Saturday, June 9, 2012

〔言語の進化と責任〕第七章 責任と真意

 人間は嘘をつくこともあるし、真意を隠蔽し、偽装もする。しかし少なくとも意思疎通するということそのものに対して同意することにおいては、そのような不遜な輩でさえ真意を隠蔽することは出来ない。「今ちょっと話したい気分じゃないんだ。」ときちんと明示することで意思疎通を避けることは出来る。そしてこれが重要であるのだが、言語行為上での意思疎通の進化とは、必ず真意を表出することで遂げられてきた、ということである。何故ならば真意を隠蔽したり、偽装したり、嘘をつくことはそういう言語行為全体の進化過程における利己的成員による特殊な例外であり、彼等ですら全成員による言語行為の進化過程に対して些細ながらも貢献しているからである。(注、最近私はとどのつまり、それも表情を伴い、言葉尻だけではないと考えている。)
 事実責任の消極的取り方として本論で取り沙汰されてきた「誓います。」型言辞が、メッセージとしては最も消極的であっても、そう誓うことで、他成員に対してある規約に於いてつき従う意志を表明することによって規約に則った生活レヴェルでのある共同体への同意が示されているからである。
 私は「責任論」においてある時には人間は責任を良心に随順させ、ある時には良心を責任に随順させ、つまり責任と良心をある時には協力させ、ある時には敵対させつつ言語行為を進化させ意思疎通と全行動をしてきたと考えた。その考えに今でも変わりはない。しかし少なくとも良心と責任が百パーセント合致し得る地点の人間の感情と立場があり、それが愛であろう。しかしその愛を定言命法とカントのように規定する必要は我々にはあるまい。つまり愛とは概念化作用として我々に到来するものではないのだ。
 本来意思疎通の進歩も進化も全成員の内発的要求によってなし得るのであり、仮に嘘つき成員がいたとしても尚、彼等のメリットは遠からず減少していっただろうということは、ウィリアム・ハミルトンからロバート・トリヴァースの血縁利己主義から、非血縁協力的利他主義(戦略的利他主義)へと移行していった論争を見れば明らかであろう。端的に進化とはサヴァイヴァル的な意図によるものであり、決してそこには偽装性は介在しない。だから言語行為を通した意思疎通の意識レヴェルの進化過程には必ず全成員の内発的要求をベースとした真意表出を前提とした言語行為の意識レヴェルの推移が見られる筈なのである。
 しかし問題となるのは真意を一体誰に対して採るのか、ということなのだ。責任を負うべき対象とは通常他者である。しかし責任は山奥に一人で生活する者にも付き纏う。彼にとって自己管理すべき生活全体の調和が責任を採るべき対象として浮上するだろう。しかしまた別の採るべき責任の対象がある。それが神である。少なくとも人類は西欧社会に限らず、神という霊力を備えた観念を保持してから後は、そういう観念のなかった時代での状況下の思念とは別個の心的状態を保持してきた、と言えよう。しかしよく考えてみると、神という観念は未来に対する希望とか願望、あるいは過去に対する後悔と反省によって完全という観念、完璧に遂行する能力に対する憧れが人類に思念的に出現した時以来備わったと考えてよい。しかし神の観念はある程度の永続的な生活上での秩序を追い求め、その過程での人類全体の願望を打ち砕くような自然災害や人的災害が発生して後に出現するという事態が最も思惟上自然に感じられるので、恐らくそれ以前的には他性認識によって自己認識を得るような原始自我論的な思念に支配されていた人類は、原初的な我と汝という観念をまず抱いたということは考えられる。
 そしてやがてミニマルな共同体的幻想を手中に収めた人類は、希望や願望を打ち砕く現実の過酷さの前で初めての実存認識を得ることとなる。その時神は必然的に思惟に浮上してきた筈だ。そこで責任を採るべき対象とは成員としての自己の帰属する当の共同体に対してと、我と汝の汝に対してと、我自身に対してと、そして最後に神に対してというこの四つのパターンが考えられる。そして共同体に対して持つ責任は、やがて社会一般という形で通常我々が保持する責任感、例えば社会的義務に直結してゆく。
 人間は責任の所在によって自我を形成するとも言える。そして自我とは積極的な自己信念にも繋がるが、同時に極めて脆弱な付和雷同にも繋がる。付和雷同という事態にまで至らなくても、社会一般に対する責任の遂行とは自己信念という確固たる心的作用と違って、概ね世間一般の常識に対する抵抗心は無頓着であり、文化コードに対する盲目の追随心や社会的コードから逸脱することを忌避したいと願う羞恥によって支えられている。
 この責任を社会的に遂行することの原初的形態としての他性認識を支えるものを原羞恥と呼ぼう。そしてその実践においてなされる各行動を支えるものを原音楽と呼ぼう。
 原音楽は過去において適切に「合わせられなかった」経験において学習させられ、ワーキングメモリー(遣り方記憶)としてその時々で常習化されている。
 信仰とは責任が生む。信仰は対社会的には職業行為となって顕現し、対自己的には金銭的利益のためだけではない、よい仕事(自分<自己信念>にとって納得出来る)をしようという意志(的決意)となる。それは対他的にも対自的にもより真意を真摯に表出させる。
 責任は言語活動を支える。責任は言語行為を社会行為に、言語ゲームを社会ゲームにする。しかし人間は社会全体に対してそう安易にノーを突付けるということをすることはない。よくよくのこと(自己信念を揺るがすような事態に遭遇するとかの)がない限りはノーの発言は差し控えようとする。人間の原羞恥と原音楽を結び付け、社会行動という原羞恥を原音楽に連繋プレーさせようとする、この二つのタイアップを実現させようとするものこそ責任である。
 責任は採るべき対象に対して真摯であることにおいては真意である。しかし汝に対してにせよ、社会に対してにせよ、ただ「合わせる」ことで他に自己に対して降り懸かる災厄を回避する意味でなされるのなら真意であるよりは妥協である。しかし妥協は永続的には続かないだろう。そして嘘つきが活躍したりするのは、あるいは妥協的責任の取り方が効力を持つのは、あくまで真意の責任において社会が安定した後のことであり、そういった責任の取り方が社会形成に寄与するということはない、と言ってよい。
 私はアンリの記述が同一の主張から、徐々に横滑りするような主張の反復を「書くことが信仰である」として、その信仰に従順な徒として現象学の徒を示した。しかし現象学は本質的には論理実証主義者(論理的経験主義者)たちと真っ向から対立するべき要素に満ちている。と言うのも彼等は基本的に知覚、感覚を大きく取り上げ、それを言語に先行するものとして捉えているからだ。例えばウィリアム・ジェームスは少なくとも信仰心というものを真摯に捉えたが、感覚ということに関しては醒めた目も持っていた。感覚そのものよりも感覚的生活を選択する意志決定と行為の意味を彼は捉えたのだ。しかしフッサールをはじめ、メルロ・ポンティーもそうだったし、ハイデッガーは存在の気遣いという形で意識の感覚的な授受という現象を言語以上に重要な指針として捉えていた。この点において例えばウィトゲンシュタインの言語論にはそういうスタンスに真っ向から対立する要素があるのは、次の飯田隆の言述においても顕著であろう。
「形而上学的主張に対する両者のあいだ<シュリックとウィトゲンシュタインのショーペンハウアーに対する態度の採り方を巡る解釈の相違のこと。ウィトゲンシュタインはショーペンハウアーを批判するシュリックに反対して彼を擁護する姿勢を示した。管理人注加入>の態度の相違は、そうした主張を「無意味」とする理由の違いと密接に結び付いている。実証主義者にとって、そうした主張が無意味であるのは、その正誤を感覚的経験によって判定するすべがないからである。それに対して、感覚的経験は『論考』において何ら重要な役割を果たさない。形而上学的主張が無意味であるのは、それが、「思考の限界」を画する「言語の論理」に反するからである。」(「ウィトゲンシュタイン言語の限界」飯田隆著、44ページより、講談社刊)
 ウィトゲンシュタインは言語を知識、認識、理解の限界として考えていた。それは言語という理解するための手段を内側から捉えた考え方である。しかし現象学では言語行為それ自体を取り巻く生、そして生活世界の現実に中で言語を支える現象に主眼を置いた哲学的態度であったのだ。つまりウィトゲンシュタインは言語を語られた事実として意味内容的世界の現実を意味を形成する収束的な決定に重きを置き、フッサールと彼の後継者たちは特に収束する以前の前言語状態に重きを置いたと言える。この点である認識、ある理解ということに関してウィトゲンシュタインは主観主義的あるいは内在主義的であり、フッサール等は客観主義的、あるいは外在主義的であると言えよう。
 アンリの言う情感性という観念に対して私は情動と等価あるいは非常に近い認識だと言ったが、彼は情動という語彙も僅かながら使用していた。その意味では情感とは情動を感知する感覚主体の受動的な意識化作用のことを言っているのだ、と私は解釈しているが、このような論説を微塵も持たない論理実証主義者、あるいはその一派に信奉厚いウィトゲンシュタインの哲学には意味という概念の現象学の取り残した徹底追求のスタンスが伺える。現象学では意味は感情とア・プリオリに一体化されているからだ。
 そこでここでは感覚と責任、そして意味と責任という形での検討において言語行為とそれを取り巻く現実(実存と言ってもよい)から責任と言語の進化過程について考えていってみようと思う。
 有史以来哲学者たちは理性をア・プリオリなものとして論じてきた。しかし当初人類の祖先たちにとって理性とはほんの偶然的な日常的発見であったろう。その偶然を必然化する作業が言語の進化であり、思想の確立であり、哲学の歴史であった筈だ。人間には言語化され得ない感覚がある。しかしその言語化され得ないという事実認識には、言語を必要とするのだ。それがまずあるからこそ、それでは言い表せないという感覚が生じる。しかし責任にもまた言語化され得る責任と、そうではないもっと人間の生の原初的な責任というものもあると思う。例えば欲求に対する真意というものは、意味化された真意にはない生の基本的衝動がある。しかし我々はそれを他者に説明する時、非言語的欲求を、言語的に説明することで、その欲求を正当化しようとする。正当化されたものには意味が付帯する。意味は欲求の正当化と言ってもよい。意味が言語の存在理由を開示するのだ。
 だが我々は価値という観念も持っている。この価値というものと意味とはどのような関係にあるのだろうか?
 例えば感覚に対して欲求が「これこそがその感覚だ」と例えば職人とか芸術家とかがある作品を完成する瞬間を査定する時、「これでいいだろう。これで行こう。」と判断する時感覚に対する責任が持たれる。しかし意味はその感覚を他の感覚との相関の中で、正当な位置付け作用を施す。そのように峻別化作用をした時、感覚には意味が生じる。それはある得体の知れぬ感覚が必然化された瞬間である。そして言語それ自体にも言語そのものの感覚があり、その事実が言語行為と名の付く全て、言語活動として捉えられる全てが、実は言語外のものに取り囲まれているという事実が意味によって初めて明らかになるのだ。つまり意味とは非言語的な無意味に対する覚醒剤の役割はあるのである。
 意味が言語を言語から解放する。しかし価値は言語を再び意味に結び付けようとする。価値は意味、感覚それら全ての観念を総合化しようとするのだ。
 価値は相関性の中に全てを位置付ける。だからこそ価値は制度を生み出すのである。意味と言語の関係は言語と非言語の結び付きを見出し、価値と言語の関係は言語と非言語を峻別しようとする。境界を設けようとする。価値は意味を主張しようとするのだ。そしてそれは予め備わっていた真理であると意味に宣言するのだ(それは意味に対して存在の優位を宣言することである)。意味は価値によって正当化されるが、正当化された瞬間に再び感覚にその存在理由を委ねる。それは感覚が存在の証人だからである。意味は存在者の主体にとって対象化されたものへの感情に他ならない。故に意味の責任は欲求に対する真意であり、価値の責任は欲求に対する真理の優位を欲求に言い聞かせる。
 だから哲学者ウィトゲンシュタインは意味を呼びつつ、価値による意味の主張を必然化させながら、真理とは無意味であることを主張するのだ。つまり見出された瞬間意味は無意味化するという現実を見据えたのが彼だったのだ。だから理解や解釈、あるいは使用、慣用といった日常的現実をウィトゲンシュタインは言語の限界から考えたのだが、それは言語が非言語領域に取り囲まれて存在理由を持っているという事実に対して、だから感覚それ自体を問うことは無意味なのだ、と言語の側の意味的位置付け作用、つまり言語の正当化の立場から「問い得ることには限界があるのだ。それは生きること、つまり感じることの前では無力である。」という主張を感覚を論じることの無力さを感じつつ、感覚を論じることを回避することによって、つまり言語的に理解し得ることのみに着目することによって行った、と捉えることが出来る。
 欲求の一人歩きを鎮めるものとは責任以外にはない。責任は全生命体の生きる意志を司っている。生命を全うすることそれ自体が責任の遂行なのだ。そして人間は責任をある時以来(恐らく言語行為を定着させた瞬間から)責任に対して意味化と価値化の両方を施し、倫理という考えを生じさせた。その日(瞬間)から人類は生命の意味と価値を、そして生きる責任を意味化し、価値化することで「感覚と意味」の一体化を図ったのだ。「感覚と意味」の一体化こそが言語を責任という柱で進化させてきたものに他ならない。
 通常我々は感覚というものを意味とは対極のものと理解しがちである。しかし意味に感覚は不可避であるし、感覚は必ず経験化されることで意味化される。つまり意味における感覚の付帯という現実と、感覚の意味付けという現実が、言語活動を、言語行為を進化させながら、言語と非言語の二つの領域を密接な共存価値として見出してきたのだ。
 しかし意味と価値の双方を、つまり対象に対する感情(意味)と、そのように感情を抱くこと自体を対象化すること(価値認識)を統一させるものは人間の行為に他ならない。そしてその人間の行為を人間が人間に対して宣言するものこそ信仰に他ならず、これは恐らく他のどの動物にも不可能な認識であると私は考えている。次章では私はいよいよテクストに示された事例と私が再び考える対話事例に基づいて信仰と言語について取り掛かろうと思う。

No comments:

Post a Comment