Thursday, May 17, 2012

〔言語の進化と責任〕第一章 言語活動を成立させる基盤②

 例えば哲学者のダニエル・デネットはリベットの実験以外にも主観的な意志決定の瞬間が、自分であの時だと思うよりも先に脳内では決定されていることの好例としてグレイ・ウォルターの実験について言及している。
 つまり我々がこのデネットの論述から学ばなくてはならないことというのは、我々は我々の脳から決して自由にはなれないということと、自由の領域とは物理的な時間的事実ではなく、我々がそれを決心した瞬間であると脳から言い渡された(この表現が酷く宗教的であると言って気に入らないのなら、脳がそのように我々にある閃きとか考えをセットしてそれ自体を確固たる認識として理解させるように仕向けた<この表現は脳を一個の意志決定のコンピューターとして見做している。>と言ってもよい。)瞬間をこそ自分で決めた瞬間であり、また記憶上ではその瞬間は徐々にずれてゆくこともあり得る、それこそが現在を特殊な位置として認識する脳の、いい意味での自由な解釈を許す生存戦略であると言えるだろう。しかしこのような自由と非自由との認識論的な闘争、我々の思考内部での葛藤は果たして現代に固有の事態であるかと言えば、それはノーである。
 へーゲルの考えでは純粋洞察とは、カントの言う如く悟性に近く(尤も、カント哲学はこと道徳という倫理的主題に関してはへーゲルのような超越的な神の視点を採用してはいない。永井均の主張するように、ソール・クリプキは明らかにデカルト主義的な自己、自我、我の考えを基準に他者性を考える哲学者永井からすれば、超越的視点の採用によって自己哲学を構成していると言える。「私という存在の比類なさ」中、他者より。その点ではクリプキはヘーゲルと同一の志向性を有していると言える。)、それは啓蒙思想の中の合理主義と合致し、明らかに彼の言うもう一つの人間の思惟、つまり信仰と対立する。信仰とは一つの決定である。それは要するに逡巡の撤回であり、迷いの死への誘いである。しかしポール・リクールやそれ以前にもサルトルが主張していたような意味で、迷いとか考えあぐねることというのが可能性の承認であるような意味で奥深いものでありながら、同時にそれをいつまでたっても行動に移さないということにはある種の停滞以外の何物もないと言わねばならない。確かに行動は他のあらゆる可能性の放棄である。しかし行動しないことはもっと多くの可能性の放棄である。事実19世紀以降の多くの哲学では明らかに行動という投企あるいは企投によって問題を(ただ単に社会哲学的視点からではなく)見据えることをモットーとしてきているし、その事実に対して私は歓迎すべきことであると考えるからである。(因みにヘーゲルが言う純粋洞察と真理希求の傾向性<彼は一方でそれを認め、他方でそれを批判しているのだが>とは、彼によれば人間の考える理想的な在り方への便利な接近方法である。これは否定という論理を主張したヘーゲルの「実在は常にある程度理想からは隔たっている<これは平均的な今日の自然科学の認識である。著者注加入>。」が、それを常に否定しながら、それ以上の在り方の可能性を探る人間の傾向性を示したという意味合いでは、サルトルが「存在と無」で考えていた「そうではあらぬかたちでそうであること」という思惟の理想希求型の実存に対する未完了恒常性という観念を誘発したと言えると思う。)
 ともあれヘーゲルはその二つを二項対立的に捉えたのだ。彼は「信仰は偶然を否定しない。」と言った。(「精神現象学」長谷川宏訳、388ページより、作品社刊)しかしそれは偶然というものを今日流に言えばセレンディピティーとか、あるいは古風に言えば啓示(アンリの好む語彙である。)とかお告げであると捉えてのことである。その中でも至上のものとは要するに奇蹟である。しかし同時にもしこの世に生起する全てが偶然であるとするなら、自然科学的な因果論認識の必然的な生起に対する理解と容易に共存し得るのではないか?  ヘーゲルもヘーゲルを分析するアンリもそうだが、悟性とそれを支える理性と信仰を彼等は敢えて極度に分離させてみせる。そして信仰それ自体も決して否定しない。その意味では進化心理学あるいは社会生物学の学者としてその徹底振りで知られるリチャード・ドーキンス、ダニエル・デネットあるいはニコラス・ハンフリーと彼等は対立する位置にいると言える。しかしことはそう単純でもない。
 哲学者の信原幸弘は指摘している(「考える脳、考えない脳」講談社現代文庫)が、我々は因果論的認識つまり合理的思考を常に、そうは割り切れないような思考と共存させてもいるからだ。彼は前者を至上のものとする哲学や脳科学の考え方を古典的計算主義であると言い、後者を含めた脳の傾向の捉え方をコネクショニズムであるとする。そして習慣的行動を誘発する脳の活動はコネクショニズムの考え方を採用すると理解しやすく、それは古典的計算主義では捉えきれない活動をも指示するとする。そして暗算とは視覚的に計算式を書くことを想像することだから、知覚皮質が実際に紙に計算式を書く時のような活動を脳がすることを指摘し、外部環境からの入力を糧に脳内で思考することだから、純粋脳内活動ではないと考えておられる。しかもそれらの脳活動をニューラルネットワークという枠組みで捉えることの方がより有効であり、無意識という意識で解明出来ないことの全てをそこに収めるやり方が既に無効となっていることを主張する。結局氏は結論として心と脳は一致せず、心は脳活動よりも広範であると考えておられる。それは最終章の次の記述によって結論される。
 「(前略)脳と身体と環境はひとつの大きなシステムを形成していると考えることができるでしょう。構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この大きなシステム全体によって産み出されるのです。すなわち、脳の働きが身体を動かし、それによって環境のなかに構文論的構造をもつ表象が作り出され、それを脳が知覚して新たな身体を動かし、等々というふうにして、表象の操作がなされるのです。構文論的構造にもとづく思考は、脳と身体と環境からなる大きなシステムによって、そのサブシステムである環境のなかに産み出されるのです。
 心の動きのなかには、脳の働きのみによって脳の内部に生じるものもありますが、そうではなく脳の働きによって身体をつうじて環境のなかに生じるものもあります。したがって、心の働きのすべてが脳の働きだというわけにはいきません。心は脳を超え出て、身体をつうじて環境にまで及びます。身体や環境がなければ、心は完全な形では成り立ちません。脳と身体と環境からなる大きなシステムが心なのです。  心の動きは、この大きなシステムの脳のところで起こったり、あるいは環境のところで起こったりします。脳のところで起こる心の動きは、構文論的構造をもたない表象の操作としての働きにかぎられます。それにたいして、環境のところでは、構文論的構造をもつ表象の操作としての心の働きも生じます。発話による意識的な思考は、そのような心の働きの代表的なものです。
 心は脳に尽きるものではありません。脳がなければ、心がありえないのはたしかですが、脳だけで、心が成り立つわけではありません。心には、身体と環境も必要です。心は脳と身体と環境からなる一大システムなのです。」(207~208ページより)
 信原氏が自著で指摘されているように、無意識のレヴェルで選択しているようでも、実際にはその脳活動にはそれなりの根拠がニューラルネットワークを通じた神経的記憶に刻み込まれている。してみると「信仰」とは本来古典的計算主義的な論理、つまり論理構造を文章に置換可能な形で考える仕方では収まりきれないと言うことが出来る。それは論理的納得以前の、もっと感得的な理解、あるいは「そうとしか思えない」という信憑性のクオリアに起因するものと考えられる。そういった信念とは幼児期における体験に依拠した感動のクオリアということが根深く作用しているのかも知れない。(有神論者においても無神論者においても変わりなくその体験は刻み込まれている。)体験もまた一個の環境であると考えることが出来るからである。そして体験は身体的な情動をも含むからだ。
 ニコラス・ハンフリーの「喪失と獲得」中の<子供に何を語ればいいのか?>で彼は散々偏った宗教的(キリスト教も含む。)ドグマに対して子供を大人の子供に対する(とりわけ両親の子供に対する)特権的なエゴから子供を守りつつ、合理的科学的認識(彼はそれを自己参加の可能な理想的な選択であると考えている。それに対して宗教的教義は子供の側から自発的に選択するような種類のものではなく、明らかに外部からしかもその子供の属する国家や民族からではなしに、他国のしかも現代のものではない考え方のみ正しいとし、それ以外の全ての選択肢を排除するように仕向けるものであるとしている。要するにそれらは参加型ではないのだ。そしてその中にはキリスト教の聖書原理主義も含まれるのだ。他者からの押し付け型の信念は、決して両親でさえ特権的に行使出来るものではないと彼は考えている。)を自由にしかも子供の内発的要求に従って選択させるような環境を提示すべきであると提唱しながら、最後の最後で「申命記」(旧約聖書中の一つ)の記述を教訓として使用しているのだ。このようなテクスト民族的伝統依拠的な方法論はリチャード・ドーキンスにも見られる。しかしそのような方法的な潔癖さをいつまでも主張していたら、具体的な主張はいつまでたってもなされ得ないとも言えるのだ。我々日本人が哲学を理解する時我々の民族的な理解しやすさから、我々の文化を唯一のものとして理解してはないにしても尚、我々自身の理解しやすさから日本文化に通底するコードを理解促進のために語彙使用するということは間違った手法ではない。要するにそれが行動するということである。
 サルトルはそのことに関して真理への希求が大切であると主張しながらも、こうも言っている。
 「結局すべてを知ることは、何もしないことである(伝説と神話)。それはなぜか。それは全体的知が与えられた知であり、それゆえ、もはや構築の可能性がないからである。」 (「真理と実存」澤田直訳、179~180ページより、人文書院刊)
 つまり可能性の封印とはある意味では可能性の開示でもあるのである。だからこそ必死にハンフリーは子供に対してある種の偏った教義を教え込むことを、そのような選択は最終的には子供本人が自主的に選び取るものであるという観念を教え込むためにだけ例外的に認められするが、それは子供の性格にもよるものだし、決して積極的に彼は推奨してはいないのだ。
 キリスト教文化圏にいて生活しながら、それを文化的基盤としては受容しながらも、同時にその事実を冷徹に見ることというのは、ある意味ではヘーゲルの否定しつつ受容するようなスタンスからしか為し得ないのかも知れない。つまりハンフリーやドーキンスのテクストに見られる一方で宗教的ドグマを批判しつつ、その文化的な方法論を採用することに関しては決してタブーを設けないというスタンスは実はヘーゲルやアンリにも如実に示されているのだ。彼等のテクストに関する叙述に戻るとすると、彼等のテクストでは明らかにキリスト教的な信仰を否定してはいないが、キリスト教の自己犠牲的精神の奨励に関しては痛烈に批判しているのだ。まずヘーゲル、そして続いてアンリの叙述に示された批判をここに引用し、続いて彼等が無条件の信仰の批判を加えつつ、同時にハンフリーやドーキンス、デネットとはまた少々異なった第三の立場を模索していることを示し、再びハンフリーが示したプラシーボ効果というものとどんなに無神論者でさえも共存して生活しているということについて考えてみよう。そしてそれが言語的な進化の上でどのように責任倫理と密接に繋がっているかを次章では考えることにしよう。
 まずヘーゲルの「精神現象学」で示されたキリスト教批判から見てみよう。 「信仰は偶然の知を否定はしない。偶然のできごとと関係するのが信仰というものだし、絶対の神も日常の現実的なイメージの形をとってあらわれてくる。だから、信仰者の意識は、真理とはいえない確信をもつこともあるし、自分がありきたりの意識であって、おのれを確認し確証していく精霊とは離れた位置にあることも隠しはしない。が、絶対神を精神的に直接に知る、という段になると、そのことを忘れてしまっている。一方、そのことを信仰に思い出させる啓蒙思想は、ここでもまた、偶然の知のことだけを考えて、永遠の知のことは忘れてしまう。見知らぬ第三者によって生じる媒介の働きだけを考えて、直接目に見えるものが第三者であり、それを通じてそれとは区別される自己自身との媒介が生じる、という媒介の働きについては考えないのだ。
 最後に啓蒙思想は、信仰者の行為を論評して、快楽や所有を放棄することは正しくなく、目的にかなわないと考える。正しくないと考えるのは、財産を所有し、確保し、そこに満足を見いだす現実を承認するという点で、信仰者の意識と啓蒙思想とは考えが一致しているからである。が、信仰者は財産の所有についてはあくまでそれを守りぬこうとし、快楽についても乱暴にそれに身をまかすのであって、それというのも、所有と快楽を放棄する行為は、この世の現実の彼岸にあって、彼岸での自由を約束するものだからである。自然の欲望や犠牲にするという行為は、彼岸と此岸の対立をふくむがゆえに、真の宗教的行為ではない。犠牲の行為と並んで保有の行為が生じるので、犠牲の行為といっても象徴的な意味合いが濃く、実際に犠牲に供せられるのは所有物のごく一部で、犠牲は実際に思いうかべられたものにすぎないのである。」(同書、長谷川宏訳、388ページより、作品者刊)
 続いてアンリの叙述を引用し、その後で二人に共通したアンチ・キリスト教教義随順主義の見解について考えてみよう。少々長いがお付き合い願いたい。
 「ヘーゲルは、すでにその青年期から、生について、そして生の本質との関係においてキリスト教について、反省をめぐらせている。キリスト教は、ヘーゲルにとってただちに、「生の制限」であるように思われた。<キリスト>は多くのものを放棄する。たとえば個人が自分の生きる社会とのあいだにもつさまざまな関係を、一般的にいえば、生のすべての外在的形式を放棄する。「たくさんの活動的結びつきや生き生きした関係が失われた」。キリスト教を定義づけるもの、それは生の豊かさの対比における、ある種の「貧しさ」であり、この「貧しさ」の本質的性格を了解することが重要である。というのは、あたかも、特定の事物が拒絶されたり禁じられたりする一方で、少なくともそれ以外の事物は許されているかのように、たとえばある道徳的教えとの関連における相対的な貧しさが問題となっているのではないからである。本当のところ、キリスト教はどんなものも存続させはしない。なぜならキリスト教は、ヘーゲルからみると、事物の本質そのものを審問に付すからである。事物の本質、それが<精神>であり、現出しているというその性質における具体的で現実的な存在であり、客観性そのものなのだ。だが客観性は<キリスト>にとって「最大の敵」であった。このために<キリスト>は彼に従う者たちとともに、いっさいの事物を奪われた絶対的な貧窮の内で本質的に貧しくありつづけなければならなかった。たしかに、この貧窮は、弟子たちからみると、見かけ上のことにすぎない。この貧窮がもついわば面は、ある豊かさの世界の方に、つまり内面的であろうと欲しそのようなものとして無限でもあるような豊かさの世界の方に向けられている。<キリスト>が教えているもの、それは心の純粋さであり、内面的で限りのない愛である。だが、これらの語が意味をもっているとするなら、そのような愛に支えとして役立ちそれに実在性を付与することができるのはいかなる本質なのかを、存在論的次元において指示できるのでなければならない。キリスト教が原理上身に捧げている貧窮は、存在論的観点からすれば、否定性という本質から切り離され、唯一具体的である<全体性>から孤立させられるならば、もはや一個の空虚なカテゴリーにすぎなくなり、その意味は失われてしまう。自己自身では一個の抽象物でしかないものを「その絶対性において保持しよう」と欲すること、それは「狂信」に落ち込むことである。キリスト教の宿命は、本質ではないもののうえに自らを根拠づけようとする試みから帰結するのであるが、そこには、真の本質を、すなわち客観性そのものを拒絶しようとする空しい意図が付け加わっている。」(同書下、999~1000ページより)
 アンリはイエスその人を批判しているわけではない。寧ろそのイエスを奉るその後の教義的な教えそのものを批判している。そしてそこで我々が着目しなくてはならないこととは、アンリ自身が熱心なキリスト教徒であった筈であるその内部の側の人間から発せられた発言であるだけに最後の一節は極めて辛辣な、キリスト<教>批判となっているということである。それは内部的事情を知る者のみが遂行し得る勇気ある提言であるということだ。アンリは続ける。  
 「ところでこうした二重の企図の内には、破壊的な矛盾が存している。というのも、本質に対立させられようとしているものは、当の本質の一契機、つまり、当の本質の実体と共にし、実際には同じ存在論的意味をもつ本質の一契機にすぎないのだから。事実、存在がそこにおいて限定態という特徴を伴って自らを現出させることのできるような現象学的地平の開けの内に、客観的な本質が存しているかぎりにおいて、否定性は、この客観的な本質とひとつのものである。否定性とは限定態のカテゴリーなのだ。主観的な本質を欲し、それと同時に、客観的な限定態を拒否する、などということはできない。<絶対者>が自らを主観性たらしめようとすることと、<絶対者>が客観的限定態というかたちで自ら自分自身に現われ出ようと欲することとは、ただひとつの同じ欲すること、つまり、<絶対者>が自分自身にとって現前的であろうと欲することなのである。限定態の拒否はキリスト教をまったく空虚な一種の「無定形さ」(amorphisme)へと引きずり込む。なぜならその信徒は、世界から顔を背けることによって、生の豊かで具体的な諸形式を失ってしまうばかりでなく、実際には、否定性の主観的な本質もまた彼から逃れ去ってしまうからであり、それというのも否定性の主観的な本質は、彼が顔を背けようとしている現実性の構造そのものに属しているからである。そうなると、存続するものは厳密に何ものでもない。すなわちそれは否定性の無でさえもない。キリスト教が新たな王国をそのうえに築こうと試みているこの「何ものでもないもの」について、われわれがともかくも語ることができるのは、実際には、この実存性を表象しているから、つまり、光が支配する原初的な領野へとこの実存性を投影しているからなのだ。しかるに、キリスト教が最終的に到達しようとする想像上の最終項である<天国>は、いっさいの超越的な表象そのものに属している程度の現象学的実在性をもっている。この現象学的実在性を、キリスト教はあきらかに現出の本質に、いいかえれば、客観性の本質に負っているのである。他方、周知のように、キリスト教において神の愛は、何よりもまず現実に与えられた次いで記憶の内に保存された具体的な人物のかたちをとって人間に提示された。キリスト教的実在性は、世界の中に介入することによってしか、自らを現出させることができない。「神的なものが現われるためには、見えない精神が見えるものとひとつに結ばれなければならない」とヘーゲルは言う。神的な存在それ自身は、人間のそばに居ようと欲すると同時に、いっさいの現前の本質を見誤っていることなどできない。諸々の奇跡、預言、秘跡そのもの、あらゆるかたちのもとでの信仰、いたるところで愛と結びつき愛がそれなしにでは生を欠いたものになってしまうような歴史的境位、これらのものがそこ存在するのは、キリスト教は自らが断罪するものなしで済ますことができなかった、と証言するためなのである。」(同書下、1000~1002ページより)  
 「賛成したいのですが。」型発言に見られるような心的状態での言辞とは、実はそれ自体で一つの責任の在り方を巡る論争に一石を投じる。と言うのも本来責任とはその負い方においてより客観的判断よりも主観的判断において重大なものとなるものだからだ。それは罪を犯した者の法的な処遇等を見れば明白であろう。しかし困ったもので人間は不確実な未来の可能性に一か八か賭けてみるという傾向もあるのだ。それをギャンブル的感性と呼ぶこととしよう。つまり主観的な判断、つまり個人的感情による直感で判断した場合に成功した時の報酬に対する欲求による内分泌、言わばドーパミンの放出量は通常よりも絶大であるということも脳科学では知られている。つまり報酬への欲求とは責任の重さ(つまり行為の成果に対する不確実性)に比例して増大するというわけである。この真理は宗教的感情においても変わりない。つまりアンリが真に言いたいこととは、宗教が客観を回避しようと欲するのは教団そのものがその信奉者たち共通の主観(的幻想)がもし功を奏した時の快楽が絶大であるということにおいて成立した集団的ヒステリーの結果である以上必然的であるということなのだ。それは苦しい時の神頼みであることの本質的な空しさに対する自己言及(キリスト教徒自身による告悔)なのである。しかもこのアンリによる欧米人懺悔型のキリスト教批判の背後にはカントが「道徳形而上学原論」において述べた神でさえも誤っている場合にはそれに従う必要なしという人間の神からの独立という観念も控えていると見ることが出来る。   提言的、苦言的言辞である「賛成したいのですが。」型言辞とは実は、四面楚歌状態では極めて反社会的意思表示以外の何物でもないと言えるのだ。それはそう言い放つことで、自分と相同の胸中の者の出現を暗に期待するというかたちをとったプロテストである。そしてアンリがヘーゲルに習って示したこのキリスト教批判は、サルトルが「本質は実存に先立つ」とのたまわった「実存主義とはヒューマニズムである」以来の本質的反逆である。 それは次の一節にもよく示されている。
 「(前略)神的なものが初期キリスト教の共同体に自らを現出させ続けることができたのは、自らの有限な形式を保持するという条件のもとでだけであったのと同様に、ヘーゲル的な<概念>が有限な限定態の定在から身を引くことができるのは、本当のところ、自己への帰還というこの運動が、実際には、自己の外部へと赴き外在性の光の中で自らを自己自身に対して現出させるという作用以外の何ものでもない場合だけなのである。(中略)ヘーゲルが了解しているようなキリスト教の宿命、つまり、客観的限定態なしでは済ますことができないという宿命は、ほかならぬヘーゲル主義の宿命そのもの以外の何ものでもない。」
 ここには明らかにヘーゲルの考えるキリスト教と、実態とはかけ離れているという考えがアンリによって示されている。そしてそこには特に前半部でだが、ヘーゲルに対する楽観主義的な考え方に対する批判が交えられてもいる。端的に言えばヘーゲルの時代には精神とか神経とかの作用それ自体もそうだし、その綜合作用自体に対する認識は科学的にも哲学的にもなされていなかった。しかしその現代へとやがて到達する時代の中でヘーゲルが現出という概念に光を見出していたという事実に対してアンリは敬意を表明してもいるのである。それは「<概念>が有限な限定態の定在から身を引くことができる」という可能性をヘーゲルに見出しているところから了解出来る。
 概念とは本来ある決まった社会でだけ通用するような符号ではない。尤もそのような符号と概念を識別することが可能でない限り逆に概念だと思って符合を使用するとしたら、その成員は単に言語使用に関する規約を知らないというだけのことである。しかし概念もまた人類の曙においてはある集団内だけで流用される符号からスタートしたのだろう。そのことは限定態という概念でしばしばアンリが述べる言述において、特にキリスト教批判の箇所において了解しやすく示されている。彼が言おうとしている限定態とは固定観念に発展しやすいある思い込みとか、確固たる信念を形成する人間の傾向性のことではないだろうか、と私は考える。(賢明なる読者諸氏のご意見を拝聴したい。)
 アンリはヘーゲルが考えただろうキリスト教のあるべき姿に対する着眼に対して敬意を払いつつも、その限界を指摘し、かつキリスト教教団的教義世界の限界も指摘することを通した彼固有の「賛成したいのですが。」型の西欧人による西欧人のための(あるいはそれ以外の文化圏の全ての固有宗教文化保持者のための)哲学を構成しようと目論見たのだろう。そして彼の批判するキリスト教文化圏の最も象徴的な日常的所作とは「神に誓います。」という言辞に見られる無頓着なのである。哲学者は宗教的発言に対しては、幾分形式主義的なニュアンスに関して懐疑的である。もっと直裁な言葉を求めている節があるが、実際言葉が直裁であることはいたく他者を傷つけてしまうということもあるのだ。(第九章あるいは結論において詳しく論じる。)
 「神に誓います。」という言辞には本来、神に逆らわないから、神の思し召しであるのなら、たとえそれが誤った選択であったさえそれに付き従いますという意図の表明なので、その言辞に纏わる責任とは一種の責任転嫁、もっと積極的に批判すれば責任放棄である。人間が内発的に主体的に、自らの意志で動こうとする時、その宣言は従属からの解放を欲求することの意思表示である筈だ。それはある種の言語の進化と言えるのではないか?つまり言語の進化とは統語秩序の完成というような形式的事実以上にある意味では「神に誓いたいのですが。」と言うような自らの主観を信じることから発せられる非従属的な判断の宣言への進化そのものである筈であり、それは形式的には無宗教的色合いを濃くする筈なのだ。それは全ての責任を自己の判断に負い、真実の正義への直観に対する覚醒の宣言なのである。神とはいかようの性質のものであっても、責任転嫁を相互に認可し合う暗黙の同意以外のものではない。 
 日本人は元来無宗教民族と言われる。しかしそういう性質の民族にも無宗教なりの宗教がある。それが世間体であり世間様であり、世間一般の常識であり、有職故実であり、天皇制であり、あるいはそれら全てを巧みに利用するマスメディア(これは新聞、ラジオ。テレビ出現以前から瓦版、その他でずっと日本民族にあったことである。)という得体の知れぬ暗黙の世間的協定である。故にそういうものをも宗教と言うのなら、宗教の責任とは極めて限定された成員間での閉じた村意識の賜物であり、小さな運命共同体意識の発露以外の何物でもない。イエス・キリストが村の鎮守の神様に代わっても、あるいはテレビのニュースに代わってもその正体は実は同一のものである。確かにイエス・キリストは偉大だったのだろうし、神武天皇もそうだった筈だ。そしてそれら一切の宗教的信仰者間のコードはあってよいものであるし、文化的な遺産であろう。しかし同時にそれが現在生きる全ての人の個人的責任と選択的自由を狭めるような性質のものであるのならどのような世界遺産と言えども弊害以外の何物でもなくなるだろう。
 本章の結論めいたことを言わせて頂くと、言語成立の基盤の成否とは意味論的世界としての感情表出という観点に立てば、要するに自己責任の所在に対する不明瞭な明示の仕方から、確固とした明示の仕方まで、つまり「誓います。」型から「賛成したいのですが。」型までの推移(その他の中間例は次章以下で示そう。)に見られる責任の度合いに応じた意思疎通自体の規定の仕方にかかっているということである。
 哲学者の永井均は他者性というものの可能性を「私」以外の全ての他者が意識を持ち、その意識がゾンビではないということを必ずしも立証出来ないという不可避的現実への直視からしか獲得し得ないと考えている。その考え方はディヴッド・チャーマーズも信原幸弘も同一のベクトルで表明している。それは責任というものの在り方そのものに対して我々が「私」というものの構成され方、つまり<私の責任>を意識するのはどんな時か、という問題へと我々を必然的に誘うのである。そこにはある種の運命共同体的な考えが助けになるものと思われる。次章ではそういった観点から考えてみたい。

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