Thursday, May 24, 2012

〔言語の進化と責任〕第三章 視覚情報の意味と言語

 生命進化上での大実験場であったとされるカンブリア紀において遊泳性のナメクジ状の動物ピカイアが我々人類を含む多くの動物の祖先とされ、彼等が生存を継続したからこそ、我々の今日があるということになる。何故彼等が絶滅しなかったかというと、案外その形状が単純であり、何らかの環境の激変に対して特殊な環境に完璧に適応していなかった、という事実こそが最大の理由かも知れない。何故ならある環境条件に対する完璧な適応という事態は、その環境が激変した時には最も絶滅しやすくなるからだ。要するにいい加減に適応している者こそ、環境の変化に常に対応出来るというわけだ。
 尤もピカイアからイクチオステガやプルガトリウス等を経て我々の祖先に至るまで相当長い年月を要したのだから、そこには奇蹟的幸運の連続という偶然が大きく作用していると考えても間違いはないだろう。
 しかし前章で触れた自我という作用は生存を安定したものにするために必要な作用であるが、それは前頭前野によってなされていると考えられているから、その作用は意外と眼に近い部位で行われており、脳科学者たちが眼に近い部位において自我が活性化されているのなら、彼等が躍起になって追究しているクオリアが自我の作用によって生み出されていると考えられているのなら、一歩進めて言語が大脳辺縁系と即頭葉によってなされている、しかも即頭葉が記憶の格納にもかかわっているということを考えれば、言語活動の進化過程には視覚情報が極めて密接に関わっているということも容易に想定し得るのではないだろうか?
 男女の脳の特質は微妙に異なっていると考えられているし、事実ある程度証明されているのだが、空間把握能力において行動したりすることにおいては男性が、平面的な配置に関する記憶では女性がより平均的には秀でているとされるが、この二つは協力し合って、空間把握とか空間的な記憶を支えていると言えるだろう。
 さて言語活動に於いて敢えて強引に男性性と女性性というものをでっちあげてみると、支配と統制に秀でた男性性としての能力と、共感と友愛の女性性の能力が密接に協力して言語行為をなさしめる人間のコミュニケーション能力を進化させてきたのではないかとさえ考えられる。その進化には男性も女性もないというわけだ。そして空間的把握を可能にするのは紛れもなく脳の視覚情報処理である。
 眼が進化した時期もだいたいカンブリア紀に該当する。眼の動物における進化上の登場は画期的であったことだろう。何故なら空間移動において彼等の移動をスムーズにするためには障害物を認識する必要があったからだ。障害物以外のものに対する認識は寧ろ当初は副次的な効果でしかなかったであろう。しかし興味深いことには副次的な効果の有効利用ということがしばしば進化過程において多大な貢献をするということはどのようなタイプの歴史を見ても珍しいことではない。要するに瓢箪から出た駒的な発見というものは偉大な人間による自然科学的な発見に留まらず、自然全体のセレンディピティーにおいても効力を持っているものと見える。
 私は長い間空間把握能力を言語と結び付けて考えていた。実際言語獲得後の人類は、ちょうど言語習得後の幼児に見られるような世界を秩序付けて把握する能力に秀でるようになり、ある意味では言語が空間を説明する能力から理解するようになると考えていた。そしてそれはある程度事実だろうと思うが、言語というものを全く習得していなくても尚空間的な把握という能力は行使出来るのではないかと考えが変わった。事実数学の幾何学の感性とかも言語習得後の説明能力だけではそれこそ説明が尽かないと思われるし、また論理というものもまた必ずしも言語的能力、言語的思考のみが全てではないような気がしてきた。ここに私の言語支配観は変更を余儀なくされた。そして寧ろ逆な場合も十分あり得るのではないかとさえ思えてきたのだ。
 例えば遠近感という把握能力は言語的な秩序を理解する能力とは異なる。そしてAとBとCという実体が目前にあって、Aが一番自分の近くにあって、Cが最も遠くにあるから、Bはその中間であり、AよりBの方が遠くで、BよりCの方が遠くだから、従ってCはAより遠くにあるなどとは実際の空間においては考えたりしはしない。この場合には論理というものは言語的な制約に基づいているように思われ、従って実際の視覚情報による把握とは異なるという面が強調される(それは端的に記録するとか、記憶していることを語るという説明原理の問題に過ぎない)。
 しかし同時に遠近感そのものをそのように論理に置き換える時に、必ずしも我々は言語的な思念に全てを委ねていると言い切れるだろうか?寧ろ言語は後付的な理解の仕方として採用されているに過ぎないとも言える気がするのである。
 ただ我々はたまたま言語を持っているので、それを利用して空間における遠近感とか、順序とかの秩序を言語で説明出来る(それは内心で自分に対してでもそうであるし、他人に対してもそうであるが)という副次的な効果に身を委ねているだけであり、全てを言語のお陰と考えるのは少々行き過ぎた認識であり、我々は眼が本来有していた筈の目的(こういう言い方は自然科学上では特に物理学的には許されないだろうが、生物学的には許されるかも知れない。)に適った眼に対する認識を取り戻すことが出来るような意味で、言語の持っていた存在理由とか、空間的な把握能力における遠近感とか、幾何学的図形理解とかの能力が、言語的な論理による説明ではなく、それ本来の能力として認識する必要があるような気がするのである。また論理自体も、言語的な説明というレヴェルの前段階として、論理的思考回路自体の非言語的な感性(言語には言語の感性があるのだが)から見届けてゆく必要があるような気がするのである。
 そう言いながら言語に関してとりわけ記述行為に関して再び触れておこうと思う。
 ミシェル・アンリのテクスト「現出の本質」を本論で大きく取り上げたからなのだが、彼以外にもカント、ヘーゲル、ハイデッガーやメルロ・ポンティー、サルトル等には共通して何回も同じ主張が全く同じ文面であれ、あるいは少々変更しながらであれ、繰り返し登場するという事態が決して珍しくないという事実に対して我々はどのように向き合えばよいのだろうか?そのことについて少しだけ考えてみよう。  彼等がそのようなテクストの記述を選んだのは、読者に対するある種の啓蒙的な説得という意図がまず考えられる。そして哲学者は通常の人々よりは少しだけ人間の陥りやすい傾向というものに対して敏感だから、人間が極めて忘れっぽいということを熟知しており、そのために読者に対して著者が重要であると思われる事実を何回も繰り返し述べることを通して十分な理解を促進するという意図がある、ということがまず考えられる。
 人間とは本来全てを逐一記憶していたら、寧ろ生活することは出来ない。ある程度全てに対して重要なポイントだけを記憶し、後はあっさり忘れることを無意識に選んで生活している。もし全てを克明に記憶していたのなら、彼は行動するということが覚束なくなるだろう。そのような真理を熟知しているからこそ、彼等は重要なことを意図的に何回も反復して記述する、という理由がまず考えられる。
 しかしそれだけではないと私は思う。もっと極めて実際的なこととしては、彼等自身が自分で書いていたことを忘れるという事実があったと思う。長い論文となると、大分前に記述したことを忘れてしまい、何回も同じことを繰り返し記述してしまう、ということもあるだろう。しかし同時に自分で自分が書いていて重要であると書きながら感じることというのは何回登場させてもおかしくはないと考えている、ということと、それが重要だから次々と登場する色々な記述の前に、自分でも何回も思い出しながら、忘れたくはないと考えていた(それは意図的にも、無意識的にも)ということがあるのではないだろうか?
 ということは記述するという行為はかつてのように原稿用紙に向っている時でも、今日の多くの人々のようにパソコンに向っている時でも、記述することで何回も同じ文字が登場することで視覚的な文字知覚残像(形状的にも意味内容的にも)にも印象的に鮮やかに記憶され、そのように蘇らせやすい記憶を形作る意味合いをも込めて何回も同じか似たような記述を繰り返すということがあるということが了解される。  しかしそのことは視覚的なことからは少し離れるが、発語行為に関しても言えることだろう。発語には発話者にとって欲求充足的観点から次のような効用があると考えられる。
 ①発語することで、その「語られる文章」や意味内容を記憶しようとする。要するに記憶したいことを発語する。語ることはそれだけで印象深い事実として語った内容は記憶に残る。
 ②発語することは発話者にとって意志決定することを意味する。発語することで、決意しようとする。(これはJ・L・オースティンのperformativeという概念の出所である。)
 ③発語することで心的な不安を除去する。人に何か聞いて貰うことで、不安を取り除き安心を得ようとする。(しかしこれはある程度気心が知れた対話者を必要とする。)
 ④自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これもまた対話者に対する信頼を必要とする。)
 このような効果が得られることを殆ど自動的に身体や精神状態自体が判断して、我々は発語行為、発話を行うのだ。そしてそのような身体や精神の側の目的が達せられることで、「あの時あんなことを言った。」と自分で過去を振り返る時、我々はエピソード記憶としてその会話のシーンを想起するわけであり、そのエピソードにはその時対話者がどのように反応したかということまで記憶に残り、同時に想起されるだろう。そしてその発言の際の視覚的な記憶も連動して想起されるだろう。そして発語行為の場合には、音声的な記憶、聴覚的な記憶として意味内容とそのニュアンスとして記憶に残るだろう。
 しかしこれはよく記憶について言われることであるが、記憶は編集される。よって必ずしも正確にいつまでも記憶しているわけではない。
 トーマス・ネーゲルは「主観に現われる自我は、外的な分析の下では消滅するように思われる。」と述べている(「コウモリであるとはどのようなことか」永井均訳、313ページ、勁草書房刊)し、P・F・ストローソンは「(前略)我々は自然で強力な仮象のために、意識の必然的統一を(中略)単一的主体についての認識と取り違えるのである。」(「意味の限界」熊谷直男、鈴木恒夫、横田栄一訳、勁草書房刊)と述べている。
 主観に現われる自我とは端的に言えば、ある過去の行為の際に考えていたことである。それは時間と共に、その時とは異なった精神状態の現在によって都合のいいように作り変えられるのだ。だから外的な分析とは、この場合過去に対する現在からの意味内容の把握、つまり思い出である。そして強力な仮象とはまさに現在を常に中心とした記憶内容全般に対する書き換えのことである。そして単一的主体とは、いつも変わらない自分というある幻想(像)のことである。意識の必然的統一とは現在によって過去全体を常に作り変えているということである。つまり過去事実の作り変えとは必然なことなのである。
 しかし我々はだからこそこう考えるのだ。相対的な受け答えしか我々はしていないし、してこなかったし、これからもしはしないのだ、と割り切ることは一抹の不安を抱かせるものなのだ。そこでヘーゲルが絶対知とか絶対の自由とか言い、それを受け継ぎ絶対性と言ったアンリの心的な目論見に対して、その根拠が読み取れるのだ。
 言語を生み出すものは直観であるし、論理を生み出すものもまた直観である。だから論理を説明する時に言語が必要とされるのであって、言語が論理を形作っているわけではない。言語によって説明するということは、それが当の言語であれ、論理であれ、責任の領域に属する行為である。
 我々は室内にいる時も、ある風景の前にいる時も、テレビや映画を見ている時も、常に自分にとって見たいと思っているものを見ている。記憶したいと思って見ているわけではなく、時間がたってみて、自然と記憶に残っていることと、そうではなくすっかり忘れてしまったこととがあるということである。何かに関心を今現時点で注ぐが、その時の全てを常に思い出せるものではなく、ある時偶然的にある事を目撃したり、聞いたりして、あの時そう言えばこんなものを見たり聞いたりしたと思い出すのだ。
 だからこのように忘れる能力があるということが逆に覚えていることを特化するわけであり、要するに忘れる能力があるからこそそれを補填しようという感情が生まれ、その感情に答えようとするところに責任が発生するのだ。
 「賛成したいのですが。」という一言は決して言いたいと意図して言う台詞ではない。寧ろ気がついた時に勝手に口から出ている言葉である。そして説明するという行為は説明者が説明したいと思えるものがあるからするのであり、それは感動したり、感激したり、あるいは驚愕したりしたその経験を一人で誰とも声を交わし伝えることをしないということが出来ないと思うからである。発見というものは一人で抱え込むことより、他者と共有したいと願うことは自然な心理である(脳科学でも感動した時それを他者に伝えたいと思うということが証明されている)。
 それは何か文章を書くことにも言える。何かを書いて発表するということも、素晴らしい思いつき、素晴らしい内的な発見事実を記述することを通して我々は他者に自分の感じたこと、理解したこと、気がついたことを別の誰かに知って貰いたいと願うから自動的に何かを書いているのだ。それはそういう風に目的を持ってしているというのもとも違う(哲学の因果論的認識には自然な流れを認識し損なうという要素がある)。
 そして何かを書くという行為は必ず何か経験したことが関わっているものであり、経験を意味に変えるものが記憶であり、記憶の編集である。そしてその経験を記憶したいから話したり、書いたりするのだ。だから何も記憶が編集されてそれが実際あった通りではないということは憂えるべきことばかりではないのだ。
 風景に感動するとしよう。それは風景の意味をそこから感じ取っているからだ。そして風景を意味に変えるのも記憶である。素晴らしい風景を見たことを誰か親しい人間に語ることとは、言語行為によって感動を説明することで、内的な感動を共有することを欲しているからなのだが、それは風景を見て、身体全体で感じて得た体験的なクオリアを伝達することで思い出を記憶が意味に変えているということなのだ。その意味とは端的に生きる活力というものなのだろう。(茂木健一郎によれば感動すると脳はその感動を人に伝えようとするものらしい。)
 視覚情報を意味に変えているのは記憶作用であり、記憶作用を促進するものとして言語というものが役立つということを、言語発生の第一目的ではなかっただろう人類にとって、副次的な効果の発見として、その作用事実が応用されていったのだろうと私は思う。
 言語は人類史的に見れば恐らく内的な欲求充足以前的にはもっとサヴァイヴァルな信号としての役割だったのだろう。しかしそれだけに押し留めておくにはあまりにも言語行為というものは魅力に満ちていたのであろう(大脳の発達がサヴァイヴァル的自然選択によって齎されたからだ)。そしてそれは視覚情報によって得られる感動は決して言葉では伝えられないという事実が、逆に言葉を発するという行為を視覚情報確保と独立した意味を持たせたのだ。つまりその発せられた言葉を通してある風景を見る、あるいは世界に存在する事物を見るとその時、そのように言葉とは無縁に見ていた時と全く異なった意味を生じることを我々の祖先たちはある時知ったのだ(感情の誕生)。しかし言葉の存在理由に関してはもっと慎重にならなければならない。それは後述しよう。
 視覚情報によって得られる感情は言語を誘発し、その言語が視覚情報に影響を与えているのだ。その「見ることと語ることの対話」が我々に感情が意味そのものであること、つまり見てあるいは語ってある感情を抱くことから意味が発生することを知るのだ。
 そしてその時我々は視覚情報を意味の世界として受け取る。しかし意味は恐らく言語以前に内的には感得されている。しかしその感得を認識するために言語を利用しているのだ。感情に意味があることを言語は教えてくれるが、これもまた言語以前的にも感情の意味があるということを言語が教えてくれるのだ。あるいはそれを教わるために我々は言語を利用するのだ。だから言語がなければ感情は感情のままである。あるいは意味は意味のままである。しかし言語は人と人を繋ぐ作用があるから、あるいはもともとはそれが目的のようになっていったからこそ我々は言語を使用するのだが、感情と意味を接合し、一体化させるものこそ言語なのだ。そして視覚情報と内的な想像、あるいは思念を接合し、一体化させるものこそ言語なのだ。
 人類が絵画を描いてきたのはまさにこのことに起因する。絵画は人類が発見した唯一の実際に見えるもの(視覚情報)と、内的な想像が一体化したものなのだ。画家が描く絵画は、彼が見たものと見たいものとが一体化した世界なのだ。その点では文字とは内的な想像が写像されたものである。その事実をシンボルと呼んでもいいだろう。しかし絵画はシンボル的な要素があっても尚アイコン(イコン)的なものである。
 画家は外部世界を視覚情報として見るし、認識もする。しかしその外部世界に対する内的な感情とか認識とかを絵画という外部世界の中に閉じ込めるのだ。そして作品世界とすることで音声的、聴覚的ではないもう一つの次元の言語として絵画を提示するのだ。
 勿論文字世界もまた外部世界に対する感情を意味として内的な想像と一体化させられているものなのだが、絵画に比べるとただ間接的であるというだけである。
 間接、直接を問わず我々の祖先が言語表現を獲得するに至ったという事実の重みはそれだけで特筆すべきことかも知れない。しかし先述したが、言語を特定の言葉の配列を通して利用するという事実についてはもっと慎重にならなければならない。
 視覚情報を知覚映像として顕現させているものは後頭葉の大脳皮質視覚領である。右の眼球から得た情報は左に、左の眼球から得た情報は右にという具合にである。しかし視覚情報を意味付けているものは前頭前野であるし、それを感情的に判断させているものは大脳辺縁系である。前頭前野は眼球に近い。意味とは自己にとっては視覚情報を対象化した時の特定の関心事項に対する感情の説明である。そしてこの時既に責任という心的活動は発動されている。そして我々は唯一感情を意味付けし、意味と感情を一体化することが出来るものと思われる。この一体化の欲求は脳内で自動的に発動する。そしてこの一体化こそ発語、記述へと我々を誘う。感情は欲求をも産出するが、それと意味の一体化の脳内での衝動こそが言語を一体化促進の道具あるいは武器として利用しようとするのだ。
 養老孟司は「唯脳論」の中で近づいたり、遠ざかったりする対象物を同一のものと認識させるものとは比例に関する認知であるとしている。そして感情と意味を一体化させても尚対象そのものには知覚映像的に何の変化もないように(例えば嫌いなものが歪んで見えるということがないように)認知出来ることは養老氏のご指摘によって理解されよう。
 しかし我々が最もここで注目しなければならないのは、端的に言えば自己内で視覚情報を関心的志向の意味内容に沿って焦点化する時に、既に責任という心的活動が発動されているという事実を誘引するものこそ他者であるということである。他者存在が既に側頭葉のミラーニューロン以外にも前頭葉全体から、あるいは他性認識の根源としての扁桃体その他との連動でなされていながら、同時に自己内では他者とは直接関係のないものであっても他者存在を想定するかのように、あるいは自己そのものを他者のように扱いながら、自己という他者に向って説明するような心的様相性は、明らかに他者に対する説明を滞りなく遂行することで得られる理解を自己に適用しているということである。それは言語的説明認識に纏わる責任倫理(自己内での対自己説明というかたちでの)は他者が前提されている、もっと分かりやすく言えば、言語と責任とは共に他者存在の原初的認知こそが誘引している、ということである。つまり他者に対して説明するような「構え」を一人でいる時にも心的に持つということは他者存在を前提して思念しているのが人間だということになる。
 また論理とは言語的な思考外のもの、前言語的なものもあると言ったが、それは要するに論理にはその出発点に直観があると言いたかったからである。論理の出発が直観であるということは、数学者が直観を立て、そこで得られる予想に向って数論理的に証明しようとするところからも間違いない。そしてその直観力には他者に対して証明してやろうという意気込みがあるわけだから、当然のことながら報酬への期待、つまりドーパミン放出レヴェルでの意図が介在していていないとは言えないだろう。そしてそのようなある種利己的な欲求の中にこそ責任は発動されるのかも知れない。
 つまり他性認識という心的様相が論理を招聘するのだ。つまり他性認識はすぐさま他者に対してどのように接するかとか、そのように他者に対して接するように自己に向き合うわけだから、当然のことながら責任という心的活動が発動されている。論理に責任がつき物なのは、要は他者と自己の関係に置換して物事に真理や順序、序列、階層を認識するからである。しかしそれは論理に他者が必要であるという事実が自己内で何かを理解する時にも応用出来るということであって、責任を遂行するために論理が必要というわけではないだろう。要するに責任は目的意識のための道具ではなく、既に論理を直観する時に心的作用として発動される、心的活動として活性化させられるということであって、責任を目的遂行に供することをするのは反省意識だけである。それは社会的認識を持つ様に事後的に判断しているだけであり、責任それ自体は社会法的意識以前的に心的に活動させられるのだ(人類が唯一協力し合う遺伝子を保有しているということでも説明出来る)。
 しかし視覚に関して盲目の人はどうなるのかという問題が残されるが、生まれた時には目が見え、その後視力を失ったという場合には、その眼の見えた期間の長短も関係してくるだろうが、生まれつき眼が見えない人の場合、盲視という事実も報告されているが、脳の可塑性が何らかの代理的措置をとっているのだろう。聴覚には並列という意識は生じ難いし、数量認識も数えられることに関しては限界がある。そこで彼等は恐らく空間的なことを時間に置換して考えているか、もしくは皮膚感覚とか触覚あるいは聴覚の連動によって遠近感を察知し、それを手掛かりに論理的直観を得ているのかも知れない。

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