Thursday, October 9, 2014

シリーズ 愛と法 第十一章 定言命法は誠実性を超える(前回の補足的意味合いから)

 ニーチェが言った誠実性とは、自分が思っているのに思って等いないと言い切ってしまういい子ぶり批判でもあった。それはイエスが息子二人に何かを頼んだ時快諾する息子を誹り、一度は断った息子を肯定する時にも適用されていたし、イエスは<リア王>のコーディリアスの様な誠実さを認めたのだった。
 しかしそれは前回の結論としてはイスラム国に参加する事だって自分で正しいと思えば正しいのだという決心へも繋がるし、それを否定出来ない。誠実性とはそういう危険性も実際にはある。
 にも関わらず我々はイスラム国に参加する事は良くない事である、とは哲学書や思想書に書きはしないだろう。何故なら今の所そういう活動に身を投じる事は危険分子として見做されるが、やがてそうでなくなる時期も来るからそう書いてはいけないのではない。
 どんな時代や状況が到来しようとそういう風には書けないのだ。つまりそれこそが文章化する事での誠実性と言えよう。 つまり生まれてきた国が日本だったから、それは如何様な理由があろうと処罰され得るから避けておこうと皆思う様な場合、それをいけないという風に書けないのだし、もし自分の身内にイスラム国の参加者が居て、しかもそれが民族的にもイスラム教徒であった様な場合、それをいけないとも言い切れない。イスラム国自体に問題があろうと、それを生み出したイスラム教圏自体にはそういったテロ集団を生み出す土壌自体が存在したという事だけは間違いない。
 前回の重要な議題でもあった<与える>とはつまりそういう事である。与える事の本質とは受け取る側(者)の主体と自発を促し、責任を相手へ委ねる事、つまり相手の意志(自由意志)と主体を信用する事が基本としてある、という事だ。それは愛の基本である。
 だからその愛の仕方、方法、つまり法はそれ自体その都度それを考える主体に拠っても変わり得る。イスラム国をいけないとか否定する論理自体は(そういう風に判断する自分が日本人だから)というそれ以上の是非を論じる暇は誰にもない。だが自分自身の国際正義や社会正義や人倫的正義としてはそうでない、だから敢えてその活動に身を投じるという意志自体は否定出来ないが、そうしなければいけないという何か外部からの圧が無意識に発動されているなら、それは考え直した方がいいとしか言い様がない。それらその都度の判断こそ法である。
 従ってカントの言った定言命法とは、ニーチェの言った誠実性より上位にある。何故なら誠実性とはあくまである選択肢を取る時、その選択肢が正しいと自分自身で思うからと根拠づけるだけだからだ。だが人は理性自体さえ常に正しいと言い切れないとカントを通しても知っている。つまり正しいと思えないから正しくないとか、正しいと思うから正しいのなら、自分自身が健全な判断を下せない時に、その下せなさ自体に誠実であるなら、それはそれが正しいと思っているのだから(健全な判断を下せる様になったら、それは正しくなかったのだ、と後で振り返りそう思えてしまう様な事であっても)正しくないとは思えない、それが本性だからだ。
 だからこそ誠実性とは自分自身の刹那的な誠実も含むが故に、且つ定言命法の様に一歩引き下がって、デカルトの様に自分自身のものだと思っている様な当たり前の事さえ、自分自身の判断ではないかも知れない、と疑う様なコギトを巡る真理さえ見据えているが故に、誠実性とは刹那的な自分自身への正直さという意味で、定言命法には劣ると言える。 誠実性は定言命法へ適用されて初めて意味があるのであり、定言命法なき誠実性は、イスラム国は正しいと思えば正しいという判断も正当化してしまう。
 イスラム教圏自体には恐らく問題がある。それは日本社会にも韓国社会にも問題があるのと同じ様にである。しかしそれだからと言ってイスラム国の仕方は正しいと言い切れば、当然連合赤軍もオウム真理教も正しいという事になってしまう。
 しかしイスラム国内部で生まれ育った者はそういう事さえ聞かされる事なく生き方を決めなければいけないだろう、しかし少なくとも哲学の言っている誠実性とは、その事迄語られてはいない、否聖書にさえも。
 そして定言命法はイスラム国内部で生まれ育った未来の青年の様な立場でも、日本人として生まれた未来の青年の様な立場でも、それぞれ自分自身にとってその都度一番正しいと信じられる事を、理性的に格率に従って考えて判断せよ、という定言命法だけは等し並に(与えられる)だろう。
 何故なら与えるとはあくまで真理だけを述べ、その真理にどう従うかは責任として(与えられる)者に委ねられているからである。

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