Thursday, November 12, 2009

〔責任論〕 結論 責任能力と抑制性①

 ヘーゲルが言うような死者の如き共同体成員のあるべき姿は、ある意味ではそれだけ他率的な特殊意志に忠実に横暴をする傾向性のある存在者であるということを示している。ヘーゲルの言うような理想的精神の設定に纏わるストレスは、実はそういったストレスを引き起こす背景に背徳的行為へと赴く我々自身の内的惰性性を描出しているのだ。その意味では功利主義も、平等主義も、権利問題も全てこのどうしようもない人間の他率的傾向性に対する処方としての法実践問題であるとさえ言える。トーマス・ネーゲルは平等主義を功利主義と権利の理論の狭間に位置していると考えている。しかし平等にも責任は付き纏う。ある意味では平等に与えられた権利や機会は、それを有効に活用する成員とそうでなく無駄にする成員との間に格差を生じさせることになる。
 ヘーゲルが神の領域として無意識を設定し、人間の意識的意志のレヴェルを人間の領域としたことは無意識に全てことを運べば人間は神に操られるということを主張していることになるし、それは一面では人間の神からの自立を促すような主張であるとも言える。それは神に対しては対峙し、自己という存在を自己責任で全うする時初めて神から操られることはない、という意味では明らかに神を理神論としてではなく、裁定者として有神論としてもとりわけ人性と神性を一致させるような趣がある。汎神論者としてのヘーゲルのキリスト教的ラングに対する恭順を感じさせる一面ではないだろうか?
 しかしネーゲルが指摘しているように結果論的な格差を生じた場合、我々は平等主義を持ち上げる。そして平等主義は結果的に恩恵に預からない者を優先することとなる。しかしそれほど困窮していない者の権利よりも酷く困窮している者の権利を常に最優先し過ぎると、今度は切迫していない者の権利は益々縮小され、逆に切迫している者の権利は益々拡張してゆくことになろう。だからヘーゲルの意識としての男性性は、実は責任の所在を明確にするという意志のことを言っているのであり、それが先述のように良心の発動をなす愛情の持つある赦免という意識(しばしばヘーゲルの言う女性性と一致する。)と対抗し得る可能性があるのだ。つまり人間が自然状態で生きることにおいて我々は時として法体系とは一致しないカントの言う他率に恭順な生き方の選択をせざるを得ない。だから逆に社会共同体で法的実効性を持つような秩序ある生活を全うする観点からは、我々は不自然な生き方を選択せざるを得ないのだ。そして人間が人間の権利を第一に考えれば、動植物や地球環境に対する配慮を疎かにすることとなり、また地球環境保全と動植物に対する保護を第一課題とすると、人間間の平等の配分は疎かになる。かつてミヒャエル・エンデは人間は社会の平和と、地球環境の保全を両立し得ない、つまりどちらかを選択せざるを得ない状況に立たされていると言っていた。かつて地球上では戦争が人間成員の数を制御していたという側面があったが、今日それをしたら、地球環境全体が汚染される(第一人間の数が多くなり過ぎて戦争を許容する余裕はなくなった。)ばかりではなく、経済社会の秩序も大幅に後退することとなる。また経済効率のみを優先すると、格差や悲惨な交通事故、あるいは公害が頻発することになるが、一方経済社会を疎かにしても社会は機能不全に陥ることとなる。つまり我々が社会秩序を構成してきた歴史とは人間の同一種内攻撃欲求に対する処方における合理主義のその都度の顕現によるものなのだ。我々がもし行為にのみ大きく依存すれば、権利の問題は拡張し過ぎ、逆に結果にのみ大きく依存すれば責任の範囲が拡大し過ぎることとなろう。行為そのものが結果に繋がる実効性を備えたものであるかどうかという判定は全てが結果に依存している以上なかなか難しい。というのもあるよい結果を生んだ際の手法が再度採用すべきものであり、それを忠実に実践しても尚我々はその手法が再び功を奏するとは限らないことを知っているが、組織にあっては、その都度の実践にその場限りに気まぐれを採用することを許すことも出来ない。そこである成功例をそのことで甚大な被害が出るまでは採用し続けるのだ。
 例えばよい結果さえ出せば何をしてもよいという考えにおいては、倫理的査定というものの必要性が著しく狭められる。だから結果主義オンリーでやっていると、いつかは結果そのものの破綻を招くことも確かなのだ。責任はだから結果においても重視されるが、同時にプロセスにおいても重視されるものなのだ。しかし同時にプロセスさえ踏めばどういう結果になってもよいということにはならない。人間は洞窟で生活した頃も、高層ビルに生活する現在の社会でもその基本的な責任倫理においては何ら変わるところはない。よかれと考えられて実践されてきた合理主義が破綻する場合もあれば、逆に人材資質優先主義が破綻して、経営合理化をすることで活路が開かれる場合もある。そして人間が狩猟を生活手段にしていた頃の身体記憶が、どこかで競争社会の現実やスポーツや格闘技に熱中するようなカタルシスを付与しているとしたら、我々はどのようにして秩序と合理化と、それとは相反する無秩序志向的な傾向性と、非合理的な決心の折り合いをつけてゆかねばならないのだろうか?
 部分的には我々が他者のエゴイズムを容認することを相互に理解し合うということである。そしてそのエゴイズムが個人の権利内にある場合、それを咎める必要はさらさらないのだ。ということは必要なこととは権利として認定されたエゴイズムを保証するために全成員が平等に負担をすること、それは報酬に応じた税金という意味ではなく、地球環境とあらゆる生態系の秩序を保全し、かつ我々が快適な居住を全うすることの可能な範囲で、なさねばならない全人類に共通して許され得るエゴイズムの範囲と、許されざるエゴイズムの範囲の国際的な評定基準の設定であろう。
 西欧哲学と自然科学は神と人間と動物をも含む自然という観念で発達してきた。しかし東洋哲学にはそれとは異なった社会生活と人間関係という側面が強い。仏教だけが唯一西欧哲学同様の自然と人間の関係を問うてきたが、そこには西欧流の神の観念は希薄であったために因果律的思考が、西欧的な原因と結果というよりも縁起とか輪廻といった側面から考えられてきた。しかし孔子の儒教は先述の社会生活と人間関係という側面から教えを継続させ、それは中国、朝鮮半島、日本の官僚機構に多大な精神的影響を与え続けてきている。そのようなある種の管理機構主義的な責任は同僚に対して、周囲の人間に対して払われるものとなる傾向があるが、自然全体に対する配慮という面では等閑になってゆく危険性も常に孕んでいる。しかし神と人間と自然という西欧流の考え方を推し進めてゆくと今度は自己裁量という行為決裁に際してのエゴイズムが横行する危険性がある。事実独裁政治や自然科学技術の極端な破壊行為への加担を我々は多く目撃してきた。しかし共産主義も社会主義も独裁を多く生んできた。これは事実である。それでは責任の使用の仕方はどのようにしてゆけばよいのだろうか?
 一つには責任の分担の仕方をより個人毎の能力と適材適所に割り振るということであろう。しかしこの遣り方にはいい裁定者が必要とされる。しかも独裁ではない形での適材適所割り振り役というのは、説明能力と理解能力を要求される。それは端的に言えば、人が嫌がる仕事の中にも喜んでする人というものがどのようなケースにおいてもいて、それを有効活用するという方法によってのみ見出せる。例えばキリスト教社会では天職という概念によって社会成員のやる気を奮発し、宗教的な契約の信条と思想を有効活用して自然科学の進歩を促してきた。産業革命も彼等の内的理解としての宗教的な信条抜きには語れない。それはマックス・ヴェーバーの謂いに拠れば、「あたかも労働が絶対的な自己目的であるかのように励むという心情_Berf天職_が一般的に必要となるからだ。」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫、67ページより)
 社会奉仕が責任倫理に基づいている限り我々はそれを人格とか人間性からではなく、職務的な適性において判断すべきなのである。そして職務的な適性というものはなかなか自己によっては発見され難いものなのだ。しかもそれは学校の成績とかそういうレヴェルでの評定とも極めてずれ込むのである。だから社会は有能な指導者をその人間の実績をも考慮すべきだが、同時に実績とは無関係な可能性にも賭けてみるべきなのである。しかしそういう思い切った指導者の抜擢には失敗もつき物であろう。そのような場合にはその指導者の交代をスムーズにして尚且つその失敗した指導者の後のキャリアにその失敗が影響を与えないような寛容な社会システムが求められているのだ、と私は思う。例えば一回の失敗が全てを無効にするようなケースはその責任に比例して大きくなる。だからこそ最も重い職責に応じて交代をスムーズにするシステム作りには時間をかける必要がある。そしてそのシステムに関する説明に関して要求されるのが、ただ政治家のみではなく、文筆家、科学者といった豊富な人材の登場によってなされるべきなのである。しかしそのことは一旦職についた指導者に思い切ったことをさせるべきであるという可能性を摘むことに繋がってはならないだろう。自然環境も、国際的政治秩序も、対テロ対策に関しても、全てにおいて今日危機的状況にあるのが世界であるし、我が国である。そして危機的状況に求められるべき人材とはいい意味で危機的状況を楽しむ心の余裕のある成員であろう。
 ネーゲルの言うように「もっぱら権利にのみ基づく理論は、たとえそこに含まれる利害が基本的なものであるとしても、道徳に関係のあるあまりにも多くのことを排除している。全体としての諸結果の価値をまったく重視しない道徳的見解が正しいということはありえない」のだとしたら我々は責任の行使の仕方を真剣に討議する必要がありはしないだろうか?
 突然暴言のようなことを言うと思われる方もおられるだろうが、私はあらゆる責任を放棄するような自暴自棄だけが難局を切り抜けることが出来るかも知れないと思っている。道徳的価値とは結果がついてこなければやはり何の存在理由もないだろう。だから権利は確かに許され得るエゴイズム以外においては一切認められないのでよい。例えばどうしようもなく記憶に残ることというのは自ら選択出来るようなものではない。そこで印象に残ること、関心があってどうしてもそこから離れることの出来ない執着心のみを残し後は一切捨て去ること、責任放棄をすること、それだけをやれば後は何を言われてもよい、という潔さではないだろうか?それこそ個人性の尊重である。
 例えば最高権力者、CEОに求められている資質は明らかにどういう角度から切り込まれても尚責任を果たしているということである。だが実際上全てに目配せをすることは不可能な場合もある。ならば「これだけはしたいと思います。」と敢えて明言出来ることのみに責任を集中させること、これしか今のところ私には思い浮かばないのである。そしてこれは何もトップ・リーダーのみに求められている条件ではないだろう。「出来ることは出来る」と言い、「出来ないことは出来ない」と言うような誠実性のおいてのみ責任は果たし得るのだ。過大な期待をかけられてあるプロジェクトを任された者は「いいんですか、私のような者に一任して。私はこれ以上のことは出来ませんよ。それでも。」と明言すればよいのである。
 何度も述べたが未来とは不確実である。だからこそ押し迫る危機的状況において、未来を想定する能力を過去に対するデータ観測という観点から人間は記憶能力を向上させてきたし、それは要するに自然という神からの恩寵である。レヴィナスは「全体性と無限」で

「私の未来は私の未来であると同時に私の未来ではなく、私自身の可能性であるとともに<他者>の、つまり<愛される女性>なのであって、可能的なものが有する論理的な本質に参入することがない。このような未来との関係は、可能的なものに対する権能には還元不可能なものである。その関係を私たちは多産性と呼ぶ。」(岩波文庫下巻、194ページより)

と言っている。要するに私たちは未来という不確実において、長期記憶と短期記憶を交差させながら、来たるべく未来に備える。
 人間の攻撃欲求は直に狩猟をしたり、対立する部族を殺害したりすることから、次第に有能な官僚が無能な官僚に対してコノテーションを採用して嘲笑したり、メールによる嫌がらせをしたりという風に間接的な方法において原始的な欲求を解消してきている。この巧妙化された揶揄も、実際は古典的ないじめとも原始時代の野生的な捕食者に対する攻撃的パワーと本質的にはその向かうエネルギーとその力においては何ら変わるところはない。  

 多産性とレヴィナスが呼ぶものこそ、決定猶予であり、決意前の逡巡の付与である。 
 決定しているのにもかかわらずそれに即座に取り掛からないのは、ある意味でもっとよい方策があるということを意味する。例えば私たちは常に最良の選択をしたいと願う。しかし同時に何かに差し迫っている場合、付け焼刃的でやっつけ仕事的なことでもこなさなくてはならない。そこで緊急の処方を採用するわけである。しかしもしその緊急性が解除されれば、通常私たちはもっと時間をかけて結果を引き伸ばししようとするかも知れない。しかしそういう時でも実は我々は緊急な時と同じように人生の時間は無為に過ぎていっているかも知れないのである。時間をかけて決断すべき事項と、そうではなくなるべく早く片付けたほうがよい事項というものはあり、その判別が最も難しいのである。
 殺人でも詐欺でもそれを意図的にしたか、計画的だったのか、過失だったのかという判定がその罪状の被疑者の判決、刑期の長短に影響する。そして経済社会全体からすれば、あらゆる決裁は早期になされるべきであるが、人権という立場からはあらゆる裁判は時間的余裕を確保する必要性がある。
 ギルバート・ライルは現代哲学者の中でもとりわけデカルト的な視座を持って、古典的な命題に挑んだ先達だったと言えるだろう。彼の行動主義哲学と呼ばれた考えも、その実人間は行動と行動外の心的な作用とを峻別し得るという知性レヴェルでの認識論から派生したものであり、私は人間が百%行動を心的な作用と切り離してし得るとは思わないし、またそのようなことを持続することは不可能であると考える。そのことはともかくとして、ライルが語っていることの多くは責任倫理への問いであるということを示してみたい。

「ある人が何を読んでいたかということにその当人自身が気づいていないか否かということを知りたいと思うときには、われわれは、一般には、読了後間もなく彼に問い質すことによってその問題に決着をつけるということで満足する。たとえば、彼がその章の要旨や言い回しについてわれわれに何一つ話すことができなかったり、彼が最初の章と矛盾するような文章を読んでも「これは前の部分と矛盾している」と不平を漏らさなかったり、あるいはまた、最初の章においてすでに述べられていることを再度告げられたにすぎないにもかかわらずその記述内容に驚くというようなことがあったりするならば、そのときには、彼がその間に脳震盪を起こしていたとか、今心が乱れているとか、あるいはまた寝ぼけているというようなことでもない限り、われわれは彼は自分が読んでいるものに注意を払っていなかったと確信するであろう。このように、読んでいるものに注意を払っているということには、上述のような、読了後に行われる若干の「テスト」に首尾よくパスする用意ができているということが含まれているのである。同様に、われわれは、ある種の事故や事故寸前の状態が生起するならば、その運転手は用心していなかったのであると確信するであろう。したがって、用心するというようなことにはある種の緊張事態に対する備えができているということが含まれている。
 しかし、問題はこれからである。一方において、留意動詞として分類することはできないがしかし類似の傾向性的性質を表現する過程動詞process verbsが数多く存在するという事実がある。たとえば、「彼は今死に瀕している」、「.....へ来つつある」、「衰弱しつつある」、」「彼は今催眠術にかけられている」、「麻痺している」、「免疫のある」、などは一面においてすべて事象を報告してはいるが、それにもかかわらず、それらの報告が真であるためには彼の将来に関するあるテスト可能な仮言的言明が真でなければならない。他方、ある人に対して何ごとか心に傾けるように命令したり、依頼したりすることもまた可能なのである。ところが、彼に対してあることができるように命令order him to be able to doしたり、あることを行いそうであるように命令order him to be likely to doしたりすることは不可能である。われわれはまた、注意深く読書する場合の方がそうでない場合よりも疲れるという事実を知っている。このように、われわれはまた、注意深く読書する際にはたしかに一方において傾向性的な事柄を述べているのであるが、他方において挿話的な事柄を述べているということもまた明らかなのである。すなわち、われわれは、彼自身の行為をある気構えframe of mindにおいて行ったということを述べているのである。その気構えがいかなるものであったかという点に関して詳細に述べるためにはいかなる仕方で行為しうるかということなどを述べなければならないが、その気構えにおいてなされる彼の行為自体は生起の時間を示すことが可能な種類の事象なのである。」(「心の概念」みすず書房刊、196~197ページより)

 ここで述べられていることは哲学が意志、欲求、信念といった、外在主義的な視点から言えば極めて曖昧な概念規定に依拠せずに、行動とそれを誘引する気構え、備え、決心といった内的理解を、結果論的になされた行為にのみ依拠して、考察すべしという主張であったと思われる。なぜそのようなことを哲学上でする必要があったかと言えば、エイヤーも必死に初期著作で示したような西欧形而上学の伝統において行動とか表出とか現出とかは、その背後に真理とか本質を隠し持っているという考えが払拭されずにきている(フッサールでさえそういうところはある。)ということに対する痛烈なるアンチ・テーゼなのであった。しかし責任ということは意志、欲求、信念といったものとも重なる部分を持ちながら、同時にそれら全てをどこかで支えてもいる。何故なら責任があるからこそ意志を持ち、欲求を生じさせ、信念を構成すると思われるからである。
 哲学では先述のライルのようなあらゆるイズムを産出する前提条件として批判対象というものがあるが、これらに対する受け答えとはそれ自体で一つの攻撃である。攻撃欲求は形を変えて思索にも、思想にも、哲学にも人間社会に適用されてきている。哲学では懐疑主義者はとか、実際に該当する人物がいなくても、仮想敵として設定して論議を進めることがしばしばだ。それは内的理解としての攻撃欲求という感情を我々が行動で解消するためには、実際の狩猟対象ではなく、仮想の狩猟対象を設定しなければそれ以上の進展がないからである。ライルに関しても、ある程度の実在の敵をも想定していたであろうが、仮にそういった当該の人物がいなくても尚彼は仮想敵を産出していたであろう。そしてそれはライルがデカルト主義的な心と身体の二元論に対してアンチ・テーゼとして示した「心の中の幽霊」というデカルト的考えを否定するためなのであった。そして今までライルに関しては触れられてこなかった一面とは、彼が責任倫理として、「いかに内的理解としてはイノセントであれ、行動に移した結果がイノセントでなければ、それは内的理解であってもただの思念(カルヴィン流に言えば思考)でしかなく、行動に移す構えとか意志が実際は意識に浮上していたわけではないだけのことなのである。」という主張を先述の記述でなしている、と捉えることが可能である。それはライル流の哲学史的な責任の取り方なのだった。そして何故そのような責任を彼に取らせたかと言えば、それは未来は依然どのように科学技術が進歩しても尚不確実なままであり、その不確実性に立ち向かう時には、行動されたこと、意志的顕現として行為選択されたものを、その予兆として構え、備えとして理解することを通して未来へと拮抗してゆくしかないと哲学者たちが自覚していたからである。
 構えとか備えといった心の状態は、そういう構えとか備えを常住させる傾向性の所在をも意味する。責任というものの本質には、それを巡って賠償したり、追及したりすることがあるが、要するに責任を取ることが出来る(たとえ金銭的にその時点で弁済することが出来なくても)成員に対する能力の承認がある。だから心神喪失状態での犯罪には罪責が課せられないという現実もあるのだ。そして責任能力とは即ちその成員の良心(特に共同体に対する)の認可である。もし敵対する成員であれば、戦争状態という事態もあり得る。その場合戦争対立国同士で殺しあったとしても良心を縮小してでも敵対国人を殺害することが正当化されることもあるだろう。だから責任を課せられる義務性は即ち成員としての認可に他ならない。責任を中心とした反省と後悔はそのまま共同体へと向けられた良心と、それを支える理性(あるいは理性が良心によって支えられる)によって存在意義を付与されている。そして責任を課せられる時点で、その責任を放棄した時に、その説明を強制的に求められるという事態をも引き受けることである。説明を求められるという事態には、責任を有する成員全員が共通して同意した事項、それは法体系であれ、言語であれ、要するにそれらに対する理解を前提としている。理解という心的状態とは、ある反復されて痕跡化されたカルヴィンの言葉を借りれば時空パターンとしてクローン化されたものでもあり、ニューロンの発火パターンによるクオリアかも知れない。既在性の確認である。
 しかし主体的な理解は理解した者の関心事項から喚起されているので問題はないのだが、しばしば現実には理解することの多くが、致し方なく理解しているということである。例えば業務内容に対する理解、人間関係的な事項、とりわけ社会組織上での重要な上役をはじめとする人間の性格に対する理解とか、要するに主体的に楽しむような理解ではない理解という奴がビジネス上の場面では大半を占める。だから当然説明という行為も、説明する方も責務的な感情でしているわけだし、説明される側も職務的、義務的履行性において説明を理解しようとしているわけである。そして説明されるということは仕事でもそうであるが、師匠が弟子に何かを伝授するという場面でもしばしば見られる。これは何かを習得しようとしているわけだから、楽しいばかりではないが、そうかと言ってそういうことをして習得することとか、その後に得られる喜びのために半ば強制的に自己を縛るということを人間はする。そしてそういった説明する、される、それを理解させようとする、理解しようとするということにおいて洋の東西はない。しかし人間は一方で責務を鬱陶しいと思いながらも、それに付き従い、社会に一定の地位を確保し、安定を望みもする。その典型的な行為は「住む」である。住居の確保はそれ自体でステイタス・シンボルである。これは社会の成員としての資格を得た者である証明であると同時に、個人性(プライヴァシー)を確保することを権利上認められていることを意味する。ここに次のような図式が認められる。

責務(追随的心理)(鬱陶しさ)<孤独確保意識>←→ 反発(冒険心)(爽快さ)<集団同化意識>

                ↓

永住(プライヴァシーの確保)   ←→  挑戦(転職)(パブリック<対他的>な意識)

 ワルター・ベンヤミンは「パサージュ論」において、19世紀ヨーロッパの退廃をより顕著に反映していたパリの都市像を、住居、ビジネスビル、家具、装飾品といった文明としての象徴的な事物に着眼して、その時代のモードを痛烈に風刺した。彼の視点は我々人間が要するに対他者攻撃欲求と、他種への狩猟欲求を沈静化するために、都市文明を構築し、その攻撃欲求の矛先を知性へと転化してきたのだが、その実代理欲求として他者への優越性、ステイタス・シンボルを渇望することにおいて他者への虚栄心を常備するという事実に対して向き合ったということである。ベンヤミンの引用のパラダイムとしてのテクストは幾分ヨーロッパ人の自嘲意識が息衝いている。それはモードという認識が、古代から中世、近代を通過しながら、何らその実相を人間の無意識では変えてこなかったという事実に対する認識でもある。そしてその実相とは何か、それはピア・プレッシャーに他ならない。集団同化意識というものは孤独確保意識と裏腹であり、一人になった時、人間は責任から一番離れているようでいて、最も未来に向けて責任を実感するのである。寧ろ集団でいる時ほど一人になりたいと思う時はない。近代におけるピア・プレッシャーが「パサージュ論」に封じ込められているとしたら、古代のピア・プレッシャーを封じ込めてきたのが「論語」世界であろうが責任倫理に目覚めた時に最も痛烈に脳内に救わせる意識こそピア・プレッシャーである。
 孔子にとって人生における最も重要課題は立身出世であり、政治的地位確保であった。そしてそれは叶わなかった。つまり孔子の思想の根幹に横たわっているものは、野望の実現に対する挫折に他ならない。そして彼はしばしば弟子に愚痴を言った。そういった屈折した遣り取りの中からは彼は後世に残る道徳律を発見したのだ。道徳的真理の発見はセレンディピティーによるものだったのだ。
 人間は他者への攻撃欲求を、所有欲求(そこに社会的地位も含まれる。)へ転化し、その代理物を通して暗黙の内に他者へプレッシャーをかけることで自己内に燻るストレスを解消しているのだ。偉業を成し遂げた者や、職業的知(職人とか、科学者とか、医師)をモットーとする者は住居に神経をあまり使わない場合もあるが、そうでない者は住居に神経を使う傾向があるかも知れない。せめて住むところくらいは、ということである。(尤も芸術家<特に作家、美術家関係>は、住居に金銭をかけるというよりは、快適で自然のよさを活かした住居を好む独特の傾向が見受けられるが。)しかし孔子の時代における官僚同士の人間関係も、ベンヤミンの時代の退廃文化を支える市民の人間関係も、他者攻撃欲求を所有によるプレッシャー(暗黙の所有誇示)によって欲求充足を図っているという点では何ら変わらない。

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