Thursday, November 5, 2009

〔責任論〕十二章 記憶能力が形成するもの

 私達は未来が不確実であることを知っている。何故だろうか?それはある意味では記憶能力を発達させたから、とも言える。しかし同時に未来が不確実であることを知ったから記憶を発達させたとも言えるのだ。未来が不確実であるということを知るということは未来を想像する力があることである。未来を想像することが出来るということは現在における知覚をなしながらも、その現在性の中には過去から引き継がれたものと過去と断絶したものとの対比で現在を知ることが出来ることであるし、且つそのような過去から現在の流れを知ることを通して未来を想定することが出来るが、同時にそのあらゆる可能性、あるいは自分で想定する可能性外の出来事が不測な事態として起り得ることをも知る、つまり未来の不確実を知るということに他ならない。要するに記憶とは記憶した出来事に対する解釈を含み、そこには現在知覚時における表象とはまるで異なった出来事に対する印象、感想、解釈を通した全く別個の記憶内容(それは同じ事件に関する記憶でも人それぞれ違うということを意味する。)を持つことを意味する。
 意識に忠実なこととは現在の知覚がクオリアを通して顕現されながら、原像としてだが、それが想起契機として有効活用されることである。記憶は哲学者の言う欲望、あるいは脳科学者の言う情動、つまり広義の感情が支配するのだ。それは全部個的なことである。
 反省意識というものは記憶を手助けするし、同時に記憶によって形成されもする。そして反省とは後悔の念が作るとも言える。そして責任という概念は明らかに失敗が先験的に存在しているのだ。失敗のないプロセスにはプロセスという認識も生じなければ、後悔という念も生じ得ようもない。失敗があり、後悔があり、反省するからこそ責任という認識に意味が生じる。ここに次のような図式が与えられる。

 ↓   →責任‐記憶← ↓
後悔‐反省 ←→  欲望‐想定
  ↓           ↓
記憶    ←→     願望

 記憶はこの中でもとりわけ重要であり、これがなければ意識もあり得ない。というのも現在知覚というものはどのような動物でもあるが、その現在を、現在であると意識させるものこそ記憶だからだ。記憶は海馬が例えば場所の記憶などを司り、尾状核が行為的な手段の記憶を司ると言われる。(場所学習と反応<てがかり>学習)例えば会社に行こうとする。その時会社の場所とか道順は海馬が、そして切符を買ったり、横断歩道を渡ったりするそれぞれの手段の記憶は尾状核が司るわけだ。しかし不覚なことにも我々は会社に遅刻したり、切符を間違えて買って、乗り越しに気が付かなかったり、切れた定期を使おうとすることがある。そういう時我々は「しまった。」と思う。それが後悔である。そして二度とそういうことを繰り返すまいとする。これが反省である。しかし哲学で言う反省とは過去の経験的記憶全般にかかわることを言うので、哲学で言う反省ではない通常の反省である。そして後悔と反省を繋げ、二度とそういうことをすまいと誓うこと、これが責任である。責任とはある種の決意である。(先の図式の反省は狭義の反省を含む広義の反省。)
 責任は「こういう風にするぞ。」ということであり、「そうはすまいぞ。」ということであるから、決定である。それは要するに名詞的な思念である。叙述ではない。それに対して反省と後悔は叙述しながらするものであり、想起的であり、想像的な思念である。そしてそれは動詞的思念である。「もう少しこうすればよかった。」とあれこれ想像することだ。
 多くの神経学者、精神医学者たちが、記憶を、ある出来事(事実)に対する意味作用として刻印されると考えている。つまり事実そのものなのではなく、事実という意味内容に対する意味作用として記憶されているということである。すると先述したが、一つの事実に対する意味作用の様相が個人毎に異なり、その事実に対する解釈の仕方そのものが、その人間の性格であり、個性であることになる。そして過去の事実に対する反省と後悔の念の在り方が、独自に責任倫理をその個人に生み、その責任の行使の仕方がその人の人格であると言える。20世紀には偉大なる他者哲学者が(例えばレヴィナス)登場したが、他者という存在は、即ち記憶能力の行使の仕方、あるいは解釈内容の「異性」によって位置付けられる。他者の「異性」とは社会的には個性となって立ち現れる。他者哲学の故郷は記憶である。
纏めよう。記憶とは記憶される事実に対する意味付けである。それは茂木健一郎が言うクオリア(アメリカの哲学者デヴィッド・チャーマーズが提唱して、日本では信原幸弘や茂木健一郎が応用して使用した概念で感覚質、例えばベルベッドの肌触りとか餃子の味の食感とか)という知覚原像のモダリティー(様相)に対して彼が言うポインター(クオリアを位置付けること)に近いものかも知れない。そして現在知覚ではクオリアが先験的に立ち現れ、ポインターがそれを制御する。しかし記憶ではポインターが先験的に立ち現れ、そこからクオリアの記憶が呼び覚まされる。想起である。しかしそれは曖昧な部分もあって、恐らく現在知覚や経験によって日々内容の様相も、印象も塗り替えられている。過去の事実は一回きりのことだが、それに対する我々の志向はその都度異なり、記憶の様相自体も刻々と変化しつつあるのだ。例えばある友人と旅行に行った時の思い出は彼(女)と関係が良好な内は良い思い出として想起されるが、一旦個人的感情が拗れれば、途端に良い思い出は嫌な思い出に転化するというような。あるいはその逆のケースとかも考えられよう。
 それに対して責任とは過去と未来を繋ぐ意志であり、過去と未来を支える現在の意識が責任というものの所在によって倫理の網の目を通して顕現されることを意味している。責任こそ過去と未来を繋ぐものであり、現在の意識を明確化するものである。
 「明日こそこれをしよう」、「明日こそこれを他者に告げよう」、「明日こそあのようにはすまい」という決意が責任によって形成され、形成されたそのような思念が責任を自己に不可欠のものにするのだ。不可欠にされた責任によってまた次の決意が生まれる。
 ミシェル・アンリの哲学テクストとして「現出の本質」があるが、現出とは哲学上では、ある現象が立ち現れることを様々な要因が複合的に絡まり合い、その結果一つの事態の発現となることを指すが、従来本質とはその背後に隠れていると考えられてきたが、現象学出現以来実存主義哲学においてもそうなのだが、現出それ自体が本質であるという考えが定着してきている。その考えに従えば、責任は一個の現出であり、人間の本質であるとも言えるだろう。そして責任はそのような意識と記憶と感情の三角形において現出するというよりはそれら三つの構図を支える理念として、あるいは生理的な発動という面から言っても、人間の意志を支えるものとして常住していると考えることも出来る。だから海馬によって場所的特定をすることで社会的には自分のテリトリーを弁え、尾状核によってあらゆる社会的行動を恙無くこなすように自分を仕向けている。それら一切は海馬と尾状核の連繋作用を責任として自覚することで我々が社会活動を行っている証拠である。また感情も記憶がなく何の後悔も反省もない事態には生じ得ようもないし、意識も記憶なしには何の現在性に対する特別な認識も生じ得ようもないので、この三角形自体を一つの記憶能力(意識維持性)の全体的な発現と見做すことすら可能である。

No comments:

Post a Comment