Tuesday, May 22, 2012

〔言語の進化と責任〕第二章 意識の冒険

 神経学者のマイケル・ガザニガは「脳の中の倫理」において責任という脳活動は実体論的にはfMRIでは確認出来ないと述べている。それはそうだろう。脳検査というもの自体、今現在の全ての自然科学的なテクノロジーを駆使しても責任という脳活動は確認出来ないであろう。だからこうも言えるのだ。脳活動を現代のテクノロジーを駆使して解明したとして、その事実にどう向き合うかという時、初めて「ここから哲学が始まる。」と言い得るのだ、と。
 しかし脳内の活動を還元主義的に、あるいは機能主義的に理解する努力を怠るべきではないと全ての哲学者は肝に銘じなければならない時代に生きているとも言える。それは現代の哲学者の責任である。
 端的に言えば責任とは共同幻想としての観念であると言える。何かに対して配慮する時、それが私的な感情によるものであれ、公的な義務感情であれ、感情を前面に押し出したような判断であれ、極力控えめに感情を押し殺したような判断であれ、その行動の向う先に、責任は立ちはだかるのだ、と言える、と言うより責任は内的な行動以前の思念において言語的な思念に介在するエネルギーである。統語を、言語行為を、言語的思考を支えるのだ。
 前章で本章において考えようと言った宗教的なプラシーボ効果とはテクストを書く行為において自己宗教的出自の教義を敢えて批判対象として認識することで自己責任を現出させようとする意図に見られる。テクスト創造者としてのアンリがヘーゲルに習って行ったキリスト教信者としての立場からアンチ・キリスト教教団教義的現実というスタンスの取り方自体がある種の社会ゲーム上での責任という幻想にテクスト作者が立ち向かっているということを表しているのだ。そしてそういうスタンスを敢えて自己テクストで明示することで、何らかの教義に依拠することを通して読者をその教義に誘引しているような発言をしていることを否定することで、逆に読者の共感回路を刺戟することの快楽を共有するように仕向けるのだ。それはテクスト創造者としても、西欧キリスト教文化圏市民としての責任を負うという意識(まさに脳映像からは何らかの熱中とかにおいて確認出来る血流の活性化作用こそが責任に立ち向かっているという事態である。)が、信仰の本質をキリスト教への批判を通して顕現させようと試みているかのようである。つまりその主張は、信仰とはウィリアム・ジェームスも主張しているように、キリスト教であれ、その他の宗教であれ、無宗教であれ成立するユニヴァーサルな人間的行為であるということだ。しかしそれはそう主張することでプラシーボ効果を得ようとするテクスト創造者の不安と平衡感覚の喪失という現実とは別の事実である。自己批判しつつ共感を得ようとすることは、読者もまた似たような体験を所有していることを想起させるようなシステムにテクスト自体が構成されているということである。そしてそのように構成すること自体が著者のプラシーボ効果であると私は言いたいのである。もっと端的に言えば書くこととはそれ自体で信仰である、ということである。その事実に洋の東西は関係ない。
 例えば肯定してから否定する方が、最初から否定するよりも効果的であるという意味で「賛成したいのですが。」型の言辞(第一章以降解説している。)にはある説得力がある。その手法はあらゆる哲学で試みられている。インマニュエル・カント、ギルバート・ライル、トーマス・ネーゲルetc。この中にミシェル・アンリが付け加わることに読者も異論がないであろう。
 ある法案に関してある一人の成員を除いて全ての成員の意見は一致しており、その一人の意見を聞いて早くその法案を通したいと考えている場合、この場合の成員は政治家でもよいし、地域の野球チームの後援会のメンバーでもよいのだが、その残りの一人に対して向けられる質問は、最初から得られるべき返答は二つに絞られている。つまり予め限定された返答をしか与えられないように配慮されているということである。
 心理学者のテレンス・W・ディーコンはチャールズ・サンダース・パースに大きく影響を受けている。彼はトークン(もともとパース用語)間の連携を一つの閉じた系として捉え、その閉鎖系であるが故に全てのレファレンスをインデキシカルになし得るのであり、それが閉じていなければ混乱し、各レファレンスは相互に関連し合わず、ランダムで気まぐれなその場限りの命名と呼称だけに終始するだろうと考えている。もしそのウィトゲンシュタインの「言語に限界が世界の限界である」流の世界観が特定の話題に関する質疑に関する言語使用に関しても当て嵌まるのなら、規約主義的な思念は発語行為のその時その時の異なった質問や応答にも見られるだろう。  「あなたはその意見に賛成しますか?」 と、一人未だ聞いていなかった成員に法案賛成の是非を聞く時、自ずと二つの返答だけが残されている。しかし「賛成します。」あるいは「賛成したいと思います。」以外のもう一つの選択肢である「賛成しかねます。」あるいは「反対です。」という場合の責任は、その双方が真意である場合責任の重さは等価である。しかし本当は反対したいのに他の成員全員が賛成しているので賛成に回るというのであれば、最も責任の重さは小さいだろう。そしてそれならば「反対します。」の方がかなり重いと言える。しかしもっと重い責任の発言があり、それこそが「賛成したいのですが。」なのである。
 これが何故一番責任が重いかと言うと、それは説得という行為が含まれているからである。と言うのも、最初から否定する意志を伝えることなく、最初は賛意を示しながら(当然のことながら賛意を示すことは他の成員を一瞬安心させる)次の瞬間、「が。」と締め括り否定的言辞に落着させることはそれだけで失望を買う。しかし心理的にはその言辞を聞く者に対して「何故ですか?」と問う余裕を与える。もし最初から否定する意志をストレートに伝えればその瞬間に「あなただけなのですよ。」と言う猶予さえ与えず、反発を買う。この法案を通したい他の成員は全員早くその会議を終わらせたいのだ。
 しかし一回は賛意を示すことに吝かではない旨を伝えている場合、それでも尚そうではない意見の可能性を示唆することは「どうしてですか?」あるいは「どうなさりたいのですか?」という質問を他の成員がする余裕を他の成員に与えることであるから、当然その質問の返答として自己真意を他の成員全員に伝えることを可能にする。そして論理的にその法案に賛成出来ない理由を説明する機会が得られ、もっとよい意見を述べ、その意見の正当性を主張する可能性も得られる。つまり説得的説明責任を得る可能性の開示であることから、この言辞が最も行動責任に関して重いということになるのである。
 例えばこの本論の主軸になる例証がキリスト教文化圏に生活する西欧哲学者たちによるキリスト教批判に介在しているということが言えると私は思うわけである。
 哲学者のテクスト創造に纏わる信仰心的なプラシーボ効果のことに立ち入る前に、断っておかなくてはならないことがある。それは真意の隠蔽、あるいは偽装のことである。
 ある種の鳥類は自分が発見した餌を独り占めするために、他の仲間に対して「餌はあっちだよ。」と餌の場所を偽って教えると言う。しかしその泣き声の選び方そのものは彼等の本能的なコードによって学習した通りの仕方で、本来餌があるべき場所以外の方向を指示するわけだから当然その個体は自分では嘘をついていることを知っていることになる。しかしその行為それ自体を逸脱した行為として、つまり人間が感じる良心に対する疚しさという心理を持って臨むかと言えば即断することは禁物である。と言うのも生存戦略的な意味合いで、予め遺伝子レヴェルからそのような偽りを報告することが書き込まれているかも知れないからである。例えばもしそのような偽りの報告をした後に何らかの内分泌物質、とりわけ緊張した時に放出されるコルチゾール等の物質が、偽りではない報告をした場合よりも高い数値が確認されたのなら、嘘をつくことによって発生するストレスを彼等も感じていることになり、彼等にもまた人間が持つ良心のようなものがあるという可能性が出てくることになるだろう。しかしそのような偽装とか隠蔽というような行為がもし遺伝子レヴェルで生存戦略的に書き込まれている本能ではない、もっと高次の意図的な行為であるのなら、あるいは逸脱的な、つまり意識の冒険的なレヴェルの判断に基づくものであるならそう頻繁にはそういう行為をすることはないだろう、ということは言える。
 かつて私が見た落語にこんなものがあった。人間はあることに対する知識について無知であるということを隠蔽したいという心理がある。例えばその無知を知られたくはない者に対して必死にその無知を隠蔽しようとすることは人間に羞恥感情があるという事実からは極めて自然な感情でさえあると言える。そこである者が本当は知らないのに知っている振りをするという悪辣さが人間にはある。しかしもっと悪辣なこととは、知らないのに知らない振りをするである、とその落語家は言った。知っている振りをする者は言ってみれば初歩的な小さな犯罪者であるとすれば、知らないのに知らない振りをする者とは、知本当は知っているのに知らない振りをする狡猾な無垢さを装う演技者であるが、知らないのに知らない振りをする者はそれより更に上をいっており、要するに無知なのに狡猾な演技者を装うということを言いたかったのだろうと私は思う。長く生きている智慧者にはそういう芸当が出来るものだという信念がその落語のエピソードの落ちとなっているのだが、実際には私はそのような偽装というものは不可能であると思う。それはあくまで笑い話のねたとしてのみ成立する世界ではないだろうか?
 哲学には無限後退という考え方があるが、何らかの事実が直接言及されることに対してその言及自体を語ることをメタ報告とすると、その報告それ自体を報告することをメタ・メタ報告とするというような無限に連続してゆく事態を、無限後退と哲学では呼ぶ。これに近いものが今挙げた笑い話にはある。つまり人間というものはどんなに嘘つきで、その嘘が巧妙な者でも、人生に一回くらいならそういった巧妙な嘘が功を奏することもあるが、四六時中は無理なようになっているのだ。端的に言えば、嘘をつく時の人間の表情とか口調とか語調といったものは、本当のことを告げている時と必ず微妙に異なるものなのだ。そこで私は全ての哲学者というものは真意をテクストに示していると確信している。もしあるとすれば「賛成したいのですが。」型の捻った説得術だけである。これは真意伝達に関する技巧であり、カントも多用しているが、嘘をついているのでも、隠蔽しているのではない。またシャイネスな表現というものもまた偽装や隠蔽ともまた異なっている。オブラートに包むような表現は、心ある者に対しては婉曲と受け取られることを承知で行う明示行為であるに過ぎない。そこで私は明言する。哲学者は嘘をつかない。もし嘘をつく者がいたとしたら、あるいはテクストで示されていることが嘘であると思っているのなら、その者は哲学者ではないし、またそのテクストもまた哲学ではない、ということである
 話を元に戻そう。「賛成したいのですが。」型の返答を一人だけ意見を求められていなかった成員が他の成員に告げるという行為の持つ意味は実は極めて重要である。何故ならそのように言えば、その賛意を滞りなく報告出来ない理由を説明することを必然的に求められるからである。そしてそう切り返すということ自体が、賛意を翻した理由を説明し、それが正当な意見であるということを説得することを自ら選んでいる事だ言えるからだ。それはある意味では自分の能力の可能性を信じているからこそ言える発言形態である。もしそのような自信のない者は、丁度あの「十二人の怒れる男」でヘンリー・フォンダに次いで少年を無罪だと言った壮年紳士のように取り敢えず賛意を示すという選択を無意識の内に採る(あの映画では他の陪審員同様有罪に賛成した。)であろう。仮にそれほど賛成的な意見を内心は持っていなかったとしてもである。つまり賛意を翻すという選択にはそれだけの勇気というものが要るし、余程自分の能力に対する可能性に対する信頼がなければならないのである(だからこそ勇気を持って付和雷同をしない者は尊敬を集める様になる)。
 人間は元来弱い生き物である。そこでネガティヴなケースとしては進化心理学者にして動物行動学者であるニコラス・ハンフリーが、「喪失と獲得」中の<武器と人間>で述べているように憎悪とか嫌悪といった感情がまさにその憎悪対象から何かを仕掛けられたからではなく、こちらから仕掛けたという経験則によって逆に向こうに対する軽蔑心を生み、やがて憎悪し、嫌悪してゆくようになる、と述べている。だからポジティヴな場合でも自分だけが彼を救うことが出来るのだ、と思い込み、そして彼を助けるという自発的行為が彼に対する慈愛を育むようになる(このことは一面ではニーチェが批判した同情とか憐憫的な感情を育むのだが)、と述べているのだが、もし最初本当は間違った選択であると承知しているのに他の成員全員がそれに付き従っているので彼等に対して説得し、自分の意見の正当性を主張する自信がないものだから、つい他の成員に迎合するような行為を常に繰り返していたようなタイプの成員はベトナム戦争で米兵士が味わった自ら仕掛けた攻撃対象を自己正当化のために次第に憎悪をエスカレートさせて戦争を続行させるような行為を反復してゆく可能性は高いと言えるだろう(現在でも米国にはそういう傾向はなくなっていない)。人間は自己によって決意した行為を正当化するためにたとえそれが誤った考えであろうとも辻褄合わせをするのである。
 しかし通常我々は小さなことなら一々向こうに対して抵抗しないで済ますという選択もする。例えば本当は向こうの方が悪い場合でも、小さな例えば街角で誰かとぶつかってしまった場合など、向こうが完全に悪いのに向こうは自分に落ち度がないと思っている場合などでは、すれ違っただけの間柄である。向こうに対して咄嗟に「失礼。」と声をかけて済ますという選択を無意識の内に採るということは日常ではあることである。勿論それが痴漢と間違われたというような場合には別であるが。
 しかし哲学者は同一のテクスト内で、相反する意味の陳述をすることも珍しくない。例えば「真理は不変である。」と言ったかと思えば、同時に別の箇所では「真理とは恣意的なものである。」と言うという事態も決して珍しいものではない。そのような陳述はある部分では自然科学とか心理学では許されない(多少の比喩的表現は許されていたとしても)。
 例えばアンリは現出の本質を主張するのに、何種類もの陳述で表現(まさに表現と言うに相応しい)を畳み掛けるようにしている。例えば本質ということの規定として次のようにヴァリエーションを持たせている。 「このように、いっさいの現前の地平ならびにその条件として了解されるなら、<概念>は本質である。」(1037~1038ページより) 「経験は本質の経験である。本質は経験の本質である。」(1039ページより) 「疎外とは本質が自らを結集し、それが在るがままに自ら自己自身を再発見することを可能にする過程であり、疎外は本質自身である。」(1046ページより)
 しかし何故このように哲学では同一の言葉を何通りもの定義に置換することを頻繁に行うのだろうか?
 例えば私はこの論文を実はかなり意識的にある部分では哲学者風のもってまわった文体で、ある部分では逆に自然科学者風に常識的な言葉使いを行ってきたが、そのことにはわけがある。
 茂木健一郎は「「脳」整理法」で哲学者と科学者の使用する言葉使いの差について論じている。そして前者の言葉使いをパフォマティヴ(元来は哲学者J・L・オースティンの提唱した言語行為における概念なのだが、彼はそれを自説に応用していている。)とし、後者の言葉使いをディタッチメントとして規定している。その理由を彼は哲学者が通常彼自身の哲学的思想を語るために、主観的なスタンスを前面に押し出し、行動スタンスを明示しなくてはならないからとしているのだが、私が思うに彼等は勢い一個の概念を二律背反に追い込むような形で矛盾を矛盾のままに晒すことを厭わない。しかし同じことを自然科学者が行うと、その論文は少なくとも実用的に応用可能なデータ的価値を失う。つまり自然科学ではその論述の持つ真理が誰によって語られたかという事実は、真理自体の一般化可能な価値に比べれば大したことではないという考えがあるので、主観的な定義づけを拒否する必要があるのだ。このような態度とか、受け取られ方をディタッチメントと言う(茂木氏の「「脳」整理法」に詳細が記述されている)。
 私は哲学者にとっては書くこと自体が信仰であると言った。それはある意味では哲学者という職業にのみ客観的にも許された事実ではないだろうか?文学者もまたそのような一面があるが、文学作品とはそれ自体が作品世界という虚構であるために、主人公の行動とか小説自体に表現された時代背景とか主題自体に作者の思想を投影させることは出来るが、それは間接的なものに留まる。しかし哲学はその主張それ自体が直接的なメッセージである。そのような意味では文学者という職業的メッセージの位置は科学者と哲学者の中間に位置すると考えてもよいだろう。尤もそれらは文章という形で示された位置づけであって、例えば音楽とか美術とか芸術表現を含めればまた異なった位置づけが必要とされるだろう。
 例えば前章で示したアンリの言述には多く絶対者というような言葉が登場する。絶対という言葉自体、相対性理論以降、相対という観念にとり憑かれた感のある現代人に対するアンチメッセージのように響くし、事実アンリにはそういう意図もあったのだろう。しかしその出自は明らかにヘーゲルの絶対知やそれ以外にも多用される絶対という観念であるし、それ以前にはカントも多用していたし、絶対という観念が影を潜めたのは寧ろ比較的最近のことであると考えた方がよい。しかしアンリの言いたい絶対という観念は科学のディタッチメントとも明らかに違う。科学という学問はあくまでそれまで通用していた常識が覆された時には素直に新しく見直された観念に従うという面があるが、彼の言いたいそれはそういう意味での相対性とは対極のものである。そして勿論前章でも触れたようにその考えの起源には明らかにカントやヘーゲルの存在がある。彼等が絶対と呼ぶものは彼等が超越と呼ぶものとも微妙に異なっている。例えば超越と言うと、何かを論じている時に、それではそれもそうなのかと敷衍しようとする時、そうではないそれは「超越的だからだ。」ということになることが多いが、それは例外的だというニュアンスと、別個の事例として考えるべきだという特化された認識を適用するべきであるという倫理的ニュアンスがある。
 例えば責任で言えば責任とは個人に対して適用される時、昨日のあなたと今日のあなたは自己同一的に同一人物だという事実に着目して述べられる。つまり過去事例が現在へと連綿と連続しているという事実に着目している。だからある閣僚が責任を問われるのは彼が任期中の事案に対してだけであり、それ以外の時期に関しては通常彼への閣僚としての責任(閣僚としての資質問題に関する言及はなされても)追及はなされ得ない。責任を適用されるという事態は、つまり過去と現在が連続して同一の状態であるという認識に基づいている。それは因果論的な見方とも少し違っている。と言うより因果論的認識もまた過去が現在の起源であるという認識に依拠していると言うべきである。
 しかし絶対と通常哲学者たちが言う時、そこには「信じる」という行為への依拠が感じられる。例えば通常哲学から別れていった歴史的経緯のある心理学では絶対という観念は滅多に使用しない。それは心理学者たちが通常自然科学の一分野として心の学問を位置付けたいという考えを持っているからである。だから絶対という概念を哲学者たちが使用する時、哲学者固有の主観に裏打ちされている。それは信仰という行為自体を客観的に認識したものともまた微妙に異なっている。絶対とは信仰という対自的な認識ではなく、即自的に「これが正しい。」と彼等が直観している場合のことである(即自は対自と異なって相対的ではない)。
 だから愛を論じる時、通常他者哲学から考えている時に、親子の事例を出す時、血縁関係は超越的な命題であると規定した次の瞬間、しかし愛の存在は絶対だ、と哲学者が言ったとしよう。その場合それは客観的に血縁関係による愛を例外であり、別個に考えるべきであるとする超越的議論に対する要請とは更に別個の心的要求があると見てよい。それは確信であり、揺るぎない信念であり、その信念に同意しない者にはそれ以上そのテクストを読み進めて貰いたくはないという真意の表明なのである。つまり哲学者の語る絶対という概念は概念ではないのだ。それは彼の全主観を支える揺るぎのない信念の起源なのである。
 しかしそのようにあるテクストに自己の意志を表明するという行為自体は、それ自体がテクスト創造者にとってのプラシーボ効果であると私は言った。つまり書く行為自体が信仰の姿なのだ、と。それは彼等にとって実は心の平衡を保つと同時に意識の冒険でもあるのである。世界全体に対して、あるいは社会全体に対して、「私も賛成したいのですが。」と意思表明することは「ではあなたはどういう形態に対して賛成したいのですか?」という問いを必ず返される。その問いを一身に受け止める覚悟が彼をテクスト記述に向かわせるのだ。それを意識の冒険と言わずして何と言おう。意識を意識として受け止めることをメタ認知と言うが、メタ認知の仕方を通常の仕方とは別個のものとして認識し直すことを意識の冒険であるとしてみよう。すると次第に何か光のようなものが見えてくる。
 それは信念の体系に対してそれが通常は閉じている筈なのに、閉じてはいない、つまりもう一度編み直す必要性に対する覚醒である。それは通常ア・プリオリであると思われていたことがそうではなかったという事実に対して覚醒することでもある。その心的状態が所謂本論で言うところの「賛成したいのですが。」型の言辞を生むのである。「反対します。」とその真意が微妙に異なるということは既に述べた。「反対します。」には説得はない。そこにはあるものは多数決には従うということの表明でしかない。しかし「賛成したいのですが。」型の発言には建設に対する願望の表明と、他者誘導に対する意志が感じられる。
 20世紀の哲学潮流に多大に影響を及ぼしたものに精神分析があることはよく知られたことであろう。その起源を遡ればカント辺りまで遡ることが出来る。カントはパトローギッシュ(病理的)という形容をよく使用している。そして時代がヘーゲルを必要とすると、自我ということの問題が極めてクローズアップされてくる。カントにとって自我とは哲学者のパトスとして超越的であったが、その観念をヘーゲルが客体化したのだ。そしてフロイトが登場し、それ以後の多くの哲学者たちは心理学と精神分析を哲学的概念規定のための資料として盛んに利用するようになる。サルトルはワトソンやジャネについて触れていたし、メルロ・ポンティーもフロイトに関して触れている。ポール・リクールは新行動主義のトールマンについて触れている。彼等に共通して最も大きく取り上げられてきたのがゲシュタルト心理学である。それらは概ね批判対象としてであるが、哲学者たちは通常例えば現代の信原幸弘等を見れば分かるように、私たちが通常抱きがちな心の内容が、脳の作用の写像であると教え諭されても尚、それを信用することが出来ないという心的傾向を超越的な命題であるとする。心脳一致説を早く提唱したウィトゲンシュタインと同世代のファイグルのような存在も、基本的には心‐脳一致を説明するために哲学者の伝統に則っている。そしてこの心の内容が脳作用の写像であるという観念を比較的初期におぼろげながら提出していたのがゲシュタルト心理学であると言ってよいだろう。
 しかし精神分析は脳作用としては前頭葉によって司られている自我を基本的な命題として分析し続けてきた。しかし今日脳科学では感情がそれら一切の底流として作用しているからこそ前頭葉の思考回路が活性化しているのだと考えている。その感情を司るのは古脳と呼ばれる扁桃体を中心とする大脳辺縁系である。精神分析が哲学においては超越的であると考えられてきた自我に対して客体化して分析してきたのは精神分析が元々、臨床医学の一分野である精神病理学とか精神医学を基本として発展してきたからである。精神分析の背景には自然科学の認識がある。そこで今日精神分析と脳神経学や脳生理学が協同して考えるという流れも実現しつつある。これに更に哲学や言語学、心理学、あるいは動物行動学等が合流すれば、あるいは言語の起源も、人間の脳の進化の謎も、人類の社会生活の起源も次第に解明されてゆくことになるかも知れない。
 そこで本章では残りの紙面を主に意識の冒険を自我というレヴェルで考えていってみようと思う。
 自我という概念は心理学や精神分析では最早最も頻繁に登場するものだが、哲学においては有名なところではドイツ観念論哲学のフィヒテが考えた。しかしその後シェリングやヘーゲルによって批判を受け、哲学者毎に異なった考えが持ち出されることとなる。しかし哲学においては倫理への問いということはあまりにも当然過ぎるので、倫理自体とはどういうことかと問うということはしない。もし倫理自体を問うとしたらそれは哲学ではなく、脳科学とか心理学とかになるだろう。だが倫理への問いということは一見容易なようでいて、実は極めて論理的な進め方が困難なのだ。例えば宗教なら愛せよと一言言えばそれでよい。しかしその事実を煎じ詰めると誰かを「愛すること」というのは他の世界中で生活する大勢の人のことを無視すること等しいのではないかということになる。
 また例えば文学賞でもそうだし、ピアノコンクールでもそうなのだが受賞して成功する人がいるということは、その影で数多くの受賞することなく、またそのために世の中に出ることなく終わる人がいるということである。もっと端的に言えば誰かが幸福になるということは誰かが不幸になることだ、と言い切ってもよい。あるいはある国が平和であることは別のどこかの国が平和ではなくなることであるし、また裕福な国があるということは貧困な国があるということなのだ。しかしそれを直接言えば政治的な発言にはなるかも知れないが、心の問題を扱う哲学では、裕福であるとか幸福であるとかいうことは一律にこういう状態であるとは規定し得ないという立脚点にあるので、問うことで誰彼差別するということはない。真に幸福な人も一見幸福な人も、不幸な人も均なみに問う自由がある(自由とはかなりきついことであるとはこのことでも了解され得るだろう)。
 宗教の場合ある一つの真理に対して共感する同一の波長の人々が集まり共感し合うという事態が基本としてある。だからカントという哲学者に惚れた者同士の学会があるとしたらそれも宗教と言ってもよいし、フッサールやウィトゲンシュタインに対して格別の思いを抱いている者同士の集まりは宗教のある宗派の集いと同じである。
 しかし本来哲学とは共感し合うばかりではないし、共感するとは一体どういうことであるかと問うことでもあるので、愛することが愛する必要のない大勢を無視することであるために倫理を問うことそれ自体の仕方が問題に取り組む人々によって多様化し、こういうものが哲学であると一言で言い表せないという事態に特に19世紀後半くらいからなってきた。だから論理実証主義(本当は論理的経験主義と言う)、現象学といった様々なタイプの潮流が登場したが、どこを見れば倫理という観念が論じられているのかと一見すると思われるが、実際は倫理を問うということは倫理を取り巻く世界の状況や世界成立の構造を問うことと等しいために倫理という観念自体は殆ど登場しないということとなるのだ。しかし現象学であれ、論理的経験主義であれ、日常言語学派哲学であれ、分析哲学であれ、言語哲学であれ哲学と名のつくものは全て倫理への問いであることは間違いない。
 例えば戦争という事態を考えてみると、私は勤勉とか禁欲が齎していると考えている。
 禁欲はともかく勤勉という観念はいいことであると特に日本人は思っている。しかし私は今までの人生の大半を何らかの表現をすることに費やしてきた人間なのだが、表現するという行為は勤勉さだけではなし得ないと考えている。それは端的に言えば勤勉さも必要な要素の一つであるが、最も大切な心得とは心の余裕、もっと直接的に言えば遊び心である。
 科学とはそこで示されたデータの正確さと一般化されて応用されることが目的なので、世界中のどこの国のどういう考え方の人間同士でも共通の真理によって結ばれているので、定義付けがきちんと統一されていなくてはならない。しかし昔から偉大な科学者は同時に偉大な哲学者であるか、そうでなければ偉大な哲学的思念の持ち主であった。そして科学者が同時に偉大な宗教家であるということも昔から珍しいことではなかった。
 だから一人の科学者の書く本には科学者としての使命と同時にその人の哲学や宗教観が反映されているということもまた珍しいことではないし、それは哲学者たちが科学や宗教に関して触れているということと何ら変わりない。
 自我を考える時、哲学的にはフィヒテ流とかヘーゲル流とか言えるが、もっと大切なこととは、そのような自分の立場を自分で理解するということと、他者もまたそのようなものを持っていると認識することである。恐らく動物行動学的な見地から言うと、自我もまた進化的な観点での適応ということになるのだろう。茂木健一郎は生物学分野の進化論者たちが利他的行動として位置付けるものの一つ、「人に注意する」という行為が脳科学的に言えば脳内の快楽中枢が活性化していると指摘している(「脳の中の人生」中公ラクレより)が、利他的と利己的ということの境界というものは設定することが不可能なように思われるのは、あのリチャード・ドーキンスの考えが最も端的に表された「利己的遺伝子」を見れば理解出来るだろう。しかし彼はどちらかと言うと適応という生物学的な概念、つまり生存戦略上のメリットを利己的に追い求めることから利他的な行動が定着したと考えている。それは要するに他個体から不意の攻撃を受けたのなら咄嗟の判断でその個体を避けることを躊躇わずに行動選択する身体的、条件反射的な動作や所作を遂行する意志を育む自己防衛と他者との協調の能力を司る脳内活動なのであろう。だから自我を心理学的なパーソナリティーという概念で考えると、あるいは自己の立場を鮮明にすることで社会生活において自己内の本来は無目的な行為や行動をする際の快楽享受を一定の社会的目的に照応させて、行為や行動に一定の意味を自己の側からも他者一般からも理解しやすいように仕向ける当のものとして考えられるかも知れない。
 それは脳内での生活実体の無目的性を目的性(例えば社会に貢献するとか、社会全体の幸福と個人的幸福のためにとかの)へと転換するための意志と呼んでもいいかも知れない。
 だから裏を返せば自我の在り方を変換するということはそれだけで意識の冒険をしようとしていると言っても過言ではないだろう。しかし意識の冒険はそうしていると意識するには危ういものなのだ。つまり意識的に冒険しているということはそうしながら一瞬反省的な意識になった時のみ覚醒することなのだ。だから逆に意識的に冒険しようと思う時、それは功を奏する冒険になるとは限らないのだ。
 自我に戻ろう。何かに関心がある時とか、何かに熱中している時に、そういう自分にふと気付くということがある。そういう時に初めて自我は意識される。それが意識の冒険だったのだ、と気付く自分が自我である。自我には自他の認識を司る作用がある。自己の生存の持続を望む欲望は自我によるものである。
 音楽という行為にはある忘我がある。一如である。またスポーツもそうである。この二つには熱狂的な精神状態へと誘う作用がある。ある意味では戦争もまた極度に遊びのないゆとりのない勤勉さ一本槍が招来するのだ(だが一旦それをし始めると途端に敵を倒す喜びに満たされてしまうそういった麻薬に近いものも戦争にはある)。遊びのない勤勉さは社会全体の利潤だけを追求する。戦争はそういう意識から発生する。ウィリアム・ジェームスは言語を生存と競争の原理を体現したもの、つまり道具と考えた。その意味ではプラグマティズムとは自我の確立過程に存する競争原理に依拠した考え方である。自我の確立過程はそのまま言語行為の進化過程となって立ち現われる。
 何故そのように進化過程において競争原理が示されるのか?それは人間がコンピューターと違って強制されると一挙に嫌気が差す動物だからだ。実は他の動物でも意識的にもし強制されていると考えればその命令を拒否するだろう。しかし幸いなことには彼等にはそのように強制を強制と認識する知性は備わっていなかった。人間はしかし強制されたくはないと同時に自ら進んで自分より強者の軍門に下るような部分もあるのだ。つまり相手からの支配を進んで受け入れ、相手への服従に素直に屈するところさえある。そして強制されたくはないという心理とその服従心は常に共存しているのだ。そしてその二つのいずれかが立ち現われるかということに関しても全く不確実なのだ。しかし更に同時にその不確実だけではなく一生変わらずに持ち続けるような一面も持っているのだ。そしてその不確実と確実の二つの領域は全ての成員において異なった領域なのだ。だから私は人間が人間の力によって人間と同等の能力を有するコンピューターを創造することは不可能なのではないか、と考えている。しかしにもかかわらずそれを挑戦するというところに意識の冒険を気が付かぬ内に実践している人間の実像が垣間見られる。
 意識の冒険を反省的に捉える時、我々は認識上で超越的な視点を要する。つまりメタ認知レヴェルの認識を持つということは、「もう一人の自分」を客観的自分(身体、世界に存在する世界の構成要素としての自分)に対峙させる必要に迫られる。そして我々の祖先は恐らくこの「もう一人の自分」(つまり客観的自分を観察するところの)のことを自我と呼んだのかも知れない。

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