Thursday, June 21, 2012

〔言語の進化と責任〕第八章 信仰と言語

 理性は責任を勇気付けるが、理性があるからこそ我々は信仰を持つことが出来るのだ。それは有神論者も無神論者も、合理的実利主義者も観念論者も唯物論者も等しく作用させている現実ではないだろうか?恐らくその事実を自ら納得するために我々は言語を利用してきたのだ。だから信仰と言語の関係を論じる時、我々は責任と理性の連携プレーに注目する必要がある。
 キルケゴールは「不安の概念」において原罪、罪といった事実に対して真摯に向き合っているが、その際にヘーゲル流の弁証法では推し量れないと考えていた。しかし何故彼はヘーゲルを批判する必要があったのだろうか?
 ヘーゲルにとって理性は問うべきものではなく、既に前提されていた。しかしそれは彼の主張する他性と承認を限定付ける必要性のための方便だった。しかし理性はカントが問うよりも遥か以前から問うより先に認めるべき対象だった。そして二十世紀においてある時期積極的に理性は問うことから遠ざけられた。しかし今再び我々は理性に向き合う時期に来ていると私は考えている。そしてその際に責任が行動を理性の俎板で料理することを招聘しているのだ、と考えているのだ。行動のない現実においては理性はその存在理由を失うからだ。ヘーゲルは敢えて社会哲学的視野に徹底することによってあるいは彼の後の時代のキルケゴールを待ち望んでいたという風にも捉えられる。それは恐らくカントがヘーゲルのような存在を待ち望んでいたようにである。
 哲学の場合宗教的信仰と異なり、同一の心的志向性に対して結束することを潔しとしない。寧ろ共鳴することが批判することによって初めて意味を生じるような出会いを彼等はモットーとしている。この点では哲学は科学と相同のメカニズムを持つ。勿論宗教においても恐らく宗派毎の思想の差異主張が、それ自体他の宗派に対する批判として作用しているという現実は極めて大きいと言えるだろう。しかし宗教は信仰心の多大なエネルギーの解放が、ややもすると統一を宗派間の相違にもかかわらず求めるということを潔しとしてこなかった。もしそのような作用がなされたとすればそれは寧ろ政治レヴェルでの解決だったに過ぎない。(例えばカルケゴン公会議)
 政治は確かに哲学においても科学においても大きな作用を思想全体に波及させてきた。しかし政治自体が哲学や科学に対しディタッチメント的な存在理由を与えてきたとも言える。私が言っている政治とはただ職業政治家による政治のことを指すのではない。それをも含み、哲学者たち自身、科学者自身の立場の主張といった事実を寧ろ主体としたものである。
 キルケゴールがヘーゲルを批判したのは、統一することが可能であるような理想郷を彼がどこかで想念していたのではないか、ということに対する懐疑に他ならない。懐疑的主張もまたある意味では政治的発言である。
 ところで私は最近歯科医にかかり治療して貰っているのだが、治療のために麻酔を効かせることを私のかかりつけの歯科医が試みるのだが、私は他の人よりも麻酔にかかり難いタイプだと歯科医は私に告げた。私のような思索家はある意味で懐疑主義者である。そういうタイプの性格では麻酔に対して従順に対応するということが神経レヴェルでも困難なのかも知れない。それはそうだろうと私は思った。神経と精神は密接な関係にあるからである。
 さて生とは何かという問いをいざ提出されると誰しも「無意味ではないのか。」とそう容易には返答出来ない。しかしサルトル的に「人生とは無益な受難である。」と言う風に押し切れば、意外と後はすっきりする。つまり生そのものに意味を見出さずには生きられない動物として我々は人間を規定することが出来る。生とは意味的世界の拡充を目的とすることで無意味を克服しているのだ、と捉えた方がずっとよい。そして哲学はそこに付け入って存在してきたのだ。だから私が言う信仰とはある意味では哲学に対する恩返しという側面もあることは否めない。しかし信仰と位置付けることが宗教的信仰心と乖離した地点でなされ得るというところに意味があるのだ。何故ならウィリアム・ジェームスの説話している禁欲という心的様相は、実は無宗教者にも全く当て嵌まる経験だからだ。いや寧ろ無宗教、無神論であるが故に禁欲的な道徳律が必要になる、という事態も稀ではないだろう。
 それは心の平衡を保つためにある意味では無謀な心理に陥らないようにするには、自己内の欲求を必要以上に発動させないように心掛けるしか手がないからだ。そしてそうするためには自己内の欲望を禁止することが最も手っ取り早いというわけである。そのように心掛けることはキリスト教徒的な道徳律で原罪を理解するということではなくても、例えば身体論的に欲望を控えめに、という心得であっても同じことである。この姿を見てキリスト者たちは「それ見たことか。彼もまた原罪を認めたのだ。」とそう言うかも知れない。しかしアンチ・キリスト者はこう言うだろう。「そもそもキリスト教が原罪なる観念を提出したのは、身体論的なメカニズムに端を発しているのだ。」と。
 それは発言における責任の在り方にまで関係してくる。例えばある法案に賛成の者が殆どであと残り一人になったあなたが
「賛成します。」
と言うのが最も他の成員全員にとっては好都合である筈だ。しかしあなたはそうすることが内心では出来ない。だから「反対です。」と真っ向から言えないような状況下でも尚、無意識にプロテスト精神が浮上し、
「賛成したいのですが。」
と発語の方が勝手にあなたの優柔不断を払拭しようと試みる。しかしその次の句が問題だ。
「賛成することは出来ません。」か「賛成しかねます。」
と言うという選択もある。しかし他方
「もっと最適な法案には出来ないものでしょうか?」
と言う選択肢もあるのだ。あるいは
「もっと何とかならないものでしょうか?」
と言うことも出来る。これはある意味では否定するだけではなく建設的であり、改善意欲を促進する言い方である。
 人間は誤りを犯す動物である。それを認めることをしながら、それでも改良することでその傾向性を克服することが可能だという希望の光が後者の発言には感じられはしないだろうか?そして付和雷同しようとしていた心的逡巡を吹っ切るような一言を発するという事態は、身体論的なメカニズムであり、ストレスを溜め込んで精神的に落ち込むことを未然に防止しつつ発散するように側頭葉のブローカ野が発動したのかも知れない。  ウィトゲンシュタインの哲学を通して理解出来ることとは、言語使用とは言語表現領域に自ずと限界を設ける行為であるということである。しかしそのように限界を設けるまでは私たちの存在はテレンス・W・ディーコンの言う設定された閉鎖系ではなく、開放系である、ということである。開かれつつ閉ざしていくことで言語を通してコミュニケーションしているわけである。そういう意味では言語行為とは一面では他者に対して開かれていて、共鳴することだが、一面では他者に対して決然とした態度を採ることでもある。その二面性が言語行為の本質であり、そこに責任が関わってくる。
 例えば言語学では内部否定と外部否定というのがある。前者は
You must not do it.
であり、後者は You may not do it.
である。この二つの場合最初のものは
「あなたはそれをしてはいけない<ということを肝に銘じておかなくてはなりません>。」
というニュアンスの意味で、後者は
「あなたがそれをすることは許されません。」
というニュアンスの意味である。
 前者は明らかに説得型に近い説諭型である。それは対話手としての他者の自発性を尊重している発言である。それは自発的禁止の勧告である。要するに~をしないように心掛けなくてはならないということである。しかし後者は自発的であれ、外部強制的であれ、それをしたら駄目だということは有無を言わさぬということであり、禁止条例的、禁止事項無条件的である。前者にはそうしないと重大な結果を招くという警告のニュアンスがあるのに対して、後者は明らかに命令である。そこには他者に対する責任を見守るという尊重性は皆無なのだ。
 私たちの日常では「賛成したいのですが。」型の発言を言い残し立ち去るということもある。それは議会のような場所では特殊なケースであるが、日常では頻繁に起り得ることである。しかしこれは責任というレヴェルから考えると責任放棄であり、無責任である。説明能力があってそうするのなら良心はない。しかし説明能力がなくてそうするのなら、それは大勢に対するささやかな抵抗ということになる。
 ここで責任とはある意味で自己能力に対する自己査定と無縁ではないということにもなる。つまり責任放棄は一番手っ取り早い大勢に対する抵抗であり、責任を負うということは自己能力を他者から求められていることに対する自覚であると同時に、それを請け負うという意識の発動だ、ということになる。そしてここでもう一つ重要なこととは、他者に対して責任を負わせることに内在する信頼性を他者に託するか託さないかということ(そのどちらが良心的であり、思い遣りがあるかどうかは難しい問題であるが)がある発言に対してどのようなスタイルを選択することに直結するかということである。この問題は例えば経済社会でM&Aを徹底的に防御するか、ある程度自由にさせるかという選択、あるいは政治家はどこまで国民や市民に対する責任を負うべきかある一定以上は負うべきではないかという選択をも、決することとなる重要な問題である。
 つまり他者に対して信頼することに主眼を置くか、それとも他者とはすべからく信頼すべきものではなく懐疑的対象なのだから、それを念頭に入れて他者に接するということを選ぶことの自由も含めた選択肢の問題へと繋がってゆく。もっと簡単に言えばあまりに他者に対して自主性に任せるということは放任という事態にもなるし、そうかと言ってあまりにも他者に対して規制をかけるということは自由の原則にも反することになるが、ある一定の力量や能力のある者に対して他者の能力とその責任に対して委ねるという行為は、そこまでの実力のない者には負担となるということは社会ではよくあることだからである。
 つまり我々は常に自己の能力に対する自信の度合いで他者に対してどのように接するべきかという行為の際における判断をしているのだ。実はこの問題は人類は延々と繰り返してきたのだが、未だに決着はついていないのだ。そして恐らくこれからも決して解決するということはないだろう。しかしこれだけは言える。アンリのような哲学者たちが書く行為自体が信仰であったように、これからも問うこと自体が信仰であるような思念を私たち人類は捨て去ることは出来ないだろう、ということである。

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