Wednesday, October 8, 2014

シリーズ 愛と法 第十章 根源悪(根本悪)とキリスト教

 聖書で<貧しい人は幸いである>と言う時、得ようとだけする人を悪の入り口に立ち、偽る人もそうであり、逆にそうでなく偽らず、真っ正直な気持ちで居る人(つまり与え様とする人)は神と対話し得るとそう考えている。ピーター・ミルワード神父は日本在住者で日本語に翻訳された多くの著作もあるし、原文でも本を出している。其処(<イエスとその弟子>講談社新書、別宮貞徳訳)から読み解いてみよう。
 二人の息子の父からの頼みに対する返答で<イエス>と返答した息子が前者で<ノー>と返答した息子が後者としている。シェークスピアの<リア王>の娘コーディリアこそ前者であり、ゴネリルは言葉巧みにリアを惑わしその実裏切るので後者である。シェークスピアは聖書を踏まえて書いているとも取れる。
 <貧しい人は幸いである>は甘言を弄す事もなければ、得ようと貪る事もなく、従って実直であればこそ甘言に拠って得る事は少ないかも知れないが、明らかにその実直さで他者に与え得るものがある。つまり聖書は基本的に得ようと思い欺瞞的で偽善的な取り繕いを弄す事なく、自己利益から言えば失わせてしまう誤解も恐れず、勇気を持って自らの悪を噛み締めて生きていくという事に外ならない。
 しかし我々は真っ正直に嘘偽りなく与えようとする者に現代社会で直面すると臆してしまう。怖くなってきてしまう。つまり其処に我々の生来の功利主義が控えている。カントが根源悪(或は根本悪)と呼んだものとは、功利主義的な安泰だけを願う勇気の無さが素直な他者の行為をさえ悪辣な甘言と受け取ってしまう事、それは結局自らが悪辣で功利主義であるが故に他者全体に対してその本当に素直な心もあるのだ、という事(勿論そうでない真に偽善的欺瞞的な事もある訳だが、それ等の違いを見抜けず)から、一律に他者全般へ不必要に懐疑的になり、甘言的取り繕いの応酬だけに依存して、それが心地良くなっていってしまう惰性的行状を言っているのだ。
 愛なんて信用しないという事、つまり惰性的打算的繋がりに安心を得てしまう事、それは勇気を持たず真理を見つめる事なく、曇った悪こそ救われる的な(それは親鸞に拠ると<歎異抄>では真理なのだが)悪しき開き直りで社会機能維持に貢献し得ていると錯覚する事を言っているのだ。
 愛は信用出来なくなればなる程観念性を帯びる。何故なら愛を信用しなくなった者とは素直な他者の好意を受け取れなくなるからだ。
 大人的な態度という観念程曖昧なものはない。儀礼的に失礼のない様にだけ振る舞い、一切の他者への感謝の念もなければ、協力もし合わないという選択肢が一番気楽でいいと考え生活出来るくらいに日本もそうだし、一定程度の先進諸国は社会秩序的には安定している(勿論時折凄く凄惨で残酷な犯罪も起きるが、それはかなり件数的には稀であればこそ大きく報道される。又自然災害的な悲惨さとは現代社会にだけ特徴的な事ではない。勿論地球温暖化に拠る悲惨な状況、或いは地殻変動的な地震や火山の噴火等もあるが、それさえ固有の現代の自然的傾向はあるものの、古来同じ様に勃発してきた事でもある)。
 愛が儀礼的な取り繕いへの安穏とした安心だけとなってしまった時、それはたとえセックスをしても、抱きしめ合っても或いは心は虚ろであり、素直な他者への信用、信頼、憩いはない。それは義務感であり善意であり、形式的秩序だけを維持したいエゴイズムである。これはハイデガーの言う頽落の中でも最低であるにも関わらず、経済生活的な安定からは意外とそういう悪しき現実主義だけが形として残って、その安定性の上で真理探求への向上心を失っていく。
 聖書の思弁性とは旧約聖書の<神の選択と葡萄畑>でも書かれている事で(旅に出た葡萄畑の主人は収穫をしたいが、農夫達がその収穫の報告者である召使を酷い目に合わせ、主人が息子を今度は派遣すると彼を農夫は殺してしまい、自分達で支配してしまう時)イエスは貴方達ならどうすると問うと、他の農夫に葡萄畑を与え、その悪辣な農夫達を罰すべきだと返答する者へ、神の国は貴方達から取り上げられ、もっとそれを与えられるに相応しい別の良い実りを結ぶだろう人達へ与えられると諭すのだ。
 此処には通り一遍の返答をする者への激しい侮蔑が込められていて、旅に出た主人を批判する論理が展開する。つまり此処でイエスの言っている事はマルクス主義的な観念とも共通するメッセージが発せられている。しかし重要なのは、イエスの返答とは、安易に即断をするイエスとの問答者への批判となっているという事だ。
 此処にイエスの聖書全体のメッセージでもある思弁的理性とでも呼ぶべき対話術と思弁性が漲っている。イエスの言葉は語り過ぎず、後はそれを聴く者(聖書を読む者)が自分で考えよとある部分では突っ放している。つまり与えているのだ。
 かつてのフランス映画の様な不条理な終わり方をする際に後は鑑賞者達が各々自分の心で考えて欲しいというメソッドに近い。
 イエスの言葉は確かに淡々としていて、自己責任の無い者が読めば突っ放して冷たい様にさえ思える。だがそれは自分の心に問い詰めて考えよと与えていると考えれば、愛の法なるものは存在し得るのなら、それはきっと生温い世辞や美辞麗句、或いは社交辞令的な取り繕いとは全く別種のもので、突っ放しているかも知れないが、自分自身の頭と心で考えよ、と与えてくれていると読む者、聖書の説教を聴く者は考えざるを得ない。それはある意味では法自体が重要なのではなく(法自体が重要だとする形式主義こそハイデガーの頽落であり、イエスがパリサイ人・律法学者を通して批判している処の事である)、愛を自分の頭と心でその法則を考えよと言っているという意味では哲学者、中島義道が著している<悪への自由―カント倫理学の深層文法>で言っている処のカントの定言命法とは即ち形式的に設定されている法なのでなく、その都度自分の頭と心とで考えよ、というカントなりの与えである事と極めて隣接している。
 その点では新約聖書でのイエスの言葉とカント(の定言命法と根源悪<根本悪>)とハイデガー(の頽落)とは一直線で結び付く要素を秘めている。
 それは法とはその都度自ら最も正しいと考え得る処の信念を持って設定せよ、という事以外でない。
 しかしそれではイスラム国が真に正しいと思うなら、其処に参加せよ、してもそれは罪悪ではない、という解釈も成立させてしまうだろうか?実はそうである。そしてそう解釈させてしまえる剰余を残して書かれている処に宗教書も哲学書もある種の危険性がある。そして、それはしかしウィトゲンシュタインが<論理哲学論考>で述べている様に、この書の読者は此処迄読んできて、その際に使った梯子を上り切った後で捨てよ、と命じる、つまり哲学(彼の書いたテクストの事を指して)なんかに頼るな、と言い放っている事と同じなのであるが、その同じ事、やはり此処に書かれてある事を信じても、その都度イエスの言っている事、カント、ハイデガーの言っている事は、全てではないと思って読み切る事、或いは読み進む事こそ正論である、とイエスもカントもハイデガーも言っていると受け取る事も(つまりイスラム国へ参加する事さえ自由なのであるなら)全く可能な様にそれ等のテクストが我々に与えられている、とも言えるのだ。
 つまりキリスト教で言う処の得ようとだけ思うな、与えよとは、それ自体罪な事、悪への唆しさえも含有した与える者も与えられる者も命を賭けた行為に外ならない、という一つの(やはり物静かに語り過ぎないイエスの口調の様な)語り、或いは囁きなのである。(つづき)

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