Saturday, May 26, 2012

〔言語の進化と責任〕第三章 未来という事態に備える責任

 自己内で対話すること、ある自分がもう一人に自分に対して問いかけるという事実は、私たちにとって他者の存在への覚醒、つまり他性認識によって見出されている思念である。他者の存在しない世界では対話とは成立しない。ある心的作用や心的活動それ自体は他者との差異を認識していく中で自我を見出す活動の事実なのだ。キルケゴールが「哲学的断片」で考えていた師匠と生徒の関係は社会的な人間同士のそれであると同時に一人に人間の内部での対話をも意味していたのだ。彼は「不安の概念」で次のように言っている。
 「ソフィストたちをさして、彼らは弁舌はさわやかだが対話はできないとソクラテスが区別をつけて非難した真意は、ソフィストたちはあらゆる事柄について多くを語ることができても、身につけるという精神に欠けているためであった。この身につけるということこそ対話の秘密である。」(中央公論、世界の名著40、「不安の概念」枡田啓三郎訳、中212~213ページより)
 身につけるということは、ここで示されていることとしては、習慣化するということだけのことではない。身につけるということはその行為の意味を理解し、実生活を少しでもよりよいものとするために役立てることが出来る、つまり実践出来るということを意味している。しかし一見このキルケゴールの論述が正反対に見えるウィリアム・ジェームスの次の一節と同じ主張になるのだ。
 「「神の意志<みこころ>のままに成かれし」ということをただ口にするだけでなく、身をもって感じる者は誰でも、あらゆる弱さに対して防備されているのである。普通の人なら人心を動揺させたり苦しめたりするような事情にあっても、自己放棄が平静な心の状態を生み出すということは、歴史に名をつらねたすべての殉教者や伝道者や宗教改革者がこれを証明している。」(「宗教的体験の諸相」下、枡田啓三郎訳49ページより)
 ジェームスが言う最後の人たちは啓蒙に命をかけたわけだが、彼等の心的な活動は常に身に付けたものを実践するということでなされていたのかも知れない。
 ここで来場者諸氏は日本人にはそのようなキリスト教文化圏の国ではないので、関係ないのではないかと考えられる向きに対しては明示しておきたい。私が本論で信仰と呼ぶものはキリスト教とか無宗教者とかとは無縁な、あるいは彼等全成員の生活に沁み込む、心的決定要因、あるいは行動や意志の根拠の問題を言っているのだ。だからここでキルケゴールやジェームスが言う諸々の固有名詞や一般名詞は別の日本人にとって理解しやすい語彙に置換しても構わないのだ。要するに我々は内的にある「構え」を構成するのは他者の存在あってのことなのだ。そしてその事実から読み取れることこそが最大の命題なのである。
 本章では責任の在り方を巡ってなされる時間の問題について考えてみようと思う。
 茂木健一郎は「脳の中の人生」において自然科学とりわけ物理学では未来というもの、そのものの過去との区別とか、あるいは今というものが特別な事態であるということ自体は解明されていないということを述べている。さて時間の中で責任という概念は大きく立ちはだかってくるのだ。そして責任という共同幻想の内発化ということを考えることは自然科学の分野でも何らかのメリットはあるのではないだろうか?
 過去というものをまず現在の側から考えてみよう。過去の行為は現在に何らかの痕跡を残している。さて過去の行為の成果として現在があるのなら、その過去の行為は、その時にどのような評定がなされていたとしても尚重要なものとして現在からは認識されるのではないだろうか?
 小説家の石田衣良はテレビの対談番組において自分の小説家としての活動において過去の小説を書くことに直接関係のない普通の生活がいかに役立っているかを力説していた。つまり小説家を目指す人は出来るだけ普通の生活を送ることが小説をやがて書くことの肥やしになると彼は言っているのである。
 私は過去において最悪な事態ではなかったかも知れないが、多くの失敗をしてきたし、あまり芳しい青春を送ったとの言い難い人生だった。しかしそれらの失敗や挫折が今思い起こせばかなり役に立っているのである。つまり私は失敗もしたけれど最悪の過去の過失の損失を補填することが不可能なほどの失敗はしなかったということになる。
 つまり過去の行為は損失の補填が現在なり未来なりに残されているということと、そうではなく既に取り返しのつかないことの双方が存在するということである。勿論過去の行為それ自体は存在しない。要するに記録としてとか記憶として存在すると言っている。
 過去の補填出来ない行為において我々は対他的に賞賛したり、報奨を与えたり、逆に懲罰を与えたりしている。しかし過去の行為の補填が可能なことは、人生とは幾らでもやり直しが効くという意味に於いては、未来へ過去行為の代理行為を適用出来るのだ。そしてそれを対他的に認識すれば信頼したり、委任したり、任命したりすることになるのだ。
 それは責任を付与することである。責任を取ることとは現在の行為として位置付けられるのだが、それは賞賛したり、報奨を与えたり、懲罰を課したり、要するに一定の評定を与えることである。そして未来に対してはその賞罰においてなされた社会的意味に則った、その評定に相応しい責任を彼に与えるのである。そのことは対自的な意味においても変わりない。
 先述したキルケゴールの身につけるということ、そしてジェームスの自己放棄が平静な心の状態を生み出すということは双方にも信仰と私が本論で呼ぶものと一致する。
 身に付けるということは実践し、その行動の真理の意味を知るということであるし、自己放棄とジェームスが呼ぶ行為とは自我の超越のことに他ならない。そして自我を超越するということは自我をよく知るということだから、自我が他性認識と自己内の対自的対話という現実を知ることを前提する。平静な心の状態を生み出すこととは迷いない行動を採ることによって得られる。迷いとはポール・リクールも言っているように行動前的な逡巡とか思念とかのことであるが、要はそれを吹っ切って行動することとは迷いを消すことだし、迷いが消せるということは心の乱れを正すということであり、乱れないような安定を見出すということである。これは宮本武蔵の「五輪の書」の精神にも相通じる。
 そして揺るぎない信念、そして乱れのない心の安定というものの獲得こそ信仰という心の状態によって容易に得られるのではないだろうか?
 そして責任は信仰という心的活動を促進するものとして未来へ向けられた補填可能な過去の失敗例から学ぶ代理行為の権利と任務を我々に与える。責任の全うとは信仰によってなされ得るということである。そして責任ある行動という想念を得るには明らかに言語の助けを我々は借りている。仮定法とか条件節とかの論理的枠組みは言語的な論理によるものである。勿論非言語的な直観意識もここで総動員されるだろう。聴覚映像的な思念も心に立ち現われるからだろうからである。
 しかし責任を他者に委ねるという事実には、心的にはその他者の能力への信頼がある。そして責任を自己に帰することは心的に自己の能力に対して自信がある場合に限る。だから責任は自己や他者といったそれを帰すことの出来る成員に対する評定に左右される。そしてギャンブル的感性を他者に対しても自己に対しても適用する場合もある。少々危なっかしいのだが、一丁ある人間の能力に対して賭けてみる価値はありそうだ、という判断が責任をある成員に負わせることに繋がる。だから「やってみませんか?」という勧誘の言葉にはその成員に対する他者一般の信頼性を代弁した響きがあるものである。その成員の能力に対する期待値こそが勧誘の言葉の熱意の指標となっている。しかし未来そのものは不確実なので、どのように他の成員と比べてその成員が能力を発揮する可能性が過去データによって高いと示されていてさえ、本質的には賭け的要素は拭えない。
 記憶には書き換え作業があることが知られているし、特に過去のエピソードはどのように印象に残っていることでも現在の自分の状態に照応させ微妙に編集を行っていることも分かっている。心理学者のダニエル・L・シャクターは記憶の書き換えを「調和編集」、「変化編集」、「後知恵編集」、「利己的編集」、「ステレオタイプ編集」という風に心理学者らしく五つに分類して論じている。(「なぜ「あれ」が思い出せなくなるのか」春日井晶子訳、日経ビジネス人文庫)
 この様に記憶それ自体が現在の自分を中心とした都合で動くということを我々はどう捉えたらよいだろうか?
 恐らく我々はある部分では過去から現在迄継続されていることから今現在の不備を過去の例えば自分の行為での何らかの怠りに起因していると捉える時、我々は過去行為を反省するが、その過去行為が他者によってなされた場合、そのことによる実害を自分自身が蒙る場合、その他者へ社会的責任を問うということをするのだ。だから自分自身で反省しつつ今からはこうしようと思うことでも、他者に対して責任の所在を明らかにして弁済させる場合でも必ず現在どんな状態になっているかという査定から過去の行為の責任を問うのだ。
 ところで心理学者のニコラス・ハンフリーは「喪失と獲得」中のある論文で次のように言っている。
 「(前略)もはやヘーゲル的な法則が人類の歴史のコースを指図していると信じている人間は誰もいない。マルクス主義的な歴史原理を信じているものもほとんどいない。(もっとも、こちらのほうがおそらく多いに違いないが_エンゲルスの非凡な『自然弁証法』は、さまざまな形で、複雑性やカオスについての現代的な考え方を先取りしていた)。」
 ここでハンフリーは示すような意味では現代はとっくの昔からそうなのだが、絶対とか信仰という言葉が流行らない時代になっている。そして私はだからこそ敢えて普段それほどは取り上げないヘーゲルについて、その解釈を現代現象学者のアンリの視点を借りて大きく取り上げた。しかしある意味では絶対性という概念にとり憑かれていた時期が西欧哲学を中心として長かったという歴史的事実が、例えば男尊女卑的なジェンダーロール的観念が長く続いたことと同様に、逆に現代ではそのような誤りは二度と起こさない様な心がけを作ったのだ、と今私が勝手に歴史を解釈するとしたら、それは現代人としての「利己的編集」を私が採用しているのかも知れないし、また「調和編集」(予定調和編集と言い換えた方がより相応しいかも知れない)或いは「後知恵編集」を行っているとも言える。
 しかし歴史というものに対する捉え方とは常にそのような編集作業の反復であった。だからもしかしたらあと何十年かたった後、意外と絶対という観念がもう一度見直される時期が来ないとは決して断言は出来ない。
 そう捉えることも現在でも我々の判断なのだ。何故なら古典から触発される新しい考え方というものも常に存在してきた。その意味では案外相対論自体もそろそろ大きな曲がり角に来ていると言ってもよいかも知れない。
 しかし少なくとも、その時に示される絶対とはヘーゲル等が唱えた絶対とは明らかに異なった質のものであろうし、また相対というものもその頃には現在とは全く異なった質のものとなっているだろう。そういう意味ではヘーゲルの正否の無限進行は認識としては有効である。
 未来に対してある展望を持つ時我々はどこかに理想像を持つ。その理想像は現時点においては達成不可能な事態に対して処方することの可能な状態である。責任はその事態に一歩でも近づくことの出来る能力に対する信頼に受け応えるものでなくてはならないだろう。
 文章で身をたてている者の多くは昔自分が書いた文章をもう一度機会を作って目にする時、他人の書いた文章のように見える経験があるだろう。その時自分で自分の文章を他人の目から読むことが出来る。人はある文章を書いた人物の人間性によって文章を読むわけではない。読んだ文章に惹きつけられるからこそその文章の書き手の人間性に惹かれるというだけである。つまり文章書きというものはその文章だけで自立した主張を込めなければならない。それは文の持つ意味世界による。書く動機付けは後付的な解釈でしかない。それは書いた当人にとってもそうである。書くことが哲学者にとって信仰であると言ったのはそういう背景があったのだ。文章の意味世界を求めて旅する文章の書き手は、実はその旅に赴くために行く準備をしたりするのだが、それが書く動機である。
 しかし通常書き出したら、動機はどうでもよくなるし、また別に違った目的が生じることもある。その展開そのものに魅せられて文章書きは作業を続行するのだ。書き続けることが次第に彼の責任になってゆくが、それは書きながら彼が自己の能力を信頼しているからだ。それは書く行為の続行によって未来への展望が探り当てられる感触を彼が掴むからなのだ。未来への責任は今現在執り行っている行為を中断しないという意志によって形作られるのだ。
 未来へと責任を受け渡された者に共通したこととは、それが他者から要請された場合でも、自己内で責任を負った者でも、意志的に何らかの現状の難点に対する克服と打開の可能性に賭けた思いがある筈なのだ。それは未来の事態の不確実性と同時に、責任を負った者の資質と能力が今現在と変わりないと思われるある強烈な信頼に裏打ちされたものなのである。そしてそういった心理的な期待感が言語活動にも反映される。そのことは追々実例を通して考えていきたいが、本章では取り敢えずそれらの事実関係の所在だけを明らかにしておきたかった。

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