Wednesday, October 15, 2014

シリーズ 愛と法 第十二章 宗教のアヘン性と聖書/科学の時代の逆行不可能性

重要な事は、愛が意外と制度、我々が誠実だと思ったり、正義だと思ったりといった外的強制と無縁には成立していない、何故なら我々が社会で生活しているからだと納得しても尚、それだけでないもっと絶対的純粋な信念はあり得るだろうかと問う誠実性が哲学者的立場の人達だけのものであり得るかと問えば、そうでないし、哲学者とは只単にそういうロールとして社会で(好かれているとかそうでないとかとは関わりなく)認定されているに過ぎず、哲学的思念、思索は誰しもが持てる筈だし、それを「哲学」としてでなく人生上での対自的訓戒として生きていく場合、愛が慣例的慣習的な儀礼性としてだけでなく、もっと自己信念とダイレクトに絆を持ち得るある種の信仰にもなり得るものと捉えれば、そう捉える仕方も決して特権的な思索ではないと分かる事である。
そもそもキリスト教の場合は愛の在り方そのものを社会儀礼性や慣例性、慣習性から切り離して、それ自体の価値を問う試みとしての宗教でもあった。キリスト教自体(イエスもヨハネも含めて)、従ってパリサイ人、律法学者達にとって危険思想そのものであった。イエスやヨハネの行っていた事は、パリサイ人や律法学者達が考えている様な職業とか社会、つまり閉じたコミュニティで承認されている地位としての行為ではない愛の在り方を説く、哲学者風に言えば誠実性の問いだったからである。
しかし実際実利的な方向に宗教文化とは裏腹に人類は歩んできた。社会機能維持インフラの全ては科学的知に支えられて進化してきたと言える。交通機関がそうであるし、貨幣経済の合理主義的経済秩序がそうであるし、教育をはじめとする全ての社会文化インフラがそうである。寧ろ愛の誠実性的在り方を説く宗教とは、そういったインフラ整備へと人類が邁進する事になる基盤としてはどの国家民族でも必要であったものの、それが確定的に文化様相として不動点、つまりふらふらとどっちつかずでいるより、何処かに定める(例えば此処は祈る神聖な場所であるとか、此処は糞尿を排泄する不浄の場所であるとかの)地点に到達すれば、既にそれは儀礼化されてしまい、後は具体的なインフラ整備へと人類の視点は移行していった。つまり科学がそういうインフラ整備の為の方便を得て具体的に始動してしまえば、既に儀礼的なああでもないこうでもないという試行錯誤は停止され、具体的行動へと意識のアスペクトが移行するのだ。
従ってそうなってしまった後に、否キリスト教の教えの誠実性は可笑しい、本当はこうであるべきだと言っても、それは全て危険思想と見做される。それは日本の様に仏教的思想文化の移植、儒教文化の移植を執り行って来た民族でも神道的な清めや不浄さへの忌避等の想念は変わらず規定し続けるのと同じだ。 現代社会で生活する我々は宗教が世界を引率するには、余りにも科学の恩恵を得過ぎた。科学への日常的な安穏な肯定こそが我々の宗教儀礼性さえ文化として認識する自然な信仰だと言ってさえいい。
科学への信仰の正当性への疑いなさこそが宗教戦争に明け暮れた中世以降は、試行錯誤の時代ではないと警鐘を鳴らす信仰であり続け、それが少なくとも世界大戦の時代以降は定番となってきている。宗教で人類史を打開させる事を少なくともキリスト教文化圏と日中韓、北・東南アジアでは(イスラム教文化圏以外では)忌避されている。其処では民主主義が一応体裁上では北朝鮮、中国を除き宗教で駆動させる国家機能、社会機能ではない(そう考える点では北も中国もそうである)事を証明する為の方便となっている。
キリスト教のユニヴァーサリティと我々が勝手に受け取っている事は、そういった国家社会集団の不文律的な慣例性慣習性から解放されて尚価値を容認されるものとして愛の在り方を個人の選択として受け取ろうという事が、勿論其処には民族伝統的思考回路もあるのだが、主題としては唱えられていたという認識なのだ。従ってマルクスが宗教とはアヘンであると言った時、それは暗にキリスト教さえ懐疑的俎板に載せてよいのだとしているが、それはそういう思考が発生し得る地点にやはりキリスト教の唱える個人の選択(儀礼的規約外的な個人主義宗教説諭)を前提していた、と言える。聖書は旧約の段階では通史観的ユダヤ民族選択物語であり、その歴史的事実の持つ人間実像への解釈が主題であるが、新約聖書ではそれを通した愛の在り方の理性論的規定、つまり定言命法示唆としての問答が中心なのだ。
その意味では今日我々が社会正義として受け取っている民主主義、自由平等友愛とは全てキリスト教新約聖書中心主義的、つまり聖書問答の弁証法を基本としたものである。其処に疑いを持つ事は基督教的には異教者という事となるのだ。従ってもしキリスト教さえも一つの選択肢でしかないと受け取ればゾロアスター教、マニ教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、道教、儒教、神道といった全ては対等となる。すると当然イスラム国の思想そのものも、イスラム教から派生した一つの思想ともなってしまい、それ自体完全存在否定は出来なくなる。それをも哲学的誠実性やキリスト教の個人選択、愛の在り方への問いは思考する自由は与える。
勿論イスラム国的仕方は決して正しいとは言えない。そう我々は直観する。だがそう言い切る為の根拠は自由でも愛でも、それ自体を誠実に個人に問えという形での問題提起に尽きる。自由や愛の在り方自体を問う事の自由迄我々は規定してしまっているのだ。問う事の自由をアナーキーに保証し得るとしたら、しかし何でも思想としては在りとなってしまう(哲学では何でも在りなのだが)。それは可笑しいとしか思えない。しかしそれが可笑しいと言い切る根拠を問わずして何になろう、と自由が規定(?)する自由に自由や愛をさえ考える事を保証する理性がそう囁く。しかし本当にそうなのだろうか?そういうある種の経済や国家に関して思想実践したマルクス主義的な思考実験の愛版、自由版が今も尚有効だろうか?それは当然科学こそ正義であるという観念に対してさえ差し向けられ得るだろう。
次回はその問いに対して、まずキリスト教以外の宗教の死生観から考えていってみよう。

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