Monday, May 28, 2012

〔言語の進化と責任〕第五章 自我の超越と宗教的行為、そして道徳的行為

 この社会には学問とされるもの、芸術とされるもの、あるいは宗教とされるもの等がある。哲学は学問であるが同時に極めて芸術的なニュアンスがあるものもある。美学などがそうである(現象学も文体に拘るところがある)。
 ところでくだけた話だが、自然科学者にはレオナルド・ダ・ヴィンチのように芸術と両立している天才もいるが(尤も彼は基本的には画家だ、と茂木健一郎は言っている)全く芸術的な素養のない人でも科学者として偉大な人は大勢いる。あるいは宗教家として名を馳せた人の中には偉大な科学者もいたが、科学に関しては無知でも偉大な宗教家はいた。そのように考えれば多芸多才な天才もいたが一つの道に朴訥に突き進む天才もいたし、その両方ともが偉かったと言っていいだろう。それは科学の知識に疎くても偉大な芸術家やスポーツ選手がいる(彼等は直観的にそういう真理を捉えている)ことと同じである。
 つまりそのような両立と独立という価値の錯綜が様々な学問の世界で散見される、と言うことなのだ。因みに心神喪失という言葉は法的な用語であり、精神分析とか心理学ではまた別の言い方をする。しかし今日のように社会が複雑化してきているような時代では他の専門用語でも専門家以外の多くの職業人が把握していなければ社会のニーズに対応しきれないという面もあるので、精神分析や心理学の用語はその専門家以外の職業人でも把握しておく必要がある。そしてそのように意識しなくても尚、今日ではネット・ユーザーの間では意識しなくても自然と視界に飛び込んできて、「さて、これはどういう意味だろう?」と首を捻れば即ネットで調べれば概略的なことくらいなら即座に知ることが出来る。
 しかしこのような職業的な領域の違いを超えた学者間の好奇心は今に始まったことではない。事実ウィリアム・ジェームスは当初生物学や医学を学び、解剖学等の素養を積んだ後、心理学にも挑んだのだ。つまり当初自然科学の領域に学んだ人がその後人間の心理について学ぶことになるという道筋は極めて多いケースである。そして医学や生理学といった要するに身体を客観的に、哲学の用語で言えば外在主義的に認識する学から、もっと人間の心理を主観的に捉える学へと関心が移行するという事態は、ある意味では医学や生理学の専門家でも、人間の身体が人間の心理と分かち難く結びついており、従って身体一辺倒では医療行為さえ困難であるという認識に至るからであろう。この事実は一面では現代の用語で言えば意識のハード・プロブレムに還元出来るように思われる。この考え方はオーストラリア哲学者であるディヴィッド・チャーマーズが初めて提唱した。(1994)しかしそのことについて触れる前に既にウィリアム・ジェームスがその考え方の萌芽を持っていたという事実から入って行くこととしよう。
 ジェームスはこの論文でも何回となく登場してきた「宗教的体験の諸相」で次のように言っている。
 「緊張、自責、心労が、平衡、忍従、平安へと移行するということは、私がこれまでしばしば分析してきた心の均衡のあらゆる転移、人格的エネルギーの中心の変化のなかで、最もふしぎなものである。しかもそのふしぎは、主として、この移行が積極的な活動によって生ずるのではなく、単に心をくつろがせて重荷を投げ出しただけで生ずる場合が多いという点である。この自己の責任の放棄ということは、道徳的行為とは違った、とくに宗教的行為の基本的な営みであるように思われる。それはあらゆる神学に先行し、またあらゆる哲学とも無関係である。(後略)」(岩波文庫、下、55~56ぺージより)
 私たちが今ここでジェームスから受け取るべきこととは、心を寛がせることというのは責務的に間違ってはいないということなのだ。つまり道徳的行為とは人間が社会内での倫理に照応させて価値と見做した行為であるが、宗教的行為とは、外見的な振る舞いとか対他的な振る舞いからよい結果を引き出すのとは異なった個人毎に異なった忘我に対する接近法を我々に自覚させてくれる。
 今日の社会はインターネットの普及によって自宅勤務も多くなり、昼日中街中でショッピングをする若者以外にも中高年も珍しくなくなってきたが、そういう現代のフレックスタイム制的生活は形式的振る舞いだけが責任ではないということを教えてくれる。
 ところで何もジェームスは宗教心と信仰心のみが社会を救うと無宗教を否定しているわけではない。無宗教であっても信仰心の一つなのだし、それは形を変えた宗教心以外の何物でもない(因みにデネットはジェームズを人類最初のミーム学者だとしている。「解明される宗教」阿部文彦訳、青土社刊)
 そして努力とか意識的な心得だけが好結果を得ることに繋がるのではないという主張としてもこの下りは拝聴に値する。
 社会的道徳はしばしば外見的所作とか形式随順的傾向の強いステレオタイプを招聘する。それは建前主義的な強制力以外の何物でもない。建前はそれが必要な最低限の許容範囲に留めてくおくべきであり、それ以上の強制力になった時本末転倒である。そしてここで最も重要なこととは重荷、つまり義務感、あるいは責務感から解放された時寧ろ初めて真に責任を遂行することが可能になるという事態がしばしばであるというジェームスの心理学者としての境地であり、それは哲学者としての彼の思想にも繋がっている。そしてジェームスは必要以上の媚び諂いとか言葉の安易な流行に対するアンチテーゼもきちんと述べている。(同書、下、61~64ページより)
 この考え方は特に「あらゆる神学の先行し」という下りからも明白であるが、よりカント的な神に対する必要以上の諂いに対する侮蔑感情(神も間違うことがある筈だという考え)をも読み取ることが可能である。そして極めつけは哲学でさえ生の時間での心の解放に比べれば何ほどのものでもないという考えである。この下りはウィトゲンシュタインの「このテクストを乗り越えねばならない。」という「論理哲学論考」の最終節の主張にも繋がる。
 NHKの紀行番組でも特集されたが、サルヴァドールのサンバのカーニヴァルでの熱狂を我々は道徳で推し量ったからと言ってその本質が把握出来るのだろうか?それは把握することすら意味を持つであろうか?それは感得の世界であり、子供から大人までが一斉に打楽器を演奏する様は陶酔と忘我の境地である。そして音楽教育云々というレヴェルで体得することが出来るものではない音楽のリズムと熱狂が幼少の頃から生理的にも、身体論的にも、心理的にもその根幹から沁み付いた彼等の生活は、親なし子たちや、そういう境遇の人々同士での隣人愛(キリスト教教義的な呪縛からのそれではない)、或いは人類愛のレヴェルでの大人と子供、老若男女の集いの中から生まれる。それは私が本論で言うところの真の信仰ではないか?神は一人一人の生活者の心の中に宿っているという思念が彼等には定着しているように思われた。そしてそのような大衆的な熱狂は実はどの民族も持っている文化であり、体質でもある。それらは自我というものとは一体どういうことなのかという反省へと我々を誘う。
 反省はヘッブが否定的に語った内観とは異なる。今日記憶の問題が大きくクローズアップされていることから、我々は環境と適応した行動とか遺伝子以外に、記憶作用というものを考慮する必要があり、それは内観主義と一線を分かつだろう。そして道徳という言葉をジェームスは先述の記述で否定的に扱っているが、では本質的に道徳的であるとはどういうことかという問いもまた彼の記述は産出しているのである。
 話をいったん言語学に移行させる。
 言語学者イエスペルセンは総じて文法規則において、その認識を主部(主語を含み、埋め込み文の場合にはその実詞を指す)と述部、そしてその関係性、そして実詞を目的語とする一次、二次、三次という等級を付け、端的に言えば階層性を設け、その階層性において支配と従属という観念で文法を理解しようとしている。これは英語のように目的語が見かけ上はっきりしている言語であれ、日本語のような膠着語と呼ばれる接続詞によって支配と従属とが了解される言語であれ変わりない真理である(膠着語では叙述で目的格に膠着する接続詞が状況説明と話者同士の情動的確認の意図がある。屈折語では状況即応的なことは統語全般に開放されていると考えてよい)。そして彼は主に形容詞や副詞といった品詞がその使用目的によって名詞化する動詞とか、副詞化する名詞といったような認識によって言語行為というものが極めて機能的にも、使用意図的にも恣意的なものであるという認識を示している。
 このことは言語が生き物であり、規則とか規約とか(その中には文法も含まれる)はあくまで言語学上の分類項目として設定された基準でしかないという思想が示されている。
 道徳というものもまたそういった社会通念とか時代毎の規約として作用しているという側面は否定出来ない。だからテクノロジーの進化によって社会常識や人間関係(特に組織での)がその認識すべき優先順位が変更されてゆくという事実に道徳もまた向き合う必要がありはしないだろうか?
 例えば性について少し考えてみよう。マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において示したプロテスタントの性生活上の規定として子孫繁栄以外の性的快楽追求を戒める言辞には、今日の家庭生活を営む人々も、恋人たちも懐疑的な思いを抱くのではないだろうか?つまりそれは端的に我々人間もまた動物であり、生物であり、社会的責務とか義務以外の時間のプライヴァシーもあっていい、ということになる筈である。
 確かに近代の殖産興業の時代にはそのような倫理規定にも一定の効力があったかも知れない。しかしそのような倫理が道徳的なコードとして今日通用すると考えている御仁は現代では希少ではないだろうか?巷には体位に関するハウツーものも飛ぶように売れたりする現代ではプライヴェートで一切強制力のないコード(米国のバイブルベルトではどうなのだろうか?)にしがみ付いているという事態にはあまり大きな意味を感じない人の方が多いだろう。
 再び言語に戻そう。言語は確かに支配と従属によって伝達事項を伝達内容として伝達対象に対して伝達者が意図的に示す信号である。しかしそれは言語自体が有している性格のように見えるのは表面的なことであり、文法とか一定の伝達習慣によって規約として存在する約束事に随順することで理解しやすくしているという事実として捉えるなら、説明的な理解というものの本質が個人的な能力とか個人的な性格的傾向性よりも大きい、つまり我々が考えるよりも個人間の差とは小さいものである、という事実へと我々を覚醒させる。つまり性と言語というものは、その行為(性行為、言語行為)において個人差よりも共通性の方が大きいということでは共通するという事実に我々を導くのだ。
 社会道徳が禁欲的になるとしたら、それは性的快楽への追求が果ては金銭的な悪辣な商法や詐欺まがいの利己的な行動が蔓延した状況下であろう(売春に纏わる退廃が禁欲を招くが故に)。 しかしことはそれほど単純ではない。何故なら禁欲的な道徳というものはただ社会という人間存在の一個人にとってみれば外部的な環境強制的なものを原因とするものではないからだ。個人的な懺悔心によってジェームスが示したような決意が個人内部でなされる時我々はその禁欲的な聖徳を対他的にもモラル上では適用してしまいがちだ。それはある意味では個人の間での共通性が差異よりも大きいという認識が仇となってしまう事態でもある。つまり自己内発的な宗教心はただ単に自己変革の道具として認識されている内はいいが、ある社会的強力を持ち始めると途端に様相を変化させる。
 しかしこう考えてみよう。もし生物が生殖という行動を採らずに、つまり異性同士の交配というものなしに、つまり雄(Y遺伝子の産物)なしに、雌一個体だけで子孫を形成出来るのなら、基本的に全ての個体はクローンとなる。しかしクローン同士は血族であるが、それ以外の他の個体群は全て他者(人間であるなら他人)である。そういう社会がもしこの地球上での進化の偶然で成し遂げられてしまったなら、少なくとも高等知性を持たない生物にはそういう繁殖の形態を選択したものも実際にはあるが、人間がそれに習ったとしたら、今頃とっくに人間の脳の進化の凄まじさの前で、他のクローン群に対する自己同一クローン群との戦いにおいて全ての個体は絶滅への道を辿ったかも知れない。
 つまり異性との交配という遺伝子のブレンドと適度の配列ミスによって人間という存在は多様性を持ち、豊かな隣人間での友愛と友情と、社会的協力を成し遂げてきたのであり、純粋同一遺伝子継承性を捨て去ったことが我々人類の繁栄を司ってきたのである。そういう意味では共通性を探ることが異性を前提している内は未だ平和であるということである。
 そこで人類は価値観の多様性への認識を持つことになった。勿論時として歴史はそれを踏み躙ってきた。しかしそのことに対する反省も常に繰り返してきたのだ。その際に漫才の「ぼけ」と「つっこみ」的なコンビネーションによる対話という性格論的、役割遵守的な対話によって辛うじて社会の崩壊を未然に防いできたとも言えるのだ。その時我々は宗教的行為というものの個人的なレヴェルでの救済と、道徳的行為の社会的レヴェルでの救済という事態を巧く並存させてきたのだ。
 一方で税金を払い、選挙に行き、社会的義務を行い、同時に家庭生活において個人的な幸福を築き上げていった。そしてその両者の中間に友情とか同僚同士の協力とかがある。自我は対他的な攻撃欲求を発現させることが要求される時には巧くゆくが、いったん防御の姿勢を解除した者同士では有効に作用しないことも多い。そこで一定の水準まで便利さが定着していった時、社会において共同幻想的な社会的事実に辟易した人類は、その度に「個」とは何なのかという問いを繰り返し提出してきたのだ。
 例えば日本では肉にしても魚にしても意図的に賞味期限を早めに設定しているが、それは食品業界自体が食中毒等の社会問題を引き起こすことを未然に防止し、責任を負うことを回避しようとしているからである。あるいは便利な商品、価値ある品目という題目は全て経済社会自体が捏造した欲望である。つまり消費欲求とか、アップグレード化された商品を消費するサイクルを作り上げるために社会全体が人間にそれに巧く対応出来るような欲望を作り出しているのだ。その欲望によって人は不安になる。つまりその欲望を充足出来ない成員は、立ち遅れているのではないかという不安を嫌が上にも掻き立てられるのである。その不安を除去するために現代社会では新たな任務が要請され、新たな責任が作られてゆく。その責任をつくるために不安は恣意的に作られ、ある時には意図的に作られるのだ。それは病気という事態に対してもそうである。
 病気は作られるのだ。つまり正常と異常の価値基準自体が、社会全体のムードによって作られてきたのだ。そのムードを煽るのがマスメディアでありマスコミである。
 ある報告(「抗うつ薬の功罪」デイヴィッド・ヒーリー著、田島治、谷垣暁美訳、みすず書房刊)によれば「抗うつ薬が導入されてからうつ病の頻度が1000倍にふえた」と言う。これは今までになかった形での要請、つまり新たに作られた新種の病気に対応するために処方される薬剤を投与し、その投与がまた新たな病気、つまり恣意的に捏造された異常(恣意的に作られた克服対象であるところの)を産出することとなって、薬事業界とか医療にとって恰好のターゲットを作り上げている。それは社会全体の経済サイクル的なニーズだけが優先された結果である。当然のことながらマスコミがその尻馬に乗っていることは言うまでもない。ではそういった現状をどのように改善したらよいのか、どのように切り抜けたらよいのかということになると、政治を正すのだとか、新たな数値目標をたてるべきであるとか色々な考えが捻出されるだろうが、それらも一聴に値するにしても、それ以上に重要なのは、我々一個一個の個人が意識的な変革、つまり当然過ぎる真理に向き合いつつ、社会全体が作り出す風潮というものに対して安易に迎合することなく、日々冷静に判断する(消費に関しても、マスコミや政治が題目を唱える今日的課題が真に正しいのかということに関して)ということに尽きる。
 宗教的行為が真に自己内の自覚によって執り行われるような素地を自ら築き上げるということが大切ではないだろうか?宗教的という言葉が嫌なら無心で取り組める充実した生における行為としてもよい。信仰という言葉が嫌なら信念を持って生きるということでよい。道徳さえもが社会全体のムードによって自然と形作られているという現実に対しては、「待てよ」と互いに声を掛け合う勇気を持とうということである。

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