされていることを哲学者のトーマス・ネーゲルは次のように語っている。
「(前略)権利は、そうする代わりに行為を直接に制限するのである。各個人は、たとえ彼自身が他人の権利を少しばかり侵害することによって、間接的に権利の侵害の全体数を減少させることが可能であるような場合でも、直接的に他人の権利を侵害することを禁じられている。(ここら辺はまるで大人数によるいじめを否定しているかのようだ。<著者注加入>)このような行為者中心的な制限に説明を与えることはむずかしい。解釈としてそれについて言える一つのことは次のことである。すなわち、それは権利の侵害を最小にすることはどんなことでも行うように要求する原理よりも、高度な道徳的不可侵性を表現している、ということである。というのは、もしそれがその種の原理であるならば、権利の侵害は常に悪であるとは限らないからだろうからである。他のいくつかの殺人をさけるためであっても殺されない権利という道徳的権利要求は、殺人を単に大悪と見なすだけの主張よりも力強い。というのも、前者は後者ならば許すであろう殺人を禁じるだろうからである。後者の方が前者よりも多くの殺人を避けることを可能にするかもしれないとしても、やはりそうなのである。(ここら辺は東南アジア某国のような状況に対する批判にもなり得る<著者注加入>)しかしこのことは、行為者中心的な諸権利を説明するのにはそれほど役立たない。真の説明ならば、保護される利害だけでなく、行為者と、彼が特定の仕方では扱われないように_たとえ非常に望ましい目的を達成するためだとしても_強制されている人物との関係をも、考察しなければならないだろう。何が起こるかへの関心に対立するものとしての、人が誰に何をしているかへの関心は、不十分にしか理解されていない倫理学の重要な源泉なのである。」(「コウモリであるとはどのようなことであるか」中、平等180~181ページより)
 つまりここではヘーゲルが言った死者を相手とする行動という極度に主観を排除した客観的基準が責任には付き纏うのだ。しかしそれが法哲学的なディタッチメントである。法はいかなる矛盾を孕もうとも例外を許さない。もしあらゆるケースにおいて法を例外を認めることにおいて正当化し得るのなら平等も、公平も、正義も成立しないことになる。その都度権力による丼感情が横行し、やがてそれは人治主義となってしまう。だからもし法的執行にあまりにも例外を適用しなくてはならないとしたら、その法は改正すべきなのである。しかし本質的に社会を築きあげるという事態には自然に干渉する行為性が付き纏うので我々は事物を静観するだけの猶予は与えられてはいないのだ。つまり何らかの反応を行動で示す必要があるのだ。これはウィリアム・カルヴィンが思考の短命性として堤示した記述の根本的な主張である。責任ある行動という投企をなして初めて我々は権利を主張することが可能なのだ。しかし自然へと干渉するような人工的な意図があればこそ、我々はその自然への干渉を意義あるものにするためにも、他者と折り合いをつけ、他者存在を相互に配慮し合う必要性があるのである。
 次章の結論では「不都合な真実」によって示されたような地球規模の環境破壊の元凶である人間の攻撃的欲求を狩猟本能と、それに対する克服過程として言語を位置付けながら、秩序というものは何なのか、調和というものとは何なのかという観点から考えてみよう。

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