Friday, June 1, 2012

〔言語の進化と責任〕第六章 現代固有の信仰と新たな責任

 抗うつ薬が開発されることによって薬物依存が増加し、うつ状態に対する意識が鮮明化し、逆にそのような認識のなかった時代には然程意識せずに済ませていた病理に対する自覚が寧ろ顕在化し、各個人で自覚されるようになるという事態それ自体は既に昔のような素朴さを取り戻すことの不可能性を多くの世界市民が感じ取っている時代のように思える現代であるが、それはマスメディアとマスコミとネット社会が助長しているし、その現実自体を変更したいという風に多くの世界市民は感じていない。
 病気は常に新たに発見され作られるものだし、病気にならなくても健康そのものであるような状態の方があり得ないという真理の方に安らぎを感じるというのが現代人固有の心理であろう。
 そういった状況下で我々は現代固有の信仰を語彙に対する捉え方に顕著に認識することが出来る。昨今のテレビの芸能人や芸能人化した小説家たちによる対談番組ではしきりに「そのことがトラウマになって」というフレーズが多用される。しかし本来トラウマという概念は心理学でも精神分析でもそう容易く人前でそれを抱え込む事実を紹介するようなタイプのものとは異なる深刻な状態のことを指す筈だった。しかしちょっとした事実に対して比較的安易に現代人は「トラウマになって」と言う。これは自分を病理状態にいる側の成員に同化させることによって健康さをアピールして自己顕示欲が旺盛であることをアピールすることへの羞恥が巧みに自己顕示欲を隠蔽する戦略のように思えてならない。本来「トラウマ」という言葉はその事態に切迫した張本人たちにとってはもっと深刻である筈のものであるが、我々それほど病理的状態にあることのない成員たちの些細な日常に関しても適用して使用するという事実は、明らかに病理と非病理(健康ではない)の状態の無意識の等質化作用に他ならない。あるいはこの事実は病理的状態を異常と捉えることで発生する差別意識の撤廃を暗黙の内に全ての成員が望んでいるという事実と符合するのかも知れない。
 リン・マーギュリスとドリオン・セーガン親子が著した「性とは何か」(石川統訳、青土社刊)で二人は古典的熱力学を時間の対称性に、そして非平衡熱力学を時間の非対称性に依拠した考えであることを明示して、その基礎において性の在り方を捉えているのだが、我々の経過してきた時間と我々の時代は徐々に原点に戻るということはなく、私は最早人間のコミュニケーションはネット社会で変質したとしても、仮にそれ以前からあった潜在的なコミュニケーションの在り方自体が顕在化しただけのことにせよ、そうおいそれとは以前の旧態依然のコミュニケーションには戻らないという考えの人間である。その意味では質的な意味で人間社会は過去の事例を繰り返すということはあり得ない。そして語彙の使用の仕方自体も、ますますある専門分野の言説が他の多くの分野からマスコミ用語にまで常套化され、再びある専門分野の語彙へと特化されるということは決して起らないであろう。その際に我々は言語自体の在り方に対して新たな責任の在り方を模索しなくてはならないだろう。しかし本当にこのような事態というのは現代固有の状況だったのだろうか?あるいはいつの時代においても、そのような専門語彙の一般化現象自体が、現代固有の問題と思われていたというのが事実だったのではなかったろうか?
 例えば既に述べたベンジャミン・リベット(脳科学者)の主張するように、脳は人間がある行動を採ろうと思った瞬間以前に既に全ての意志決定をなしていて、我々の自由意志と感じるものの方が実はその脳の決定に従っているという事実は、例えば我々が自分の意志で好きになった異性に対して交際しようと決定しているものは、実は自分の意志以前に、身体論的にも、脳神経学的見地からしても意思発動以前であり、既に脳自体に決定されているということは感覚とか感性とか、情感とか情動は脳の前発動的な「構え」に対する従順な反応であるだけのことになる。その意味では全ての語彙はそれを使用する成員の等質化作用を助長するためにのみ誕生してきているとさえ言えるのかも知れない。寧ろ自由意志とは脳の決定を円滑に進行させるための方便であるということが次第に現代科学では明らかになりつつある。そして現代人の信仰とはある専門分野に特化された語彙を一般化し、ある特殊な病理状態にある成員の状態を一般人の健康状態に等質化するような新しい形での自己真意隠蔽型の新マルキシズムであるとさえ言える。するとその現代人を根底で支える心的な根拠としての責任に対する認識は必然的に古典的な責任感とは変質せざるを得ない。つまり「他人の悩み事に対してはほっといてあげる」対友人、対同僚の配慮というものが前提されていることになる。だからたとえ抗精神的病理薬による新たな病理状態の特化に対して、その病理状態を一般化させることによって新たな等質化の層を暗黙の内に認可し合うという責任の取り方が現代人には求められているのである。と言うよりも言語獲得以降の人類の思考パターンとは意外と「他人のことはほっといてあげる」型の感情を平常なものとして考えることの上で成立してきた、とさえ言えるからである。
 例えば記述という形で示される人間の言語行為とは、実は予め記述者が心的に設定した未来に対する予感と、その予感を正当化し得る仮説を他者に披露することで成立しているのだし、発話行為もまた発話する瞬間以前的に脳内で思念された未来への予感を、あるいはこれは記述に関しても言えることであるが、未来を想定することで過去を想起することをだぶらせているような心的状態での仮説を明示し、その明示によって逡巡を払拭し、新たな行動へと誘引するためになされているのだ。その意味では全ての言説は、記述であれ、発話行為であれJ・L・オースティンの言ったような意味でパフォマティヴであることは間違いない。ただオースティンは全てがパフォマティヴであると言いたかったが言わなかっただけのことである。もう一度第四章で述べた発話と記述の心的動機について明示しておこう。 ① 発語することで、その「語られる文章」や意味内容を記憶しようとする。要するに記憶したいことを発語する。語ることはそれだけで印象深い事実として語った内容は記憶に残る。 ② 発語することは発話者にとって意志決定することを意味する。発語することで、決意しようとする。(これはJ・L・オースティンのperformativeという概念の出所である。) ③ 発語することで心的な不安を除去する。人に何か聞いて貰うことで、不安を取り除き安心を得ようとする。(しかしこれはある程度気心が知れた対話者を必要とする。) ④ 自分自身の中に自信のなさがあり、その自信のなさを払拭する意味合いも込めて、発語することで、つまりその語られる内容によって自信を取り戻し、自己を激励する、あるいは鼓舞するために発語する。(これもまた対話者に対する信頼を必要とする。)
 しかし今、この四つの項目にもう一項目付け加えねばなるまい。それはこうであろう。 ⑤ 発話すること(記述すること)は、それを聞くこと(読む)ことも、そうしないことも発話される側の自由だが、発話すること(記述すること)の動機を相互に詮索し合わないという前提においてのみ有効に作用する自由であり、発話(記述)されたことを記憶するにせよ、しないにせよそのこと自体もまた他者成員に対しては「ほっといてあげる」型の選択を前提とすべきである。
 私が考えている「他人のことはほっといてあげる」型の配慮とは、現代に固有の個人的な対人関係の図式ではなく、もっと言語獲得の末に記述行為が発生した地点での言語行為の発話と記述の双方向性秩序の完成(それ以前的には他者心的領域に対する侵犯的発話というものも多くあったと思われるから)以来、継続された秩序だったのだが、その意味内容は近代合理主義とその崩壊に至るまで隠蔽されており、やっと今日現在に至って意識的に認識されるようになった、と私は考えているのだ。つまり「他人のことはほっといてあげる」型の対他的配慮とは、他者の能力と他者の良心と、他者の自発性の尊重であり、承認なのだ。そしてとりわけ行動主義以降の内観法の除去が、現代に齎した福として、我々は行動も重要であるが、行動を起こすことはその行動を決する背景と、行動を起こす成員の脳内での意志決定以前の必然性を全ての成員が携えているという事実に対する相互の覚醒と、そのことに関する相互の内的領域に対する詮索を控えるという事実が社会秩序としては最優先されるという事態を招聘しているということを我々に思い至らしめるのだ。
 実は私が言った等質化作用という現実は既にディルタイ、ジェームス、ニーチェにおいても示されていた。しかし彼等に共通に見られることというのは社会成員の「個」性に対する着眼が近代的合理主義に対する攻撃要員として理解されていた、ということである。その点ではフロイトもまた同様の存在として理解することが出来る。
 しかし現代では言語獲得の起源的な言語行為のモティヴェーションを探ることが現代コミュニケーションの行く末を見据えることと等価なものとして意識されているという事実の前で、「個」性は何かの破壊のための方策であるよりは、新たな共同幻想を模索するための方策として浮上してきているのではないだろうか?
 例えば国家とか政府とか、あるいは巨大化しつつある企業、コングロマリット、常習化するM&A(あるいはバイアウト)といった社会的事実は、仮に政府要人が暗殺されても、世界的企業が買収されて元の形が微塵もなくなっても、テロによって革命が仮に起きたとしても尚、革命以前とそう変わらない現実をネット社会自体が保持し続けるであろう。つまり「またそういうことが起きたね」型の認識を世界市民に市民感情として催すだけの反復が我々をどんなに不測の事態になっても待ち構えているということだけは何故だか我々にも容易に想像がつくのだ。
 そういう意味では歴史が我々の個々の驚愕を日常化してしまった。そのことを揺るぎない事実にしているものが現代ではマスメディア、マスコミである。しかしふと冷静に考えるとそれらも全ては言語行為の連鎖による常習化した現実認識に端を発する。そこで言語行為による常習化した現実認識に至るまでの段階を次のように考えてみよう。   ① 情報伝達必要性に対する認識の開示<サヴァイヴァル的状況>(自然環境の激変あるいは捕食者対策)、人類の結束。 ② 情報伝達必要性を満たすような意味世界の内的構築<サヴァイヴァル的状況打破への欲求>、他者に対する信頼の定着。 ③ 内的構築された意味世界の伝達方法の模索(言語行為の手段の模索)<言語行為への前夜>、この頃既に絵を人類は描いていた。社会の進化。 ④ 内的構築された意味世界の伝達方法を既存のシステム(発声)によって充足することを発見<言語行為の黎明期>、やがて絵と発話内容の記録を合わせて文字表記を発明。 ⑤ 情報伝達行為による社会的意味世界の充実<それ以前からあった責任の自覚>「誓います。」型メッセージの定着。文字表記の定着。 ⑥ 情報伝達必要事項充足外的な伝達行為への要請<それ以前からあった良心の自覚>「賛成したいのですが。」型メッセージの出現。他者信頼(友情、同僚、同士愛の定着) ⑦ 情報伝達必要事項充足的な伝達行為としての他者承認と他者理解と対他的良心と対他者良心承認の定着<責任と良心の配分値の決定に対する要請>「賛成したいのですが。」型メッセージの定着。 ⑧ 情報伝達必要事項の意味内容の拡充<責任と良心の協調>、社会制度の飛躍的進化。 ⑨ 情報伝達必要事項の意味世界の再考(常習化した意味世界への反省)<責任と良心の分裂に対する覚醒> ⑩ 情報伝達必要事項と必要外事項の弁別と非伝達的以心伝心(東洋的な認識ではない)による他者に対する配慮<責任と良心の再統合>
 サイモン・バロン・コーエン(「共感する女脳、システム化する男脳」より)等心理学者等が主張しているような意味で男子と女子の脳には微妙にその得意とするところが異なっている。しかしそれは茂木健一郎も指摘している(「脳の中の人生」より)ように共通性の方がずっと大きいのだが、ともあれ共感能力とシステム化能力が相補的に人間の脳の進化の過程において作用してきた、ということだけは間違いないようである。そして共感作用は良心に、システム化作用は責任に直結しているように思われる。そして言語獲得を巡る人類の旅において、我々の祖先は恐らく共感作用とシステム化作用を良心と責任の要請に伴って進化させてきたと言えるのではないか?私は仮説においては一応責任の方を社会的事実としては⑤から⑥というステップにおいて先行させたが、実際心的作用そのものにおいてはどちらが先ということはないかも知れないし、ひょっとしたらミラーニューロン(側頭葉のブローカ野付近で認められている)等の発達という観点からすれば、責任という協同幻想よりも先行していた可能性すらある。
 ⑧は中世以前、そして⑨は近代以降なので、この二つの間には長い暗黒があるが、その事実と言語行為の実体論的なレヴェルとはまた別である。⑩はまさに今現在我々が立たされている地点である。⑤の「誓います。」型の責任の自覚が発語行為として定着していくという事態は、その誓いの対象としての行為が規約として設定され、その規約に対する遵守が社会で要請されているということが前提される。例えば近代以降徐々に考察されてきた言語学は、言語行為それ自体に対して、内容論的な進化とは別個の、つまり形式論的なことをも含めた精神的、身体的行為としての言語使用という全生活レヴェルでの、全歴史的視点レヴェルでの認識を深める必要性が浮上してきたということである。そして⑥の段階で初めて定着した友情や同士愛といった現実は、しかし行動論的にはそれ以前、とりわけ②から既に始まっていたのだが、その事実に対して感謝するという意識は、⑥をもって初めて成されただろうと考えられる。つまり⑨で初めて言語行為自体を全生活レヴェルから(それ以前にあった哲学の一分野としてではなく)認識するという要請があった時初めて言語使用に対する感謝が持たれたわけである。それは⑤において責任が、⑥において良心が、それを有しているという事実に対する感謝によって自覚されるということは、その事実に対する認識を持つことが出来たということであると同時に、その事実に向き合うことに関して責任を持つということをも意味した筈である。つまり何かを無意識に執り行っていたレヴェルでの生活と、その行為自体の意義を自覚した後の生活とでは、自ずと異なり後者ではその行為を全生活中の必須として位置付けるという意味で、責任を生じるのである。つまり⑤において責任に対する責任が(そして文字表記することで得られる利益において表記行為自体の責任も持たれ、その当時表記し得る成員が限られていたとしても尚、文字表記という行為が人類にとってかけがえのない社会的事実であるという意味での認識はイリテラルな成員にとっても了解事項であったことだろう)、⑥において良心に対する責任が、⑦において個人的な意見の発動に対して責任が、⑧において社会成員としての自覚に責任が、そして⑨において言語使用そのものに対する感謝の念に責任が、そして⑩において再び他者存在に対する責任が社会成員の意識論的レヴェルで前提されているということになる。②において初めて人類に他者存在が認可されたとすれば、それはサヴァイヴァル的な外的要因に起因するわけだが、地球環境の保全に関して再び危機的状況下の現在、またその意識レヴェルに立ち戻っているということも出来る。そして②において私は既に行動論的なレヴェルでは良心は発動されていた、と認識しているのだ。良心の行動論的な発動という事態は、恐らく言語行為がそれほど覚束ないレヴェルであったとしても尚、人類同士での理不尽な殺人に対しては相互同意での制裁が発動されていたであろう、ということをも意味する。それは共同幻想としての埋葬、個人的埋葬と集団墓地的発想の共存も考えられるということだ。個人的埋葬に関しても、その他者の埋葬事実に対して尊重するという意識は社会進化以前にもあり得たであろう。しかしにもかかわらず良心の発動という現実自体がより客観的に認識され得るのは、恐らく責任が客観的に認識され定着するより少し遅れてなされた、と私は考えているのだ。これは社会機能の進化過程における試行錯誤とある程度の進化段階以降での社会機能維持という人類の初期的な高度成長期においては致し方ない現実だったのではないだろうか?(それは日本の戦後史を振り返ってみても、同一の段階を踏んでいると思われる)そして私がアンリにおけるヘーゲル解釈を巡って書いた箇所で私が述べた「書く行為自体が信仰である。」という考えが人類の定着したのは、一部有識者間では⑤、世界市民レヴェルでは⑨をもって初めてであったと考えていいだろう。
 言語行為は発話にせよ、記述にせよ、責任、つまり概念使用を巡る対他的な説明責任、認識力保有の意思表示を旨とする意思疎通の責任において顕現されていたと考えられるが、⑤において責任概念が明示的に全成員に了解されるようになる遥か以前に既に行動論的に発動されており、それが故に言語行為は発展していったものと考えられる。しかし記述行為が特権的な成員によるものではなしに広く一般的になってゆく過程は⑨を待たねばならない。要するに責任は無自覚であるにせよ、行動論的には発話行為をなすプリミティヴな状態の頃既に発動されており、その発動された責任的行動が発語行為を秩序立て、文字表記を社会必須の行為として定着させ、やがて責任概念を全成員に明示させてゆく。だから言語活動と言語それ自体の進化の歴史はまさに責任的行動の発動と責任概念の獲得といった一連の言語活動の人類的な進化過程と不可分に構築されてきたと言えると思う。
 次章では言語活動の人類的進化過程に見られる言辞、陳述の責任論的な進化について例証しながら考えていってみよう。

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